新刊紹介:「歴史評論」2024年6月号

特集『第57回大会報告特集/歴史認識のポリティクス(地域・国家・市場)Ⅱ』
◆いま・ここを知るため史学史を顧みる(小田中直樹*1
(内容紹介)
 以前、筆者が『歴史学のトリセツ』(2022年、ちくまプリマ―新書)で史学史について論じた内容が改めて論じられている。「近代史学の父」としてドイツの歴史学者ランケ*2を紹介。
 彼の特徴として「一国中心主義」「専門家主義」「文書中心主義」を指摘。
 それらに対する批判としてそれぞれ「一国史に留まらないグローバル・ヒストリー(ウォーラーステイン*3の『世界システム論』など)」「公共史(パブリック・ヒストリー=非研究者と研究者の意見交流*4)」「文書に寄らない記憶研究(メモリースタディーズ)やオーラルヒストリー」が紹介されている。
 勿論、これらについては『グローバルヒストリーを自称する研究の多くは西洋中心主義だ(そうした西洋中心主義批判としては例えばサイード*5オリエンタリズム』(邦訳:平凡社ライブラリー))』「非研究者と研究者の意見交流は容易にはできない(下手をすると菅論文が批判するような事態「非研究者が研究者を無視した暴論を展開」になりかねない)」「『自分にとっては正しい記憶(例:日本ウヨ『大東亜戦争は聖戦だった!』)』として歴史修正主義を助長しかねない」等の問題が指摘されているが、それは「グローバルヒストリー」などが無価値だという話では無い。指摘されている問題点をどう是正するかが問題と言える。


◆パブリック・ヒストリー*6と非専門家:歴史実践におけるオーソリティの共有(菅豊*7
(内容紹介)
 学会では「問題点がありすぎる」として全く評価されなかったにもかかわらず「優れた学術図書」に与えられる建前の「サントリー学芸賞(2022年)」を受賞した竹倉史人『土偶を読む』(2021年、晶文社)を批判する望月昭秀*8他編『土偶を読むを読む』(2023年、文学通信)を紹介すると共にサントリー学芸賞のように「非専門家が専門家(今回は考古学)の領域を無神経に侵害して恥じない日本の現状」について論じています(小生の無能のため詳細な紹介は省略します。)
 これについては新刊紹介:「歴史評論」2023年11月号 - bogus-simotukareのブログでも触れたので紹介しておきます。


観光公害文化遺産:京都の伝統工芸に関わる史資料の現状と課題から(木立雅朗*9
(内容紹介)
 観光公害が問題になるほど、京都観光は外国人(欧米、中韓など)の観光客で賑わっているが、一方で「西陣織」「友禅染」等の「京都の伝統工芸」は急速に衰退し、廃業が相次いでいると指摘。その結果、廃業の際に「歴史的価値のある資料(西陣織、友禅染の図案など)」がどんどん廃棄されている(あるいは廃棄の危機にある)と主張。
 国や自治体(京都府京都市)が1)伝統工芸の支援を積極的に進めると共に、2)図案などを歴史的資料として収集・保存する体制の構築を訴えている。
【参考:京都の衰退(?)】

【書評】観光業の隆盛が京都の衰退を招いている:有賀健著『京都 未完の産業都市のゆくえ』 | nippon.com
 (ボーガス注:有賀健著『京都:未完の産業都市のゆくえ』(2023年、新潮選書)によれば)バブルの崩壊によって「西陣と室町の衰退が決定的」となるが、それに代わる産業は育たなかった。
 そして今や、2010年以降のインバウンド・ブームによって、潤っているのは新たに進出してきたレストランを中心とする観光関連の小規模事業者となった。著者は、「成功しすぎた観光都市としての京都が、観光以外の産業を抑圧している可能性がある」と指摘する。そしてこう嘆くのだ。

 京都市は人口が純流出を続ける最大の都市である。純流出は20代前半から30代にかけて続き、10歳未満も純流出が続くことは、就業機会に恵まれず、子育て世代にも良好な住環境を提供できていない何よりの証拠である。

(ボーガス注:有賀健*10著『京都:未完の産業都市のゆくえ』(2023年、新潮選書)の理解を正しいとするならば)皮肉なことに、観光業の隆盛が京都の衰退を招いている。過熱した観光ブームが去ったとき、京都はどうなるのだろうか。 

新たな「現実の京都」像を示した一冊 『京都 未完の産業都市のゆくえ』有賀健氏インタビュー Wedge ONLINE(ウェッジ・オンライン)
 有賀さんの調査によると、バブル崩壊を機に、都心の西陣・室町の関連業者は相次いで廃業した。都心では人口は回帰したものの、雇用力は失われ、昼夜間人口比率は一貫して低下を続けている。
(中略)
有賀
 「田の字地区*11が現状維持なら、ダラダラと際限のない観光地化が進行するでしょうね」
 都心に大規模改変がなされないとなると、町家に少し手を加えたカフェ、レストラン、小さなホテルやマンションが乱立することとなる。
有賀
 「観光への依存は、それで他の産業に比べて高賃金が得られるタイ国などはともかく、日本のような先進国では観光関連産業の平均賃金は他産業に比べて高くなく、決して魅力的な選択肢とはいえないと思います」
 観光地は(ボーガス注:旧跡「清水寺三十三間堂」や花街「祇園」などがある)東山区や(ボーガス注:大覚寺天竜寺などがある)嵯峨野などに充分あるのだから「それでいい」と言う。

 「話が脱線」しますが、なるほど「維新の京都進出(一日も早く打倒したいところですが)→その結果としての共産の議席減(例えば京都市長選挙あたりは、維新の候補が当選する可能性もあり得るのではないか(関西での共産党の凋落ぶりもひどい) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)参照)」には「京都の衰退(観光は盛んだがそれ以外の産業は衰退)→既存政治勢力(残念ながら共産を含む)への不信」という背景があるのかもしれません。
 少なくとも松竹や鈴木が強弁する「俺たちの除名が影響した」よりは小生の仮説の方が説得力がある気がします。
 松竹も鈴木ももはや「一部の支持者以外」には全く騒がれてませんからね。松竹らがもはや「あの人は今」となってることには「身の程知らずの醜態」として笑うだけですが、マスコミも全く冷たいモンです(苦笑)。


