新刊紹介:「歴史評論」2月号

特集『「御家」の思想―大名家の自己認識』
詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。興味のある部分だけ紹介する。
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/
 
■『「御家」の思想と藩政改革―越後長岡藩牧野家の「常在戦場」をめぐって― 』(小川和也*1
(内容要約)
越後長岡藩と言えば「常在戦場」の家訓で有名である。この家訓が有名になったのは連合艦隊司令長官だった山本五十六座右の銘としており、揮毫を頼まれるとよく「常在戦場」と書いていたからである。そのこともあって「常在戦場」とは軍国主義的に理解されるとともに、戦争の絶えなかった戦国時代から伝わる遺訓であるかのように思われがちである。しかし長岡藩の現実を見ると実際はそのようには言えない。
・「常在戦場」と言う言葉は長岡藩が編さんした「御邑古風談」(1767年成立*2)という書物に戦国以来の家訓として出てくる。しかし、この言葉が戦国期の牧野氏から伝わる言葉だという信頼できる資料は実は何もない。単にそういう口伝があったに過ぎないのである。
・また「御邑古風談」には「常在戦場」について「武家に於ては何れの国々にても常在戦場の四字を書付けて居間の柱に張置」と言う記述が出てくるし、「常在戦場」と言う表現ではなくても「治に乱を忘れぬは古へよりの名教」(松平定信「修身録」)など、常在戦場に近い意味の言葉は幕府や他藩の書物にも出てくるのであり「常在戦場」概念は実は長岡藩独自の概念とは言い難い。
・また長岡藩においては少なくとも「御邑古風談」成立時においては「平和な時期においても戦争の備えを怠るな」と言う意味合いで藩が「常在戦場」と言う言葉を持ち出したわけではなかった。そもそもこの時期、戦争の発生を想定することは現実的ではないだろう(ただし戊辰戦争時の長岡藩士河井継之助にとっての「常在戦場」はまた別途検討する必要があると著者はしている。河井の時代には戦争は現実的な脅威だったからである)。
 「御邑古風談」が編さんされた頃、長岡藩は財政危機に見舞われており、それを克服するために家臣に質素倹約が奨励された。そして華美、贅沢に走る武士は武士らしくない堕落した武士として非難された。
 つまり「常在戦場」という言葉において「戦場」と認識されたのは「藩の深刻な経済危機」であり、「にもかかわらず質素倹約に勉めない堕落した武士」を「危機意識がない」として批判する言葉が「常在戦場」だったのである。


■『北奥大名津軽家の自己認識形成』(千葉一大)
(内容要約)
弘前藩津軽氏が自らの祖先をなんと言っていたかというのがこの論文のネタである。初代弘前藩主・津軽為信は後に盛岡藩主となる南部氏の家臣であったが、南部氏から独立、南部氏は津軽氏を討伐しようとしたがかなわなかったというのが歴史的事実である。しかし藩祖が「もともとは他藩藩主・南部氏の家臣だった」ということは津軽氏にとって「隠したい黒歴史」だったらしい。その結果、「津軽氏は南部氏とは全く関係なく、それどころか南部氏などとは比較にならないほど先祖は偉いのだ」という事実捏造をすることになる。
 「南部家が滅んだのならともかく、実在する以上無理がありすぎる」ような気がするのだが。
★捏造パターン1「津軽氏の先祖は五摂家・筆頭近衛家
 国文学研究資料館所蔵「津軽家文書」に含まれている「津軽家系図」(近衛前久の筆と伝えられる)がこの立場である。幕府が各大名、旗本の協力を得、「寛永諸家系図伝(大名、旗本の家系図集)」を作成した時に、津軽氏がした回答もこの立場である。さすがに幕府も「本当なのか?」と津軽家に問い合わせている。これに対し、津軽家は近衛家に依頼し、「津軽家先祖は猶子*3ではあるが、確かに近衛家の子どもである」との回答を作成してもらい、幕府に提出している(幕府もそれ以上、事を荒立てるわけにも行かなかったのか、それでひとまず決着している)。ただし何故か後に編さんされた日本通史「本朝通鑑」では「津軽氏は南部氏から独立した」という趣旨のことが書かれており「幕府の命令で林羅山が編さんしたという点では共通する性格がある」のに「本朝通鑑」と「寛永諸家系図伝」が食い違うという奇妙なことになったらしい。
・とはいえ幕府相手の回答に「近衛家の実子」とはさすがに書けず「猶子」としたわけである(猶子だってどう見ても嘘だが)。
★捏造パターン2「津軽氏の先祖は奥州藤原氏
 「先祖が近衛家」とか「先祖が奥州藤原氏」とか、お前そこまでデタラメな系図捏造するのか、という気がしないでもない。
 「奥州藤原氏」が先祖という立場の書物の例としては可足権僧正*4が記述した「可足権僧正筆記」があげられる。奥州藤原氏鎌倉幕府によって滅ぼされるが、傍流が生き残って津軽氏になったと言うわけだ。
 もちろん「奥州御館系図奥州藤原氏家系図)」など奥州藤原氏関係の資料にはそんな事を裏付ける資料はあるわけもなく、この説も捏造以外何物でもない。なお、この説から「源義経ジンギスカン伝説(勿論嘘)」を連想したのは俺だけではないと思う。実は、「可足権僧正筆記」では義経は「奥州平泉」ではなく「津軽氏の先祖と一緒に津軽まで落ち延びてそこで病死したこと」になってるらしい。


