「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2022年6/17分:巣くう会関係の集会の巻)

横田拓也家族会代表がオンラインの国連シンポで報告

 本日の国連シンポジウムを共催頂いた日本政府・米国・オーストラリア・EUに心から感謝の意を表します。

 共催と言ったところで実質は「日本の単独開催」、日本に「このシンポが国際的にも支持されてるように印象づけたいので、共催の形にしてもらえませんか(財政負担など、あなた方のご負担は特に生じませんから。ただし、共催の建前作りのために、駐日大使など政府高官による数分程度の来賓挨拶はお願いします)」といわれ「断る理由もない(断れば日本に恨まれるだけ、来賓挨拶程度でいいなら大して負担にならない)」ので応じた「名義貸しも同然」の代物でしょう。
 なお、政府ホームページを見ても、6/17現在において実施報告(開催は6/16)は昨年の6月29日(火)、日本、米国、豪州政府及びEUの共催で、拉致問題に関する国連シンポジウムをオンラインで開催しました。|ニュース|北朝鮮による日本人拉致問題が最新のようで、まだ今年のシンポは実施報告がないようです。「すぐに実施報告を掲載しない」辺り、やはり「拉致は日本政府にとって大して重要ではない」わけです。まあ、拉致は外交交渉で解決するものであってシンポで解決するもんじゃないですが。
 それにしても

国連拉致シンポ「国際社会が連携し解決」 被害者家族ら訴え オンライン開催 - 産経ニュース
 米国やタイの拉致被害者家族も参加し、家族を奪われた日々について話した。2004年に中国で失踪し、北朝鮮に拉致された疑いが強い米国人、デービッド・スネドンさん=失踪当時(24)=の兄、ジェームズさん

というのには呆れますね。
 スネ夫(スネドン君)の失踪は

デビッド・スネドン - Wikipedia参照
【1】「産経記事にも書いてあります」が、失踪時期は2004年(2002年小泉失踪より後)で
【2】失踪場所は北朝鮮から遠く離れた中国雲南省
【3】FBI、CIA、国務省と言った米国政府機関も北朝鮮拉致とは認めてない

代物です。曽我夫妻が目撃証言したルーマニアドイナ・ブンベア - Wikipedia氏などと違い北朝鮮拉致と見なせるまともな根拠は何もない。こんなバカなことをしていたらいつまで経っても拉致は解決しません。
 それにしても、産経の記事国連拉致シンポ「国際社会が連携し解決」 被害者家族ら訴え オンライン開催 - 産経ニュースが「拉致被害者、特定失踪者家族の挨拶」を「お涙頂戴」として紹介するだけで肝心の「シンポの中身(どんな人間(学者?)がシンポジストとして出席して、どんな討議がされたのか)」に触れないことには呆れます。
 この集会の本筋は建前では「シンポの討議」であって「拉致被害者、特定失踪者家族の挨拶」ではないのですが。
 「シンポそれ自体について産経が興味もなければ評価もしてないこと」がモロバレです。実際「シンポの討議は中身に乏しい」のでしょうが(まあ、この点は産経以外の拉致被害者家族 被害者の帰国実現へ国連シンポで協力呼びかけ | NHK | 拉致松野氏、国際連携呼びかけ 国連拉致シンポで救出決意:東京新聞 TOKYO Webも「似たり寄ったり」のくだらなさです)。 

 2022年2月、ロシアによるウクライナへの武力侵略が始まりました。

 「ウクライナ支援に比べて、拉致問題で国際社会は冷たい」と愚痴りたいようですが、そんなことと拉致解決と何の関係があるのか(呆)。

 「全拉致被害者の即時一括帰国」を約束すれば、私達は明るい未来を取り戻す事が出来ます。同時に北朝鮮自身も人道支援・医療支援を受ける事で明るい未来を手にする事が出来ます。

