新刊紹介:「歴史評論」6月号

★特集『第50回大会報告特集』
・詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。それなりに紹介できそうな内容のみオレ流に紹介しておきます。
■今日の日本社会と立憲主義(青井未帆*1
(内容紹介)
 青井氏は「従来の政府公式見解(現行憲法では集団的自衛権行使はできない)」を公然と「撤回し」事実上の改憲集団的自衛権行使の容認)を実行した安倍に対し「今までそうした事を憲法学会があまり想定していなかったため(また立憲主義の説明が抽象的で難しいため)」、「学会での議論」など学者としての研究はともかく「護憲運動に参加する一般市民も含めて」一般社会には立憲主義について学者が十分説明してこなかったが、今後は「立憲主義の危機」として立憲主義について、世間にアピールしていく必要があるとしている。
 なお、青井氏は「立憲主義に対する日本人の感覚」としては「結果が良ければルールなどどうでもいい*2」という「立憲主義法治主義と言ってもいいが)に対する無理解な傾向」があると理解している。
 一方で「安倍の無法」を許したという点で日本の平和主義には欠陥があったとしている(浅井基文氏や林博史氏も指摘しているところだが)。
 私見ではその欠陥としては
1)「原爆投下」など被害者意識の強さと「南京事件」などの加害者意識の弱さ
2)米国の外交安保方針を無条件で支持する意識の強さ
3)(1)とも関連するが)、国際環境の認識の歪み
 日本は世界有数の経済、政治、軍事大国であり、おいそれと日本侵略などできないのに中国、北朝鮮脅威論が叫ばれる(日本はあくまで被害者として描かれる)、つうことがその「歪みの一例」としてあげられるだろう。


改憲問題と明治憲法の緊急勅令(増田知子*3
(内容紹介)
 第一次若槻*4内閣(1926〜1927年)の台湾銀行救済のための緊急勅令要求が枢密院によって拒絶されたことが取り上げられている。
 「台湾銀行の危機」が緊急かつ重大なこともあったが、台湾銀行救済について議会で議論することによって「台湾銀行危機」の大きな理由である「鈴木商店*5への不良融資問題*6」を「政府の無策」として追及されることを恐れた若槻内閣は議会開催ではなく緊急勅令で処理することを考えた。
 しかし枢密院は「緊急勅令が必要なケースか疑問(違憲の疑いがある)」として若槻の要求を拒否した。
 枢密院の拒絶の是非*7はともかく、明治憲法体制下においても「緊急勅令」は首相の一存で簡単に出せる物ではないことが指摘され、そうした明治憲法体制下での緊急勅令の扱いと比べても、「自民党改憲案」での緊急事態条項は「権力抑制意識が甘い」と増田氏は批判している。

参考

■第一次若槻内閣(ウィキペ参照)
 昭和金融恐慌によって経営危機となった台湾銀行を救済する緊急勅令案発布を枢密院に諮ったが、枢密院で19対11で否決され、総辞職となった。これは枢密院によって内閣が倒れた唯一の例である。


■近代日本の地域福祉と米価騰貴:秋田市の事例を中心に(大川啓)
(内容紹介)
 秋田の地域実力者である、本間金之助(2代目)、辻兵吉(2代目)による地域慈善活動が取り上げられている。
 大川氏は「全ての地域実力者が本間らのように地域慈善活動に資産投入したわけではないこと」を指摘した上で「地域慈善活動をすること」で「金儲け至上主義」との批判を避けようとしていた地域実力者の動きがあることに注意を促している。
 本間らの活動を分析することで「本間らと違い慈善活動に消極的・無関心だった地域実力者」についての認識も進むだろうとしている。

参考

■辻兵吉(ウィキペ参照)
 秋田市呉服商を出自とする「辻兵グループ」を束ねる総帥が代々襲名してきた名跡。現在グループは5代目辻兵吉の長男である辻良之と、5代目の義弟に当たる蒔苗昭三郎らによる集団指導体制に移行している。
■初代・辻兵吉
 辻家初代である萬四郎から4代目に当たる。安政3年(1856年)呉服太物商「辻兵」を創業。
■2代目辻兵吉(1852年〜1926年)
 旧名・山内末吉。辻家に養子入りし、明治13年1880年)2月に、2代目を襲名。旧秋田銀行2代目頭取、秋田貯蓄銀行初代頭取など歴任。2代目本間金之助(旧名・山内由松)の実弟
■3代目辻兵吉(1875年〜1951年)
 秋田銀行初代頭取。
■5代目辻兵吉(1926年〜2008年)
 1952年(昭和27年)、父・四代目兵吉の事業を引き継いで五代目兵吉を襲名。以後、辻兵、辻不動産、秋田いすゞ自動車などの辻兵グループ企業のトップを務め、グループを秋田県下有数の企業グループに育てた。また秋田市大町の商業ビル「秋田ニューシティ」の開発も手がけ、さらに三代目兵吉が初代頭取を務めた秋田銀行社外取締役にも長期にわたって在任した。
 1986年(昭和61年)からは15年あまり秋田商工会議所会頭を務め、空洞化が進む中心商店街の街づくりや交通インフラの整備に尽力した。また秋田県体育協会会長在任時には秋田わか杉国体の誘致にも成功した。その他、日本バスケットボール協会会長、秋田消防団長、秋田県経営者協会会長など多くの役職を歴任した。
 2008年(平成20年)7月、肝細胞がんのため死去、満82歳。葬儀は秋田県立武道館で行われ約3800人が参列、渡辺喜美第一次安倍内閣金融・行政改革担当相、寺田典城*8秋田県知事、佐竹敬久*9秋田市長、金田勝年*10参院議員*11(秋田選出)らが弔辞を述べた(役職は全て当時)。

