「「戦後革新勢力」の奔流:占領後期政治・社会運動史論1948-1950」(大月書店)

 『「戦後革新*1勢力」の源流―占領前期政治・社会運動史論1945‐1948』(大月書店、2007年)の続編であり、執筆者は前著と一部かぶる。
 なお、「1950〜52」も本来対象にすべきであろうがその時期を対象にする準備がないとのことで、今回は省かれている。
(1950〜52年の「戦後革新勢力」にとっての重大な政治的事件としては「レッドパージといわゆる共産党50年問題」「総評結成」「社会党の左右分裂」などがある)


■第1章 日本国憲法制定時の「九条」認識(梅田欽治)
 梅田氏は前著では第1章「戦後社会運動の出発−敗戦直後の食料闘争*2」を執筆。
 本章を要約すると以下の通り。
憲法9条について当初、保守側(憲法制定義会での吉田首相答弁など)は「平和主義」の意義を唱える一方、当時の共産党が「軍事力放棄で侵略から国を守れるのか」と批判演説するという現在とは180度逆のある種のねじれ現象があった。こうした状況が大きく変わったのは「中華人民共和国建国」と「朝鮮戦争」であった。
保守派が憲法9条の前提としていたのは、「中国大陸と朝鮮半島において防共の砦として親米政権が確立する事(そうであるならば日本の軍事力は小さい方が軍閥復活の危険性がなくていい)」だったが、その前提条件が崩れたことにより、保守派は9条改定による「日本・防共の砦化」へと意見変更することになる。
 一方、左派は「9条がなければ、アメリカの要望に従い日本軍が朝鮮半島に投入され日本が朝鮮戦争に全面的に巻き込まれるかも知れなかった」という現状認識から、9条擁護の方向へと動くことになる。
・なお、筆者は山川均(社会党代議士)が雑誌「世界」に掲載した論文で「朝鮮戦争ソ連の侵略であるとするならば」「日本も攻撃される恐れがないとは言えず」「日本は如何なる場合においても再軍備すべきではないとは私は思わない」と断りながらも「少なくとも現時点では再軍備に賛成できない」(注:軍閥復活の危険性が理由か?)と言う趣旨の文章を紹介しているが詳しい説明がないので、山川の考えや、筆者が山川論文の概要を紹介した意味がよくわからず少しもやもやした。単に「9条擁護の左派だからといってソ連シンパではない」と言いたかっただけなのだろうか?(まあ、そう言う誤解や曲解をする人間はいるのでそう言う指摘が全く無意味だとは言わないが)


■第2章 日本社会党と講和問題(木下真志)
 木下氏には単著として「転換期の戦後政治と政治学社会党の動向を中心として−」(2003年、敬文堂)がある。
 本章を要約すると以下の通り。
社会党はサンフランシスコ講和会議をめぐり、右派の反対もあったがいわゆる「平和四原則」(全面講和、中立堅持*3、外国軍基地反対、再軍備反対)を党方針として確立した。
 この四原則は「単独講和」*4日米安保」「自衛隊の発足」*5によって保守政権に無視されたが、その後、日本の左派が「平和主義」を自己のレゾンデートルの1つとすることに大きく影響したと言える。


■第3章 日本共産党第5回大会から第6回大会後まで(犬丸義一)
 犬丸氏は前著では第2章「戦後日本共産党の公然化・合法化」を執筆。犬丸氏には単著として「日本共産党の創立」(1982年、青木書店)、「第一次共産党*6史の研究」(1993年、青木書店)がある。


■第4章 占領期労働運動のヘゲモニーをめぐる攻防(山田敬男
 山田氏は前著では第4章「戦後労働運動の出発−「10月闘争」から「2・1ゼネスト」へ」を執筆。山田氏には単著として「新版・戦後日本史」(2009年、学習の友社)がある。
 本章を要約すると以下の通り。
・産別会議(全日本産業労働組合会議)が衰退した原因について筆者の理解では「占領軍の弾圧と、産別会議内右派(産別民主化同盟。略称は「民同」または「産別民同」)の分裂を重視する見解」と「弾圧や分裂以前に、共産党の誤った指導などに寄り自己崩壊したと見る見解」(高橋彦博「民同運動とナショナル・センターの再編」(『戦後体制の形成』(1988年、大月書店)など))がある。
 筆者は、産別会議が重大な問題を抱えていたことは認めながらも、高橋らの見解は「弾圧や分裂」を軽視しているとし、「占領軍の弾圧と、右派(民同)の分裂を重視する見解」をとっている。


