特集「平泉澄*1と「国史学」」
無能な小生でも説明できる範囲で紹介しておきます。ウィキペディアを使いまくっていますが「時々、怪しい記述もある」ものの、便利なんですよね。
なお、平泉については以前拙記事三浦小太郎に突っ込む(2019年8月2日分)(追記あり) - bogus-simotukareのブログ(2019.8.2)で触れ
Bill_McCrearyさん
旅先でこちらの記事読ませていただいて爆笑しました。いやー、平泉ってこんなトンデモだったんですね。彼について無知だったもので、イデオロギー的にはともかくもう少しまともな人間だと思っていましたが、とんでもない話ですね。それにしてもこのような人物から強い影響を受けた連中が、戦後の文部行政のなかで教科書検定に強くかかわり続けたというのもかなりすさまじいですね。
というコメントを頂きました。
◆今、なぜ平泉澄なのか(森田喜久男*2)
(内容紹介)
「今、なぜ」でググると
【著者名順(著者の経歴はウィキペディアの記述を参照)】
・川村二郎*3『いまなぜ白洲正子なのか』(2011年、新潮文庫)
・佐高信*4『いま、なぜ魯迅か』(2019年、集英社新書)
・白洲正子 *5『いまなぜ青山二郎*6なのか』(1999年、新潮文庫)
・田村三郎*7『今、なぜ和算なのか』(2015年、現代数学社)
・樋口陽一*8『個人と国家:今なぜ立憲主義か』(2000年、集英社新書)
・藤崎麻里*9『なぜ今、労働組合なのか:働く場所を整えるために必要なこと』(2025年、朝日新書)
がヒットし「ある種の決まり文句なのか?」と「苦笑しました」がそれはさておき。
「狂信的な右翼」「戦前の日本史研究者としては異端の存在」と評価されがちな「皇国史観」平泉について「一面の真理ではあるが、一面的すぎる」との評価がされます。
平泉の恩師にあたり、
黒板勝美 - Wikipedia
1906年に日本エスペラント協会を設立し、欧米留学中の1908年には、ドレスデンで開催された第4回世界エスペラント大会に初めての日本代表として新村出*10とともに参加するなど、エスペラント*11の普及に力を注いだ。
ことから「国際主義者」と評価され、実証的な歴史学者としても評価される黒板勝美(東京帝国大学名誉教授)ですら、「本心か建前か(平泉の場合は明らかに本心でしょうが)」はともかく自著に「日本の歴史は皇室の歴史」と書いていることを指摘。
また、
辻善之助 - Wikipedia参照
・辻はひたすら学問・研究に打ち込み、アカデミズムの枠を出ることはなかった。平泉澄を中心とする皇国史観が、戦時中の東大国史学科を支配していたときも、辻はこれを直接的に批判することをせず、ただひたすら学生の指導や研究に専念していた。但し、辻の周りには平泉の学説に批判的な学生達が集まり、辻は彼らを指導し、就職などの斡旋をしていた。
・1934年、斎藤内閣の中島*12商工大臣が辻の論文「足利尊氏の信仰」(『日本仏教史之研究』所収)に依拠して足利尊氏擁護(?)を行うと、右翼の批判を浴びて大臣を辞任、矛先は辻にも向けられ、『日本仏教史之研究』は文部省教学局の要請により絶版に追い込まれた。
・武家政権出現の必然性を説くため平清盛を論じ、後白河法皇を批判した論文を収録した『人物論叢』もやはり、文部省教学局に自発的絶版を求められている。
という辻善之助(東京帝国大学名誉教授)ですら、『国体の本義』の解説書『御歴代の聖徳について』(1940年)を執筆したこと、
中村孝也 - Wikipedia
中村が教授に昇任したとき、東大の国史学科は平泉澄が主任教授であった。平泉が東京帝大の右翼学生団体「朱光会」や私塾「青々塾」で、いわゆる皇国史観を説いていたが、中村はこうした平泉の行動に一線を画し、「朱光会」や「青々塾」どころか、東大の国史学研究室にも足を向けない程であった。平泉に反発する学生が中村のもとに集まり、1940年(昭和15年)には中村を代表とする「国民生活研究会」という研究会が結成された。
という中村孝也(東京帝国大学名誉教授)ですら1943年に刊行された『楠公伝』において「日本が遂行している戦争」について、国民には「楠公精神(忠孝義烈の精神)」が求められると記載していることを指摘。
平泉ほど「極端な右翼」は珍しいとは言え、戦前日本において、「日本の歴史は皇室の歴史」が建前(公式見解)であり、平泉のように「積極的であれ」、彼とは違い「渋々であれ」多くの歴史学者(辻や中村)が「政府批判することなく、時に政府に協力したこと」を考えれば「平泉ばかりを批判すること」は一面的ではないかと批判している。
とはいえ「ガチの右翼である平泉の積極的な協力」と「恐らくそうではない黒板、辻、中村の渋々の協力」を同一視することも一方では不適切でしょうが。
「批判派の立場から見れば、傍観者も同罪」というのは一理あるとは言え、それでも「積極的に犯罪や不正に加担する」のと「脅迫等で渋々従う」のでは話が違うでしょう。
と同時にこうした事実(恐らく渋々ではあろうが辻や中村が政府に協力したこと)は「社会が一定の方向に動いたとき」に「個人が抵抗することが難しい」ことを示してるとも言えるでしょう。
「社会の風潮が右傾化すれば、皇国史観とは別の新たな右翼史観が誕生しないとは限らない」という森田氏の指摘には全く同感です。
俺としては「今なぜ平泉か」とはそういう意味と理解しました。
憂鬱になりますが、ムスカ風に言えば「ラピュタは滅びぬ。何度でも蘇る。ラピュタの力こそ人類の夢だからだ」ならぬ「右翼史観は滅びぬ。何度でも蘇る。(例え、歴史捏造による虚偽でも)光り輝く日本こそ、日本ウヨの夢だからだ」といったところでしょうか?
というかウヨ連中が「現在進行形」で「南京事件否定論」「関東大震災での朝鮮人虐殺否定論」などの「戦前日本の植民地支配や侵略を正当化しようとする、新たな(?)右翼史観(終戦直後からあるので新たと言えるかは疑問ですが)」の普及にいそしんでるわけですが。
◆足利時代と室町時代*13:時代区分と平泉澄(谷口雄太*14)
(内容紹介)
明治、大正期までは、
田中義成 - Wikipedia
・『足利時代史』(1923年、明治書院→1979年、講談社学術文庫)
・『織田時代史』(1924年、明治書院→1980年、講談社学術文庫)
・『豊臣時代史』(1925年、明治書院→1980年、講談社学術文庫)
原勝郎 (歴史家) - Wikipedia
・『足利時代を論ず』(原『日本中世史の研究』(1929年、同文館→後に『日本中世史』と改題し1969年、平凡社東洋文庫、1978年、講談社学術文庫)に収録)
→原勝郎 足利時代を論ず(青空文庫)で読むことが可能
渡辺世祐 - Wikipedia
・『関東中心・足利時代之研究』(1926年、雄山閣→1971年、新人物往来社(復刻版))。
ただし渡辺は一方で『室町時代史』(1926年、早稲田大学出版部)も刊行している
のように「織田・豊臣時代(織田、豊臣政権の時代の意味。織豊時代とも言う。安土桃山時代の別称)」「徳川時代(徳川政権の時代の意味。江戸時代の別称)」のような「足利時代(足利政権の時代)」と言う時代区分がむしろ一般的であったが、昭和以降、「室町時代」の名称が一般化し、それは
中島久万吉 - Wikipedia参照
1921年(大正10年)、中島は、清見寺(静岡県静岡市清水区)にある足利尊氏自作の尊氏木造を拝観し、その感想文を俳句同人雑誌『倦鳥』に投稿した。当時、皇国史観に基づき、後醍醐天皇に背いた足利尊氏は謀反人と批判されていたが、中島は尊氏と足利時代(室町時代)を再評価すべき旨、その感想文に記していた。
その記事が掲載されてから13年後の1934年(昭和9年)、中島の感想文が雑誌『現代』2月号に転載される。
菊池武夫・貴族院議員(予備役陸軍中将、男爵、南朝の功臣・菊池氏の子孫)は、逆賊尊氏を礼賛することは大臣にふさわしくないとして、斎藤首相に「しかるべき措置」を取るべきと、中島の商工大臣罷免を迫り、中島は商工大臣を辞任せざるを得なくなった。この事件の顛末は、政治に対する軍部の介入と右翼の台頭に勢いを与え、翌1935年の天皇機関説事件の要因となったとされる。
という「足利尊氏を逆賊として否定的に評価する皇国史観(平泉)の影響があった」のではないか、そして戦後も「室町時代」が踏襲されたのは「政治、社会は足利氏等の一個人が動かすのではなく、武士集団など社会構造によって決まる」と評価する「唯物史観」の影響があったのではないか(あくまでも筆者の仮説に過ぎず、断定はしていませんが)と指摘している。
但し、筆者は「そうした事実を認識する必要がある」とはするものの、時代区分としての「足利時代」の復活(?)を主張しているわけではない。
時代区分を