【参考:京都の観光公害ほか】

「超高級ホテルの乱立」は京都の終わりの始まりである…富裕層向けの観光業が京都経済にマイナスになる理由 だから京都市内では雇用減少が続いている | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
 観光客需要が急増することで町の姿、特に都心の表通りに面さない内側の地区で変容したものも多い。例えば、錦市場は今世紀初めころから急速に店舗が入れ替わり、それまで主流であった乾物屋、鮮魚・精肉店の多くが姿を消し、観光客向けの店舗に代わった。また、錦市場は料亭などへの卸機能を持つ商店も少なくなかったが、その多くで錦小路に面した店舗を観光客向けに改装したものが目立つ。今や錦の商店街はそれまでの地元の商店街としての姿をほぼ失ったといえよう。
 都心の再利用で目立つのが、小規模のラグジュアリーホテルの建設だ。これらの高級ホテルの多くが海外高級ホテルブランドの京都進出であり、客室数が100前後のものが大半である。
 客室単価の高さを反映して、一般の宿泊施設では得られない体験や借景を売り物にしている。例えば、「パークハイアット京都」は東山山麓の料亭敷地内に建設し、この料亭とのコラボレーションと、八坂の塔京都市街の夜景を一望できるレストランやバーが強調される。
 帝国ホテルは祇園の弥栄会館の修復改築で進出を計画しており、いうまでもなく、花見小路の奥にある祇園の中心地としてのロケーション、花街の中心施設との協同が眼目である。
 三井系列は、二条城東隣りの京都所司代跡地にある「三井家ゆかりの地に250年以上にわたって存在した三井総領家(北家)の邸宅」を利用したホテルを建設した。また、二条城の北側に隣接する土地にはシャングリラ系列の高級ホテルの建設が進められている。
 高級で小規模のホテル急増の傾向は、2010年代のアジアからの観光客の急増とそれに対応した民泊施設の爆発的増加の反動でもある。京都は明白な観光容量の制約に直面し、市民からの様々な「観光公害」の声に押されて、長期滞在で一人当たり消費金額の大きい富裕層にターゲットを絞った施設の建設を歓迎した。
 (ボーガス注:富裕層という)限定された顧客を対象とするこのような小規模ホテルは、事実上宿泊客以外の利用は極めて限定され、地域全体の再開発や活性化とは程遠い。いわば、京都のプライベートビーチ化である。
 極論すれば、このように切り売りされた観光レントは、(ボーガス注:地元への経済的波及効果はあまりなく、帝国ホテルなど)これらのラグジュアリーホテルグループの超過利潤として吸収されるだけになりかねない。
 近年の高級ホテルの参入に見られるように、地域公共財の囲い込みの傾向が一般化すれば、京都固有の景観や美しささえ(ボーガス注:富裕層と言う)一部の観光客にしか経験できないものになりかねない。
 観光業の成長だけが原因とはいえないものの、(中略)(ボーガス注:観光以外の産業は伸び悩み)市内での雇用は減少を続け、過去30年間で2割近く減少、都心部では4分の1の雇用が失われた。

観光公害で市民がバスに乗れない京都、平気なウィーン 違いはどこに [京都府]:朝日新聞デジタル2024.5.7
 市バスが混雑して市民が乗れないなど、訪日外国人観光客が戻った京都市内では、公共交通を巡る様々な問題が起きている。解決への処方箋はあるのか。オーストリア・ウィーン工科大学交通研究所で研究中の宇都宮浄人*12関西大学経済学部教授(交通経済学)に聞いた。


◆動き始めた歴史教育改革の成果と課題(小川幸司)
(内容紹介)
 『世界史との対話』(2011年、地歴社)、『世界史とは何か』(2023年、岩波新書)の著書がある筆者(長野県伊那弥生ヶ丘高校教員)が

【筆者の授業「世界史探究」での生徒への問いの例】
【質問例】
 他の十字軍と比べて、フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)の第5回十字軍*13について従来、高校世界史教科書ではあまり触れてこなかったように思うが、その理由は何だと思うか?

→【回答例】
 軍事的にイスラム勢力に勝利できなかったこと(またフリードリヒ2世の死後、ドイツが大空位時代になったことで2世の評価が低くなったこと)、彼の和平交渉について「反イスラム」の空気が強い「当時のヨーロッパ世界」では全く評価されなかったこと(かえってローマ教皇によって破門されたこと)が、触れてこなかった理由と思われるが、巧みな外交交渉で、一時的とはいえ「エルサレム統治権」をイスラムから取り戻したことは評価されて良いと思われる。勿論「単純に現代政治とは直線でつなげない」が「中東紛争が激化する現在(例:ネタニヤフのガザ侵攻)」、フリードリヒ2世の「イスラムとの外交路線」はもっと評価されるべきでは無いか。
【注記】
 筆者は「戦争の原因や経緯」が従来の歴史教育では当然論じられてきたが、それは下手をすると「戦争不可避論*14(例:戦前日本には日中戦争、太平洋戦争は不可避だった)」になる恐れがあり、そうした意味で「こうした外交努力の歴史」を教えることは重要だろうとしています。

等の、「高校教諭としての筆者の教育実践(世界史探究の授業)」も踏まえて、歴史教育改革(歴史総合の『日本史探究』『世界史探究』)について論じていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。

