小生が何とか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集『政治空間と権力構造』
◆政治空間を問題にすることの意味(森田喜久男*1)
(内容紹介)
今回、題材となっている政治空間は「篠崎論文」が「皇城(明治天皇の城)としての江戸城」に触れる物の専ら「前近代日本の政治空間」であることをまずは指摘しておきます。
したがって「ホワイトハウス(米国)」「ダウニング街(英国)」「エリゼ宮(フランス)」「クレムリン(旧ソ連、ロシア)」「中南海(中国)」「青瓦台(韓国)」といった海外の政治空間は取り上げられません。
また、「永田町(首相官邸や国会議事堂)」「霞ヶ関(官庁街)」「三宅坂(戦前は陸軍省、戦後は日本社会党及び後継政党である社民党本部*2)」「信濃町(公明党)」「代々木*3(共産党)」といった「明治以降日本」の政治空間も取り上げられません。
森田論文は古代日本の政治空間として「王宮や内裏」について触れていますが小生の無能のため、詳しい紹介は省略します。
◆藤原京から平城京へ(中村太一)
(内容紹介)
ネット上の記事紹介で代替。
藤原京、平城京、長岡京、平城京の違いとは?場所や特徴を解説! | 日本の歴史の面白さを紹介!日本史はくぶつかん
藤原京ですが、たった16年でその首都としての役目を終えてしまいます。
有力な説として、一つは衛生上の問題です。藤原京の置かれた場所の地形は南東が高く、北西が低い地形となっていました。その高低差により、汚物*4混じりの汚水などが、京の中央にある宮にまで流れやすい構造をしていたそうです。そこから考えると、疫病などが大変流行ったのではないか、という説です。
土からわかるトイレと水〜環境考古学の世界〜(2006年3月22日)松井章*5
藤原京への水の供給路は、飛鳥川一本だけです。それも、南東から北西に向かって流れています。つまり、一番南の方の人達がきれいな水を使い、北西の方に向かって汚濁が進むという地形になっている。その中間に藤原宮があるのですが、「北に宮を陣取って南に向かって政治をする」という中国の都城思想に基づいて藤原京をデザインしたのです。このため、実際に住んでみると、排水システムに欠陥があったことはすぐにわかったと思います。
つまり、中国の都城思想に、排水の思想は文字としては伝わっていなかった。このため、それを真似た藤原京の人々は、住んでみて初めて排水の不便さがわかったのでしょう。最初は壮大な都城を計画したのに、完成させずに、16年で廃絶してしまった理由は、そこにあったのだと思います。
こうした衛生上の問題が藤原京から平城京への「遷都の大きな理由であろう」と言うことは中村論文も指摘しているところです。
北に宮を陣取って南に向かって政治をするは「天子南面」と言います。
なお、藤原京の失敗から次の平城宮では
【奇跡の平城宮】「早く出世させて」発掘された役人のぼやき - 産経ニュース
第一次大極殿(だいごくでん)の周辺に立つと、地面が南へ緩やかに下っているのが分かる。
ということで「南が高く、北(王宮がある)が低い藤原京」と違い「南が低く北が高い」ことがわかります。当然こうすれば「高台にある」ので王宮に向かって汚水が流れこむことはなくなります。
https://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_bunkazai/bunkazai/mukashi_iseki/fujiwara_21.html
粟田真人(あわたのまひと)が持ち帰った最新の中国都城の情報と藤原京の実態があまりにもかけ離れていた現実といった政治的な理由も大きかったに違いありません。
702年に渡航し、707年に帰国した粟田真人ら遣唐使一行が「長安の都」を実見したことも「遷都の大きな理由であろう」ということは、中村論文にも書いてあります。
