宇都宮太郎と宇都宮徳馬(追記あり:大平正芳と阿片)

宇都宮太郎日記に見る堤岩里虐殺事件の隠蔽過程 - 読む・考える・書く
 この記事で「堤岩里虐殺事件」の犯人の一人として非難されている「朝鮮軍司令官・宇都宮太郎*1」は「朴正熙批判、金大中支援」で知られる宇都宮徳馬*2の実父です。
 徳馬氏の「金大中支援」には「実父の行為への贖罪意識」もあったのかもしれません。
 とはいえ、

安倍晋三*3
 戦前、満州国総務庁次長、商工次官、東条*4内閣商工相を歴任し、戦犯容疑者(但し不起訴)だった岸信介*5の孫
◆板垣正*6
 満州事変の首謀者の一人(当時、関東軍高級参謀)で戦後、死刑(後に靖国合祀)となった板垣征四郎*7の息子
平沼赳夫*8
 戦後、終身刑判決となった平沼騏一郎*9の親族

などは「親族の行為」への贖罪意識はどう見てもない「戦前美化右翼」なので結局は「当人にまともな常識があるかどうか」という話のわけです。

【追記】
 コメント欄で大平*10と田中*11について指摘がありますがウィキペディアを引用しておきます。

田中角栄 - Wikipedia
 1939年に入営し、4月より満州国で兵役に就く。しかし、1940年11月に肺炎を発症、翌1941年2月内地に送還される。治癒後の1941年10月に除隊、翌11月に田中建築事務所を開設し、1942年3月に事務所の家主の娘、坂本はなと結婚した。家主は土木建築業者で、結婚によりその事業も受け継いだ。1943年12月に、田中土建工業を設立。1945年2月、理化学興業(現在のリケン)の工場を大田(テジョン)に移設する工事のため、朝鮮半島に渡る。敗戦後の8月下旬に朝鮮半島から引き揚げた。

大平正芳 - Wikipedia
1939年(昭和14年
 興亜院にて大陸経営にかかわり、1939~1940年に張家口の蒙疆連絡部で勤務した

興亜院 - Wikipedia
 後に首相となる大平正芳は興亜院の蒙疆連絡部や経済部で勤務したことがある。1939年6月から1940年10月まで、大平は蒙疆連絡部経済課主任、課長を歴任し、在任中、阿片政策を職務として遂行した、という(倪志敏『大平正芳と阿片問題』(『龍谷大学経済学論集』第49巻第1号(2009年9月))
 大来佐武郎*12(第二次大平内閣外相:いわゆる民間人大臣)、伊東正義*13(第二次大平内閣官房長官)、佐々木義武*14(第二次大平内閣通産相)(なお、伊東、佐々木とも大平派所属)も官僚時代、興亜院勤務で大陸に渡っていた。このため、第二次大平内閣は自民党内から「興亜院内閣」と呼ばれた。

中国侵略に加担した贖罪意識。岸田総理は大平正芳の哲学を学べ<東京工業大学教授・中島岳志氏> | 日刊SPA! | ページ 2
◆中島*15
 大平のベースにあったのは、戦前、大蔵省から中国の興亜院に出向した経験です。興亜院は対中国占領政策を扱っていた中央機関で、大平はその連絡部の一つである内蒙古の張家口に赴任しました。張家口周辺は農業地帯で、アヘンを大量に輸出していたことから、大平は日本政府が占領支配にアヘンを利用した「アヘン政策」に関わらざるを得ませんでした。大平はのちに嫌な経験だったと話していたそうです。
 日本が敗戦を迎えたあとも、大平は自分が侵略の一端を担ったという自覚と内省を持ち続けていました。この贖罪意識を抜きにして、大平の政治を語ることはできません。

NHKスペシャル 「調査報告 日本軍と阿片」 その8 | 岩崎公宏のブログ
 2000年(平成12年)12月18日にテレビ朝日の「ニュースステーション」で「教科書にのらない歴史:日本高級官僚とアヘンの歴史」という特集が放送されたときのことを思い出した。満州国の資金源になった阿片について、その生産と販売に日本の当時の高級官僚たちがどのように関与していたのかを検証していた。(ボーガス注:満州国総務庁次長だった)岸信介福田赳夫*16、(ボーガス注:興亜院蒙疆連絡部経済課長だった)大平正芳といった戦後に総理大臣に就任した人たちや戦後に(ボーガス注:大阪高検検事長から最高裁判事となり)最高裁判所の長官に就任した岡原昌男氏*17らが阿片の管理に関与したことを伝えていた。

