新刊紹介:「歴史評論」12月号

 「歴史評論」12月号(特集/ベルリンの壁崩壊から20年を経て)の全体の内容については「歴史科学協議会」のサイトを参照ください。

http://wwwsoc.nii.ac.jp/rekihyo/

 以下は私が読んで面白いと思った部分のみ紹介します。(詳しくは12月号を読んでください)

■「冷戦終焉20年と中・東欧−20周年はなぜもり上がらないか」(羽場久美子)
(内容要約)
・冷戦とは中・東欧の国々にとって「自己統治機能の喪失の時代」であり、冷戦終焉とは「自己統治機能の回復」であった。
(もちろん一定の自由はあったが、その自由はハンガリー事件やプラハの春でのソ連軍の弾圧で分かるように、ソ連の認める枠内での限定的な物であった。)
・冷戦終焉のきっかけとなったのは、ゴルバチョフら当時のソ連執行部の改革路線であった。ゴルバチョフらは、中・東欧の反体制派の民主化活動を容認した(容認せざるを得なかったのか、積極的に容認したのかはともかく)。
・しかし、現在、冷戦終結20周年はあまり盛り上がっていない。その理由は、東西経済格差は未だ埋まらず、また、東側に西側に差別されているのではないかという意識が強くあるからである。
・このような中、民主化を主導した勢力(自由主義グループ)ではなく、社会主義政党(旧共産系を含む)や民族主義政党が一定の力を伸ばしている。


■「ドイツ人『追放』問題とポーランド―歴史の見直しの行方―」(解良澄雄)
(内容要約)
・冷戦の終了は、「カティンの森事件*1の真相判明など、ポーランド人にとって喜ばしい物もあった。
・一方でつらい記憶も表面化している。それがこの論文が取り上げている「ドイツ人『追放』問題」である。(追放にカギ括弧が付いているのは被追放者の中には、ナチス・ドイツの侵略で移住した者が一部含まれるからである。ただし大多数の被追放者は、ナチス侵略前から平和的に暮らしている住民であり、植民地や侵略地域から撤退したケース(例えば日本の満州、朝鮮、台湾からの撤退)と同列視は出来ない。)
・東欧・ソ連に居住していたドイツ人は、ドイツ敗北を機に、ドイツ本国への移住を強制されることになった。本来移住は平和的に行われるはずであったが、劣悪な生活環境の中、多くのドイツ人が命を落とした。特に被害ドイツ人の数が多いのがポーランドである。
 冷戦時代は東西対立のため、この問題にポーランドが向き合うことはなかった。
(また、ドイツもナチ犯罪の相対化と理解されることを恐れて、ポーランド非難を避けてきた)
・冷戦終結後、被追放者の団体「被追放民同盟」はポーランドに対する謝罪要求、損害補償請求、追放を記憶する施設の設立要求といった各種運動を強めている。こうした動きにポーランド側は我々の方がひどい目にあった、と反発を強めている。
・感想。追放問題が日本の極右がやるような「戦争犯罪相対化」になってはまずいし、それを恐れるポーランドの主張にも一理ある(ドイツにも「ホロコースト否定論」など、歴史修正主義者(ネオ・ナチ)はいるのだから)。しかし、現に多数の被害者が出ている以上、「ポーランドは悪くない」とは言えないだろう。この問題を指摘することが必然的に相対化を招くとも言えないし。「被追放民同盟」など被追放者側の主張を無視し続けることは許されないと思う。具体的にどう解決するかは、当事者が決めればいいことだし、私にはどうこう言う知識も興味関心もないのでその点はノーコメント。


■投稿論文「戦国・織豊期東国の国分と地域社会―北條・徳川国分協定を中心に―」(竹井英文)
(内容要約)
・本論文は、天正壬午の乱での北条・徳川国分協定を取り上げたものである。
天正壬午の乱とは:
 武田氏滅亡後、旧武田領国は信長の家臣・滝川一益支配下に置かれる。しかし、本能寺の変を機に北条氏は旧武田領国に侵攻、滝川氏を破り、滝川氏は旧武田領から撤退せざるを得なくなる。その後、北条氏と旧武田領を争うのが徳川家康上杉景勝である。
・戦況は当初、膠着状態であったが、徳川と上杉の同盟、当初、北条方であった真田氏の徳川氏への寝返りなどで次第に北条氏は不利な状況に追い込まれていった。しかし、清洲会議*2以降の羽柴秀吉柴田勝家の対立激化に対応するため、徳川氏は北条氏との間に国分協定を結び、天正壬午の乱は終焉した。*3
・乱終結後も、現地では小領主たちの戦争が継続していた。しかし、秀吉政権の安定化により、北条・徳川国分協定は継続されるとの見通しの元、小領主たちの戦争も沈静に向かった。*4


