今日の朝鮮・韓国ニュース(2019年6月16日分)

[社説]理念対立の克服を目指しているのに「金元鳳論争」で足を引っ張ってはならない : 社説・コラム : hankyoreh japan

 文在寅*1(ムン・ジェイン)大統領が顕忠日(国のために命を捧げた人の忠誠を称える日)追悼式典で、日帝強占期(日本の植民地時代)の独立運動家、若山金元鳳*2(キム・ウォンボン)に言及したことについて、野党が「分裂と対立の政治だ」として反発している。
 保守であれ進歩であれ、あらゆる“愛国”が集って今の大韓民国がある。その一つが金元鳳であり、(ボーガス注:後に北朝鮮の政府高官になろうが)彼の独立運動の功績は称賛されて当然だ。文大統領は金元鳳のほかにもベトナム戦の英雄」チェ・ミョンシン将軍や「ノブレス・オブリージュ」の独立運動家、石洲李相龍*3(イ・サンリョン)と友堂李会栄*4(イ・ホェヨン)についても言及した。文大統領が金元鳳に勲章を与えようとしたわけでもない。 左と右を超える愛国と統合を強調しただけだ。「大韓民国アイデンティティ」を云々して問題視するような事柄ではない。

 太字強調しましたが、「ベトナム派遣・韓国軍幹部(チェ・ミョンシン*5)のことを文大統領は英雄って言うんだ(がっかり感)」ですね。
 「韓国のベトナム戦争参戦」は「韓米同盟による集団的自衛権行使」とはされていますが、自衛権の行使とはおよそ言えない行為ですからねえ。
 いずれにせよハンギョレ記事を読む限りでは自由韓国党朝鮮日報などの非難「北朝鮮に媚びてる」云々は言いがかりの可能性大でしょう。


「朴正煕の反国家団体」韓統連の在日同胞21人が韓国に来られない理由とは : 政治•社会 : hankyoreh japan
 ハンギョレが批判するように「国家保安法指定団体」云々で訪韓できないなど全く差別と言っていいでしょう。最終的には国家保安法を廃止すべきだと思いますが、まずは指定を外し、パスポートを発給すべきですね。


親朴槿恵派重鎮議員が離党宣言…大韓愛国党と「新共和党」旗揚げへ | Joongang Ilbo | 中央日報
 未だに「親朴クネ」を標榜する国会議員がいるのかと唖然ですね。さすがに仮に「共に民主党」が政権を自由韓国党に奪還されたとしても、朴の復権はないとは思いますが。


ジャーナリストが訪朝して感じた「閉ざされた国」北朝鮮のリアル(立岩 陽一郎) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