【1】「鎌倉時代」「室町時代」「安土桃山時代」「江戸時代」など「政治の中枢(幕府等)があった場所」で呼ぶか
【2】「足利時代」「織田・豊臣時代(織豊時代)」「徳川時代」など「支配者(幕府将軍等)の名前」で呼ぶか(恐らく、一般社会でも学会でも【1】が主流)は「価値観の問題」であり、簡単に答えの出る問題ではないとしている。
なお、こうした谷口氏の主張(足利時代と言う概念への評価)をどう評価するかはともかく、「時代区分」に限らず、歴史用語の多くは「当時あった言葉」ではなく「後世の学者が、その学者の価値観から作り出した言葉」なのだという事、そうした歴史用語は決して「当然の話ではないこと」には注意が必要でしょう。
まあ、通説化してる言葉について言えば、そんなことは「歴史学者」はともかく一般人は誰も気にしないわけですが。
山崎闇斎 - Wikipedia
水戸学・国学や幕末の尊王攘夷思想(特に尊王思想)に大きな影響を与えた
とされる儒学者「山崎闇斎」は、平泉以前の幕末期から右翼によって評価されてきたが、平泉の特徴を「闇斎学」に「日本精神」を見いだしたことと指摘(平泉編『闇齋先生と日本精神』(1932年、至文堂)など)。
平泉の「闇斎理解」においては
山崎闇斎 - Wikipedia参照
君臣の厳格な上下関係を説き、大義名分を重視した。とりわけ、湯武放伐を否定して、暴君紂王に対して忠義を貫いた周文王のような態度を肯定したことに特徴がある。「劉邦(漢王朝初代皇帝)は秦の民であったし李淵(唐王朝初代皇帝)は隋の臣であったのだから、彼らが天下を取ったのは反逆である。それは殷でも周でも他の王朝でも同じことで、創業の英主といわれていても皆道義に反しており、中国歴代の創業の君主で道義にかなっているのは後漢の光武帝ただ一人である」と述べて易姓革命を否定した。
として「易姓革命」を闇斎が否定したことが重視された。
平泉にとって易姓革命思想は「フランス革命、ロシア革命(王政廃止)」のような「天皇制否定」につながりかねない「危険思想」と評価されたからである。
この平泉の観点からは「闇斎の優秀な弟子」として評価される、いわゆる「崎門三傑(闇斎門下の浅見絅斎、佐藤直方、三宅尚斎のこと)」も闇斎が唱えた垂加神道に批判的であったことから否定的に評価される。平泉の立場では、闇斎門下としては三傑に比べ知名度の低い
遊佐木斎 - Wikipedia
闇斎と同じく皇統が永遠に続くべきであると主張し、放伐を否定した。同時代の儒学者・室鳩巣*16と論争し、中国に対する日本の「一王一統の政治」の優位を説いた。
という「遊佐木斎」や土佐の尊皇攘夷運動(武市半平太の土佐勤王党など)に影響を与えたとされる「谷秦山(土佐藩士。明治新政府高官となった谷干城*17は玄孫)」が高く評価される。平泉の「闇斎学」研究が極めて「政治まみれ」であり「まともな研究と言えるのか」怪しいと指摘される。
◆平泉澄とベネデット・クローチェ*18(國司航佑*19)
(内容紹介)
他の筆者は日本史研究者ですが、國司氏だけは
國司航佑参照
・≪イタリア文学史≫とベネデット・クローチェ
・第2次世界大戦下の日本におけるクローチェ思想の受容
・ベネデット・クローチェと「イタリア頽廃主義」
・ベネデット・クローチェの美学思想における倫理の位置づけについて
・ベネデット・クローチェのダヌンツィオ批評
等の論文があるイタリア研究者、クローチェ(イタリアの歴史学者)研究者です。
「イタリアに遊学し、クローチェと面会した平泉」と「クローチェ」の関係性について論じていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
なお、クローチェと言えば、
羽仁五郎 - Wikipedia
・『クロォチェ』(1939年、河出書房)
・『クロォチェ:市民的哲学者』(1946年、河出書房)
・『抵抗の哲学・クロォチェ』(1972年、現代評論社)
の著書がある羽仁五郎(右派の平泉とは逆に左派ですが)にも影響を与えたことで知られています。
何故にそのような「一見、奇妙な事態」が起こるのか、論じてほしいところですが、國司論文には残念ながらそうした論述はありません。
因みに1926年に書かれた平泉論文『クロォチェ「歴史叙述の理論及歴史」を得て』ではベネデト・クロォチェ著、羽仁五郎 訳『歴史叙述の理論及び歴史』(1926年、岩波書店)が優れた翻訳として評価されてるとのこと。
但し、この頃の羽仁はまだ左翼運動には関わっていません。
◆平泉澄と「日本精神」(昆野伸幸*20)
(内容紹介)
平泉が東大国史学科に持ち込んだと思われがちな「日本精神」という主張について、実は
沼波瓊音 - Wikipedia
・1920年頃から、東京女子大学や法政大学などで松尾芭蕉を中心に俳諧史を講ずるようになり、1921年4月に第一高等学校(一高)講師となる。また東京帝国大学講師として芭蕉研究を中心に俳諧史の講義をはじめる。1922年3月、一高教授となる。
・1922年に安岡正篤を北一輝に紹介する。
・1923年の虎ノ門事件(難波大助による裕仁皇太子*21暗殺未遂)に憤慨した皇室中心主義者であり、左翼思想の蔓延を憂慮して諸大学で日本精神の講義を開始する。1926年には、日本精神を研究するため、右翼学生団体「瑞穂会」を自らが教授を務める一高内に創設した。
【著書(俳句関係)】
・『俳句講話』(1906年、東亜堂)
・『俳句研究』(1907年、東亜堂)
・『俳句の作法』(1907年、修文館)
・『俳論史』(1907年、文禄堂)
・『俳句階梯』(1908年、東亜堂)
・『俳句の作り方』(1909年、文成社)
・『瓊音句集』(1913年、新潮社)
・『芭蕉の臨終』(1913年、敬文館)
・『俳句練習法』(1914年、新潮社)
・『俳句と其作り方』(1916年、平和出版社)
・『俳句作法』(1925年、松陽堂)
・『芭蕉と其周囲』(1928年、資文堂書店)等
【著書(俳句以外)】
・『大津事件の烈女・畠山勇子*22』(1926年、斯文書院→1995年、大空社(復刻版))
・『護法の神・児島惟謙*23』(1926年、修文館)
という沼波瓊音(ぬなみ*24けいおん、本名は沼波武夫)と言う人物(東大講師として俳諧史等を講義)が東大国史学科に持ち込んだのであり、沼波の影響によって、平泉が「日本精神」を主張するようになったと論じられています。
しかし1922年に安岡正篤を北一輝に紹介する。というのだから、この沼波という御仁、明らかに右翼ですね。
北一輝 - Wikipedia
著書「日本改造法案大綱」で「軍事革命=クーデター」による改造を主張し、二・二六事件の首謀者である青年将校の村中孝次、磯部浅一、栗原安秀*25、中橋基明*26(いずれも死刑判決)に影響を与えた。
1936年(昭和11年)二・二六事件で逮捕。1937年(昭和12年)8月14日、民間人にもかかわらず、特設軍法会議で、二・二六事件の理論的指導者の内の一人とされ、西田税とともに死刑判決を受ける。8月19日、磯部浅一、西田税、村中孝次とともに銃殺刑。
安岡正篤 - Wikipedia
・1932年(昭和7年)に「日本主義に基づいた国政改革を目指す」として、右翼団体「国維会」を設立。
・北一輝や大川周明*27の右翼団体「猶存社」の会員でもあった。
・1949年(昭和24年)に「師友会」(後の全国師友協会)を結成
・1958年(昭和33年)には岸信介首相、安倍源基*28、木村篤太郎*29らとともに「新日本協議会」を結成、旧日米安保条約改定運動や憲法改正運動などに関わった。
・安岡には政界だけでなく、財界にも多くの心酔者がおり、三菱グループ、近鉄グループ、住友グループ、東京電力などの多くの財界人を指南していたとされる。
・1983年(昭和58年)12月13日に逝去(享年85歳)。葬儀は1984年(昭和59年)1月25日に青山葬儀所で、岸信介元首相が葬儀委員長を、稲山嘉寛(新日本製鐵社長、経団連会長等を歴任)、大槻文平(三菱鉱業セメント社長、日経連会長等を歴任)が葬儀副委員長を務めて行われた。安岡の葬儀には、日本の政界からは中曽根康弘*30首相を始め、田中角栄*31元首相、福田赳夫*32元首相、鈴木善幸*33元首相らの歴代首相が参列した*34。
ということで安岡も北も右翼活動家です。後で紹介しますが「沼波の家族」も北とは親しかったようです。
またググったら
北一輝論 (5)(古屋哲夫*35)
満川*36は「猶存社には多くの同志が出入りしだした。大川君*37、沼波瓊音氏や、鹿子木員信氏*38、島野三郎君等を伴ふて来た。満州建国に重要な役割を演じた笠木良明君や、今満州国の要職に就いている皆川豊治、中野琥逸、綾川武治諸君とも知り合った」と(ボーガス注:満川の著書『三国干渉以後』(復刻版、2004年、論創社)で)書いている
