今日もid:noharra氏に突っ込む(9/4分)(追記・訂正あり)

 よーし、きょうもおじさん、大嫌いな「珍右翼」id:noharra先生を批判しちゃうぞ(毒)

【その1】

@noharra 開沼博という社会学者は何を言っているんだろう。地元民が原発を拒否できないなら他者は口を出すな、か。デモは敵対性の確認でありその結果現実が変化することもある。しかしそのとらえ方が「あいつのせいで」みたいな小学生レベル。原発信仰にそまった住民に同化したか。(id:noharraツイッター

 野原が紹介するサイゾーの開沼インタビュー(http://www.cyzo.com/2011/08/post_8120.html)を読んで改めて野原の文章読解力のなさに呆れた。
 開沼の本『「フクシマ」論:原子力ムラはなぜ生まれたのか』(2011年、青土社)は読んでないがインタビューを読む限り、開沼の主張は「福島県民が原発依存して生活してきた以上、原発に代わる生活の糧を論じない限り、原発で食ってきた福島県民には説得力が今ひとつ弱いのではないか」というものだろう。
 「原発反対派を力でねじ伏せたり、県を補助金で買収するなど、そうした状況を意図的に作り出した日本政府への批判意識(原発で食っていくという路線は自然に成立したわけではない)」がインタビューを読む限り、開沼にない、あるいは弱い点は問題だと思うが、少なくとも開沼は本音はともかく、建て前では「現状のままで100パーセント良い」とは言っておらず、開沼を原発推進派扱いする野原は明らかにずれている。
(なお、俺が開沼本を全面支持してると誤解されるのも嫌なので「星1つ」「星2つ」などのAmazonの批判レビューを参考までに紹介する。もちろん好意的レビューもあるが。俺は読んでないので何とも言えないが、もしこれらのレビューが批判するように開沼に鎌田、堀江、樋口など先行研究者・ジャーナリストを無視した我田引水なところがあるのだとすればトンでもない思い上がりだと思う)

『「フクシマ」論』に批判的なAmazonレビュー
1)よくできた修士論文, 2011/8/23
By 以丸 (千葉)
 よくできた修論である。
 だが、これまで原子力を受けれてきたムラの論理が理解されてこなかったという問題意識には大きな問題がある。内橋克人鎌田慧の著作などを読めばわかるように、原子力を受け入れて来た人々が一方的な被害者といった受動的な存在ではないことはかなり以前から伝えられてきた。
 著者はフィールドワークを行いムラに迫っていくが、内橋や鎌田などには遠く及ばない。
 また論理が先にあり原子力ムラの分析から結論や主張が導き出されたとも言い難い。スピヴァクが好きなのはわかるが、突然引用して何か言った気になるのはやめて、とりあえずもっと勉強した方がよいだろう。後半のよくある冗長な社会分析はカットしてしまった方がよかった。
 インタビューでの著者の物言いが話題になったが、修論を書き終えていきなり出版されて「自分が第一人者だ」と勘違いするのはよく理解できるが、単純な二分法が蔓延してきたわけではないし、著者が考えるよりも多くのことが考えられ、言われてきたことを知るべきである。
 修論としては力作だが、ムラの人々に迫りたいのなら、内橋克人『日本の原発、どこで間違えたのか』(2011年、朝日新聞出版)、鎌田慧『日本の原発危険地帯』(2011年、青志社)、堀江邦夫『原発ジプシー』(1984年、講談社文庫。後に加筆訂正した上で『原発労働記』 (2011年、講談社文庫)として再刊行)、樋口健二『これが原発だ』(1991年、岩波ジュニア新書)などを読むことをお勧めする。



2)県政のまとめとしては有益、フィールドワークはあくまで原発のお膝元のみ, 2011/7/31
【まとめ】
 この本において著者は原発のお膝元で、なぜ、どのように原発が肯定的に受け入れられているかを描き出そうとしています。第一に双葉郡の住民20名弱から得られた発言を、地元の村史や地元紙の記事をとともに紡ぎあわせ、彼らが原子力に対する科学的な知識をなしに、漠然とした希望、特に村興しの起爆剤になるという期待を持って原発を受け入れたことを描いています。このことを著者は(植民地研究の文脈から)「自発的な服従」、また「漠然とした信心」と称し、それに苛立ちを覚えています。第二に佐藤栄佐久元知事へのインタビューも行いながら、戦前の水力発電所開発からの歴史をひもとき福島県政が中央との強いコネクションを元に原発を誘致したことが記述されます。