それまでは日本人で「中国の都を見た人間はなく」、周礼の記述だけをもとに想像力で藤原京を造営したがやはりそれには限界があったということです。実見したことで「藤原京」と「長安」の大きな乖離が露呈したわけです。
◆鎌倉北條氏の空間と権力(秋山哲雄*6)
(内容紹介)
【1】鎌倉幕府将軍が住んだのは大倉御所 - Wikipediaであり、多くの御家人が「大倉御所近辺」に住んだところ、北条時政(初代執権、北条政子の父、源頼朝の義父、源頼家、実朝の祖父)は大倉御所から離れた名越 (鎌倉市) - Wikipediaに邸宅を構えた。
これに対し、北条義時(二代目執権、時政の次男、政子の弟、頼朝の義弟、頼家、実朝のおじ)は他の御家人同様に「大倉御所近辺」に住んだ。
ここからは「頼朝の義父」である時政に比べ、「頼朝の義弟」にすぎない義時の権威が劣ったことが読み取れる。
【2】
北条泰時 - Wikipedia
貞応3年(1224年)6月、父・義時が急死したため、鎌倉に戻ると継母の伊賀の方が実子の政村*7を次期執権に擁立しようとした伊賀氏の変*8が起こる。伯母である尼御台・北条政子は大江広元*9と協議をして、泰時と時房*10を御所に呼んで両名を執権に任命し、伊賀の方らを謀反人として処罰した。
ということで尼将軍・政子が「御所という政治空間」の主となり、泰時の執権就任を支えました。
【3】第5代執権北条時頼は、その政治力の弱さ*11から、第4代執権経時(第三代執権・泰時の孫、時頼の兄)の居所に移住することも、また自らの邸宅を新たに御所にすることもできなかった。
時頼時代に評定衆の下に引付衆 - Wikipediaが設置されたのは、自らの側近集団として引付衆を作ることで評定衆の力を抑え込もうとする時頼のもくろみがあったと見られる。
◆室町幕府の政治空間:在京大名を中心に(松井直人)
(内容紹介)
室町幕府の在京大名について述べられていますが、小生の無能のため詳しい紹介は省略します。
なお、在京大名の残滓は地名に残っており
◆「京都市上京区畠山町」は畠山氏
→斯波氏、細川氏とともに三管領家の一つ
◆「京都市上京区武衛陣町」は「武衛家」の異名を持った斯波氏(武衛陣 - Wikipedia参照)
◆「京都市上京区山名町」は山名氏
→赤松氏、京極氏、一色氏と並んで四職家(侍所長官になれる家)の一つ。明徳の乱の山名氏清、応仁の乱の山名持豊(宗全)で知られる。
のそれぞれ「大名邸宅」があったとされます。
参考
武衛陣 - Wikipedia
武衛陣の名は、斯波義将(室町幕府管領)以降の斯波氏歴代当主が左兵衛督や左兵衛佐に任じられたため、斯波家を兵衛官の唐名である武衛に因んで武衛家と呼ぶようになり、そこから「武衛家の邸宅(陣)」即ち「武衛陣」と呼称されるようになった。
戦国期には武衛陣跡地が足利義輝、足利義昭の将軍御所である二条御所として使用されるなどしたが、前者は永禄の変(三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)による義輝暗殺)で焼失し、後者は織田信長によって解体された。
◆名護屋城*12に見る秀吉政権の空間表現(宮武正登*13)
(内容紹介)
名護屋城は朝鮮出兵の軍事拠点であったが、一方で、下記の通り、秀吉がその権力を天下に誇示する政治的パフォーマンスの場でもあった。
名護屋城 - Wikipedia
茶室で茶会を楽しんだり、瓜畑で仮装大会を催したりした。
真田丸 第26話「瓜売」 ~文禄の役と瓜畑遊び~ : 坂の上のサインボード
秀吉は名護屋城のそばにある瓜畑に諸大名を集め、「瓜畑遊び」なるイベントを催します。「瓜畑遊び」とは、現代でいうところのコスプレパーティ。この話は、江戸時代に刊行された『絵本太閤記』などの書物に登場するエピソードです。それによると、前田利家*14は高野聖、蒲生氏郷は茶商人、織田有楽斎*15は旅の老僧、そして堅物の徳川家康*16までもが、あじか*17売りを演じて周囲を大いに笑わせました。そして秀吉が演じたのは、今話のタイトルの瓜売り。菅笠に腰蓑姿で籠を担ぎ、「味よしの瓜めせめせ」と、調子に乗せて声を張り上げる姿は、もともと卑賤の出である秀吉らしく堂に入ったものだったと伝わります。
