江藤俊介・七里和乗「自民党・創価学会・公明党」(学習の友社)p55
一九五一年四月二〇日付で、「聖教新聞」第一号が発刊されたが、それは、これまでの宗教団体の機関紙の体裁や常識を一変させた物であった。第一号第一面のトップは、三鷹事件の竹内景助被告についての論文だったからである。いわく「竹内景助氏*1は、三鷹事件*2の首謀者として、共産党の花形として世間をにぎわした」云々と。この三鷹事件が共産党とはなんの関係もなかったことは(中略)今では明らかになっているが、この「妙法をたもつものの信念と左翼思想をもつものの信念との対比」(池田大作)をした論文は、戸田の執筆になるものであった。
溝口敦「池田大作『権力者』の構造」(講談社+α新書)p182
「日本の政権を保って、社会党と共産党をおさえていける人は岸先生(私注:当時の首相・岸信介のこと)しかいないということを、あの人が幹事長の時に心から深く思って、尊敬していたんです」(私注:「聖教新聞」昭和三三年三月二一日号掲載の戸田の言葉)
戸田城聖はどこの反共右翼だよ。共産が創価学会を嫌うのも当然だな。
江藤俊介・七里和乗「自民党・創価学会・公明党」(学習の友社)p53
一体、創価学会員に政党支持の自由はあるのだろうか。次の指摘を彼らの指導者はどう思っているのか。『創価学会の会合に呼び出されて、宗教の話ではなく、F票の目標数を聞かれ、投票日には投票までチェックされる。こうした組織活動の雰囲気の中で『私は自民党を応援しますので、同党のF取りをやります』とか『公明党を支持しませんので、会合では信仰の話が終わったら帰宅します』あるいは『日本共産党に投票しました』などの姿勢を見せたら、まず、学会の組織にはいられなくなる。
(中略)組織除名は免れない。組織に選挙の自由はないのだ」(創価学会問題研究会「創価学会婦人部・最強集票軍団の解剖』(五月書房))
江藤俊介・七里和乗「自民党・創価学会・公明党」(学習の友社)p80
『回顧録』の中で渡辺は次のように述べている。池田大作とはいつごろからつき合いがあったのですか。
渡辺:(前略)あれは一九六三年の東京都知事選挙に、自民党から東竜太觔が再出馬して、創価学会の六〇万票の行方が鍵を握っていたときだ。
自民党としてはなんとかこの学会票六〇万票がほしいから、大野伴睦が池田大作さんに会おうとしていた。そこで関係者を探すと、財界人で塚本総業の塚本素山が創価学会の実力者で、池田大作さんとしょっちゅう会える立場にあるという。それで彼が池田大作さんを大野伴睦に紹介してくれて、ホテル・ニュージャパンで二者会談が行われたんだ。(中略)
この後、池田大作さんが「創価学会の六〇万票を自民党に入れる」と言う一筆を書いてくれる。(後略)(伊藤隆・御厨貴・飯尾潤「渡辺恒雄回顧録」279−280頁)
江藤俊介・七里和乗「自民党・創価学会・公明党」(学習の友社)p127
一九六七年二月、委員長就任にあたって、「代議士に初当選したとたん、委員長とは責任重大ですな」と問われた竹入が「池田会長から申し渡されたばかりで、正直言って面食らっています」(毎日新聞一九六七年二月一日付夕刊)と答えたことはよく知られている。政党の委員長がどうして宗教団体の会長から「申し渡される」のか、聞かされる方も「面くらって」しまうような話だが、公明党と創価学会との関係ではそれが普通なのである。
江藤俊介・七里和乗「自民党・創価学会・公明党」(学習の友社)p136−137
”ある人物(今も現職の中枢)*3が「これからの党をどうするんだ。学会は党と議員を無茶苦茶に言う。本部の言いなりだ。我々は『もの』だ。(中略)」
私が『もの』とは何かと聞くと、「『もの』とは意思を持たないという意味だ。(中略)」
竹入委員長と私は「そんなことは言ってはいかん。考えてもいかん。」と厳しく叱り、その後、二人で二時間ほど懇談。”(矢野絢也「二重権力・闇の流れ」23頁)
(中略)この会話からは、公明党と議員が「もの」扱いされていたことに対する不満があったこと(中略)が分かる。