新刊紹介:「歴史評論」3月号

★特集『「家中」―武士による結合―の存続戦略』
・詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。興味のある内容のみオレ流に紹介しておきます。
 まず、「家中」とは何かウィキペディアを紹介しておきます。

■家中(ウィキペディア参照)
 日本の中世から近世にかけての武家、およびその家臣団のこと。江戸時代においては大名領(藩)を支配する組織、または大名に仕える武士(藩士)のこと、あるいは大名の領土自体を指した。
・中世における武家は、惣領と庶子などの一門衆からなる「一家中」を中心に構成されていたが、次第に譜代の家臣(家子)を加えて擬制的な家組織として再編成され、更に新たに服属した国人領主(郎党)なども加える形で形成された惣領と家臣団による集団の総称を「家中」と称した。これは東国で主に用いられた洞とほぼ同じ概念と考えられている。
 江戸時代に入ると、特定の大名の家臣団あるいは大名を加えた藩全体を「家中」と呼ぶようになった。むしろ、江戸時代の儒学者が中国の封建制度に倣って用い、明治政府の成立後に公式の用語となった土地統治に由来する「藩」よりも人的結合に由来する「家中」の方がより広く用いられていた。例えば伊達氏によって治められていた仙台城を中心とした地域を統治していた藩や藩士のことは、「仙台藩」「仙台藩士」ではなく「伊達家御家中」という表現を用いられ、また国持大名であった伊達氏は徳川将軍家より「松平姓」を与えられていたため、「松平陸奥守様御家中」とも称された。ここで言う「松平姓」も幕藩体制を本来松平氏の惣領でもあった徳川将軍家を惣領とする擬制的な家組織とする観念から与えられたものである。
 ただし、家中の中にも一門・譜代・外様・郷士などの区別があり、農村部に住む郷士を除外して城下町に住む武士のみを家中と称して差別化を図ることもあった。また、家中でも知行取が許された上級家臣と蔵米取であったその他の家臣に分けられていた。

 つまり家中とは当初「一族」と同義だったものが、戦国時代になると「国人領主」つまり一族でないものも「家中」に組み入れるようになったわけです。戦国時代は「下剋上の時代」なので「家中」に組み入れても反乱があり得ますが「体制が安定する江戸時代以降」になると当然ながらそういうことは起こらなくなります。


■戦国期における「家中」の形成と認識:大友分国を事例に(村井良介*1
(内容紹介)
戦国大名・大友氏の家中形成過程について述べられている。
 いろいろ述べられているがまとめきれないのでいくつか指摘するにとどめる。
・大友家の家臣・田北紹鉄、田原親貫の反乱後も、紹鉄、親貫が打倒されたのちも、田北家*2、田原家*3が存続したことがとりあげられている。
 ここには「家中をなるべく存続させたい」という価値観が大友家において、主君、家臣、双方に存在したことがうかがえる。
・なお、「もともとは大友氏の家臣(家中)であった立花氏(立花宗茂*4)や高橋氏(高橋直*5)」が独立した大名になったことから「豊臣時代、徳川時代初期」においては「家中がまだ確定的なものではなかったこと」がうかがえる。
・また筆者も書いているが家中の構築は常に成功したわけではない。
 筆者は失敗例として陶氏(陶晴賢)に打倒された大内氏大内義隆)の例を挙げている。

参考

陶晴賢陶隆房)(ウィキペ参照)
 天文14年(1545年)、大内義隆に実子・大内義尊が生まれたことを契機に、隆房は対立する大内氏重臣・相良武任*6を強制的に隠居に追い込み、大内家の主導権を奪還する。
 しかし天文17年(1548年)に義隆によって相良武任が評定衆として復帰すると、相良の巻き返しを受けて再び大内家中枢から排除される。このため天文19年(1550年)、内藤興盛*7らと手を結んで相良武任を暗殺しようとするが、事前に察知されて義隆の詰問を受けることとなり、事実上、大内家での立場を失った。
 天文20年(1551年)1月、相良武任は「相良武任申状」を義隆に差し出し、この書状で「陶隆房内藤興盛が謀反を企てている。さらに相良と陶の対立の責任は杉重矩*8にもある」と讒訴する。これを契機として相良を擁護する義隆と、相良と対立する陶隆房の対立は決定的なものとなり、8月10日には身の危険を感じた相良武任が周防から出奔するに至り、両者の仲は破局に至った。8月28日、陶隆房は挙兵して山口を攻撃し、9月1日には長門大寧寺において義隆を自害に追い込んだ。さらに義隆の嫡男・義尊や相良武任も殺害した。また謀反が終わった後には杉重矩と対立、彼も殺害した。
 天文21年(1552年)、義隆の養子であった大友晴英(当時の豊後大友氏当主・大友義鎮(宗麟)の異母弟、生母は大内義興の娘で義隆の甥にあたる)を大内氏新当主として擁立することで大内氏の実権を掌握した。この時隆房は、晴英を君主として迎えることを内外に示すため、陶家が代々大内氏当主より一字拝領するという慣わしから、晴英から新たに一字(「晴」の字)を受ける形で、晴賢(はるかた)と名(諱)を改めている(なお、大内晴英は翌天文22年(1553年)に大内義長と改名し、のちに晴賢の嫡男・長房がその一字を受けた)。
 弘治元年(1555年)9月21日、晴賢は自ら2万から3万の大軍を率いて、安芸厳島に侵攻し、毛利方の宮尾城を攻略しようとした。しかし毛利軍の奇襲攻撃によって本陣を襲撃されて敗北し、毛利氏に味方する村上水軍によって大内水軍が敗れて、退路も断たれてしまい、逃走途中で自害した(厳島の戦い)。享年35歳。
 以後、大内氏は急速に衰退していき、弘治3年(1557年)には毛利氏によって滅ぼされた。