 要するに当時の日本はアヘン売買で金を儲けていたわけです。そして「大平がそれに関与していた」なら贖罪意識があって当然でしょう。むしろなかったらその方が怖い。ただし、岸にはそうした贖罪意識はないみたいですが。

【参考:満州国とアヘン(日本のアヘン王・二反長音蔵)】

二反長音蔵 - Wikipedia
 1875~1951年。「日本の阿片王」と称された。息子・二反長半二郎(にたんちょう・はんじろう:1907~1977年)は二反長半(にたんおさ・なかば)の筆名で小説家となり、父の伝記『戦争と日本阿片史:阿片王・二反長音蔵の生涯』(1977年、すばる書房)を著している。
【参考文献】
◆倉橋正直*18『日本の阿片王:二反長音蔵とその時代』(2002年、共栄書房)

二反長半『戦争と日本阿片史』(すばる書房)
 本書は、日本の阿片ケシ栽培の先駆者である二反長音蔵(にたんちょう・おとぞう、1875~1951)の生涯を阿片栽培の歴史とからめてまとめた本である。著者は音蔵の次男で、1907年生まれ。本名を二反長半二郎(にたんちょう・はんじろう)といい、長じてから二反長半(にたんおさ・なかば)というペンネームで児童文学者となり、関西で活動した。この本の校正が終わった直後に倒れ、不帰の客となる。つまり、この本は著者の遺著というわけだ。
 音蔵の一代記は、この本の価値の1/3だ。別の1/3は、一次資料に基づく、日本の阿片闇商売の実態の記述である。
 それによると、日本陸軍が阿片密売のうまみを知ったのは、第一次世界大戦で青島を攻略・占領した時だった。勝利と同時に陸軍は現地の阿片流通ルートも掌握し、1922年に撤兵するまでにかなりの裏金(30万円とも100万円とも)を作ったのだという。
 天津における阿片流通も書いてあって、そこには「星製薬のモルヒネが最上級品として取り引きされている」とある。これは、星新一*19が(ボーガス注:父・星一の評伝)『人民は弱し・官吏は強し*20』(ボーガス注:新潮文庫)で描いた星製薬のモルヒネビジネスが、必ずしもきれいごとのみではなかったことの傍証と言えるのではなかろうか。
 そう、本書の価値の最後の1/3は、音蔵と星一の関係についてである。
 (ボーガス注:台湾総督府民政長官の)後藤新平*21と懇意だった星一は台湾阿片に目を付け、後藤のバックアップを受けてモルヒネの精製に成功する。星は、モルヒネ原料の阿片ケシの国産化を画策し、その過程で星と音蔵は知り合った。星は阿片ケシ栽培にいそしむ音蔵を激賞し、鼓舞する。
 やがて、後藤・星のラインはモルヒネ利権を握っていたが故に、後藤の政敵であった加藤高明*22(1860~1926)、そして加藤と結びついた第一製薬*23・三共製薬、さらには星と不仲であった内務省*24からの激烈な攻撃にさらされることになる。
 攻撃のネタとなったのは台湾総督府と星製薬の癒着だった。台湾総督府高官の夫人が組織した婦人慈善会という組織が、星製薬の株式を大量に持っていたのである。創業者の星一の持ち株が3572株、対して婦人慈善会の持ち株は3200株*25。大変な量だ。これが「利益供与ではないか」と1918年(大正7年)末から翌年にかけての第41期帝国議会において(ボーガス注:加藤が総裁を務める野党)憲政会から追及されたのだ(ボーガス注:1918年当時、星と昵懇の関係にある後藤は寺内*26内閣外相の要職にありました。加藤の攻撃目的は最終的には後藤打倒でしょう)。
 音蔵は星の苦境に胸を痛め「公正明大にやらねばならん」と星に書簡を送ったという。が、星からの返事はなかった。本書によると、この騒動の直後に星製薬株主リストから、婦人慈善会は消えているとのこと。どうもこの婦人慈善会は、星一が裏で動いて設立させたものらしい。受け皿もお膳立てしての株式譲渡なら、完全な利益供与である。
 これに「阿片事件」が追い打ちを掛ける。1921年(大正10年)、横浜税関に100トンを超える精製前の阿片が星製薬の所有物として置いてあるのが見つかったのだ。星の側からすると「税関は慣習として国内法の適用を受けない」ということで、関係官庁に話を通した上で置いていたものだったが、「星が違法の阿片を国内に持ち込んだ」ことになり、一大裁判となってしまった。最終的にこの件は星の無罪となるが、これにより星製薬は大きな打撃をうけた。
 本書が描く星一と星製薬の苦難はここまでである。その後、1924年大正13年)に(ボーガス注:後藤の政敵)加藤高明内閣総理大臣に就任して、星製薬にはより一層の圧力がかかるのだが、おそらくは二反長音蔵とは関係なしということで割愛したのだろう。
(ボーガス注:こうした加藤らの星製薬攻撃を「言いがかり」として描いているのが『星一の息子』である星新一の小説『人民は弱し・官吏は強し』ですが、どうもそれは息子・新一のかばい手であり、話はそんなに単純ではなさそうです。なお、星一擁護をするにおいて都合が悪いからでしょうが「阿片事件」については『人民は弱し・官吏は強し』(小生は読んだことがあります)において「税関の言いがかり」として描かれますが、婦人慈善会疑惑は全く出てきません。まさか新一がこの事実を知らなかったとは思えません。『この件で父が潔白とは言えないが、かばいたい。全てを加藤高明らの言いがかりにしたい』ということで故意にネグったのでしょう。さすがに「リクルート事件まがいの株式大量譲渡」なんて正当化できなかったと。いかに「実の親」への愛情とはいえこうした星新一の行為は「歴史の捏造」でしかない。「小説家としての才能」はともかく人間としては「歪んだ身びいき」から逃れることができなかった駄目人間が星新一と言っていいでしょう)。
 私にとっては色々知らないことが多く、大変ショッキングな一冊だった。

