【産経抄】7月7日

そもそも松方内閣自体が、「欲ありて意なく、意ありて謀なく、謀ありて力なき」閣員の集合体だった。その結果もめ事が絶えなかったというから、見事に現在の菅直人政権と重なっている。

 ググってウィキペを見れば分かることですが松方内閣(第1次)の前の山縣内閣(第1次)が軍事予算のための大幅増税を主張し、議会と対立、収拾がつかなくなって山縣は首相をやめています。
 つまり松方がどうこうではなくて、山縣の後始末をどうやるかで、収拾がつかなくなったのが松方内閣(第1次)です。後で触れますが松方内閣に問題がないわけではない(蛮勇演説や選挙干渉問題)のですが、基本的に松方が悪いと言う話ではないように思うんですが。
 松方のとる道としては
1)山縣が打ち出した増税を引っ込めて議会と和解
2)増税で議会と全面対立し、強行突破
3)議会と協調しながら何とか増税を飲ませる
のどれかですが、どれもうまくいかず、辞任せざるを得なかったと。

ウィキペ「松方内閣(第1次)」
 第2議会では、民党が山縣・前内閣が約束した「政費節減」の公約を果たさずに海軍予算の拡張を行おうとする政府を批判した。これに激怒した海軍大臣樺山資紀*1がいわゆる「蛮勇演説」を行って衆議院は空転、松方は衆議院解散を決断した。衆議院議員総選挙が行われたが、この際品川弥二郎内務大臣が中心となって大規模な選挙干渉を行って、民党関係者を中心に死者25名を出した。これに陸奥宗光*2農商務大臣が抗議して辞任、品川も引責辞任した。選挙後に召集された第三議会では民党による政府糾弾が行われ、親政府の筈の貴族院でさえも松方内閣との距離を置き始めた。

 で,政権運営は無理と見た松方は首相を辞任したと。
 後任の伊藤内閣(第2次)が『明治天皇よりの「和衷協同」詔勅内廷費300万円と官吏の俸禄1割削減を条件に妥協を成立させて予算案を通過させ』て何とか問題を解決しますが(ウィキペ「伊藤内閣(第2次)」参照)
 ウィキペに寄ればその伊藤も政権安定化のため、自由党党首の板垣を内務大臣にし、進歩党党首の大隈も入閣させようとしますが、議会嫌いの山縣の反発から、政権運営に支障を来し、辞職します。
その後も
松方内閣(第2次):第1次での失敗に懲りて、自由党党首の板垣を内務大臣に、進歩党党首の大隈を外相にして議会抱き込みを図るが、結局、地租増税を松方が打ち出したことで対立し、首相を辞職
伊藤内閣(第3次):松方内閣(第2次)で発生した地租増税問題での議会との対立を解消できず首相辞任。
と議会との対応に苦慮します。
 伊藤が後に立憲政友会結成に動くのは議会と対立しては政治が出来ないとの判断によるものでしょう。


 ちなみに抄子は高島鞆之助をdisりますがどうせなら何が問題だかもう少し詳しく書けばいいと思うんですが(スペースの都合で書けないのならいっそのこと松本大臣批判一本の方が良かったように思う。)。まあ、松方内閣(第1次、第2次)で陸軍大臣、伊藤内閣(第2次)で拓殖務大臣をやっただけで後は枢密顧問官というのでは、軍事官僚としての能力は評価されていても「政治家」としてはあまり評価されてなかったんでしょうが。

*1:松方内閣(第2次)で内務大臣、山縣内閣(第2次)で文部大臣

*2:伊藤内閣(第2次)で外相