新刊紹介:「歴史評論」2024年9月号(その1)(副題:映画『八甲田山』ほか)

特集『慰霊と顕彰*1から考える日本の近現代』
【前振り】
 必ずしも「全ての論文」で靖国護国神社について触れてるわけではないですが、「(戦没者の)慰霊と顕彰」と言った場合、靖国護国神社は「国営だった戦前」は勿論「今も自民政治家らが集団参拝する」ので当然重要な存在です。
 また今の日本では戦死者は「一般的ではない」ところ、幕末以降1945年までの日本は

日本が関与した戦争一覧 - Wikipedia
戊辰戦争(1868~1869年)
台湾出兵(1874年)
 近代日本最初の対外戦争
佐賀の乱(1874年)
神風連の乱秋月の乱萩の乱(1876年)
西南戦争(1877年)
日清戦争(1894年)
 清国から台湾を割譲
台湾征服戦争(1895年)
◆北清事変(義和団事変)(1900年)
日露戦争(1904~1905年)
 ロシアから南樺太を割譲
第一次世界大戦参戦(1914年)
 日英同盟を根拠にドイツを攻撃。戦後、ドイツ領パラオを日本の植民地とした
◆シベリア出兵(1918~1922年)
日中戦争(1931~1945年)
◆太平洋戦争(1941~1945年)

と、多数の戦争を毎年のようにやっていました。
 なお、今後の戦没者慰霊の問題は「遺族の高齢化」でしょう。今後、自衛隊が「海外での戦争に参加*2」しない限り「1945年が最後の戦死者」であり、遺族は高齢化せざるを得ません。その結果、「遺族会の解散」「慰霊碑の管理問題(遺族の高齢化で管理が困難)」など様々な問題が生じてることは後でマスコミ記事をいくつか紹介します。
 ということで「戦没者追悼は今後どうあるべきか」という意味で今回の特集は「現在の社会、政治問題」と深く関わったテーマです。
参考

遺族会、「時代の波に逆らえず」解散相次ぐ…高齢化で会員減少・資金集め困難 : 読売新聞2020.8.15
 終戦から75年となり、戦没者を慰霊してきた遺族会の解散が相次いでいる。遺族の高齢化で会員が減り、活動の継続や資金集めが難しくなっているためだ。
 「時代の波に逆らえなかった」。
 65年間の活動を7月末に終えた新潟県佐渡市の両津遺族会の会員だった木本勇さん(75)は、ため息をついた。同会は1955年に発足。当初約560人いた会員は解散直前に200人を下回り、全員75歳以上となった。
 戦没者遺族の全国組織・日本遺族会によると、支部にあたる47都道府県の遺族会の会員数は1978年の計104万世帯から2019年には57万世帯に減少。
 堺市遺族会は今年度末で解散する。1947年、堺市戦没者約6400人を慰霊するために結成された。毎年、追悼式を開催してきたが、2年前に実施した会員(約3700世帯)アンケートでは、高齢などを理由に「活動に協力できない」との回答が大半を占め、今年4月、解散を決めた。
 鳥取県倉吉市の市遺族連合会も今年度末の解散を決定。会員は126人と、ピーク時の1950~1960年代の約6分の1に減り、山田紀美子会長(82)は「病気や寝たきりの会員も増え、存続は限界を迎えていた」と明かす。
 1000人以上の犠牲者が出た1945年7月の青森空襲の遺族でつくる青森市戦災者遺族会は今年3月で解散。

もう支えきれない 戦没者の慰霊の場が全国で消えていく 遺族たちの葛藤|福井市の戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK2020.9.7
 石川県小松市の慰霊碑は、市営墓地の一角に立っていました。その場所は今は、さら地になっています。
 日清戦争以降の戦没者を弔うために遺族など地域の人たちが建てたものでしたが、老朽化で傾き「倒壊の恐れがある」として、3年前に市が地元の人と協議の上で撤去したのです。いま各地で同じように、慰霊碑などの撤去や移設が相次いでいます。
 厚生労働省に取材したところ、国は管理者が高齢化して管理できなくなった慰霊碑などを移設や撤去する際、自治体に50万円を上限に補助する制度を設けていますが、去年までの4年間にこの制度を利用して撤去や移設された慰霊碑や慰霊塔などは全国で8か所あるということです。
 放置すれば地震の際に倒壊するおそれもあり、安全面や管理面を考えるとやむをえないかもしれません。しかし戦地へ赴き命を落とした人たちを弔うための慰霊の場が、ただひっそりと姿を消していっていいものなのか。記者になって4年目、26歳の私にはなんともやるせなく感じられました。
 遺族たちがどんな思いでいるのか知りたい。そう思った私は福井市にある「福井忠霊場」に、去年から通い続けて来ました。戦死した兵士たちを弔うために戦時中の昭和15年に設けられた墓園で、1500あまりの墓標などが並んでいます。
 管理してきた地元の遺族たちの中心は、当初は戦争で夫を亡くした妻たちでした。昭和60年ごろまでは会のメンバーで大規模な追悼法要をしたり、建物の改修をしたりなど活発に活動していたそうです。
 しかしその後世代が様変わりして、今は子どもの代でも70代後半から80代を迎え、活動を続けられる人は数少なくなっています。
 戦後75年、同じようなことが全国各地で起きているのではと思い、ことし7月から8月にかけて全国47都道府県の遺族会に電話で取材しました。その結果、戦没者を弔うために建てられた慰霊碑など「慰霊の場」の維持・管理について「課題がある」と回答したのは44道府県にのぼりました。全体の66%にあたる31道府県遺族会は「次の世代の担い手がいない」と回答し、遺族を中心とした維持・管理が限界に近づいている現状が浮き彫りになりました。
 こうした課題の解決に向けた動きについては24道県の遺族会が「地元市町村など行政に託すことを考えている」「すでに行政に要請している」と回答し、慰霊の場の維持管理をめぐる行政との協議などが各地で進んでいることがわかりました。
 全国組織の日本遺族会は、慰霊碑の維持や管理などを自治体など行政が行うよう、平成29年度から毎年、国に要請しています。

「忠魂碑を残そう」 袋井の郷土史家らが保存運動へ [静岡県]:朝日新聞デジタル2021.11.9
 「戦没者を慰霊する忠魂碑を残そう」。
 (ボーガス注:静岡県袋井市内で忠魂碑を取り壊す動きが3カ所で相次いだことから、地元の郷土史家・兼子春治さん(76)らが存続を求めて動き始めている。「戦争の悲しみを伝える平和教材だ」と訴える。
 2015年3月、兼子さんは宇刈地区の忠魂碑が撤去されるうわさを耳にした。自治会幹部に聞いたところ「明日撤去する」と言われ、驚いた。「何とか保存して欲しい」と訴え、近くの油山寺に保管された後、2016年10月に宇刈神社に移設された。
 2018年7月、浅羽西地区の忠魂碑が撤去された。兼子さんは事前に知らず、御影石でできた石塔と碑が解体された。戦死者の名前を書いた銅板だけ近くの寺に移設されたという。
 浅羽北地区では芝八幡神社にある碑を撤去する話が持ち上がり、兼子さんらは今年1月に知った。存続を求めて地元自治会と話し合い、当面の撤去は免れた。忠魂碑の意義を説明すると、地元も尊重する傾向があるという。
 背景にあるのは維持管理の難しさだ。碑は主に地域が資金を出して設立し、遺族会などが管理することが多いが、会員が高齢化している。倒壊の危険性を指摘する声もある。
 忠魂碑は戦後、GHQ連合国軍総司令部)によって「軍国主義の産物」とされ撤去・移設された歴史がある。大阪府箕面市の忠魂碑をめぐっては宗教的施設の認定や政教分離について最高裁まで争う裁判*3にもなった。忠魂碑は「民間施設」の位置づけで、長く地域任せの状態だった。
 管理が各地で問題になったため、厚生労働省が2016年から移設・撤去費用の一部を補助する制度を導入。同省の全国調査によると、静岡県内の忠魂碑は844で全国一多いが、制度を利用したのは昨年度に牧之原市で1件あるだけだ。
 兼子さんは「忠魂碑には地域の悲しみが詰まっている。戦争を感じられる地域の歴史的遺産で、身近な平和学習の場としたい」と話す。郷土史家や文化財関係の有志らと「忠魂碑を歴史的遺産として残す会」を作り、同様の問題を抱える県内地域との連携を目指す。碑文の現代訳や拓本などで記録する作業も進める方針だ。

社説:戦没者慰霊碑 行政が関与して風化防ぎたい : 読売新聞2023.8.22
 戦没者を追悼する各地の慰霊碑が老朽化し、維持管理が難しくなっている。高齢化が進む遺族らに任せるだけでは、風化は避けられない。国や自治体は関与を強めるべきだ。
 民間主体で建立された戦没者らの慰霊碑の管理は、主に遺族と地元住民が担ってきた。近年は、遺族が亡くなって管理者が不在になる事例や、地域の遺族会の解散が相次いでいる。
 全国団体である日本遺族会の会員数は、1967年の125万世帯から2019年には57万世帯まで減っている。
 2019年の国の調査では、全国1万6235基の慰霊碑のうち、管理状況が「不良」は228基、「やや不良」が552基あった。存在や管理者が確認できない「不明」も1495基あった。現状はさらに悪化しているだろう。
 経年劣化した慰霊碑を放置すれば、災害時に倒壊する恐れもある。将来にわたり、誰が、どのように維持管理していくか、遺族が健在なうちに方針を決めておくことが急務である。
 遺族感情を考えれば、全てを残すことが望ましいが、管理にかかる多額の費用を踏まえれば、現実的とはいえない。日本遺族会も、地域に点在する慰霊碑の整理・統合は必要だとしている。
 こうした取り組みを進める上で、自治体が積極的な役割を果たすことが不可欠だ。
 滋賀県米原市は、老朽化した碑を解体・撤去し、新たに戦没者らを追悼するモニュメントや刻銘板を設置する事業を進めている。碑の跡地には説明板を設け、平和学習などに利用するという。
(後略)