弁護士会の読書:日本の阿片王
 戦前、ケシの栽培と普及に一生をかけ、日本だけでなく、中国・台湾・朝鮮にまで渡って指導していた1人の日本人がいた。その名を二反長音藏(にたんちょう・おとぞう)という。この本は、日中戦争と阿片の関係を見事に解明している。
 100万の大軍を(ボーガス注:1937年の盧溝橋事件による日中全面戦争から1945年の終戦まで)8年もの間、中国大陸に派遣し続けることは、日本の歴史はじまって以来の未曾有の大事業であった。それに要する費用は、当然、莫大なものとなり、日本にとって予想外の負担であった。日中戦争の本質は、まさに「片手に剣、片手に阿片」による侵略戦争であった。阿片政策がなければ、8年もの長期間、100万の大軍を中国大陸に派遣し続けることなどとうてい不可能であった。すなわち、日中戦争を裏方の財政面で支えていたのは阿片政策であった。1930年代、日本は、モルヒネ・ヘロイン・コカインの生産では、ダントツの世界第一位だった。世の中、本当に知らないことだらけですね。

*1:1861~1922年。参謀本部第2部長、第7師団長(北海道)、第4師団長(大阪)、朝鮮軍司令官など歴任

*2:1906~2000年。ミノファーゲン製薬創業者。自民党衆院議員→ロッキード事件を機に離党し、無所属の参院議員。著書『暴兵損民』(1984年、徳間書店)、『軍拡無用』(1988年、すずさわ書店)

*3:自民党幹事長(小泉総裁時代)、小泉内閣官房長官を経て首相

*4:1884~1948年。関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、陸軍航空総監、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣、首相を歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀

*5:1896~1987年。戦後、日本民主党幹事長、自民党幹事長(鳩山総裁時代)、石橋内閣外相を経て首相

*6:1924~2018年。自民党参院議員。日本遺族会事務局長

*7:1885~1948年。関東軍参謀長、第一次近衛、平沼内閣陸軍大臣支那派遣軍総参謀長、朝鮮軍司令官、第7方面軍司令官(シンガポール)など歴任

*8:村山内閣運輸相、森内閣通産相小泉内閣経産相たちあがれ日本代表、維新の会代表代行(国会議員団長兼務)、次世代の党党首など歴任

*9:1867~1952年。検事総長大審院長、第2次山本内閣司法相、枢密院議長、首相、第2次近衛内閣内務相など歴任。終身刑で服役中に病死。後に靖国に合祀

*10:1910~1980年。池田内閣官房長官、外相、佐藤内閣通産相、田中内閣外相、蔵相、三木内閣蔵相、自民党幹事長(福田総裁時代)などを経て首相

*11:1918~1993年。岸内閣郵政相、池田内閣蔵相、佐藤内閣通産相自民党政調会長(池田総裁時代)、幹事長(佐藤総裁時代)などを経て首相

*12:1914~1993年。経済企画庁総合開発局長、日本経済研究センター理事長、海外経済協力基金総裁、国際大学学長、世界自然保護基金日本委員会会長、放送文化基金理事長、日本国際フォーラム会長など歴任