豊臣秀吉と能
豊臣秀吉は名護屋に滞在中、無聊をかこつため能道具を大坂から多数運ばせ、大和猿楽の四座*18の役者を名護屋へ下向させました。
黄金の茶室|佐賀県立 名護屋城博物館
秀吉にとって、「黄金の茶室」は自らの権威と財力を見せつけ、見る者を圧倒する、とっておきの「舞台装置」だったといえるでしょう。
この茶室が初めて史料に登場するのは、秀吉が関白となった天正13(1585)年のこと。その後、京都の御所や大坂城などで使用されています。
そして天正20(1592)年、名護屋城に着陣した秀吉は、この茶室を運ばせ、茶会や外国使節の応接に使用しています。
秀吉の「黄金の茶室」復元 名護屋城博物館:朝日新聞デジタル
黄金の茶室は、秀吉の関白就任に対する返礼と権威づけのため、京都御所での茶会に際して制作された。広さ3畳。組み立て式で、持ち運べる。朝鮮出兵の拠点・名護屋城にも持ち込まれ、1592年のスペイン使節団の歓待や加藤清正*19の家臣へのねぎらいなどで4回使われた記録がある。
名護屋城と「黄金の茶室」
黄金の茶室は肥前名護屋城において政治・外交の場で使用されました。
肥前名護屋城で、4回の黄金の茶室の使用が確認できています。
こうした行為は勿論「単なる娯楽」ではなく「ヒトラーのベルリン五輪」のような「秀吉の政治権力誇示」の意味合いもあるわけです。
まあ、「朝鮮半島の戦場」で殺し合いをやってるのは、秀吉の部下であって、名護屋城は軍事拠点とは言え「戦乱に巻き込まれる恐れがない(朝鮮側には名護屋城に逆侵攻するほどの力はない)」からこそ、暢気なわけです。
参考
名護屋城跡、認知度に課題 魅力発信へ模索続く|【西日本新聞me】2020.9.13
旧鎮西町(ボーガス注:現・唐津市鎮西町)の役場に勤めた男性(80)によると、1956年に発足した町の初代町長、名古屋経一氏が旗振り役を担った。名古屋氏は「農漁業中心の町の発展には整備が必要」などと訴え、識者と協力して設計図を作成。1962年に県教育委員会を通して国に復元許可を申請したという。
結果、天守閣の存在を示す確かな証拠がないとして許可は下りなかった。しかし、男性は別の理由もあったと考える。
「国や県の役人が『歴史的な背景もあり難しい』と言っていた。あの時代、朝鮮侵略を掲げた拠点を盛り上げることはできなかったのだろう」。
実際、町には計画に反対の声が多数寄せられたという。
「時代に阻まれた」
真偽不明ですが興味深い逸話として紹介しておきます。「ホワイト国除外」「軍艦島・世界遺産登録」の安倍(そして安倍路線をそのまま継承する菅や岸田)とはずいぶんな違いです。
◆江戸城・皇城*20の「政治空間」(篠崎佑太)
(内容紹介)
【まず江戸時代の江戸城】
政治空間といった場合、江戸時代においては「大奥」も建前はともかく事実上は政治力を持っていた政治空間ですが本論文は本丸御殿といった「老中、若年寄」等といった正規の政治官僚が活動する表の場のみ触れられている。
長い間、老中等の役職に就き幕府の政治を司るのは「旗本と譜代大名(徳川家の家臣)」であったがそれを変化させたのはペリー来航とそれに対する老中・阿部正弘(福山藩主)の政治姿勢であった。