【参考:第5回十字軍】

フリードリッヒ2世の十字軍(講演記録) - イタリア研究会
報告者:高山博*15東京大学教授)(2015.7.9)から一部引用
◆橋都
 今日は、東京大学大学院教授の高山博先生にご講演をお願いしております。高山先生にはこれまでにもイタリア研究会では何度かご講演をお願いしていますけれども、今日は「フリードリヒ2世*16の十字軍」ということでお話をお願いしております。
 俗に言う無血の十字軍を成功させたということで大変有名な方です。今日はそのフリードリヒ2世の、いわゆる無血十字軍というのはどのようにして達成されたのかということをお話ししていただきます。
 それでは、高山先生のご略歴をご紹介したいと思います。著書としては、皆さまお読みになった方が多いかと思いますけれども、『中世地中海世界シチリア王国』、その他シチリアの歴史を中心として大変たくさんの著作、論文をお持ちの方です。それでは高山先生、よろしくお願いします。(拍手)
◆高山
 今日は、この十字軍の歴史の中で、戦いによらず交渉によって聖地エルサレムを取り返したフリードリヒ2世の十字軍に焦点を当てて、そして最後に文明の交流と衝突について考えてみたいと思っております。
 血で血を洗う十字軍の歴史の中で、唯一、一度の戦闘も交えることなくエジプトのスルタンとの交渉だけでエルサレム回復に成功した十字軍があります。それが神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の第5回十字軍です。この十字軍は一般にはあまり知られておりませんでした。それどころか十字軍研究者たちのほとんどが注目することも重視することもしませんでした。彼らの多くはこの十字軍を正式なものと見なさず、番号を振ることさえしませんでした。そのため、この十字軍は今でも単に「フリードリヒの十字軍」と呼ばれたり、第5回十字軍の一部と見なされたりすることが多いと言えます。その理由は主として2つあります。1つは、フリードリヒが十字軍遠征を行った時、教皇から破門された状態にあったために、この十字軍を正式の十字軍と見なしてこなかったということ。もう一つは、フリードリヒが率いた軍隊が一度も異教徒と戦わなかったために純粋な十字軍とは見なされなかったということです。
 彼は、当時のヨーロッパ世界の君主には珍しく、盲目的な十字軍熱に侵されることもなく、交渉によってエルサレムを取り返しましたが、こうした態度は当時のヨーロッパ世界では理解されることも受け入れられることもなく、ローマ教皇から2度にわたる破門を宣告されております。
 しかし、まさにこの戦闘を行わず交渉によってエルサレムを回復したという点が、実は現在の私たちの関心を引く最大の理由です。西ヨーロッパ中の老若男女が十字軍熱に浮かされて、聖地で殉教することを求め、諸侯、騎士の多くが異教徒との戦いで武勲の誉れを勝ち取ろうとしていた時に、このフリードリヒ2世は異教徒と戦わず交渉する道を選びました。
 ここで、このフリードリヒ2世がどういう人物だったかをお話ししておきたいと思います。
 彼は母の胸に抱かれたまま、1198年、パレルモでノルマン・シチリア王として戴冠しました。しかし、幼いフリードリヒは同じ年に母を失って孤児となってしまいます。形式的に教皇の後見下に置かれはしましたけれど、そのままパレルモイスラム教徒たちによって育てられたと言われています。彼が継承したノルマン王国は、異文化の共存によって繁栄した王国でした。12世紀のノルマン王の時代、パレルモイスラム教徒たちは郊外に自分たちの居住区を持ち、自分たちの裁判官を持ち、自分たちの法と慣習に従って生活していたことが知られております。イスラム教徒同士の問題はその共同体の中で解決されていました。イスラム教徒たちはノルマン王の下、自治を認められていたわけです。フリードリヒ2世のシチリア王国は、このようなノルマン王国の特徴を受け継いでいました。つまり異文化集団が併存し、ノルマンの統治が採用されていたということです。
 フリードリヒ2世は、かつてのノルマン王たちと同じく、イスラム教徒の役人、軍隊を抱えていました。つまりイスラム教徒たちとは日常的に接していたということです。彼の宮廷がイスラム教徒を含む優れた学者たちの活躍の場となっていたこともよく知られております。彼はまたイスラム世界の政情にも通じており、イスラム教徒を異教徒として敵視することもありませんでした。他のヨーロッパの王侯たちがキリスト教世界しか知らなかったのとは全く違っていたということです。彼は他のヨーロッパ君主たちと違って、キリスト教徒、教皇を中心とした世界観、価値観から自由だったと言うことができます。彼の意識の中で自分と対立・衝突していたのは異教徒ではなくて、同じキリスト教徒の諸侯であり、神聖ローマ皇帝となって以後はとりわけ教皇でした。
 1228年6月、フリードリヒ2世は十字軍を率いてイタリアを出航しました。同じ年の9月7日、シリアのアッカーに上陸したフリードリヒ2世は、当地の十字軍士たちに歓呼の声で迎えられましたが、彼らの期待に反してイスラム教徒への攻撃を開始することはなく、エルサレム奪還のためにエジプトのスルタン、アル・カーミルとの交渉を始めたわけです。そして、5カ月後の1229年2月11日、このアル・カーミルとの間にエルサレムを明け渡す条件を取り決めた条約が締結され、一滴の血も流すことなくエルサレムキリスト教徒の手に渡されました。
 この交渉は容易ではありませんでした。何度も使節が往来しましたが、交渉に進展は見られず、両者はそれぞれの陣営で困難な状況に立たされることになります。しかし、かつてシチリアの宮廷を訪れ、フリードリヒ2世との友好を深めておりましたファフル・アッディーンがアル・カーミルの使節代表としてやってきた時、交渉が動き始めました。両者は会談を重ねて、エルサレム引き渡しに関するさまざまな議論が行われました。
 両者は合意に達して、1229年2月11日、ついにアル・カーミルはフリードリヒ2世にエルサレムを明け渡すというヤッファ協定が結ばれました。この協定では、エルサレムにおけるキリスト教徒、イスラム教徒の平和的共存が取り決められました。
 このヤッファ協定により、エルサレムとともにナザレとベツレヘムなどが返還されました。エルサレムは皇帝の統治下に置かれましたが、この聖都の内部にあるイスラム教徒の聖なる場所、すなわち岩のドームとアクサー・モスクを含むハラム・アッシャリーフ区はイスラム教徒の管理下に置かれて、イスラム教徒はこの場所に自由に出入りし礼拝を行うことを認められました。キリスト教徒はこの聖なる場所に祈りに来ることを認められ、イスラム教徒は皇帝の管理下に置かれたベツレヘムへ行くことを認められました。イスラム教徒共同体への自治も認められました。また、フリードリヒ2世はいかなる状況になってもアル・カーミルを攻撃しないこと、彼を攻撃するキリスト教徒を援助しないこと、彼の支配地として残る部分を守ることなどを約束しました。
 そして、1229年3月17日、フリードリヒ2世はエルサレムの町に入城しました。そしてその翌日、聖墳墓教会に行き、総大司教が承認を拒んだエルサレム王の冠を自らの手で自分の頭に乗せたわけです。
 しかし、この交渉によるエルサレムの委譲と、キリスト教徒とイスラム教徒の平和的共存を取り決めた協定は、キリスト教徒の間でもイスラム教徒の間でも評価されませんでした。それどころか、それぞれの世界で激しい非難の渦を巻き起こしました。現地では聖ヨハネ騎士団エルサレム大主教がこの取り決めに激しく反発して、フリードリヒと敵対することになります。さらにはローマ教皇グレゴリウス9世が軍隊をフリードリヒ2世不在のシチリア王国へ侵入させました。フリードリヒ2世は即座にイタリアへ帰還し教皇軍を撃退します。彼はその時の和平条約で、教皇による破門を解かれることになりましたが、その後1250年に他界するまで再び聖地を踏むことはありませんでした。
 イスラム教徒の間でも激しい非難の嵐が沸き起こっておりました。アル・カーミルの裏切りを糾弾する集会がバクダードやムスル、アレッポダマスクスのモスクで開かれ、甥のアル・ナーシルとの間に戦端が開かれます。アル・カーミルはこの戦いで甥を下しましたけれど、彼が死去した翌年の1239年11月、アル・ナーシルがエルサレムを急襲してこの町を占領することになります。 
 聖なる都がイスラム教徒の手に戻ったということで、その時イスラム世界は歓喜に包まれたということです。これは2人の間の休戦協定が失効して約3カ月後のことでした。
 このように2人の君主による平和的なエルサレムの委譲は、同時代人にはほとんど評価されませんでした。また、2人による取り決めは10年間の期限付きであり、実際にエルサレムの平和共存は10年間しか続きませんでした。しかし、10年間という短い期間ではありましたけれど、2人の君主が生きている間、この約束は守られ続けました。異教徒への敵対的感情が渦巻き、宗教的熱情が支配的な時代の10年です。
 以上がフリードリヒ2世の十字軍の経緯です。
 十字軍の歴史は長い間ヨーロッパにとって、そしてキリスト教徒にとっての意味を求められ続けてきました。それは、ヨーロッパのキリスト教共同体にとって聖なる戦いであり、正義の戦いであると同時に、失敗の歴史でもありました。既に話しましたように、フリードリヒ2世の十字軍はそのような正義の戦いの十字軍の歴史の中で特異な例として扱われ、交渉によるエルサレム回復も否定的に扱われてきました。しかし、今私たちはこのフリードリヒの十字軍を、キリスト教ヨーロッパの視点ではなく、「衝突と交流を両方含むわけですけれど」、2つの文化圏の接触という視点から見ております。ヨーロッパ文化圏とイスラム文化圏とを同時代に存在する2つの文化圏と見なして、その関係を認識しようとする視点に立っているということです。これは十字軍に対する見方の大きな変化を示しています。この変化は私たちが生きている現代世界の政治力学の変化の反映であると同時に、私たちが持っている世界史認識の変化の反映、ヨーロッパを中心とする世界史認識から複数の文化圏が併存する世界史認識への変化の反映でもあります。
 フリードリヒ2世とアル・カーミルに焦点を当ててヨーロッパ史イスラム史の枠を越えた歴史事象を見ようとする行為は、まさに地球上のさまざまな人間集団の歴史を包摂する、そのようなグローバル・ヒストリー構築への第一歩ではないかと思っております。
 ところで、現代世界を文明で区分けして、その文明間の対立を国際政治の基調とする考え方があります。よくご存じだと思いますけれど、有名なハーバード大学教授ハンチントン*17が出した考え方です。
 人々の意識も社会構造も全く異なる現在と十字軍の時代とを単純に比較することはもちろんできませんけれど、宗教的対立が支配的だったこの十字軍時代においてすら、キリスト教徒対イスラム教徒という単純な対立の図式は成立しませんでした。キリスト教徒対イスラム教徒という理念的、イデオロギー的対立が存在する一方で、宗教の違いとは関係なく、利害に基づく君主間の政治的対立が現存していたわけです。
 多様な価値観が併存し人々の流動性が増した現在、文化や価値体系に基づく単純な対立の構図が成立しないということは明らかです。現代世界を正しく把握するには、過去の世界を把握するのと同じく、過度に単純化された図式に惑わされることなく、人々の間の対立軸、衝突要因、利害関係を注意深く冷静に見極めることが重要なのではないかと思っております。
 以上が今日の私の話です。
◆橋都
 ありがとうございました。それでは、時間は十分にありますので、質問のある方からお受けしたいと思いますけれども、いかがでしょうか。
◆長手
 長手と申します。大変有益な面白いお話をありがとうございました。この間、高校生の孫の教科書を見て、索引でフリードリヒ2世と引いたら、(ボーガス注:啓蒙専制君主として知られる)プロシアの「フリードリヒ2世」しか出てこないです。これほど今見直されている「第5回十字軍のフリードリヒ2世」のことが一行も教科書に載っていないので、これから載る可能性はないのでしょうか。先生などがもっと宣伝しなければいけないのではないかと思っているのです。
◆猪瀬
 猪瀬ですけど、大変興味深いお話をありがとうございました。
 ちょっと聞きたかったのは、フリードリヒ2世とアル・カーミルの間で使節を交わし、このように平和裏にエルサレムを回復したということなのですけれど、両者がそれぞれお互いをどう見ていたかです。だからフリードリヒ2世はアル・カーミルをどう見ていたか、アル・カーミルはフリードリヒ2世をどう見ていたか、そういうものが分かるような史料というのは何か残っているのですか。
 それが1点と、もう一つは、これだけのことができるということは、お互いに相手のことをよく分かって、共通の話し合いの土俵というのがそこに形成されていたと思うのです。だから、フリードリヒ2世はイスラム教徒の良き理解者であったはずだし、アル・カーミルはカトリックの良き理解者であったはずなのですけど、どういうきっかけでそういうお互いに良き理解者になったのでしょうか。その辺を少し伺いたかったのですが。
◆高山
 ノルマン王の時代からイスラム君主との間で使節の交換が定期的に行われていました。使節の交換ですから、イスラム教徒がパレルモの宮廷に来たり、キリスト教徒がエジプトに行ったりということをやっていて、使節団は行き帰りの時には大体同じ船に乗っていました。パレルモに来たアル・カーミルの使節がエジプトに戻る時に、フリードリヒ2世の使節がその船に同情するということが繰り返されていました。それぞれの宮廷では相手方の使節とじかに会う機会もありました。
 君主同士が直接会うことはありませんでしたけれど、使節団はそういう形で往来していました。君主同士も含め、書簡の交換、手紙の交換は頻繁に行われていました。そのような手紙の一部が現在も残っています。アル・カーミルとフリードリヒ2世の間ではかなりの信頼関係があったようですし、そのことを示す手紙も残っています。お互いに情報の交換をやっていたということです。
 アル・カーミルはもちろんイスラム教徒で、フリードリヒ2世はキリスト教徒です。フリードリヒ2世は、キリスト教世界での名声や評判を気にしていましたし、自分はキリスト教の擁護者であるということを公言してもいます。しかし、彼は、イスラム教徒もキリスト教徒と同じように神を信仰しているし、彼らには彼らのやり方があると記しています。有名なエピソードがあります。 
 塩野七生さん*18も書いていたかもしれないですし、翻訳が出たカントーロヴィチ*19の『皇帝フリードリヒ二世*20』、よくできている古い本なのですけれど、そこにも出ていたような気がします。年代記に記されている、フリードリヒ2世がエルサレムに入った時のエピソードです。彼がこの町に入った時、アザーン、つまり、礼拝の呼びかけの声が聞こえなかったので、案内役に「何で聞こえないのだ」と尋ねたら、「フリードリヒ2世がキリスト教徒だから、それをみんな気にして、控えているのだ」という答えが返ってきたということでした。それに対し、フリードリヒ2世は、「自分はせっかくイスラム世界に来たのだから、みんなの普通の状態を知りたいのだ、だから自分に気を使ってほしくはない」と言ったということです。これは一つのエピソードにしかすぎませんけれど、少なくともフリードリヒ2世はイスラム教徒に対して好意的な感情を持っていたということがわかります。イスラム側の年代記には、フリードリヒ2世は隠れムスリムだったという表現も出てきますし。非常にムスリムに対して好意的だったという記述もあります。
◆猪瀬
 小さい頃、イスラム教徒に育てられたのですよね。それがやはりかなり大きかったのでしょうか。
◆高山
 それはやはりそう推測されます。彼は小さい頃はパレルモで育っていますから、パレルモには当時当然イスラム教徒が多くいたわけで、イスラム教徒に育てられたという話もあります。だから、少なくとも小さい頃からイスラム教徒とは接していた、それは間違いないと思います。
◆橋都
 民族間の寛容といいますか、そういうのは大変難しいものだと思いますけれども、それを中世に行った偉大な君主と言ったらいいのでしょうか、われわれがフリードリッヒ2世から学ぶことは大変多いのではないかと思います。
 それでは、もう一度高山先生に拍手をお願いしたいと思います。(拍手)
◆高山
 どうもありがとうございました。

