特攻を絶賛する奴らはアリス・ハーズや由比忠之進をどう思うね?(追記あり)

 まあ、俺は自殺という抗議手段を支持しない(手段として有効かという問題があるし、人命は大事ですので)が、特攻という「国から押しつけられた死」よりも「自分で選んだ死」というだけでずっと、まともだと思う。
しかも自殺の理由が反戦平和なのだから、侵略戦争の下請けでしかなかった特攻よりはマシだろう。
つうか特攻絶賛する珍右翼の諸君はチベット仏教僧の中国への抗議自殺(死に方は偶然にもアリスや由比と同じガソリン焼身自殺らしい)を絶賛してなかったかね。でも珍右翼は論理性皆無でサヨ嫌いだから、平然とアリスや由比を否定したりするかもな(毒)

アリス・ハーズ(1882年5月25日〜1965年3月26日:ウィキペ参照)
 アメリカの平和運動家。ベトナム戦争に抗議して、焼身自殺した。ベトナムの仏教僧ティック・クアン・ドックの焼身自殺を範にしており、同様に自殺したアメリカ人は8人いたが、彼女が1人目だった(他にノーマン・モリソン、ロジャー・ラポート、セレーン・ジャンコウスキーなど)。ハーズは平和運動家として長年活動した後、1965年3月16日、82歳の時、ミシガン州デトロイトで自殺を実行した。子供とドライブ中に偶然その現場を目撃した人物が燃えさかる炎のなかの彼女を見つけて火を消し止めたため、その場では命を取り留めたが、火傷がもとで10日後亡くなった。ジョンソン大統領がVoting Rights Actへの賛成を議会に表明したことが直接のきっかけになって、ベトナム反戦を行動で示す必要を感じたのだという。残念ながらベトナム戦争はハーズの死後も10年にわたって続けられた。
 (中略)  
 ハーズは自殺の直前、友人たちや仲間の反戦活動家たちに遺書の手紙を投函していた。こうした遺書では主に、当時世界的な話題となっていたティック・クアン・ドックらベトナムの仏教僧・尼たちの抗議自殺に彼女が追随を決意したことが述べられている。ある友人によれば、ハーズはデモ行進、抗議声明、論説記事や公開書簡などあらゆる手段で反戦活動をおこなったが、他にどんな手段がありうるか思案していたという。明らかに彼女は焼身自殺が究極的な抗議行動になると結論したのである。
 日本でアリス・ハーズの名前が知られているのは、もっぱら芝田進午の尽力である。芝田はアメリカの哲学者ジョン・サマビルを介してハーズと知り合い、13年にわたって文通していた。ハーズの死後芝田は、彼女との往復書簡を活字化するとともに、キリスト教民主主義を採るスイスのドイツ語の月刊誌『ノイエ・ヴェーゲ(「新しい道」の意)』に彼女が(中略)継続的に発表していた数々の論文・論説のいくつかを選んで翻訳し公刊した。アリス・ハーズ夫人記念平和基金は、自殺報道の後集まった多額の義捐金にこれらの書籍の印税をあわせて設立されたものである。

ティック・クアン・ドック(1897年〜1963年6月11日:ウィキペ参照)
 ベトナムの僧侶。1963年6月11日に、当時南ベトナムのゴ・ディン・ジェム政権が行っていた仏教徒に対する高圧的な政策に対して抗議するため、サイゴン(現・ホーチミン)のアメリカ大使館前で自らガソリンをかぶって焼身自殺した。
 彼は支援者たちが拝跪する中、燃え上がる炎の中でも蓮華坐を続け、一切苦悶の表情や声を出さず、絶命するまでその姿を崩さなかった。その強靭な精神力と威厳のある姿はカメラを通じて全世界に放映された。この衝撃的な事件が世界中に放映され、国内の仏教徒に大きな影響を与えることとなった。
 ジェムの義妹のマダム・ヌーは、アメリカのテレビインタビューでこの事件を「僧侶のバーベキュー」と評し、国民のジェム政権への反発をいっそう高めることになった。11月にはついにクーデターが発生し、ジェムは決起部隊に殺害されたがマダム・ヌーは生き延びた。