阿部はペリー来航という政治危機に対して、薩摩藩主・島津斉彬、水戸藩主・徳川斉昭、福井藩主・松平春嶽(松平慶永)、肥前藩主・鍋島直正、土佐藩主・山内容堂、宇和島藩主・伊達宗城など有力大名から意見具申し、また、徳川斉昭を海防掛参与に任命した。このことにより有力大名が幕政に関与する道が開かれることになる。阿部の路線を否定しようと、大老・井伊直弼(彦根藩主)は安政の大獄において「永蟄居(前水戸藩主・徳川斉昭)」「隠居・謹慎(福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、宇和島藩主・伊達宗城など)」「切腹(水戸藩家老・安島帯刀*21)」「斬首(水戸藩京都留守居役・鵜飼吉左衛門、福井藩士・橋本左内など)」「遠島(水戸藩勘定奉行・鮎沢伊太夫*22など)」と阿部派と見なした人物を粛清したが桜田門外の変で井伊が暗殺されたことで、井伊のもくろみは挫折する。
その後も以下の通り「有力大名による幕政介入の動き」が続いた。
【1】1862年、島津久光(薩摩藩主・島津茂久の父)が幕府に無断で率兵上京(以前なら処罰対象となる行為だったが、弱体化した当時の幕府にはその力がなかった)。
久光の朝廷への働きかけにより、一橋家当主・徳川慶喜(後に将軍)が将軍後見職*23に、前福井藩主・松平春嶽が政事総裁職*24に、会津藩主・松平容保が京都守護職*25に任命(いずれも新設の役職。なお、安政の大獄で粛清された慶喜、春嶽が復権したことで井伊路線が完全に否定された)される(いわゆる文久の改革)
なお、話が脱線するがこの率兵上京の時に起こったのが寺田屋事件 - Wikipediaである(有馬新七など薩摩藩過激派が粛清される)。
【2】1867年、前土佐藩主・山内容堂(山内豊信)は大政奉還建白書を幕府に提出。将軍・慶喜が大政奉還を実行
【次に明治時代(皇城)】
江戸城が皇居(皇城)となってからも、江戸城は「太政官」が置かれ、天皇が政務を行う政治空間であり続けた。
なお、1888年に新たに皇居内に明治宮殿が作られ、それ以降はここが天皇を行う政治空間となった。明治宮殿は「皇居内にある」と言う意味では江戸時代とつながりがあるが、「明治以降の新設」と言う意味では、江戸時代と断絶している。
◆歴史のひろば「オリンピックとスポーツ・ナショナリズム:選手が体感した重圧」(岩立将史)
(内容紹介)
日本におけるオリンピックとスポーツナショナリズム(特に選手が感じた精神的重圧)の例として前畑秀子、古橋廣之進、遠藤幸雄*26、池田敬子が取り上げられている。
こういう場合「取り上げられることが多い円谷幸吉」は今回取り上げられていません。
参考
【前畑秀子】
前畑秀子 - Wikipedia
1914~1995年。
1932年(昭和7年)に開催された第10回大会ロサンゼルス五輪の200m平泳ぎに出場し、銀メダルを獲得。
ロス五輪後は家庭の事情もあり引退も考えたが、東京五輪誘致に奔走していた東京市長の永田秀次郎*27から「なぜ君は金メダルを獲らなかったのか。0.1秒差ではないか。無念でたまらない」と涙を流さんばかりに祝賀会で説得されるなど、周囲の大きな期待に押され、現役続行を決意する。
1936年(昭和11年)、ドイツで開かれたベルリン五輪の200m平泳ぎに出場し、金メダルを獲得(日本女性選手初の金メダル)。この試合をラジオ中継で実況したNHKの河西三省アナウンサーは、興奮して途中から「前畑がんばれ!、前畑がんばれ!」と20回以上も叫び、ラジオ中継を聴いていた当時の日本人を熱狂させた。
1964年(昭和39年)11月の秋の褒章で紫綬褒章を受章。
1990年(平成2年)日本女子スポーツ界より初めて文化功労者に選出された。
【著書】
『前畑ガンバレ』(1981年、金の星社)
『勇気、涙、そして愛:前畑は二度がんばりました』(1990年、ごま書房)
日本人女性初金メダリスト前畑秀子 NHK大河ドラマ「いだてん」に登場!【前畑秀子の歩み】
ロサンゼルスオリンピック、8月9日、女子200メートル平泳ぎ決勝には8人の選手が出場しました。0.1秒差で秀子は2位でした。1位は、オーストラリアのデニス選手でした。そのとき、秀子は1着になれなかったというくやしさは、それほど感じなかったと言っています。全力を出して泳ぎ切ったということ、そうして3分12秒4という自分が持つ日本記録を6秒も縮められたということに、この上ない満足感と喜びを感じたと言っています。