「中東和平」実現した神聖ローマ皇帝(2ページ目)|日経BizGate本村凌二*21
 1228年、フリードリヒ2世率いる第5回十字軍は、現在のシリア、イェルサレムの北西に位置するアッコンに上陸しました。その地でフリードリヒ2世は、イェルサレムを統治するアイユーブ朝のスルタンであるアル・カーミルと書簡でやり取りをします。はじめはアル・カーミルがフリードリヒ2世の人柄を見極めようと手紙を出したのがきっかけです。
 アラビア語を操り、イスラーム文化を理解するフリードリヒ2世への信頼を深めたアル・カーミルは平和条約に合意します。この「ヤッファ協定」によって、イェルサレムにおいてのキリスト教徒とイスラーム教徒の共存が定められ、1229年から10年の期限つきで、イェルサレムキリスト教徒に返還されることになりました。
 協定にはイスラーム側の聖地である「神殿の丘」を侵してはならないという、イスラームに配慮した条項もふくまれています。フリードリヒ2世は血を流すことなく、交渉だけで遠征を成功させたのです。1222年にコンスタンサ妃と死別、イェルサレム王女イザベル2世と再婚していたため、イェルサレム城に入城したフリードリヒ2世は、イェルサレム王位に就きます。
 歴史的な平和条約は、双方の教徒に評価されませんでした。イェルサレムにいた聖ヨハネ騎士団イェルサレム大主教がフリードリヒ2世と敵対したのみならず、ローマ教皇グレゴリウス9世がシチリア王国へ兵を差し向けます。急ぎシチリアに帰国したフリードリヒ2世はローマ教皇軍を撃退します。
 さらに苦難は続きます。アラゴン王女コンスタンサとフリードリヒ2世の間の息子でドイツ王のハインリヒ7世が1234年にローマ教皇ならびにロンバルディア同盟の支援を受けて蜂起しました。特権を得て王の言うことを聞かないドイツ諸侯の横暴と、それを許した父に不満を募らせたことが理由です。しかし、ハインリヒ7世にはドイツ諸侯に味方がいませんでした。フリードリヒ2世に鎮圧されると、護送途中に自害しました。勢いに乗ったフリードリヒ2世は、北イタリア諸都市を攻撃し、1237年のコルテヌオーヴァの戦いでロンバルディア同盟軍を打ち破ります。
 これにより、時の教皇インノケンティウス4世から二度目の破門と皇帝廃位を言いわたされます。それでもフリードリヒ2世は徹底抗戦の構えを示し、戦局はフリードリヒ2世が優勢になりました。ローマ教皇との争いが続く1250年、フリードリヒ2世は死去します。あまりに突然だったため、民衆はその死を信じなかったとされています。
 死後、イェルサレム女王イザベル2世との間の息子、コンラート4世が神聖ローマ帝国を継承しましたが、1254年に病没し、ホーエンシュタウフェン朝は断絶します。以降の約20年間、ドイツ王は選ばれても、イングランドやフランスの介入で神聖ローマ皇帝が実質的にいない「大空位時代」が到来します。
 イタリアを拠点とし、ドイツの領邦国家化を招いたとはいえ、キリスト教が絶対だった時代にあって、フリードリヒ2世の異文化を許容する合理的な思考のもとで、イスラーム教国との和平を実現させることができたのです。