民間建立の戦没者慰霊碑、遺族の高齢化で維持困難に…全国に1万6235基 : 読売新聞2023.10.15
 戦没者追悼のため民間によって建立された慰霊碑の老朽化が進む中、維持管理を代わりに行う自治体が出てきている。高齢化で遺族らによる維持が困難になってきているためだ。国も自治体を対象に補助制度を設けて後押しするが、適用対象が限られていることなどから利用は低迷しており、拡充を求める声が上がっている。
 「忠魂碑を維持していけるか不安だった。市に引き継いでもらい、ありがたい」。
 滋賀県米原市の市遺族会・瀬戸川恒雄会長(81)は、建設中の平和祈念碑「平和の礎」を見やりながら話した。戦後、忠魂碑は市遺族会や住民らが草刈りや掃除をして管理してきたが、基礎がひび割れするなど劣化が進み、倒壊の危険にさらされる。一方で、遺族会員約400人の大半が80歳超となり、維持管理が困難な状況になっていた。
 遺族会から「高齢化で管理が難しい」との声が上がり、市は2021年11月、有識者を加えた市民会議を設け、市民から意見を聞くなどしてきた。2022年7月、忠魂碑12基を撤去して祈念碑に集約して平和について考える場を作り、市が管理することを決めた。
 民間の慰霊碑の管理は主に遺族と住民が担ってきた。
 しかし、全国団体の日本遺族会の会員数は、1967年の125万世帯から2019年には57万世帯まで減少。
 日本遺族会は2014年から国や自治体に「点在する慰霊碑の移設や集約を通じ、維持管理を引き継いでほしい」と要望してきた。これを受け、国は2016年度、自治体が慰霊碑を移設、撤去する際、「建立者や管理者が不明」「倒壊の恐れがある」などの条件を満たせば、費用の半額(現在、上限50万円)を補助する制度を創設した。
 鳥取県倉吉市では2021年度から国の補助を活用し、慰霊碑の移転計画が進んでいる。
 国は今年度から、補助制度の対象として慰霊碑を移設、撤去する場合だけでなく、「補修」を追加し、利用拡大を図ってきた。 しかし、「管理者らが不明の場合」という適用条件があるため、遺族会が維持管理してきた場合は原則、対象外となり、活用は2022年度までに計19件にとどまる。
 滋賀県は6月、国に管理者がいる場合でも対象とするよう要望した。県の担当者は「まだ使い勝手の悪い部分が多く、改善してほしい」と訴える。
 一ノ瀬俊也*4埼玉大教授(日本近現代史)は「国は国策で亡くなった戦死者の追悼を民間任せにしてきた面があった。遺族の高齢化は著しく、補助制度を拡充する必要がある。自治体も住民の声を聞き、積極的に管理に関与していくことが求められている」と指摘する。

満蒙開拓団の遺族らが最後の法要 高齢化で会の解散決める|NHK 群馬県のニュース2024.5.17
 1930年代から旧満州、現在の中国東北部に国策で農業移民として渡り、日本に戻ることができずに亡くなった人たちなどを追悼する法要が都内で行われました。
 主催した会は会員の遺族が高齢化していることから解散を決め、関係者が集まって行う法要はことしで最後になるということです。

佐世保空襲遺族会 会員減や高齢化で3月末解散へ - 長崎新聞 2024/02/15 [11:00] 公開2024.2.15
 太平洋戦争末期の1945年6月に起こった佐世保空襲の遺族らでつくる「佐世保空襲犠牲者遺族会」(臼井寛会長)が、3月末で解散することが分かった。会員数の減少や高齢化が理由。同会は佐世保空襲の遺族が集う、唯一の組織だった。
 1975年11月に結成。当初の会員数は約450人だったが、高齢化や病気療養、介護施設への入居、死去などで減少が続き、本年度は128人になっている。
 1977年には佐世保中央公園内に「鎮魂慰霊平和祈願の塔」を建立。2006年12月、遺族らが寄贈した遺品などを展示する「佐世保空襲資料館」(当時資料室)を、語り部活動などに取り組む「佐世保空襲を語り継ぐ会」とともに旧市立戸尾小に開設、観光客や児童らが訪れている。2016年8月には、遺族会が中心となって犠牲者約1200人の名前を刻む「佐世保空襲死没者墓銘碑」を同公園内に建立。毎年6月29日には市が主催する死没者追悼式に参列するなど、活動を続けてきた。
 ただ会員の高齢化などが進行。今年1月に3月末の解散を決めた。
 祈願の塔と墓銘碑は市に寄贈。同資料館は、語り継ぐ会が管理・運営していく。死没者追悼式の参列者は、半数を同会の会員が占めている。市は今年は通常通り開くが、来年以降については開催形式などを検討する。
 佐世保空襲体験者の臼井会長(90)は取材に「誠に残念で、遺族に申し訳ない気持ちでいっぱい。遺族会の将来を考えて、後継者づくりを早くから始めておけばよかった」と後悔の念を口にした。一方、(ボーガス注:ウクライナ戦争、ガザ紛争など)現在の世界情勢を踏まえ「解散しても反戦・平和を願う気持ちは変わらない」と強調した。

龍山最後の戦没慰霊祭 遺族の高齢化進み、近隣も取りやめ続く:中日新聞しずおかWeb2024.6.24
 (ボーガス注:静岡県浜松市天竜区龍山町の龍山総合運動場で23日、太平洋戦争などによる戦死者を悼む慰霊祭があった。遺族の高齢化を背景に、主催する「龍山地域戦没者を慰霊する会」が解散を決め、最後の慰霊祭となった。

戦没者慰霊碑が存続危機? 遺族高齢化や老朽化 維持管理困難に | 毎日新聞2024.8.12
 戦後79年となり、全国に建てられた戦没者慰霊碑は老朽化が進んでいる。維持管理を担ってきた遺族らの高齢化も重なり、存続の危機に立つ碑も多い。戦争の記憶を伝承する役割も担う慰霊碑をどう守っていくかが、いま大きな課題となっている。
 厚生労働省によると、民間が建立した戦没者慰霊碑は国内に1万6235基(2019年4月末時点)ある。そのうち、ひびが入ったり倒壊の恐れがあったりして管理状況が「不良」「やや不良」とされる慰霊碑は計780基に上る。一方で、管理者がわからない慰霊碑は1495基あり、全体の約1割を占める。
 民間の慰霊碑の多くは、地域の遺族会や住民が中心となって維持管理を担ってきたが、高齢化が進み、後を継ぐ担い手も不足している。管理の手が行き届かず、劣化により倒壊などの危険性が指摘される慰霊碑も増えている。
 こうした動きを受け、国は2016年度、自治体が慰霊碑を移設、撤去する際の補助制度を創設。「建立者や管理者が不明」「倒壊の恐れがある」などの条件に該当すれば、経費の半額を補助するとし、当初25万円だった上限を、2019年度には50万円に引き上げた。厚労省によると、制度を活用して移設や撤去された慰霊碑は計26基(今年3月時点)あるという。全国の戦争遺跡の調査、研究に取り組む「戦争遺跡保存全国ネットワーク」の菊池実共同代表は「慰霊碑などがなくなると戦争の記憶が薄れてしまい、次の世代に伝えることが難しくなる」と危機感を示す。

参列遺族の半数が80歳超、15日に戦没者追悼式 5年ぶり通常開催も進む高齢化 - 産経ニュース2024.8.15
 遺族の高齢化などを背景に参列者数は例年より減少する見通し。参列予定遺族の半数近くが80歳以上となり、記憶継承という困難な課題も浮かび上がる。
 コロナ禍前の参列者数は例年、来賓を含め6千人規模だったが、今年は約4300人にとどまる見込み。このうち戦没者遺族は3215人が参列を予定する。すでに戦没者の父母や妻世代の多くが鬼籍に入り、子供世代の高齢化も背景に、遠方で移動が困難なケースや、コロナ感染防止に慎重を期すケースも多いとみられるという。
 参列予定の遺族の年齢は3歳から97歳。このうち80歳以上が1512人(47・0%)を占める。

激戦地への遺族会の慰霊訪問、来年度で終了…高齢化で参加者減り継続難しく : 読売新聞2024.8.16
 第2次世界大戦で肉親をなくした遺族らが、激戦地を訪ねて戦没者を弔う「慰霊友好親善事業」が、戦後80年の来年度を最後に終了する。主催する日本遺族会(東京)が明らかにした。遺族の傷を癒やし、戦争の悲惨さを後世に伝える役割を担ってきたが、高齢化で継続が難しくなった。
 ただ、遺族の高齢化とともに、戦地での慰霊は難しくなってきた。2005年度に911人だった参加者は徐々に減少。2020、2021年度にコロナ禍で活動を中止した影響もあり、昨年度は248人まで減っていた。

 私見を言えば「孫、ひ孫世代」で遺族会が運営できるのならそうすればいいが、それができないのなら「解散もやむなし」ですね。実際、それができずに解散した遺族会が多数あることはマスコミ記事が報じています。
 やはり「当事者(戦没者の妻や子)」でないと「子孫とは言え、顔も知らない人間」では遺族活動をする気になりづらいのでしょう。
 但し「忠魂碑の管理」をできずに「倒壊事故」が起こっても困るので最低限、それは何とかしないと行けない。結局、現実的解決策としては「自治体に忠魂碑の管理をお願いする(政教分離の問題がありますが)」「忠魂碑の管理が困難な最悪(?)の場合、忠魂碑は取り壊し、拓本や写真等の形で保存する」しかないんでしょうね。