なんて記事もヒットしました。沼波は、猶存社(満川亀太郎や大川周明、北一輝が結社の中心人物)という右翼結社に関わり、満川亀太郎ら右翼活動家と交遊していたわけです。
また
大川周明と平泉澄|坪内隆彦 国を磨き、西洋近代を超える(坪内隆彦*39)
大川は平泉から強い影響を受けていた。
大川『日本的言行』には次のように書かれている。
「私は先年平泉博士が発表せられたる『国史学の骨髄』と題する一篇を読んで至心に感激し、爾来今日に至るまで国史研究に於ける吾師と仰いで居ります。平泉博士の如き、史学者の出現によつて、国史は初めて生命を与へられ、新日本建設の生命の泉となり得るのであります」
「国史学の骨髄」は、平泉が昭和二年八月に東大の『史学雑誌』に書いた論文である。大川と平泉の関係は、平泉が「国史学の骨髄」を沼波瓊音(沼波武夫)の紹介によって大川に進呈したこと*40から始まる。
当時大川は四十歳、平泉は三十二歳だった。
「国史学の骨髄」は、大川らの行地社の機関誌『日本』昭和二年十月号にも転載されている。
大川と平泉の交流は、大川が亡くなるまで続いた。大川の墓銘も平泉の筆になる。
ということで沼波は大川周明や平泉澄とつながりがありました。
なお、話が脱線しますが、沼波瓊音 - Wikipediaによれば「沼波の危機意識を高め、彼の右翼活動を助長したらしい」虎ノ門事件ですが以下の通り、日本の歴史に大きな影響を与えたと言えるのではないか。
虎ノ門事件 - Wikipedia参照
・1925年の治安維持法成立を助長したと言われる。
・山本権兵衛*41首相は辞表を提出し、第二次山本内閣が崩壊。
・後継内閣として清浦*42内閣が誕生するが、清浦内閣に反発した政友会(高橋是清*43総裁)、憲政会(加藤高明*44総裁)、革新倶楽部(犬養毅*45総裁)のいわゆる護憲三派による倒閣活動「第二次護憲運動」が起こり、清浦内閣が崩壊。憲政会総裁の加藤高明を首相とする加藤高明内閣が誕生(政友会総裁の高橋が農商務相、革新倶楽部総裁の犬養が逓信相で入閣)。その後、加藤が首相在任中に病死したことで、加藤高明内閣内務相だった若槻礼次郎*46が首相に就任し、第一次若槻内閣が誕生。
・また、事件当日の警護責任を取り、湯浅倉平警視総監と正力松太郎警視庁警務部長が懲戒免官になった。正力はこれを契機に実業界に転進し読売新聞社主、日本テレビ社長を歴任。
一方、湯浅はその後、官界に復帰し、会計検査院長、宮内大臣、内大臣(226事件で暗殺された斎藤実*47内大臣の後任)を歴任。
話が脱線しますが「虎ノ門事件では、山本首相の辞表を受理して誕生した清浦内閣」が短命に終わったことを反省して「桜田門事件(1932年2月、李奉昌による昭和天皇暗殺未遂)」では犬養首相の辞表を受理せず、内閣を続投させた昭和天皇ですが、皮肉にもその結果、「515事件(1932年5月)」で犬養が暗殺されます。
【参考:沼波瓊音】
沼波瓊音と汁粉 | 歴史上の人物と和菓子 | 菓子資料室 虎屋文庫 | とらやについて | 株式会社 虎屋
沼波瓊音(ぬなみ・けいおん、1877~1927)は愛知県名古屋市出身の俳人、国文学者です。本名を武夫といい、「瓊音」と号しました。 「瓊」とは美しい玉を指し、「瓊音」(けいおん、ぬなと)は玉が触れ合う音を意味する語で、非常に優美な号といえるでしょう。
現在ではあまり名を知られていませんが、大正時代には俳壇で将来を嘱望された人物で、俳句にとどまらず、短歌や詩、小説に戯曲まで幅広い創作を行いました。また、国文学者としての顔も持ち、松尾芭蕉や小林一茶を研究し、長らく複数の大学などで教鞭をとりました。
浦和宿古本いち(初日) ― 100円均一台でめっけもの | 古書ニザワ業務雑記2025.9.25
浦和宿古本いちの初日へ向かう。まず向かうは100円均一台である。「なんかありそう」と期待しつつ漁っていたら、あった。
沼波万里子『五十銭銀貨』(1988)である。
筆者の沼波万里子は沼波瓊音の娘で歌人。
初見の方にとっては、タイトルから何について書かれた本か想像するのは難しいかと思う。
その中身については「はしがき」を読んでいただくに如くはない。あれから五十余年、二・二六事件から半世紀を経た今日となっては、何も彼もが時効と言えるのではないだろうか。
幼くて父を失った私にとって、北一輝氏は唯一の父親像であったと言えよう。薄い自費出版本(製作は岩波ブックサービスセンター)なので、100円均一台を漁り続ければ私のようにあっさり入手できるかも。
国会図書館で手にした、沼波万里子の『五十銭銀貨』のこと。 - 旧・日用帳(2003-2015)2008.10.18
沼波万里子著『五十銭銀貨』という本のことを知った。沼波瓊音の娘である筆者が少女時代の折の北一輝とのつかのまの交流を「瑞々しい筆致」で綴っているという。
『五十銭銀貨』(岩波ブックサービスセンター、昭和63年9月25日発行、四六判上製 76ページ)の著者紹介には、《本名:杉山まり子 大正10年8月、国文学者・沼波瓊音の七女として本郷に生れる。昭和10年、兵庫県立第一高女在学中、歌誌『帚木』に入社、同13年『潮音』に転社。妹の華子は「沼波輝枝」の名でテアトル・エコーに所属》とある。本全体の構成は、「はしがき(昭和六十三年六月)」のあと、「五十銭銀貨」(p3)、「つうさま(昭和五十四年五月記)」(p59)、「おかあさんとよばれるもの」(p61)、「月に寄す」(p64)、「笑顔の中に(昭和五十五年八月記)」(p68)、「ボランティア日誌より」(p71)というようになっていて、少女時代の北一輝との交流を描いた表題の「五十銭銀貨」を柱とした小文集という体裁。昭和二年七月、当時五歳の私は重い赤痢にかかり、T大学病院の個室に入院していた。一時は生命を危ぶまれた病状からようやく危機を脱した私が、起きているともなく、眠っているともなく、うつらうつらしていた時のことである。
「まり子」
ふと名を呼ばれたような気がして、反射的に「はい」と答えたが声にならない。
見ると、足元のドアの傍に父の姿があった。いつも病床で苦痛に堪えていた父からは、想像も出来ないほど柔和な眼差しが、じっと私の顔にそそがれている。少し笑っているようにみえた。
「元気をだせ。いいか元気を出すんだ。」
声だけが聞こえてくる。
「おや?」と私は思わず目を移した。父の左肩のあたりから、もう一人の男の顔がみえる。石のような動かない表情。ぼんやりと浮かんだ暗い顔の中に、口ひげだけが妙に頭のなかにやきついた。知っている顔だ、誰だったろう。ふと男の顔が消えた。気がつくと父もいない。この直後に父・沼波瓊音の他界*48を知り、病院で見た幻の父の傍らにいた「もう一人の男の顔」が北一輝だったとあとで知る。
亡父・瓊音が互いに先生と呼び合って親しんでいたという北一輝氏を、私が初めて身近かに感じたのは此の時からである。
そして、父が死んで、本郷から渋谷氷川町に引っ越しての生活もすっかり落ち着いてゆく。
そんな或る日、我が家の門前に見たこともないような大きな立派な乗用車が止まった。母のはずんだ声が聞える。
「まり子、華子、北さんが、貴女達二人を御馳走して下さるそうだ。」
「北さん?。ああ、一輝のおじさまね。」北一輝の乗用車で、二人の少女は「一輝のおじさま」に銀座へと連れられ、革の素敵なお財布を買ってもらったり、瀟洒なレストランで御馳走になったりする。北一輝は何も食べず、ただレモン水をすするだけ。夜道を家まで自動車で送られ、お別れの折には買ってもらったお財布におこずかいをジャラジャラと注がれた。お母さまにこのことを告げたら、お財布はお母さんが預かり愛用することになってしまった。
それからもたびたび、北一輝の自動車のお迎えがあって、妹の華子とともにおじさまに連れて行ってもらうこととなる。
成長するにつれて、万里子お嬢さんも女学校入学のための勉強やら日曜学校やらで忙しくなって、おじさまとのお出かけも間遠になってゆく。ある日、北一輝の邸宅で手に入れた「五十銭銀貨」が秘密の宝物として残され、そんなこんなで幾年月、氷川町から宇田川町へ引っ越したあとに、二・二六事件が勃発、大久保百人町の北一輝宅へ葬式の折に、五十銭銀貨が沼波万里子の手を離れたところで、締めくくられる。
北一輝が沼波万里子と妹の華子を連れていってくれたレストランはどんな感じだったのかなと思いを巡らせるべく、帰宅後、「コレクション・モダン都市文化」第13巻『グルメ案内記』ゆまに書房に翻刻されている、白木正光編『大東京うまいもの食べある記・昭和八年版』(丸ノ内出版社、昭和8年4月30日初版)を眺めるのも楽しいことだった。『大東京うまいもの食べある記』