■第5章 産別民同から総評へ(兵頭淳史)
 本章を要約すると以下の通り。
・産別民同をルーツとする総評(日本労働組合総評議会)が社会党の平和四原則を支持し「ニワトリからアヒルへ」と呼ばれたのは何故か?。これについて高橋彦博「民同運動とナショナル・センターの再編」(『戦後体制の形成』(1988年、大月書店)は民同は
共産党の産別会議引き回しを問題にしたのであり、イデオロギー対立があったわけではない。右派と見なすのは不適切」とするがそうした見解には賛同できない。民同と産別会議には明らかに左右のイデオロギー対立があった。
・にも関わらず、民同をルーツとする総評が左傾化(?)したのは、「冷戦の進展を背景に占領政策が、総評の予想を超える形で右方向に変化したから」だろう。その結果、総評は米国占領政策批判へ舵を切らざるを得なくなったと見るべきである。


■第6章 日本農民組合の分裂と社会党共産党(横関至)
 横関氏には単著として「近代農民運動と政党政治―農民運動先進地香川県の分析」(1999年、御茶の水書房)がある。
 氏は前著では第5章「戦後農民運動の出発と分裂−日本共産党の農民組合否定方針の波紋」を執筆。徳田執行部は農民組合否定方針を出し、それに変わる組織として農民委員会を打ち出し、農民委員会反対派(社会党系が多い)を反共分子扱いしたため、農民運動に混乱が起こった。後にこの方針は撤回されるが、徳田執行部が責任追及を恐れたため撤回の仕方はかなりあいまいなもので混乱は長く残った、なお農民運動のトップに徳田が自分のお気に入りという理由で経験の浅い伊藤律をつけたことも混乱に拍車をかけた、というのが前著第5章の結論らしい。
 本章はその続き。
・本章では、社会党共産党の農民運動を巡る対立理由として、前回上げられた「農民組合か、農民委員会か」だけでなく「農地改革の評価(社会党は基本的に評価したが共産党は土地国有化を唱え全否定に近い評価を当初していた)」が指摘されている。
共産党は農民委員会方式を撤回し、日本農民組合(日農)に参加したが、その代わりに打ち出したのが「農民組合を自派で牛耳る」「反共分子認定した組合幹部の政治的打倒をめざす」というかなり問題のある代物であった。
・こうしたこともあり、1947年に平野力三*7グループが日農を脱退する第一次分裂が起こる。
 その後も、日農内の共産党支持派と社会党支持派の対立はやまず、日農主流派(後の主体性派)は日農内の共産党支持者排撃の方向へと動いていく。これに対し、「排撃はまずい」と言う立場から排撃に反対するのが後の「統一派」に当たるグループである。
 共産党員排撃方針をめぐりついに日農の第二次分裂が発生する。なお、統一派のリーダーである黒田寿男(社会党国会議員だった)は、この時期、芦田内閣(社会党が与党)の補正予算案に造反して反対票を投じたため、党を除名され、労働者農民党を結成している。
 筆者の文章とウィキペ「黒田寿男」を読む限りでは、黒田が日農問題で共産党にある程度好意的態度を取ったことが黒田の補正予算案での造反や、その後の党除名に影響しているかは分からなかった。なお、筆者に寄れば、「日農問題で共産にある程度好意的態度を取ったこと(排撃方針に賛成しなかったこと)」「補正予算案での造反」「労働者農民党の結成」から、当時、黒田を「共産党・徳田執行部が送り込んだスパイ、犬」だの「秘密党員」*8だの呼ばわりする人間*9も反黒田派にはいたようだがさすがにそれはないだろう。それが事実なら、共産スゴ過ぎ(その後、党勢が50年分裂で一時衰退したのが信じられないほどのすごさ)だし、社会党バカすぎだ(何だかんだ言って黒田は結局、日農と社会党に戻ってるし、それを反黒田派側も受け入れてるんだけどね。しかも文革の時は、親中派だった黒田は相当、日本共産党*10の悪口言ってたらしいし)。