八甲田山雪中行軍遭難事件遭難者の慰霊と顕彰(丸山泰明*5
(内容紹介)
 『凍える帝国八甲田山雪中行軍遭難事件の民俗誌』(2010年、青弓社)と言う著書がある丸山氏が「八甲田雪中行軍遭難事件 - Wikipedia」を論じています。
 日本軍は遺族と生存者(後藤伍長など)の不満を抑え込むため、「死亡者や生存者」を貴い犠牲として顕彰し、また生存者や遺族を経済支援しましたが、一部に「靖国合祀を求める声」があったものの「事故死であること」を理由に「死者が靖国合祀されない」と言う点では「戦死者顕彰」と違いがありました。
 なお、

「八甲田山」の真実・事故判明【紀伊国新宮水野家(和歌山県)45】 - トコトコ鳥蔵
 この大事件に対して処罰が下されたのは、津川聯隊長のみで、軽謹慎処分7日間という非常に軽いものでした。
 世界山岳史上に残る最悪の犠牲者を出した八甲田山雪中行軍遭難事件ですが、陸軍の政治的な思惑で、責任はうやむやにされていきました。

ということで「死人に口なし」とばかりに、映画「八甲田山」の山田少佐(三國連太郎)のモデルとなった山口鋠少佐(映画では自決だが、実際は病死)に「事故の責任が全て押しつけられ」、「彼より上の上層部(映画「八甲田山」の津村中佐(小林桂樹)のモデルとなった津川謙光中佐など)」はろくに責任を問われなかったようです。「下級官僚に全てを押しつける」という松本清張ミステリ(清張『ある小官僚の抹殺』等)でよくある設定ですね。
 ちなみに「中高年」だとこの事件は映画『八甲田山*6』(47年前の1977年に公開)で知ってる(俺も映画で知ってる一人)でしょうが、最近の若者は恐らく知らないのでしょうね。
 当然ながら「47年前(1977年)公開」の映画「八甲田山」の出演者のうち

◆主役の一人「徳島大尉(弘前歩兵第三十一連隊中隊長)」を演じた高倉健(1931~2014年、映画公開(1977年)当時は46歳、享年83歳)
◆村山伍長(遭難事件の生存者の一人)を演じた緒形拳(1937~2008年、映画公開(1977年)当時は40歳、享年71歳)
◆遭難事件の一因を作ったとされる山田少佐を演じた三國連太郎(1923~2013年、映画公開(1977年)当時は54歳、享年90歳)

等はもはや故人ですし、

◆主役の一人「神田大尉(青森歩兵第五連隊中隊長)」を演じた北大路欣也(1943年生まれ、映画公開(1977年)当時は34歳、今年(2024年)で81歳)
◆倉田大尉(遭難事件の生存者の一人)を演じた加山雄三(1937年生まれ、映画公開(1977年)当時は40歳、今年(2024年)で87歳)
◆「エキストラに毛が生えたような役」で出演したという大竹まこと(1949年生まれ、映画公開(1977年)当時は28歳、今年(2024年)で75歳)

等といった存命者もかなりの高齢です。

【参考:八甲田山遭難&映画『八甲田山』】

199人死亡 日本の山岳史上最大の惨事 八甲田雪中行軍 何が生死を分けたのか | TBS NEWS DIG (1ページ)2022年4月12日
 1902年、旧陸軍の兵士199人が冬の八甲田で訓練中に命を落とした八甲田雪中行軍。
 日本の山岳史上、最大の惨事について生還者が残した貴重な音声から検証します。
※音声(小原忠三郎伍長)
『(3日目に)ますます吹雪が激しくなり神成大尉が怒ってしまった。
「天はわれら軍隊は死ねというのが命令である*7。みんな露営地に戻って枕を並べて死のう」と言う。あっちでバタリ、こっちでバタリ、足の踏み場がないほど倒れた』
 事態が大きく動いたのは出発から5日目でした。救援隊が雪の中に仮死状態で立っていた後藤房之介伍長を発見。これを受けて大規模な捜索が行われますが、生還を果たしたのは、小原伍長を始めわずか11人でした。
※音声(小原忠三郎伍長)
「ああなってくるとどうしても信じるほかない。目の前でバタバタと倒れていきますから。神様に助けられたといまでも思っています」
 何が生死を分けたのでしょうか。長年、雪中行軍を研究している元自衛隊員の加藤幹春さん*8は、わずかな差だったと指摘します。生存者の大半は、岩穴や小屋などで風をしのいでいましたが、犠牲者の多くは有効な手立ては講じていなかったと言います。
※インタビュー(加藤幹春さん69歳)
「(当時の調査では)実は着るもの、食べ物に問題はなかった。ただ、露営の方法が悪かった。初日は穴を掘って風を少なからずとも防いだけど、2日目以降は全然なされなかった」
※音UP(ことしの八甲田演習)「後藤伍長の銅像に敬礼」
 雪中行軍の経験則は現在、自衛隊でいかされています。当時、凍傷が相次いだ5本指の手袋は保温性を高めるため親指だけ分離したミトンタイプも使われるようになりました。
※インタビュー(加藤幹春さん69歳)
「八甲田雪中行軍の訓練をする前に、教科書となるべきものがあれば防げた事故ではないかと思います。それを考えると悔しくてたまらない」
 199人が犠牲になった八甲田雪中行軍。日本の山岳史上、最大の惨事は多くの教訓を残し、これからも引き継がれていきます。

余録:今から120年前の… | 毎日新聞2022.1.23
 今から120年前の1902(明治35)年、日本は「日露戦争」への備えを急いでいた。その年、日本の山岳遭難史上最悪といわれる悲劇が起きた。青森の「八甲田山雪中行軍遭難事件」だ。1月23日、寒地での訓練のため青森市を出発して山麓を行軍した歩兵連隊が猛吹雪と寒波に襲われた。199人が死亡、生存わずか11人だった
▲作家、新田次郎が小説の題材とし、映画化されたこともあり、現在も多くの人に知られている。悪天候や指揮官の判断ミスなどの要因が指摘されているが、より実態に迫ろうとする研究は今も続いている
▲そのひとつが、ほぼ同時期に別ルートで実施され、全員が帰還した弘前の歩兵連隊による行軍との比較だ。「弘前隊」隊員(ボーガス注:間山仁助伍長)の孫にあたる研究家、間山元喜(もとき)さん(72)は、20年近く取り組んできた検証結果をこのほど、著作「八甲田雪中行軍:一二〇年目の真実*9」(共著)にまとめた
▲間山さんは、弘前隊指揮官(ボーガス注:映画では高倉健が演じた徳島大尉のモデル・福島大尉)の孫から提供された資料などを精査した。綿密な事前計画や地元案内人の重視、寒さに慣れることができる日程を組むなど「データ収集と準備」が青森隊との明暗を分けたと分析している
弘前隊を道案内した地元民7人は「七勇士*10」として後に注目され、現地に顕彰碑がある。ただし、著作では7人が行軍の途中で軍(ボーガス注:映画では高倉健が演じた徳島大尉のモデル・福島大尉)に放置され、途方に暮れたという負の側面なども指摘している
▲「少しでも全体像に近づけたら」と間山さん。データや情報の軽視が悲劇をもたらす教訓は決して、過去の話ではない。

八甲田雪中行軍、遭難と生還を分けたのは何か…隊員の孫が真実探る : 読売新聞2022.3.15
 今年は、旧陸軍青森歩兵第5連隊(青森隊)199人が1902年(明治35年)に八甲田の雪中行軍訓練中に死亡してから120年となる。同時期に八甲田を踏破した弘前歩兵第31連隊(弘前隊)の全員生還に焦点を当てた書籍「八甲田雪中行軍:一二〇年目の真実」(冨山房インターナショナル)を、弘前隊員の孫で青森県弘前市の間山元喜さん*11(72)らが出版した。
 間山さんの祖父は弘前隊員だった間山仁助伍長。祖母からは「じいちゃんは(訓練による)凍傷で足の指を切断した。隊員はみな、ふらふらで帰ってきた」と聞いていた。だが、77年公開の映画「八甲田山」では、ラストシーンで弘前隊員が元気よく行軍していた。祖母の話と違和感があり、「弘前隊の本当の姿を知りたい」と取材、執筆を決意したという。
 資料を探すうち、2012年に弘前隊の指揮官だった福島泰蔵大尉の生家に眠っていた行軍の調査報告書のコピーを入手。手元には祖父が残した行軍日記などもあった。執筆は札幌市のノンフィクション作家、川嶋康男さん*12と共同で進め、主に青森隊の行軍を川嶋さん、弘前隊を間山さんが担当した。

生死を分けたのは 八甲田山雪中行軍遭難事件から120年 隊員の孫が研究 - 産経ニュース2022.7.14
 日本山岳史上、最悪の遭難事件とされる明治35(1902)年1月の「八甲田山雪中行軍遭難事件」から今年で120年。訓練に参加した210人中199人の犠牲者を出した旧陸軍青森歩兵第5連隊と同時期に、別ルートで行軍し38人全員が生還した弘前歩兵第31連隊がある。長年、同事件を研究しているのが、31連隊の間山仁助伍長の孫で元陸上自衛隊員の間山元喜さん(72)=青森県弘前市=だ。間山さんは「31連隊を検証することで現代にも通じる危機管理、冬山に対する認識の重要性を学ぶことができる」と話す。
 間山さんが研究を始めたきっかけは昭和52年公開の映画「八甲田山」だ。そのラストシーンで、31連隊を率いた高倉健演じる福島泰蔵大尉(劇中では徳島大尉)らが、岩木山を見ながら元気に軍歌を歌って弘前に戻ってくる。だが、これに違和感を覚えたのだ。
 間山さんは祖母から「みんな杖をついてふらふらになって帰ってきた」と聞いていた。「映画が史実のように伝わっており、きちんとしたものを残さなければならないと思った」と間山さんはいう。
 5連隊の惨劇が知られている一方で、全員が生還した31連隊の軌跡はあまり知られていなかった。「31連隊の行軍を紐解くことで、5連隊の遭難原因も浮き彫りになるのではないか」と考えた。