ところが、意気揚々と帰って来た秀子に、当時の東京市の市長、永田秀次郎は「なぜもう10分の1秒縮めて金メダルを取ってくれなかったんかね。わたしはそれがくやしくてくやしくてたまらないんだよ。4年後のベルリンオリンピックでがんばってくれよ。日本の女子でメインポールに日の丸を揚げられるのはあなたしかいないんだ。」と言われます。(ボーガス注:前畑の母校である)名古屋市の椙山女子専門学校へも「10分の1秒差で負けたことがくやしくてなりません。ベルリンでがんばってください。」という、たくさんの手紙が届いていました。秀子は押しつぶされるような気持ちで橋本に帰って来ます。そこにも、手紙の山が届いていました。
秀子は、今まで好きな水泳を続けてきて、ロサンゼルスオリンピックに出場することもでき、これで十分ではないかと思っていました。また、これ以上水泳を続けることが許されるのだろうか、苦しい練習に耐えられるのかと悩みました。悩み続ける秀子に決心を促したのは、生前の母の言葉でした。
「いったんやり始めたことは、どんな苦しいことがあっても最後までやり遂げなさい。」
秀子は、「ベルリンオリンピックをめざそう。」と決心します。
ベルリンオリンピックに出るからには、絶対に優勝しなければならないのです。そのためには今まで以上の厳しい練習を積み重ねるしかないのです。すさまじい重圧でした。
厳しい練習の日々を送り、3年目になった昭和10年、ベルリンオリンピックの前年です。秀子は、東京で開催された水泳競技大会で、女子200メートル平泳ぎで3分3秒6という世界記録を出します。厳しい練習の結果でした。
1936年(昭和11年)第11回ベルリンオリンピックの年を迎えました。
「いよいよ金メダルですね。」「世界記録を出したのだから金メダルまちがいなしですね。」
そんな言葉が、秀子にとてつもない重圧をかけていきます。
8月10日、女子200メートル平泳ぎ決勝の前日の夜、「早く寝ましょう。」とみんなに言われ、秀子はベットに入りますが、外国選手のタイムや泳ぎ方がちらついて、なかなか眠れなかったようです。寝付いても何度も目を覚まします。そして、決勝の日、8月11日の朝を迎えたのです。決勝が行われるのは午後3時40分、それまで、部屋で立ったり座ったり、部屋の中をうろうろと動き回ったり、冷たい水で顔を何度も洗ったりと、落ち着かない時間を過ごしたようです。すさまじい重圧に耐えながら過ごした長い時間だったのです。いよいよ決勝のときが迫ってきます。秀子は多くの方からいただいたお守りにもお願いします。
「どうか後押ししてください。」
何を思ったのか、秀子はお守りの一つを持って洗面所に行き、お守りを丸め、水と一緒に飲み込みました。
「これで神様はきっと助けてくださる。」という気持ちになったと、後になって綴っています。
優勝が決まったとき、ラジオでそれを知った兄の正一は、仏壇の父母に秀子の優勝を報告したそうです。そして、橋本の町*28は喜びで大騒ぎになり、多くの人が日の丸や提灯を持って町を練り歩いたそうです。
そのころ、表彰台に上がった秀子はメインポールに揚がった日の丸を見てぽろぽろと涙を流していました。
余談雑談(第98回)オリンピックとナショナリズム – 一般社団法人 霞関会
河西三省アナウンサーは興奮のあまり「前畑ガンバレ」「ガンバレ前畑」を二十数回繰り返し、終わると「前畑勝った」「勝ちました」「勝利です」と叫び続けた。その熱のこもった実況放送は深夜の日本を沸かせた。三位以下の順位は報じられず実況放送ではなく応援放送だとの批判もあったらしい
河西三省 - Wikipedia