 勿論「時代背景が違う」ので「単純に現在と直線で結べない」とはいえ「フリードリヒ2世のような合理主義(エルサレムが取り戻せるなら戦争の必要は無い)」には俺は魅力を感じますね。
 「話が脱線します」が、だからこそ「経済支援とのバーター取引をしてでも北朝鮮拉致被害者を取り戻せ」「家族会は制裁路線を廃棄しろ」というのが俺の価値観です。
 「制裁が目的ではない」「拉致被害者救出が目的」なら「制裁を辞めてバーター取引したって一向に構わない」でしょう。
 俺の主張「経済支援とのバーター取引をしてでも北朝鮮拉致被害者を取り戻せ」「家族会は制裁路線を廃棄しろ」と同様の主張として

米国のキューバへの対応から、日本の北朝鮮への対応を考えてみる - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
いまだ、強硬策で拉致被害者が北朝鮮から帰国できたと立証する文書・証言を知らない - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
やっぱり金を払わなければ解放されないじゃないか(北朝鮮拉致や北方領土も同じこと) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
そういう例を出すのなら、拉致問題だってやっぱり金(対価)次第じゃないか - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
けっきょく人質の解放なんて金しだいということだ(拉致問題もご同様) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
ほれみろ、米国とイランだって、けっきょく対価じゃねえかよ(こういうことを拒否しまくっているから、9月17日に拉致問題がろくに話題にならないという事態になるのだ) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

を紹介しておきます。


◆1950年代前半の歴史学と大衆文化:国民的歴史学運動における紙芝居の実践を題材に(高田雅士*22
(内容紹介)
 「国民的歴史学運動における紙芝居の実践」について、民科奈良支部の実践(奈良で起こった百姓一揆『龍門騒動』を取り上げた紙芝居*23『土の唄:龍門の又兵衛』)とそれに対する「遠山茂樹*24木下順二の評価」を元に論じていますが小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
【参考:龍門騒動】

龍門騒動は200年前、吉野で起きた百姓一揆/毎日新聞「ディスカバー!奈良」第95回 - tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」
◆龍門騒動
 大和国吉野郡の旗本(前奈良奉行)中坊氏(3500石)の知行所竜門郷(現在の吉野郡吉野町宇陀市の旧大宇陀町にわたる21村のうち15村)に起こった年貢減免強訴の百姓一揆。1818年(文政1)年貢増徴の非をとなえて西谷村細峠の小商人又兵衛らが住民数百人を呼集(14村),平尾村の代官所に押しかけて代官・浜島清兵衛を殺害,さらに大庄屋宅を襲った。浜島は各村庄屋を召して饗応の最中だった。村民の説得を命じたらしい。
 騒動は一夜で終わったが,奈良奉行所与力が出動して村民ら300人余を検挙,奈良に連行,いったん全員を釈放したが,改めて村民約1000名を召喚して取り調べ,首謀者10余名を翌年断罪した。この一揆に関して1から20に至る数え歌が生まれ,苛政や拷問などの惨状を伝えている。ちなみに吉野郡は幕府直領,竜門郷は唯一の私領である。中坊氏の重課や代官の悪政が糾弾されたが,直領の吉野郡はむしろ優遇されていたから,竜門郷では不満がいっそうつのったといえる。


◆科学運動通信「九州鉄道の起点駅・初代門司港駅跡の発掘と保存運動の経過報告」(佐藤浩司
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。「再開発」を重視し、「記録保存はするが遺跡の現地保存はしない(予定通り再開発する)」として保存に後ろ向きな市長や市議会多数派(自民党など)に対し、遺跡の現地保存を求めている運動が展開されており、今後の動向が注目されます。

初代門司港駅の遺構、初出土 明治築の赤レンガ外壁、機関車庫跡か | 毎日新聞2023.10.12
 北九州市門司区のJR門司港駅周辺の埋蔵文化財発掘調査で、1891(明治24)年に建てられた初代門司港駅(当時の名称は門司駅)の関連施設の赤レンガの外壁が出土した。機関車庫跡の可能性が高い。初代門司港駅の遺構が見つかったのは初めてで、専門家は「交通の近代化と建築技術の歴史を知るうえで貴重な鉄道遺構だ」と指摘している。
 調査地は現在の門司港駅南側の約900平方メートル。JR九州の所有地を2022年に市が購入し、門司区役所など九つの公共施設が入居するビルを建設中で、9月から市文化企画課が文化財保護法に基づく発掘調査をしている。

