「岸田の軍拡」で「高橋是清暗殺」を連想した

 というのも「高橋*1が暗殺された226事件」についてある程度知っている方なら常識ですが、青年将校が彼を暗殺した理由の一つは「高橋が陸軍の軍拡要求を否定したために、軍拡派の青年将校の恨みを買ったから」です。他にも「岡田*2首相を暗殺*3しても、蔵相、首相を歴任した高橋が後継首相になる可能性があり、青年将校が企む真崎首相が実現しそうにない」「高橋が皇道派に批判的(というか、いわゆる重臣には皇道派に肯定的な人間の方が少ないですが)なので昭和天皇に意見を求められた際に確実に真崎*4首相に反対する」と言う理由もありますが。
 ちなみに青年将校が1)「元首相の斎藤*5内大臣を暗殺」し、2)暗殺に失敗した物の牧野*6内大臣を襲撃したのも「岡田首相を暗殺しても、斎藤や牧野が後継首相になる可能性があり、青年将校が企む真崎首相が実現しそうにない」「斎藤や牧野が皇道派に批判的(というか、いわゆる重臣には皇道派に肯定的な人間の方が少ないですが)なので昭和天皇に意見を求められた際に確実に真崎首相に反対する」と言う理由でした。また、結局、襲撃を断念した物の、当初、西園寺*7元老が襲撃対象にあがっていたのも「西園寺が皇道派に批判的(というか、いわゆる重臣には皇道派に肯定的な人間の方が少ないですが)なので昭和天皇に意見を求められた際に確実に真崎首相に反対する」と言う理由でした(西園寺は高齢なので首相就任の可能性はないですが)。
 高橋暗殺後の馬場*8蔵相(広田*9内閣)は

馬場鍈一 - Wikipedia
 前任者の高橋蔵相が掲げていた公債漸減主義を放棄し、国防の充実と地方振興のためには増税(たばこ増税*10など)と国債増発もいとわない財政声明(馬場声明)を出した(馬場*11財政)。

ということで「今の岸田のような軍拡肯定路線」となり、高橋の路線「軍拡抑制」を廃棄してしまいます。
 最大の目的である「真崎首相」は失敗し、青年将校は死刑判決、皇道派も「真崎甚三郎(226事件当時、軍事参議官*12)、本庄繁*13226事件当時、侍従武官長)→事件後、いずれも予備役編入」「山下奉文*14226事件当時、陸軍省軍事調査部長→事件後、歩兵第40旅団長に左遷)」などと左遷され壊滅、東条英機*15ら統制派が陸軍の実権を握った物の、「高橋の軍拡抑制路線の廃棄を助長した」と言う意味では「226青年将校」の高橋暗殺は「大いに成功しました」。
 いずれにせよ戦前ですら軍拡要求が手放しで容認されていたわけではない(高橋が軍拡に反対した時期、日本は既に中国との戦争に突入していました)ことにはもっと注意が払われていいでしょう。

参考

高橋是清 - Wikipedia
 インフレーションの発生が予見されたため、これを抑えるべく軍事予算を抑制しようとした。陸海軍からの各4000万円の増額要求に対し、高橋は「予算は国民所得に応じたものをつくらなければならぬ。財政上の信用維持が最大の急務である。ただ国防のみに遷延して悪性インフレを引き起こし、その信用を破壊するが如きことがあっては、国防も決して牢固となりえない。自分はなけなしの金を無理算段して、陸海軍に各1000万円の復活は認めた。これ以上は到底出せぬ」と述べていた。軍事予算を抑制しようとしたことが軍部の恨みを買い、二・二六事件において、青年将校らに胸を6発銃撃され、暗殺された。