地下はオートマット食堂になっていて、入口からすぐ階段を下りますと、つき当りに見本棚があり、奥の壁のオートマット機の中に飲物や、お料理が並べてあり、白銅一ヶ又は二ヶ三ヶと指定の数丈け入れますと自動的にすべり出してきます。こうした自動式食堂は、広い東京でもここ丈けと云って良く、近代味覚に精進する人達は、是非一度云って見ることです。ある日、沼波万里子はお母さんに連れられて、「新宿の食品店の地下の無人レストラン」にゆく。一輝のおじさまの前で恥をかかないようにと、ここで母からテーブルマナーの伝授を受ける。『五十銭銀貨』の中盤に登場のこのレストラン、新宿の「二幸食堂」だったのね! と、『大東京うまいもの食べある記』にしっかりと載っていて、感激。
『五十銭銀貨』ではこの自動機械で食事が出てくるという無人レストランの描写が文章全体の幻想的なムードとよく調和していた。『五十銭銀貨』で描かれていることがたしかに実在していたのだ、ということが当時の資料で実感できて、それだけで嬉しいものがあった。
沼波万里子『五十銭銀貨』(岩波ブックサービスセンター、昭和63年9月25日発行)より、沼波瓊音の親族が出てくるので、ここに抜き書き。つうさま
つうさまの本名つね。私の父の妹である。満二歳の時、子守に背負われたまま物干場から転落、怪我一つしなかった子守の下敷となって両眼の視力を失った。
時折、NHKの放送局などで演奏するつうさまは、幼い私にとって何となくこわい存在であった。
空襲で家を焼かれ、つうさまが亡くなってから三十年たつ。私の母も既にない。
今、ボランティアとして盲人のためのテープに声を録音していると、床の間に立てかけた琴から、つうさまの笑顔がこぼれてくるような気がする。
(昭和五十四年五月記)
沼波瓊音、田岡嶺雲のこと|外山一機2024.10.9
沼波瓊音といえば、東京帝国大学国文科在籍中の明治三一年に大野洒竹らの筑波会に入会し、作句に励む一方で俳諧研究でも『俳諧音調論』をはじめ多くの著作を残した人物である。
後年は「国士」としての活動に熱心で、加藤郁乎*49は「難波大助による虎の門事件があり、瓊音がこれに大きな衝迫を受け有為の青年たちを糾合して瑞穂会を組織する契機となったと諸書に論ぜられるが説得性に欠ける憾みは拭えない」(『俳の山なみ』角川学芸出版、平成二一)と述べるが、昭和三年に刊行された遺稿・追悼文集『噫・瓊音沼波武夫先生』は瑞穂会による編集・発行である。
昨今、瓊音の仕事に注目する俳人はあまり見受けられなくなった。そんななかで思い出されるのは加藤郁乎の前掲書『俳の山なみ』であろうか。
【参考:沼波輝枝、二幸食堂】
チャンスの順番
沼波輝枝さんは女性怪人の声のイメージが強いですよね。蜂女、クラゲダール、ノコギリトカゲ、キギンガーなど。
アイエス
(ボーガス注:フジテレビアニメ『アルプスの少女ハイジ』の)ペーターのおばあさん⛰️ですね
萬象アカネ
〈新宿アルタ〉。この地は大正14年に〈三越〉の新宿分店が新築され、昭和5年に三越系の食品デパート〈二幸〉新宿本店となり昭和53年まで営業。テレビスタジオを併設した現在のファッションビルとなったのは昭和55年のことだった。
旧・二幸新宿店で興味深いのは、昭和6年に登場した〈オートマット食堂〉。この食堂は地下に位置し(現在も駅と新宿アルタは地下通路でつながっている)、日本初の自動販売機で食事を提供。前面がガラス張りで、硬貨を入れてハンドルを引くと取り出し口が下がり、サンドイッチ、サラダ、スープ、コーヒー、カレーライスなどが取り出せたという。
多くの方々に親しまれる味わいを目指して。エムアイフードスタイルより新ブランド「新宿二幸 大食堂の味」新登場 | 株式会社エムアイフードスタイルのプレスリリース2020.7.7
エムアイフードスタイルの前身である「二幸」は食堂の厨房業務からはじまり、「海の幸、山の幸・食料品の二幸」「うまいものはなんでも二幸」をキャッチフレーズに販売店舗運営や様々な食品製造を手掛けてきました。
1927年12月、新宿駅東口(現・新宿アルタ)に生活必需品専門店として「新宿二幸」をオープンさせ、戦争により原料資材が不足した厳しい時代にも、国民の生活の復興と物価の安定のために営業を続け、多くのお客様からの支持をいただくこととなりました。
戦後・高度成長期のころには、「食品専門店」として全国的に親しまれ、中でも2階フロアにあるレストランは、そこで食事をすることが豊かさを象徴するものとして人気を集めていました。
時代が変わった令和の今、「食」を通じて多くの皆様に喜んでいただけることを目指し、困難を乗り越えてきた先人の想いも込めて、新しい食品ブランド「新宿二幸・大食堂の味」をこの度新たにスタートさせます。
新ブランド「新宿二幸・大食堂の味」の発売商品第一弾として、3種類のパスタソースが新登場します。
幅広い年代に人気のひき肉入りソース「ボロネーゼ」、優しい味わいのクリームソースにベーコンの旨味が溶け込んだ「ベーコンクリーム」、そしてトマトソースの程よい酸味が後をひく「ポモドーロ」。
話が完全に脱線しますが沼波輝枝や二幸食堂についても触れておきます。
◆1942年の平泉澄:『学術大観』と『国史概説』(今井修)
(内容紹介)
柳澤健 (ノンフィクション作家) - Wikipedia*50
【刊行年順】
・『1976年のアントニオ猪木』(2007年、文藝春秋社→2009年、文春文庫)
・『1985年のクラッシュ・ギャルズ』(2011年、文藝春秋社→2023年、光文社未来ライブラリー)
・『1993年の女子プロレス』(2011年、双葉社→2016年、双葉文庫)
・『1964年のジャイアント馬場』(2014年、双葉社→2019年、双葉文庫)
・『1974年のサマークリスマス:林美雄とパックインミュージックの時代』(2016年、集英社→2021年、集英社文庫)
・『1984年のUWF』(2017年、文藝春秋社→2020年、文春文庫)
・『2011年の棚橋弘至と中邑真輔』(2017年、文藝春秋社→2021年、文春文庫)
・『2000年の桜庭和志』(2020年、文藝春秋→2023年、文春文庫)
を連想させるタイトルに思わず吹き出しましたがそれはさておき。
まず「東京帝国大学学術大観」(1942年)の「文学部」の項目(平泉が中心となって記載)で「東京帝国大学文学の過去及び現在の重要な教官」の中に「久米邦武」が存在しないことが指摘される。
「詳しい検討が必要」とした上で筆者は久米邦武筆禍事件 - Wikipediaの久米について、平泉が「右翼」として許せなかったが故に、「意図的に排除したのではないか」という疑念を示している。
次に平泉の講義ノート「国史概説」(1942年版)が触れられる。
本文は勿論、「蘇我氏の(ボーガス注:皇室に対する)僭上」「源氏及び北條氏における国体観念」「蒙古襲来と国民的自覚」「建武中興の失敗の因:足利高氏の不忠」「足利氏累代の不忠不義」「足利氏同族内の禽獣的闘争」「応仁の乱:足利氏不忠の決算」「中世末期における尊皇思想の復活」「秀吉の勤王」「最近における国体観念・国民意識の復活」など「目次」からして平泉の右翼思想が読み取れると評価している。
◆歴史の眼「狭山事件と部落問題の今」(黒川みどり*51)
(内容紹介)
狭山事件の現状について論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
【参考:狭山事件】
狭山事件 - Wikipedia参照
1963年5月1日
女子高生が行方不明になり、自宅に身代金を要求する脅迫状が届く。
1963年5月2日
脅迫状に指定された場所に現金を持参するが、犯人は現金を受け取らず逃走。警察が犯人逮捕に失敗する
1963年5月4日
女子高生の遺体が発見される。
1963年6月4日
石川一雄が杉材16本(2万3000円相当)の窃盗容疑で別件逮捕される
1963年6月17日
石川が保証金5万円で保釈されるも、強盗強姦、強盗殺人*52、死体遺棄の容疑で再逮捕される
1963年7月9日
石川が強盗強姦、強盗殺人、死体遺棄容疑で起訴される
1964年3月11日
浦和地裁で死刑判決
1974年10月31日
東京高裁で無期懲役判決
1977年8月16日
最高裁で無期懲役が確定。
1977年8月30日
東京高裁に第一次再審請求の申し立て。
1985年5月28日
最高裁が第1次再審請求の特別抗告を棄却。
1986年8月21日
東京高裁に第2次再審請求の申し立て。
2005年3月16日
最高裁、第2次再審請求を棄却
2006年5月23日
東京高裁に第3次再審請求の申し立て
2025年3月17日
石川の病死(2025年3月11日)に伴い、第3次再審請求の審理を東京高裁が打ち切る。
2025年4月4日
石川の妻・石川早智子により東京高裁に第4次再審請求の申し立て。