「八甲田山雪中行軍遭難事件」陸自部隊が墓地で慰霊の祈り|NHK 青森県のニュース2024.1.31
 青森県八甲田山系で、旧日本陸軍の部隊が訓練中に遭難し、199人が死亡した「雪中行軍遭難事件」の教訓を受け継ごうと陸上自衛隊の部隊が青森市にある犠牲者の墓地で慰霊の祈りをささげました。
 「八甲田山雪中行軍遭難事件」は日露戦争を目前に控えた明治35年1月に寒冷地での進軍を想定して行われた訓練のさなか、青森市に駐屯していた旧日本陸軍の歩兵連隊が山中で遭難して199人が死亡したもので、映画や小説でも知られています。
 青森市に駐屯している陸上自衛隊第5普通科連隊では、この教訓を受け継ごうと毎年この時期に八甲田山系で演習を行っていて、31日は、隊員およそ170人が犠牲者の遺骨などが納められた青森市の「幸畑陸軍墓地」を訪れました。

絶望的にヒーロー不在『八甲田山 消された真実』フィクションとノンフィクションと - HONZ2018年1月25日
伊藤薫*13八甲田山 消された真実』(2018年、山と渓谷社*14
 ベッドの上で正座して話す老齢の男性。
 その人は、世界最大級の山岳遭難事故の最後の生存者・小原忠三郎元伍長であった。
 1902年(明治35年)1月。日露戦争を前に陸軍は寒冷地での行軍を調査・訓練するため、青森の陸軍歩兵第五聯隊と弘前の第三十一聯隊が豪雪の八甲田を異なるルートで越えることになる。結果的に三十一聯隊は八甲田を越え帰還したが、五聯隊は山中で遭難。210人あまりの将兵のうち、199人もが凍死した。世に言う「八甲田山雪中行軍遭難事故」である。
 これをもとに書かれた新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』は、大ベストセラーになった。映画化された「八甲田山」で北大路欣也演じる第五聯隊の神成(役名は神田)大尉が猛吹雪のなか、こう叫ぶシーンをご存知の方も多かろう。
 「天はわれらを見放した!」
 小原元伍長への聞き取りが行われたのは、1964(昭和39)年。翌年に控えた陸上自衛隊による慰霊の八甲田演習に向けて、青森駐屯地の第五普通科連隊・渡辺一等陸尉が箱根の国立療養所に氏を訪ねたのである。雪中行軍で負った凍傷のため両足首から下と親指以外の両手指を失った小原元伍長も、85歳になっていた。62年間の沈黙を破り語られたその悲惨さは、想像を絶するものだった。
 聞き取りの翌年、「明治35年と同じ想定で青森平地を出発し、田代平を経て三本木平地へ進出する」とした自衛隊の演習は実施され、以後毎年、自衛隊第五普通科連隊は2月に八甲田での慰霊演習を行うようになる。
 本書は上記の小原証言や当時の資料などを独自に調査して事故の状況やその背景に迫ったものだが、(中略)行間ににじむのは無謀な計画の実態や軍の隠蔽体質に対する怒りである。
 まず、遭難した五聯隊の装備や計画はあまりにも貧弱であった。
 装備さえきちんとしていれば、死なずに済んだ人たちが多かったことは想像に難くない。
 さらに、目的地とされた田代新湯という温泉は到底見つけることができないような入りくんだ場所にあり、部隊は誰一人として目的地がどこにあるかもわからないまま前進していたようだ。他にも著者が指摘する数々の問題点には、絶句せざるを得ない。
 では、「行軍を成功させた」とされる三十一聯隊は、どうだったのか?。著者は、五聯隊は露営で食糧や器材もすべて携行し200人規模であったのに対し、三十一聯隊は長距離行程ではあるが38人と少人数、はじめから食事や宿泊は民家に頼り、道案内も頼むという、まったく性質の異なる行軍だったので比較はできないと述べている。
 そのうえで、三十一聯隊を率いた福島大尉にも追及は容赦がない。映画では高倉健演じる役名・徳島大尉は、案内人にも異例の敬意を払う(これは原作の小説とも異なる)。しかし現実には、特に過酷な八甲田超えの道案内をさせられた7人の村人たちはさんざん酷使されたうえ、町が見えたとたんにその場に置き去りにされたのである。彼らのなかには重い凍傷になり、後に命を落とした者もいた。
 あの雪中行軍は、映画や小説とは異なり、絶望的にヒーロー不在であったのだ。
 ところで、じつは小説『八甲田山死の彷徨』には下地となった資料があった。元新聞記者の小笠原孤酒が生存者の小原元伍長や古老たちを丹念に取材した資料である。新田次郎に依頼されてそれらを無償提供したという小笠原だが、『八甲田山死の彷徨』が瞬く間にベストセラーになり、小笠原自身がノンフィクションとして記した『吹雪の惨劇』はほとんど話題になることもなかった。
 『八甲田山死の彷徨』や映画「八甲田山」は小説として映画としては、間違いなく不朽の名作だ。この作品がなければ雪中行軍の悲劇が多くの人に知られ、語り継がれることもなかったかもしれない。だがしかし、小説や映画の完成度があまりに高かったために、あたかもそれが「史実」とすり替わってしまったことには複雑な気持ちが残る。

『八甲田山』で死にゆく我々日本人 - 挑戦者ストロング2021.3.18
 戦前は知らず、戦後の日本人はなぜか日本人がバタバタと大量死する映画が好きだ。「二百三高地*15」と「八甲田山」はその典型と思うが、ともに大ヒットしている。みんな観たいのだ、日本人がバタバタ死ぬ映画を。「敗戦」が全国民共通の原体験となっているため、大量死が限りない共感を呼ぶのだろうと推測する。
 史実は詳しく知らぬが映画によると、八甲田山の深刻な遭難事故はすべて「バカな上官」三國連太郎に原因がある。さらに唯々諾々と「バカな上官」に従うしかない日本軍メンタリティが、事態の悪化を修正せず、悪化するに任せてしまう。間違っていることを知っていても、一度始めたプロジェクトは止められない。止まる気もない。そして死ぬ。そればかりか、死ぬことに陶酔する。これが日本人だよな。だってたとえばアメリカ映画で、アメリカ人がただバタバタ死んでゆくだけの映画がありますか。オレは知らない。しかし日本ではこれが大衆のハートを掴む娯楽映画になるのだ。
 2021年3月現在、日本でコロナが蔓延してるのに日本人はオリンピックをやろうとしている。何人死のうがやろうとしている。これが我々の世代の、現在進行形の「八甲田山」だ。自然が相手なのに、一部の人間のクソしょうもない事情のため、状況お構いなしに強行しようとしている。この国は三國連太郎だらけだ。「八甲田山」は1902年の出来事を描いているが、それから119年経っても、原爆を落とされても、敗戦を経験してギブミーチョコレートやっても、原発事故を起こしても、日本人は全然変わってない。「八甲田山」が描いたのは自然の脅威ではない。日本人の弱く、愚かで、能力不足のみっともない姿だよな。

199人が雪山で凍え死んだ…世界最大級の「遭難事件」の救われない現実(朝里 樹) | マネー現代 | 講談社2021.7.12
 現代の人々にこの事件が知られているのは、小説及び映画の影響が大きいだろう。
 1971年(昭和46年)、作家の新田次郎がこの事件を詳細に取材し、『八甲田山死の彷徨』という小説を書き上げた。そしてこの小説を原作として、1977年(昭和52年)、映画『八甲田山』が公開される。
 この映画は当時の日本映画における歴代配収新記録を打ち立てた。またこの映画で北大路欣也氏が演じた神田大尉の「天は我々を見放した!」というセリフは当時の流行語になったという。

