珍右翼・三浦小太郎に突っ込む(2025年11月3日分)

葦津珍彦「永遠の維新者」における西郷隆盛|三浦小太郎

 戦後日本最大の神道思想家*1、葦津珍彦は、彼の西郷論「永遠の維新者」(葦津事務所発行)にて、西郷*2の本質を、明治国家の建設者ではなく、「裏切られた維新」のやり直しを目指した人物として評価した。

 そのような認識が適切かどうかは極めて疑問でしょう。
 というのは「1873年明治6年)10月24日の征韓論政変(対韓国外交を巡る対立)」で西郷隆盛ら征韓派参議が、三条実美太政大臣岩倉具視右大臣、大久保利通内務卿ら「征韓反対派」に敗れ、政府を去るまでは、明治新政府において目立った政治対立はなく、その間に

【1869年(明治2年)】
・7月25日:版籍奉還
1871年明治4年)】
・8月29日:廃藩置県
【1872年(明治5年)】
・9月4日:学制発布
・12月15日:国立銀行条例制定。この条例に基づき第一国立銀行*3等が設立される。
1873年明治6年)】
・1月22日:徴兵令公布
・7月28日:地租改正条例制定

などの近代化政策がされている(そして西郷もそれに対して目立った反対などしていない)からです。
 また、死去後しばらくは、西郷が賊軍扱いされ、また、今に至るも靖国には西郷が合祀されてないものの

西郷隆盛 - Wikipedia
 1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦され、正三位を追贈された

と言う事実(この追贈を契機に建てられたのが上野の西郷銅像)も三浦らの主張に対する反論となるでしょう。西郷が「裏切られた維新」のやり直しを目指した人物であるならば、
1)明治憲法発布当時(1889年)は西南戦争(1877年)から時間がかなり経っており、存命者も勿論いるが、「大久保利通1878年、暗殺)」「岩倉具視(1883年、病死)」など、征韓論政変の当事者もかなり死去している
2)西南戦争を割り引いても、西郷は「倒幕の功労者」
3)1889年時点の明治新政府は「韓国植民地化」の方向に動き出しており「征韓論当時」とは政治事情が違うとは言え、西郷の主張した路線(征韓)に突入していた
4)

西郷隆盛 - Wikipedia参照
 明治天皇は西郷の死を聞いた際に「西郷を殺せとは言わなかった」と洩らしたとされるほど西郷のことを気に入っていた

ということで明治天皇が西郷に対して親近感を持っていた
5)憲法発布という慶事は恩赦の口実にしやすい
という「西郷にとって有利な点」があっても明治新政府側が西郷に正三位を追贈するとは思えません。
 こうした三浦らの西郷(征韓論政変に敗れ下野し、その後、西南戦争に敗れ自決した、明治新政府に対する敗者)美化は

藤原氏の策略によって、太宰府に左遷された菅原道真
 太宰府天満宮に祀られ、「学問の神様」として親しまれている。
関ヶ原合戦徳川家康に敗れ、死罪となった石田三成
 史実がどうかはともかく、歴史小説では三成は、家康の政権簒奪から豊臣家を護ろうとした「豊臣家の忠臣」「悲運の武将」として描かれることが多い。
スターリンに敗れたトロツキー(メキシコに亡命したあげく、メキシコでスターリンの放った刺客により暗殺)
 「スターリンに批判的な左派」の一部ではトロツキーが高評価される

など歴史上、いくつもある「歴史上の政治的敗者の美化(歴史的事実に反することが少なくない)」の一例でしかないでしょう。
 なお、西郷を美化する三浦らは「西郷同様に征韓論政変(1873年明治6年))で下野し、佐賀の乱(1874年(明治7年))を起こした江藤新平(下野当時、参議兼司法卿。江藤の下野により、後任司法卿には大木喬任*4が就任。江藤は乱を起こしたが敗れ、捕縛され死刑)」「徴兵令(国民皆兵)に対し、反対を主張し、政権論政変とは別に下野し、萩の乱(1876年(明治9年))を起こした前原一誠(元参議。捕縛され死刑)」をどう評価するのか聞きたいもんです。西郷のように高評価するのか、しないのか、高評価しないならばその理由は何か?
 まあ、少なくとも江藤や前原を「西郷ほどには高評価してない」のでしょうが。そしてその理由として大きいのは
【1】西郷は新政府内では「最大の大物・大久保内務卿のライバル」で、下野した征韓派参議(西郷の他は、土佐の板垣退助後藤象二郎肥前江藤新平副島種臣)の中では最も大物であり、西郷が江藤や前原より明治新政府内に置いて大物だったこと
【2】西郷の起こした西南戦争佐賀の乱萩の乱に比べ規模が大きかったこと
【3】長州出身者としては前原よりも大物として木戸孝允がいたこと
でしょう。
 また、松本清張が小説「西郷札」に描いた「旧日本軍の軍票」同様に「結局、紙切れ同然となった西郷札」をどう三浦らが評価するかを聞きたいもんです。
 なお、「西郷札」という「西郷にとっての汚点」を描いた清張は「右翼の西郷美化」に恐らく嫌悪感や違和感があったのでしょう。