門司港駅、発掘調査 初代駅舎の一部も 現地説明会に200人 参加者「保存・活用を」 /福岡 | 毎日新聞2023.11.20
 北九州市がJR門司港駅そばで進めている埋蔵文化財発掘調査の現地説明会が19日あり、市民ら約200人が参加した。1891年開業の初代門司港駅の機関車庫跡に加え、初代駅舎の一部とみられる石垣の出土などが報告され、参加者からは遺構の保存・活用を求める声も聞かれた。

3/16講演会「初代門司港駅の出現-九州鉄道の原点に迫る-」が開催されます! | 城野遺跡の会(旧 城野遺跡公園を実現する会・城野遺跡の現地保存をすすめる会)2024.2.29
 2023年9月、北九州市が進めている門司区の複合公共施設建設用地で旧門司駅関連の遺構が発掘調査によって発見され、ニュースや新聞で大きく報道されました。
 明治日本の産業発展に大きく貢献した門司港には、港湾のみならず陸路による物流拠点が整備され、その原点が旧門司駅でした。今でも門司港駅には「0哩(マイル)」表示が掲げられ、九州鉄道の始発駅であることを物語っています。門司港駅横の発掘調査では創業当時の駅舎、機関車庫の土木基礎跡が、現在残る駅構内図と全く同じ場所で見つかっており、コンクリート流し込みの技術、イギリスから持ち込まれた赤レンガ積みの技術が明確にわかる壁体も原位置で出土しました。これほど良好な形で鉄道遺構が見つかった例は日本でも数例しかありません。
 旧門司駅関連遺構の発見は、まさに明治日本の石炭産業、鉄鋼業を物流面で支える原点ともいえ、官営八幡製鉄所旧本事務所と同じように、世界遺産のなかの構成資産にも匹敵する価値を有していると考えています。
 極めて重要な遺構だったため、鉄道史学会、都市史学会、産業遺産学会、九州考古学会、日本建築学会、日本イコモス国内委員会、日本考古学協会など多くの研究者団体が北九州市文化庁に現地保存を求める要望書を提出しています。(各団体の要望書は最後に添付しています)
 ところが、2024年1月25日に武内和久市長は、突如、遺構の一部を移築し、予定している複合公共施設建設工事を計画どおりすすめると発表し、この遺構が現地で保存できるかどうか、一刻を争う事態となりました。
 私たち「城野遺跡の会」も、「地域の歴史や文化を大切にするまちづくりに寄与するための活動を行う」という会の目的から、旧門司駅関連遺構の保存活用を求める活動に微力ながら取り組んでいます。

初代門司駅遺構の移築費、補正予算案から削除へ…北九州市議会で動議「複合施設建設と厳密調査を」:地域ニュース : 読売新聞2024.3.7
 北九州市門司区のJR門司港駅付近で出土した初代門司駅(1891年開業)の関連遺構を巡り、移築費2000万円を今年度一般会計補正予算案から減額する修正案の動議が可決される公算が大きくなった。動議では、市が予定している複合公共施設の建設計画について「進めるべきだ」としたものの、未発掘エリアでの適切な調査と厳密な記録保存を求めている。
 動議は(ボーガス注:自民系の会派)ハートフル北九州(11人)が提出しており、8日に開かれる市議会(定数57)の本会議で採決される予定。同会派のほか、自民党無所属の会(16人)、公明(13人)、共産(8人)なども賛成する方針で、可決されるとみられる。
 動議では遺構を巡る市の対応について、〈1〉市民や市議会への説明責任を果たすこと〈2〉発掘調査をしていない重要な箇所で遺構が確認された場合の調査と厳密な記録保存〈3〉速やかに複合公共施設の計画を進めること――が必要だとしている。
 複合公共施設の建設は、老朽化した公共施設の統廃合を進める市の計画のモデル事業に位置づけられ、門司区役所(築93年)や門司図書館(築60年)など9施設の機能を集約する予定だ。
 しかし、昨年の埋蔵文化財の発掘調査で遺構が出土。市は有識者6人の意見を聞き、現地保存を求める意見も受けた。それでも「老朽化した施設に不安を抱く市民の声に応えないといけない」などとして、1月下旬に遺構の一部を移築保存する方針を発表した。
 一方、国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の諮問機関「国際記念物遺跡会議(イコモス)」の国内組織「日本イコモス国内委員会」をはじめとした16団体が、現地保存などを求める要望書を市に提出。要望では「国史跡指定に値する」「移築すれば価値が失われる」などと指摘した。(ボーガス注:現地保存に否定的な)市は現地保存を前提にすれば、設計のやり直しだけで3年の期間と5億円が必要になるとする。
 動議を提出したハートフル北九州の森結実子政調会長は7日、報道陣に「各会派とも話し合い、計画通り施設を建てることを望む区民が多いと聞いた」と述べたうえで、「(遺構の移築に)2000万円をかけるよりは、厳密な発掘調査をして記録として残してほしい」と主張。市に対しては、遺構の価値などについて説明を尽くすよう求めた。
 武内和久市長も報道陣の取材に応じ、「門司のプロジェクトを進め、遺構も移して保存するという思いを込めた予算案だったが、(動議では)移築は必要ないとも見える。本会議での提案理由などを聞いて真意を伺い、判断していきたい」と語った。

旧門司駅遺構 有識者が会見「遺構の全面的な発掘調査を」|NHK 北九州のニュース2024.5.8
 北九州市で見つかった明治時代の旧門司駅のものとみられる遺構について、ユネスコの諮問機関イコモスのメンバーを務める有識者が会見し、遺構の全面的な発掘調査の必要性を強調しました。
 この遺構は、門司区北九州市が建設計画を進めている複合公共施設の予定地で見つかったもので、1891年に開業した旧門司駅の機関車庫の基礎部分などとみられています。
 これまでこの遺構の保存のあり方や複合公共施設の建設をめぐって、市議会でもさまざまな意見が出ていましたが、市は、先月18日に開かれた市議会の建設建築委員会で、発掘調査が行われていないエリアの追加調査を実施することや、遺構が確認された場合には記録保存を行って可能な限り速やかに複合公共施設の事業に着工する方針を示していました。
 こうしたなか、8日、「日本イコモス国内委員会」のメンバーで、九州大学大学院の溝口孝司*25教授と、福島綾子*26准教授が市役所で会見し、遺構の重要性などを訴えました。
 その上で、福島准教授は「複合公共施設の建設予定地のうち、市は(ボーガス注:当初予定通りの建設着工を重視し)一部のみの発掘調査にとどめようとしているが、遺構が全面的に埋まっている可能性がある」として、全面的な発掘調査の必要性を強調しました。
 市は、先月18日の市議会の委員会に示した日程どおり、これまでに追加の発掘調査を行うための試掘作業を10か所で実施しました。
 今後はこの発掘調査の費用を盛り込んだ補正予算案を来月開かれる定例市議会に提出し、予算が認められれば、発掘調査などを進めることにしています。
 溝口教授によりますと、「日本イコモス国内委員会」では旧門司駅関連の遺構について「ヘリテージ・アラート」と呼ばれる「文化的資産が直面している危機に対して保全と継承のために出される声明」を発出したいという意向があり、フランスにあるイコモス本部に発出を求める書類を提出するため、その準備を進めているということです。