■『「御家」の継承―近世大名蜂須賀家の相続事情―』(三宅正浩)
(内容要約)
・阿波徳島藩・蜂須賀家は初代・至鎮、二代・忠英、三代・光隆、四代・綱通は長男相続が続いていたが四代・綱通が病死し、子どもがいなかったため直系による相続は断絶することになる。
・5代藩主となったのが蜂須賀綱矩である。綱矩は蜂須賀隆矩*5の長男である。隆矩は側室の子で、出生後すぐに家老・蜂須賀山城守の養子となった人物であり、蜂須賀一門とは言え隆矩も、その子・綱矩も家格は低かった。
 しかも綱矩藩主就任時には、蜂須賀隆重*6と言う綱矩よりも家格の高い人物がいた。
・6代藩主・蜂須賀宗員*7の母が綱矩の正室となるのが、「宗員を産んだとき」ではなく、「富田藩二代藩主・蜂須賀隆長の養子となったとき」であるのも、そうした綱矩の不安定な地位が影響していたと見るべきである。
・6代藩主・宗員の死後、7代藩主となったのは養子の蜂須賀宗英*8だった。宗英は藩主就任時、50代で正室も迎えなかったことから筆者は彼は「緊急避難的な藩主就任」であり、「宗英の子が相続すること」は最初から想定されておらず、8代藩主も養子相続が前提だったと見る。
・では8代藩主以降の相続はどうなったのか。
 まず、宗員は松平頼煕*9の次男を養子として迎え、彼に8代藩主を継がせた(8代藩主・蜂須賀宗鎮)。その上で蜂須賀吉武*10の娘・元を宗鎮の正室にすることによって「5代藩主・綱矩の血筋を残し、9代以降の藩主に一定の権威を与えよう」とした。当時においては「5代藩主・綱矩の血筋を引く者」が最も藩主にふさわしいと見なされていたことがわかる。
・しかし、元は男子を産むことなく病死。6代藩主蜂須賀宗員の次男・重矩*11が宗鎮の養子となるが、彼も家督を継ぐ前に病死してしまう。
・次に重矩の弟・重矩*12が宗鎮の養子となるが、結局、病気を理由に廃嫡されてしまう。
・結果、9代藩主は宗鎮の弟が継ぐこととなった(9代藩主・蜂須賀至央)。失敗には終わったものの、8代藩主・宗鎮が「5代藩主の血筋」にこだわったことからは、大名家において「血筋の高さ」がどれほど大きなものだったかを示していると言える。
・なお9代藩主以降も見てみる。
10代:蜂須賀重喜
 秋田藩久保田藩)の支藩・岩崎藩藩主佐竹義道の四男。つまりまた養子である。
11代:蜂須賀治昭
 10代藩主の長男。ここで実子相続に戻るわけだ。
12代:蜂須賀斉昌
 11代藩主の次男。
13代:蜂須賀斉裕
 将軍徳川家斉の二十二男。また養子である。
14代:蜂須賀茂韶
 13代藩主の次男。また実子相続に戻る。維新後は駐フランス公使、東京府知事貴族院議長、松方内閣文部大臣等を歴任。


