はてなブログでは未来日付の記事は「原則としては」書かないことにします、他(追記あり)

【最初に追記(2019年2/15記載)】
bogus-simotukareのブログということでココログにもブログを作ったので紹介しておきます。
ただ「今のところはてなの方が書きやすい(ココログだと脚注のつけ方がよく分からない、エンターキーで改行すればはてなだとそのまま改行になるが、ココログだとそうならない)」ということではてなの方で書くことが多いかと思います。
【追記終わり】
【2022年2月6日追記】
北朝鮮拉致問題で「大きな動きのあった年」に「何があったか」を振り返る - bogus-simotukareのブログとして未来日付の記事を書きましたが、「拉致が一定の解決を見た日(あるいは家族会が、蓮池透氏と和解し、救う会と絶縁し正常化した日)」には削除の予定です。
 https://bogus-simotukare.hatenadiary.jp/entry/2022/01/22/151801については「いったん書いた」ものの、「残しておくほどの記事でもないかな」と考えが変わったので削除することにします。
【追記終わり】
【2023年6月9日追記】
 「紙屋研究所」名義で俺に悪口雑言するコメントがつきましたが
1)「ブログでしか物が言えない内弁慶は黙れ」云々と「内容が無内容」
2)本物の紙屋がすこぶる怪しい(掲載してることが紙屋への風評被害になりかねない)
と思い削除しました。
【追記終わり】
 bogus-simotukareのブログでは未来日付の記事も書いていたのですが、はてなブログだと未来日付記事がたくさんあると、新規記事を書いてもそれが目立たず非常に見づらい気がするので、基本的には未来日付記事は書かないことにしたいと思っています。なお、この文章は2019年1月28日に書いています(これは、目立つところに置いた方がいい「お断りの文章」なので未来日付の記事ですが。なお、俺が勘違いしてるのかもしれませんが「あまり遠くの未来日付」だといろいろと作業が厄介な様なので「2019年1月28日の約1年後」にしています。しかし、当然ながら、冒頭にいつも表示される様に適宜、日付の設定は変更する予定です)。
 http://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/25000101/1256334886:title(残念ながらはてなダイアリーが消滅したのでリンク切れ。sorarisu0088氏への謝罪文)ですが、id:Bill_McCrearyさんのご教示(2019年8/18)によれば結局はてなダイアリーは2019年7月末日でなくなったそうです(事前に連絡がなかったか、連絡があったが小生が見落としていたのでしょう。それにしても全削除の決定が随分早かったなと言う気はします。もちろん停止したサービスをそのようにすることは予想できたことではありますが)。
 id:Bill_McCrearyさんご教示ありがとうございます。
 以前、

1)はてな社の方針では当面、はてなダイアリー記事は「更新やコメントはできないが」記事自体は残る
(もちろん、最終的にははてな社が「やはり削除」という方針にする可能性もゼロではないでしょうが将来的な問題はひとまずおきます。その場合、さすがにはてな社は事前広報くらいするでしょう。その場合はこちらに謝罪文を移そうとは思います)
2)はてなブログにまで過去の恥をさらしたくない(まあ俺個人のくだらない感情論ですが)
つうことで、まあこの記事での「謝罪相手」である御仁が「どうしてもブログにまで謝罪文そのものを残せ」と言ってくるならまた話も別ですが、「ここにお断りの文章を載せること」で「謝罪文そのもの」はここにはひとまず載せないことにします。

としたので「弱ったな」というのが正直な感想です。本当に「過去のはてなダイアリー」がきれいすっかりなくなっている上に、小生はこの謝罪文を別に「ワード文書など他の文書」の形で保存していません。なので謝罪文を正確に復元しようがない。
 無理に思いつきででっちあげてもかえって問題でしょう。つうことでsorarisu0088氏から「こういう文面で乗せろ」つう要望がない限り、とりあえずこのままにしておこうかと思います(こちらから彼に問い合わせるのは挑発行為と認識される危険性がある気がするのでそれはしません。彼が小生に対して何のアプローチもしなければ、今の彼にとって小生が「どうでもいい存在である」ということなのでしょうから)。「sorarisu0088氏と小生が過去にトラブって、小生が非を認め謝罪文を掲載した」ということだけはここに指摘しておくので、それでご容赦、ご勘弁願いたいと言うのが正直な感想です。

【2019年1月29日追記】
 早速、移行後、コメント設定を修正。
 コメントは通常設定だと「はてなユーザー」という設定ではてなユーザーしかコメントできないようですね(コメントするときははてなのID、パスワードでログインする)。
 当然(?)ながら「俺にとってはてなユーザーにコメント者を限定する理由がない」、というか従来コメント頂いていた方々はおそらく「ほとんどがはてなユーザーじゃない」ので「ゲスト(誰でもコメント可能)」に変更します。しかし通常設定は「ゲスト」であるべきじゃないんですかね。
 俺みたいなうっかりは「はてなユーザー設定」に気づかず、「何で移行前にコメントしてくれた方たちがコメントしてくれないんだろうな」と悲しむという皮肉なことになりかねません。いや「はてなユーザーを増やしたい」という企業の立場からは、一理ある「通常設定」でしょうけどね。
 「はてなブログーユーザーの利便性をなんだと思ってるんだ!」つう反発は感じます。

北朝鮮拉致問題で「大きな動きのあった年」に「何があったか」を振り返る

 拉致限定であり、「金丸訪朝(1990年)」「南北朝鮮国連ダブル加盟(1991年)」「カーター訪朝による米朝合意(1994年)」「金大中金正日首脳会談(2000年)」「トランプ・金正恩首脳会談(2018年)」など『拉致と直接関係ない』北朝鮮ニュースは取り上げません(北朝鮮による日本人拉致問題 - Wikipedia参照)。赤字が朝鮮半島関係です。

【1977年:横田めぐみ拉致など拉致事件の発生(福田赳夫内閣:外相は日中平和友好条約(1978年)を締結した園田直氏(大平、鈴木内閣でも外相)など)】
1977年 - Wikipedia1977年の日本 - Wikipedia
◆1月20日
 カーター大統領就任。
◆1月27日
 ロッキード事件丸紅ルート初公判。31日全日空ルート初公判。
◆6月13日
 全米女子プロゴルフ選手権で樋口久子が優勝、日本人初の世界タイトルを獲得。
◆7月13日
 津地鎮祭訴訟の最高裁判所大法廷判決
◆7月17日
 キャンディーズ日比谷野外音楽堂で行われたコンサートで「普通の女の子に戻りたい」と解散することを宣言
◆8月12日
 文化大革命終結宣言
→なお、毛沢東の死去は1976年9月9日。四人組の逮捕は1976年10月6日。文革で失脚していた鄧小平の復活(党副主席、副首相、人民解放軍総参謀長への就任)は1977年7月。
◆9月3日
 巨人の王貞治選手が対ヤクルト戦でホームラン世界新記録の756号を達成
◆9月5日
 国民栄誉賞が創設される。王貞治が第1回目の受賞者
◆9月28日
 ダッカ日航機ハイジャック事件が発生。
◆10月1日
 経営難に陥っていた安宅産業を伊藤忠商事が吸収合併
◆10月15日
 長崎バスジャック事件で犯人1名を射殺、人質は全員無事
◆11月19日
 エジプトのサダト大統領がイスラエルを訪問(アラブ諸国の元首として初のイスラエル訪問)。
◆11月22日
 プロ野球ドラフト会議でクラウンライターライオンズが法政大学の江川卓を指名するも、江川本人が12月3日に拒否(江川事件の始まり)
◆12月3日
 横浜市飛鳥田一雄市長が日本社会党委員長就任を受諾。
◆12月25日
 喜劇王チャールズ・チャップリン死去(享年88歳)

【1988年:橋本敦質問及びそれに対する梶山国家公安委員長、宇野外相答弁(政府が初めて公式に北朝鮮拉致疑惑を認める)(竹下内閣:外相は宇野宗佑氏(後に首相))】
1988年 - Wikipedia1988年の日本 - Wikipedia
◆2月6日
 衆議院予算委員会浜田幸一予算委員長が日本共産党宮本顕治議長について「殺人者」と不規則発言。委員長辞任(2月12日)に追い込まれる
◆2月25日
 韓国の盧泰愚大統領が就任

◆3月24日
 中国で起きた上海列車事故で、修学旅行中の高知学芸高校の生徒と教師計28名が死亡。
→橋本敦質問ではこの件についても「日本政府の適切な対応」を求める質問がされたと記憶しています。
◆3月26日
 参議院予算委員会日本共産党の橋本敦が拉致疑惑について質問。これに対し竹下内閣国家公安委員長梶山静六北朝鮮による拉致の疑いが濃厚との見方を示し、真相究明のために全力を尽くす考えであることを表明した。これは北朝鮮による日本人拉致疑惑を政府が認めた初めての公式答弁である
北朝鮮による日本人拉致問題 - Wikipedia参照)
◆4月14日
 ソ連アフガニスタンからの撤退に関して合意(ジュネーヴ合意)。翌年2月15日迄に撤退を完了。
◆6月18日
 朝日新聞リクルートによる川崎市助役への未公開株譲渡を報道し、リクルート事件発覚
◆7月3日
 イラン航空655便撃墜事件。イラン航空655便がアメリカ海軍のイージス艦「ヴィンセンス」に撃墜され、乗員乗客290名全員が死亡。
◆7月23日
 なだしお事件。遊漁船「第一富士丸」と海上自衛隊の潜水艦「なだしお」が衝突、死者30名。8月25日には瓦力防衛庁長官(竹下内閣)が引責辞任
◆8月8日
 ビルマで、8888民主化運動が発生。
◆8月20日
 イラン・イラク戦争停戦が正式に成立。
◆9月17日
 ソウル五輪開幕(10月2日まで)

→前年(1987年)の「北朝鮮による大韓機爆破」はソウル五輪に対する妨害工作であったというのが通説的見解でしょう。
◆9月18日
 ビルマでソウ・マウン国軍総参謀長がクーデターにより全権掌握。国家法秩序回復評議会を設立。
◆11月8日
 米国大統領選挙でジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュが当選。
◆12月2日
 パキスタンベナジル・ブットが首相に就任。イスラム国家では初の女性首相となる。
◆12月9日
 宮澤喜一蔵相(竹下内閣)がリクルート疑惑で辞任
◆12月21日
 リビアによるパンアメリカン航空103便爆破事件。

【1997年:安明進証言(横田めぐみ拉致)とそれを契機とした家族会結成(橋本内閣:外相は小渕恵三氏など(後に首相))】
1997年 - Wikipedia1997年の日本 - Wikipedia
◆1月2日
 ナホトカ号重油流出事故
◆2月3日
 この日発売の産経新聞と週刊誌アエラ朝日新聞社)が「安明進証言(横田めぐみ拉致)」を報道
◆2月8日
 この日放送のテレビ朝日ザ・スクープ」が「安明進証言(横田めぐみ拉致)」を報道

