新刊紹介:「歴史評論」2024年9月号(その2)

特集『慰霊と顕彰から考える日本の近現代』
◆「戦没者」の二重性と戦後日本(今井勇*1
(内容紹介)
 タイトルの「二重性」とは「加害者性と被害者性」です。「民間人の戦没者」はともかく、日中戦争、太平洋戦争は日本の侵略だし「南京事件」「バターン死の行進」等の戦争犯罪もあったので「軍人の戦没者」には明らかに「加害者性」がある。
 「加害者性に無神経な日本遺族会(1970年代には靖国神社国家護持運動を展開し、国家護持が挫折した後も首相靖国参拝を要求。歴代会長を橋本龍伍*2賀屋興宣*3、村上勇*4長谷川峻*5橋本龍太郎*6古賀誠*7尾辻秀久*8、水落敏栄*9と言った自民党国会議員が務め、自民の有力支持団体の一つ(日本遺族会 - Wikipedia参照))」と「日本遺族会を批判して生まれた小川武満氏、西川重則氏らの平和遺族会(平和を願い戦争に反対する戦没者遺族の会)」について論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
参考

「悪人を求む」劇作家三好十郎の遺した現代への警鐘(季刊「現代の理論*10」第10号(2016年11月)収録)
今井勇筑波大学非常勤講師*11
 「第一に私どもを取りかこんでいる大小さまざまのオウトマティズムを科学的に査察し調査する機関が必要です。それは国内的にも国際的にもすべての政治権力からできるだけ遠く離れてあるのがよい。次に人間性についての広範な病理学管理がどうしても必要でしょう。そしてそれは特に政治や科学や組織や権力などの要所々々の部署にある人々、つまり重要なボタンやスイッチのそばに坐っている人々を絶えず重要視しなければなりますまい。」(三好十郎「悪人を求む」、『読売新聞』1958年12月19日)
 三好十郎*12は1902年佐賀市に生まれた劇作家である。早稲田大学在学中から詩作をはじめ、サンジカリズムの立場から次第にマルクス主義へ接近していくことになる。「自分の能力と技術で以て解放戦線上の一人の雑兵たらん」との思いでプロレタリア劇作家へと転じた三好であったが、意図や理論に現実を従属させる同時代の革命運動への反発から、激しい葛藤の末にマルクス主義と決別するに至った。その後の三好は、自己の意志に反した戦争協力へと傾斜していくことになる。そのような「精神と肉体の分裂」(精神では戦争に反対し敗戦を予期していたにもかかわらず、肉体は戦争を肯定的に描くような作品を生みだし続けていた)を二度と繰り返すことのないよう、敗戦後は徹底した自己批判に基づく反戦・平和の主張を展開したのであった。そして1958年、56年の短い生涯を終えたのである。
 絶筆遺稿となった「悪人を求む」において、三好は人類滅亡をもたらす核戦争を回避するために不可欠となる二つの条件を示してこの世を去った。人類が核の領域を冒すことによって直面することになった人類滅亡の危機について、まさに最期のボタンが押されるその瞬間にまで思いをはせながら綴られたその警鐘は、決して過去の言葉としてはならない。
 まず、人類最終戦争を回避するために用心すべき問題の一つとして、三好は「大小さまざまのオウトマティズム」の弊害に注目する。
 確認されるべきは、今後実現した安全保障法制度に則って迅速かつ広範囲に、そして恒常的に対応が繰り返されるなかで、海外派兵もまたオウトマティズム化される危険性があるという点ではないだろうか。オウトマティズム化された海外派兵は次の政権、その次の政権においても切れ目なく繰り返され、そのいずれかで戦争に巻き込まれたとしても、そして兵士や国民に被害が及んだとしても、おそらく安倍(現総理)や現閣僚の責任が問われることはない。それは三好が指摘したとおり、オウトマティズムによる災害の結果について直接的な責任を感じる者が誰一人として存在しない状況そのものであり、それが海外派兵のオウトマティズム化の行き着く末路であるならば、決して座視することの許されない現実に我々は直面しているといえよう。
 そして、三好が人類最終戦争を回避するために用心すべき課題の二つ目としてあげたのが、敗戦後「どうしても犯罪者らしく見えない兇悪な犯罪者の数がむやみとふえた」点である。アルベール・カミュ作『異邦人』に登場する主人公ムルソウの姿に重ねあわされるその種の犯罪者たちは、十分な意思も犯罪の動機もなく「思いがけぬ時にびっくりするような兇行を演」じる一方で、実直で極端におとなしく、他に対して悪意を持ち得ない性質の持ち主ばかりであると三好は分析する。その意味では、もはや「善意の人」としか評することのできない人間によって引き起こされる無残な傷害や殺人事件からは、その犯罪の質と重さにふさわしい「悪人や悪意を求めてどこを捜しても見つからぬ」ことに三好は困惑する。
 そのような「悪人を求めても得られない」現象と先のオウトマティズムの問題が錯綜し、不幸にも重なり合うことによって「引き起こされる災害=核戦争」を回避する方法として示されたのが冒頭の言葉だったのである。
 三好は二つの用心すべき課題をそれぞれ独立した課題として分析の対象としたが、じつは両者は決して切り離すことのできない関係にあり、広く社会におけるオウトマティズムの浸透こそが「悪人を求めても得られない」状況を再生産し続けているのではないかと考えられるのである。
 つまり、先の安保法制の整備について考えるならば、法整備によって海外派兵がオウトマティズム化されると、そのオウトマティズム化された法制度に従って兵士は海外に派遣され、法制度に従って戦争を始めるのである。派遣する人間もされる人間も、あくまで整備された制度に則り行動するのであり、そこには当然ながら悪の意識や動機は存在しない。悪の意識や動機が存在しないどころか、国家によって定められた法規定に従うことは国民の義務であり、その義務を粛々と遂行することが正しいことであり正義であるとの認識の方が広く共有されるようになるのではないだろうか。その結果として、兵士が殺し・殺される存在となり、再び戦争の惨禍がもたらされることになったとしても、オウトマティズム化された日常に身をゆだね、システム化された正義に従属することを是とするかぎり、その結果に見合った悪の意識や動機を見出すことは不可能に違いない。そして、そのオウトマティズム化された正義を信じ粛々と実行するものこそ、ごくありふれた無数の「善意の人」であることを鋭く見据えながら、三好は旅立ったのである。
 三好は「善意の人」が引き起こす唐突な「無邪気な兇行」を警戒し、さらにはオウトマティズムと結びつくことによる災害の深刻化に言及したが、じつは自身の正義や価値観を信じて疑わない「善意の人」だからこそ、その正義や価値観を頑なに貫いた結果として、時に「無邪気な兇行」が実行されるのである。その意味でも、求められるべきは、既存の正義や価値観に安易に迎合するのではなく、常に批判的に検証し得る冷ややかな視線を保持した「悪人」であることは、現代においてもいささかの変りもない。