参考)

ウィキペ「日本農民組合 (主体性派)」
 1946年2月に結成された日本農民組合が、1949年4月の第3回大会を前にした2月の中央委員会で分裂した際の主流派。一方の「日農統一派」が「左派」とされるのに対して、「右派」とされる。略称は「日農主体性派」。
 1951年3月の第5回大会では、書記長に江田三郎*11が選出されている。
 主体性派は1950年1月の大会で「日農統一派」内の労働者農民党系(黒田寿男派)と合同した後、1953年1月には、社会党右派系指導者が離脱したため、この頃には、社会党左派と労働者農民党(黒田派)の系統にあったとされる。

ウィキペ「日本農民組合 (統一派)」
 1946年2月に結成された日本農民組合が、1949年4月の第3回大会を前に、同年2月の中央委員会で分裂して独自行動をとった一方の派。略称は「日農統一派」。
 分裂当時の委員長は、労働者農民党の黒田寿男だったが、黒田は、1949年7月委員長を辞任し、黒田や主な役員が分裂した一方の組合員数の多い日農主体性派に戻った。
 1957年9月、日農主体性派と合同して日本農民組合全国連合会(日農全連:今の全日本農民組合連合会(全日農)の前身?)を創立して解消された。

ウィキペ「全日本農民組合連合会
■政党との関係
 結成当初でこそ農民運動の統一的な組織体を目標としたが、1960年に日本社会党から民主社会党が分裂すると同党に近いグループが全日農から脱退して全国農民同盟を結成した。加えて1980年代から日本共産党に近いグループが独自の動きを見せ始め、1989年には農民運動全国連合会(農民連)を結成。この結果、全日農は日本社会党社会民主党との関係が濃くなっている(ちなみに現・全日農会長の谷本巍は元社民党参議院議員)。
 自由民主党に対しては一貫して批判的であるが、実際の活動では自民党の支持基盤の一つでもある農協系の組織と共闘することも多い。


■第7章 占領期の知識人運動(吉田健二)
 吉田氏には単著として「戦後改革期の政論新聞」(2002年、文化書房博文社)がある。
 本章を要約すると以下のとおり。
小熊英二「民主と愛国」は「占領期の知識人運動」先行研究として優れたものだが、
1)いわゆる「オールドリベラリスト」の特徴として「大衆運動嫌悪」「反共主義」を上げているのには賛同できない。全てのオールドリベラリストがそうであったとは言えないと考える。
2)また小熊の本で高野岩三郎への言及がない点には疑問を感じる。高野はオールドリベラリストを論じるときに外せない人間のはずである。

ウィキペ「高野岩三郎*12
 1920年、請われて大原社会問題研究所の設立に参加。設立時から没年まで所長を務める。大原社研では日本最初の労働者家計調査を実施し、労働問題の研究に専念。
 戦後、鈴木安蔵*13、森戸辰男*14馬場恒吾*15らと憲法研究会を設立、「憲法草案要綱」発表。この憲法草案要綱は、のちに連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) で憲法草案をつくる際に参考とされ、日本国憲法との類似点が指摘される。高野はこれとは別に大統領制・土地国有化などを盛り込む日本共和国憲法私案要綱を発表。自身の所属する憲法研究会を含め、天皇制存続を容認する潮流を「囚われたる民衆」と称して批判、天皇制廃止を主張した。*16
 1946年日本放送協会 (NHK) 第5代会長。1948年日本統計学会初代会長。日本社会党の顧問でもあった。
 NHKの会長に就任した高野は1946年4月30日に行われた就任挨拶で「権力に屈せず、大衆とともに歩み、大衆に一歩先んずる」とする放送のあり方を説き、民主的なNHKを目指したが、GHQ占領政策が反共に転換したこと、任期半ばにして高野自身が死去したことで挫折してしまった。