(2月3日、8日の件についてはけっきょく「横田めぐみ拉致問題における安明進証言」などというものにのっかったのが、高世仁が会社をこかした淵源(の少なくとも1つ)ではないか - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)参照)
◆3月25日
 「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(家族会)」結成
北朝鮮による拉致被害者家族連絡会 - Wikipedia参照)
◆4月1日
 消費税増税実施(3%から5%に)
◆4月2日
 最高裁愛媛県靖国神社玉串料訴訟で違憲判決
◆4月22日
 ペルー日本大使館公邸に特殊部隊突入、人質全員解放(ペルー日本大使公邸占拠事件)。
◆5月1日
 イギリス総選挙で労働党が勝利。翌日、党首のトニー・ブレアが首相に就任、労働党は18年ぶりの政権奪還を果たした
◆7月1日
 香港返還
◆8月1日
 連続射殺事件の死刑囚で小説家として活動していた永山則夫の死刑が執行される。
◆9月11日
 第2次橋本改造内閣発足。ロッキード事件で有罪が確定した佐藤孝行総務庁長官で初入閣したが、世論の批判で9月22日に辞任。
◆9月18日
 ヤオハンが倒産、会社更生法を申請
◆10月8日
 金正日朝鮮労働党総書記に就任。

◆11月16日
 サッカー日本代表が延長戦の末3-2でイランを下し、ワールドカップ(フランス大会)初出場を決める。(ジョホールバルの歓喜
◆11月17日
 北海道拓殖銀行が経営破綻
◆11月22日
 山一證券が経営破綻
◆12月1日
 地球温暖化防止京都会議開幕。11日、京都議定書が採択される。
◆12月19日
 韓国大統領選挙で、金大中が当選

◆12月20日
 伊丹十三(俳優、映画監督)が自殺。

【2002年:小泉訪朝(第一次)&八尾恵『謝罪します』刊行(有本恵子拉致への関与を認める)(小泉内閣:外相は川口順子氏(小泉訪朝(第一次)当時))】
2002年 - Wikipedia2002年の日本 - Wikipedia
◆1月23日
 雪印牛肉偽装事件発覚。8月6日には日本ハムも発覚。
◆1月29日
 ブッシュ大統領が、一般教書演説で北朝鮮、イラン、イラクを非難する「悪の枢軸」発言

◆2月8日〜24日
 ソルトレイクシティ五輪
◆3月18日
 自民党鈴木宗男衆院議員が「ムネオハウス疑惑」などで離党
◆3月28日
 社民党辻元清美衆院議員が、秘書給与流用問題で議員辞職
◆4月2日
 鈴木宗男事件への関与から、東郷和彦オランダ大使を罷免
◆4月9日
 加藤紘一自民党幹事長が元事務所代表の脱税疑惑や自身の政治資金流用問題の責任を取り、議員辞職
◆5月3日
 朝日新聞阪神支局襲撃事件(1987年)の時効成立(当時、殺人の時効は15年、現在は時効が撤廃された)
◆5月5日
 フランス大統領選挙決選投票で現職のジャック・シラクが再選
◆5月8日
 北朝鮮からの亡命者が中国瀋陽にある日本の総領事館へ駆け込む事件が発生

◆5月20日
 東ティモールが独立。21世紀初の独立国。9月27日には国連加盟
◆5月28日
 経済団体連合会経団連)と日本経営者団体連盟(日経連)が統合、日本経済団体連合会日本経団連)が発足
◆5月31日〜6月30日
 2002 FIFAワールドカップ(日本・韓国の共同開催)

◆6月19日
 鈴木宗男衆院議員を収賄容疑で逮捕
◆8月9日
 田中眞紀子前外相が公設秘書給与流出疑惑の責任を取り、議員辞職
◆8月26日
 南アフリカヨハネスブルク持続可能な開発に関する世界首脳会議地球サミット2002)が開幕。
◆8月30日
 小泉首相が9月17日に、北朝鮮を訪問することを表明
◆9月2日
 日本海中部海域不審船事件。
◆9月17日
 小泉首相が訪朝。日朝首脳会談金正日国防委員長(朝鮮労働党総書記)が日本人拉致問題を公式に認めた。

◆10月8日
 小柴昌俊東京大学名誉教授にノーベル物理学賞が決定。翌日には田中耕一島津製作所社員にノーベル化学賞の受賞が決定
◆10月12日
 インドネシアのバリ島で爆弾テロ事件が起こり、202人が死亡
◆10月15日
 北朝鮮に拉致された日本人5人が帰国。

◆10月23日
 モスクワで劇場が占拠される事件が起こり、特殊部隊の強行突入で一般人129人が死亡。
◆10月25日
 石井紘基衆院議員刺殺事件
◆11月14日
 アルゼンチン政府が世界銀行向け債務の不履行(デフォルト)を発表した。
◆12月19日
 韓国大統領に盧武鉉が当選

【2004年:小泉訪朝(第二次)(小泉内閣:外相は川口順子氏(小泉訪朝(第二次)当時)など)】
2004年 - Wikipedia2004年の日本 - Wikipedia
◆1月19日
 自衛隊イラク派兵(初めての陸上自衛隊の戦闘地域への派兵)
◆2月12日
 秘書給与の流用による詐欺罪に問われていた辻元清美衆議院議員に対し、東京地裁が懲役2年、執行猶予5年の判決。検察、被告とも控訴せず、判決が確定
◆4月7日
 イラク日本人人質事件発生
◆5月7日
 年金未納問題で、福田康夫官房長官が辞任
◆5月22日
 小泉首相北朝鮮を再訪問。日朝首脳会談が行われ、拉致被害者・蓮池夫妻、地村夫妻の家族5人が帰国。

◆5月27日
 イラクで取材中の日本人フリージャーナリスト2名が乗った車が銃撃され、殺害される。
◆7月1日
 中国の「高句麗前期の都城と古墳」、北朝鮮の「高句麗古墳群」、日本の「紀伊山地の霊場と参詣道」などがユネスコ世界遺産に登録
◆7月9日
 インドネシアジャカルタ拉致被害者曽我ひとみが夫であるジェンキンスら家族と再会。18日には家族が日本に帰国(北朝鮮による日本人拉致問題 - Wikipedia参照)
◆7月21日
 小泉首相と韓国の盧武鉉大統領が済州島で会談。

◆7月30日
 扇千景が女性初の参議院議長に就任
◆8月13日
 アテネ五輪開幕(29日まで)。
◆8月13日
 沖縄国際大米軍ヘリ墜落事件。
◆9月14日
 2001年に発生した大阪教育大学附属池田小学校襲撃事件(8名殺害)で死刑が確定していた加害者の死刑が執行される
◆10月23日
 新潟県中越地震。死者68名
◆11月11日
 パレスチナ自治政府アラファト大統領死去。
◆12月17日
 小泉首相、鹿児島県指宿市盧武鉉韓国大統領と会談

【2014年:いわゆるストックホルム合意&横田夫妻と孫・ウンギョンさんの面会(第二次、第三次安倍内閣:外相は岸田文雄氏(現首相)、拉致担当相は古屋圭司山谷えり子国家公安委員長の兼務))】
2014年 - Wikipedia2014年の日本 - Wikipedia
◆1月13日
 アントニオ猪木参議院議員、2013年11月以来となる北朝鮮訪問

◆1月19日
 沖縄県名護市長選挙で、名護市辺野古地区への普天間基地からの米軍移転反対派で現職の稲嶺進が再選
◆1月28日
 下村博文文部科学大臣、中学校と高校の学習指導要領解説書を改定、中学校の社会科、高校の地理歴史と公民に、尖閣諸島竹島を「固有の領土」と明記したことを正式に発表。1月29日には韓国では慶尚北道が管轄する竹島に、金寛容・慶尚北道知事が上陸。前日に発表された学習指導要領解説書記載内容に抗議する声明を発表

 理化学研究所が「STAP細胞」の作成に成功したと発表(しかし、後に小保方研究員による捏造の疑いが発覚、発表が撤回される)
◆2月1日
 小学館の学年別学習雑誌に1978年から掲載されていた漫画『あさりちゃん』(室山まゆみ作)がこの日発売の小学二年生3月号を以って35年に及ぶ連載を終了
◆2月5日
 桐朋学園大学非常勤講師の新垣隆が、自らが作曲家・佐村河内守ゴーストライターを18年間務めていたことを発表したことを受け、予定されていた佐村河内の全国ツアーが中止となり、レコード会社の日本コロムビアがCDの出荷やインターネット配信を停止するなどの影響。
 ビッグコミックオリジナル小学館)に1973年から掲載されてきた野球漫画『あぶさん』(水島新司作)が41年間に及ぶ連載を終了
◆2月7日~23日
 ソチ五輪
◆2月9日
 東京都知事選挙で、自民党公明党の支持を受けた元厚生労働大臣舛添要一が初当選
◆2月17日
 北朝鮮の人権状況を調査した国連調査委員会が日本人拉致や公開処刑など残虐な人権侵害行為を挙げ、北朝鮮が国家として組織的に「人道に対する罪を犯した」と非難する最終報告書を公表。国連安全保障理事会に対し、国際刑事裁判所に付託するよう勧告

◆2月22日
 デモ隊が大統領府を封鎖、ヤヌコーヴィチ・ウクライナ大統領がロシアへの亡命に追い込まれる。議会は亡命したヤヌコーヴィチを正式に大統領から解任し、5月25日の大統領選挙開催を決定。2月24日、多数の市民を殺害した容疑で、ヤヌコーヴィチと側近を指名手配(2014年ウクライナ騒乱)。
◆2月24日
 外務省が『日本海が19世紀初頭から国際的に確立された唯一の呼称であり、近年になって日本海の単独呼称に異議を唱え「東海(トンへ)」併記を求める韓国の主張は根拠がない』とする主張を同省ウェブサイトにて開始

◆3月1日
 中国雲南省昆明市の昆明駅前で無差別殺傷事件発生、少なくとも29人が死亡。中国公安部は新疆ウイグル自治区の独立を狙う組織による計画的なテロ事件と断定、現場で容疑者の男女4人を射殺、女1人を逮捕
◆3月2日
 沖縄県石垣市長選挙で、陸上自衛隊石垣島配備に柔軟姿勢を取る現職の中山義隆が、配備反対派で元市長の大濵長照を破り再選
◆3月10~14日
 モンゴルのウランバートル横田夫妻が孫であるウンギョンさん(拉致被害者横田めぐみの娘)と面会
◆3月16日
 北朝鮮により日本海側に10発のロケット砲が発射

◆3月18日
 ロシアのプーチン大統領が、ウクライナからの独立を宣言したクリミア自治共和国のロシアへの編入を表明
 中国と台湾の間に結ばれたサービス貿易協定に反対する学生が台湾立法院(国会)を占拠。4月10日に退去(ひまわり学生運動)。
◆3月26日
 北朝鮮、中距離弾道ミサイル「ノドン」2発を日本海に向け発射

◆3月27日
 静岡地裁袴田事件の犯人として48年前に逮捕され、34年前に死刑判決が確定し拘置されている袴田死刑囚について、「重要な証拠が捜査機関に捏造された疑いがある」として、再審開始を認め、同時に「拘置を続けることは耐え難いほど正義に反する」との理由で刑と拘置の執行停止も決定、即日釈放。
◆3月31日
 国際司法裁判所、オーストラリアが日本の南氷洋における調査捕鯨国際捕鯨取締条約違反として訴えた裁判で日本の調査捕鯨は「研究目的ではない」と述べ、条約違反と認定、今後実施しないよう命じる判決を下す
 フジテレビ『森田一義アワー 笑っていいとも!』が放送終了。1982年の放送開始から31年半の歴史に幕を下ろす。
◆4月1日
 消費税が5%から8%に増税
 武器輸出三原則に代わる新たな政府方針として防衛装備移転三原則を制定
◆4月7日
 渡辺喜美みんなの党代表、化粧品会社DHCからの8億円借入金問題を受け、党代表を辞任
◆4月16日
 クルーズ旅客船セウォル号」が沈没、死者299人