書評『戦後日本の反戦・平和と「戦没者」:遺族運動の展開と三好十郎の警鐘』(今井勇著 御茶の水書房、2017.8)(季刊「現代の理論」第14号(2017年11月)収録)
「安倍靖国参拝違憲訴訟の会・東京」事務局長 新孝一
 ここで分析されている遺族運動は、日本遺族会の運動へと集約されていくそれだが、(ボーガス注:遺族の高齢化で)以前ほどの力は失っているとはいえ、日本遺族会は、日本会議にもつながる改憲靖国派の右派勢力そのものである。
 そもそも「戦没者」とは何か。
 「戦没者」について、実は法的に確定した定義は存在していない。日本遺族会が再評価の必要性を求め続けてきた「戦没者」とは、戦病死した軍人・軍属・準軍属に限られ、つまりは空襲などによる戦災死者や原爆犠牲者とは明確に区別されるものだった。
 こうして、遺族会的「戦没者」は、国への特別な貢献によって、ある種「特権化」された存在となる。それは「死の序列化」であり、また、戦争の死者に対して、本来国がなすべきだった賠償を、報奨ヘとすりかえていく論理立てとして、私たちも批判してきた。
 終章で紹介されている「もうひとつの遺族運動=キリスト者遺族会から平和遺族会へと繋がっていく流れ」こそが、「国家を対象化する(遺族の)運動」であった。重要なのはそこで、これまで一貫して「没個性化された『英霊』としての『戦没者』」であった存在が、「それぞれ『殺し・殺される』兵士であったことを自覚」することで「(ボーガス注:日本遺族会による)画一化された英霊顕彰運動からの脱却」を果すものとなったという指摘だ。ここで私たちは、まず、集合化された「戦没者」が個々の戦没者として捉え直されなければならないこと、そのことがもたらす可能性を知ることになる。
 いずれにせよ、「積極的平和主義」「安全保障法制」のもとで新たな「戦没者」が生み出されかねない現在において、事態はなお進行形であり、(中略)考えていくべき課題は多い。

【三好十郎と秋元松代編】ハヤカワ演劇文庫50冊を一挙紹介!~本を読んだら劇場へ、舞台を観たら本を手に。~|Hayakawa Books & Magazines(β)
1.「三好十郎Ⅰ 炎の人
 その正義感ゆえに炭鉱町の宣教師職を追われ、絵画の道に救いを見出した男ゴッホ。弟テオの献身的な支援のもと、パリでロートレックやベルナールらに触発され画家修行に勤しむが、世界と己の溝は深まるばかり。敬愛するゴーガンとの共同生活の果てに彼が辿りついた境地とは。孤高の天才画家が駆けぬけた炎のごとき生涯を、圧倒的な筆致で描き出す、日本演劇史に燦然と輝く巨星の代表作。読売文学賞受賞。
2.「三好十郎Ⅱ 浮漂(ぶい)」
 戦時下の夏の終わり、千葉市郊外の海辺の家で、洋画家久我五郎は肺を患う妻の美緒を看病している。美緒を実の子のように世話をする小母さん、戦地へ向かう五郎の親友の源一郎、不動産相続に気を揉む実母など、病床の美緒のまわりをさまざまなひとが行きかうなか、美緒の病状も一向に快方にむかわず。作者自身が「血みどろになってのたうちまわっている」作品と評し、生きることをみつめた私戯曲。
3.「三好十郎Ⅲ 冒した者」
 一九五二年に書かれた三好十郎の長篇戯曲。ときは朝鮮戦争の只中、東京郊外の高い台地に建つ三階建ての家。焼夷弾が落ち、荒れるにまかせ、なかば崩れかけている。現在使える部屋は七つ八つ。そこにこの劇の語り手で先生と呼ばれる「私」をふくめて9人が暮している。「私」を訪ねたのは〈創造としての芝居を生きてみよう〉として果たせなかった須永。「冒した者」という〈創造としての芝居〉を通じて戦後日本人の心の荒廃と絶望、そしてかすかな希望をみつけようとする。
三好十郎
 1902年、佐賀市生まれ。劇作家・詩人。複雑な家庭事情により孤児として少年期を過ごし、苦学して佐賀中学校を卒業。その後上京し、早稲田大学文学部に進学。在学中の1924年、≪早稲田文學≫に『雨夜三曲』など詩5篇を発表、詩人としてデビュー。卒業後、1928年≪左翼藝術≫に処女戯曲『首を切るのは誰だ』を発表。続けて同年、『疵だらけのお秋』を全日本無産者芸術連盟(ナップ)の機関紙≪戦旗≫に連載、プロレタリア劇作家として脚光を浴びるが、マルクシズムに疑問を抱き、1934年の『斬られの仙太』で転向問題を提起。その後PCL(現・東宝)文芸部に4年間在職、映画シナリオ執筆に携わる。戦時中も劇作を発表し続け、終戦までに『浮漂』『獅子』などを発表。戦後の『廃墟』『猿の図』『その人を知らず』『胎内』は〈戦後4部作〉と称される。『炎の人』は1951年中の初演・再演併せて演劇史上空前の観客動員数10万人を記録した。翌年『炎の人』その他で第3回読売文学賞を受賞。1958年死去。

滝沢修 - Wikipedia
 1906~2000年。1950年(昭和25年)12月22日、劇団民藝を結成し宇野重吉(1914~1988年)とともに劇団の代表として活躍する。1951年(昭和26年)の三好十郎作『炎の人』ではゴッホを演じて芸術祭賞、毎日演劇賞を受賞する。この役は生涯の当たり役となり、公演は83歳を数えるまで続けられた。

滝沢修『炎の人』を観て | 山田維史の遊卵画廊 - 楽天ブログ
 NHK・BS2で昭和演劇大全シリーズ劇団民藝公演『炎の人』を観ていた。昭和52年(1977)に再々演された舞台の録画である。
 三好十郎作、滝沢修演出・主演の『炎の人』は民藝の重要なレパートリー。初演は昭和26年。当時、芸術祭賞や毎日演劇賞を受賞している。
 演じているときの氏は、「滝沢修」を完全に消去してしまうのである。丸顔の温厚な素顔はどこにも見えず、私はヴィンセント・ヴァン・ゴッホその人を見ているようだった。もちろんメイキャップも私たちがどこかで見ているゴッホ肖像画から抜け出してきたかのようだ。民藝の演劇スタイルがリアリズムであることにもよるが、清水将夫ゴーギャンも山内明のロートレックも、おどろくほど肖像画や写真に似ていた。しかし、滝沢氏のゴッホは単に似ているというのではなかった。狂気を宿す目の光り。耳を切り落すまでの蒼白な顔等。
 1988年のNHKインタヴュー番組のなかで滝沢氏はこんなことを言っていた。京都公演のおり、体調が悪くなり高熱を発したのだそうだ。氏は床に就いていたのだが、もしかしたらゴッホはこんな状態で絵を描いていたのかも知れないと思い、床から起きだしスケッチ・ブックをたずさえて高山寺まで行き、必死に写生してみたのだ、と。
 名優といわれた氏が、どのように役作りをしていったか、その一端がうかがえる話である。


朝鮮人特攻隊員の表彰と顕彰(権学俊*13
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

◇朝鮮人特攻隊員の慰霊碑について◇ 崔 碩義 氏 | 随筆 | ニュース | 東洋経済日報2008.6.20
 黒田福美さん*14が、太平洋戦争末期に特攻隊に志願して沖縄の海で死んだ卓庚鉉(タク・キョンヒョン、日本名は光山文博*15)の慰霊碑を慶尚南道泗川(サチョン)の地に建立しようとしたが、地元住民の反対にあって失敗した。私はたまたま卓庚鉉についての関心から(同郷でもある)以前、彼の故郷である西浦面(ソポミョン)に行ったとき、地元の人たちに卓庚鉉の評判について質ねてみたことがある。すると大抵の人から「日本のために沖縄の海に突っ込んで死ぬ必要などどこにあるか、犬死もいいところだ」という答えが返ってきた。
 黒田さんが地元住民とコミュニケーションを取るのにもう少し努力していたらこんな展開になっていなかったと思うと残念である。遺憾なことに卓庚鉉は、今も靖国神社遊就館に遺品が展示され、先の戦争があたかも聖戦であったかのようなプロパガンダに利用されている現実に注目する必要がある。日本人の神風特攻隊員はそれでも、遺族は軍人年金、弔慰金などで手厚く報われている。ところが朝鮮人特攻隊員(ボーガス注:の遺族)にはビタ一文も支給していない。こんな酷い差別がこの世の中にあっていいのだろうか。