■近世前期の牢人召抱えと大名家中(兼平賢治*9
(内容紹介)
 徳川時代初期においては「関ケ原合戦による西軍大名*10の処刑、改易」など*11で大量の浪人が発生した。彼らの多くは仕官し武士として復活することを希望した。
 一方、大名の側も「まだ藩秩序が確立していなかったこと」もあり、彼らを積極的に採用した。本論文では盛岡藩南部氏を素材にしそうした「浪人召し抱え」について述べられている。
 南部氏の浪人召し抱えで特徴的なのは蒲生家旧家臣、加藤家旧家臣が多いことである。
 これは、蒲生氏(蒲生氏郷*12)、加藤氏(加藤明成*13)と南部家に縁戚関係があったことによるとみられる(盛岡藩初代藩主・利直の正室蒲生氏郷の娘であり、二代藩主・重直の正室加藤嘉明の娘である)。


■近世・近代移行期における藩主像の変容と君臣関係―米沢藩を事例として―(友田昌宏*14
(内容紹介)
 米沢藩における上杉謙信上杉鷹山(上杉治憲)顕彰の動きが取り上げられている。
 筆者によれば上杉謙信顕彰を大規模に行った藩主としては上杉綱憲上杉鷹山がいるという。
 彼らが謙信顕彰を大規模に行った理由として筆者は
1)綱憲、鷹山が養子であり権力基盤が弱いこと
 綱憲は忠臣蔵で有名な吉良義央の子であり、鷹山は日向高鍋藩・秋月氏出身であった。
 話が横道にそれますが「上杉氏(上杉綱憲)と吉良氏の縁戚関係」というのは割と有名かと思います。
 もちろんフィクションですが、高倉健大石内蔵助を演じた映画「四十七人の刺客」では「吉良が大石一派に襲われることにより縁戚関係のある上杉家にとばっちりが来るのを恐れ大石の企てを阻止しようとする上杉家家老・色部又四郎(中井貴一)」と大石との間で頭脳戦が展開されます(小生はこの映画を見ていませんが)。
2)鷹山の場合はそれに加え、「中興の祖」として彼が評価される経済改革を実施するためにも謙信顕彰が必要だった。
 もちろん「謙信顕彰」で改革がすべてスムーズにいったわけではないですが、それが改革を進めていく上での重要な要素だったわけです。
 この点は「正恩君の祖父・金日成氏顕彰(北朝鮮)」など古今東西、よくある話ではあるでしょう。
 明治時代に入ると「謙信、鷹山顕彰」は新たな性格を与えられることになる。神社崇拝の機運によって謙信や鷹山を祭る上杉神社が建立された。
 建立に当たっては「謙信や鷹山が名君であること」「謙信が朝廷の命に従いたびたび上洛したこと」が「謙信や鷹山の皇室に対する尊崇精神の現れ」として説明された。

参考

上杉綱憲(ウィキペ参照)
高家肝煎吉良義央の長男として誕生する。母は上杉綱勝の妹で義央の正室富子。寛文4年(1664年)5月10日に、米沢藩第3代藩主であった上杉綱勝が嗣子の無いままに急死した。米沢藩は無嗣断絶により改易されるべきところを、綱勝の岳父であった保科正之陸奥国会津藩主)の計らいによって、義央と富子の間に生まれたばかりの綱憲を末期養子とすることで存続を許された。義央は扇谷上杉家の上杉氏定の血を引いている。「会津松平家譜」によると、幕閣では綱勝の後継者に保科正之の子の正純を据えることも検討されていたが、正之が謝絶したとされている。
 末期養子による相続の代償として、信夫郡伊達郡を削られ藩領は置賜郡のみとなり、30万石の所領は15万石に半減された。このため米沢藩は恒常的な財政逼迫に悩まされることになった。
・上杉家では延宝2年(1674年)4月に綱憲の傅役である竹俣充綱が上杉家の家史編纂を進言し、延宝5年(1677年)4月には正式に着手され、元禄9年(1696年)5月には「謙信公御年譜」が、元禄16年8月には「景勝公*15御年譜」が完成した。