再審の扉、開かぬまま 狭山事件の石川さん死去 「無念だった」 [埼玉県]:朝日新聞2025.3.13
1963年に起きた「狭山事件」で強盗殺人などの罪に問われて無期懲役刑が確定した後、3度の再審請求をしていた石川一雄さん(86)が11日に亡くなった。60年以上にわたって無実を主張し、現在は2006年から続く第3次再審請求の途中だった。突然の訃報を受け、関係者からは驚き、悼む声があがった。
50年以上支援してきた小野寺一規・部落解放同盟埼玉県連書記長は、1971年から支援を始め、1994年に仮釈放された石川さんの身の回りの世話をしていたという。
(ボーガス注:奇しくも死去した)3月11日が61年前(1964年)に浦和地裁(当時:現在はさいたま地裁)で死刑判決を出された日と同じであることに触れ、「余計に胸が締め付けられる思いだ」と語った。
同じく50年以上にわたり石川さんを支援してきた片岡明幸・部落解放同盟埼玉県連執行委員長は「犯人は被差別部落の人間だという決めつけが、石川さんの逮捕につながった」とした。
狭山事件の石川一雄さんを追悼 再審請求の状況報告 11日、前橋で [群馬県]:朝日新聞2025.10.3
1963年の「狭山事件」で強盗殺人罪などで無期懲役が確定し、再審請求中の今年3月に86歳で亡くなった石川一雄さんを追悼する集会が11日、前橋市大手町の県教育会館で開かれる。
石川さんは埼玉県狭山市の女子高校生が殺害された狭山事件で、1977年に無期懲役が確定。その後、無実を訴えて再審請求を始め、1994年に仮釈放されていた。今年3月の死後、石川さんの妻が裁判のやり直しを求め、東京高裁に第4次となる再審請求を申し立てた。
追悼集会は、部落解放同盟群馬県連合会など県内5団体が主催。石川さんを追いかけたドキュメンタリー映画「SAYAMA・みえない手錠をはずすまで」をつくった映画監督の金聖雄さんによる追悼ショートムービーを上映し、弁護士の指宿昭一さんが第4次再審請求の状況を報告する。
また、妻の早智子さんが壇上に立つほか、社民党党首の福島瑞穂さん*53が「再審法改正」をめぐり講演する。
「狭山事件」再審求め東京で市民集会 妻「正義の英断を」 「確定判決」の日 制度に課題、法改正訴え /埼玉 | 毎日新聞2025.11.1
1963年に狭山市で女子高校生が殺害された「狭山事件」で、冤罪を訴え続けた石川一雄さん(今年3月に86歳で死去)の再審の実現を求める市民集会が31日、東京・芝公園の集会広場で開かれた。壇上には石川さんの遺影が置かれ、第4次再審請求審を引き継いだ妻の早智子さんは「私も78歳。生きている間に、待っている一雄に再審無罪を報告したい」と悲痛の声を上げた。
主催は、(ボーガス注:『狭山事件の真実』(2010年、岩波現代文庫)の著者であり、他にも『弘前大学教授夫人殺人事件』(1990年、講談社文庫)、財田川事件を取り上げた『死刑台からの生還』(2007年、岩波現代文庫)など冤罪問題を取り上げた著書がある)ルポライターの鎌田慧さん*54が事務局長を務める「狭山事件の再審を求める市民集会実行委員会」。約1200人(主催者発表)が参加した。再審無罪を勝ち取った東住吉事件*55(1995年)の青木惠子さん、湖東記念病院事件*56(2003年)の西山美香さんも加わり、石川さんの再審の早期開始を訴えた。集会後、参加者たちは日比谷公園方面へデモ行進し、「今こそ再審開始を」などと声を上げた。
◆書評:前田修輔『近現代日本と国葬』(2024年、山川出版社)(評者・宮間純一*57)
(内容紹介)
・宮間氏は従来研究が手薄だった「島津久光*58の国葬」を前田氏が取り上げたことを評価している。一方で「島津久光の国葬」について「国葬を実施した政府の思惑」ばかりが論じられ「島津家」「旧薩摩藩士」等が久光の国葬をどう評価したのかが充分論じられていないと批判している。
これは島津久光の国葬だけでなく、他の国葬においても「国葬を実施した政府の思惑」ばかりが論じられ「遺族」「国民」等がどう評価したのかが充分論じられていないと批判している。
・国葬について前田氏が「政府は国民統合機能を国葬にそれほど期待していなかった」と評価することについて、宮間氏は
【1】確かに「安倍国葬」が安倍批判派から批判されたように、「大久保利通、岩倉具視、三条実美らの国葬」は「旧幕臣」「自由民権派」など「大久保らと対立する立場の人間」にとっては評価に値するものではなかったこと
→例えば、国葬がされた山県有朋の死について、石橋湛山*59は「死もまた社会奉仕(平たく言えば『老害の山県が死んで良かった』)」とまで酷評し、国葬にも反対したと言われる(例えば時の在りか:石橋湛山は国葬に反対した=伊藤智永 | 毎日新聞(2022.9.3)参照)
【2】「教育勅語、靖国神社(戦前)」「勲章制度(戦前及び戦後)」など他の「国民統合手段」と比較すれば「政府は国民統合機能をそれほど期待していない」かもしれないこと
を指摘しながらも、「国葬の国民統合機能」への過小評価が過ぎるのではないかと批判している。
参考
まさか復活するとは…国葬で博士号とった研究者 当日はここに注目:朝日新聞2022.9.25
「まさか復活してしまうとは。歴史上のできごととして終わったものだと思っていた。国葬の研究者として、ちょっと油断していました」
「(ボーガス注:明治の元勲である大久保利通*60、岩倉具視*61、三条実美*62、伊藤博文*63、山県有朋*64、松方正義*65、日本海海戦勝利の功労者・東郷平八郎*66、真珠湾攻撃勝利の功労者・山本五十六*67など)先例と照らし合わせると、該当する人物はいないのではないかと。現代であれば、日本が戦争に巻き込まれたうえで勝利した首相とか、そのレベルでないとできないだろうなと考えていました」
上智福岡中高(福岡市)教諭の前田修輔さん(32)は言う。
日本における国葬研究の第一人者だ。
九州大学で近代史研究をしていたときのこと。
偶然「国葬」という記述を見つけた。
「全然知らなかったので、そもそも国葬って何?といった感じでした」
先行研究がほとんどない国葬。関心を持ち、卒論のテーマに選んだ。
社会科教諭を務めながら、母校の大学院に通い、博士号を取得した。
国葬じゃなかった? 後継者争いのアピール? 専門家2人どう見た:朝日新聞2022.9.29
国葬研究で博士号を持つ、上智福岡中高教諭の前田修輔さん(32)は「国葬が鏡になって、今の日本を映し出した」とみる。
「社会の分断を招いたともいわれる安倍政治の集大成の日が、最後まで賛成、反対が分かれていたのは象徴的でした」
前田さんは論文「戦後日本の公葬」の中で、国葬が批判を浴び、「落としどころとして」内閣と自民党との合同葬に変容していく様を伝えた。
しかし今回、よみがえった国葬。
前田さんは、その効果をこう分析する。
「残された政治家にとって、政治的な意味合いを持つ」
追悼の辞で、(ボーガス注:第二次、第三次安倍内閣外相、自民党政調会長(第二次安倍総裁時代)を務めた)岸田文雄首相は「あなたが敷いた土台のうえに」と語った。
(ボーガス注:第一次安倍内閣総務相、第二~四次安倍内閣官房長官を務めた)菅義偉前首相は、安倍元首相の再決起を促した焼き鳥屋でのやりとりを明かし、「生涯最大の達成」と誇った。
「(ボーガス注:菅氏や岸田氏が、安倍氏の)正統な後継者であることを訴え、(ボーガス注:当時の自民党最大派閥・安倍派の支援を受け)自らの立ち位置を強固にする。そんなアピールの場にもなっていたように見えました。」
27 「公葬」についての研究ノートを読む
国葬については賛否ありますが、ここでは賛否を論じることが目的ではありません。「公葬」について、興味深い研究ノートを見つけましたので、その内容をシェアしながら、歴史的な位置づけを整理しておきたいと思います。
2021年7月のものですから、安倍晋三元総理の殺害よりも前のタイミングです。後からみてみると、「奇しくも」と言えるタイミングでしょう。
上智福岡中高教諭の前田修輔氏が執筆した「戦後日本の公葬:国葬の変容を中心として」という研究ノートです。
ここでは、同氏の論文のポイントを抜き出しておきたいと思います。扱われているのは、吉田茂の国葬(1967年)、佐藤栄作の国民葬(1975年)、大平正芳の内閣・自由民主党合同葬儀(1980年)の3事例です。
◆吉田茂*68の国葬(1967年)
吉田国葬は閣議了解で決定されたことが指摘されています。と同時に、留保する意見があったことも指摘されています。
坊秀男厚生相の日記
「吉田氏の葬儀に伴う諸経費を国が支出して国葬とすることは大分無理」(p.63) (※坊秀男:1904年〜1990年、自民党所属、衆議院当選11回、佐藤栄作内閣での厚生相のほか、福田赳夫内閣で蔵相)
