新刊紹介:歴史評論4月号

・「歴史評論」4月号(特集/唐王朝をどう考えるか)の全体の内容については「歴史科学協議会」のサイトを参照ください。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/rekihyo/

・以下は私が読んで面白いと思った部分のみ紹介します。(詳しくは4月号を読んでください)
・なお、今回の特集では収録論文5本のうち、3本が何らかの形で遊牧民と唐との関わりについて取り上げている。唐の歴史において遊牧民の与えた影響は大変大きかったと言うことだろう。

■「唐の成立と内陸アジア」(石見清裕*1
(内容要約)
 巧く要約できないので本文を一部紹介。

 隋唐王族は、北魏六鎮の一つ武川鎮の出身であり、六鎮の乱で北族が南下した現象にともなって移動した。北族移動の混乱によって北魏は東西に分裂し、そのうちの西魏北周が隋唐両王朝の政権的母体となった。
 (中略)
 しかし、六鎮の防衛ラインが崩壊したことによって、華北はモンゴリアの突厥の圧力を受けざるをえなかった。突厥との勢力関係は隋の成立によって逆転したが、隋末の乱によって中国が群雄割拠状態になると、勢力関係は再度逆転した。この状況下で唐は建国されたので、中国統一とともに突厥との全面戦争に向かわざるをえず(中略)やがて東西突厥支配下に入れて世界帝国的な国家へと発展した。
 (中略)
 このように見てくると、唐王朝の成立とは(中略)中国の統一と見るよりは南モンゴリアと華北で形成される地域の統一ととらえる方が実情にあっているのであり、唐はそのスタート時点から「内陸国家」的性格を有した国だったのである。
 唐が成立直後に突厥支配下に入れたことは、その後の唐の対外的優位を形成した。
 (中略)
 ところが、この北辺の異民族の軍事力は、うまくコントロールできているうちは唐にメリットをもたらすが、一旦そのバランスが崩れると多大のデメリットをもたらす。それは、唐中期に安史の乱となって現実化した。
 (中略)
 以上のように見ると、唐という国がいかに北アジア中央アジアと連動した歴史的展開を示したかが分かるであろう。
 (中略)
 唐の国家的関心事はまず北方にあり、次いで重要なのは西方である*2
(中略)
 さらに、それと関連して、次の点は忘れてはならないであろう。唐の後半から北宋期にかけて、中国では(中略)江南が経済の中心となった。
 (中略)
 日本と大陸との交流はむしろこれ以降に隆盛へと向かい*3、(中略)それが日本史の展開にも影響を与えたのではなかろうか。*4


■「長安の変貌−大中国の都から小中国の都へ−」(妹尾達彦*5
(内容要約)
 巧く要約できないので本文を一部紹介。

 特筆すべき点は、(中略)第二代皇帝の太宗と第三代皇帝高宗の時代に、唐は、(中略)遊牧地域と農業地域の両地域を等しく包含する大きな統治空間をもつ帝国となったことである。
 (中略)
 中国史上初めて、唐が(中略)遊牧地域と(中略)農業地域の両地域を統合したことの意味は大きい。

 唐の軍事地理を激変させた事件が安史の乱(755−763)である。安史の乱を境に、(a)遊牧地域のオアシス都市と(b)農業=遊牧境界地帯の都市、(c)農業地域の都市を連結する広域の行政都市網が分断され、(a)と(b)を失った唐に残された行政都市網は主として(c)農業地域の都市網だけとなった。
 モンゴル高原では突厥にかわってウイグルが台頭し、チベット高原では吐蕃が勢力を増して、たがいに、唐に代わり上記の(a)と(b)の都市網を把握することをめざして抗争した。
 (中略)
 このような国内外の情勢の変化が、唐の制度の劇的な改変をうながした。すなわち、唐の制度は、政治的には、多元的な農牧複合国家から農業地域を核とする集権国家(中略)へと転換し始める。

 唐が、農業=遊牧境界地帯を媒介に農業地域と遊牧地域を包含する大きな複合国家から、農業地域に主拠する小さな国家へと転換したことは、その後の歴代政権で繰り返される統治空間変遷の範型となった。
 図3「7世紀から現在に至る中国大陸の空間構成の変遷」が示すように、唐は、これ以降の中国歴代政権が農業地域と遊牧地域を包含する大きな中国(元、清、中華人民共和国)と、農業地域を核とする国家と遊牧地域の国家とに実質的に分裂する(宋と遼・西夏・金、明と北元、中華民国モンゴル人民共和国等)規則的な繰り返しの端緒となった。