【学術的な問題点】
 社会学者、取り分けカルチュラルスタディーズを専攻とする著者にとっての売りは第一の「認識」の問題なのでしょう。しかし、その点については学術的に不十分であり、また「フクシマ」論としてはミスリーディングな議論が多いです。
 端的に言えば、ここで書かれている住民というのはあくまで原発のお膝元である双葉郡についてのみであり、その住民の選定もどこまで客観的に行われたかは疑わしく、これを福島県民全般に広げることはできないことに読者はよく注意すべきです。

・対象の選定:
 著者は「葛藤がなかった」ことを理由に対象を福島第一・第二原発双葉郡富岡町大熊町)に絞り、この地区で原発が肯定的に受け入れられたとしています。しかし同じ福島県海岸部でも、双葉・浪江原発は反対運動のため建設は進んでいません。このことの重要性は著者は認識しているにもかかわらず、数頁しか割かれません。

・社会調査の記述:
 原発との利害関係に関わらず原発に肯定的だったというテーゼを証明するために、聞き込みの対象としては原発と関係しない住民を選んだとしています。まずその聞き込みが20人弱という少数であるのは、このような非統計的調査では仕方ないでしょう。しかし各住民の特性は住所と年齢・性別しか与えられず、またどの発言がどの住民のものかもわかりにくいです。従って各発言から著者が導き出している結論について、読者が検証することはできません。

・対象の厳密さ:
 著者は社会調査だけでなく様々な史資料で彼の考察をサポートしています。県政についての史資料を使うのは、原発立地のプロセスを考えれば当然ですし、そこで福島県の政治家が中央に対して能動的であった旨の描写は注目に値します。他方で地元住民の認識を論ずるところで、たとえば相馬・いわきの詩人、常磐炭鉱の労働者の言説を引いているのですが、これらはいずれも原子力双葉郡とは関係なく、ただパラレルであることが仮定されているだけです。


 著者は本の冒頭において(双葉と限定せずに、また実際「平・湯元」への言及からするにいわきの住民の声として)、いまだに福島県民が原発に対して肯定的であり、ともすればこの事故を雇用の機会として捉えているかのように読者に印象付け、そして著者の憤りを共有させようとしています。しかし、まず調査対象である双葉郡においてもどこまで一般的な認識かは疑わしく、そしてそもそも双葉の調査でしかないものをあたかも「フクシマ」全般に演繹することはできないでしょう。
 本の中では、双葉郡が「福島のチベット」と言い、県内の経済格差をクロスセクションの図も用いて表しています。その図をよく見れば同じ海岸部の中でも相馬やいわきは比較的豊かであったことがわかります。また私自身がこの夏に相馬を訪ねたときの住民の方々の声からも、(人によっては事故前から)原子力に対してさほど肯定的でなく、東電・政府(また人によっては立地を受け入れた地元の町村)に対して憤りを強く表していました。


※一般読者にとっては問題ではないでしょうが、ここで引用される学術文献が日本での原発に関する社会調査と、スピバックその他の社会思想に限られています。私は社会学者そのものではないのですが、アメリカの社会学の文献(そもそも非日本語の文献)もきちんと調べたのでしょうか。また日本語であっても社会学以外の地域研究も狩猟したのでしょうか。とりわけ、理論部において著者の貢献がどこまで独自なのかは、彼が引用する文献リストでは不分明です。修士論文であれば尚更、大風呂敷を広げる前に、対象がどんなに小さくとも厳密にし、また貢献もどんなに小さくても明確にすべきでしょう。