「初代門司駅」保存か開発か…学識者「国史跡級の鉄道遺構」、北九州市は複合公共施設を計画:地域ニュース : 読売新聞2024.5.11
 北九州市は「老朽化した各施設を集約し、住民の利便性を高めたい」として、複合公共施設の建設を計画しており、予算やスケジュールを考慮して建設を優先する考えだ。発掘調査の結果を記録した上で工事を始める「記録保存」とする方針で、その場合、遺構は破壊されるケースが大半だ。
 市は当初、一部を移築して残す方針を打ち出していた。しかし、市議会から「移築ではなく適切な調査と記録保存をした上で建設を進めるべきだ」との声が上がり、3月、移築費2000万円を一般会計補正予算案から減額する修正案が可決された。これを受け、市は7月に発掘調査を行い、その後は工事を進める方針だ。
 市によると、日本イコモス国内委員会や日本考古学協会など19団体が、現地保存の要望書や声明文を出している。同委員会の副委員長を務める溝口孝司・九州大教授(考古学)は「欧米を除き、近代の鉄道の大半は、宗主国が植民地に作ったもの。独立国として自前で整備し、独自の工夫をこらしたことを示す鉄道遺構には、世界史的にも重要な価値がある」と強調する。

北九州「初代門司駅」保存巡り対立 都市部の近代遺産、分かれる運命:朝日新聞デジタル2024.5.14
 初代門司駅の遺構が昨年、現在のJR門司港駅のすぐ近くで見つかった。機関車庫や駅舎外郭の石垣などで、保存状態は良好という。市が複合公共施設を建設するために発掘していた。
 初代門司駅の開業は明治24(1891)年。国内の伝統技術と新来の西洋技術が共存する貴重な物証と評価され、他の鉄道遺産とまとめてユネスコ世界遺産をめざしてはどうか、との声もある。
(この記事は有料記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。)

旧門司駅の遺構 北九州市の追加調査で線路跡や枕木見つかる|NHK 北九州のニュース2024.5.16
 北九州市議会の建設建築委員会が16日開かれ、北九州市が追加で実施した旧門司駅関連の遺構の調査などについて報告されました。
 追加の調査では新たに線路の跡や枕木などが見つかったということです。
 去年、北九州市門司区で見つかった遺構は、1891年に開業した旧門司駅の機関車庫の基礎部分などとみられていて、この保存のあり方やこの場所で北九州市が整備する方針の複合公共施設に関してさまざまな意見が出ています。
 16日開かれた市議会の建設建築委員会では、先月から今月にかけて追加調査の一環として市が実施した試掘の結果が報告されました。
 市によりますと、今回の試掘では線路が敷かれていた跡とみられる黒色の砂利や枕木などが見つかったということです。
 市はこれらが見つかった付近の700平方メートル余りの敷地で7月から発掘調査を行い、その結果を記録保存することにしています。
 この調査や記録保存にかかるおよそ3000万円は、今年度の補正予算案に盛り込まれ、来月の定例市議会で審議される見通しです。
 複合公共施設については、先月、市民から早期建設を求める嘆願書が提出されています。
 こうしたなか、市は、今年度中に建設工事に着手したいとしています。
 一方、旧門司駅関連の遺構をめぐっては、15日、住民団体のメンバーが北九州市役所を訪れ、市の担当者に遺構の現地保存を求める1300人余りの署名を提出しました。

初代「門司駅」遺構 保存方法をめぐり議論激しく 調査は一部か全部か 北九州市「億単位に」(FBS福岡放送) - Yahoo!ニュース2024.5.16
 北九州市の初代「門司駅」の遺構を巡り、市と議会の議論が再び激しくなっています。適切な調査を求める議会に対して市は16日、調査の内容を示しましたが、一部の議員から反発の声が上がりました。
◆ハートフル北九州・森結実子市議
「大変低レベルな試掘であるとしか言いようがありません。本当に有識者入れてきちんと調査をしてください。」
 門司区の複合公共施設の建設予定地で、去年3月に発掘された遺構。明治時代に開業した初代「門司駅」の機関車庫の基礎部分などが出土したとみられています。議論が繰り広げられているのは、その保存方法を巡ってです。
 北九州市が最初に示したのは、遺構の一部を移築し別の場所に保存する方針です。
 それに対して一部の議員が反発し、3月の議会で移築はせずに適切な調査をし、記録によって保存する案が可決されました。
 なぜ、保存方法を巡ってここまで意見が分かれているのでしょうか。
 専門家や市民団体などは歴史的な価値が高いとして現地での全面保存を求めています。その価値を見極めるためにも建設予定地全体で調査を実施する必要があると主張し、一部の市議や専門家は調査が不十分だとして反発しているのです。
九州大学・福島准教授
「試掘はこの辺でもやったわけです、去年。遺構がないと市は判断した。専門家から言わせればあるんです。とにかくこの黄色のラインの中は全部、本発掘調査をしないといけない。」
 ことし3月の議会でさらに調査することが決まったことを受け16日、北九州市は調査の範囲を示しました。
 その範囲は770平方メートルで、予算はおよそ3000万円です。これまでの発掘調査を含めても全体の2割程度の広さで、市議からは異論が相次ぎました。
◆ハートフル北九州・森結実子市議
「私たちの動議はきちんとした調査、そして記録保存を求めています。 こんないい加減なことをして、おまけにお金を使ってやっているのは遺憾でしかないです。この発掘調査で終わりにするというのは、相当な問題が残されていると思っています。その覚悟はできていますか。」
◆共産・永井佑市議
有識者の見解と市の見解がずれているのが現状ですが、そこがずれたまま押し通していいものなんですか。」
◆市の担当者
「仮にこのエリアまで全部調査をやるとなった時には、おそらく億単位の負担です。どこかで線を引かないといけない。」
 ユネスコの諮問機関である日本イコモスの専門家は、文化遺産が危機に陥っている場合に出される「ヘリテージ・アラート」を出すようにイコモス本部に求める準備を進めていることを明らかにしました。
 北九州市は追加の発掘調査を行うための費用について、6月の議会で予算案を提出する方針です。