 多くの自由民権主義者が西南の役に参加した

 それが事実ならば「初期の自由民権活動家」の多くは「自由民権(議会開設要求)」を理念ではなく「政府打倒のための道具」として理解していたと言うことでしょう。
 但し、西郷同様に征韓論政変で下野し、自由民権活動を行った土佐の板垣、後藤(板垣の盟友)は士族反乱を起こしてはいませんが。
 従って「士族反乱(西郷の西南戦争)」の方が「自由民権よりも簡単に政府(当時の三条太政大臣、岩倉右大臣、大久保内務卿など明治新政府中枢)打倒ができる。そして自分たちの理想の政府を構築できる」と思えば躊躇なく武力叛乱に参加したわけです。
 勿論、当初の自由民権派の多くが「商工業者や豪農」ではなく「叛乱参加に躊躇が少なかった士族(元武士)」だったことも大きいでしょう。
 そういう意味では「士族反乱に参加した自由民権派」と「島田一郎(大久保内務卿を暗殺した「紀尾井坂の変」の中心人物で、捕縛され死刑)」などの間にはそれほど大きな違いは無かったのでは無いか。
 いずれにせよ、自由民権派には「薩長土肥」それも「大久保内務卿(当時の明治新政府の中心人物)」など一部の人間が「独裁的政治」を行っているとの怒りがあったでしょう。
 それは征韓論政変(1873年明治6年))で、大久保が「他藩(長州、土佐、肥前など)の人間や旧幕臣」どころか、同じ薩摩藩士で仲間だったはずの「西郷」までも「反対派」として政府から追放したことで一層燃え上がります。
 その後も「廃刀令(1876年(明治9年)3月:軍人、警官以外の帯刀を禁止)、秩禄処分(1876年(明治9年)8月)」など「士族の反発を高める施策」がされ、ついには「西南戦争(1877年(明治10年))」を起こすわけです。
 しかし「明治最後(そして明治最大)の士族反乱西南戦争(1877年(明治10年))が鎮圧されると「武力叛乱による政府転覆」は明らかに非現実的であり、政府批判派は、その後、秩父事件1884年明治17年))等の民権派の蜂起事件も一部ありますが、「平和路線(議会路線)による政府批判」をせざるを得なくなります。
 そうした中、政府批判派だったはずの民権派

【1】征韓論政変で下野し、自由民権運動のリーダーとなった「板垣や後藤(板垣の盟友)」(土佐)が後に「第二次伊藤、松方*5内閣内務相(板垣)」「黒田*6、第一次山県*7、第一次松方内閣逓信相、第二次山県内閣農商務相(後藤)」として入閣
→また自由民権派ではないが征韓論で下野した副島(肥前:下野当時、参議兼外務卿。副島の下野により後任外務卿には寺島宗則*8が就任)も下野後、第一次松方内閣内務相として入閣。
 なお、板垣の入閣は「板垣死すとも自由党は死せず」をもじって板垣の入閣を「変節」として批判する板垣批判派から「自由は死すとも板垣死せず」と悪口された。
 いずれにせよ「下野後の板垣、後藤、副島の入閣」からは「征韓派」と「非征韓派(板垣や後藤の入閣当時存命なのは伊藤、山県など:三条、岩倉、大久保は既に死去)」に政治的に大きな違いがないことが窺えます。江藤や西郷のように士族反乱を起こした「征韓論で下野した政治家」は実は少数派です。
【2】対立する立場だったはずの伊藤博文*9を党首(総裁)に担いで1900年に立憲政友会を結党

など、次第に「よく言えば現実化」「悪く言えば変節(変質)」していきます。
 この点「民権派」は「独裁的に勝手に政治を進めるな」という「政治手法」は問題にしていても「富国強兵」という「明治新政府の基本路線」については「それほど批判的ではなかった(従って、民権派の意見を聞いてくれるのなら、細部はともかく、大きな方向性についてそれ程反対しない)」と言えるのではないか。
 なお、「暴力路線の廃棄」という点は「単なる偶然」にすぎませんが「叛乱路線を捨てて自由民権運動に参加した不平士族達」は「ソ連の命令による武力闘争路線」が挫折して、「平和路線(議会路線)による政府批判」をせざるを得なくなった「戦後の日本共産党」に似てはいるでしょう。日本共産党はこの挫折を契機に次第に「チェコ侵攻批判(1968年)」「アフガン侵攻批判(1979年)」など「ソ連離れ(ソ連批判)」を進めていきます。

*1:葦津の主張内容が評価できるかどうかはともかく、神社本庁(日本最大の神社勢力)が発行する機関誌『神社新報』(週刊)の主筆を長く務め、戦後の神社業界の方向性に大きな影響を与えたという意味では確かに葦津は「戦後日本最大の神道思想家」でしょう。神社本庁の「侵略や植民地支配に対する無反省ぶり」を考えれば葦津の主張が評価できるとはとても思えませんが。

*2:参議、近衛都督、陸軍大将

*3:第一銀行、第一勧業銀行を経て、現在のみずほ銀行

*4:江藤と同じ肥前藩佐賀藩)出身。司法卿、文部卿、第一次松方内閣文相、枢密院議長等を歴任

*5:大蔵卿、第一次伊藤、黒田、第一次山県内閣蔵相、首相、第二次伊藤、第二次山県内閣蔵相、内大臣等を歴任。元老の一人

*6:第一次伊藤内閣農商務相、首相、第二次伊藤内閣逓信相、枢密院議長等を歴任。元老の一人

*7:陸軍卿、内務卿、第一次伊藤、黒田内閣内務相、首相、第二次伊藤内閣司法相、参謀総長、枢密院議長等を歴任。元老の一人

*8:幕臣。文部卿、外務卿、枢密院副議長等を歴任

*9:工部卿、内務卿、宮内大臣、首相、貴族院議長、枢密院議長、韓国統監等を歴任。元老の一人。