 
【アクチュアルな問題】
 原発の立地する双葉郡を対象とした著者の調査は十分に意義のあるもので、先述のような問題はあるにせよ更に発展させるべきでしょう。しかしこれを「フクシマ」論と称し、また著者も積極的に「福島県」出身(ただし「いわき」であり原発の地元ではない)を触れ回っているのは、誠実さに欠け、また現在の情況を鑑みるに有害だとさえ言えます。
 すなわち、この本が売れる土壌として、人々がもはや双葉のみならずフクシマ全体が放射能に汚染され、また原発立地の当事者と看做してる情況があります。他方で、双葉はともかく、一般的な県民には(ごくわずかの核燃料税を除けば)原発による利益は無く、むしろ今は大なり小なりの放射能汚染を蒙り、そして「フクシマ」というだけでの負のレッテル張りに悩まされています。ウェブ上や私の周辺でも、福島県出身というだけで原発の恩恵を受け、そして原発を積極的に推進した咎を負わせようとする心無い人が十二分にいました。
 そのような情況の下で、双葉郡住民が積極的に受け入れたことを「フクシマ」の問題として提示するのは、著者と出版社にとっては派手に売るよい戦術であるものの、「フクシマ」や県民に対する誤解を増すばかりです。いわきも原発交付金は受けておらず、原発の恩恵は大きくない一方で、今は(放射能の線量はさほど高くないにもかかわらず)震災直後に物資は滞り、いまも観光客は激減しています。(相馬、会津、郡山、福島市等々もしかり。)
 著者はそのいわき出身であり、むしろそのような誤解を解きたいと思ってしかるべきなのに、本では県内の違いをぼやかしています。そして佐野眞一氏からの献辞でも見られるように、あたかも調査対象である原発そのものの地元出身であるかのように思わせ、特権的なポジションを甘受することに躊躇が無い。(そもそも「あとがき」において国道六号沿いの風景を殊更に醜く描写しており、これを読むと佐野氏が言う「郷土への愛」があるとは思えないでしょう。) 私はこのような著者のスタンスと売り込み方に強い憤りさえ覚えます。


【追記 2011/8/18】
 著者の最近のtwitterを見たところ、私のコメントと同様に福島県内での多様性に目を配るべきではないかという著者にコメントしている社会学系の研究者がいた。それに対し著者は、この本では問題設定を(本文中で)原発立地村に限定しており、そのようなコメントは「鳥類図鑑に蝶々が載ってない」というクレイムと同じだと返している。
 もしも著者と同じ例えをするならば、著者はまずカラス(原発立地村)の調査だけで鳥類図鑑(「フクシマ論」)と銘打って、更に自分が鳩(「いわき」出身)だからといってカラスの気持ちもよくわかるという売り方をしている。しかし上述のように、カラスの言うことを持論に合うように都合よく解釈している傾向があり、また検証を不可能にさせている。そして都合よく機会主義的に「フクシマ」の意味を広げたり縮めたりしている。この2点に、社会科学者として、また今この時期に発言する者としての不誠実さを感じる。
 著者はトークショーやベストセラーランキングをRe-tweetしたり、行政とのコネクションを作り、自分を売り込むことに忙しいようだ。しかし、この本自体は所詮は内実共に「修士論文」でしかなかったのであり、自分の論の不完全さを素直に受け止め、世間に大風呂敷を広げるのをやめたほうがいい。またそのように諭すのが、吉見俊哉氏や上野千鶴子氏といった指導教官の為すべき指導ではないだろうか。


 しかも野原の引用は何故か、開沼の発言通りでないという奇っ怪な代物だ。

野原の引用

「デモ自体がハラスメントにつながりかねないことに無自覚なままになされている。「即座に原発をなくせ」ということが、ただでさえ生活が苦しい原発立地地域の人間にとっては仕事を奪われることになる。奇形児を作らせるなと叫ぶ。手放しでは見過ごせません。

は実際の開沼インタビューでは

デモ自体がハラスメントにつながりかねないことに無自覚なままになされている故に批判をせざるをえない。「即座に原発をなくせ」ということが、ただでさえ生活が苦しい原発立地地域の人間にとっては仕事を奪われることになる。それがどれだけウザいか。「奇形児を作らせるな」と障がいがある方もデモに参加している中で叫ぶ。新たな抑圧が生まれかねない状況がある以上、手放しでは見過ごせません。

となっている。何故、正確に引用しないのだろうか?