【海外の見方】韓国、痛恨の記憶 特攻隊員には朝鮮半島出身者も|【西日本新聞me】2014.7.29
 特攻隊員には日本統治下の朝鮮半島出身者もいた。その足跡を追った韓国紙記者の著書「私は朝鮮人カミカゼだ」によると、朝鮮人隊員の戦死者は17人。韓国にとっては、加害者側になって若い命を散らせた痛恨の記憶だと言える。
 17人は「日本の植民地支配の犠牲者」だが、それにとどまらない。家族を養うためとはいえ、多くが志願入隊だったため、「日本の侵略戦争に加担した親日売国奴」と批判される。
 それを象徴する「事件」が2008年に起きた。韓国通で知られる女優の黒田福美さんが、ある朝鮮人特攻隊員*16の慰霊碑建立を計画。遺族の理解や地元自治体の協力を得て完成させたが、除幕式直前に抗議運動が起き、撤去した。
 もっとも、生き残った元隊員は、戦闘機の操縦技術を持つ人材として国の発展に寄与。韓国空軍に転じ「朝鮮戦争の英雄」「韓国航空産業の父」になった。
 隊員の遺書などを世界記憶遺産にする構想に、韓国政府は特にコメントしていないが、「国家のために個人の死を当然視する作戦を美化する」(ハンギョレ新聞)などの批判がある。


戦没者遺骨収集と慰霊の戦後(浜井和史*17
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

【太平洋戦線】遺骨の嘆き知って 識者に聞く|【西日本新聞me】2014.9.23
帝京大講師*18 浜井和史氏に聞く
 戦争末期には、愛する家族が海外で戦死しても、亡くなった状況は分からず、白木の箱に石ころしか入っていないことも少なくなかった。帰国できない遺骨には、戦後それほど関心が寄せられなかったが、遺骨問題は平和を考える上で、大きなきっかけを与えてくれる。
 戦没者の遺骨は全て母国に送還するのが日本軍の従来の方針だった。だが、ガダルカナル島撤退、アッツ島全滅があった1943年以降、遺骨が帰還しないのが常態化した。軍当局も遺骨が戻らないことに関し、新聞で国民に覚悟を促した。
 敗戦で軍が解体されると、遺骨帰還を誰が担うかという新たな問題が生じた。さらに、グアムをはじめ遺骨が眠る太平洋の島々には米国が軍事施設を建て、軍事的、政治的に立ち入りを制限。アジア諸国でも戦争を行った日本への感情的な問題から遺骨収集は難しい。このため可能な範囲で発掘した遺骨を戦没者の代表とし、「象徴遺骨」として日本に送還する方法が考案された。その帰還で1950年代、遺骨収集は一応終了したとされた。
 だが海外への渡航が自由化された1960年代、遺族や戦友が現地を慰霊して野ざらしになった遺骨の状況に驚き、国に遺骨収集の再開を求めた。数次にわたる収集計画が終わっても遺骨は残されており、国が終了方針を示すと、遺族たちが継続を求めるのが繰り返されてきた。

〈戦後76年 遺骨は語る〉硫黄島で戦死の米兵7000人。不明はわずか95人。研究者は指摘する。「日本政府には遺族の元に返す責任感が欠落してきた」 | 鹿児島のニュース | 南日本新聞 | 373news.com2021.8.14
 遺骨収集に詳しい帝京大学浜井和史*19准教授(日本現代史)は「日本政府には戦没者遺骨を徹底捜索し、身元を特定して遺族の元に返すという責任意識と義務感が欠落してきた」と指摘。背景には、戦況が悪化した戦中から戦後初期にかけ、遺骨代わりに「空の遺骨箱」を遺族に届けることで処理済みとした経緯があるという。
 こうした日本政府の姿勢が、フィリピンや旧ソ連などでの収集活動で、日本人ではない遺骨を持ち帰る失態にもつながった。「朝鮮半島や台湾から戦地に送られ、命を落とした軍人軍属らも“日本人”として収容された可能性も否定できない」と浜井准教授。身元特定の広がりを通じ、改めて目を向けることが重要だと訴える。

〈戦後76年 遺骨は語る〉受動的で消極的「グランドデザインなき日本の遺骨収集」 帝京大・浜井准教授インタビュー | 鹿児島のニュース | 南日本新聞 | 373news.com*202021/08/19
 先の大戦から76年がたつ今も、極寒のシベリアから南洋諸島までの広い海外に、日本人戦没者の遺骨が残されたままとなっている。その数は112万柱以上。戦後日本の遺骨収集の取り組みや課題について帝京大学浜井和史准教授(日本現代史)に聞いた。
◆記者
 「国の遺骨収集事業をどう評価するか。」
◆浜井
 「76年通じて場当たり的。一貫したグランドデザインがないままずるずる過ぎた。厚生労働省の援護政策の枠組みで遺族の心情をどう慰めるかの観点から進められ、受動的、消極的に進めてきたのが特徴。『国の責務』『責任』とその時その時で唱えるが、どこかで区切りを付けようとし、その度にまた見つかるという繰り返しだ」
◆記者
「なぜそうなった。」
◆浜井
「そもそも非常に膨大な戦没者が海外に取り残され、ジャングルなど過酷な戦場で戦後何年もたってから捜索するのは難しい。早い段階で、どう適切に処理すべきか考えるべきだった。1950年代の事業開始当初から全ての収容を諦め、いったん終了とした影響も大きい」
◆記者
「長く戦没者の身元特定も消極的だった。」
◆浜井
「当初から、誰の遺骨で遺族に返さねばという強い意識が欠けていた。日本人の誰かという意識が低いので、他の国籍かもという考えにはほとんど及ばなかった。現地で見つかった遺骨を現地で火葬し、(ボーガス注:本人かどうかどころか)日本人かも分からないまま持ち帰る状況を続けた」
「2000年代に入ってDNA鑑定が導入され、科学的手法で個体識別が始まると整合性がとれなくなった。当初はごく少数しか鑑定にこぎ着けず、問題が表面化しなかった。多くの検体が鑑定されるようになり、(ボーガス注:本人でないことがわかり?)今までのやり方のまずさが明らかになった」
◆記者
「遺骨の多くが無縁仏として扱われたことで生じた影響は。」
◆浜井
「戦後の日本社会が戦争責任の問題に向き合う重要な機会を失うことにもつながった。戦争の記憶継承は大きな課題だが、日本の戦争記憶や平和学習は、原爆や空襲など国内の被害のことが目立つ。遠く離れた地で激戦があり、多くの兵士が飢え死にするなど無残に倒れ、大勢の現地の人も傷つけたという想像力が欠けていた。そういう記憶の継承が追求されず、戦争責任の議論も内向きになった」
◆記者
「今後どうしていくべきか。」
◆浜井
「膨大な遺骨が残る現実があり、打ち切れないだろう。ただ遺族でも継続すべきか否か意見は割れる。遺族の高齢化で『続けるべき』との声は減っていくが、それでやめていいのか」
戦没者遺骨収集推進法の集中実施期間が終わる頃までに、新しい時代の積極的意義付けを、遺族やそうでない人、若い世代などからさまざまな意見を募り、考えるべきだ。収集に参加した学生ボランティアは現地で戦争のリアルを目にし、意識が変わる。まさに一片の遺骨は語っている。海外戦没者の存在は考える機会につながる。広く社会に知ってもらうことも大事だ」

常夏通信:その72 戦没者遺骨の戦後史(18) 収容した遺骨は240分の1 それでも幕引き考えた日本政府 | 毎日新聞(栗原俊雄*21)2020.12.2
 その「厚生労働白書」を読んだとき、私はのけぞった。2002年度版、海外の遺骨収容について書かれているくだりだ。「南方地域について」の収容が「おおむね終了」したとある。
 私は、この記述を2006年に知った。記述に関わった人たちに聞きたかった。
 「フィリピンだけでも40万体以上の遺体、遺骨が未収容ですよ。あなたたちの言う『南方』って、どこなんですか」と。
 1952年に独立を回復した日本政府は、ようやく海外で戦死した邦人らの遺骨収容に取りかかろうとした。以来68年間、今日まで続いている。しかし、政府は、戦没者遺骨の収容を打ち切ろうとしたこと*22があった。上記の「白書」はその一例とみていいだろう。