 この後に及んで「段階的帰国」を否定することにも呆れますが「俺的に」もっと呆れるのは以下の点です。
 「拉致被害者を帰国させれば本格的経済交流」ならまだわかる。
 「人道支援、医療支援(コロナ関係?)」というもんはそういう話じゃないでしょう。
 何故「国家指導者(金正恩総書記など)はともかく、庶民には罪はない。コロナに苦しんでいるのならワクチン支援しよう」という人道精神、「情けは人のためならず(相手が恩義に感じたり、世間が高評価したりすることで、自分のためにもなる)」、上杉謙信「敵に塩を送る」のような精神(なお、敵に塩を送る - Wikipediaは虚構とし、上杉謙信の美談「敵に塩を送る」実は打算だった | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュースは事実とした上で、「単なる善意ではなく、政治的打算だった」としています)がなぜ「拓也ら家族会連中」にはないのか。「ワクチン提供」を「北朝鮮に対して恩に着せ、拉致解決につなげよう」という計算すらできないのか。
 「北朝鮮に好意的とは言いがたい」米国ですら

米が北朝鮮にワクチン6000万回分の提供を打診…北大使「ファイザー製かモデルナ製か」 : 読売新聞オンライン2022.1.21
 韓国の情報機関・国家情報院(国情院)は21日、米国が国連を通じ、北朝鮮新型コロナウイルスワクチン6000万回分の提供を打診していたことを明らかにした。

バイデン米大統領、北朝鮮にワクチン提供申し出るも「反応ない」 - BBCニュース2022.5.23
 アメリカのジョー・バイデン大統領は、北朝鮮新型コロナウイルスのワクチン提供を申し出たものの、同国から何も反応がないと、訪問していた韓国で21日に明らかにした。

なのに(ただし米国に借りを作ることを嫌ってか、今のところ北朝鮮は米国の申し出に応じてない模様。中国やロシアなど別方面からワクチンを取得するとみられる)。
 まあ、家族会の場合「恩人である田中均氏に不当な攻撃を仕掛けて外務省退官に追い込んだ」り、「意見の違いだけを理由に蓮池透氏を家族会から不当除名したり」してるので俺的には「それ以前の話」で「論外」なんですが。
 拓也には心底呆れます。
 ただしこういう家族会批判を書くと

×××新選組の内閣不信任案棄権を支持・擁護・正当化することは、戦前の政党政治崩壊を肯定するに等しい愚挙だ(怒) - kojitakenの日記のコメント欄
id:suterakuso
 私が某氏について一番危険を感じるのは、おそらく、kojtakenさんがサディストと呼ぶ所以と同じまたは同種だと思うのですが、拉致被害者や犯罪被害者など、その陥れられた境遇故に、論理を突き詰めれば人としては大切にしなければならない価値から外れた主張をするに至った人を、自分自身が自分の「正しさ」として自我を守るためのプライドとするために、いとも簡単に最近の言葉でいうところのマウンティングのネタにできるところです。

id:kojitaken
 すさまじい嗜虐性ですよね。

などとkojitakenや「その喜び組連中、幇間連中、太鼓持ち連中(例:id:suterakuso)」には悪口されるわけです。
 自分らの批判(例:れいわ新選組批判など)は正当な批判扱いで、俺の家族会批判を「マウンティング」「サディスト」「嗜虐」呼ばわりする理由はさっぱり分かりませんが。
【1】「拉致被害者家族会を一切批判するな、批判自体がマウンティングだ」なら全く賛同できません。
 一方【2】「批判はしていいが、ボーガスの批判の仕方はマウンティングだ」というなら「マウンティングでない家族会批判」とやらを「お前が実際に批判をやって、見せてみろ(あるいは実際にやらなくていいので、どんなものを想定しているのか説明してみろ)」とkojitakenや「その喜び組連中、幇間連中、太鼓持ち連中(例:id:suterakuso)」には言いたい。

【参考:敵に塩を送る】
 俺の場合「その場の思いつき」で「話の本筋から離れたこと」が以下の通り、「脱線して」書かれることがありますがご容赦ください。
 なお、フィクション(通説的見解)ではあるにしても「敵に塩を送る」を美談として語り継ごうとする人々の博愛精神(?)「それ自体」は「人情家」「お涙頂戴が実は結構大好き」の俺は嫌いではありません。むしろ「そういうもの(例:落語文七元結 - Wikipediaなど)は好きである」し「そうした博愛精神」が社会をよくしていくとも思っている。
 ただしそうした「博愛精神」が「生活保護受給者バッシング」などがある「今の日本」からは失われつつあるようなのが悲しいですが。