なお、小熊のオールドリベラリスト理解には五十嵐仁氏もhttp://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/544/544-07.pdf

「オールド・リベラリスト」と呼ばれる人々に対する評価である。著者は「オールド・リベラリスト」について,「共産党の勢力伸張に反感を示した勢力」として,「和辻哲郎津田左右吉小泉信三・田中美知太郎・田中耕太郎*17安倍能成*18など」の名前を挙げ,「彼らの多くが敗戦時に50代以上であり,大正期に青年時代を送った世代だったこと」「彼らが共産主義を嫌悪し天皇を敬愛する『文化人』であり,『自由主義』を好んでいたこと」という「ある種の共通性」を指摘している。
(中略)
また著者は,これら「オールド・リベラリスト」が中心となった「1950年代の保守論調」の特徴として,「戦後の民主化や労働運動などを,軍部独裁と同一視する傾向」,「『個人の自由』をさかんに強調した」ことをあげている。見られるように,ここでの「オールド・リベラリスト」評価は,かなり厳しいものである。
 ところが著者は別のところで,「オールド・リベラリスト」として,先に挙げた人々の他に,岩波茂雄*19の人脈によって結集した和辻哲郎谷川徹三志賀直哉武者小路実篤山本有三石橋湛山鈴木大拙柳宗悦大内兵衛などの「同心会」の面々をあげている。このなかには,大内兵衛石橋湛山など,民主人民連盟の呼びかけ人になった人も含まれている。これらの人も「戦後の民主化や労働運動などを,軍部独裁と同一視する傾向」をもっていたといえるのだろうか*20
 総じて,著者のオールド・リベラリストへの評価は辛すぎるように思われる。というよりも,「オールド・リベラリスト」の定義と範囲が不明確であり,著者の分析対象は「論壇」で活躍した人々に限られ,政治運動や社会運動と関わった人々が抜け落ちているのではないだろうか。また,「オールド・リベラリスト」には両義性があり,それは時間の経過と共に変化した。
 戦中から戦後にかけて軍部への批判や「抵抗」を示した「オールド・リベラリスト」は,戦後の混乱と無秩序の中で,大衆運動に対する嫌悪や恐怖感を抱き,次第に保守的な面を強めていったのかもしれない。著者の目はこの後の方に注がれている。

と疑問を提示している。


筆者は「占領期の知識人運動」として
「同心会」「日本文化人連盟」(中心人物は高野岩三郎大内兵衛、森戸辰男)、「自由懇話会」、「民主人民連盟」、「20世紀研究所」(所長・清水幾太郎)、「青年文化会議」(初代代表・大塚久雄)、「思想の科学研究会」(中心人物は鶴見和子・俊輔姉弟)、「社会主義政治経済研究所」(いわゆる労農派グループの集まり)、「民主主義科学者協会」(後に共産党との関係が、上意下達関係ではないかと問題視されるようになるが少なくとも設立当初は第3次吉田内閣で文部大臣を務めた哲学者・天野貞祐など保守派も参加している点に注意が必要)、「日本民主主義文化連盟(初代理事長・中野重治)」を上げている。


■第8章 主婦連合会*21初期の生活擁護運動(伊藤康子)
 伊藤氏は前著では第6章「戦後女性運動の源流−新日本婦人同盟(注:現在の日本婦人有権者同盟。初代会長は市川房枝)を中心に」を執筆。伊藤氏には単著として「新・日本の女性史」(1998年、学習の友社)、「闘う女性の二〇世紀」(1998年、吉川弘文館)、「草の根の女性解放運動史」(2005年、吉川弘文館)がある。