◆5月22日
 タイ軍がクーデターを宣言。憲法を停止。
◆5月29日
 北朝鮮当局による拉致被害者再調査がストックホルムでの日朝協議により合意
北朝鮮による日本人拉致問題 - Wikipedia参照)
◆5月30日
 内閣官房内閣人事局を設置。初代局長には内閣官房副長官加藤勝信を任命
◆6月12日〜7月13日
 2014 FIFAワールドカップ ブラジル大会
◆6月16日
 石原環境相東京電力福島第一原子力発電所事故に伴う除染廃棄物を保管する国の中間貯蔵施設建設をめぐり難航している福島県側との交渉について「最後は金目でしょ」と述べ、最終的に交付金など金銭で解決するとの見方を示したことに対し、佐藤雄平福島県知事らが批判。19日に発言を撤回し謝罪
◆6月21日
 富岡製糸場世界文化遺産登録決定
◆6月26日
 終戦前後に現在の北朝鮮地域で死亡した日本人の遺族9人が墓参のため北京経由で北朝鮮に到着、7月5日迄滞在
◆7月1日
 北京で日朝局長級協議

 臨時閣議において、集団的自衛権の行使を条件付きで認める憲法解釈の変更を閣議決定
◆7月3日
 習近平・中国国家主席国賓として韓国を初訪問。朴槿恵大統領とソウルの大統領府で会談。共同声明で、北朝鮮による「朝鮮半島での核兵器開発に断固として反対する」と明記。従軍慰安婦問題について、関係機関による共同研究を進める旨、声明付属文書に記載
◆7月10日
 1日に北京で開かれた日朝政府間協議の際、北朝鮮が複数の拉致被害者を含む約30人の日本人生存者リストを提示したと日本経済新聞が同日付朝刊で報じたことについて、菅官房長官が記者会見で否定
◆7月11日
  日本大使館自衛隊創設記念行事の開催会場として予定していたソウルのロッテホテルが、前日の10日夜に「国民感情に触れる」などとして取消を通知したことに対しホテルに抗議。菅官房長官、岸田外相が遺憾の意を表明。レセプションについては日本大使公邸に会場を変更し予定通り開催

◆8月1日
  前日に解党した日本維新の会の「石原グループ」が「次世代の党」、「橋下グループ」が「日本維新の会」をそれぞれ結党
◆9月18日
 スコットランドでイギリスからの独立を問う住民投票を実施。結果は「否決」。
◆9月28日〜12月15日
 香港で雨傘革命(2014年香港反政府デモ)が起きる。最終的に警察の強制排除で終了
◆10月7日
 ノーベル物理学賞受賞者に赤崎勇・天野浩・中村修二の3人が決定
◆10月20日
 公選法違反疑惑で小渕経産相、松島法相が辞任
◆10月24日
 アジアインフラ投資銀行(AIIB)設立の覚書が中国で21カ国代表により結ばれる。
◆11月16日
 沖縄県知事選挙で翁長雄志が現職の仲井眞弘多を破り当選
◆11月19日
 みんなの党が解党決定
◆11月27日
 ユネスコ無形文化遺産に「和紙」が登録
◆12月15日
 海江田万里民主党代表が衆院選(12月14日投開票)での「民主党の不振(63→73と10議席の増加にとどまった)」「海江田自身の落選」を理由に代表辞任を表明
◆12月17日
 アメリカ大統領バラク・オバマキューバ国家評議会議長ラウル・カストロが両国の国交正常化交渉の開始を発表

新刊紹介:「歴史評論」2024年9月号(その1)(副題:映画『八甲田山』ほか)

特集『慰霊と顕彰から考える日本の近現代』
丸山泰明*1
【丸山論文を読んだ後で、書き換える予定】
 (現時点では丸山論文を未読ですが)『凍える帝国八甲田山雪中行軍遭難事件の民俗誌』(2010年、青弓社)と言う著書がある丸山氏は恐らく「八甲田雪中行軍遭難事件 - Wikipedia」を取り上げるのでしょう。
 「中高年」だとこの事件は映画『八甲田山*2』(47年前の1977年に公開)で知ってる(俺も映画で知ってる一人)でしょうが、最近の若者は知らないのでしょうね。

【参考:八甲田山遭難&映画『八甲田山』】

199人死亡 日本の山岳史上最大の惨事 八甲田雪中行軍 何が生死を分けたのか | TBS NEWS DIG (1ページ)2022年4月12日
 1902年、旧陸軍の兵士199人が冬の八甲田で訓練中に命を落とした八甲田雪中行軍。
 日本の山岳史上、最大の惨事について生還者が残した貴重な音声から検証します。
※音声(小原忠三郎伍長)
『(3日目に)ますます吹雪が激しくなり神成大尉が怒ってしまった。
「天はわれら軍隊は死ねというのが命令である*3。みんな露営地に戻って枕を並べて死のう」と言う。あっちでバタリ、こっちでバタリ、足の踏み場がないほど倒れた』
 事態が大きく動いたのは出発から5日目でした。救援隊が雪の中に仮死状態で立っていた後藤房之介伍長を発見。これを受けて大規模な捜索が行われますが、生還を果たしたのは、小原伍長を始めわずか11人でした。
※音声(小原忠三郎伍長)
「ああなってくるとどうしても信じるほかない。目の前でバタバタと倒れていきますから。神様に助けられたといまでも思っています」
 何が生死を分けたのでしょうか。長年、雪中行軍を研究している元自衛隊員の加藤幹春さん*4は、わずかな差だったと指摘します。生存者の大半は、岩穴や小屋などで風をしのいでいましたが、犠牲者の多くは有効な手立ては講じていなかったと言います。
※インタビュー(加藤幹春さん69歳)
「(当時の調査では)実は着るもの、食べ物に問題はなかった。ただ、露営の方法が悪かった。初日は穴を掘って風を少なからずとも防いだけど、2日目以降は全然なされなかった」
※音UP(ことしの八甲田演習)「後藤伍長の銅像に敬礼」
 雪中行軍の経験則は現在、自衛隊でいかされています。当時、凍傷が相次いだ5本指の手袋は保温性を高めるため親指だけ分離したミトンタイプも使われるようになりました。
※インタビュー(加藤幹春さん69歳)
「八甲田雪中行軍の訓練をする前に、教科書となるべきものがあれば防げた事故ではないかと思います。それを考えると悔しくてたまらない」
 199人が犠牲になった八甲田雪中行軍。日本の山岳史上、最大の惨事は多くの教訓を残し、これからも引き継がれていきます。

余録:今から120年前の… | 毎日新聞2022.1.23
 今から120年前の1902(明治35)年、日本は「日露戦争」への備えを急いでいた。その年、日本の山岳遭難史上最悪といわれる悲劇が起きた。青森の「八甲田山雪中行軍遭難事件」だ。1月23日、寒地での訓練のため青森市を出発して山麓を行軍した歩兵連隊が猛吹雪と寒波に襲われた。199人が死亡、生存わずか11人だった
▲作家、新田次郎が小説の題材とし、映画化されたこともあり、現在も多くの人に知られている。悪天候や指揮官の判断ミスなどの要因が指摘されているが、より実態に迫ろうとする研究は今も続いている
▲そのひとつが、ほぼ同時期に別ルートで実施され、全員が帰還した弘前の歩兵連隊による行軍との比較だ。「弘前隊」隊員(ボーガス注:間山仁助伍長)の孫にあたる研究家、間山元喜(もとき)さん(72)は、20年近く取り組んできた検証結果をこのほど、著作「八甲田雪中行軍:一二〇年目の真実*5」(共著)にまとめた
▲間山さんは、弘前隊指揮官(ボーガス注:映画では高倉健が演じた徳島大尉のモデル・福島大尉)の孫から提供された資料などを精査した。綿密な事前計画や地元案内人の重視、寒さに慣れることができる日程を組むなど「データ収集と準備」が青森隊との明暗を分けたと分析している
弘前隊を道案内した地元民7人は「七勇士*6」として後に注目され、現地に顕彰碑がある。ただし、著作では7人が行軍の途中で軍(ボーガス注:映画では高倉健が演じた徳島大尉のモデル・福島大尉)に放置され、途方に暮れたという負の側面なども指摘している
▲「少しでも全体像に近づけたら」と間山さん。データや情報の軽視が悲劇をもたらす教訓は決して、過去の話ではない。

八甲田雪中行軍、遭難と生還を分けたのは何か…隊員の孫が真実探る : 読売新聞2022.3.15
 今年は、旧陸軍青森歩兵第5連隊(青森隊)199人が1902年(明治35年)に八甲田の雪中行軍訓練中に死亡してから120年となる。同時期に八甲田を踏破した弘前歩兵第31連隊(弘前隊)の全員生還に焦点を当てた書籍「八甲田雪中行軍:一二〇年目の真実」(冨山房インターナショナル)を、弘前隊員の孫で青森県弘前市の間山元喜さん*7(72)らが出版した。
 間山さんの祖父は弘前隊員だった間山仁助伍長。祖母からは「じいちゃんは(訓練による)凍傷で足の指を切断した。隊員はみな、ふらふらで帰ってきた」と聞いていた。だが、77年公開の映画「八甲田山」では、ラストシーンで弘前隊員が元気よく行軍していた。祖母の話と違和感があり、「弘前隊の本当の姿を知りたい」と取材、執筆を決意したという。
 資料を探すうち、2012年に弘前隊の指揮官だった福島泰蔵大尉の生家に眠っていた行軍の調査報告書のコピーを入手。手元には祖父が残した行軍日記などもあった。執筆は札幌市のノンフィクション作家、川嶋康男さん*8と共同で進め、主に青森隊の行軍を川嶋さん、弘前隊を間山さんが担当した。

生死を分けたのは 八甲田山雪中行軍遭難事件から120年 隊員の孫が研究 - 産経ニュース2022.7.14
 日本山岳史上、最悪の遭難事件とされる明治35(1902)年1月の「八甲田山雪中行軍遭難事件」から今年で120年。訓練に参加した210人中199人の犠牲者を出した旧陸軍青森歩兵第5連隊と同時期に、別ルートで行軍し38人全員が生還した弘前歩兵第31連隊がある。長年、同事件を研究しているのが、31連隊の間山仁助伍長の孫で元陸上自衛隊員の間山元喜さん(72)=青森県弘前市=だ。間山さんは「31連隊を検証することで現代にも通じる危機管理、冬山に対する認識の重要性を学ぶことができる」と話す。
 間山さんが研究を始めたきっかけは昭和52年公開の映画「八甲田山」だ。そのラストシーンで、31連隊を率いた高倉健演じる福島泰蔵大尉(劇中では徳島大尉)らが、岩木山を見ながら元気に軍歌を歌って弘前に戻ってくる。だが、これに違和感を覚えたのだ。
 間山さんは祖母から「みんな杖をついてふらふらになって帰ってきた」と聞いていた。「映画が史実のように伝わっており、きちんとしたものを残さなければならないと思った」と間山さんはいう。
 5連隊の惨劇が知られている一方で、全員が生還した31連隊の軌跡はあまり知られていなかった。「31連隊の行軍を紐解くことで、5連隊の遭難原因も浮き彫りになるのではないか」と考えた。