上杉謙信の美談「敵に塩を送る」実は打算だった | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュースから一部引用
 「義」に厚い人物だったと言われる上杉のエピソードとして有名なのが「敵に塩を送る」。今川、北条による塩留めによって、塩不足に陥った甲斐国の宿敵・武田信玄に塩を送って助けたという内容だ。ただ、敵に無償で塩を送ることを本当にしたのか、疑問の声もある。実際はどうだったのか。新著『謙信越*1』を上梓した歴史家の乃至政彦氏*2が解説します。
◆乃至
 「戦国大名が敵国に無償で塩を送るなど、ありえないのでは」と疑問に思う人が多い。
 私もこれに同意するが、「だからこの逸話は史実ではない*3」と言う声や「事実は逆で、謙信はこの機に乗じて高値で売りつけたのだ」という声には、「NO」と首を横に振っている。これらは逸話の中身を確かめず、言葉への印象だけで雑感を述べているに過ぎないからだ。
 今回は、古語の基になった逸話の起源を見るとともに、史実との照らし合わせを行なって、その真偽を探っていこう。
 この古語は、徳川時代初期から幕末まで、ことわざとして使われた形跡がなく、明治から昭和の時代に定着したもののようである。近現代にかけて発刊された書籍に、道徳的美談を並べることが増え、そこで訓話の見出しとして「敵に塩を送る」の語が頻用された。こうして塩送りの“逸話”は、“古語”に変換されたのだ。
 ここで古語の「敵に塩を送る」と逸話の「塩送り」を別のものとして見ていこう。塩送りの逸話は、徳川時代の近世から明治昭和の近現代まで、どれも一貫して次の内容のようにされている。
 「今川氏真*4北条氏康が、武田信玄へ塩の輸出を禁止した。武田領の甲斐・信濃・上野の民衆は、これでとても困窮した。事態を聞いた謙信は、長年の宿敵である信玄に『私は弓矢で戦うことこそ本分だと思うので、塩留めには参加しない。だから、いくらでも越後から輸入するといい。決して高値にしないよう商人にも厳命しておく』と手紙を送った。これを聞いた信玄とその重臣たちは『味方に欲しい大将よ』と感嘆した」
 一読してわかるように、謙信は無償で塩を大量に送ってはいないのだ。また逆に高値で売りつけたりもしてもいない。それどころか、定価を厳守させるとも伝えている。そして、この決して値段を変えさせないという謙信のスタンスは、どの編纂史料でも一致している。
 これで、近年言われる「無償で送った」というリアリティのない評価も、「謙信は実は荒稼ぎをした」という異論も間違っていることがわかるだろう。これは古語からの印象論で、元の逸話だと謙信は、塩の値上げを禁止しているのだ。
 ここで考えてほしいのは、塩留めの狙いである。
 氏真の目的は、武田家領内における塩の高騰と格差の発生、そしてそこから上杉への不快感が高まるという状況を作り出すことにあった。
 それまで上杉は、武田・北条・今川の三国同盟と対立して、激戦を繰り返していた。しかし謙信のバックである近衛前久がリタイアして、京都に遁走してしまい、ただの消耗戦となってしまった。これに疲れた謙信は、東国の戦争を終わらせたいと考えていた。
 将軍就任を望む足利義昭も、彼らと和睦して上洛するよう謙信に要請していた。これは三国同盟側にも伝えられた。謙信は、北条・武田と早く和睦したがっていた。この流れを好機とみた信玄は同盟を裏切り、侵攻先を上杉領から今川領に変更することを考えていた。
 これに危機感を覚えた氏真は、塩留めを考えた。先ほど述べた通り、その狙いは、武田を内部分裂の危機に追い込み、その怒りを上杉に向けさせることにあった。
 どういうことかというと、自分たちの手で甲斐を塩不足に追い込む。すると、上杉領から信濃と上野の武田領に輸出されている塩の値段は高騰するだろう。そこには親上杉派の領主も多い。
 領民は、塩留めを実行させた顔の見えない氏真よりも、目の前で暴利を貪る商人と、その背後にいる上杉を恨むだろう。すると、長年の合戦でいがみ合っていた上杉と武田のことだから、関係修復は簡単に破綻する。
 氏真と氏康はそういう考えで、塩留めを実行したのではないだろうか。
 謙信は水面下で武田家との和睦を模索していた。これは首尾よく進み、永禄12(1569)年に一時的ではあるが「甲越和与」が成立している。
 大切な外交努力を進めている最中、謙信はつまらないことで武田家から恨みを買うわけにはいかない。このため塩留めには加わらなかった。