■『近世中後期、小城藩*13主の資質・役割と「生命維持」』(野口朋隆*14
(内容要約)
・藩主の権力行使は「上(徳川幕府、ただし小城藩のような支藩の場合、本藩・佐賀藩も上に当たる)に忠義を尽くし下(家臣や領民)を慈しむ義務を果たした上での権利」として理解されていた。したがって「上への忠義」「下への慈しみ」が果たされていなければ、上によってペナルティとして「改易」「減封」などの処分がなされた。
寛永4年(1792年)、佐賀藩第8代藩主・鍋島治茂は小城藩第7代藩主・鍋島直愈を隠居させる意思を小城藩に伝えた(ウィキペによれば実際に直愈は寛永6年(1794年)に隠居し、長男・直知が第8代藩主となった)。
 佐賀本藩が直愈隠居の意思を表明したのは「有栖川宮織仁親王の江戸下向」において直愈が犯した失態のためであった。直愈はこのとき、接待経費を調達することができず、7000両の拝借金を嘆願したが、幕府はこれに激怒し、接待が終わった後に「不届き」であるとして直愈と本家の佐賀藩主・治茂を2ヶ月間の差控(登城停止)にした。これは幕府や佐賀本藩に対し果たすべき義務を果たしていないと言うことであり、佐賀藩は直愈に藩主の資格無しとして隠居させたい旨、意思表明したのだった。
・こうした状況下、小城藩は何とかして直愈によって傷ついた小城藩主の権威を高める必要があり様々な権威向上政策がとられた。この点で注目されるのは小城藩九代藩主・直堯が「藩主の温情を示すため」藩医を領内に派遣し領民の病気治療に当たらせるという従来にない新政策をとっていることである。
・しかしこうした藩医派遣政策は第10代佐賀藩主・鍋島直正が「支藩を含む佐賀藩領内で種痘を実施するにおいて、支藩藩医についても支藩を排除し直接、佐賀本藩が管理監督権を及ぼそうとしたため」挫折する。支藩には一定の独立性があったがそれは「カギ括弧付き」の独立性であり本藩の決めた枠の外に出ることはできなかった事がわかる。


■『物言う大名―松代藩第九代藩主真田幸教―』(佐藤宏之*15
(内容要約)
 真田幸教についてウィキペディアで見てみよう。

真田幸教
 若年で統率力に乏しく、しかも病気がちで、藩内で恩田頼母派と真田志摩派が争うのを制すことができず、結果として祖父・幸貫(8代藩主)が登用した佐久間象山*16などの優秀な人材を使いこなすことが出来なかった。
 文久3年(1863年)、将軍徳川家茂の上洛に際し松代藩が将軍留守中の横浜港警備を命じられると、藩内では病弱な幸教の隠居が議論されるようになる。結局伊予宇和島藩伊達宗城*17の長男・幸民が養嗣子に迎えられた。

 ということで、「なすべきことをなせなかった」と思われる幸教だが、彼の書き残した物からは彼がそれなりの政治認識を持ち、それを藩政に生かしたいとの強い思いがあったことがわかる。
 ただ筆者の指摘はそこでとどまっており、少し期待はずれというか隔靴掻痒というか。幸教の政治認識がどのようにして生まれたかとか、彼の政治認識がどう藩政に影響したかまでは分析されていない。筆者に寄れば幸教が「免職にすべし」とした家臣が必ずしも免職になってないなど、彼の思想はストレートには藩政に影響していないようだが。
(なお、免職すべしとした家臣には真田志摩、長谷川深美など真田志摩派の人物がいるため、幸教は志摩派よりも恩田派を評価していたと思われる)