■「九〜一〇世紀の沙陀突厥の活動と唐王朝」(西村陽子)
(内容要約)
 巧く要約できないので本文を一部紹介。

 本稿の目的は、唐末の政治を左右する大勢力となり、のちには五代の諸王朝(後唐〈923−936〉、後晋〈936−946〉、後漢〈947−950〉、後周〈951−960〉)*6をを築いた沙陀突厥をとりあげ、衰退期の唐王朝と沙陀突厥との関係を展望することである。
 (中略)
 唐の末期に王朝の実力が衰退し、各地で大規模な反乱が起こるようになると、これらの遊牧民は軍事力をかわれて内地の反乱鎮圧にも協力するようになる。沙陀突厥の立場から見て、その中でもとりわけ重要な意味を持つものとなったのは、龐稃の乱(866−869)と王仙芝・黄巣の乱(875−884)の鎮圧であった。前者の功績により沙陀突厥は唐王室の姓李氏を賜り、宗室の属籍に附された。
 ついで後者の鎮圧においては長安城奪回の功績第一等とされ、いちどきに唐朝廷の重鎮に登りつめた。


■文化の窓「郷土と「偉人」―熊本と横井小楠(2)」(猪飼隆明)
(内容要約)
・「歴史評論」2月号の文化の窓「郷土と「偉人」―熊本と横井小楠(1)」の続き。
・筆者は小楠への注目が近年、高まっているとしてそのことを研究者として素直に喜んでいる。昨年は小楠生誕200年記念として様々な行事が熊本でも行われたという。


■書評:金野純『中国社会と大衆動員−毛沢東時代の政治権力と民衆』(泉谷陽子)
(内容要約)
 巧く要約できないので本文を一部紹介。

 著者の最大の関心は文革初期の集合行為にあるため、70年代の動向をまったく分析していない。たとえば「非林非孔」運動はどう捉えられるのか。
 (中略)
 また第一次天安門事件にみられる周恩来に対する人びとの敬愛感情はどのように醸成されていったのだろうか。

 文革は、結局、建国以来つきつぎと展開された各種大衆運動と同質なのか、異質なのかが気になった。著者は60年前後に「何か」が変わった(19頁)、つまり異質と捉えているようだが、その内容は明確にされていない。

 毛沢東階級闘争をごり押しして社教運動が変質したという捉え方は少し違うように思う。
 (中略)
 そして「極左」的政策を全て毛沢東に帰する「ブラックボックス化」も避けるべきだと自戒をこめて思う。


■書評:浦部法穂『世界史の中の憲法』(吉田ふみお)
(内容要約)
 巧く要約できないので本文を一部紹介。

 本書は第二次大戦を「本質的には帝国主義戦争」だとしている(117頁)
 (中略)
 本書の主張には一定の根拠がある。
 (中略)
 しかし、歴史学においては、第二次大戦についてもっと広い見方をしている。
 すなわち、反ファシズム民主主義戦争を第二次大戦の最も基本的な性格だとし、そのうえで、帝国主義戦争、民族解放戦争を合わせた複合的な性格としてとらえるのが一般的な見解である(木畑洋一著「第二次世界大戦吉川弘文館、2001年)。
 この見解は、憲法問題を考えるうえでも重要な意味を持っている。
 第二次大戦は、広範な民衆に支持された反ファシズム国家連合が、ファシズム枢軸諸国に勝利して終結した。とくに米ソ協調が大きな意味を持っていた。
 日本の戦後改革は、反ファシズム民主主義連合の勝利という国際的条件のもとで進められた。
 (中略)
 つまり、冷戦が本格化する以前、まだ反ファシズム連合(とくに米ソ協調)の枠組みが生きていた時期に成立したのである。
 もし制定がもう少し後にズレ込んでいたら、日本国憲法はちがった内容になっていたかもしれない。

*1:著書『唐代の国際関係』(2009年、山川出版社世界史リブレット)

*2:日本、朝鮮といった場所は北方、西方に比べ重要度が落ちると言うことだろう。

*3:江南が経済の中心になることによって中国にとって日本が重要な存在になったと言うことだろう

*4:平清盛日宋貿易とか、足利義満日明貿易とか言うことだろう

*5:著書『長安の都市計画』 (2001年、講談社選書メチエ

*6:五代の最初の国・後梁〈907−923〉は唐の武将・朱全忠が唐を滅ぼして作った国。後に沙陀突厥に滅ぼされる。五代の最後の国、後周の次に誕生するのが宋である。