佐藤達夫*69法務府法制意見長官*70
「国会の両院において決議が行われ、それを契機として内閣が執行するという経緯をとることが望ましい。」(p.63)
社会党・山本幸一*71書記長
「個人的意見として、閣議決定のみは不適当で、(ボーガス注:衆参の本会議ではなく)議院運営委員会でもいいので国会の議決を求めるべき。」(p.65)(社会党は、当初、国葬について異議なしという立場を表明)
ジャーナリスト大宅壮一
「法的な問題や形態を曖昧なままに政府が押し切ったとして、日本のマスコミ界がこぞって暗黙のうちに”了解”しているようにみえるのは、いささか了解に苦しむ」(p.66)
◆佐藤栄作*72の国民葬(1975年)
当初は、政府・自民党内では、吉田茂と同様に国葬とすべきとの意見だったことが指摘されています。しかし、政府・与党首脳の協議で準国葬として国民葬とすることが決定されました。その理由についても指摘があり、中曽根康弘幹事長が国葬について法律が無いこと、内閣法制局等の意見を聞いたことで総合的に判断したと話していることが言及されています。さらに興味深いのが、中曽根幹事長が「総合的」と言った意味について、当時の報道などで議論されていたことに基づいて、下記5点にまとめられています。(pp.67-68)
①明確な法的根拠が存在しないとする内閣法制局の見解。国葬見送りの最大の決め手であった
②国葬とするには、衆参両院議長と最高裁長官といった三権の長との協議が必要。閣議決定のみでは「内閣葬」扱い。
③吉田国葬の際に前例としないという社会党の申し入れの存在
④野党が佐藤氏の国葬に反対、押し切れば以後の議会運営に支障あり(当時の自民党と社会党の事情の影響)
⑤国葬とすると台湾からの代表者の扱いに問題が生じる(当時、日中平和友好条約の締結交渉の行き詰まりがあった)
また国民葬とは、内閣、自民党、国民有志の3者主催の葬儀となったと指摘されています。(p.67)
◆大平正芳*73の内閣・自由民主党合同葬儀(1980年)と外交的成果
合同葬については、本論文では、単純化すれば国民葬から国民有志を除いた形と整理されています。その他の費用負担や無宗教式といったことについては、国民葬から多くを引き継いでいると指摘されています。また国民葬よりも、「一段低い」形式となったのは、当時の報道として、在任期間で吉田・佐藤に劣る、国民葬とした場合の国民の定義が曖昧、(選挙後に行われる予定であったため)選挙大勝直後に批判を受けるといった理由が紹介されています。(p.70)
そして、大平合同葬の特長として、これは非常に興味深い点ですが、前田氏は「海外からの参列者」と指摘しています。当時は、『カーター大統領、華国鋒中国首相を始めとする海外の首脳が多数参列し「喪服外交」が繰り広げられたため、「我が国の国際的地位の向上」を示すものとして好意的に報道されたのである』と前田氏は議論を展開しています。(p.70)
この点は、今回の安倍国葬の決定初期に有識者も含めて「弔問外交」への期待が語られていたことと一致します。
他方、前田氏は「外交的には効果があったように見えるが対内的な効果には疑問符が付く」とも指摘しています。とりわけ、政府やメディアの姿勢に対して、「国民は冷淡な対応」(p.74)だったとしています。
前田氏が最後のまとめとして下記の点を指摘している点も非常に興味深いです。
第一に、過去に国葬令という法的根拠が存在していたが故に、「(ボーガス注:戦後、国葬令が廃止され、法的根拠がなくなったために)国葬に代わって国家の一機関*74や政党*75による公葬が登場する。その画期の一つが、現職の首相であった大平正芳の死である。(中略)現職の首相ですらも国葬とならないという先例が登場し、その後の首相経験者の葬儀モデルとなったのである」(p.76)としています。これは、今回の安倍国葬での議論でも、法的根拠が議論されました。
第二に、「(ボーガス注:批判派が無視できない数でいるが故に)偉勲者の死を悼むには至らず、(中略)いわば国家の一機関や政党による単なる「ショー」へと、その姿を変容させるに至った」と指摘してます。これも、今の安倍国葬を巡る議論を見ていると興味深い指摘です。
第三に、「(様々な批判が生じていたにも関わらず)、なぜ国葬は行われるのか。その問いに対する一つの回答は、(ボーガス注:弔問外交という)外交的な手段として有用だからであろう」と指摘しています。これは、まさに安倍国葬を支持する人々の重要な論拠となりました。
という3点を挙げつつも、前田氏は、「より重視される」ものとして、「内向きの論理」を指摘しています。少々長くなりますが、論文の77ページ下段にある部分を引用してみましょう。故人の「実績」だけでなく「時の運」も内閣による公葬実施の条件となることが看取される。「偉大な政治家」の死は、遺された政治家にとっても政治的な意味合いを持つことがある。よって、政府・与党による「通知表」において、時には批判を回避する努力をしてまでも「高評価」を与えるべき人物だと判断されたからこそ、栄転としての公葬が行われるのである。
どうでしょうか。この論文が、あたかも、安倍氏が亡くなった後に書かれたのではないかと思えてしまう指摘ですが、実際には2021年7月に出版された研究ノートです。
そして、前田氏は、下記の言葉で研究ノートを締めくくっています。民主国家・日本において、国民の賛同、特にその代表である議会で与野党が一致して最大級の顕彰を行うことができるだけの功績を挙げた、すなわち「国家的危機」を救った「英雄」が登場しない限り、国葬が復活することは難しいのではないだろうか。
冒頭に触れましたが、ここでは国葬についての賛否を表明したいのではありません。
一方で、(ボーガス注:弔問外交など社会への影響は)国葬よりは「一段低い」ものであった大平合同葬以上の効果と言えるのか、その点は問いかけをしても良いのではないか、など、そうした問題提起はしておきたいと思います。
*1:1895~1984年。著書『物語日本史(上)(中)(下)』(1979年、講談社学術文庫)、『國史學の骨随』(1989年、錦正社)、『中世に於ける精神生活』(2006年、錦正社)等。平泉の評伝として若井敏明『平泉澄』(2006年、ミネルヴァ書房日本評伝選)
*2:淑徳大学教授。著書『日本古代の王権と山野河海』(2009年、吉川弘文館)、『古代王権と出雲』(2014年、同成社)、『能登・加賀立国と地域社会』(2021年、同成社)
*3:1941~2020年。『週刊朝日』編集長、朝日新聞編集委員等を歴任。著書『王貞治のホームラン人生』(1978年、朝日新聞社)、 『孤高:国語学者大野晋の生涯』(2015年、集英社文庫)等
*4:最近の著書に『佐高信の昭和史』(2018年、角川ソフィア文庫)、『日本の権力人脈』(2018年、講談社+α文庫)、『反・憲法改正論』(2019年、角川新書)、『企業と経済を読み解く小説50』、『時代を撃つノンフィクション100』(以上、2021年、岩波新書)、『反戦川柳人・鶴彬の獄死』(2023年、集英社新書)、『佐高信評伝選』(全7巻、2023年、旬報社)、『日本の闇と怪物たち:黒幕、政商、フィクサー』(共著、2023年、平凡社新書)、『石橋湛山を語る:いまよみがえる保守本流の真髄』(共著、2024年、集英社新書)等
*5:1910~1998年。東北電力会長等を務めた実業家「白洲次郎」の妻。エッセイスト。著書『明恵上人』(1992年、講談社文芸文庫)、『世阿弥』(1996年、講談社文芸文庫)、『西行』(1996年、新潮文庫)、『西国巡礼』(1999年、講談社文芸文庫)、『白洲正子自伝』(1999年、新潮文庫)、『私の古寺巡礼』(2000年、講談社文芸文庫)、『私の百人一首』(2004年、新潮文庫)等
*6:1901~1979年。美術評論家。著書『鎌倉文士骨董奇譚』(1992年、講談社文芸文庫)、『眼の哲学・利休伝ノート』(1994年、講談社文芸文庫)、『青山二郎全文集(上・下)』(2003年、ちくま学芸文庫)。評伝に田野勲『青山二郎』(2020年、ミネルヴァ書房日本評伝選)
*7:1927~2013年。神戸大学名誉教授。著書『数学ぎらいをなくす本』(1979年、講談社ブルーバックス)、『パラドックスの世界』(1981年、講談社ブルーバックス)、『方程式に強くなる』(1987年、講談社ブルーバックス)、『フランス革命と数学者たち』(1989年、講談社ブルーバックス)、『数学パズルランド』(1992年、講談社ブルーバックス)、『文系のための線形代数の応用』(2004年、現代数学社)等