「国防は守るに足るだけでよい」 軍部と闘った高橋是清、その教訓:朝日新聞デジタル2022.12.8
 戦前に首相や日本銀行総裁を務めた高橋是清は、しばしば積極財政論者にもてはやされる。蔵相として、日銀引き受けによる国債(借金)の増発を財源とする経済対策で、昭和恐慌から経済を立て直したからだ。
 ところが、高橋是清研究で知られる元内閣府事務次官の松元崇氏*16は基本的に「財政健全論者だった」と話す。2・26事件(1936年)で陸軍青年将校に暗殺されるまで、軍部の暴走を抑えるために軍事費の抑制を主張していたという。防衛費増額の議論が進む中、歴史の教訓を聞いた。
◆記者
 赤字国債の発行による財政出動を主張する積極財政派の人たちは「高橋是清に学べ」と主張しています。
◆松元
 「誤解ですね。昭和7(1932)年ごろから昭和11(36)年の2・26事件までの高橋財政について、当時の新聞は『健全財政』と呼んでいました。この間、一般会計の歳出は約22兆円でほぼ横ばい。軍事費は経済成長並みの伸びにとどめ、軍事費以外は前年度比で予算を減らしています。確かに昭和恐慌を受けて高橋は、昭和6(31)年に金輸出再禁止で通貨の発行限度額を増やして低金利の状態をつくり、日銀の国債直接引き受けによる財源で、農村の疲弊対策に取り組みましたが、実際は(ボーガス注:財政健全化を重視した)井上準之助*17前蔵相のデフレ政策を元に戻したというだけなのです。大きな財政出動も、一時の便法と考えていました」
(以下は有料記事なので読めません)

*1:1854~1936年。日銀総裁、第一次山本、原、田中、犬養、斎藤、岡田内閣蔵相、首相など歴任

*2:1868~1952年。海軍次官横須賀鎮守府司令長官、田中、斎藤内閣海軍大臣、首相などを歴任

*3:なお、青年将校は岡田暗殺に失敗しました。

*4:1876~1956年。皇道派領袖。陸軍士官学校長、台湾軍司令官、陸軍教育総監など歴任

*5:1858~1936年。第一次西園寺、第二次桂、第二次西園寺、第三次桂、第一次山本内閣海軍大臣朝鮮総督、首相、内大臣を歴任

*6:1861~1949年。大蔵卿や内務卿を務めた大久保利通の次男。福井県知事、茨城県知事、文部次官、イタリア公使、オーストリア公使、第一次西園寺内閣文相、第二次西園寺内閣農商務相、第一次山本内閣外相、宮内大臣内大臣など歴任

*7:1849~1940年。第二次、第三次伊藤内閣文相、首相などを経て元老

*8:1879~1937年。法制局長官、広田内閣蔵相、第一次近衛内閣内務相など歴任

*9:1878~1948年。外務省欧米局長、オランダ公使、ソ連大使、斎藤、岡田、第一次近衛内閣外相、首相など歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀

*10:今回もたばこ増税が主張されています。

*11:単なる偶然ですが岸田軍拡に同意してる維新代表も「馬場」姓ですね。

*12:軍事に関する天皇の諮問機関「軍事参議院」のメンバー。真崎以外では226事件当時、朝香宮鳩彦王南京事件当時の現地軍司令官(上海派遣軍司令官))、阿部信行(元台湾軍司令官。226事件後の予備役編入後、首相、朝鮮総督など歴任)、荒木貞夫(真崎と共に皇道派の領袖。犬養、斎藤内閣陸軍大臣226事件後の予備役編入後、第一次近衛、平沼内閣文相など歴任)、植田謙吉(上海天長節爆弾事件当時の第9師団長(事件で左足切断)、ノモンハン事件当時の関東軍司令官)、寺内寿一(広田内閣陸軍大臣時代のいわゆる腹切り問答 - Wikipediaで知られる人物)、西義一、東久邇宮稔彦王終戦直後、首相に就任)が陸軍出身の軍事参議官(軍事参議院 - Wikipedia参照)

*13:1876~1945年。満州事件当時の関東軍司令官。戦後、戦犯指定を苦にして自殺

*14:1885~1946年。1941年、第25軍司令官としてマレー侵攻作戦を実行、「マレーの虎」と呼ばれ英雄視された。終戦時は第14方面軍司令官(フィリピン)。マニラ虐殺事件の責任を問われ死刑判決

*15:1884~1948年。関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、陸軍航空総監、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣、首相など歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀

*16:広島国税尾道税務署長、大蔵省証券局総務課長補佐、主計局調査課長、法規課長、財務省主計局総務課長、主計局次長、内閣府大臣官房長、内閣府事務次官など歴任。著書『山縣有朋の挫折:誰がための地方自治改革』(2011年、日本経済新聞出版社)、『恐慌に立ち向かった男・高橋是清』(2012年、中公文庫)、『「持たざる国」への道:「あの戦争」と大日本帝国の破綻』(2013年、中公文庫)、『日本経済低成長からの脱却』(2019年、NTT出版)など(松元崇 - Wikipedia参照)

*17:1869~1932年。日銀総裁、第二次山本、濱口、第二次若槻内閣蔵相を歴任。血盟団によって暗殺される。