■第9章 占領期における青年運動の広がり(五十嵐仁)
 五十嵐氏は前著では終章「戦後革新運動への展望」を執筆。
 9章については五十嵐氏のブログ文章をまず引用し、コメント。

http://igajin.blog.so-net.ne.jp/2010-12-27
 私が担当したのは、占領期の青年運動です。社会党青年部、日本青年共産同盟と日本民主青年団、民主主義青年会議と全民主主義青年同盟(注:購入した本にはこのような名前の団体はないようなのだが?)、それに青年団について書きました。
 これらについて、これまで特に研究してきたというわけではありません。私にとっては未知の領域ですので、大変、苦労しました。
 同時に、我が大原社会問題研究所の底力にも、改めて感心しました。資料に関しては、まさしく「宝の山」でして、欲しいものがあるだけでなく、ほじくり返せば思いがけない「お宝」も見つかります。
(中略)
 当時の社会党青年部の中心人物であった加藤宣幸さん(加藤勘十*22の息子さん)や矢野凱也さん(その後、江田三郎の秘書)、社会党書記局におられ、その後、飛鳥田一雄*23の懐刀として横浜・村雨橋での米軍戦車輸送阻止闘争の指揮を執られた船橋成幸さんなどのお話をうかがい、研究所にもない文献や資料を貸していただくことができました。青年団については富田昌弘さんからも文献をお借りしました。何とか論文を書き上げることができましたのは、これらの方々のお力添えのお陰です。

社会党青年部」
のちの日本社会主義青年同盟社青同社会党系)の前身である。

「日本青年共産同盟と日本民主青年団
日本青年共産同盟→日本民主青年団→本章が対象としない1960年に「日本民主青年同盟(民青)」ということでいわゆる共産党系の組織である。

「民主主義青年会議」
社会党青年部」「日本青年共産同盟と日本民主青年団」ではない革新系の青年組織。

青年団
正確には「青年団青年団の全国組織・日本青年団協議会日青協)」だろう。青年団はいわゆる左派組織ではないが、その運動において「原水禁運動に参加」などの実績があることから、筆者は革新勢力にカウントしている。
 

■第10章 全学連の結成とレッドパージ反対運動(手島繁一)
 手島氏は前著では第7章「学生運動の再出発とその展開−全学連結成前史」を執筆。なお、五十嵐仁ブログ「五十嵐仁の転成仁語」の「『蒼空に梢つらねて』が送られてきた」(http://igajin.blog.so-net.ne.jp/2011-03-02)によれば、手島氏は、「北大五・一六集会報告集」編集委員会編集委員長として『蒼空に梢つらねて―イールズ闘争60周年・安保闘争50周年の年に北大の自治自由を考える』(柏艪舎、発売は星雲社)をまとめたそうでこの論文ではイールズ闘争が中心に扱われている。

参考
赤旗「レッド・パージってなんですか?」
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-04-02/ftp12_01.html


■第11章 占領期における生協運動の再生(山縣宏寿)
賀川豊彦の関わった「日本協同組合同盟(日協同盟)」が取り上げられている。


■第12章 「解放」後在日朝鮮人運動と「二重の課題」(鄭栄桓)
 前著の終章「戦後革新運動への展望」において、編者・五十嵐氏は「革新運動史研究においては在日朝鮮人問題が手薄であり本格的研究が必要」「たとえば金天海(日本共産党中央委員)をどう評価するかという問題は決して軽い物ではない」と言う趣旨の記述をしていたが、こうした課題に少しでも答えようとした物が本論文であろう。
・在日本朝鮮人連盟(朝連。現在の朝鮮総連の前身)の運動が取り上げられている。
・筆者の言う「二重の課題」とは「民族的課題」と「階級的課題」である。
筆者の理解では「民族的課題」の観点から、朝連を左傾化していると批判したのが民団であり、「階級的課題」の観点から「民族的課題は階級的課題に解消される」と、朝連を批判したのが金斗鎔(当時、日本共産党中央委員候補、朝鮮人部副部長)であった。
 これに対し、朝連は「二重の課題」の重要性を主張した。

【追記】
 私にも話させて「左派陣営に在日朝鮮人が少なかった影響」(http://watashinim.exblog.jp/4320245)の主張全てに賛同するわけでは全くない(そもそも何ら具体的根拠がなく印象論が過ぎる)。
 が、「在日の問題についての意識が従来、日本では弱いのではないか」という問題意識は本書とも共通する物と言えるだろう。