「八甲田山雪中行軍遭難事件」陸自部隊が墓地で慰霊の祈り|NHK 青森県のニュース2024.1.31
 青森県八甲田山系で、旧日本陸軍の部隊が訓練中に遭難し、199人が死亡した「雪中行軍遭難事件」の教訓を受け継ごうと陸上自衛隊の部隊が青森市にある犠牲者の墓地で慰霊の祈りをささげました。
 「八甲田山雪中行軍遭難事件」は日露戦争を目前に控えた明治35年1月に寒冷地での進軍を想定して行われた訓練のさなか、青森市に駐屯していた旧日本陸軍の歩兵連隊が山中で遭難して199人が死亡したもので、映画や小説でも知られています。
 青森市に駐屯している陸上自衛隊第5普通科連隊では、この教訓を受け継ごうと毎年この時期に八甲田山系で演習を行っていて、31日は、隊員およそ170人が犠牲者の遺骨などが納められた青森市の「幸畑陸軍墓地」を訪れました。

絶望的にヒーロー不在『八甲田山 消された真実』フィクションとノンフィクションと - HONZ2018年1月25日
伊藤薫*9八甲田山 消された真実』(2018年、山と渓谷社*10
 ベッドの上で正座して話す老齢の男性。
 その人は、世界最大級の山岳遭難事故の最後の生存者・小原忠三郎元伍長であった。
 1902年(明治35年)1月。日露戦争を前に陸軍は寒冷地での行軍を調査・訓練するため、青森の陸軍歩兵第五聯隊と弘前の第三十一聯隊が豪雪の八甲田を異なるルートで越えることになる。結果的に三十一聯隊は八甲田を越え帰還したが、五聯隊は山中で遭難。210人あまりの将兵のうち、199人もが凍死した。世に言う「八甲田山雪中行軍遭難事故」である。
 これをもとに書かれた新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』は、大ベストセラーになった。映画化された「八甲田山」で北大路欣也演じる第五聯隊の神成(役名は神田)大尉が猛吹雪のなか、こう叫ぶシーンをご存知の方も多かろう。
 「天はわれらを見放した!」
 小原元伍長への聞き取りが行われたのは、1964(昭和39)年。翌年に控えた陸上自衛隊による慰霊の八甲田演習に向けて、青森駐屯地の第五普通科連隊・渡辺一等陸尉が箱根の国立療養所に氏を訪ねたのである。雪中行軍で負った凍傷のため両足首から下と親指以外の両手指を失った小原元伍長も、85歳になっていた。62年間の沈黙を破り語られたその悲惨さは、想像を絶するものだった。
 聞き取りの翌年、「明治35年と同じ想定で青森平地を出発し、田代平を経て三本木平地へ進出する」とした自衛隊の演習は実施され、以後毎年、自衛隊第五普通科連隊は2月に八甲田での慰霊演習を行うようになる。
 本書は上記の小原証言や当時の資料などを独自に調査して事故の状況やその背景に迫ったものだが、(中略)行間ににじむのは無謀な計画の実態や軍の隠蔽体質に対する怒りである。
 まず、遭難した五聯隊の装備や計画はあまりにも貧弱であった。
 装備さえきちんとしていれば、死なずに済んだ人たちが多かったことは想像に難くない。
 さらに、目的地とされた田代新湯という温泉は到底見つけることができないような入りくんだ場所にあり、部隊は誰一人として目的地がどこにあるかもわからないまま前進していたようだ。他にも著者が指摘する数々の問題点には、絶句せざるを得ない。
 では、「行軍を成功させた」とされる三十一聯隊は、どうだったのか?。著者は、五聯隊は露営で食糧や器材もすべて携行し200人規模であったのに対し、三十一聯隊は長距離行程ではあるが38人と少人数、はじめから食事や宿泊は民家に頼り、道案内も頼むという、まったく性質の異なる行軍だったので比較はできないと述べている。
 そのうえで、三十一聯隊を率いた福島大尉にも追及は容赦がない。映画では高倉健演じる役名・徳島大尉は、案内人にも異例の敬意を払う(これは原作の小説とも異なる)。しかし現実には、特に過酷な八甲田超えの道案内をさせられた7人の村人たちはさんざん酷使されたうえ、町が見えたとたんにその場に置き去りにされたのである。彼らのなかには重い凍傷になり、後に命を落とした者もいた。
 あの雪中行軍は、映画や小説とは異なり、絶望的にヒーロー不在であったのだ。
 ところで、じつは小説『八甲田山死の彷徨』には下地となった資料があった。元新聞記者の小笠原孤酒が生存者の小原元伍長や古老たちを丹念に取材した資料である。新田次郎に依頼されてそれらを無償提供したという小笠原だが、『八甲田山死の彷徨』が瞬く間にベストセラーになり、小笠原自身がノンフィクションとして記した『吹雪の惨劇』はほとんど話題になることもなかった。
 『八甲田山死の彷徨』や映画「八甲田山」は小説として映画としては、間違いなく不朽の名作だ。この作品がなければ雪中行軍の悲劇が多くの人に知られ、語り継がれることもなかったかもしれない。だがしかし、小説や映画の完成度があまりに高かったために、あたかもそれが「史実」とすり替わってしまったことには複雑な気持ちが残る。

『八甲田山』で死にゆく我々日本人 - 挑戦者ストロング2021.3.18
 戦前は知らず、戦後の日本人はなぜか日本人がバタバタと大量死する映画が好きだ。「二百三高地*11」と「八甲田山」はその典型と思うが、ともに大ヒットしている。みんな観たいのだ、日本人がバタバタ死ぬ映画を。「敗戦」が全国民共通の原体験となっているため、大量死が限りない共感を呼ぶのだろうと推測する。
 史実は詳しく知らぬが映画によると、八甲田山の深刻な遭難事故はすべて「バカな上官」三國連太郎に原因がある。さらに唯々諾々と「バカな上官」に従うしかない日本軍メンタリティが、事態の悪化を修正せず、悪化するに任せてしまう。間違っていることを知っていても、一度始めたプロジェクトは止められない。止まる気もない。そして死ぬ。そればかりか、死ぬことに陶酔する。これが日本人だよな。だってたとえばアメリカ映画で、アメリカ人がただバタバタ死んでゆくだけの映画がありますか。オレは知らない。しかし日本ではこれが大衆のハートを掴む娯楽映画になるのだ。
 2021年3月現在、日本でコロナが蔓延してるのに日本人はオリンピックをやろうとしている。何人死のうがやろうとしている。これが我々の世代の、現在進行形の「八甲田山」だ。自然が相手なのに、一部の人間のクソしょうもない事情のため、状況お構いなしに強行しようとしている。この国は三國連太郎だらけだ。「八甲田山」は1902年の出来事を描いているが、それから119年経っても、原爆を落とされても、敗戦を経験してギブミーチョコレートやっても、原発事故を起こしても、日本人は全然変わってない。「八甲田山」が描いたのは自然の脅威ではない。日本人の弱く、愚かで、能力不足のみっともない姿だよな。

199人が雪山で凍え死んだ…世界最大級の「遭難事件」の救われない現実(朝里 樹) | マネー現代 | 講談社2021.7.12
 現代の人々にこの事件が知られているのは、小説及び映画の影響が大きいだろう。
 1971年(昭和46年)、作家の新田次郎がこの事件を詳細に取材し、『八甲田山死の彷徨』という小説を書き上げた。そしてこの小説を原作として、1977年(昭和52年)、映画『八甲田山』が公開される。
 この映画は当時の日本映画における歴代配収新記録を打ち立てた。またこの映画で北大路欣也氏が演じた神田大尉の「天は我々を見放した!」というセリフは当時の流行語になったという。

凍死者の亡霊は、今も“そこ”にいる…八甲田山で発生した「怪事件」の一部始終(朝里 樹) | マネー現代 | 講談社2021.07.12
 有名なのは新田次郎が『八甲田山死の彷徨』を書くために事件の取材をしていた際に聞いたという、彼の取材ノートに残された話だ。
 それによれば雪中行軍隊が遭難した直後、青森連隊駐屯地の衛兵詰所でしばしば亡霊の足音が聞こえたという。この騒ぎは次第に広まり、衛兵を恐怖のどん底に叩き落したので、ある夜、連隊長が衛兵詰所に来て亡霊を待ち、明け方近くなって亡霊がやって来ると、声を張り上げて言った。
 「雪中行軍隊の亡霊たちよ、よく聞け。お前らの死は無駄ではなかった。お前らの死によって、厳寒期の軍装は大改革されることになったぞ。お前らは戦死者と同様に扱われ、靖国神社に合祀されることになったのだ。迷うな、心安くして眠れ。二度とこの屯営に現れることはこの連隊長が許さないぞ」
 そして連隊長は軍刀を抜いて「青森歩兵第五連隊雪中行軍隊、回れ右、前へ進め!」と号令をかけた。
 すると足音は次第に遠ざかり、以来一度も聞こえることはなかったという。
 新田次郎が紹介したこの話は有名になり、以降様々な媒体で語られることになった。ただ実際には事件の犠牲者を靖国神社に合祀するという方針はあったものの、最終的には否決され、現在のところ彼らは靖国神社には祀られていない*12
 『凍える帝国』によれば、(中略)事件発生から間もない1902年(明治35年)2月6日には、「万朝報」(明治時代、東京で創刊された日刊新聞)に既に「凍死軍隊の幽霊」と題された記事が載せられていたという。同記事では、1月25日の夕方に(ボーガス注:遭難事件で殉職した)興津景敏大尉の官舎の玄関から外套の雪を払う音が聞こえてきたと伝えている。そこで夫人が出迎えると、大尉が立っていて「今帰った」と言う。しかし夫人が下女に焚火の用意をさせているうちに大尉の姿は消えてしまったという。
 近年有名な話は以下のようなものだろう。松谷みよ子*13編著『現代民話考2:軍隊・衛兵検査・新兵のころ*14』を参考にその概要を示そう。
 あるカップルが八甲田山の「旧歩兵第五連隊雪中行軍記念像」を訪れた。この像は八甲田雪中行軍遭難事件にて生還した一人、後藤房之助伍長*15が山中で発見された際の姿をモデルに立てられた像*16で、事件の犠牲になった人々を慰めたものだという。
 この像が立っている場所は今では観光地のひとつとなっている。この像を見た後、カップルの女性が付近のトイレに寄った。男性は車で待っていたが、何か物音が聞こえてきたため、目を凝らすと雪中行軍の兵士たちが闇の中から行進してきている。男性は思わず車を走らせ、逃げ出したが、置いてきた女性のことを思い出したのか、人を連れて山に戻ってきた。
 既に幽霊はいなくなっており、男性は急いで女性のいるトイレに向かって声をかけたが、返事がない。そこで恐る恐る覗いてみると、女性は気を失って倒れており、あまりの恐怖のためかその髪は真っ白になっていた。それから女性は記憶を失い、その記憶は今も戻っていないという。
 同書では、この話は1995年(平成7年)7月に語られたもので、さらに当時から10年ほど前にあった事件の話とされていた。実際にこの話がいつごろからあるのかは分からないが、現在でも旧歩兵第五連隊雪中行軍記念像を訪れたカップルが幽霊に遭遇するという話はよく語られている。
 『凍える帝国』によれば、他にも「山中で兵士に道を聞かれた」「肩を叩かれた」という話もあったという。このように近年では、八甲田山を訪れた人々が山をさ迷う幽霊と遭遇するという話が多い。