■書評『越境者の政治史:アジア太平洋における日本人の移民と植民』(塩出浩之*16、2015年、名古屋大学出版会)(評者:飯島真理子)
(内容紹介)
 評者は

http://booklog.kinokuniya.co.jp/hayase/archives/2016/01/post_395.html
 本書によって、これまでの「盲点」が克服され、政治史として日本の出移民の実態が、広い視野のもとで理解できるようになった。もちろんすべての国・地域をカバーしたわけではないし、社会史としての視点、とくに政治的影響の弱い移住先の社会の一員としての日本人の存在は、考察の対象になっていない。海外在住日本人の全体像は、「表序-1 1940年時点における日本人居住人口分布」でわかるが、約3万といわれた「米領フィリピン」の人数が7,133になっている。3万のうち2万がダバオでおもにマニラ麻産業に従事し、日米戦の激戦地となったことを考えると、政治史的にも考察の対象として組み込む余地があったのではないだろうか。

という早瀬晋三*17の指摘を紹介し、フィリピンを筆者がどう分析するのかが気になるところであるとしている。

*1:著書『戦国大名権力構造の研究』(2012年、思文閣出版)、『戦国大名論:暴力と法と権力』(2015年、講談社選書メチエ

*2:田北統員(紹鉄の弟・鎮周の子)が家督を継いだ(鎮周一族は紹鉄と違い、大友氏に重用されていたため、謀反には加担しなかった)。

*3:大友宗麟の次男・大友親家が家督を継ぎ、田原親家を名乗った。親家は大友氏が改易された後、慶長14年(1609年)に細川忠興に100石30人扶持で客分として仕官し、利根川道孝と改名した。子孫は細川氏の直臣となり、松野氏を称した。

*4:もともとは高橋氏で立花氏に養子入りした。秀吉の九州平定で活躍し、大友氏家臣でありながら、秀吉から筑後国柳川13万2000石を与えられ大友氏から独立した大名に成長。関ケ原合戦では西軍に参加し改易されたが、その能力を評価した徳川家によって陸奥棚倉藩主(のちに筑後柳河藩主)として大名に復帰した。

*5:立花宗茂の弟。立花直次とも呼ばれる。秀吉から筑後国三池郡江浦に1万8,000石の所領を与えられ大友氏から独立した大名に成長。関ケ原合戦では西軍に参加し改易されたが、後に大名に復活した兄・宗茂同様、徳川家に5000石の旗本として召し抱えられる(なお召し抱えられた時点で立花姓に改姓している)。彼の死後、子に5000石加増され、1万石の三池藩・立花氏となった。

*6:後に陶晴賢による大内義隆打倒クーデター時に陶によって暗殺される。

*7:興盛の死後、内藤氏は陶晴賢派と毛利元就派に分裂。陶派の内藤隆世(興盛の孫、陶晴賢の義弟)は滅亡するが、毛利派の内藤隆春(興盛の子)は毛利氏の家臣として存続することになる。

*8:大内義隆打倒時には陶に荷担するが、後に陶と対立。陶氏によって滅ぼされる。

*9:著書『馬と人の江戸時代』(2015年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)

*10:石田三成宇喜多秀家小西行長真田昌幸長宗我部盛親など

*11:関ヶ原合戦以外の改易の例としては小早川秀秋(無嗣断絶)、加藤明成(会津騒動の引責)、福島正則武家諸法度違反の無断築城)、松倉勝家(「島原の乱」の引責)などがある。

*12:会津92万石藩主となるが彼の死後、子の秀行は宇都宮18万石に一時減封された(ただし後に会津60万石藩主として復帰)。秀行の死後、長男・忠郷が後を継ぎ、忠郷の死後は弟・忠知が後を継ぐがこのときに伊予松山24万石に減封され加藤嘉明(加藤明成の父)が会津藩主となった。忠知には嫡子がなかったため、彼の死後、蒲生氏は改易処分となった。

*13:いわゆる会津騒動で改易された。ただし後に長男・明友が近江国水口藩(2万石)藩主とされ、加藤家は幕末まで存続した。

*14:著書『戊辰雪冤:米沢藩士・宮島誠一郎の「明治」』(2009年、講談社現代新書)、『未完の国家構想:宮島誠一郎と近代日本』(2011年、岩田書院)、『東北の近代と自由民権』(編著、2017年、日本経済評論社

*15:豊臣政権の五大老の一人。米沢藩初代藩主。

*16:著書『岡倉天心大川周明:「アジア」を考えた知識人たち』(2011年、山川出版社日本史リブレット人)など

*17:著書『海域イスラーム社会の歴史:ミンダナオ・エスノヒストリー』(2003年、岩波書店)、『未完のフィリピン革命と植民地化』(2009年、山川出版社世界史リブレット)、『フィリピン近現代史のなかの日本人:植民地社会の形成と移民・商品』(2012年、東京大学出版会)、『マンダラ国家から国民国家へ:東南アジア史のなかの第一次世界大戦』(2012年、人文書院)など