■本間金之助(2代目)(ウィキペ参照)
 1872年(明治5年)、秋田市の本間金之助 (初代)家へ婿入りし、二代目金之助を襲名。
 本間家の家督を継承後、現在の大町二丁目で、貧しい家庭の子どもたちに読み書き・ソロバンを教える私設学校「福田学校」や、後のほんきん西武・秋田西武(現在の西武秋田店)の前身となる本金商店等を運営。
 また、1907年(明治40年)に第四十八銀行頭取に就任し、秋田貯蓄銀行頭取と共に何れも没するまで務めた。

■本金西武(ウィキペ参照)
 1964年、旧態依然たる経営を行っていた本金デパートは5億円余りの負債を抱え、内部整理を迫られた。翌1965年には小玉合名会社(現:小玉醸造)専務であった小玉得太郎が再建を乞われて本金デパートに入社。1970年に、小玉が社長に就き債務整理を終えた時点で、更なる発展のためには大手資本との提携が必要との判断から1971年、西武百貨店と業務提携を締結した。1983年4月21日に本金デパートは西友と共同で「本金西武」を設立。2005年3月、本金西武は西武百貨店に吸収合併され、2006年3月には秋田西武に改称。さらに2009年8月には、そごう・西武発足に伴い西武秋田店と店名を改めた。

*1:著書『憲法を守るのは誰か』(2013年、幻冬舎ルネッサンス新書)、『国家安全保障基本法批判』(2014年、岩波ブックレット)、『憲法と政治』(2016年、岩波新書)など

*2:ただし北朝鮮拉致問題でそうはならない(バーター取引でもええやん、北朝鮮支援してもええやん、の否定)のは「反共意識」「朝鮮への差別意識」の故だろう。

*3:著書『天皇制と国家:近代日本の立憲君主制』(1999年、青木書店)

*4:桂、大隈内閣蔵相、加藤高明内閣内務相を経て首相

*5:第一次大戦を契機に三井物産三菱商事に次ぐ日本第三位の商事会社に成り上がるが、「第一次大戦後の反動不況」「関東大震災による震災不況」などが直撃し経営が低迷。1927年についに倒産する。なお、鈴木商店の商事部門については1928年に「日商」として再建された(日商岩井を経て、現在の双日)。

*6:若槻が党首を務める憲政会と鈴木商店は密接なつながりがあり、台湾銀行融資は「そうした政治案件」であり「台湾銀行救済策」も「鈴木商店救済が目的の一つ」と疑われており、国会を開会すれば野党・立憲政友会の疑惑追及は必至だった。

*7:枢密院主流派は政治的見解の違いから若槻に反感を持っておりコレを格好の倒閣材料に使ったのではないかとの指摘が一部にある。1)若槻内閣の緊急勅令要求は拒否した枢密院が後継の田中義一内閣(立憲政友会)の緊急勅令要求には応じたため、2)当時の枢密院議長・倉富勇三郎(id:Apeman氏エントリ(http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20101201/p1)曰く『朝鮮総督府司法部長官、法制局長官、宮内省御用掛、枢密院副議長・議長などを歴任したエリート官僚』)が昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮条約の批准問題では、条約反対を唱えるなど濱口内閣に敵対的だったからである(なお、田中内閣の緊急勅令により台湾銀行危機は回避された)。一方、増田氏は「鈴木商店問題」に触れ「鈴木商店疑惑追及を逃げるための勅令」との批判を浴びかねない若槻の緊急勅令要求と「そうではない田中の緊急勅令要求」とは単純には比較できず「若槻は拒否して田中は容認したこと」は一概に「若槻内閣倒閣のためのご都合主義とは見なせない」としている。

*8:横手市長、秋田県知事を歴任

*9:現在は秋田県知事

*10:現在、第三次安倍内閣法相

*11:葬儀当時は落選していた