*13:1913~1994年。農林事務次官から政界入り。大平内閣官房長官、鈴木内閣外相、自民党政調会長(中曽根総裁時代)、総務会長(竹下総裁時代)など歴任

*14:1909~1986年。科学技術庁原子力局長から政界入り。三木内閣科技庁長官、大平内閣通産相など歴任

*15:著書『ヒンドゥーナショナリズム』(2002年、中公新書ラクレ)、『パール判事』(2012年、白水Uブックス)、『ナショナリズムと宗教』(2014年、文春学藝ライブラリー)、『「リベラル保守」宣言』(2015年、新潮文庫)、『血盟団事件』(2016年、文春文庫)、『アジア主義』(2017年、潮文庫)、『親鸞と日本主義』(2017年、新潮選書)、『ガンディーに訊け』(2018年、朝日文庫)、『保守と大東亜戦争』(2018年、集英社新書)など(中島岳志 - Wikipedia参照)

*16:1905~1995年。大蔵省主計局長から政界入り。岸内閣農林相、自民党政調会長(池田総裁時代)、幹事長(佐藤総裁時代)、佐藤内閣蔵相、外相、田中内閣行政管理庁長官、蔵相、三木内閣副総理・経済企画庁長官などを経て首相

*17:1909~1994年。法務省刑事局長、千葉地検検事正、東京高検次席検事、京都地検検事正、札幌高検検事長福岡高検検事長大阪高検検事長最高裁判事など歴任

*18:愛知県立大学名誉教授。著書『日本の阿片戦略:隠された国家犯罪』(1996年、共栄書房)、『阿片帝国・日本』(2008年、共栄書房)など(倉橋正直 - Wikipedia参照)

*19:1926~1997年。星製薬社長、星薬科大学創設者・星一(1873~1951年)の息子

*20:新一には他にも星一アメリカ留学時代を描いた『明治・父・アメリカ』(新潮文庫)がある。なお、手元に本がなく、ネット情報が根拠ですが『人民は弱し・官吏は強し』の解説は「鶴見俊輔(1922~2015年:星と昵懇だった後藤新平の孫)」が書いているようです。

*21:1857~1929年。台湾総督府民政長官、南満州鉄道総裁、第2次桂内閣逓信相(内閣鉄道院総裁兼務)、第3次桂内閣逓信相、寺内内閣内務相、外相、東京市長(今の都知事)、第2次山本内閣内務相(帝都復興院総裁兼務)、東京放送局(今のNHK)総裁等を歴任。首相候補として名前が取り沙汰されながら結局就任できなかった原因として、第3次桂内閣逓信相当時、桂の政敵だった政友会総裁・西園寺公望の失脚を画策し、首相選出に強い影響力を持つ元老となった西園寺に嫌われていたことが大きいという(後藤新平 - Wikipedia参照)。

*22:1860~1926年。第四次伊藤、第一次西園寺、第三次桂、第二次大隈内閣外相、首相を歴任。首相在任中に病死しているが、首相在任中の病死として他には加藤友三郎大平正芳小渕恵三がいる。

*23:2005年に三共製薬と合併し、現在は第一三共製薬

*24:『人民は弱し・官吏は強し』では和歌山県知事、愛媛県知事新潟県知事、警視総監、台湾総督、東京市長(今の都知事)などを歴任した内務官僚・伊沢多喜男(劇作家・飯沢匡の父親)が「星攻撃者の一人」として登場します。

*25:「値上がり確実なリクルートコスモス(現在はコスモスイニシアに社名変更しリクルートグループではなく、大和ハウス工業グループ)の未公開株が中曽根首相ら政治家に供与された」リクルート疑惑を連想するのは俺だけではないでしょう。

*26:第一次桂、第一次西園寺、第二次桂内閣陸軍大臣、韓国統監、朝鮮総督、首相を歴任