どうすれば硫黄島に行けるのか、なぜ遺骨収集が進まないのか…1年中戦争報道を行う名物記者が教えてくれたこと(酒井 聡平) | 現代新書 | 講談社(4/4)2023.8.6
 「硫黄島の遺骨収容が進まないのは、国民の関心が高まらないからです。国民の関心が高まらないのは、メディアが報じないからです。だから、多くの記者に『皆さん、硫黄島に行きましょう』と呼びかけてきた。でも、本当に行ったのは酒井さんだけですよ」

帰らぬ遺骨112万柱 収集事業、集中期間5年延長―沈没船も積極調査:時事ドットコム2023.8.15
 先の大戦では240万人(推計)の日本人が海外などで亡くなったとされ、いまだに112万柱(推計)の遺骨が収容されず戦地で眠っている。政府は遺骨収集の集中実施期間を定め、一日も早い帰還を目指している。
 厚生労働省によると、海外戦没者240万人のうち、部隊が持ち帰ったり、国の事業で収容されたりした遺骨は計128万柱。未収容112万柱のうち、海中に沈んだ30万柱や相手国の事情で収容が困難な23万柱を除き、59万柱が収容可能とみられている。
 遺骨収集事業は1952年度に始まり、これまでに34万柱が収容された。2016年には遺骨収集を初めて「国の責務」と明記した「戦没者遺骨収集推進法」が施行。24年度までの9年間を集中実施期間と定めた。
 しかし、新型コロナウイルス流行やロシアのウクライナ侵攻で2020年度以降、収集事業は中止を余儀なくされた。このため集中実施期間を5年間延長する計画が7月に閣議決定された。
 加藤勝信*23厚労相は「戦没者の遺族が高齢になっている現実を重く受け止め、一日も早く、一柱でも多く遺骨を遺族の元に帰せるよう、全力を挙げる*24」と話している。

海外の戦地で亡くなった人の霊を慰める「拝礼式」 301人の遺骨 新たに納められる 東京 千鳥ヶ淵戦没者墓苑 | NHK | 東京都2024.5.27
 武見厚生労働大臣が「1柱でも多くの御遺骨が、一日も早くふるさとに戻られるよう、全力を尽くしてまいります」と式辞を述べました。
 そして、調査団がロシアや硫黄島などから持ち帰った身元が分からない301人の遺骨が墓苑に納められ、参列者が菊の花をささげました。
 納められた遺骨はこれで37万700人になりました。
 一方で、終戦からまもなく79年となる今も、国内外のかつての戦地にはおよそ112万人(推計)の遺骨が残されたままです。
 遺骨収集をめぐっては、去年6月、事業の集中実施期間を2029年度まで5年間延長する、改正戦没者遺骨収集推進法が成立していて、国はこれまで調査ができていなかった国内外の埋葬地およそ3300か所で現地調査などを行う方針です。
 父親を現在のインドネシアで亡くした82歳の男性は、「今も父の遺骨は見つかっていません。ちゃんと遺骨について調べて遺族のもとに帰すということが、戦争を始めた国の最低限の責任だと思っています」と話していました。

旧日本軍と米軍 グアムでの戦闘開始から80年 遺骨収容が課題 | NHK | アメリカ2024.7.20
 厚生労働省によりますとグアムでの遺骨の収容活動は昭和28年から行っているものの政府として収容できた遺骨は516柱にとどまり戦没者全体の1割にも満たず遺骨の収容が最も遅れている戦地のひとつとなっています。
 グアムで遺骨の収容が遅れる背景には、アメリカの準州というグアム島ならではの事情があります。
 島の面積のおよそ3分の1をアメリカ軍基地が占め、立ち入りが厳しく制限されていることに加え、連邦政府の制度により遺骨が埋まっている明確な証拠がないかぎり、たとえ私有地でも掘削などの調査が制限されているからです。
 厚生労働省アメリカ国防総省の捕虜・行方不明者調査局と遺骨収集事業に関する協力の覚書を交わすなどして2029年度末までを集中実施期間と定めて対策を急いでいます。
 こうした中、グアム準州*25ゲレーロ*26知事は7月10日、戦後80年にあわせてこの数年間にグアム側で発見された日本兵のものとみられる遺骨を日本政府に引き渡す式典を開きました。
 遺骨を引き取った厚生労働省の中川默班長は、「引き渡しを受けたことは非常にありがたく思います。日本とアメリカは遺骨収集の分野でも協力して進めていくところなので、これをきっかけとしてグアムでの遺骨収集を強化していきたい」と話しました。

 なお、浜井論文によれば「硫黄島での遺骨回収」はほとんど進んでいないとのこと(渡辺謙が第109師団長兼小笠原兵団長・栗林忠道*27を演じたイーストウッド映画『硫黄島からの手紙』でご存じの方も多いでしょうが、硫黄島は太平洋戦争の激戦地でした)。
 その理由は浜井氏に寄れば
1)1968年の「小笠原諸島返還」まで米国領だったこと
2)軍事基地(自衛隊)があること
3)1972年に返還されるまで米国領で、軍事基地(米軍基地)があるという「硫黄島」と似た面があっても民間の力によってかなり回収が進んだ*28沖縄と違い、

硫黄島に人は住んでいるのか?上陸禁止の理由と観光の可否を解説 | DEEP JAPAN QUEST
 現在硫黄島には人は住んでいるのでしょうか?
 結論から言えば、硫黄島に人は住んでいません。1968年6月12日に公布された「南方諸島とその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」で 小笠原諸島が返還された後でも、旧島民が帰還することは叶いませんでした。現在は、自衛隊とその関係者のみが在留しています。

世界的にも異例すぎる「硫黄島」の厳しい実態…なぜいまだに島民は帰れないままなのか(酒井 聡平) | 現代新書 | 講談社(1/3)
 米軍の核の時代を経て、現在も続く硫黄島自衛隊支配。
 この現状を問題視し、精力的に発信し続ける研究者の一人に、明治学院大学の石原俊*29教授がいる。
 小笠原諸島の施政権の返還後、父島と母島の旧島民は帰島を認められた一方で、硫黄島の旧島民は許可されなかった。硫黄島の旧島民たちは1969年、硫黄島帰島促進協議会を結成し、国に再居住を求める運動を本格化した。
 しかし、国は翌1970年、その要求を無視して、硫黄島の復興の実施を除外した小笠原諸島復興計画(後に振興計画に名称変更)を決定した。帰島運動は一世の高齢化に伴い、次第に下火になっていった。
 そんな中で迎えた1984年、国土庁の審議会は火山活動などを理由に「硫黄島での一般住民の居住は困難である」との答申を出した。これにより国は同計画の延長を決定。先の大戦での全島疎開が解除されない、世界でも無二とされる異常な状態は、現在もなお続いている。
 火山危険説は、国側が従前から繰り返してきた論理だ。
 しかし、こうした論理は帰島を求める旧島民には通じなかった。
 「安全を問題にするのなら、自衛隊はなぜ、引き揚げないのか」
 では、旧島民の帰還が認められない本当の理由は何なのだろうか。
 石原氏は僕のインタビューで、こう話した。
 「自衛隊が訓練基地として既得権化した。だから(島民は)帰れないということです。港の管理権から何まですべてのインフラを自衛隊が握ってしまっているので、防衛省が嫌だと言えば、いくらでも通ってしまうのです」。
 つまり、現在に至るまで着々と進められてきた基地化こそが真の理由だ、ということだ。