 「閉ざされた国」のイメージが強い北朝鮮に入ったジャーナリスト立岩陽一郎さん*6が、現地でいま起こりつつある「変化」の現状を徹底取材した。

 ということで「かなり長くなりますが」立岩記事を紹介しておきます。「立岩氏の主張に概ね共感するので」特にコメントはしません。

平壌とは別の国のよう
 「あれは農地です」
 4月29日、平壌を出て南へ向かうマイクロバスの中。隣の席で、私の案内と通訳を担当してくれる対文協(朝鮮対外文化連絡協会)日本局の男性局員Kさんが、車窓から外を指さしながら滑らかな日本語で言った。
 「えっ? あれが農地……ですか?」
 Kさんの指の先にある風景が、私にはどうしても、豊穣な実りをもたらす農地のそれには見えなかった。「荒涼とした大地」という形容がふさわしく思えた。
 確かに、目の前に広がる土地に、人間が耕しているらしき部分はある。ただし、それをもって農地と呼ぶには、あまりにも貧弱なような気がした。茶色い土がむき出しになったままで、作物は影も形もない。
 肥沃ではない土地だけれども、農地として最大限に活用せざるをえない──ということだろう。厳しい食糧事情の一端を見たような気がした。
 集落とその周辺に自動車は見かけなかった。多くの国の農地に当たり前のようにある農業用トラクターも見なかったが、牛は何頭かいた。
 「平壌とはかなり違うね……」
 私は思わず口にしたが、Kさんは聞こえなかったのか、あるいは返事をする必要もないと思ったのか、反応はなかった。
 もちろん、答えてもらう必要はない。つい先ほどまで滞在していた平壌市内と、いま目の前に広がる荒漠とした地にあまりにも大きな落差があることは、誰の目にも明らかだからだ。
 平壌と郊外ではまるで別の国のようだ──。マイクロバスに揺られながら、私は2日前に入ったこの国の巨大な首都のことを考えていた。
 4月27日、北京空港から高麗航空機に乗り、2時間余りのフライトで平壌に着いた。私にとっては1年ぶり、二度目の訪朝となる。
 わずか1年で、首都は予想を大きく上回る変貌を見せていた。
 最も有名なのは、わずか半月ほど前にオープンしたばかりのテソン(大聖)百貨店だろう。
 ちなみにテソン百貨店は、この国の中でもきわだって特別な場所である。そのことは、私を見たときの客の雰囲気からもわかった。
 この国の国民(彼らは人民と呼ぶが)にとって、首都平壌に住めるということ自体がひとつの特権である。それでも平壌市民の多くは、街中で私のような外国人を目にしたとき、一瞬だが動揺して、身体が硬直しているのが何となく見て取れる。外国人にあまり慣れていないのだろうし、また、外国人に関わり合うことで不利益を被るのではないかという怖れがあるのかもしれない。
 しかし、テソン百貨店の客たちは、私や同行した日本人を見ても、まったく動じる様子がなかった。特に関心も示す風も、こちらをじろじろ見るといったことも一切なかった。
 要するに、国民のうちでも特別な平壌市民の中で、さらに特権的な人たち──つまり外国人を見ても驚かず、世界的な高級ブランド品を買えるだけの経済力を持つ富裕層──が確実に存在し、このデパートの客となっているのだろう。
少しずつだが豊かになっていく首都の特権層と、地方で貧困に悩みながら昔ながらの暮らしを送る庶民層との格差の拡大を、改めて突きつけられたような思いになった。
 私たちが北朝鮮と呼ぶこの朝鮮民主主義人民共和国の一般的なイメージは、明らかに、マイクロバスの車窓から見えている痩せた土地と貧しい農村の風景だろう。もちろん、それがこの国のいつわりない現実であるのは間違いない。
 ただし同時に、そういった農村と平壌の間に格差があり、さらに平壌市民の中に格差が生じていることもまた、現在進行形で起こっているリアルな事実なのだろう。
 これが好ましい状態だとは私も思わない。ただ、特定の地域に資本や人材を集中して国を発展させるという手法を、多くの発展途上国が採用してきたのは事実だ。いわゆる「開発独裁」である。
 東南アジア諸国、(ボーガス注:朴チョンヒの)韓国、(ボーガス注:トウ小平の)中国……など、事例は枚挙に暇がない。明治維新後の日本も同様だった。限られたリソースを首都や都市圏に重点的に投下して発展を促し、そこを引き上げることから始めて国全体の底上げを図る、というやり方だ。
 この開発独裁は、必然的に、外国から入ってくる人の流れを促進させる。最初に特定の地域の発展を促すため、海外の資本や技術を積極的に受け入れて活用していくのはいわば常道であり、さまざまな人に対しても開放的にならざるをえない。
 そのことを私は今回の訪朝で随所に感じた。
 そもそも平壌に到着する前、北京発の高麗航空の中から実感できた。CA(客室乗務員)の態度にはっきり現れていたからだ。
 高麗航空のCAが美人揃いだというのはよく言われることだが、私が1年前に訪朝したときの機内では、あまりフレンドリーではなく、素っ気ない感じだった。客と話すことを避けていたというのはやや穿った見方かもしれないが、必要最小限の会話以上のコミュニケーションを避けている風ははっきりあった。
 ところが、今回の機内では様子が一転していた……。
 離着陸のとき、CAの1人が私と向かい合って座った。せっかくなので、隣にいた在日朝鮮人の同行者に通訳を頼み、離陸時から早々に話しかけてみると、にこやかな表情で気さくな答えが返ってきたので驚いた。
──どうやって高麗航空のCAになったのですか? 
 「大学を卒業して高麗航空に入り、それからCAの専門学校に通いました」
 考えてみると私は、日本でCA志望者がどうやってその仕事に就くのかもまったく知らない。彼女の答えに気の利いたリアクションもできず、続けて尋ねた。
