沖縄基地本土移設論を改めて批判する(2024年4月29日)

<産経抄>ネモフィラと「昭和の日」 - 産経ニュース

 空と海の青にネモフィラの淡い青が溶け合う絶景が味わえる国営ひたち海浜公園には早朝から車が列をなし、今年は180万本植えられた国営昭和記念公園でもちょうど見ごろとなった。
ネモフィラの二大名所には、共通点がある。
▼いずれも敗戦後、米軍に接収され、一方は水戸射爆撃場、もう一方は米軍立川飛行場となった。水戸射爆撃場近くでは昭和32年、訓練中の米軍機が母子2人を殺傷したゴードン事件が、立川でも同じころ砂川闘争と呼ばれる基地反対運動が起きた。
▼両基地とも昭和が終わるまでに相次いで返還された。

 ということで、本土にも昔は多数米軍基地があり、しかし、反対運動の成果によって多くが撤退しました(勿論、青森の三沢基地、東京の横田基地、山口の岩国基地など未だに本土に米軍基地はいくつかありますが)。
 しかし撤退先は「沖縄」であり、現在まで続く沖縄基地問題のルーツがここにあります(産経抄なのでそうしたことは書かず「基地が返還されてネモフィラ群生地になって良かった」「沖縄でも同様の事態(基地返還?)が起こって欲しい(と書きながらどうやって「同様の事態」を実現するのかは書かない*1)」で終わってしまう点は甚だ残念です)。こうした経緯を考えれば、以前も珍右翼・高世仁に突っ込む(2022年2/28日分)(副題:ロシアのウクライナ侵攻) - bogus-simotukareのブログ等で指摘しましたが、「基地本土移設(高世仁などが主張)」など是非以前に「無理な話」です。例えば「安倍晋三」の地元である「自民王国」山口県だって引き受けたりはしないでしょう。
参考

米軍機母子殺傷事件 - Wikipedia
 1957年8月2日に茨城県アメリカ軍機が日本人親子を死傷させた事件である。ゴードン事件ともいう。
 アメリカ側は不可抗力による事故であると主張したが、日本側側は操縦者による悪戯が原因であると主張し真っ向から対立した。また日本側の捜査も日米行政協定の壁に阻まれ挫折したものである。

米軍基地の跡地に花を 沖縄復帰から49年:中日新聞Web
 茨城県ひたちなか市国営ひたち海浜公園にある小高い「みはらしの丘」は、この春もネモフィラ青い花で埋め尽くされました。この丘一帯は、以前「水戸対地射爆撃場(射爆場)」と呼ばれる米軍の訓練施設でした。
 もともと、太平洋戦争末期に特攻機も飛び立った旧日本陸軍の飛行場でしたが、終戦後に米軍に接収され、戦闘機が地上の標的を狙って射撃や爆撃の訓練などを行う場所として使われていました。
 周辺住民は騒音に加え、爆弾の誤投下や機関銃の誤射など基地が存在するがゆえの被害に苦しみます。茨城県が製作した記録映画によると、事故は周辺地域を含めて二百五十七件、民間人の犠牲は五人に上りました。
 基地の被害に耐えていた住民を覚醒させたのは、一九五七(昭和三十二)年八月に起きた悲惨な事故でした。射爆場の近くを自転車で走っていた母子を、超低空で飛んできた米軍のプロペラ機が車輪ではね、体を切断された母親が即死、息子が重傷を負いました。操縦していたジョン・L・ゴードン中尉の名前から「ゴードン事件」と呼ばれます。
 操縦ミスによる業務上過失致死傷で送検されましたが、公務中の事故とされ、当時の日米行政協定により不起訴処分となりました。
 しかし、住民の間には「故意だった」との怒りが広がり、やがて射爆場の返還運動に発展します。その動きは県内に広がり、県民大会も開かれました。
 七〇年に米軍の訓練が終わり、七三年には日本側に返還されました。これも県民の反対運動の高まりに押されたためです。跡地は地元の強い思いにより公園へと生まれ変わりました。花いっぱいの公園は、平和の象徴なのです。
 終戦直後、本土と沖縄との在日米軍基地の面積比率は九対一。本土の方が圧倒的に多かったのですが、五五年、東京都砂川町(現立川市)で起きた米軍立川基地拡張に反対する砂川闘争など反米反基地闘争の高まりを受け、本土に駐留していた海兵隊は当時米軍統治下の沖縄に移駐します。
 日米安全保障条約が改定される六〇年ごろまでに、本土の米軍基地は四分の一に減り、逆に沖縄では約二倍に増えた、といいます。
 七二年の沖縄復帰のころには、その比率は二対三となり、今では三対七と、本土から米軍基地を押し付けられた形の沖縄の基地負担比率は増していきました。
 沖縄の米軍基地も花があふれる公園にできないでしょうか。沖縄の人々と本土の私たちの力を結集して政府を動かせば、返還が実現し、憩いの場に変えることができる。そんな可能性や希望を、ネモフィラ青い花は示しています。

GWでにぎわう名所は米軍基地だった 茨城・ひたち海浜公園 [沖縄はいま] [沖縄県]:朝日新聞デジタル
 満開のネモフィラが一面を埋め尽くし、ゴールデンウイークには多くの観光客でにぎわう茨城県国営ひたち海浜公園。コロナ前は、年間200万人が訪れた関東有数の観光地は、かつては米軍基地だった。繰り返される事件・事故で、理不尽な被害を受けた住民が立ち上がり、1973年に返還を勝ち取る。
 勝田市(現ひたちなか市)史料には、軍事車両にはねられたり、演習の流弾に当たったりする死亡事故が20件あったと記されている。軍用機の補助タンク誤投下などもあり、事故総数は180件に上る。
 1950年には海水浴を楽しんでいた黒沢嘉代子さん(当時8歳)が米軍の銃弾で死亡する事故が起こる。米軍は近くの演習場からの流弾が原因と説明したが、間には松林が茂っており、住民たちは「その間を弾が飛んでくるとは思えない」とにわかには信じなかった。嘉代子さんの身体の上部から下部へ抜けた弾の角度から、米軍基地にある監視塔から撃たれたのではないかと疑っていたという。
 嘉代子さんの事件は「すずめの涙ほどの見舞金」(大内さん)で片付けられた。そういった米軍による人権をないがしろにした事件が相次ぎ、住民の不満は鬱積していく。
 住民の怒りが頂点に達したのが、1957年8月のゴードン事件だ。
 ゴードン中尉が操縦する超低空飛行のプロペラ機が、自転車でイモ畑の間を走っていた親子をはねた。
 母親は即死、息子は重体となる事故だったが、ゴードン中尉は公務中として、日米地位協定により、不起訴処分となった。悲惨な事故を起こした上に、日本の裁判では裁かれずに無罪放免となる理不尽に住民が立ち上がり、反基地運動が巻き起こる。
 1950年代から70年代にかけ、米軍による被害が相次ぎ、全国では反基地運動が燃え上がり、米軍基地の縮小が進んだ。一方、米軍統治下にあった沖縄に移され、全国の7割が沖縄に集中する今の構図ができあがった。

*1:まあ、でもそう書くだけ今日の産経抄筆者は阿比留などと比べれば「ある程度」まともではあります。