*8:東京大学名誉教授、東北大学名誉教授。著書『近代立憲主義と現代国家』(1973年、勁草書房)、『議会制の構造と動態』(1973年、木鐸社)、『現代民主主義の憲法思想』(1977年、創元社)、『司法の積極性と消極性:日本国憲法と裁判』(1978年、勁草書房)、『比較のなかの日本国憲法』(1979年、岩波新書)、『権力・個人・憲法学:フランス憲法研究』(1989年、学陽書房)、『自由と国家』(1989年、岩波新書)、『もういちど憲法を読む』(1992年、岩波書店)、『近代国民国家の憲法構造』(1994年、東京大学出版会)、『近代憲法学にとっての論理と価値』(1994年、日本評論社)、『転換期の憲法?』(1996年、敬文堂)、『憲法と国家』(1999年、岩波新書)、『先人たちの「憲法」観』(2000年、岩波ブックレット)、『「共和国」フランスと私』(2007年、柘植書房新社)、『憲法という作為』(2009年、岩波書店)、『いま、「憲法」は時代遅れか』(2011年、平凡社)、『いま、「憲法改正」をどう考えるか』(2013年、岩波書店)、『加藤周一と丸山眞男』(2014年、平凡社)、『抑止力としての憲法』(2017年、岩波書店)、『リベラル・デモクラシーの現在』(2019年、岩波新書)等
*10:1876~1967年。京都大学名誉教授。広辞苑の編集で知られる国語学者
*11:1887年にザメンホフ(1859~1917年)によって発表。
*12:1873~1960年。古河電工社長、東京地下鉄道(現在の東京地下鉄(東京メトロ)株式会社)社長、国際電信電話(現在のKDDI株式会社)会長、文化放送会長等を歴任
*13:広義では「室町幕府が存在した時代」を指し、足利尊氏が征夷大将軍に任じられた1338年(建武5年/延元3年)から、15代将軍義昭が織田信長によって京都から追放される1573年(元亀4年)までを指す。狭義では建武新政(1333年(元弘3年/正慶2年5月22日)から明徳の和約による南北朝合一(1392年、明徳3年/元中9年)までを南北朝時代、応仁の乱(1467年、応仁元年)以後の時代を戦国時代と区分して、その間を室町時代と呼ぶ(室町時代 - Wikipedia参照)
*14:青山学院大学准教授。著書『中世足利氏の血統と権威』(2019年、吉川弘文館)、『分裂と統合で読む日本中世史』(2021年、山川出版社)、『〈武家の王〉足利氏』(2021年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『足利将軍と御三家:吉良・石橋・渋川氏』(2022年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)
*15:神戸市外国語大学准教授。著書『儒教儀礼と近世日本社会:闇斎学派の『家礼』実践』(2020年、勉誠出版)
*16:徳川家宣、家継、吉宗の3代将軍に仕えた。吉宗期にはブレーンとして享保の改革を補佐し、湯島聖堂において朱子学の講義を行った(室鳩巣 - Wikipedia参照)
*17:1837~1911年。土佐藩に仕える儒学者・谷景井の四男として生まれる。土佐勤王党の首領「武市半平太」と知り合って尊王攘夷に傾倒。文久2年(1862年)に吉田東洋が武市一派によって暗殺された後は、武市と共に藩主・山内豊範の側近に引き立てられるが、前藩主・山内容堂ら反武市派の巻き返しで、元治元年(1864年)に武市が失脚する(翌慶応元年(1865年)に吉田暗殺の罪で処刑される)と同志の谷も元治元年(1864年)に左遷され、翌慶応元年(1865年)に致道館助教に復職するまで逼塞していた。戊辰戦争では、板垣退助が率いる迅衝隊の小軍監(後に大軍監に昇格)として北関東・会津戦争で活躍する。明治4年(1871年)7月の廃藩置県後、兵部権大丞として新政府に出仕し、翌明治5年(1872年)には陸軍裁判長に、明治6年(1873年)に熊本鎮台司令長官となる。明治10年(1877年)の西南戦争の際には、熊本鎮台司令長官として、52日にわたって西郷軍の攻撃から熊本城を死守し、政府軍の勝利に貢献した。明治11年(1878年)に陸軍士官学校長、明治17年(1884年)に学習院院長、明治18年(1885年)に第1次伊藤内閣農商務大臣となった(谷干城 - Wikipedia参照)
*18:1866~1952年。著書『歴史の理論と歴史』(岩波文庫)等
*19:立命館大学准教授。著書『詩の哲学:ベネデット・クローチェとイタリア頽廃主義』(2016年、京都大学学術出版会)
*20:神戸大学教授。著書『近代日本の国体論:〈皇国史観〉再考(増補改訂)』(2019年、ぺりかん社)
*22:彼女については畠山勇子 - Wikipedia、戦争回避にささげた命 知って 憂国の女性・畠山勇子 鴨川・観音寺で「遺愛のひな人形」展示へ:東京新聞デジタル(2025.2.20)、小泉八雲も心打たれた憂国の烈女・畠山勇子 大津事件の国難 一身に背負って差し出した命 不遇列伝 - 産経ニュース(2025.9.10)参照
*23:大津事件当時の大審院長(児島惟謙 - Wikipedia参照)
*24:沼波瓊音 - Wikipediaによれば「ぬまなみ」ではなく「ぬなみ」と読む(勿論普通に「ぬまなみ」と読む場合もある。)
*27:1886~1957年。五・一五事件で禁錮5年の有罪判決を受けて、1936年(昭和11年)6月11日に豊多摩刑務所に収容。1937年(昭和12年)10月13日に仮出所。太平洋戦争中は、は大東亜省の大東亜共同宣言の作成に携わった。戦後、戦犯として訴追される(民間人では唯一の訴追)がウェッブ裁判長は大川を精神異常と判断し、1947年4月9日、彼を正式に裁判から除外した。東京裁判で起訴された被告人の中では、裁判終了時に存命していて有罪にならなかった唯一の人物である。1957年12月24日に死去。大川の墓銘は交遊のあった平泉澄の揮毫(大川周明 - Wikipedia参照)
*28:戦前、内務省保安課長、警保局長、警視総監、企画院次長、鈴木内閣内務相等を歴任。岸信介は第1次岸内閣の国家公安委員長候補に安倍を推薦したが、この案は強い反対に遭い挫折している
*29:検事総長、吉田内閣司法相、行管庁長官、法相、防衛庁長官等を歴任
*30:岸内閣科技庁長官、佐藤内閣運輸相、防衛庁長官、田中内閣通産相、自民党幹事長(三木総裁時代)、総務会長(福田総裁時代)、鈴木内閣行管庁長官等を経て首相
*31:岸内閣郵政相、自民党政調会長(池田総裁時代)、池田、佐藤内閣蔵相、自民党幹事長(佐藤総裁時代)、佐藤内閣通産相等を経て首相
*32:大蔵省主計局長から政界入り。岸内閣農林相、自民党政調会長(池田総裁時代)、幹事長(佐藤総裁時代)、佐藤内閣蔵相、外相、田中内閣行管庁長官、蔵相、三木内閣副総理・経企庁長官等を経て首相
*33:池田内閣郵政相、官房長官、佐藤内閣厚生相、福田内閣農林相、自民党総務会長(佐藤、田中、大平総裁時代)等を経て首相
*34:安岡のような「プロ右翼活動家」と日本の政財界人がズブズブなのも何ともかんともです。「日本の右傾化」の一要素ではあるでしょう。
*35:1931~2006年。京都大学名誉教授。著書『日露戦争』(1966年、中公新書)、『日中戦争』(1985年、岩波新書)等
*36:満川亀太郎のこと。満川の評伝として、福家崇洋『満川亀太郎』(2016年、ミネルヴァ書房日本評伝選)
*38:1939年(昭和14年)、対支同志会が日比谷公会堂で主催した「英国排撃市民大会」では、イギリスの東洋政策を厳しく批判する演説を行うなど、国粋主義思想を広めた(鹿子木員信 - Wikipedia参照)
*39:『月刊日本』編集長、拓殖大学日本文化研究所客員研究員、昭和維新顕彰財団代表理事、崎門学研究会顧問等を歴任。著書『キリスト教原理主義のアメリカ』(1997年、亜紀書房)、『岡倉天心の思想探訪』(1998年、勁草書房)、『アジア英雄伝:日本人なら知っておきたい25人の志士たち』(2008年、展転社)、『維新と興亜に駆けた日本人:今こそ知っておきたい二十人の志士たち』(2011年、展転社)、『GHQが恐れた崎門学:明治維新を導いた國體思想とは何か』(2016年、展転社)、『徳川幕府が恐れた尾張藩:知られざる尊皇倒幕論の発火点』(2020年、望楠書房)、『水戸学で固めた男・渋沢栄一』(2021年、望楠書房)、『木村武雄の日中国交正常化:王道アジア主義者・石原莞爾の魂』(2022年、望楠書房)等(坪内隆彦 - Wikipedia参照)
*40:原文のママ。しかし 沼波瓊音 - Wikipediaによれば沼波は昭和二年七月に死去してるので昭和二年八月に東大の『史学雑誌』に掲載された論文を沼波が紹介することはあり得ない。『史学雑誌』掲載前、沼波生前に平泉が書き上げた論文を、沼波が大川に紹介したと言うことか?