「映画より撮影現場の方が厳しかった!」『八甲田山』シネマ・コンサート開催直前スペシャル・インタビュー!実は出演していた…大竹まことが語る過酷すぎる撮影現場とは!?|DI:GA ONLINE|ライブ・コンサートチケット先行 DISK GARAGE(ディスクガレージ)2018年12月21日
 ロケーションには事件当時とほぼ同じ気象条件の元、雪の八甲田山で行われ、あまりの寒さに逃げ出した俳優もいたという。そんな過酷すぎる現場を、大竹まことが撮影当時を振り返る。
 「最初に言っとくけど、俺はエキストラに毛が生えたような役だからね(笑)」。
 風間杜夫も所属していた劇団「表現劇場」の仲間らと共に映画『八甲田山』のロケに、大竹は輸送隊員Cという役名で参加した。
 「俺たち兵隊の衣装は戦争中(日露戦争の頃)と同じでペラッペラなわけさ。その時点で70年ぐらい前の靴履かされるんだよ」。
 映画では、凍傷対策で靴下に唐辛子をまぶして靴を履くシーンがあるが、実際の現場でも同じ事をしたという。ロケは毎朝、宿舎を出て1〜3時間ぐらい歩いて現場に行く。ただ、着いてもすぐ撮影に入る訳ではなく、ひたすら声がかかるまで極寒の中、待ち続ける。
 「偉い俳優さんたちは雪上車だけど、俺たちは歩きで、出番まで待つ。あんまり寒いもんだから、雪に穴掘って潜って顔だけ出して待つんだよ(笑)」。
 昼間ですら寒いのに夜間撮影となると想像を絶するものがある。
 「この明るさで撮れんのかよという中で撮影してた。そんな中、風速30mの吹雪を起こす機械回すんだよ、ただでさえ寒いのに」。
 映画で最初の犠牲者となるのが大竹まことだ。もっとも本人はあまり覚えてないようで「俺は北大路欣也さんのそばで死んだような気がする..」と言う。ただ本人の記憶違いでなければ「俺、最初に死ぬんだけど、その後も出てたような気がする。だって撮影は最後までいたし」と仰天告白まで飛び出した。
 撮影中は同じ劇団の堀礼文(ほり・れもん)と行動を共にする事が多かった。後に映画『犬死にせしもの』(1986)撮影中に自死した大竹の役者仲間だ。
 ある日、ひとつのカットの撮影が終わり、次のカットは遥か彼方にある山頂だと言われる。雪中でたいへんな思いをしている中、さらに遠くへ行けと指示される。頭にきた大竹と堀は遮二無二、登って山頂に一番乗りで着いた。その馬鹿げたエネルギーに感心した森谷監督と木村大作が、5万円づつ、お小遣いをくれた。結局、その夜は飲みに行って翌朝は遅刻したそうだ。
 「上に立つ人が、ちゃんと範を示してくれた現場だった」と思い返す。
 緒形拳は「大丈夫か?」と声をかけてくれたり、三國連太郎は肉を差し入れてくれた。もっとも高倉健は寒くても焚き火に近づかなかったため、大竹たちも暖をとりに行けずに大いに困ったそうだが。
 大竹はTV版の「八甲田山」(1978年、TBSで放送)にも出演している。映画とTVの両方に出演した唯一の俳優だ。「現場のほうが映画よりもっと厳しかった」と言い切るほどの、過酷な撮影現場であったため、『八甲田山』で役者に見切りをつけたと告白。以降はコメディアンに転じ、きたろう、斉木しげるらとシティボーイズを結成する。

出演者が驚愕した、映画『八甲田山』…その「ヤバすぎる」ロケ現場の一部始終(週刊現代) | マネー現代 | 講談社週刊現代』2022年2月12日号
前田吟(以下、前田)
 『八甲田山』の公開から45年も経つけれど、役者人生を振り返ってもあんなにしんどかった現場は他にありません。
神山征二郎*17(当時、助監督。以下、神山)
 体感温度零下20〜30度にも及ぶ冬の八甲田山で、二冬も撮影を敢行しました。すべての現場に同行した助監督の私は、撮影が終わった時に「これで寿命が2年縮んだ」と思ったものです。
◆前田
 神山さんの気持ちは、よく分かる。あの環境で、しかも監督は森谷司郎*18、カメラマンは木村大作という妥協を許さないプロ。常人にはついていけない変人ですよ。
◆神山
 木村さんは十和田湖畔の行軍シーンをいい画角で撮るために氷の張った湖に飛び込んで撮影を始めるし、森谷さんと一緒に「近道だから」と装甲車のような車で雪山を突破して旅館に帰ろうとするし、めちゃくちゃでした。「もしもこの人たちが死んだら、私が引き継いで撮影するしかない」と自然と思うようになりました。高倉健さん演じる徳島大尉が率いる弘前三十一連隊からスタートし、続いて北大路欣也さんが演じる神田大尉の青森五連隊、つまり「死の部隊」の撮影を行いました。三十一連隊の斉藤伍長役だった吟さんには、初回から参加してもらいました。
◆前田
 最初の撮影は行軍ルートを雪の中ただ歩くだけ。衣装はすべて実物にこだわっていました。軍服はかっこいいんだけど、薄くて寒くて。
 私なんて普段は暖かい松竹の大船撮影所で『男はつらいよ』をやっていたもんだからこりゃたまらんと震えました。映画の軍人たちと同じように、甘い気持ちで行軍に突入してしまったんです。

名優が仰天した、映画『八甲田山』のヤバすぎる撮影秘話…大ヒットのウラで起こっていたこと(週刊現代) | マネー現代 | 講談社週刊現代』2022年2月12日号
◆前田
 欣也ちゃんの台詞「天は我々を見放した!」はいろんな人が真似したよね。
◆神山
 雪国では「八甲田山遊び」が流行ったそうです。劇中で奇声を発して裸で雪につっこんで凍死する兵卒を真似して、裸で雪に飛び込む子どもが続出したとか。
野口健(以下、野口)
 専門的には「矛盾脱衣」というのですが、あまりに寒いと、逆に暑いと錯覚してしまうんです。一番共感するのは、上官である三國連太郎さん演じる山田少佐*19に振り回される神田大尉ですよね。
◆前田
 山田少佐の同行によって部隊は拡大(ボーガス注:その結果、被害も拡大)、さらに指揮権を取り上げられる。混乱する現場、でも上役には強く言えない部下の辛さ、しかし逆らえない自分にも責任を感じてしまう。この悲哀がサラリーマンにウケたのです。
◆神山
 日本の「失敗の本質」をついているんでしょう。
 準備や現場での上官との対応の違いによって、(ボーガス注:遭難しないで済んだ)高倉健さんの徳島三十一連隊と、(ボーガス注:遭難した)北大路欣也さんの神田五連隊の命運が分かれていきます。神田大尉は現地の村で道案内を頼むつもりでいたのに、山田少佐は「道案内など不要、カネがほしいだけの浅ましい連中だ」と村人を退ける。ここから悪夢がはじまる。
 当時の撮影は過酷で、エキストラが集まらないという問題もありました。スター見たさもあって最初は現地の人が集まるんです。しかし、あまりの過酷さに2日目はもう来ない。
◆前田
 役者もしんどいのは同じです。ダウンコートもない時代ですから、私は内側に毛のついたブーツと、中国産のカシミヤの股引をこっそり身につけていました。
◆野口
 劇中におにぎりが凍結して食べられない描写がありますが、米って凍るんですよね。
◆神山
 そうなんですよ。午前中だけの撮影予定が吹雪を待って午後まで延びた日がありました。食事の用意がなかったので、急遽スタッフがカレーを用意したのですが。
◆前田
 前からバケツリレーみたいにカレーを回していくから、後ろにいくころには凍っているんだよ。あれは参ったね。
◆神山
 数少ない生き残りである緒形拳さん演じる村山伍長が、八甲田山を訪ねるシーンで映画は終わります。バックに、徳島隊も「日露戦争二〇三高地で全滅した*20」という字幕が流れる。
◆前田
 結局、斉藤伍長も死ぬ運命にあった。日露戦争へ向かう日本が上昇気流の時代にあって、犠牲になった男たちがいた。高度経済成長期を支えたサラリーマンたちに刺さるものがあったのでしょう。

【参考:後藤房之助

インパールを生き抜いた107歳父 祖父にも驚きの過去 [宮城県]:朝日新聞デジタル2021.8.10
 宮城県栗原市の後藤信一さん(107)は第2次世界大戦中、3万人もの日本兵が命を落としたとされるインパール作戦を、命からがら生き延びた。その体験をつぶさに記した1冊のノートがある。息子の公佐(こうすけ)さん(83)が語る。

 オヤジ(信一)がひょっこり戻ってきたのは、終戦翌年の田植えの頃でした。戦地に赴き3年。何の音信もなくもうダメかと思っていたので、家族は大騒ぎでした。7歳の私(公佐)はそのやせた姿に「誰、この人?」と思ったものです。栄養失調でそのまま3カ月入院しました。
 以来、オヤジは百姓ひと筋。戦争の話を私たちにすることもほとんどない。ただ、近所の同年代の人と茶飲み話になると、「中国はこうだった」「ビルマミャンマー)はもっとひどかった」と、戦地の思い出で盛り上がっていました。
 体も弱くなってきた20年ほど前、貴重な体験を残したらどうだと、ノートを渡したんです。ふだん文章など書かないオヤジが合間合間に書き始め、3、4年かかったでしょうか。
 私が知らなかったことばかりで、読んで驚きました。
 地名や現地の様子を細かく覚えている。極限状態を生き抜いたことを、つぶさに記しています。
 「迫撃砲は弾の後ろに羽根がついていて、ピュウピュウと気持ち悪い音をたてて飛んでくる。直径1尺位の木枝がバリバリ折れた。死ぬか生きるかの戦いで、頭の毛がまっすぐ立った」
 「(出征した)昭和18年8月以来、同じ服の着通しで、ひざ下まであった半ズボンは大きいパンツの様になって、腹巻きはシラミが真っ白に行列している」
 「(退却する)山道は、足の踏み場も無いくらい両側に白骨が続く。鼻や口にハエが真っ黒になって、ブンブンしている。この坂を越そうと、頑張って来たのだろうと思う」。
 実はオヤジの父親後藤房之助は1902年、旧陸軍の訓練で210人中199人が遭難死した八甲田山雪中行軍の生還者。青森市には銅像も立っています。ノートを見ると、オヤジは出征時、房之助のことを思い、「俺だって、どんな事があっても帰ってくるんだと、肝に堅く銘じていた」そうです。

【参考:劇団「表現劇場」

風間杜夫さんが語る下北沢、劇団仲間だったシティ―ボーイズ、ひとり芝居(2010.10.14)から一部紹介
◆インタビュアー
 22歳で結成された劇団「表現劇場」に現在シティボーイズの3人(大竹まこと、きたろう、斉木しげる)もいらっしゃったということですが、当時のことで何か憶えてらっしゃることは?
◆風間
 「表現劇場」は演出家も作家もいない役者の集団だったので、公演の度に悩んでいました。で、2年も過ぎると皆がやりたいことが違うということもだんだん分かってきました。大竹はコント志向だし、僕はちょうどつかこうへいと出会ったことも大きかったし、ほかにもバレエを志す役者がいたりと、皆がバラバラ。で、3年もしないうちに解散してしまいましたね。
◆インタビュアー
 今でもシティボーイズのメンバーと会って飲むことはありますか?
◆風間
 去年、久々に大竹から声が掛ったんです。「たまには4人で飯食おうよ」なんて言われて、大竹と斉木ときたろうと僕の4人で飲みました。でも、大竹は昔から酒を飲まないんです。食うことだけが趣味なんですよ。きたろうは昔と変わらず飲んでいましたね。懐かしかった。昔の話よりも「今どうしてるか?」っていう話題の方が多いですね。大竹の場合はお姉ちゃんの話が多くて、元気だなぁと思います(笑)。