■コラム・文化の窓「歴史学サブカルチャー8:自然環境と歴史叙述:『獣の奏者*5に寄せて」(北條勝貴)
(内容要約)
・北條氏のコラム、ついに最終回。当初は一般社会に与える影響力の大きさ(平たく言うと人気と知名度)の面からも歴史学に与える影響の面(「もののけ姫」については網野善彦宮崎駿と雑誌対談か何かしてた記憶があるなあ)からもジブリ作品を取り上げようかと思っていたんだそうである。
(とりあげるとしたら、日本史がネタらしい「もののけ姫」ですか?。まあ、第一次大戦前イタリアが舞台の「紅の豚」とか、他の作品だってネタにしようとしたら不可能ではないだろうが)
・しかし結局、上橋菜穂子の「獣の奏者」を扱うことにしたそうである(第2回でも扱ったそうだが)。
・内容は巧くまとまらなかったので興味のある方はご一読を。


■声明「扶桑社版・自由社版中学校歴史教科書の採択撤回を要求する」
 これについては文章を引用しコメント(全文はhttp://wwwsoc.nii.ac.jp/rekihyo/movement/kyoukasyosaitaku090918.htmlを参照)。

自由社版について、横浜市教育委員会の今田忠彦委員長は、とりわけ「日露戦争の記述では愛情を持った表現が多かった」と発言したというが、このような愛情という主観で歴史を評価すること自体が誤りである。

 愛情を持った表現って何だよ。声明も批判してるけど、「愛情」なんて主観的な物で教科書を評価すべきではないと思う。歴史教科書は「坂の上の雲」(司馬遼太郎)や「日露戦争物語*6江川達也)じゃないんだが。


■編集後記
 これについては文章を引用しコメント。

先月号に「歴女」のことを書いたんですが、なんで「歴女」が気になるかというと、やっぱり売り込みたいからですよ。

 北條氏のコラムもその試みの一つなんですね、分かります。
 ただ、「人気に合わせようとして外したら痛い」「一般向けとは言え学術雑誌なので、大衆迎合にも限界がある」ので対応が難しいわけですが。

*1:ソ連によってボーランド軍将校らが虐殺された事件。ソ連ナチス・ドイツの犯行であるとして自己の犯行を1989年まで公式には認めなかった。

*2:信長死後の織田家の後継者決定を最大の争点とした会議。柴田勝家丹羽長秀羽柴秀吉池田恒興が出席した。この会議で、柴田は織田信孝(信長の3男。後に賤ヶ岳の戦いで柴田側に付いたため自害に追い込まれている)を擁立したが、秀吉の擁立した三法師(信長の長男・信忠の子。信忠は本能寺の変で光秀に討たれている)が織田家当主(信孝が後見人)と決まった。この理由としては、秀吉が明智光秀を討ったこと、秀吉が丹羽、池田らに根回ししていたことが上げられる。従来、筆頭家老は柴田であったが、その地位は秀吉のものとなり、対立が激しくなる。こうしてみると、よく言われる事だが結果的には、本能寺の変は、織田氏、柴田氏には不幸を、秀吉、家康(秀吉政権・五大老の一人→秀吉死後、征夷大将軍)に幸福をもたらしたと言えよう。

*3:柴田勝家は後に賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ自害する。また、家康は後に小牧・長久手の戦いで秀吉と対決している。家康が同盟を結んだ織田信雄(信長の次男)が秀吉と単独講和したため、大義名分を失い、兵を引くがこの時秀吉が、柴田氏のようには家康を打倒できなかったことが、後々大きな意味を持つことになる。

*4:なお、筆者は藤木久志の「惣無事令」概念には疑問を持っており、従来「惣無事令」とされたものは信長在世中の関東の秩序回復を目指した対関東固有政策=「関東惣無事政策」と理解すべきと主張している。

*5:NHK教育でアニメ化もされてますな。

*6:坂の上の雲」の劣化コピーとしか思えない駄作。スピリッツの最終回は歴史観がヒドイとか、つまらない以前に漫画とは思えない「説明調の長台詞」と「静止画」の連発で呆れた。アレじゃ紙芝居だよ。つーか紙芝居の方が面白いな。