凍死者の亡霊は、今も“そこ”にいる…八甲田山で発生した「怪事件」の一部始終(朝里 樹) | マネー現代 | 講談社2021.07.12
 有名なのは新田次郎が『八甲田山死の彷徨』を書くために事件の取材をしていた際に聞いたという、彼の取材ノートに残された話だ。
 それによれば雪中行軍隊が遭難した直後、青森連隊駐屯地の衛兵詰所でしばしば亡霊の足音が聞こえたという。この騒ぎは次第に広まり、衛兵を恐怖のどん底に叩き落したので、ある夜、連隊長が衛兵詰所に来て亡霊を待ち、明け方近くなって亡霊がやって来ると、声を張り上げて言った。
 「雪中行軍隊の亡霊たちよ、よく聞け。お前らの死は無駄ではなかった。お前らの死によって、厳寒期の軍装は大改革されることになったぞ。お前らは戦死者と同様に扱われ、靖国神社に合祀されることになったのだ。迷うな、心安くして眠れ。二度とこの屯営に現れることはこの連隊長が許さないぞ」
 そして連隊長は軍刀を抜いて「青森歩兵第五連隊雪中行軍隊、回れ右、前へ進め!」と号令をかけた。
 すると足音は次第に遠ざかり、以来一度も聞こえることはなかったという。
 新田次郎が紹介したこの話は有名になり、以降様々な媒体で語られることになった。ただ実際には事件の犠牲者を靖国神社に合祀するという方針はあったものの、最終的には否決され、現在のところ彼らは靖国神社には祀られていない*16
 『凍える帝国』によれば、(中略)事件発生から間もない1902年(明治35年)2月6日には、「万朝報」(明治時代、東京で創刊された日刊新聞)に既に「凍死軍隊の幽霊」と題された記事が載せられていたという。同記事では、1月25日の夕方に(ボーガス注:遭難事件で殉職した)興津景敏*17大尉の官舎の玄関から外套の雪を払う音が聞こえてきたと伝えている。そこで夫人が出迎えると、大尉が立っていて「今帰った」と言う。しかし夫人が下女に焚火の用意をさせているうちに大尉の姿は消えてしまったという。
 近年有名な話は以下のようなものだろう。松谷みよ子*18編著『現代民話考2:軍隊・衛兵検査・新兵のころ*19』を参考にその概要を示そう。
 あるカップルが八甲田山の「旧歩兵第五連隊雪中行軍記念像」を訪れた。この像は八甲田雪中行軍遭難事件にて生還した一人、後藤房之助伍長*20が山中で発見された際の姿をモデルに立てられた像*21で、事件の犠牲になった人々を慰めたものだという。
 この像が立っている場所は今では観光地のひとつとなっている。この像を見た後、カップルの女性が付近のトイレに寄った。男性は車で待っていたが、何か物音が聞こえてきたため、目を凝らすと雪中行軍の兵士たちが闇の中から行進してきている。男性は思わず車を走らせ、逃げ出したが、置いてきた女性のことを思い出したのか、人を連れて山に戻ってきた。
 既に幽霊はいなくなっており、男性は急いで女性のいるトイレに向かって声をかけたが、返事がない。そこで恐る恐る覗いてみると、女性は気を失って倒れており、あまりの恐怖のためかその髪は真っ白になっていた。それから女性は記憶を失い、その記憶は今も戻っていないという。
 同書では、この話は1995年(平成7年)7月に語られたもので、さらに当時から10年ほど前にあった事件の話とされていた。実際にこの話がいつごろからあるのかは分からないが、現在でも旧歩兵第五連隊雪中行軍記念像を訪れたカップルが幽霊に遭遇するという話はよく語られている。
 『凍える帝国』によれば、他にも「山中で兵士に道を聞かれた」「肩を叩かれた」という話もあったという。このように近年では、八甲田山を訪れた人々が山をさ迷う幽霊と遭遇するという話が多い。

「映画より撮影現場の方が厳しかった!」『八甲田山』シネマ・コンサート開催直前スペシャル・インタビュー!実は出演していた…大竹まことが語る過酷すぎる撮影現場とは!?|DI:GA ONLINE|ライブ・コンサートチケット先行 DISK GARAGE(ディスクガレージ)2018年12月21日
 ロケーションには事件当時とほぼ同じ気象条件の元、雪の八甲田山で行われ、あまりの寒さに逃げ出した俳優もいたという。そんな過酷すぎる現場を、大竹まことが撮影当時を振り返る。
 「最初に言っとくけど、俺はエキストラに毛が生えたような役だからね(笑)」。
 風間杜夫も所属していた劇団「表現劇場」の仲間らと共に映画『八甲田山』のロケに、大竹は輸送隊員Cという役名で参加した。
 「俺たち兵隊の衣装は戦争中(日露戦争の頃)と同じでペラッペラなわけさ。その時点で70年ぐらい前の靴履かされるんだよ」。
 映画では、凍傷対策で靴下に唐辛子をまぶして靴を履くシーンがあるが、実際の現場でも同じ事をしたという。ロケは毎朝、宿舎を出て1〜3時間ぐらい歩いて現場に行く。ただ、着いてもすぐ撮影に入る訳ではなく、ひたすら声がかかるまで極寒の中、待ち続ける。
 「偉い俳優さんたちは雪上車だけど、俺たちは歩きで、出番まで待つ。あんまり寒いもんだから、雪に穴掘って潜って顔だけ出して待つんだよ(笑)」。
 昼間ですら寒いのに夜間撮影となると想像を絶するものがある。
 「この明るさで撮れんのかよという中で撮影してた。そんな中、風速30mの吹雪を起こす機械回すんだよ、ただでさえ寒いのに」。
 映画で最初の犠牲者となるのが大竹まことだ。もっとも本人はあまり覚えてないようで「俺は北大路欣也さんのそばで死んだような気がする..」と言う。ただ本人の記憶違いでなければ「俺、最初に死ぬんだけど、その後も出てたような気がする。だって撮影は最後までいたし」と仰天告白まで飛び出した。
 撮影中は同じ劇団の堀礼文(ほり・れもん)*22と行動を共にする事が多かった。後に映画『犬死にせしもの』(1986)撮影中に自死した大竹の役者仲間だ。
 ある日、ひとつのカットの撮影が終わり、次のカットは遥か彼方にある山頂だと言われる。雪中でたいへんな思いをしている中、さらに遠くへ行けと指示される。頭にきた大竹と堀は遮二無二、登って山頂に一番乗りで着いた。その馬鹿げたエネルギーに感心した森谷監督と木村大作が、5万円づつ、お小遣いをくれた。結局、その夜は飲みに行って翌朝は遅刻したそうだ。
 「上に立つ人が、ちゃんと範を示してくれた現場だった」と思い返す。
 緒形拳は「大丈夫か?」と声をかけてくれたり、三國連太郎は肉を差し入れてくれた。もっとも高倉健は寒くても焚き火に近づかなかったため、大竹たちも暖をとりに行けずに大いに困ったそうだが。
 大竹はTV版の「八甲田山」(1978年、TBSで放送)にも出演している。映画とTVの両方に出演した唯一の俳優だ。「現場のほうが映画よりもっと厳しかった」と言い切るほどの、過酷な撮影現場であったため、『八甲田山』で役者に見切りをつけたと告白。以降はコメディアンに転じ、きたろう、斉木しげるらとシティボーイズを結成する。

出演者が驚愕した、映画『八甲田山』…その「ヤバすぎる」ロケ現場の一部始終(週刊現代) | マネー現代 | 講談社週刊現代』2022年2月12日号
前田吟(以下、前田)
 『八甲田山』の公開から45年も経つけれど、役者人生を振り返ってもあんなにしんどかった現場は他にありません。
神山征二郎*23(当時、助監督。以下、神山)
 体感温度零下20〜30度にも及ぶ冬の八甲田山で、二冬も撮影を敢行しました。すべての現場に同行した助監督の私は、撮影が終わった時に「これで寿命が2年縮んだ」と思ったものです。
◆前田
 神山さんの気持ちは、よく分かる。あの環境で、しかも監督は森谷司郎*24、カメラマンは木村大作という妥協を許さないプロ。常人にはついていけない変人ですよ。
◆神山
 木村さんは十和田湖畔の行軍シーンをいい画角で撮るために氷の張った湖に飛び込んで撮影を始めるし、森谷さんと一緒に「近道だから」と装甲車のような車で雪山を突破して旅館に帰ろうとするし、めちゃくちゃでした。「もしもこの人たちが死んだら、私が引き継いで撮影するしかない」と自然と思うようになりました。高倉健さん演じる徳島大尉が率いる弘前三十一連隊からスタートし、続いて北大路欣也さんが演じる神田大尉の青森五連隊、つまり「死の部隊」の撮影を行いました。三十一連隊の斉藤伍長役だった吟さんには、初回から参加してもらいました。
◆前田
 最初の撮影は行軍ルートを雪の中ただ歩くだけ。衣装はすべて実物にこだわっていました。軍服はかっこいいんだけど、薄くて寒くて。
 私なんて普段は暖かい松竹の大船撮影所で『男はつらいよ』をやっていたもんだからこりゃたまらんと震えました。映画の軍人たちと同じように、甘い気持ちで行軍に突入してしまったんです。

名優が仰天した、映画『八甲田山』のヤバすぎる撮影秘話…大ヒットのウラで起こっていたこと(週刊現代) | マネー現代 | 講談社週刊現代』2022年2月12日号
◆前田
 欣也ちゃんの台詞「天は我々を見放した!」はいろんな人が真似したよね。
◆神山
 雪国では「八甲田山遊び」が流行ったそうです。劇中で奇声を発して裸で雪につっこんで凍死する兵卒を真似して、裸で雪に飛び込む子どもが続出したとか。
野口健(以下、野口)
 専門的には「矛盾脱衣」というのですが、あまりに寒いと、逆に暑いと錯覚してしまうんです。一番共感するのは、上官である三國連太郎さん演じる山田少佐*25に振り回される神田大尉ですよね。
◆前田
 山田少佐の同行によって部隊は拡大(ボーガス注:その結果、被害も拡大)、さらに指揮権を取り上げられる。混乱する現場、でも上役には強く言えない部下の辛さ、しかし逆らえない自分にも責任を感じてしまう。この悲哀がサラリーマンにウケたのです。
◆神山
 日本の「失敗の本質」をついているんでしょう。
 準備や現場での上官との対応の違いによって、(ボーガス注:遭難しないで済んだ)高倉健さんの徳島三十一連隊と、(ボーガス注:遭難した)北大路欣也さんの神田五連隊の命運が分かれていきます。神田大尉は現地の村で道案内を頼むつもりでいたのに、山田少佐は「道案内など不要、カネがほしいだけの浅ましい連中だ」と村人を退ける。ここから悪夢がはじまる。
 当時の撮影は過酷で、エキストラが集まらないという問題もありました。スター見たさもあって最初は現地の人が集まるんです。しかし、あまりの過酷さに2日目はもう来ない。
◆前田
 役者もしんどいのは同じです。ダウンコートもない時代ですから、私は内側に毛のついたブーツと、中国産のカシミヤの股引をこっそり身につけていました。
◆野口
 劇中におにぎりが凍結して食べられない描写がありますが、米って凍るんですよね。
◆神山
 そうなんですよ。午前中だけの撮影予定が吹雪を待って午後まで延びた日がありました。食事の用意がなかったので、急遽スタッフがカレーを用意したのですが。
◆前田
 前からバケツリレーみたいにカレーを回していくから、後ろにいくころには凍っているんだよ。あれは参ったね。
◆神山
 数少ない生き残りである緒形拳さん演じる村山伍長が、八甲田山を訪ねるシーンで映画は終わります。バックに、徳島隊も「日露戦争二〇三高地で全滅した*26」という字幕が流れる。
◆前田
 結局、斉藤伍長も死ぬ運命にあった。日露戦争へ向かう日本が上昇気流の時代にあって、犠牲になった男たちがいた。高度経済成長期を支えたサラリーマンたちに刺さるものがあったのでしょう。