ということで硫黄島には一般住民が居住していないことがあるといいます。
 但し

意外と知らない、民主党時代に硫黄島の遺骨収集が大きく進んだという事実(酒井 聡平) | 現代新書 | 講談社(1/2)2024.07.05
 今後の遺骨収集を考える上で欠くことのできない二人目の人物。それは、阿久津幸彦*30だった。硫黄島の遺骨収集で突出した成果を挙げた菅直人政権の首相補佐官だ。
(中略)
 1968年から本格的に始まった硫黄島の遺骨収集史の中で、年間収集数が激増した年がある。自民党から政権を奪取した民主党菅直人*31が首相に就いた2010年度だ。
 東京都選出*32の国会議員である菅氏は野党時代から、東京都の一部である硫黄島の遺骨収集が進んでいないとして政府を批判してきた。そんな足跡がある菅氏は2010年6月に首相に就任すると、中央省庁の横断組織「硫黄島における遺骨収集のための特命チーム」を発足。そのチームリーダーに米国通の阿久津氏を任命し、米国に派遣した。
 阿久津氏は米国で、日本側戦死者が埋められた「集団埋葬地」2ヵ所の記録が残されていることを確認。その記録に基づいて発掘作業を行ったところ、2010年度だけで822体を収集した。前年度まで5年間の平均収集数は50体だった。その16倍もの戦没者を帰還させたのだ。特命チームは翌年度からの3年を「集中実施期間」と位置づけ、年4回程度だった収容作業を通年で実施。結果、3年間の収集数も166~344体と大きな成果を上げた。

硫黄島の遺骨返還・・・戦争は終わっていない - 菅直人公式サイト
 ぜひご紹介したいのが、私の政権で取り組んだ「硫黄島の遺骨収集問題」です。
 私は東京都選出の衆院議員ですが、硫黄島も都内にあります。東京都小笠原村にある硫黄島では、太平洋戦争末期に日米両軍の激しい戦闘(硫黄島の戦い)があり、2万人以上の日本兵が戦死しました。映画などでご存じの方も多いと思います。日本の敗戦後、硫黄島アメリカに占領されましたが、1968(昭和43)年に日本に返還され、東京都の一部になりました。その後は毎年のように戦没者の遺骨収集が行われ、民主党に政権が交代するまでに約8,700柱の遺骨が収集されましたが、日本側の資料が乏しかったこともあり、私の政権が発足した2010年当時では、約1万1000万人分の遺骨が収集されずに残されていました。戦後65年を迎える年になお、戦没者全体の半数以上の遺骨が、ご遺族のもとに還らずにいたのです。
 私は野党時代からこの問題に関心を持ってきました。2006年には、当時の小沢一郎民主党代表とともに硫黄島を訪れ、遺骨収集の現状を視察したこともあります。それでも、野党の立場でやれることには限界がありました。そこで、2010年6月に総理に就任すると、翌7月に厚生労働省防衛省の審議官クラスの皆さんで構成する「硫黄島における遺骨収集のための特命チーム」を発足させ、遺骨収集の強化に乗り出しました。チームのトップは、以前からこの問題に強い関心を抱いていた阿久津幸彦首相補佐官にお願いしました。
 硫黄島には自衛隊が駐屯していますが、遺骨収集は厚労省中心で進められてきました。この「縦割り行政」を打破し、両省の合同チームを作れば、作業がスムーズに進むと思ったのです。もちろん、長妻昭*33厚生労働大臣北澤俊美*34防衛大臣も、快く協力を申し出てくれました。
 私にはある考えがありました。以前に読んだ本に、米軍がブルドーザーで日本兵の遺体を埋めている写真が載っていたのを覚えていたのです。私は阿久津補佐官にこう言いました。
 「硫黄島には、旧日本兵の集団埋葬地が必ずあるはずだ。その埋葬地を見つけてほしい。勘に頼った調査ではなく、確かな資料に基づく科学的な調査を、一から始めてほしい」
 どうやらこれまでの厚労省の調査は、現地で洞窟の中をのぞいて「ありません」と言っていただけのようなのです。それでは何も見つけられません。事前のしっかりした調査が必要です。
 阿久津補佐官は私の思いによく応えてくれました。阿久津補佐官を中心とした調査班は、7月下旬に米国公文書館に向かいました。アメリカは公文書の管理がしっかりしています。沖縄の密約問題もそうでしたが、日本政府がいくら「密約はない」と言っていても、実は米国側の公文書は公開されていました。硫黄島も同じではないかと考えたのです。アメリカのジョージ・ワシントン大学院国際関係学部を修了した阿久津補佐官は、この仕事にまさに適任でした。
 予想は当たりました。阿久津補佐官たちは40万ページ以上に及ぶ膨大な資料を調査し、日本軍兵士を埋葬したとする米軍の記録を発見。集団埋葬地の場所が特定できたのです。この記録に基づいて現地を調査したところ、2010年度に822柱の遺骨を収容できました。前年度の51柱を大幅に上回る数です。私の後任の野田佳彦*35政権でもこうした方針を引き継いでくれ、翌11年度も344柱を収容することができました。
 これまで遺骨収集が進まなかった原因は、ここで書いたように省庁の縦割り行政の弊害や、日本側のずさんな公文書管理、科学的でない調査など、ほかの分野でも日本政府の問題として指摘されることばかりです。しかし、阿久津補佐官のような専門知識と熱い志を持った仲間に恵まれれば、こうした状況を突破することは可能なのです。戦後処理は日本政府に突きつけられた重い課題です。日本のために亡くなられた方々の遺骨を最後の一柱まで収集することは、与野党を問わず現在の政治の責任で行わなければならないことです。ここでは硫黄島の遺骨収集に触れましたが、硫黄島は国内なので、国の責任で収集作業を進めることは比較的容易です。本当に難しいのは在外戦没者です。シベリア抑留で亡くなった方もいます。まずは硫黄島の遺骨収集をしっかり進めた上で、さらにフィリピンやインドネシアパラオ*36といった在外戦没者の遺骨収集にもつなげていきたいと考えています。

だそうですが(しかし、あくまでも「硫黄島の遺骨回収問題に個人的思い入れがあった」菅直人氏(当時、首相)と菅氏の後継政権「野田政権」の成果にすぎず、第二次安倍以降の自民政権では回収は進んでないらしい)。
 いずれにせよ意外と知らない、民主党時代に硫黄島の遺骨収集が大きく進んだという事実(酒井 聡平) | 現代新書 | 講談社(1/2)の酒井氏同様、俺も「硫黄島の遺骨回収」では菅氏を高く評価したい。
 なお意外と知らない、民主党時代に硫黄島の遺骨収集が大きく進んだという事実(酒井 聡平) | 現代新書 | 講談社(1/2)の筆者・酒井氏(北海道新聞記者)には「硫黄島の遺骨回収問題」について『硫黄島上陸:友軍ハ地下ニ在リ』(2023年、講談社)の著書があります。


◆私の歴史研究「中国古代国家史研究にこだわり続けて(下)」(太田幸男*37
(内容紹介)
 新刊紹介:「歴史評論」2024年8月号(追記あり)(副題:田中絹代は映画監督だった他) - bogus-simotukareのブログで紹介した「上」の続きですが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。


◆文化の窓「前橋市における今井清一*38文庫の公開について」(大西比呂志*39
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。
【ヒストリア前橋】