俺たちかなり自由じゃないか 思うままにやれよ早大生 風間 杜夫 – 早稲田ウィークリー(2016.4.21)から一部紹介
 学生時代のこと、駆け出し時代のこと、演劇に対する考え方など、さまざまなお話を伺いました。
◆風間
 十数人の役者仲間で「表現劇場」という劇団を立ち上げました。1971年、大学4年の頃です。その中には後にコントユニット「シティボーイズ」を結成する大竹まこと斉木しげる、きたろうもいました。当時はとにかくお金がなくて、劇団の集会所として借りていた8畳のアパートに大竹・斉木と3人暮らしをしていました。
 当時アルバイトで仮面ライダーショーをやっていて、地方を回っていたんですよ。着ぐるみを身に着けて子どもたちの前でショーを見せるんですが、僕がライダー、斉木がショッカー(敵役)の親分、きたろうがその部下をやって。大竹は着ぐるみが大嫌いで、しかも彼は要領がいいから、マイクを使って会場の子どもたちに「今日はお前たちの中の一人をさらっていくから覚悟しろ!ヒッヒッヒ」などと言って脅かすという、一番楽な仕事をやっていた。なのにバイト代は全員一緒(笑)。
 お金はなかったけど楽しかったですね。でも肝心の演劇活動の方はなかなかうまく行かなかった。というのも、「表現劇場」は役者ばかりの集団だったんですよ。劇団というのは突出した劇作家・演出家がいて初めて成立するもので、民主的なものであるわけがない。役者ばかりだとやりたいことの方向性がばらばらで、いろんなことを話し合いながら公演も何度か打ったけど、結局3年ももたなかったですね。

*1:神奈川大学准教授。著書『渋沢敬三今和次郎』(2013年、青弓社

*2:新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』の映画化。1902年(明治35年)に青森に駐屯していた歩兵第5連隊が雪中行軍の演習中に遭難し、演習に参加した210名中199名が死亡した事件(八甲田雪中行軍遭難事件)を題材にしている。北大路欣也(青森歩兵第五連隊中隊長・神田大尉:遭難で死亡した神成文吉大尉がモデル)、高倉健弘前歩兵第三十一連隊中隊長・徳島大尉:福島泰蔵大尉がモデル)主演。北大路の台詞「天は我々を見放した!」は当時の流行語になった。配給収入は25億円で、1977年の日本映画第1位を記録(八甲田山 (映画) - Wikipedia参照)

*3:「天は我々を見放した!」の元ネタ

*4:著書『雪中行軍遭難二つの疑問:歩兵第五聯隊第二大隊雪中行軍遭難の全容と原因の追究』(2022年、22世紀アート)

*5:2022年、冨山房インターナショナル

*6:七勇士については例えば七勇士 -弘前隊を案内した三本木の7名-「七勇士」の石碑ーみちのくあれこれ3 -のんびりとじっくりと!-参照

*7:著書『孫が挑んだもう一つの八甲田雪中行軍』(2015年、中経出版)、『八甲田雪中行軍:一二〇年目の真実』(2022年、冨山房インターナショナル)

*8:著書『北の漁師宿:ご飯が旨い浜の「隠れ宿」紀行』(2003年、響文社)、『永訣の朝:樺太に散った九人の逓信乙女』(2008年、河出文庫)、『大きな手大きな愛:“胃袋の宣教師”函館カール・レイモン物語』(2008年、農山漁村文化協会)、『いのちのしずく:”コタンの赤ひげ”高橋房次物語』(2010年、農山漁村文化協会)、『北限の稲作にいどむ:“百万石を夢みた男”中山久蔵物語』(2012年、農山漁村文化協会)、『100年に一人の椅子職人:長原實とカンディハウスのデザイン・スピリッツ』(2016年、新評論)、『ラストアイヌ:反骨のアイヌ歌人森竹竹市の肖像』(2020年、柏艪舎)、『彼女たちは、なぜ、死をえらんだのか?:敗戦直後の樺太ソ連軍侵攻と女性たちの集団自決』(2022年、敬文舎)等

*9:著書『生かされなかった八甲田山の悲劇』(2019年、山と渓谷社

*10:後に2021年、ヤマケイ文庫

*11:1980年公開の東映映画(舛田利雄監督、笠原和夫脚本)。第三軍司令官・乃木希典(演:仲代達矢)を主人公として日露戦争を描いた。興行的に成功し、太平洋戦争を描いた『連合艦隊』(1981年公開、東宝)、『大日本帝国』(1982年公開、舛田利雄監督、笠原和夫脚本、東映)、日露戦争での日本海海戦を描いた『日本海大海戦・海ゆかば』(1983年、舛田利雄監督、笠原和夫脚本、東映)等の戦争映画がこの時期、作られるようになった。(二百三高地 - Wikipedia参照)

*12:率直に言って合祀基準は極めて恣意的だと思います

*13:1926~2015年。『龍の子太郎』(現在は講談社青い鳥文庫)で、1960年に講談社児童文学作品(現在の講談社児童文学新人賞)を、1961年に産経児童出版文化賞を、1962年に国際アンデルセン賞優良賞を受賞。1964年、『ちいさいモモちゃん』(現在は講談社青い鳥文庫講談社文庫)で野間児童文芸賞NHK児童文学奨励賞を受賞。1974年、『モモちゃんとアカネちゃん』(現在は講談社青い鳥文庫講談社文庫)で赤い鳥文学賞を受賞。1994年、『あの世からの火:直樹とゆう子の物語』(偕成社)で小学館文学賞受賞。著書『自伝・じょうちゃん』(朝日文庫)、『戦争と民話:なにを語り伝えるか』(岩波ブックレット)、『ちいさいアカネちゃん』、『ふたりのイーダ』(以上、講談社青い鳥文庫)、『民話の世界』(講談社現代新書)、『アカネちゃんとお客さんのパパ』、『アカネちゃんの涙の海』、『オバケちゃん』(以上、講談社文庫)、『あの世からのことづて:私の遠野物語』、『現代民話考1:河童・天狗・神かくし』、『現代民話考2:軍隊・衛兵検査・新兵のころ』、『現代民話考3:偽汽車・船・自動車の笑いと怪談』、『現代民話考4:夢の知らせ』、『現代民話考5:死の知らせ・あの世へ行った話』、『現代民話考6:銃後・思想弾圧・空襲・沖縄戦』、『現代民話考7:学校・笑いと怪談・学童疎開』、『現代民話考8:ラジオ、テレビ局の笑いと怪談』、『現代民話考9:木霊・蛇・木の精霊・戦争と木』、『現代民話考10:狼・山犬・猫』、『現代民話考11:狸・むじな』、『現代民話考12:写真の怪・文明開化』(以上、ちくま文庫)、『現代の民話:あなたも語り手、わたしも語り手』(中公新書→後に河出文庫)等(松谷みよ子 - Wikipedia参照)

*14:2003年、ちくま文庫

*15:1879~1924年。映画「八甲田山」(1977年公開)では「江藤伍長」として新克利が演じた(後藤房之助 - Wikipedia参照)

*16:この像は、1906年陸軍大臣寺内正毅や、参謀総長大山巌の呼びかけによって集まった全国の将校からの寄付をもとに、靖国神社大村益次郎像を制作した大熊氏廣によって制作され、除幕式には後藤本人も出席した。太平洋戦争の際には金属回収によって多くの銅像が撤去されたが、この銅像は供出されずに現在に至っている。1999年(平成11年)2月22日、青森市有形文化財に指定された(後藤房之助 - Wikipedia参照)

*17:1941年生まれ。監督作品に『ハチ公物語』(1987年)、『伊勢湾台風物語』(1989年:アニメ)、『遠き落日』(1992年:野口英世を描いた渡辺淳一の同名小説の映画化)、『ひめゆりの塔』(1995年)、『宮澤賢治その愛』(1996年)、『郡上一揆』(2000年)、『草の乱』(2004年:秩父事件を描いた)、『学校をつくろう』(2011年:「専修大学創立130周年記念映画」として専修大学によって製作された伝記映画。専修大学初代校長・相馬永胤を描いた)、『時の行路』(2020年:赤旗に連載された田島一の同名小説の映画化)等。著書『生まれたら戦争だった。:映画監督神山征二郎・自伝』(2008年、シネ・フロント社)(神山征二郎 - Wikipedia参照)

*18:1931~1984年。監督作品に『日本沈没』(1973年:小松左京の同名小説の映画化)、『八甲田山』(1977年:八甲田雪中行軍遭難事件を描いた新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』の映画化)、『聖職の碑』(1978年:木曽駒ヶ岳大量遭難事故 - Wikipediaを描いた新田次郎の同名小説の映画化)、『小説吉田学校』(1983年:戸川猪佐武の同名小説の映画化)等(森谷司郎 - Wikipedia参照)

*19:映画では、自責の念から、搬送された青森市内の病院で拳銃自殺を遂げた(八甲田山 (映画) - Wikipedia参照)。但し、山田少佐のモデルとなった人物「山口鋠少佐」の死は、実際には自殺では無く、病死であり、自殺とは「客受け狙いの創作(フィクション)」のようです(例えば山口少佐の死因 | 八甲田山 消された真実衛戍病院における山口少佐らの状態 | 八甲田山 消された真実参照)

*20:高倉健演じた徳島大尉のモデル「福島泰蔵」は日露戦争の「黒溝台会戦」で戦死(福島泰蔵 - Wikipedia参照)

新刊紹介:「歴史評論」2024年9月号(その2)

特集『慰霊と顕彰から考える日本の近現代』
◆白川哲夫*1
◆今井勇*2
◆権学俊*3


◆浜井和史*4
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

【太平洋戦線】遺骨の嘆き知って 識者に聞く|【西日本新聞me】2014.9.23
帝京大講師*5 浜井和史氏に聞く
 戦争末期には、愛する家族が海外で戦死しても、亡くなった状況は分からず、白木の箱に石ころしか入っていないことも少なくなかった。帰国できない遺骨には、戦後それほど関心が寄せられなかったが、遺骨問題は平和を考える上で、大きなきっかけを与えてくれる。
 戦没者の遺骨は全て母国に送還するのが日本軍の従来の方針だった。だが、ガダルカナル島撤退、アッツ島全滅があった1943年以降、遺骨が帰還しないのが常態化した。軍当局も遺骨が戻らないことに関し、新聞で国民に覚悟を促した。
 敗戦で軍が解体されると、遺骨帰還を誰が担うかという新たな問題が生じた。さらに、グアムをはじめ遺骨が眠る太平洋の島々には米国が軍事施設を建て、軍事的、政治的に立ち入りを制限。アジア諸国でも戦争を行った日本への感情的な問題から遺骨収集は難しい。このため可能な範囲で発掘した遺骨を戦没者の代表とし、「象徴遺骨」として日本に送還する方法が考案された。その帰還で1950年代、遺骨収集は一応終了したとされた。
 だが海外への渡航が自由化された1960年代、遺族や戦友が現地を慰霊して野ざらしになった遺骨の状況に驚き、国に遺骨収集の再開を求めた。数次にわたる収集計画が終わっても遺骨は残されており、国が終了方針を示すと、遺族たちが継続を求めるのが繰り返されてきた。