映画「ドキュメンタリー八甲田山*27」 宮田聡監督中国・黒溝台のレポート2019.2.7から一部紹介
 高倉健の映画「八甲田山」 のラストシーンのテロップ。
 「徳島大尉*28、倉田大尉*29、伊藤中尉*30らは二年後の日露戦争中、極寒零下二十数度の黒溝台で二昼夜飲まず食わずに戦い、続く奉天大会戦を勝利に結びつけ、全員戦死した」
 この黒溝台に以前から興味があった。現地を見てみたい。
 中国北東部の都市、瀋陽*31。昔は奉天と呼ばれていた大都市である。2018年1月28日、通訳兼コーディネイターの中国人Eさんの車で朝8時に瀋陽を出発。目的地は南に100キロの黒溝台村。日露戦争の激戦、黒溝台会戦が行われた場所である。八甲田山雪中行軍遭難事件が起きなかったとしたら、青森5連隊の雪中行軍隊全員が黒溝台会戦に来ていたはずである。
 後から公安警察に聞いた話によると、黒溝台村は(ボーガス注:観光地ではない田舎なので)村人やその関係者以外が来ることはなく、私たちが村に入った時、すでに警察への通報があったらしい。中国では2017年くらいからスパイと疑われる人物を通報すると報奨金が出る制度が始まっている。
 最初は北京などの大都市だけのようだったが、今では地方都市や農村部でもその仕組みが出来上がっている。知ってはいたが、まさか自身が通報されているとは夢にも思わなかった。平和ボケともいえる(笑)。
 しかしこちら側から言わせて貰えば、畑だけの何もない小さな村を何の目的でスパイするのか。田舎だからこそ、見知らぬ人間は目立つのだろうが、車で村に入っただけで通報されるとは度が過ぎている。
 八甲田山雪中行軍で遭難した青森5連隊、210名中死者199名、生存者は11名。その中で軍務に復帰できたのは倉石大尉*32、伊藤中尉*33、長谷川特務曹長*34の3名。八甲田のちょうど3年後、彼らは黒溝台にいた。
 戦闘が始まったのは1905年(明治38年)1月25日の未明、弘前31連隊、青森5連隊は多數の死傷者を出し、八甲田の生存者のひとり、倉石大尉も戦死した。
(中略)
 前方から白のSUV車が来て道を塞ぐようにして止まった。私服姿の男が二人、車を降りてこちらに向かって来た。「警察ですかね」 とコーディネイターのEさん。とうとう来たか、心配していたことが現実となったようだが覚悟はしていたのでさほど焦りはしなかった。
 Eさんが「あなたたちは何者か?」 と聞くと、「住民だ」 と答えた。後から聞いた話では彼らは民兵で、村に警察がないために自警団のような役割をしているらしい。普段は農業や他の本業の仕事に就いていて必要な時のみ民兵の仕事をしている。こんな田舎の村でドローンまで装備しているとは、予算があるものだと感心した。
 向かった先は村役場のような所だった。殺風景な広い部屋にデスクがひとつ。50代だろうか、区長という人が座っている。日曜なのに出勤か? Eさんが通訳し、説明をしてもらう。
 15分くらい過ぎた頃、公安警察の私服警官二人が登場。彼らは遼陽の警察官だった。黒溝台の南東50キロ、遼陽から黒溝台まで1時間はかかる。警官が1時間かけてやって来るくらいだからこれは最低でも数日間は拘束されるかも、と覚悟を決めた。
 実は日本を出発する前にいくつかの対策を施しておいた。近年、日本人がスパイ容疑で何人も中国に拘束されている。実際に日本の公安調査庁から依頼を受けて中国の調査を行った「セミプロのスパイ」のような日本人もいたらしい。
 大連で興味本位で軍艦の写真を撮り、スパイ容疑で拘束されている日本人観光客もいる。
 14時頃、遼陽市の警察に到着。どうなるのかと思いつつ、待つこと約1時間。
 取調室に3人が入ってきた。ひとりの男が私に身分証を見せる。その男が取り調べを行う刑事らしく、年齢は30代半ばくらい、坊主頭でサンドウイッチマンの伊達みきおを細くした感じ。日本語の通訳は女性。30歳前後でAKB48指原莉乃に似ていた。
 なぜ黒溝台に来たのかという質問、映画を製作した話から八甲田山雪中行軍遭難事件について、黒溝台で5連隊の兵士が多く戦死したこと、慰霊のため、また黒溝台をこの目で見たかったと説明する。
 伊達ちゃんは納得した様子、しかし「外国人はドローンを飛ばすことができない」 と言い張る。
 こうなると「間違いでした、すみませんでした」と回答するしかない。「罪を認めますか? 」と聞かれるが「知らなかった、行く前に確認はしている、でも知らなかった」とリピートした。
 「ドローンにGPSは付いていますか?」 との質問、中国大手のドローンメーカーDJIは世界の70%のシェアをもつ。おもちゃのドローンでない限りはDJI製のドローンにはすべてGPSが搭載されている。
 GPS=スパイ活動、という認識があることは知っていたので、GPSが搭載されているかどうか、機械の中のことは詳しく知らない。ただ中国の大手メーカーが作っているドローンだから、違法な点はないと思う。詳しいことはメーカーに聞いてほしいと答えた。
 遼陽の警察に着いたのが14時頃、取り調べ室に入ってから質問されている時間より、待たされている時間のほうが圧倒的に長い。拘束されたことは心外だが外国人だからなのか、人権侵害どころか威圧的な態度も一切なく、注意深く配慮して対応しているのが見て取れた。これは伊達リーダーの人柄なのか、それとも遼陽市警察の方針なのかはわからない。
 コンビニ袋を持って伊達ちゃんが部屋に戻ってきた。「取り調べ中に買い物か?」と思ったが、コンビニ袋からプラスティックの容器を出す。親切にも私とEさんの食事だという。お金を払いますと申し出るとタダとのこと。中国公安警察の取り調べ室の食事はカツ丼ではなく、チャーハンだった。
 近所の店で買ってきたのだろう。チャーハンは暖かく、とても美味しかった。
 21時頃、帰りはいつの便かと聞かれ、明日朝の7:45だと答えるとそれも記録していた。雰囲気から察するにこれは今日中に解放されるという予感がした。
 指原通訳が電子辞書を見ながらこう言った。「ざんねんしょうを書いてください」
 指原通訳の日本語は無罪の人も有罪になりそうな通訳である。通訳として仕事をするのは10年早いと断言する。日本にいる中国人は流暢な日本語を喋る人が多い。それが当たり前と思ってもいたが、語学の学習は何にしても大変である。そう言う私も中国語ができないので偉そうなことを言えたものでもない。
 「残念賞を書いてください?」。
 紙を出してきているのでおそらく念書のことだろう。
 指原通訳にそう返すと「そうです。念書です」 との返事。文書はすべて中国語なので何と書いてあるかわからない。指原通訳が翻訳、内容は「ドローンを知らずに飛ばしたことは間違いで反省している。二度としない」 という文面。そして「日本語でいいですから反省文を書き足してください」 。始末書ということですね? 。始末書らしい文面を適当に考え、サッサと記入した。
 すべての書類へのサインと捺印を終えたのが22時頃。
 「あなたはこんな遠いところまで花束を持って慰霊に来た。偉い人だ」
 そして「感動した」と言う伊達ちゃん、だったら捕まえるなと言いたい。ドローンで撮影した黒溝台の空撮映像は消去。ビデオカメラの映像10分程度と画像が数枚撮れているのみ。
 黒溝台で民兵に連行されたのが昼の12時半、解放されたのが22時、約9時間半に渡って拘束された。逮捕ではなく事情聴取と始末書で済んだのは不幸中の幸いである
 伊達ちゃんが外まで見送ってくれた。「解放してくれてありがとう」と社交辞令だがお礼を言って頭を下げると、「あなたは本当にいい人だ」 と笑顔で握手を求めてきた。伊達ちゃんの生温かい手を握り、笑顔で別れた中国・遼陽の夜だった。