「奇形児を作らせるな」と障がいがある方もデモに参加している中で叫ぶ。新たな抑圧が生まれかねない

という開沼の指摘はかなり重要だと思うが。確かに「(人為的に)奇形児を産む」ような技術・原子力は止めさせるべきだが、注意しないと障害者差別の助長になりかねない物言いでもあるだろう。
(ちなみに俺もこの開沼インタビューにはかなり問題があるとは思う。俺の知る限り「即座に原発をなくせ」という人間はほとんどいない。また、この開沼発言だと、「無駄な公共事業」などの批判も「仕事に従事している人には仕事を奪われることになる。それがどれだけウザいか」ということで一切、現状批判が出来ない事になりかねない。そして今回の原発事故によって仕事を奪われている人のことを開沼はどう考えているのか。原発は仕事を福島県民に与えただけでなく、一方では奪ってもいるのだ。インタビューを読む限り、その辺りに開沼は配慮がなさ過ぎる。)


【その2】

(注:北一輝の)「国体論及び(注:純正社会主義)」読了。まあ祝杯をあげよう。 つまらない趣味と 人には言われるでしょうが。趣味はひとそれぞれ。S某(注:俺のことだろう)のように自己の常識を疑う術を知らずしたがって本を読む必要もないまま死んでいく人に比べれば(とすれば)、幸せということになるかもしれない。(id:noharraツイッター

・陰口か、このゲス野郎。俺だって量や質の点ではお粗末なものだが、本ぐらい読んでる*1(その結果、常識が覆されるというか、そこまで大きなことでなくても、意外な事実を知ると言うことはある。蓮池透「拉致」(かもがわ出版)を読んで、増元照明なんぞとは違う、マスコミでは余り取り上げられない拉致被害者家族の意見を知るとかな)。
 お前の方こそ、日弁連や国連などの批判意見をよく読んで「朝鮮学校無償化除外は朝鮮学校の子どものため」という自分の常識を疑ったらどうなのかね?。
 ちなみに本ではないが、最近もネットのニュース(朝鮮日報など)で「ロシア及び南北朝鮮による北朝鮮通過ガスパイプライン計画」という日本マスコミがあまり報じない意外な情報を知り,改めて「野原たちが唱える対北朝鮮強硬論」がいかに現実性のないバカげた代物か知ることが出来た。
・そもそも、(今まで知らなかった新しい事実を知るならともかく)俺も含めて凡人の場合、そう簡単に自分の常識が覆されるなんて事はまずない(なかなかそう言う体験が出来ないし、そう言う体験をしてもいわゆる「認知的不協和」だの何だので上手く受け止めることがなかなか難しい)のであって、そう言うことが簡単に出来ると思ってるらしいところが野原はずれてる。
・大体、お前のその読書って「北一輝は偉大だ!」で終わりなんだろ?。それのどこが「自己の常識を疑う術」なんだか。「本当に北は偉大なのか、偉大だとしてどこが偉大なのか、いろいろな研究書を読んで考えてみよう」とか「この偉大な北と、三井財閥にたかる事件屋の北とどう整合的に理解したらいいのだろう?。北が老いて、堕落したと言うことか?」とかいう検討はしないと(毒)
・野原は自分の所属する「守る会」や、自分が好きだという「渡辺京二」について俺に「大した代物じゃねえと思うな、むしろくだらなくねえか」という趣旨の否定的評価を書かれてむかついたが、上手く反論も出来ずにマジギレして、俺に対する罵倒に走ってるだけなのだろう。


【その3】

@Siranlre @nemesis1125 歴史教科書は中立ではなかった。

そもそも歴史認識ってのは「1+1=2」みたいな代物じゃなくて主観性を免れない代物だからな。蒸留水みたいな意味での「中立」だの「客観的」だのって歴史認識はそもそもねえよ。そう言う理解が野原になさそうなのが何ともかんとも。

ただ「中国侵略」という認識を死んでもしたくない産経一派が話を混乱させている事は確か。

で、その産経一派には君の入ってる「守る会」の代表・三浦は入るのかね?。入るとして君は三浦批判をしてるのかね?

*1:俺が読んだ「本の一部」についてはこのブログでも紹介している