「鈴木貫太郎顕彰会」「ヒストリア前橋」の仕掛け人 腰高博さんに聞く(N)|前橋発、新しい風 「めぶく」街 。前橋の様々な話題を取り扱う前橋新聞-mebukuです。(2024.2.27)から一部引用(今井文庫の部分のみ紹介し、鈴木貫太郎*40顕彰については紹介は省略しました。なお小生自身はいわゆる「終戦の聖断(戦前最後の首相として鈴木が関わった)」については「遅すぎた聖断」の立場なのでこうした鈴木顕彰には否定的立場です)
 4月23日、アクエル前橋2階に開業する歴史エンタメ施設「ヒストリア前橋」。発起人はカラオケまねきねこの「コシダカホールディングス*41」社長の腰高博*42さんだ。
◆インタビュアー
 ヒストリアにはどんな展示がありますか?
◆腰高
 「華都と利根川」「県の都」「生糸の都」など5つのテーマ展示や、前橋市出身*43歴史学者今井清一氏を紹介するコーナーも設置し、関連の書籍を閲覧できる今井清一文庫も設けます。
◆インタビュアー
 ヒストリアを作ろうと思ったきっかけは。
◆腰高
 地元のことって、地元の人は意外に知らないじゃないですか。後世にきちんと伝えなくちゃいけないと思いました。それを具体的な展示で知らしめる施設を作りたい、そこからのスタートですね。
 最初は一般社団法人で立ち上げようと思ったのですが、なかなかハードルが高くて、腰高プロダクツの事業として民間100%でやろうということになりました。監修は歴史学者の手島仁*44先生にお願いしました。

「ヒストリア前橋」開設 コシダカHD・腰高社長に聞く 「郷土史知る施設が必要」 大河ドラマ実現目指す:東京新聞 TOKYO Web(2024.4.13)から一部紹介
 前橋市のJR前橋駅前の複合ビル「アクエル前橋」に26日、エンターテインメント要素を盛り込んだ郷土史展示施設「ヒストリア前橋」がオープンする。手がけたのは、カラオケ店「まねきねこ」など娯楽施設運営大手のコシダカホールディングス(本社・東京)で、社長の腰高博さん(64)=前橋市出身=は「郷土史を知る施設が地元に必要と考えた」と語る。
◆記者
 なぜ、この施設を開こうと考えたのですか。
◆腰高
 前橋には郷土史に関する施設がなく、私自身も学校で教わることがありませんでした。ならば、自分たちで作って市民の皆さんにお伝えするのは意義があることだと考えました

定例記者会見概要版(令和6年4月12日開催)/前橋市から一部紹介
(市長)
 JR前橋駅に近接するアクエル前橋内に、前橋の歴史を伝えるエンターテイメントミュージアム「ヒストリア前橋」が4月26日(金曜日)にオープンする予定です。
(中略)
【質疑応答】
(記者)
 今井清一文庫に寄せられた関連書籍はどのようなジャンルのもので、どれくらいの蔵書があるのか教えてください。
(株式会社コシダカプロダクツ 佐々木代表取締役社長)
 関連書籍は、今井先生のご遺族から寄贈いただいたものでジャンルは多岐に渡っています。
 4,000冊ほど寄贈いただき、スペースの都合で2,000冊展示しています。今後は展示物を定期的に精査し入れ替えを行いたいと考えております。
(記者)
 今井清一文庫に寄せられた関連書籍は基本的にはご遺族からの寄贈でしょうか。
(株式会社コシダカプロダクツ 佐々木代表取締役社長)
 はい。そのとおりです。
(記者)
 館内のみでの閲覧が可能ということでしょうか。
(株式会社コシダカプロダクツ 佐々木代表取締役社長)
 そのとおりです。貸し出しは考えておりません。

前橋の歴史学ぶ施設、4月26日に開業 コシダカHDが整備 - 日本経済新聞2024.3.25
 カラオケ店「まねきねこ」などを展開するコシダカホールディングス(HD)は25日、前橋市の歴史を学べる施設を4月26日に開業すると発表した。現在、同社が保有するJR前橋駅前の商業施設「アクエル前橋」の2階で整備を進めている。
 同施設では前橋城の廃城や第2次世界大戦での空襲など、前橋の歴史を映像コンテンツで学ぶことができる。同市出身の歴史学者今井清一氏の関連書籍を閲覧できるコーナーも設ける。

歴史エンターテインメント施設【ヒストリア前橋】2024年4月26日オープン決定!|新着ニュース | 前橋の観光・旅行情報サイト 「前橋まるごとガイド」2024/04/26
 歴史エンターテインメント施設【ヒストリア前橋】が、JR前橋駅北口すぐのアクエル前橋内に2024年4月26日(金)にオープンします!
 群馬県前橋市では2022年12月に「前橋市歴史的風致維持向上計画」が主務大臣(文部科学大臣農林水産大臣国土交通大臣)の認定を受け、2023年より10年間、歴史まちづくりに取り組んでいくことが決定しています。
 【ヒストリア前橋】は、その民間事業として前橋市の活性化に向けたエコミュージアムの中核施設を目指し、新たに開設されるものです。
(中略)
 前橋市出身の歴史学者今井清一氏の紹介と寄贈された貴重な関連書籍を閲覧できる「今井清一文庫」も設置予定。

本日オープンの「ヒストリア前橋」@前橋駅北口を観てきた: JET-LOGから一部引用
 JR前橋駅の北口にある「アクエル(AQERU)前橋」という商業ビル。
 この建物自体は前からあって、以前に1Fにある「プロント」でパスタも食べましたけど、ここの2Fに「ヒストリア前橋」という施設が本日4月26日オープンとのことなのでどんなもんなのかと思い、覘いてみることにしたわけです。入場料は大人500円となっています。
(中略)
 今井文庫。ここにある本や史料は全てここで読んでいいそうです。
 中島知久平*45に関する本もあり、読みだしたらきりがなくなってしまうかもしれませんが。
(中略)
 結局、45分くらいはここで楽しめましたから、まぁ500円なら妥当ですかね。

今井清一氏】

今井 清一さん | 先月、「第62回 神奈川文化賞」を受賞した | 港北区 | タウンニュース2013.11.21
 横浜市立大学で教授を務める傍ら、1970年代から研究者と「横浜の空襲*46を記録する会」を立ち上げ、参加した市民と共に本をまとめるなど、空襲の記録を紡いできた。
 空襲には直接遭わなかったが、東京大空襲で親友を失い、横浜大空襲でも別の友人が重傷を負った。身の回りに空襲の被害を受けた人が多かったことも活動の原動力のひとつとなった。
 ライフワークとなった空襲関連の会では会合後、仲間たちと酒を交わすことが長年の楽しみ。「資料館を作るにはどうしたら良いか」などの課題が飛び出す。「飲んべえ友達はいいよね。色々な人の活動が結びつく可能性のある場なんです。飲み会は、活動グループを長期的に存続させる秘訣ですね」と目を細める。
 今、憲法改正特定秘密保護法案の動きに、戦前と同じ政治の動きを感じ取る。「日本は各国との講和条約で戦争に対する反省と責任が終わった立場を取っているが、そうは言えないのでは」と語る。「戦場となった地、痛みを与えられる側というのは、ずっと覚えている。日本はしっかりと、戦争の記憶を覚えておかなくてはいけない」と、記憶の伝承を願う。


◆書評:田辺旬著『戦死者たちの源平合戦*47』(樋口州男*48
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

「戦死者たちの源平合戦」書評 歴史の一筋縄ではいかぬ奥深さ|好書好日2024年01月13日(評者:澤田瞳子*49
 12世紀末に日本列島を巻き込んだ源氏と平家の戦い、いわゆる「治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の内乱」は、『平家物語』の存在もあり、今日の我々にも馴染み深い歴史上の戦の一つである。本書は新しい政治権力・鎌倉幕府を誕生させたこの内乱での死者の扱いの分析を通じ、当時の死や戦への意識、更には人々が戦後社会にいかに対峙したかを明らかにする。
 我々は武士という存在を時に、「命よりも名を惜しむ」近世的感覚で眺めがちだ。しかし生に対して強い執着心を抱き、時に騙し討ちに近い勝ち方をも選ぶ彼らの姿は、そういった一元的な武士理解を強く拒む。
 また戦で死者の首級を奪う行為は、現代的感覚からすれば大変残虐なものと映る。しかしそれが自分の戦功になるのみならず、味方の士気にも強く関わるため、(ボーガス注:首級を奪われ、敵の手柄になり、味方の士気を下げるのを防ぐため、顔を判別できないように)自害する前に己の顔を傷つけたり、死者の顔の皮を剝いで捨てたりもした実例*50は興味深い。個人を特定する手立てが数少なかった時代ならではの合理性は、戦争の残虐さではなく、武士の極めて現実的な側面を浮き彫りにする。