弁護士会の読書:囚われの山2021年1月24日
著者:伊東潤*35、出版:中央公論新社(2020年6月刊。1800円+税)
 八甲田雪中行軍遭難事件は1902年(明治35年)1月23日、陸軍の青森歩兵第五連隊第二大隊が雪中行軍演習したとき、折からの天候悪化により、道に遠い199人の犠牲者を出した史上空前の遭難事件。新田次郎の『八甲田山、死の彷徨』が映画化もされている(残念なことに私は見ていません)。
 120年も前の大事件を歴史雑誌編集者が売れる雑誌をつくろうと企画し、現地取材中に今もなお解明されていない謎を発見し、それに迫っていくというストーリーです。
 謎解きの要素も大きい本なので、ここでネタバレをするのはやめておきますが、軍の人体実験ではなかったのか、という点は、なるほど、そうだったのかもしれないと思いました。というのも、この陸軍による雪中行軍は2年後の日露戦争に向けて、厳冬の満州での大規模会戦の予行演習であったことが今では明らかになっていることだからです。
 青森歩兵連隊は、日露戦争のとき、満州大平原における黒溝台作戦に従事しているのですが、八甲田山での雪中行軍で大量遭難した経験をふまえて、防寒対策をきちんとしていたため、凍死者を出すことはなかったというのです。
 日露戦争のとき、青森歩兵第五連隊は、黒溝台の戦いに投入された。このとき、氷点下27度といった酷寒の中の戦いだったが、日本軍は寒冷地対策が万全だったため、凍傷者は出したものの、1人の凍死者もださなかった。
 八甲田山で死んでいった兵士のおかげで、日本は日露戦争を勝ち抜けた。無駄死ではなかった。八甲田山では、限界に来ていた者や身体に不調を来して動けなかった者が実は生き残れた。逆に歩けるほど元気だった者は、体力を使いきって生命を失ってしまった。低体温症によって、正常な判断を下せなくなった者が続出した。酷寒のなか、ほぼ全員が手指の自由を失った。このため、雪濠の掘削どころか、排尿も排便もできなくなり、そのまま垂れ流したので、ズボンの中が凍りつき、性器部分も凍傷になり、あとで生存者の多くは性器切断手術を受けた。いやあ、これほどまでだったとは。知りませんでした。
 八甲田山の兵士大量遭難事件は陸軍による人体実験だという指摘は、そうかもしれないと思います。戦前の陸軍が、兵士なんて、いくらでも替りがいると考えていたことは間違いありません。

【参考:後藤房之助

インパールを生き抜いた107歳父 祖父にも驚きの過去 [宮城県]:朝日新聞デジタル2021.8.10
 宮城県栗原市の後藤信一さん(107)は第2次世界大戦中、3万人もの日本兵が命を落としたとされるインパール作戦を、命からがら生き延びた。その体験をつぶさに記した1冊のノートがある。息子の公佐(こうすけ)さん(83)が語る。

 オヤジ(信一)がひょっこり戻ってきたのは、終戦翌年の田植えの頃でした。戦地に赴き3年。何の音信もなくもうダメかと思っていたので、家族は大騒ぎでした。7歳の私(公佐)はそのやせた姿に「誰、この人?」と思ったものです。栄養失調でそのまま3カ月入院しました。
 以来、オヤジは百姓ひと筋。戦争の話を私たちにすることもほとんどない。ただ、近所の同年代の人と茶飲み話になると、「中国はこうだった」「ビルマミャンマー)はもっとひどかった」と、戦地の思い出で盛り上がっていました。
 体も弱くなってきた20年ほど前、貴重な体験を残したらどうだと、ノートを渡したんです。ふだん文章など書かないオヤジが合間合間に書き始め、3、4年かかったでしょうか。
 私が知らなかったことばかりで、読んで驚きました。
 地名や現地の様子を細かく覚えている。極限状態を生き抜いたことを、つぶさに記しています。
 「迫撃砲は弾の後ろに羽根がついていて、ピュウピュウと気持ち悪い音をたてて飛んでくる。直径1尺位の木枝がバリバリ折れた。死ぬか生きるかの戦いで、頭の毛がまっすぐ立った」
 「(出征した)昭和18年8月以来、同じ服の着通しで、ひざ下まであった半ズボンは大きいパンツの様になって、腹巻きはシラミが真っ白に行列している」
 「(退却する)山道は、足の踏み場も無いくらい両側に白骨が続く。鼻や口にハエが真っ黒になって、ブンブンしている。この坂を越そうと、頑張って来たのだろうと思う」。
 実はオヤジの父親後藤房之助は1902年、旧陸軍の訓練で210人中199人が遭難死した八甲田山雪中行軍の生還者。青森市には銅像も立っています。ノートを見ると、オヤジは出征時、房之助のことを思い、「俺だって、どんな事があっても帰ってくるんだと、肝に堅く銘じていた」そうです。

【参考:劇団「表現劇場」

風間杜夫さんが語る下北沢、劇団仲間だったシティ―ボーイズ、ひとり芝居(2010.10.14)から一部紹介
◆インタビュアー
 22歳で結成された劇団「表現劇場」に現在シティボーイズの3人(大竹まこと、きたろう、斉木しげる)もいらっしゃったということですが、当時のことで何か憶えてらっしゃることは?
◆風間
 「表現劇場」は演出家も作家もいない役者の集団だったので、公演の度に悩んでいました。で、2年も過ぎると皆がやりたいことが違うということもだんだん分かってきました。大竹はコント志向だし、僕はちょうどつかこうへいと出会ったことも大きかったし、ほかにもバレエを志す役者がいたりと、皆がバラバラ。で、3年もしないうちに解散してしまいましたね。
◆インタビュアー
 今でもシティボーイズのメンバーと会って飲むことはありますか?
◆風間
 去年、久々に大竹から声が掛ったんです。「たまには4人で飯食おうよ」なんて言われて、大竹と斉木ときたろうと僕の4人で飲みました。でも、大竹は昔から酒を飲まないんです。食うことだけが趣味なんですよ。きたろうは昔と変わらず飲んでいましたね。懐かしかった。昔の話よりも「今どうしてるか?」っていう話題の方が多いですね。大竹の場合はお姉ちゃんの話が多くて、元気だなぁと思います(笑)。

俺たちかなり自由じゃないか 思うままにやれよ早大生 風間 杜夫 – 早稲田ウィークリー(2016.4.21)から一部紹介
 学生時代のこと、駆け出し時代のこと、演劇に対する考え方など、さまざまなお話を伺いました。
◆風間
 十数人の役者仲間で「表現劇場」という劇団を立ち上げました。1971年、大学4年の頃です。その中には後にコントユニット「シティボーイズ」を結成する大竹まこと斉木しげる、きたろうもいました。当時はとにかくお金がなくて、劇団の集会所として借りていた8畳のアパートに大竹・斉木と3人暮らしをしていました。
 当時アルバイトで仮面ライダーショーをやっていて、地方を回っていたんですよ。着ぐるみを身に着けて子どもたちの前でショーを見せるんですが、僕がライダー、斉木がショッカー(敵役)の親分、きたろうがその部下をやって。大竹は着ぐるみが大嫌いで、しかも彼は要領がいいから、マイクを使って会場の子どもたちに「今日はお前たちの中の一人をさらっていくから覚悟しろ!ヒッヒッヒ」などと言って脅かすという、一番楽な仕事をやっていた。なのにバイト代は全員一緒(笑)。
 お金はなかったけど楽しかったですね。でも肝心の演劇活動の方はなかなかうまく行かなかった。というのも、「表現劇場」は役者ばかりの集団だったんですよ。劇団というのは突出した劇作家・演出家がいて初めて成立するもので、民主的なものであるわけがない。役者ばかりだとやりたいことの方向性がばらばらで、いろんなことを話し合いながら公演も何度か打ったけど、結局3年ももたなかったですね。

*1:慰霊はともかく「顕彰」と言った場合「文化勲章」「国民栄誉賞」など「戦没者と関係ない顕彰」もありえますが、今回は「戦没者の加害性を直視しようとした平和遺族会の活動(今井論文)」「朝鮮人特攻隊員(権学俊論文)」「海外の戦没者遺骨収集(浜井論文)」等、専ら「戦没者の顕彰(そして慰霊)」が論じられています。戦没者ではない「八甲田山遭難事件の死者」を取り上げた丸山論文にしても「戦没者に近い存在と見なされた軍人の死者」です。従って「慰霊」と「顕彰」は別の扱いではなく今回は「慰霊と顕彰」でセットの扱いです。

*2:勿論参加すべきでないですが

*3:箕面忠魂碑違憲訴訟 - Wikipediaのこと

*4:著書『近代日本の徴兵制と社会』(2004年、吉川弘文館)、『明治・大正・昭和 軍隊マニュアル』(2004年、光文社新書)、『銃後の社会史:戦死者と遺族』(2005年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『戦場に舞ったビラ:伝単で読み直す太平洋戦争』(2007年、講談社選書メチエ)、『旅順と南京:日中五十年戦争の起源』(2007年、文春新書)、『宣伝謀略ビラで読む、日中・太平洋戦争』(2008年、柏書房)、『皇軍兵士の日常生活』(2009年、講談社現代新書)、『故郷はなぜ兵士を殺したか』(2010年、角川選書)、『米軍が恐れた「卑怯な日本軍」:帝国陸軍戦法マニュアルのすべて』(2012年、文藝春秋)、『日本軍と日本兵』(2014年、講談社現代新書)、『戦艦大和講義:私たちにとって太平洋戦争とは何か』(2015年、人文書院)、『戦艦武蔵』(2016年、中公新書)、『飛行機の戦争 1914-1945:総力戦体制への道』(2017年、講談社現代新書)、『昭和戦争史講義:ジブリ作品から歴史を学ぶ』(2018年、人文書院)、『特攻隊員の現実』(2020年、講談社現代新書)、『東條英機』(2020年、文春新書)、『軍隊マニュアルで読む日本近現代史』(2021年、朝日文庫

*5:神奈川大学准教授。著書『渋沢敬三今和次郎』(2013年、青弓社

*6:新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』の映画化。1902年(明治35年)に青森に駐屯していた歩兵第5連隊が雪中行軍の演習中に遭難し、演習に参加した210名中199名が死亡した事件(八甲田雪中行軍遭難事件)を題材にしている。北大路欣也(青森歩兵第五連隊中隊長・神田大尉:遭難で死亡した神成文吉大尉がモデル)、高倉健弘前歩兵第三十一連隊中隊長・徳島大尉:福島泰蔵大尉がモデル)主演。北大路の台詞「天は我々を見放した!」は当時の流行語になった。配給収入は25億円で、1977年の日本映画第1位を記録(八甲田山 (映画) - Wikipedia参照)