■第13章 占領後期沖縄社会運動の軌跡(南雲和夫)
 南雲氏は前著では第8章「戦後沖縄革新運動の源流」を執筆。南雲氏には単著として「米軍基地と労働運動―占領下の沖縄」(1997年、かもがわ出版)、「アメリカ占領下沖縄の労働史」(2005年、みずのわ出版)がある。


■第14章 占領後期の統一戦線運動(吉田健二)
占領後期の統一戦線運動として「民主主義擁護同盟(民擁同)」が取り上げられている。
筆者は民擁同が挫折したことについて次の要因を挙げている。
1)政府の弾圧
2)民擁同は上部団体の連合体に過ぎず地方や地区に根を張っていたわけではなかった。
3)社会党右派の反共主義とそれに基づく統一戦線否定の態度
4)統一戦線を呼びかけた当事者の一つ・共産党の側も「日本農民組合の分裂を招いてしまう」(本書第6章)など、統一戦線を呼びかけながらそれに矛盾するような問題行動があった。

 第2章の木下氏、第5章の兵藤氏、第7、14章の吉田氏、第11章の山縣氏、第12章の鄭氏は前著では執筆していない。
 前著で執筆した増島宏氏(前著序章「占領前期政治・社会運動の歴史的意義」)、大野節子氏(前著第3章「日本社会党の結成」)は本書には執筆していない。
 なお、前著では取り上げられなかった知識人運動、青年運動、在日朝鮮人運動、消費者運動が本書ではそれぞれ第7章、第9章、第11章、12章で取り上げられている(なぜか前著で取り上げなかった被差別部落運動については本書でも取り上げられていない)。

*1:五十嵐氏に寄れば「革新」は「革新官僚」という言葉が戦前存在したことから、終戦直後は使われず、「左派=革新」と言うイメージが定着するのは、1950年代以降のことだという

*2:食糧メーデー(飯米獲得人民大会)などのことを指す

*3:社会主義政党でありながら本音はともかく「中立」を表明している点は興味深い

*4:ただしソ連や中国などこの時講和しなかった国とも後に国交正常化交渉をすることとなる

*5:ただし明文改憲は出来なかった点に注意が必要

*6:ウィキペ曰く「第一次共産党は、1921年(大正10年)4月ないし翌1922年7月に創立されたのち、1924年3月ころにいったん解散されるまでの非合法政党時代の日本共産党を指す呼称である」

*7:社会党衆議院議員、片山内閣農林大臣

*8:「秘密結社」が出てくる東映の特撮の見過ぎじゃないのか?

*9:まあ、少しでも共産に好意的態度を取ると理由の如何に限らずそう言うふざけた奴は日本に多いよね(ひとまず黒田の態度が適切だったかという問題は置く。適切でなければ、根拠レスで「スパイ」とか「犬」とか「秘密党員」とか罵倒して良い物ではあるまい)。保守に限らず。一共産支持者として実に不愉快だ

*10:当時文革を否定的に評価し、中国共産党とは断交状態だった

*11:社民連を結成したため、意外に思う人もいるかも知れないが江田は元々農民運動出身である。

*12:ちなみに片山潜らと労働組合期成会を結成したことで知られる戦前の労働活動家・高野房太郎は岩三郎の兄である。

*13:憲法学者

*14:片山内閣・芦田内閣で文部大臣

*15:読売新聞社主筆・社長などを歴任

*16:高野案以外では共産党案だけが天皇制廃止の立場で、保守政党の案はもちろん、社会党案も存続の立場だった

*17:法学者、第1次吉田内閣で文部大臣

*18:哲学者・幣原改造内閣で文部大臣

*19:岩波書店社主

*20:そもそも大内兵衛マルキスト共産主義嫌悪などあり得ないが

*21:初代会長・奥むめお

*22:社会党衆議院議員。芦田内閣労働大臣

*23:横浜市議、神奈川県議、横浜市長を経て衆議院議員社会党委員長