*41:第二次山県、第四次伊藤、第一次桂内閣海軍相、首相を歴任
*42:内務省警保局長、司法次官、第二次松方、第二次山県、第一次桂内閣司法相、第一次桂内閣農商務相、枢密院議長、首相を歴任
*43:日銀総裁、第一次山本、原内閣蔵相、首相、加藤高明内閣農商務相、田中、犬養、斎藤、岡田内閣蔵相を歴任。岡田内閣蔵相在任中に226事件で暗殺される。
*44:第四次伊藤、第一次西園寺、第三次桂、第二次大隈内閣外相等を経て首相
*45:第一次大隈内閣文相、第二次山本、加藤高明内閣逓信相等を経て首相。首相在任中に515事件で暗殺
*46:大蔵次官、第三次桂、第二次大隈内閣蔵相、加藤高明内閣内務相等を経て首相
*47:第一次西園寺、第二次桂、第二次西園寺、第三次桂、第一次山本内閣海軍大臣、朝鮮総督、首相、内大臣を歴任。内大臣在任中に226事件で暗殺される。
*48:沼波瓊音 - Wikipedia によれば沼波瓊音の死去は1927年(昭和2年)7月(享年49歳)。沼波瓊音の死去した1927年7月当時の娘「万里子(1921年8月生まれ)」は5歳、娘「華子(1923年12月生まれ、後の女優「沼波輝枝」)」は3歳
*49:1929~2012年。俳人、詩人。父は俳人・加藤紫舟(本名・加藤中庸)。父の主宰誌『黎明』に新芸術俳句を発表。1950年に父が没して後は『黎明』の主宰を継いだ。著書『加藤郁乎俳句集成』(2000年、沖積舎)、『加藤郁乎詩集成』(2003年、沖積舎)、『俳人荷風』(2012年、岩波現代文庫)、『俳諧志(上)(下)』(2014年、岩波現代文庫)等
*50:元週刊文春記者。著書『増補版・日本レスリングの物語』(2021年、岩波現代文庫)等
*51:静岡大学名誉教授。著書『異化と同化の間:被差別部落認識の軌跡』(1999年、青木書店→『被差別部落認識の歴史:異化と同化の間』と改題し、2021年、岩波現代文庫)、『共同性の復権:大山郁夫研究』(2000年、信山社)、『地域史のなかの部落問題:近代三重の場合』(2003年、解放出版社)、『つくりかえられる徴:日本近代・被差別部落・マイノリティ』(2004年、解放出版社)、『近代部落史:明治から現代まで』(2011年、平凡社新書→増補版、2023年、平凡社ライブラリー)、『描かれた被差別部落:映画の中の自画像と他者像』(2011年、岩波書店)、『創られた「人種」:部落差別と人種主義』(2016年、有志舎)、『評伝・竹内好』(共著、2020年、有志舎)、『被差別部落に生まれて:石川一雄が語る狭山事件』(2023年、岩波書店)、『評伝・丸山眞男』(2024年、有志舎)等
*52:「強盗強制性交殺人(石川氏が起訴された当時なら強盗強姦殺人)」という犯罪は現行法ではありません。「強盗殺人プラス強姦(現行法では強制性交)」ではなく、石川氏が「強盗強姦(現行法では強盗強制性交)プラス強盗殺人」での起訴なのはその方が罪が重くなるという検察の判断でしょう。とはいえ強盗殺人の最高刑は死刑なのであまり意味があるとは思えませんし「一つの犯罪(強盗)を二重評価(強盗強姦、強盗殺人)しているのは不当」という批判がありますが。なお、現行法では「強盗殺人(最高刑が死刑)」という犯罪はあっても「強制性交殺人(石川氏が起訴された当時なら強姦殺人)」という罪はなく、強制性交致死(石川氏が起訴された当時なら強姦致死。「強制性交(強姦)プラス傷害致死または過失致死」を処罰する罪で、最高刑が無期刑)しかありません。強制性交殺人(強姦殺人)は「強制性交(強姦)プラス殺人」で起訴されることになります。
*53:鳩山内閣少子化等担当相、社民党幹事長、副党首等を経て党首。著書『結婚と家族』(1992年、岩波新書)、『裁判の女性学』(1997年、有斐閣選書)、『福島瑞穂的弁護士生活ノート』(1998年、自由国民社)、『福島みずほの刑務所の話』(2003年、現代人文社)、『迷走政権との闘い』(2011年、アスキー新書) 等
*54:著書『日本の兵器工場』(1983年、講談社文庫)、『ドキュメント失業』(1985年、ちくま文庫)、『鉄鋼王国の崩壊:ルポルタージュ・新日鉄釜石』(1987年、河出文庫)、『ドキュメント 追われゆく労働者』(1987年、ちくま文庫)、『ロボット絶望工場』(1988年、講談社文庫)、『国鉄処分:JRの内幕』(1989年、講談社文庫)、『ドキュメント 労働者! 1967〜1984』(1989年、ちくま文庫)、『弘前大学教授夫人殺人事件』(1990年、講談社文庫)、『国鉄改革と人権:JRは安全か』(1990年、岩波ブックレット)、『ドキュメント 隠された公害:イタイイタイ病を追って』(1991年、ちくま文庫)、『「東大経済卒」の十八年』(1991年、講談社文庫)、『トヨタと日産:自動車王国の暗闇』、『反骨:鈴木東民の生涯』(1992年、講談社文庫)、『ルポルタージュを書く』(1992年、岩波同時代ライブラリー)、『ルポ 権力者:その素顔』(1993年、講談社文庫)、『ドキュメント 造船不況』(1993年、岩波同時代ライブラリー)、『ルポ大事故!:その傷痕』(1994年、講談社文庫)、『ドキュメント 家族』(1994年、ちくま文庫)、『日本の原発地帯』(1996年、岩波同時代ライブラリー)、『いじめ社会の子どもたち』(1998年、講談社文庫)、『ドキュメント屠場』(1998年、岩波新書)、『原発列島を行く』(2001年、集英社新書)、『大杉榮語録』(2001年、岩波現代文庫)、『反骨のジャーナリスト』(2002年、岩波新書)、『椎の若葉に光あれ:葛西善蔵の生涯』(2006年、岩波現代文庫)、『いじめ自殺:12人の親の証言』、『教育工場の子どもたち』、『死刑台からの生還』(2007年、岩波現代文庫:財田川事件を取り上げた)、『ぼくが世の中に学んだこと』(2008年、岩波現代文庫)、『狭山事件の真実』(2010年、岩波現代文庫)、『増補版・自動車絶望工場』(2011年、講談社文庫)、『六ヶ所村の記録(上)(下):核燃料サイクル基地の素顔』(2011年、岩波現代文庫)、『ひとり起つ:私の会った反骨の人』(2014年、岩波現代文庫)、『残夢:大逆事件を生き抜いた坂本清馬の生涯』(2015年、講談社文庫)、『冤罪を追う (鎌田慧セレクション・現代の記憶1)』(2024年、皓星社)、『真犯人出現と内部告発 (鎌田慧セレクション・現代の記憶2)』(2024年、皓星社) 、『日本の原発地帯 (鎌田慧セレクション・現代の記憶3)』(2025年、皓星社)、『さようなら原発運動 (鎌田慧セレクション・現代の記憶4)』(2025年、皓星社)等
*55:この事件については東住吉事件 - Wikipedia、日本弁護士連合会:東住吉事件参照
*56:この事件については湖東記念病院事件 - Wikipedia、日本弁護士連合会:湖東事件、違法捜査認定、滋賀県が控訴断念 元看護助手の再審無罪巡る国賠訴訟 [滋賀県]:朝日新聞(2025.7.25)、「本当に冤罪はなくなるのか」 滋賀・呼吸器事件で県警本部長ついに謝罪…でも西山美香さんの思いは複雑で:東京新聞デジタル(2025.8.7)参照
*57:中央大学教授。著書『国葬の成立:明治国家と「功臣」の死』(2015年、勉誠出版)、『戊辰内乱期の社会』(2016年、思文閣出版)、『天皇陵と近代:地域の中の大友皇子伝説』(2018年、平凡社)、『公文書管理法時代の自治体と文書管理』(編著、2022年、勉誠社)、『明治維新という物語:政府が創る「国史」と地域の「記憶」』(2025年、中公新書)
*58:薩摩藩主・島津茂久(後に忠義に改名)の父。明治新政府で参議、左大臣を歴任
*59:戦前、東洋経済新報主幹。戦後、政界入りし、吉田内閣蔵相、鳩山内閣通産相等を経て首相
*60:参議、大蔵卿、内務卿を歴任
*61:外務卿、右大臣を歴任
*63:首相、貴族院議長、枢密院議長、韓国統監等を歴任。元老の一人
*64:陸軍卿、内務卿、第一次伊藤、黒田内閣内務相、首相、第二次伊藤内閣司法相、枢密院議長等を歴任。元老の一人
*65:第1次伊藤、黒田、第1次山県、第2次伊藤、第2次山県内閣蔵相、首相、内大臣等を歴任。元老の一人
*68:戦前、天津総領事、奉天総領事、スウェーデン公使、外務次官、イタリア大使、英国大使等を歴任。戦後、東久邇宮、幣原内閣外相を経て首相
*69:法務庁法制局長、法務府法制意見長官、内閣法制局長官、人事院総裁を歴任
*71:社会党書記長(勝間田委員長時代)、副委員長(成田委員長時代)等を歴任
*72:運輸次官から政界入り。吉田内閣郵政相、建設相、自民党総務会長(岸総裁時代)、岸内閣蔵相、池田内閣通産相、科技庁長官等を経て首相
*73:池田内閣官房長官、外相、佐藤内閣通産相、田中内閣外相、蔵相、三木内閣蔵相、自民党幹事長(福田総裁時代)等を経て首相
*74:内閣のこと