*1:聖学院大学准教授。著書『戦後日本の反戦・平和と「戦没者」:遺族運動の展開と三好十郎の警鐘』(2017年、御茶の水書房

*2:吉田内閣厚生相、岸内閣厚生相、文相等を歴任。橋本龍太郎元首相の父

*3:戦前、第一次近衛、東条内閣蔵相。戦後終身刑判決を受けるが後に仮釈放。公職追放も解除され政界に復帰。池田内閣法相、自民党政調会長(池田総裁時代)等を歴任

*4:鳩山内閣郵政相、岸内閣建設相、三木内閣郵政相等を歴任

*5:田中、三木内閣労働相、中曽根内閣運輸相、竹下内閣法相等を歴任

*6:大平内閣厚生相、中曽根内閣運輸相、海部内閣蔵相、自民党政調会長(河野総裁時代)、村山内閣通産相等を経て首相

*7:橋本内閣運輸相、自民党国対委員長(小渕、森総裁時代)、幹事長(森総裁時代)、選対委員長(福田、麻生総裁時代)を歴任

*8:小泉内閣厚労相参院副議長、参院議長等を歴任

*9:第一次安倍内閣文科大臣政務官、第三次安倍内閣文科副大臣等を歴任。過去の遺族会会長の多くが大臣経験者なのに対し明らかに格落ちであり、遺族会の衰退が窺えます。

*10:第三次『現代の理論』の終刊(2012年、経営難から明石書店が手を引いたことが理由とされる)の経緯を巡る対立から編集主体が分裂。一方の側は、ネット季刊雑誌『現代の理論』(現代の理論編集委員会発行)を2014年5月1日創刊(拙ブログで紹介したのはこちらの方です)。もう一方の側は、2008年2月から発行していた『FORUM OPINION』を2016年7月夏号より改題し、印刷版季刊雑誌『現代の理論』(NPO法人『現代の理論・社会フォーラム』発行、同時代社販売)を刊行。2023年現在、ネット版、印刷版の双方が第一次~第三次『現代の理論』を引き継いだことを標榜して『現代の理論』名で刊行されている(現代の理論 - Wikipedia参照)

*11:役職は当時。現在は聖学院大学准教授。

*12:1902~1958年。『彦六大いに笑ふ』(1936年公開、木村荘十二監督)等、映画化された作品も多く、1951年に東映で製作された『拳銃地獄』は三好の「肌の匂い」が原作である。著書『三好十郎 (1) 炎の人』(2009年、ハヤカワ演劇文庫)、『三好十郎(2) 浮標(ぶい)』(2012年、ハヤカワ演劇文庫)、『三好十郎(3)冒した者』(2013年、ハヤカワ演劇文庫)等(三好十郎 - Wikipedia参照)

*13:立命館大学教授。著書『国民体育大会の研究:ナショナリズムとスポーツ・イベント』(2006年、青木書店)、『スポーツとナショナリズムの歴史社会学:戦前=戦後日本における天皇制・身体・国民統合』(2012年、ナカニシヤ出版)、『朝鮮人特攻隊員の表象』(2022年、法政大学出版局

*14:引用はしませんが、黒田福美、反日に踏みつぶされても諦めない!「朝鮮人特攻隊員の無念」を弔う理由 | 週刊女性PRIME等で「女優としての能力」はともかく彼女が「相当の右翼女性」であることが窺えます。「特攻という非人道的作戦」への批判的な視点も彼女にはおよそない(多くのウヨが特攻を美化するのと似たり寄ったりの態度)ですし。当然、俺としては彼女は「ウヨ映画で東条英機を演じた津川雅彦」等の「ウヨ芸能人」と同じ扱いです

*15:映画『ホタル』(2001年、東映)で「小澤征悦が演じる金山文隆」や映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』(2007年、東映)で「前川泰之が演じる金山少尉」のモデルである(卓庚鉉 - Wikipedia参照)

*16:卓庚鉉(タク・キョンヒョン、日本名は光山文博)のこと

*17:帝京大学教授。著書『海外戦没者の戦後史:遺骨帰還と慰霊』(2014年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『戦没者遺骨収集と戦後日本』(2020年、吉川弘文館

*18:肩書きは当時。現在は教授

*19:肩書きは当時。現在は教授

*20:肩書きは当時。現在は教授

*21:毎日新聞記者。日本の戦争責任をライフワークとする。著書『戦艦大和』(2007年、岩波新書)、『シベリア抑留』(2009年、岩波新書)、『シベリア抑留は「過去」なのか』(2011年、岩波ブックレット)、『遺骨:戦没者三一〇万人の戦後史』(2015年、岩波新書)、『特攻:戦争と日本人』(2015年、中公新書)、『「昭和天皇実録」と戦争』(2015年、山川出版社)、『戦後補償裁判』(2016年、NHK出版新書)、『シベリア抑留・最後の帰還者:家族をつないだ52通のハガキ』(2018年、角川新書)、『東京大空襲の戦後史』(2022年、岩波新書)、『硫黄島に眠る戦没者:見捨てられた兵士たちの戦後史』(2023年、岩波書店)等

*22:遺族の気持ちを考えれば遺骨を全部回収すべきだが、とはいえ「全部回収できる見込みもない」でしょうし、難しい話です。

*23:第二次、第三次安倍内閣官房副長官自民党総務会長(第二次安倍総裁時代)、第四次安倍内閣厚労相菅内閣官房長官、岸田内閣厚労相等を歴任。この記事当時は岸田内閣厚労相

*24:拉致問題でも「拉致被害者の親(有本明弘(1928年生まれ)や横田早紀江(1936年生まれ:先日亡くなられた小原乃梨子氏(1935年生まれ:例えば小原乃梨子のような幅の広い役柄で活躍する声優は、今後出にくいのではないか - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)参照)と同年代))が高齢になっている現実を重く受け止め一日も早く、一人でも多く被害者を家族の元に帰せるよう、全力を挙げる」とほとんど同じ事が言われながらも、「未回収遺骨全体からすれば、回収遺骨が僅かであるとしても、一定の成果がある海外遺骨回収」と違い「拉致では何ら成果が無いこと」が何とも皮肉です。

*25:グアム以外ではプエルトリコヴァージン諸島北マリアナ諸島サモア準州に当たる。準州は州と違い「連邦議会に議員を送れない」「住民に大統領選挙の投票権がない」と言う制約がある(準州 - Wikipedia参照)

*26:グアム準州議会議員を経てグアム準州知事(ルー・レオン・ゲレロ - Wikipedia参照)

*27:騎兵第7連隊長、陸軍省兵務局馬政課長、騎兵第2旅団長、騎兵第1旅団長、第23軍参謀長、留守近衛第2師団長等を経て第109師団長兼小笠原兵団長(栗林忠道 - Wikipedia参照)

*28:とはいえ現在でも、沖縄において全ての遺骨が回収されたわけでは勿論ありません(例えば、赤旗遺骨土砂 使用断念を/辺野古埋め立て巡り市民ら(2024.6.19)参照)。あくまでも「硫黄島との比較」です。

*29:著書『近代日本と小笠原諸島』(2007年、平凡社)、『〈群島〉の歴史社会学小笠原諸島硫黄島、日本・アメリカ、そして太平洋世界』(2013年、弘文堂)、『硫黄島:国策に翻弄された130年』(2019年、中公新書)等