■歴史のひろば「大阪人権博物館と橋下市政」(黒川みどり*18
(内容要約)
・橋下の大阪人権博物館(リバティおおさか)への態度は無茶苦茶であり、正直まともに相手できるような代物ではないのだが。あれが通用すること自体、日本の民度の低さの象徴だろう。
・筆者は橋下が「内容が暗い」等と非難したことに対し、「そもそも差別や人権の問題でただただ明るい展示などあり得るのか、差別や人権侵害は今も存在する」「そうした暗部を無視した明るさなど偽りの明るさでしかない」と批判した上で「ただ暗部を取り上げるのではなく、それと人々がどう闘ってきてどう成果を上げたのか」という希望の面もできるだけ描こうと努力してきたのであり、橋下の非難は勝手な決めつけに過ぎないとする。
・なお、筆者は橋下のこうしたリバティへの態度を「慰安婦への暴言」でわかるように「橋下が歴史捏造主義者であること」も原因の一つではあろうが、「府知事時代の国際児童文学館廃止」「市長就任後の文楽大阪市楽団への態度」などから考えるに橋下には「文化を敵視する体質があるのではないか」としている。
・筆者は橋下が「部落差別を伝える貴重な場であるリバティ」を改悪しようとしながら「週刊朝日問題」では部落問題を朝日攻撃に利用したことを「ご都合主義」「橋下氏にとって部落問題とは攻撃の道具か」「そのような態度では『部落は怖い』と言う偏見が強化されかねない」と批判した上でこうした橋下のご都合主義を許さないためにも「部落問題を伝えるリバティ」は貴重であろうとしている。


■文化の窓『韓国で考えたこと6:韓国での教科書研究』(君島和彦*19
(内容要約)
 正確にはタイトルは「韓国での日本の歴史教科書の近現代史記述研究」だろう。韓国の研究者においては「日本の歴史教科書」についてバランスのとれた研究が行われており「つくる会教科書以外にも教科書はあり、それらの教科書は問題がないとは言わないがつくる会ほど酷くないこと」は理解されているが、一般人は必ずしもそうではないという話である。
 やはり「人が犬を噛むとニュースになるが、犬が人を噛んでもニュースにならない」というのは日本だけでなく韓国も同じらしい。結果「つくる会教科書ばかりが大きく報じられる」ということになってしまうのであり、一般の韓国人への啓蒙が必要だろうという話。

*1:著書『牧民の思想―江戸の治者意識』(2008年、平凡社選書)、 『文武の藩儒者・秋山景山』(2011年、角川叢書

*2:第10代将軍徳川家治の時代

*3:養子みたいなもの。詳しくはウィキペ「猶子」参照

*4:3代藩主津軽信義の子、4代藩主・津軽信政の弟

*5:2代藩主蜂須賀忠英の四男

*6:2代藩主蜂須賀忠英の次男、後に徳島藩支藩・富田藩初代藩主

*7:もともとは富田藩二代藩主の養子となり、三代藩主に就任したが、徳島藩6代藩主になるはずだった兄・吉武の死去により、徳島藩主に就任。これを機に富田藩は藩領を徳島藩に返還し廃藩となった。

*8:蜂須賀隆喜(2代藩主蜂須賀忠英の五男)の三男

*9:高松藩初代藩主・松平頼重の孫

*10:5代藩主・綱矩の子、6代藩主・宗員の兄

*11:重矩、重矩と6代藩主に子がいるなら何故彼らがストレートに7代藩主にならないのかと、俺のような歴史素人は疑問に思ったが残念ながらその説明がこの論文にはないように思う。「病弱」ということであろうか。

*12:6代藩主蜂須賀宗員の三男

*13:佐賀藩支藩

*14:著書『江戸大名の本家と分家』(2011年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)

*15:著書『近世大名の権力編成と家意識』(2009年、吉川弘文館

*16:恩田派の重鎮。1864年河上彦斎らによって暗殺される

*17:福井藩主・松平春嶽土佐藩主・山内容堂薩摩藩主・島津斉彬とともに「四賢侯」と謳われた。明治維新後は一時、民部卿、大蔵卿をつとめた。

*18:著書『地域史のなかの部落問題―近代三重の場合』(2003年、解放出版社)、『近代部落史』(2011年、平凡社新書)、『描かれた被差別部落――映画の中の自画像と他者像』(2011年、岩波書店)など部落史に関する著書多数。筆者のこうした研究関心から本論文は部落問題への言及が多いように思うが、筆者も断っているように部落問題以外もリバティのテーマである。

*19:著書『日韓歴史教科書の軌跡:歴史の共通認識を求めて』(2009年、すずさわ書店)