〈戦後76年 遺骨は語る〉受動的で消極的「グランドデザインなき日本の遺骨収集」 帝京大・浜井准教授インタビュー | 鹿児島のニュース | 南日本新聞 | 373news.com*62021/08/19
 先の大戦から76年がたつ今も、極寒のシベリアから南洋諸島までの広い海外に、日本人戦没者の遺骨が残されたままとなっている。その数は112万柱以上。戦後日本の遺骨収集の取り組みや課題について帝京大学の浜井和史准教授(日本現代史)に聞いた。
◆記者
 「国の遺骨収集事業をどう評価するか。」
◆浜井
 「76年通じて場当たり的。一貫したグランドデザインがないままずるずる過ぎた。厚生労働省の援護政策の枠組みで遺族の心情をどう慰めるかの観点から進められ、受動的、消極的に進めてきたのが特徴。『国の責務』『責任』とその時その時で唱えるが、どこかで区切りを付けようとし、その度にまた見つかるという繰り返しだ」
◆記者
「なぜそうなった。」
◆浜井
「そもそも非常に膨大な戦没者が海外に取り残され、ジャングルなど過酷な戦場で戦後何年もたってから捜索するのは難しい。早い段階で、どう適切に処理すべきか考えるべきだった。1950年代の事業開始当初から全ての収容を諦め、いったん終了とした影響も大きい」
◆記者
「長く戦没者の身元特定も消極的だった。」
◆浜井
「当初から、誰の遺骨で遺族に返さねばという強い意識が欠けていた。日本人の誰かという意識が低いので、他の国籍かもという考えにはほとんど及ばなかった。現地で見つかった遺骨を現地で火葬し、(ボーガス注:本人かどうかどころか)日本人かも分からないまま持ち帰る状況を続けた」
「2000年代に入ってDNA鑑定が導入され、科学的手法で個体識別が始まると整合性がとれなくなった。当初はごく少数しか鑑定にこぎ着けず、問題が表面化しなかった。多くの検体が鑑定されるようになり、(ボーガス注:本人でないことがわかり?)今までのやり方のまずさが明らかになった」
◆記者
「遺骨の多くが無縁仏として扱われたことで生じた影響は。」
◆浜井
「戦後の日本社会が戦争責任の問題に向き合う重要な機会を失うことにもつながった。戦争の記憶継承は大きな課題だが、日本の戦争記憶や平和学習は、原爆や空襲など国内の被害のことが目立つ。遠く離れた地で激戦があり、多くの兵士が飢え死にするなど無残に倒れ、大勢の現地の人も傷つけたという想像力が欠けていた。そういう記憶の継承が追求されず、戦争責任の議論も内向きになった」
◆記者
「今後どうしていくべきか。」
◆浜井
「膨大な遺骨が残る現実があり、打ち切れないだろう。ただ遺族でも継続すべきか否か意見は割れる。高齢化で続けるべきとの声は減っていくが、それでやめていいのか」
戦没者遺骨収集推進法の集中実施期間が終わる頃までに、新しい時代の積極的意義付けを、遺族やそうでない人、若い世代などからさまざまな意見を募り、考えるべきだ。収集に参加した学生ボランティアは現地で戦争のリアルを目にし、意識が変わる。まさに一片の遺骨は語っている。海外戦没者の存在は考える機会につながる。広く社会に知ってもらうことも大事だ」

常夏通信:その72 戦没者遺骨の戦後史(18) 収容した遺骨は240分の1 それでも幕引き考えた日本政府 | 毎日新聞(栗原俊雄*7)2020.12.2
 その「厚生労働白書」を読んだとき、私はのけぞった。2002年度版、海外の遺骨収容について書かれているくだりだ。「南方地域について」の収容が「おおむね終了」したとある。
 私は、この記述を2006年に知った。記述に関わった人たちに聞きたかった。
 「フィリピンだけでも40万体以上の遺体、遺骨が未収容ですよ。あなたたちの言う『南方』って、どこなんですか」と。
 1952年に独立を回復した日本政府は、ようやく海外で戦死した邦人らの遺骨収容に取りかかろうとした。以来68年間、今日まで続いている。しかし、政府は、戦没者遺骨の収容を打ち切ろうとしたこと*8があった。上記の「白書」はその一例とみていいだろう。

帰らぬ遺骨112万柱 収集事業、集中期間5年延長―沈没船も積極調査:時事ドットコム2023.8.15
 先の大戦では240万人(推計)の日本人が海外などで亡くなったとされ、いまだに112万柱(推計)の遺骨が収容されず戦地で眠っている。政府は遺骨収集の集中実施期間を定め、一日も早い帰還を目指している。
 厚生労働省によると、海外戦没者240万人のうち、部隊が持ち帰ったり、国の事業で収容されたりした遺骨は計128万柱。未収容112万柱のうち、海中に沈んだ30万柱や相手国の事情で収容が困難な23万柱を除き、59万柱が収容可能とみられている。
 遺骨収集事業は1952年度に始まり、これまでに34万柱が収容された。2016年には遺骨収集を初めて「国の責務」と明記した「戦没者遺骨収集推進法」が施行。24年度までの9年間を集中実施期間と定めた。
 しかし、新型コロナウイルス流行やロシアのウクライナ侵攻で2020年度以降、収集事業は中止を余儀なくされた。このため集中実施期間を5年間延長する計画が7月に閣議決定された。
 加藤勝信*9厚労相は「戦没者の遺族が高齢になっている現実を重く受け止め、一日も早く、一柱でも多く遺骨を遺族の元に帰せるよう、全力を挙げる*10」と話している。

海外の戦地で亡くなった人の霊を慰める「拝礼式」 301人の遺骨 新たに納められる 東京 千鳥ヶ淵戦没者墓苑 | NHK | 東京都2024.5.27
 武見厚生労働大臣が「1柱でも多くの御遺骨が、一日も早くふるさとに戻られるよう、全力を尽くしてまいります」と式辞を述べました。
 そして、調査団がロシアや硫黄島などから持ち帰った身元が分からない301人の遺骨が墓苑に納められ、参列者が菊の花をささげました。
 納められた遺骨はこれで37万700人になりました。
 一方で、終戦からまもなく79年となる今も、国内外のかつての戦地にはおよそ112万人(推計)の遺骨が残されたままです。
 遺骨収集をめぐっては、去年6月、事業の集中実施期間を2029年度まで5年間延長する、改正戦没者遺骨収集推進法が成立していて、国はこれまで調査ができていなかった国内外の埋葬地およそ3300か所で現地調査などを行う方針です。
 父親を現在のインドネシアで亡くした82歳の男性は、「今も父の遺骨は見つかっていません。ちゃんと遺骨について調べて遺族のもとに帰すということが、戦争を始めた国の最低限の責任だと思っています」と話していました。

旧日本軍と米軍 グアムでの戦闘開始から80年 遺骨収容が課題 | NHK | アメリカ2024.7.20
 厚生労働省によりますとグアムでの遺骨の収容活動は昭和28年から行っているものの政府として収容できた遺骨は516柱にとどまり戦没者全体の1割にも満たず遺骨の収容が最も遅れている戦地のひとつとなっています。
 グアムで遺骨の収容が遅れる背景には、アメリカの準州というグアム島ならではの事情があります。
 島の面積のおよそ3分の1をアメリカ軍基地が占め、立ち入りが厳しく制限されていることに加え、連邦政府の制度により遺骨が埋まっている明確な証拠がないかぎり、たとえ私有地でも掘削などの調査が制限されているからです。
 厚生労働省アメリカ国防総省の捕虜・行方不明者調査局と遺骨収集事業に関する協力の覚書を交わすなどして2029年度末までを集中実施期間と定めて対策を急いでいます。
 こうした中、グアム準州*11ゲレーロ*12知事は7月10日、戦後80年にあわせてこの数年間にグアム側で発見された日本兵のものとみられる遺骨を日本政府に引き渡す式典を開きました。
 遺骨を引き取った厚生労働省の中川默班長は、「引き渡しを受けたことは非常にありがたく思います。日本とアメリカは遺骨収集の分野でも協力して進めていくところなので、これをきっかけとしてグアムでの遺骨収集を強化していきたい」と話しました。


◆樋口州男*13

*1:著書『「戦没者慰霊」と近代日本:殉難者と護国神社の成立史』(2015年、勉誠出版)、『「甲子園」の眺め方:歴史としての高校野球』(共著、2018年、小さ子社)

*2:聖学院大学准教授。著書『戦後日本の反戦・平和と「戦没者」:遺族運動の展開と三好十郎の警鐘』(2017年、御茶の水書房

*3:立命館大学教授。著書『国民体育大会の研究:ナショナリズムとスポーツ・イベント』(2006年、青木書店)、『スポーツとナショナリズムの歴史社会学:戦前=戦後日本における天皇制・身体・国民統合』(2012年、ナカニシヤ出版)、『朝鮮人特攻隊員の表象』(2022年、法政大学出版局

*4:帝京大学教授。著書『海外戦没者の戦後史:遺骨帰還と慰霊』(2014年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『戦没者遺骨収集と戦後日本』(2020年、吉川弘文館

*5:肩書きは当時。現在は教授

*6:肩書きは当時。現在は教授

*7:毎日新聞記者。日本の戦争責任をライフワークとする。著書『戦艦大和』(2007年、岩波新書)、『シベリア抑留』(2009年、岩波新書)、『シベリア抑留は「過去」なのか』(2011年、岩波ブックレット)、『遺骨:戦没者三一〇万人の戦後史』(2015年、岩波新書)、『特攻:戦争と日本人』(2015年、中公新書)、『「昭和天皇実録」と戦争』(2015年、山川出版社)、『戦後補償裁判』(2016年、NHK出版新書)、『シベリア抑留・最後の帰還者:家族をつないだ52通のハガキ』(2018年、角川新書)、『東京大空襲の戦後史』(2022年、岩波新書)、『硫黄島に眠る戦没者:見捨てられた兵士たちの戦後史』(2023年、岩波書店)等

*8:遺族の気持ちを考えれば遺骨を全部回収すべきだが、とはいえ「全部回収できる見込みもない」でしょうし、難しい話です。

*9:第二次、第三次安倍内閣官房副長官自民党総務会長(第二次安倍総裁時代)、第四次安倍内閣厚労相菅内閣官房長官、岸田内閣厚労相等を歴任。この記事当時は岸田内閣厚労相

*10:拉致問題でも「拉致被害者の親(有本明弘(1928年生まれ)や横田早紀江(1936年生まれ:先日亡くなられた小原乃梨子氏(1935年生まれ:例えば小原乃梨子のような幅の広い役柄で活躍する声優は、今後出にくいのではないか - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)参照)と同年代))が高齢になっている現実を重く受け止め一日も早く、一人でも多く被害者を家族の元に帰せるよう、全力を挙げる」とほとんど同じ事が言われながらも、「未回収遺骨全体からすれば、回収遺骨が僅かであるとしても、一定の成果がある海外遺骨回収」と違い「拉致では何ら成果が無いこと」が何とも皮肉です。