河西の実況アナウンスは、翌日の読売新聞朝刊において「あらゆる日本人の息をとめるかと思われるほどの殺人的放送」と激賞された一方、「あれでは応援放送で、客観的な実況放送とは言えない」「第三位以下の選手の順位が不明で、スポーツ中継としては欠陥商品だ」といった批判も少なくなかった。河西は「放送席のそばにいた陸上(棒高跳)の西田修平*29、大江季雄*30らが『ガンバレ、ガンバレ』と声援を送っていたので、俺も一緒になって『がんばれ、がんばれ』とやってしまった」と述懐している。
【古橋廣之進】
古橋廣之進 - Wikipedia
1928~2009年。
敗戦国の日本は1948年(昭和23年)のロンドン五輪への参加が認められなかった。日本水泳連盟はロンドン五輪の水泳競技決勝と同日に日本選手権を開催し、古橋は400m自由形で4分33秒4、1500m自由形で18分37秒0を出した。これはロンドン五輪金メダリストであるジェームス・マクレーン*31の記録および当時の世界記録を上回っていた。同年9月の学生選手権では、400m自由形で自己記録を更新する4分33秒0、800m自由形では9分41秒0を出し、これも世界記録を越える記録だった。しかし、日本が国際水泳連盟から除名されている時期の記録であるため、世界記録として公認されなかった。とはいえ、敗戦直後で日本人の多くが苦しんでいる時期に世界記録を連発する古橋は国民的ヒーローであった。
1949年(昭和24年)6月には日本の国際水泳連盟復帰が認められ、古橋は8月にロサンゼルスで行われた全米選手権に参加した。古橋は400m自由形で4分33秒3、800m自由形で9分33秒5、1500m自由形で18分19秒0の世界新記録を樹立し、アメリカの新聞では「フジヤマのトビウオ」と書かれた。
1952年(昭和27年)のヘルシンキ*32五輪に出場。しかし既に選手としてのピークを過ぎていたことや、1950年(昭和25年)の南米遠征中にアメーバ赤痢に罹患し発症していたことが響き、五輪では400m自由形8位に終わった。この時、実況を担当したNHKの飯田次男アナウンサーは涙声で「日本の皆さま、どうぞ、決して古橋を責めないで下さい。偉大な古橋の存在あってこそ、今日のオリンピックの盛儀があったのであります。古橋の偉大な足跡を、どうぞ皆さま、もう一度振り返ってやって下さい。そして日本のスポーツ界と言わず、日本の皆さまは暖かい気持ちを以て、古橋を迎えてやって下さい」と述べた。
古橋廣之進 「古橋を責めないでください」-時代の不幸を思う - オリンピック・パラリンピック アスリート物語 - スポーツ 歴史の検証 - 特集 - 笹川スポーツ財団
ひとりプールに残され、コースロープに体を委ねた。広い背中がまるまり、頭が落ちた。1952年ヘルシンキ・オリンピック男子400m決勝。古橋廣之進は8位に終わった。
「日本の皆さん、どうか古橋を責めないでください。古橋の活躍なくして戦後の日本の発展はあり得なかったのであります」
実況するNHKのアナウンサー、飯田次男はあえぐようにマイクに向かって声を絞り出した。涙の絶叫であった。
「医療・医学・福祉・介護・環境の得々かわら版」:編集手帳:実況したNHK飯田次男アナウンサーの涙声をご記憶の方もあろう。
「古橋選手は戦後日本の光明でした。敗れた古橋選手を日本の皆様、どうか責めないでください」
日本が五輪に復帰した1952年(昭和27年)のヘルシンキ大会で、選手としての最盛期を過ぎていた古橋広之進さんが無冠に終わったときの放送である。
現在の目から見ると、河西アナも、飯田アナも「前畑(古橋)はメダルが取れて当然」という当時の日本社会のムードに完全に飲み込まれてることを感じて「何だかなあ」ですね。
【池田敬子】
池田敬子 - Wikipedia
1933年生まれ。1956年メルボルン*33五輪、1960年ローマ五輪、1964年東京五輪体操女子代表。1954年世界体操競技選手権(ローマ)で日本女子体操界初の金メダリストとなり、「ローマの恋人」と呼ばれた。2002年、日本体操女子で初めて国際体操殿堂入り。