由比忠之進(1894年(明治27年)10月11日〜1967年(昭和42年)11月12日:ウィキペ参照)
 日本の弁理士エスペランティスト。福岡県前原町(現在の糸島市)生まれ。
 東京高等工業学校(現在の東京工業大学)を卒業し電線会社やラジオ局など種々の職を転々とした。1921年(大正10年)頃からエスペラント語を学び始めた。1932年(昭和7年)頃には名古屋に住み、名古屋エスペラント会の創立に参加している。 太平洋戦争中は満州の製糸会社に勤務。1945年(昭和20年)の終戦後も中国に徴用され、1949年(昭和24年)に帰国。戦後は名古屋で特許事務所を開いた。
 戦後は原水爆禁止運動にかかわり、被爆者の体験記をエスペラント語に翻訳、海外に紹介した。1960年代には、ベトナム戦争の激化を受けてベトナムエスペランティストと文通で交流、本多勝一の「戦場の村」*1エスペラント語訳などに取り組んだ(自殺のため未完)。政治党派に所属したことはなく、子どもやエスペラントの仲間からは政治的な人物とは見なされていなかったという。
 1967年(昭和42年)11月11日、世界に先駆けてアメリカの北爆支持を表明した佐藤栄作首相の訪米への抗議行動として、首相官邸前でガソリンをかぶって焼身自殺を図る。気道熱傷のため翌12日に死亡した。佐藤訪米阻止闘争のデモが激しく行われた当日、デモの解散後に単独で決行された抗議行動であった。北爆を支持する日本政府に一般市民が自らの死をもって抗議した行為は、当時の日本社会に大きな衝撃を与えた。

珍右翼が絶賛するチベット仏教僧の抗議自殺についてのマスコミ報道の例

http://www.asahi.com/international/update/0816/TKY201108160396.html
朝日新聞チベット僧が焼身自殺 中国四川省、「自由ない」とビラ』
 中国の新華社通信によると、四川省カンゼ・チベット族自治州で15日、チベット僧(29)が焼身自殺した。チベット亡命政府系のラジオ局「チベットの声」(本部ノルウェー)によると、僧侶は地元政府庁舎前で「チベットに自由はない」と書いたビラをまき、自らに火をつけた。

【2014年9/30追記】
さてコメ欄でBill_McCreary さんにご指摘いただいた
■自殺で何かを変えることはできるのか?(みわよしこ
http://bylines.news.yahoo.co.jp/miwayoshiko/20140629-00036872/
にブクマがいくつかついてるのでコメントしてみましょう。
まずid:Mukkeさん。

「追い詰める側の人々にとって,弱い立場にある人々の声・言葉・存在には,そもそも価値がありません。価値を認めていないからこそ,死に至るまで追い詰めることができるのです」

ええ?、ですね。Mukkeさんの場合

GEGE
それ、苦しんでいる人に「もっと苦しめ」って言ってるだけだわな
toraba
「「自殺によって変わった」といえる例を見出すのは困難です」自殺しなかったケースでも「変わった」といえる例は少ないけどな
temtex
 生きたまま逃げられればどれだけいいだろうな。試みるべきだが実際はそれこそ不発に終わることが多いのでは?
ponkotukko
 もうちょっと当事者や関連した人達に配慮した書き方があるだろうに
nao0990
 少なくとも青年の自殺によって始まった(注:チュニジアの)ジャスミン革命は腐敗と暴力に塗れた独裁ベン・アリ*2政権を打倒した

などといってみわ氏に「不賛同の意思」を表明してる方々のお仲間がMukkeさんだとばかり思ってましたが違うようです。もちろん俺はみわ氏に賛同しますが。最後に「ベン・アリ」云々についてウィキペ「ジャスミン革命」を引用しておきましょう。確かに「自殺は革命を激化させた」のかもしれませんが「常にそうなるとは限らない」し、「鬱憤がたまっていたこと」が激化の前提ですからね。