 共産が「自民、公明と共に」動議に賛成というのが「俺的に気になるところ」ですね。鉄道史学会、都市史学会、産業遺産学会、九州考古学会、日本建築学会、日本イコモス国内委員会、日本考古学協会など多くの研究者団体が北九州市文化庁に現地保存を求める要望書を提出したことを無視して、移築(市長の当初の態度)もせず「現地保存否定(記録保存のみ実施)」で「予定通り再開発」が「北九州の共産」の立場なのか?。
 少なくともハートフル北九州の森結実子政調会長の立場は「記録保存のみ実施」の立場でしょうし、移築予算否決を受けて、「記録保存のみ実施(現地保存も移築もせず)」に市が方針変更したことは「初代門司駅」保存か開発か…学識者「国史跡級の鉄道遺構」、北九州市は複合公共施設を計画:地域ニュース : 読売新聞(2024.5.11)も報じてるところです。
 現地保存の見込みが乏しい状況で「移築反対動議」に賛成した以上「記録保存のみ実施」になったことについては「共産も加担者」ではあります。
 果たしてそれでいいのか?(共産支持者として、共産に無茶苦茶な悪口雑言をすることは控えておきます)
 ということで、支持者とはいえ「消去法での支持」「党外のソフトな支持」ということもあって、俺も「いつも共産万歳」ではないことは改めて書いておきます(kojitakenなどは俺を「共産盲従」呼ばわりしますが)。
 なお、今回の動議賛成の是非はともかく、共産も「いつも自民、公明が出す法案や議案に反対している」わけではなくあくまでも「是々非々」です。


◆女性史研究者・折井美耶子さん*27追想(石崎昇子*28
(内容紹介)
 2023年11月に逝去された折井氏(1935年生まれ)に対する追悼文ですが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。

*1:東北大学教授。著書『フランス近代社会1814~1852』(1995年、木鐸社)、『歴史学アポリア:ヨーロッパ近代社会史再読』(2002年、山川出版社)、『歴史学ってなんだ?』(2004年、PHP新書)、『フランス7つの謎』(2005年、文春新書)、『日本の個人主義』(2006年、ちくま新書)、『世界史の教室から』(2007年、山川出版社)、『19世紀フランス社会政治史』(2013年、山川出版社)、『フランス現代史』(2018年、岩波新書)、『歴史学のトリセツ』(2022年、ちくまプリマ―新書)等。『冤罪はこうして作られる』(1993年、講談社現代新書)、『裁判員制度を批判する』(2008年、花伝社)、『誤判救済の課題と再審の理論』(2008年、日本評論社)等の著書がある小田中聰樹・東北大学名誉教授(1935~2023年)(刑訴法)は父

*2:著書『世界史の流れ』(ちくま学芸文庫)等

*3:1930~2019年。著書『史的システムとしての資本主義』(岩波文庫)等

*4:小田中論文はその例として『1950年代日本の国民的歴史学運動』をあげている。

*5:1935~2003年。著書『文化と抵抗』(ちくま学芸文庫)、『知識人とは何か』(平凡社ライブラリー)等

*6:「非研究者と研究者の意見交流」のこと

*7:東大教授。著書『修験がつくる民俗史:鮭をめぐる儀礼と信仰』(2000年、吉川弘文館)、『川は誰のものか:人と環境の民俗学』(2006年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『「新しい野の学問」の時代へ』(2013年、岩波書店)、『鷹将軍と鶴の味噌汁:江戸の鳥の美食学』(2021年、講談社選書メチエ)等

*8:ニルソンデザイン事務所代表。書籍の装丁や雑誌のデザインを主たる業務としながら、雑誌『縄文ZINE』を2015年から発行し編集長をつとめる。著書『縄文人に相談だ』(2018年、国書刊行会→2020年、角川文庫)、『縄文力で生き残れ』(2018年、創元社

*9:立命館大教授

*10:京都大学名誉教授

*11:京都の中心街

*12:著書『路面電車ルネッサンス』(2003年、新潮新書)、『鉄道復権』(2012年、新潮選書)、『地域再生の戦略』(2015年、ちくま新書) 等

*13:小生も無知なのでこの件は今回初めて知りました。

*14:勿論「天皇制の打倒」など「非現実的な戦争回避」を考えても無意味ですが日中戦争、太平洋戦争において「トラウトマン和平工作の成功」「ハルノートの受諾」等「ある程度現実性のある戦争回避の道」を考えることには意味があるでしょう。そうでないと「戦争不可避論」は「戦争正当化」、あるいは逆に「当時の日本人はバカだったという救いのない結論」にしかなりません。

*15:著書『中世地中海世界シチリア王国』(1993年、東京大学出版会)、『中世シチリア王国』(1999年、講談社現代新書)、『ヨーロッパとイスラーム世界』(2007年、山川出版社世界史リブレット)、『中世シチリア王国の研究』(2015年、東京大学出版会)等

*16:フリードリヒ2世はドイツ語読みであり、イタリア語読みだとフェデリーコ2世(フリードリヒ2世(フェデリーコ2世)は神聖ローマ皇帝であるとともにシチリア国王でもあった)

*17:1927~2008年。著書『文明の衝突』(集英社文庫)等

*18:著書『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』、『十字軍物語』(新潮文庫)等

*19:1895~1963年。著書『王の二つの身体:中世政治神学研究』 (ちくま学芸文庫)等

*20:2011年、中央公論新社

*21:東大名誉教授。著書『ポンペイ・グラフィティ:落書きに刻むローマ人の素顔』(1996年、中公新書→後に『古代ポンペイの日常生活』と改題し、2022年、祥伝社新書)、『ローマ人の愛と性』(1999年、講談社現代新書→後に『愛欲のローマ史』と改題し、2014年、講談社学術文庫)、『多神教一神教:古代地中海世界の宗教ドラマ』(2005年、岩波新書)、『古代ローマとの対話』(2012年、岩波現代文庫)、『ローマ人に学ぶ』(2012年、集英社新書)、『はじめて読む人のローマ史1200年』(2014年、祥伝社新書)、『ローマ帝国人物列伝』(2016年、祥伝社新書)、『剣闘士:血と汗のローマ社会史』(2021年、中公文庫)等

*22:駒澤大学専任講師。著書『戦後日本の文化運動と歴史叙述:地域のなかの国民的歴史学運動』(2022年、小さ子社)

*23:ゲゲゲの鬼太郎」で知られる水木しげるが初期は紙芝居作家だったことが有名ですが、国民的歴史学運動のあった1950年代はまだ紙芝居は人気のある娯楽でした。しかし紙芝居が廃れることで水木は漫画家に転身します(当初は貸本漫画家だが貸本漫画が廃れると、雑誌連載の漫画家に転身)。

*24:1914~2011年。横浜国立大学名誉教授。著書『明治維新』(岩波現代文庫)等

*25:著書『社会考古学講義』(2022年、同成社

*26:著書『香港の都市再開発と保全』(2009年、九州大学出版会)、『香港カトリック教会堂の建設』(2019年、九州大学出版会)

*27:著書『地域女性史入門』(2001年、ドメス出版)、『近現代の女性史を考える:戦争・家族・売買春』(2015年、ドメス出版)、『地域女性史への道』(2021年、ドメス出版)等

*28:著書『近現代日本の家族形成と出生児数』(2015年、明石書店