【逸話】
1963年、次男を生む。翌1964年に東京五輪を控えて国民が期待していた中でのことだった。日本体操協会は「五輪があるのに出産とは何事か」と怒り、池田が「産みます。五輪でも勝ちます」と返すと、協会は「そんなことできるわけない」といい、池田は「こいつ、今に見てろよ」と闘志を燃やしたという。
1964年、東京五輪では体操女子団体で銅メダルを獲得。
【著書】
◆『人生、逆立ち・宙返り』(2009年、小学館)
ママさん選手が多い現在では完全に時代錯誤発言ではあります。
【2023.5.13追記】
1964年東京五輪体操「銅」の池田敬子さん死去 出産後活躍の先駆け - 産経ニュース2023.5.13
出産後も活躍した日本の女性アスリートの先駆けで、1964年東京五輪の体操女子団体総合で銅メダルを獲得した池田敬子(いけだ・けいこ、旧姓田中=たなか)さんが13日、死去した。89歳。広島県出身。葬儀・告別式は未定。
【円谷幸吉】
円谷幸吉 - Wikipedia
1940~1968年。1964年東京五輪のマラソンで銅メダル。しかし、1968年1月に自殺を遂げ、当時の日本の社会に大きな衝撃を与えた。
「人殺し」と記事に書かれた…円谷幸吉さんを「自殺に追い込んだ」と名指しされた元上司の遺族、出版社提訴:東京新聞 TOKYO Web2022.9.14
1964年の東京五輪男子マラソン銅メダリストの故・円谷幸吉さんを「自殺に追い込んだ」と雑誌で名指しされた元上司(故人)の長男が14日、記事は事実と異なり、父親と自身の名誉が損なわれたとして、出版元の宝島社(東京)側に計1100万円の損害賠償や謝罪広告の掲載を求め、東京地裁に提訴した。
元上司は、自衛隊体育学校・元学校長の故・吉池重朝さん。同校に所属していた円谷さんは、東京五輪で日本陸上界に戦後初のメダルをもたらし国民的英雄となったが、金メダルを期待されたメキシコ五輪前の68年1月、27歳で自死した。
訴状によると、雑誌は宝島社が2020年1月12日付で発行した「別冊宝島Special」。記事は「円谷幸吉を自殺に追い込んだ人物」と題し、メキシコ五輪前に結婚を望む円谷さんと、反対する吉池さんとのやりとりなどを実名で掲載。吉池さんについて「『独裁者』と呼ばれていた」ことや、円谷さんの葬儀では何者かが吉池さんに「人殺し!」と罵声を浴びせたことがあったとして「罵声は誰もが心に秘めていたことだった」などと記した。
提訴後、記者会見した吉池さんの長男の義雄さん(77)は「人殺しと書かれ、やり場のない怒りと悲しみを覚えた。五輪が開催されるたびに取り上げられ、孫らにもつらい思いをさせることになる」と述べた。
宝島社は「訴状が届いておらず、今の段階でお答えできることはない」とコメントしている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/1225016a7a718a3e1409da32c378e583f710076b
原告側は、円谷さんの自死の原因には諸説あり、唯一の原因といわれるような直接的な原因は特定されていないとしたうえで、重朝さんが円谷さんの自死を招いた張本人とするような記事を掲載することは、社会的評価を著しく低下させる名誉毀損だとしている。
義雄さんは、今回(ボーガス注:訴訟を)提起した理由に、「家族の存在」を挙げた。
「円谷さんが偉大だっただけに、五輪がなくならない限り、円谷さんの話は4年ごとに出てくるだろうというスポーツ評論家の記事を見たことがあります。『吉池』を名乗る子や孫、そのあとの世代でも、(円谷さんを自死に追い込んだと言われることが)ずっと続くのかなと辛い気持ちになります」
◆書評:板垣竜太*34『北に渡った言語学者・金壽卿:1918-2000』(2021年、人文書院)(評者:三ツ井崇*35)
(内容紹介)