ジャスミン革命(ウィキペ参照)
■事件の背景
 チュニジアは2010年の経済成長率が3.8%と決して経済状況が悪いわけではなかった。しかし失業率は14%、若者層に限れば30%近いという高い水準であったため、経済成長の恩恵を受けられない人々に不満がたまっていた。
 加えて、1987年に無血クーデターによって政権を獲得したベン=アリーはイスラーム主義組織及び共産党に対し抑圧を行い、ある程度の経済成長は果たしたものの、一族による利権の独占といった腐敗が進むなど、23年にも及ぶ長期政権に不満がたまっていた。こうした背景が革命に結びついたとみられている。
■事態の推移
 2010年の後半から、革命のきっかけの要素は整いつつあった。11月7日のクーデター記念日、国民的ラップシンガーのエル・ジェネラル(本名ハマーダ・ベン・アモール)はネット上に、政権への抗議を込めた曲「Rais Lebled(国の頭)」を発表した。政治体制、支配層による横暴を糾弾する内容である。
 ウィキリークスも革命の後押しをすることになった。ウィキリークスチュニジアに関する米国政府高官のコメントを暴露した。その内容は、ベン・アリー政権の腐敗を厳しく批判するものだった。それまで国民は、アメリカが政権の後見人として支えているとみていたが、実際にはアメリカは政権の維持に固執しているわけではない、ということが明らかになり、人々を勢いづけた。
 直接的、かつ決定的な要因は、12月17日、中部の都市シディ・ブジドでおこったと言われる。この日の朝、露天商のモハメド・ブアジジ(26歳)が果物や野菜を街頭で販売し始めたところ、販売の許可がないとして地方役人が野菜と秤を没収、さらに暴行と侮辱を加えた。彼は三回、没収された秤の返還を求め役所に行ったが、引き換えに賄賂を要求された。三回とも追い返された彼は、これに抗議するために同日、県庁舎前で焼身自殺を図った。アルジャジーラで事件が取り上げられ、一人の青年の焼身自殺が全国に知れ渡った。イスラム教は自殺を禁じており、また火葬の習慣もないので、「焼身自殺」が与える衝撃は大きかった。このトラブルがブアジジと同じく、就職できない若者中心に、就職の権利、発言の自由化、大統領周辺の腐敗の罰則などを求め、ストライキやデモを起こすきっかけになった。
 12月28日、ベン=アリーは突如、病院にモハメドを見舞ったが、無菌の治療室にマスクも白衣もつけないで現れたので、外国人の陰謀であると決めつけた直後のテレビ演説も相まって、反発は強まった。
 1月4日、前々から疑われていたモハメドの死が「確認」された。5日に行われた葬儀には数千人が参列した。
 1月13日には、デモに対し戒厳令が発令され、軍に対して出動命令が出されたが、軍はその命令を拒否した。後ろ盾であった軍の離反を招いたベン=アリーは、譲歩せざるを得ないと判断した。カシム内務大臣の更迭を改めて発表し、また、デモにおいて拘束された参加者を釈放する方針を表明した。夜の演説ではベン=アリー自ら、2014年の次期大統領選挙で不出馬、退任すると発表した。食料品の高騰に対する対策、言論の自由の拡大、インターネット閲覧の制限の解除などの政策の履行を約束した。一連の騒乱については「側近に裏切られた」と釈明し、治安部隊に対し、デモ隊への発砲を禁じたと発表した。しかし夜になっても銃声は鳴りやまず、それが14日のデモへとつながった。
 ここにきて政府は内部から崩壊し始めた。メズリ・ハダド・ユネスコ大使が、治安部隊がデモ隊に発砲したことに対して抗議し辞表を提出した。ベン=アリーはデモ隊への実弾使用をラシド・アンマル陸軍参謀総長に迫ったが、逆に「あなたはおしまいだ」と、不信任を突き付けられた。14日午後5時49分、ガンヌーシ首相がテレビで「ベン=アリー大統領は国を去った」と声明を読み上げた。
 ベン=アリーは、旧宗主国フランスへの亡命を希望したがニコラ・サルコジ*3大統領が入国を拒否した。そこでサウジアラビアへ亡命した。
 ベン=アリーはサウジアラビア亡命後、前政権時代の公金横領、また一連の反政府運動においてデモ鎮圧を軍に命じ参加者を多数死亡させた容疑などで起訴され、本人不在のまま軍事法廷が開かれた。死刑が求刑され、2012年6月13日に終身刑判決が言い渡されている。しかし、サウジアラビアがベン=アリーの身柄引き渡しに応じる可能性は低く、実際に刑が執行されることはないと推測されている。カシム内務大臣に懲役15年の刑が下っている一方、主要閣僚の多くが公訴棄却となっている。

*1:ベトナム戦争についてのルポルタージュ。現在、朝日文庫

*2:内務相、首相を経て大統領。現在サウジアラビアに亡命している

*3:バラデュール内閣予算相、ラファラン内閣経済・財務・産業相、ドビルパン内閣内務相などを経て大統領。社会党のオランド氏に大統領選で敗れ、大統領を退任したが「最近のオランド氏の不人気」「保守党内に有力対抗馬が少ない」こともあり「安倍やベルルスコーニのような」大統領返り咲きを狙っていると言われる。