*1:2021年、ワニブックス

*2:著書『上杉謙信の夢と野望』(2011年、洋泉社歴史新書y→2017年、ワニ文庫)、『戦国武将と男色』(2013年、洋泉社歴史新書y)、『戦国の陣形』(2016年、講談社現代新書)、『戦う大名行列』(2018年、ベスト新書)、『平将門天慶の乱』(2019年、講談社現代新書)など

*3:敵に塩を送る - Wikipediaによれば、「史実ではない」扱いされる理由の一つは「同時代(謙信や信玄の生前)の文献」にその事実が今のところ認められないことです。「史実」と見なすという乃至氏が「敵に塩を送る」の故事が出てくる最古の文献として、上杉謙信の美談「敵に塩を送る」実は打算だった | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュースで紹介しているのも寛文5年(1665)の『山鹿語類』という後世の文献で「同時代文献ではない」。

*4:1538~1615年。桶狭間の戦い(永禄3年(1560年))での父・義元の死後、後を継ぐが、家臣であった松平元康(徳川家康)が離反し、織田信長と同盟を結ぶ。その後、勢力を増大する家康に圧迫されるようになる。永禄12年(1569年)、駿河に侵攻した武田氏や家康の攻撃に抗しきれず、掛川城を開城。この時に氏真、家康、北条氏康(氏真の義父)の間で、武田氏を家康が駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立するがこの盟約は履行されず、その後も、氏真はしばらくは今川氏復興に動いたがそれは実現できず、この時をもって戦国大名としての今川氏は滅亡した。掛川城の開城後、氏真は妻・早川殿の実家である北条氏を頼り小田原に移住。元亀2年(1571年)10月に氏真の義父・北条氏康が没すると、後を継いだ氏政(後に秀吉の小田原征伐によって改易、切腹に追い込まれるが、氏政の息子・氏直は「家康の義理の息子」ということもあり、助命され、後に秀吉に1万石を与えられ大名として復活。河内狭山藩主・北条氏として幕末まで存続した)は外交方針を転換して武田氏と和睦した(甲相一和)。これを契機に氏真は小田原を離れ、元家臣である家康を頼ったとされる。家康にとって旧国主・氏真の保護は駿河統治の大義名分を得るものであった。天正4年(1576年)3月17日、家康は牧野城主に氏真を置いたが、天正5年(1577年)3月1日に氏真は浜松に召還されている。1年足らずでの城主解任であった。牧野城主解任後の動向はしばらく不明であるが、天正19年(1591年)9月、権中納言・山科言経の日記『言経卿記』に氏真は姿を現す。この頃までには京都に移り住んだと推測される。文禄4年(1595年)の『言経卿記』には言経が氏真と共に家康の家臣・石川家成を訪問するなど、この時期にも徳川家と何らかの繋がりがあることが推測される。慶長3年(1598年)、氏真の次男・品川高久が旗本(高家)として徳川秀忠に出仕している。慶長16年(1611年)には、氏真の孫・今川範英(直房)が旗本(高家)として徳川秀忠に出仕した。義元死後、今川氏の勢力を維持できなかった氏真は暗君として描かれることが多いが、一方、武田氏滅亡後に氏真が大名として取り立てられる可能性が囁かれ、家康に仕えていた「今川氏の旧臣」の中にはそれに期待する動きがあったことが知られており、氏真が家臣達から本当に暗愚と見られていたのであれば、そのような動きは起こらない(暗君という描き方はかなり後世の脚色がある)のではないか、とする研究者の指摘もされている(今川氏真 - Wikipedia参照)