*11:グアム以外ではプエルトリコヴァージン諸島北マリアナ諸島サモア準州に当たる。準州は州と違い「連邦議会に議員を送れない」「住民に大統領選挙の投票権がない」と言う制約がある(準州 - Wikipedia参照)

*12:グアム準州議会議員を経てグアム準州知事(ルー・レオン・ゲレロ - Wikipedia参照)

*13:著書『中世の史実と伝承』(1991年、東京堂出版)、『日本中世の伝承世界』(2005年、校倉書房)、『武者の世の生と死』(2008年、新人物往来社)、『将門伝説の歴史』(2015年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)

新刊紹介:「経済」2024年9月号

特集「中国の経済・社会」
中国経済:不動産不況で5%成長は止まるか(丸川知雄*1
◆中国のEV自動車(李澤建*2
◆岐路に立つポストコロナ時代の労使関係(石井知章*3
◆若者・新卒者の高失業率(横井和彦*4
◆中国におけるジェンダー平等(阿古智子*5
◆高齢社会化と社会保障制度(井手啓二*6
◆中国の南シナ海進出の拡大と対応(末浪靖司*7


◆株価高騰と株主主権型コーポレートガバナンス(國島弘*8
ゾンビ企業論を考える:中小企業と日本経済(山本篤*9


◆シリーズ・マルクスエンゲルスの古典案内⑤エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』(日野徹子)
◆シリーズ「現代のグローバル企業分析」第12回『ファイザー*10、ロッシュ*11武田薬品*12』(松原由美)

*1:東京大学教授。著書『現代中国の産業』(2007年、中公新書)、『チャイニーズ・ドリーム』(2013年、ちくま新書)等

*2:大阪産業大学教授。著書『新興国企業の成長戦略:中国自動車産業が語る”持たざる者”の強み』(2019年、晃洋書房

*3:明治大学教授。著書『中国社会主義国家と労働組合』(2007年、御茶の水書房)、『K・A・ウィットフォーゲルの東洋的社会論』(2008年、社会評論社)、『現代中国政治と労働社会』(2010年、御茶の水書房)、『中国革命論のパラダイム転換:K.A.ウィットフォーゲルの「アジア的復古」をめぐり』(2012年、社会評論社)、『ポストコロナにおける中国の労働社会』(編著、2024年、日本経済評論社)等

*4:同志社大学教授

*5:東京大学教授。著書『増補新版・貧者を喰らう国』(2014年、新潮選書)、『香港・あなたはどこへ向かうのか』(2020年、出版舎ジグ)

*6:長崎大学名誉教授。著書『中国社会主義と経済改革』(1988年、法律文化社

*7:著書『9条「解釈改憲」から密約まで:対米従属の正体』(2012年、高文研)、『機密解禁文書にみる日米同盟』(2015年、高文研)、『「日米指揮権密約」の研究』(2018年、創元社)、『米中関係の実像』(2022年、かもがわ出版

*8:創価大学教授。著書『経営学の組織論的研究』(1992年、白桃書房

*9:日本大学教授

*10:米国の製薬メーカー。1849年、チャールズ・ファイザーが創業

*11:スイスの製薬メーカー。1896年、フリッツ・ホフマン・ラ・ロッシュが創業

*12:日本の製薬メーカーでは売上高1位、世界の製薬メーカーでは売上高9位(2009年)であり、アステラス製薬(世界18位)、第一三共(世界20位)、大塚ホールディングス(世界21位:大塚製薬アース製薬大鵬薬品工業等)、エーザイ(世界29位)と共に国内5大製薬メーカーの一つ

今日もkojitakenに悪口する(2024年7/24日分)

「野田佳彦議員と小沢一郎議員が代表選で推す粘り強い交渉が上手な40代議員がいるといった動画を目にしたが、一体誰なのだろうか?」(笛吹打弦奏者さんのX) - kojitakenの日記
 随分と立民の代表選挙に興味があるモンだと苦笑します。
 俺は
1)まだ代表選挙は大分先(9月予定)で、誰が出馬するかも不明(枝野*1前代表など下馬評ならあるが、公式に出馬表明した人間はまだ誰もいない:泉*2代表が再選狙いで出ることだけは確かでしょうが)
2)そもそも立民党の党員、サポーターでないので選挙権もない
ために全く興味は無いですが。kojitakenや「類友」宮武嶺は党員やサポーターで選挙権があるんですかね?

 野田*3は敵味方論理によって小沢*4とだって平気で手を組める人であって、このあたりは保守政治家は決して躊躇しません。かつて野中広務*5が(ボーガス注:小渕*6自自公連立で)小沢と手を組んだのと同じです。

 まあ野田はともかく、野中も小沢もどちらも「ルーツは竹下派」ですからね。
 ついでに言えば
1)「反自民」を理由に日本新党(細川代表は首相)、新生党(羽田党首は細川内閣副総理・外相、また他にも藤井裕久*7蔵相、畑英次郎*8農水相熊谷弘*9通産相中西啓介防衛庁長官が入閣)、新党さきがけ(武村代表は官房長官、また鳩山代表幹事が官房副長官)と言った保守派と手を組んだ社会党(細川内閣で社会党からは伊藤茂運輸相、五十嵐広三*10建設相、佐藤観樹自治相、上原康助北海道・沖縄開発庁長官、久保田真苗経企庁長官が入閣)
2)「反小沢」を理由に自民党と手を組んだ社会党(自社さの村山、橋本政権)
3)「反小沢」を理由に中里長門氏が当選した陸前高田市長選で自民と手を組んだ共産
4)「反維新」を理由に自民と大阪市長選で手を組んだ共産
等のことを無視して「保守政治家は躊躇しません」というのも「何だかなあ」ですね。
 是非はともかくその辺りは左派(社会党共産党)だって「場合によっては躊躇しない」と思いますが。

*1:鳩山内閣行政刷新担当相、菅内閣官房長官、野田内閣経産相民主党幹事長(海江田、岡田代表時代)、民進党代表代行(前原代表時代)、立民党代表を経て立民党「つながる本部」特別参与

*2:希望の党、国民民主党国対委員長、国民民主党、立民党政調会長等を経て立民党代表

*3:鳩山内閣財務副大臣菅内閣財務相、首相、民進党幹事長(蓮舫代表時代)等を経て立民党最高顧問

*4:中曽根内閣自治相、自民党幹事長(海部総裁時代)、新生党代表幹事、新進党幹事長、党首、自由党党首、民主党幹事長(鳩山代表時代)、「国民の生活が第一」党首、「生活の党」党首等を歴任

*5:村山内閣自治相、小渕内閣官房長官自民党幹事長(森総裁時代)等を歴任

*6:竹下内閣官房長官自民党副総裁(河野総裁時代)、橋本内閣外相党を経て首相

*7:細川、羽田、鳩山内閣で蔵相

*8:羽田内閣で通産相

*9:羽田内閣で官房長官

*10:村山内閣で官房長官

「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2024年7/24日分:島田洋一の巻)

◆島田*1ツイート

島田洋一
 米議会が、指導力を欠くシークレットサービス・トップを厳しく追及し、辞任に追い込んだ。
 日本の国会と違い、役割を果たしている
シークレットサービス チートル長官が辞任と発表 米政府 トランプ前大統領 銃撃事件 | NHK | トランプ前大統領2024.7.24
 アメリカ政府は23日、シークレットサービスのトップのチートル長官が辞任したと明らかにしました。
 チートル長官は議会下院の委員会で22日、開かれた公聴会で「トランプ氏に対する暗殺未遂は、シークレットサービスにおいてこの数十年でもっとも重大な失敗だ」と述べて、責任を認め、複数の議員が辞任を求めていました。
 バイデン大統領は声明を発表し、「このような事件は二度と起きてはならない」としたうえで、速やかに後任を任命する考えを示すとともに、銃撃事件をめぐって警備態勢を検証する第三者による独立した調査を引き続き行うとしています。

 第一に「裏金疑惑追及(野党だけで無くマスコミもですが)」で「安倍派五人衆」が閣僚(当時の松野*2官房長官、西村*3経産相)、党役員(当時の世耕*4自民党参院幹事長、高木*5自民党国対委員長、萩生田*6自民党政調会長)辞任に追い込まれたことは「国会が役割を果たしたこと」ではないのか?
 第二に「安倍の暗殺」を云々するなら、国会追及ではないですが、「今回辞任に追い込まれた米国シークレットサービスのトップ(チートル長官)」にあたる、当時の中村*7警察庁長官、鬼塚奈良県警本部長(安倍の暗殺場所は奈良)は引責辞任に追い込まれていますし、その後、警察から暗殺事件についての報告書も出ている(例えば安倍元首相銃撃 なぜ防げなかった 警察庁の検証結果は|NHK事件記者取材note参照。警備の問題として「後方から山上が近づいたことを気づかなかったこと(後方からの襲撃を予測せず、聴衆の多い前方ばかり注意していた)」「最初の発砲時には銃声と気づかず、安倍を演台から下ろすなどの対応が遅れ二発目の狙撃を許したこと(一発目は当たらず、二発目が当たって致命傷となったため、演台から下ろすなどすれば死ななかった可能性がある)」を上げている)。
 勿論国会で「何故暗殺に至ったのか(警備の問題点はどこか)」を追及してもいいでしょうが「追及しないといけない」わけでもないでしょう。
 島田が何が言いたいのか、分かりません。安倍暗殺(2022年7月)の直後(2022年8月)の内閣改造で、「暗殺当時の二之湯国家公安委員長」が閣僚辞任したものの「少なくとも建前では引責辞任では無く、通常の内閣改造」にすぎないことが許せないのか?
 あるいは未だに山上の刑事裁判が始まらないことを「検察の怠慢だ、早く裁判を開始しろ」「首相、法相は検察をきちんと指導しろ」と野党に追及して欲しいのか?
 あるいは、今の閣僚、自民党役員に島田的に「野党やマスコミの追及」で辞めて欲しい人間がいるのか、いるとしたら誰なのか?。
 そうした人間がいるなら「防衛省不祥事の木原防衛相」など具体名を出して欲しいもんです。

*1:福井県立大名誉教授。救う会副会長。国家基本問題研究所評議員兼企画委員。著書『アメリカ・北朝鮮抗争史』(2003年、文春新書)、『3年後に世界が中国を破滅させる』(2020年、ビジネス社)、『アメリカ解体』(2021年、ビジネス社)、『腹黒い世界の常識』(2023年、飛鳥新社)等

*2:第三次安倍内閣文科相、岸田内閣官房長官等を歴任

*3:第三次安倍内閣官房副長官、第四次安倍、菅内閣経済財政担当相、岸田内閣経産相等を歴任

*4:第一次安倍内閣首相補佐官(広報担当)、第二次、第三次安倍内閣官房副長官、第四次安倍内閣経産相自民党参院幹事長(岸田総裁時代)等を歴任

*5:第三次安倍内閣復興相、自民党国対委員長(岸田総裁時代)等を歴任

*6:第三次安倍内閣官房副長官、第四次安倍、菅内閣文科相、岸田内閣経産相自民党政調会長(岸田総裁時代)等を歴任

*7:和歌山県警捜査第二課長、千葉県警捜査第二課長、警視庁刑事部捜査第二課長、警視庁刑事部長、警察庁組織犯罪対策部長、警察庁長官官房長、次長等を経て警察庁長官