*7:「天は我々を見放した!」の元ネタ

*8:著書『雪中行軍遭難二つの疑問:歩兵第五聯隊第二大隊雪中行軍遭難の全容と原因の追究』(2022年、22世紀アート)

*9:2022年、冨山房インターナショナル

*10:七勇士については例えば七勇士 -弘前隊を案内した三本木の7名-「七勇士」の石碑ーみちのくあれこれ3 -のんびりとじっくりと!-参照

*11:著書『孫が挑んだもう一つの八甲田雪中行軍』(2015年、中経出版)、『八甲田雪中行軍:一二〇年目の真実』(2022年、冨山房インターナショナル)

*12:著書『北の漁師宿:ご飯が旨い浜の「隠れ宿」紀行』(2003年、響文社)、『永訣の朝:樺太に散った九人の逓信乙女』(2008年、河出文庫)、『大きな手大きな愛:“胃袋の宣教師”函館カール・レイモン物語』(2008年、農山漁村文化協会)、『いのちのしずく:”コタンの赤ひげ”高橋房次物語』(2010年、農山漁村文化協会)、『北限の稲作にいどむ:“百万石を夢みた男”中山久蔵物語』(2012年、農山漁村文化協会)、『100年に一人の椅子職人:長原實とカンディハウスのデザイン・スピリッツ』(2016年、新評論)、『ラストアイヌ:反骨のアイヌ歌人森竹竹市の肖像』(2020年、柏艪舎)、『彼女たちは、なぜ、死をえらんだのか?:敗戦直後の樺太ソ連軍侵攻と女性たちの集団自決』(2022年、敬文舎)等

*13:著書『生かされなかった八甲田山の悲劇』(2019年、山と渓谷社

*14:後に2021年、ヤマケイ文庫

*15:1980年公開の東映映画(舛田利雄監督、笠原和夫脚本)。第三軍司令官・乃木希典(演:仲代達矢)を主人公として日露戦争を描いた。興行的に成功し、太平洋戦争を描いた『連合艦隊』(1981年公開、東宝)、『大日本帝国』(1982年公開、舛田利雄監督、笠原和夫脚本、東映)、日露戦争での日本海海戦を描いた『日本海大海戦・海ゆかば』(1983年、舛田利雄監督、笠原和夫脚本、東映)等の戦争映画がこの時期、作られるようになった。(二百三高地 - Wikipedia参照)

*16:率直に言って合祀基準は極めて恣意的だと思います

*17:映画「八甲田山」では「沖津大尉」として玉川伊佐男が演じた(八甲田山 (映画) - Wikipedia参照)

*18:1926~2015年。『龍の子太郎』(現在は講談社青い鳥文庫)で、1960年に講談社児童文学作品(現在の講談社児童文学新人賞)を、1961年に産経児童出版文化賞を、1962年に国際アンデルセン賞優良賞を受賞。1964年、『ちいさいモモちゃん』(現在は講談社青い鳥文庫講談社文庫)で野間児童文芸賞NHK児童文学奨励賞を受賞。1974年、『モモちゃんとアカネちゃん』(現在は講談社青い鳥文庫講談社文庫)で赤い鳥文学賞を受賞。1994年、『あの世からの火:直樹とゆう子の物語』(偕成社)で小学館文学賞受賞。著書『自伝・じょうちゃん』(朝日文庫)、『戦争と民話:なにを語り伝えるか』(岩波ブックレット)、『ちいさいアカネちゃん』、『ふたりのイーダ』(以上、講談社青い鳥文庫)、『民話の世界』(講談社現代新書)、『アカネちゃんとお客さんのパパ』、『アカネちゃんの涙の海』、『オバケちゃん』(以上、講談社文庫)、『あの世からのことづて:私の遠野物語』、『現代民話考1:河童・天狗・神かくし』、『現代民話考2:軍隊・衛兵検査・新兵のころ』、『現代民話考3:偽汽車・船・自動車の笑いと怪談』、『現代民話考4:夢の知らせ』、『現代民話考5:死の知らせ・あの世へ行った話』、『現代民話考6:銃後・思想弾圧・空襲・沖縄戦』、『現代民話考7:学校・笑いと怪談・学童疎開』、『現代民話考8:ラジオ、テレビ局の笑いと怪談』、『現代民話考9:木霊・蛇・木の精霊・戦争と木』、『現代民話考10:狼・山犬・猫』、『現代民話考11:狸・むじな』、『現代民話考12:写真の怪・文明開化』(以上、ちくま文庫)、『現代の民話:あなたも語り手、わたしも語り手』(中公新書→後に河出文庫)等(松谷みよ子 - Wikipedia参照)

*19:2003年、ちくま文庫

*20:1879~1924年。映画「八甲田山」(1977年公開)では「江藤伍長」として新克利が演じた(後藤房之助 - Wikipedia参照)

*21:この像は、1906年に、当時の第一次桂内閣陸軍大臣寺内正毅(後に首相)や、参謀総長大山巌(第一次伊藤、黒田、第一次山縣、第一次松方、第二次伊藤、第二次松方内閣で陸軍大臣、後に元老)の呼びかけによって集まった全国の将校からの寄付をもとに、靖国神社大村益次郎像を制作した大熊氏廣によって制作され、除幕式には後藤本人も出席した。太平洋戦争の際には金属回収によって多くの銅像が撤去されたが、この銅像は供出されずに現在に至っている。1999年(平成11年)2月22日、青森市有形文化財に指定された(後藤房之助 - Wikipedia参照)

*22:演じた役にまともな名前が無かったらしい大竹と違い「渡辺伍長」というきちんとした名前のある役をもらっている(八甲田山 (映画) - Wikipedia堀礼文 - Wikipedia参照)

*23:1941年生まれ。監督作品に『ハチ公物語』(1987年)、『伊勢湾台風物語』(1989年:アニメ)、『遠き落日』(1992年:野口英世を描いた渡辺淳一の同名小説の映画化)、『ひめゆりの塔』(1995年)、『宮澤賢治その愛』(1996年)、『郡上一揆』(2000年)、『草の乱』(2004年:秩父事件を描いた)、『学校をつくろう』(2011年:「専修大学創立130周年記念映画」として専修大学によって製作された伝記映画。専修大学初代校長・相馬永胤を描いた)、『時の行路』(2020年:赤旗に連載された田島一の同名小説の映画化)等。著書『生まれたら戦争だった。:映画監督神山征二郎・自伝』(2008年、シネ・フロント社)(神山征二郎 - Wikipedia参照)

*24:1931~1984年。監督作品に『日本沈没』(1973年:小松左京の同名小説の映画化)、『八甲田山』(1977年:八甲田雪中行軍遭難事件を描いた新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』の映画化)、『聖職の碑』(1978年:木曽駒ヶ岳大量遭難事故 - Wikipediaを描いた新田次郎の同名小説の映画化)、『小説吉田学校』(1983年:戸川猪佐武の同名小説の映画化)等(森谷司郎 - Wikipedia参照)

*25:映画では、自責の念から、搬送された青森市内の病院で拳銃自殺を遂げた(八甲田山 (映画) - Wikipedia参照)。但し、山田少佐のモデルとなった人物「山口鋠少佐」の死は、実際には自殺では無く、病死であり、自殺とは「客受け狙いの創作(フィクション)」のようです(例えば山口少佐の死因 | 八甲田山 消された真実衛戍病院における山口少佐らの状態 | 八甲田山 消された真実参照)

*26:映画「八甲田山」の徳島大尉(演:高倉健)のモデル「福島泰蔵大尉」、倉田大尉(演:加山雄三)のモデル「倉石一大尉(遭難事件の生存者の一人)」、伊東中尉(演:東野英心)のモデル「伊藤格明中尉(遭難事件の生存者の一人)」らは日露戦争の「黒溝台会戦」で戦死(福島泰蔵 - Wikipediaその後の青森5連隊~黒溝台会戦中国・黒溝台のレポート参照)。なお、その後の青森5連隊~黒溝台会戦によれば「先頭に立つのは青森5連隊の連隊長、津川中佐。八甲田雪中行軍の時の連隊長である」とのことで、この戦争では映画「八甲田山」の津村中佐(演:小林桂樹)のモデルとなった津川謙光中佐が現地指揮官でした。

*27:2014年に公開された八甲田雪中行軍遭難事件のドキュメンタリー映画ドキュメンタリー八甲田山 - Wikipedia参照)

*28:高倉健が演じた。「福島泰蔵大尉」がモデル

*29:加山雄三が演じた。「倉石一大尉(遭難事件の生存者の一人)」がモデル

*30:東野英心が演じた。「伊藤格明中尉(遭難事件の生存者の一人)」がモデル

*31:遼寧省省都

*32:映画「八甲田山」の倉田大尉(演:加山雄三)にあたる

*33:映画「八甲田山」の伊東中尉(演:東野英心)にあたる

*34:映画「八甲田山」の今西特務曹長(演:井上博一)にあたる

*35:1960年生まれ。2013年『国を蹴った男(織田信長によって滅ぼされた今川氏真を描いた)』で吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で山田風太郎賞を受賞。また、2012年『城を噛ませた男(秀吉の北条攻めのきっかけとなった名胡桃城争奪にからむ、真田昌幸の計略に落ちた北条氏の武将・猪俣邦憲の悲劇を描いた)』で、2013年『国を蹴った男』で、2014年『王になろうとした男』で、2016年『天下人の茶(千利休を描いた)』で直木賞候補(伊東潤 - Wikipedia参照)