*30:衆院議員(民主党→立民党)。2000年の衆院選で東京24区(八王子市)に民主党公認で初当選。2003年の衆院選では、自民党萩生田光一に敗れるも、比例東京ブロックで復活当選し、再選。2005年の衆院選では、萩生田に敗れ、落選、比例復活もできなかった。2009年の衆院選では萩生田に比例復活を許さないほどの大勝で、3選。2012年、2014年の衆院選では、萩生田に敗れ、落選、比例復活もできなかった。2017年の衆院選比例東北ブロックから立憲民主党の3位候補として立候補し、当選。2019年、立憲民主党東京都第11区(板橋区)総支部長に就任。2021年に行われた衆院選では東京11区(板橋区)から出馬するも、自民党下村博文に敗れ落選、比例復活もできなかった(但し、現在も立憲民主党東京都第11区(板橋区)総支部長として次期衆院選に立候補予定)。民主党東京都連幹事長、菅内閣首相補佐官民主党総括副幹事長等を歴任(阿久津幸彦 - Wikipedia参照)

*31:社民連副代表、新党さきがけ政調会長、橋本内閣厚生相、鳩山内閣副総理・財務相、首相等を経て立民党最高顧問

*32:菅直人 - Wikipediaによれば、「東京都第7区 (中選挙区立川市武蔵野市三鷹市昭島市小金井市小平市東村山市国分寺市国立市田無市保谷市東大和市清瀬市東久留米市武蔵村山市)→東京都第18区(小選挙区:1994年~2002年まで、武蔵野市三鷹市小金井市→2002~2022年まで武蔵野市府中市小金井市→現在は武蔵野市小金井市西東京市)」選出

*33:鳩山、菅内閣厚労相民主党代表代行(岡田代表時代)、民進党選対委員長(前原代表時代)、立民党代表代行(枝野代表時代)等を経て、現在、立民党政調会長、次の内閣『官房長官

*34:鳩山、菅内閣防衛相。参院議員(1992~2016年)。2016年夏に行われた参院選挙には立候補せず、政界引退を表明。後任として杉尾秀哉が長野県選挙区から民主党公認で出馬し当選(杉尾は2022年再選され現在は立民党参院議員)。2018年10月に長野県内の旧民進党系議員(立民党系及び国民民主系)からなる地方政治団体新政信州」が発足すると、代表に就任(現在は「新政信州」最高顧問)。2020年より立憲民主党長野県連顧問(北澤俊美 - Wikipedia参照)

*35:鳩山内閣財務副大臣菅内閣財務相、首相、民進党幹事長(蓮舫代表時代)を経て現在、立民党最高顧問

*36:戦前は日本の植民地だった。2015年に、明仁・美智子夫妻(訪問時は天皇、皇后で、現在は上皇上皇后)がパラオ訪問したこと(例えば天皇皇后両陛下 パラオご訪問時のおことば - 宮内庁参照)や、マンガ「ペリリュー・楽園のゲルニカ」で「パラオでの日本軍の戦闘」についてご存じの方も多いかもしれません。

*37:1939年生まれ。東京学芸大学名誉教授。著書『中国古代史と歴史認識』(2006年、名著刊行会)、『中国古代国家形成史論』(2007年、汲古書院

*38:1924~2020年。横浜市立大学名誉教授。著書『尾崎秀実の中国研究』(共著、1983年、アジア経済研究所)、『大空襲5月29日:第二次大戦と横浜(新版)』(1995年、有隣堂)、『大正デモクラシー』(2006年、中公文庫)、『横浜の関東大震災』(2007年、有隣堂)、『濱口雄幸伝(上・下)』(2013年、朔北社:濱口は逓信次官、大蔵次官、加藤高明、第一次若槻内閣蔵相、第一次若槻内閣内務相、立憲民政党初代総裁等を経て首相)、『関東大震災と中国人虐殺事件』(2020年、朔北社)等。ゾルゲ事件で死刑になった尾崎秀実(1901~1944年)は岳父、義父(妻の父)であり、今井は尾崎秀樹(1928~1999年、尾崎秀実の異母弟、著書『ゾルゲ事件:尾崎秀実の理想と挫折 (中公文庫)等)が主宰する「ゾルゲ事件研究会」にも参加している(今井清一 - Wikipedia参照)

*39:フェリス女学院大学名誉教授。著書『横浜市政史の研究』(2004年、有隣堂)、『伊沢多喜男』(2019年、朔北社:伊沢は内務官僚で、和歌山県知事、愛媛県知事新潟県知事、警視総監、台湾総督、東京市長、枢密顧問官を歴任)、『大江卓の研究』(2023年、芙蓉書房出版)等

*40:海軍次官連合艦隊司令長官、海軍軍令部長侍従長、枢密院議長、首相等を歴任

*41:「カラオケまねきねこ」「ひとりカラオケ専門店ワンカラ」を運営(コシダカホールディングス - Wikipedia参照)

*42:1960年生まれ。群馬県前橋市出身。大学卒業後、実家のラーメン屋・新盛軒へ入社。1990年カラオケ事業に進出。1995年から新盛軒社長。2000年にコシダカに商号変更。2010年、コシダカホールディングスに商号変更し、同社社長兼CEOに就任(腰高博 - Wikipedia参照)

*43:今井清一 - Wikipediaによれば群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒

*44:アマゾンの著者紹介に寄れば「1959年、前橋市生まれ。立命館大学文学部史学科日本史学専攻卒業。群馬県立高校教諭、県史編纂室主事、県立歴史博物館学芸員、前橋市文化スポーツ観光部参事等を歴任し、現在、群馬地域学研究所代表理事。群馬学を提唱し、地域学の振興を図る。著書『手島仁の「群馬学」講座』(2015年、上毛新聞社)、『日本製糸業の先覚・速水堅曹を語る』(共著、2015年、上毛新聞社)、『楫取素彦と功徳碑』(2017年、上毛新聞社:楫取は初代群馬県令)、『石坂荘作と顔欽賢』(2020年、上毛新聞社)、『近代都市桐生を支えた桐丘学園創設者長澤幹子』(2021年、上毛新聞社)等」。手島氏については群馬)群馬学研究の手島さん、研究室立ち上げ [群馬県]:朝日新聞デジタル(2020.5.20)も紹介しておきます。

*45:1884~1949年。現在の群馬県太田市出身。中島飛行機(後に富士産業、富士重工業を経て、現在のSUBARU)の創業者。後に政界に進出し、立憲政友会(中島派)総裁(この時期、政友会は中島が総裁を務める中島派と久原房之助(1869~1965年。日立製作所創業者。田中内閣逓信相、立憲政友会幹事長(犬養総裁時代)、立憲政友会(久原派)総裁を歴任)が総裁を務める久原派に分裂)、近衛内閣鉄道相、東久邇宮内閣商工相等を歴任。竹下内閣文相を務めた中島源太郎は長男。橋本内閣防衛政務次官を務めた中島洋次郎(源太郎の次男、収賄事件で有罪判決を受け控訴中に自殺)は孫(中島知久平 - Wikipedia参照)

*46:1945年5月29日の昼間に米軍によって横浜市中心地域に対して行われた無差別爆撃。約8千から1万名の死者を出した(横浜大空襲 - Wikipedia参照)

*47:2023年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー

*48:著書『中世の史実と伝承』(1991年、東京堂出版)、『日本中世の伝承世界』(2005年、校倉書房)、『武者の世の生と死』(2008年、新人物往来社)、『将門伝説の歴史』(2015年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)等

*49:1977年生まれ。2021年に『星落ちて、なお』(文藝春秋社)で直木賞を受賞。母は作家の澤田ふじ子澤田瞳子 - Wikipedia参照)

*50:あるいは「相手に首級を奪われないように、首を切り落として持ち去ること」もあったようです。