以前、今日の朝鮮・韓国ニュース(2022年4月4日分)(副題:『北に渡った言語学者・金壽卿』) - bogus-simotukareのブログで触れたのでそれで紹介に代替。
*1:淑徳大学教授。著書『日本古代の王権と山野河海』(2014年、吉川弘文館)、 『古代王権と出雲』(2014年、同成社)、『能登・加賀立国と地域社会』(2021年、同成社)
*2:ただし社民党は今は三宅坂ではなく別の場所に移転しました。
*3:代々木駅が最寄り駅なのでこう呼ばれるが実は地名自体は千駄ヶ谷
*4:勿論、糞尿のことです
*5:1952~2015年。著書『環境考古学への招待:発掘からわかる食・トイレ・戦争』(2005年、岩波新書)
*6:国士舘大学教授。著書『北条氏権力と都市鎌倉』(2006年、吉川弘文館)、『鎌倉幕府滅亡と北条氏一族』(2013年、吉川弘文館)、『鎌倉を読み解く:中世都市の内と外』(2017年、勉誠出版)、『都市鎌倉の中世史:吾妻鏡の舞台と主役たち』(2022年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)
*7:彼自身は特に処罰されず、その後、七代目執権に就任
*8:但し、伊賀の方を排除し、泰時の執権就任をスムーズに行うための政子の陰謀説(でっちあげ説)も有力だそうです。一方で大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は「娯楽性の重視」であって、事実認定してるわけではないでしょうが、実際に伊賀の方がそうした陰謀を画策していたように描いています。
*9:公文所(後の政所)初代別当。十三人の合議制 - Wikipediaのメンバー
*10:北条時政の子。北条政子、義時姉弟の異母弟。鎌倉幕府初代連署
*11:時頼の政治力の弱さから宮騒動 - Wikipedia、宝治合戦 - Wikipediaが起こります。
*12:秀吉の死後、朝鮮出兵が中止されたために城は廃城となったと考えられており、建物は唐津藩初代藩主・寺沢広高によって唐津城に移築されたと伝わる。石垣も江戸時代の島原の乱の後に一揆の立て篭もりを防ぐ目的で要所が破却され、現在は部分が残る。
*13:佐賀大学教授。著書『肥前名護屋城の研究:中近世移行期の築城技法』(2020年、吉川弘文館)
*17:かごやざるのこと
*18:外山(とび)座(現・宝生流)、坂戸座(現・金剛流)、円満井(えんまんい)座(現・金春流)、結崎(ゆうざき)座(現・観世流)のこと(大和猿楽 - Wikipedia参照)
*21:明治12年(1879年)、維新殉難者として靖国神社に合祀(以前から拙記事で書いていますが戦没者でなくても祀る靖国は戦死者追悼施設ではない)。明治24年(1891年)、正四位を贈位。
*23:1864年、慶喜が禁裏守衛総督に転じたために廃止された。
*24:当初、春嶽には大老職が打診されたが、春嶽がこれに対して、大老は譜代大名がなるものであり、徳川一門の自分がなるべき職でないと主張したことから、急遽、政事総裁職が新設された経緯がある。
*26:1937~2009年。1960年ローマ五輪男子団体総合金メダル、1964年東京五輪男子平行棒、男子個人総合、男子団体総合金メダル、男子ゆか銀メダル、1968年メキシコシティー五輪男子団体総合銀メダル、男子跳馬銀メダル
*27:1876~1943年。京都府警察部長、三重県知事、内務省警保局長、東京市助役、東京市長、広田内閣拓務相、阿部内閣鉄道相など歴任
*29:1910~1997年。1936年ベルリン五輪銀メダル
*30:1914~1941年(ルソン島での戦闘で戦死)。1936年ベルリン五輪銅メダル
*31:1930~2020年。1948年ロンドン五輪で1500m自由形、800mリレーで金メダル、400m自由形で銀メダルを、1952年ヘルシンキ五輪で800mリレーで金メダルを獲得