──高麗航空に入るのに、何か特別な資格や経歴が必要ですか? 
 「いいえ、誰でも入ることができます」
──CAの仕事はいかがですか? 
 「皆様のために尽くすことができて、とても光栄です」
 いささか大袈裟な答えのような気もするが、そう言われて乗客として悪い気はしない。まあ、先の質問に対してはこう答えるよう、マニュアルとして覚えさせられているのかもしれないが。
 CAと会話していたのは私だけではなかった。食事やお茶のサービスのとき、あるいはトイレに立つときなど、いろいろな乗客がCAに話しかけ、彼女たちも素直に答える。
 1年前とは打って変わった「もてなし」の姿勢が印象に残った。
 この変化はもちろん、高麗航空という一組織の意思によるものではないだろう。
 「対外的な開放路線へ」という国の方向性の変化をそのまま示しているはずだ。
 「歓迎ムード」は空港に着いても同じだった。
 飛行機を降り、ターミナルビルに入ってすぐのところに、空港職員の女性が2人立っていた。私と目が合うと、2人とも「アンニョンハシムニカ」(こんにちは)とにこやかに挨拶してくれた。
 これも昨年はなかったことで、従来の「冷たい国」というイメージにそぐわない。やはり、いささか驚かされた。
 いささか回想が過ぎた。マイクロバスの中に話を戻そう。
 平壌を出て3時間余り、巨大な門の前でバスは止まった。降りて門をくぐると、そびえ立つ城壁のようなコンクリートの建物がある。その中で、ようやく近づいてきた「目的の地」を踏むための最終手続きを行う。
 目的の地──それは軍事境界線*7だ。
 軍事境界線に向かうための手続きをKさんがしてくれている間、私は1年前にも行った土産物屋にまた寄ってみた。そこにもまた、明らかに変化があった。
 端的にいうと、売られている土産物が以前よりも魅力的になっていた。
 たとえば、国旗の絵と「Pyongyang」(平壌)の文字が刺繍されたキャップ帽やTシャツ。美しい朝鮮の女性を描いた絵ハガキ……。いずれも観光地によくある土産物かもしれないが、昨年はそれさえもなかったのだ(では何を売っていたのかと言われると、残念ながら思い出せないのだが、ちらりとでも買いたいと思わせるものはなかったという記憶はある)。
 明らかに外国からの観光客のことを考えて、彼らが欲しがりそうなものを置こうという意思が感じ取れた。これもまた、開放に向けた方針転換の現れだろう。
 他の観光客に交じっていくつか土産物を買い求めていると、Kさんがやってきて、「立岩さん、朝鮮人民軍の説明が始まるので来てください」と声をかけてくれた。
 私たち軍事境界線訪問者たちへの説明に立ったのは、朝鮮人民軍のファン・ミジョン中佐という人だった。昨年の説明役はもう少し若い大尉だったが、今年は中佐というかなり高位の軍人になった。
 興味深かったのは、ファン中佐が淡々とした状況説明に終始していたことだ。1年前の説明役の大尉は「卑怯なる帝国主義者の米軍は…」などと、しきりと米軍に罵倒語を冠して話していたが、今回は単に「米軍は…」だけだった。
 ちなみに、昨年も今回も、この説明で韓国軍について言及することは一切ない。その裏にはおそらく、「我々は米軍と戦ったのであって、韓国軍は単に米軍にくっついていただけの連中だ」という見方があるのだろう。
 説明が終わると、再びマイクロバスに乗って軍事境界線に向かう。
 私たちに続き、ファン中佐が「安全のためにご一緒します」と言いながらマイクロバスに乗り込んできた。傍らに、ヘルメットとサングラス姿の部下を伴っている。
 あれ? この人たち、持っているはずのものを持っていないぞ……。2人を見た瞬間、ちょっと驚いて尋ねてみた。
──中佐、ピストルを携帯していませんね。
 「ええ、昨年までは(軍事境界線で)軽武装が許されていましたが、今は非武装ということになっています。我々はピストルも持っていません」
──お二人とも丸腰で不安はありませんか。
 「南朝鮮軍(韓国軍)も武装していませんから」
 中佐はかなりリラックスした様子で質問に答えてくれた。これも、とりつく島もない感じだった昨年の案内役の大尉とは違う。
 南北とも武装していないのなら、「安全のために」付いてくる必要はないじゃないか……とちらりと思ったが、口には出さなかった。おそらく、見えないところでは双方ともしっかり武装し、不測の事態になってもすかさず対応できるよう準備しているのだろう。
 (後編に続く)

 ということで後編も紹介しておきます。

スマホが普及した「平和な独裁帝国」北朝鮮で忘れられていく日本(立岩 陽一郎) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
 海外から人や資本を受け入れる開放路線のもと、科学・情報技術の導入をどんどん進めている「独裁的改革者」金正恩。“宿敵”米国と劇的な融和を図り、中国語を学ぶ国民が増えていく彼の帝国*8で、逆に日本はなぜ存在感を失いつつあるのか。このままで日朝対話を進めて拉致問題を解決することはできるのか。
 平壤市内から38度線まで、北朝鮮を現地取材したジャーナリスト立岩陽一郎さんの訪問記、後編です。

 ということで前編の簡単な要約がまず最初に出てきて、次に立岩記事後編の紹介です。「立岩氏の主張に概ね共感するので」前編同様、特にコメントはしません。

 案内役兼通訳のKさんに頼んで、少し質問をさせてもらったが、私の問いに対する中佐の答えがあまりにも意外なものだったので、Kさんもびっくりしていた。
 私はまず、こう水を向けてみた。
──最近、金正恩委員長が米国と首脳会談を行うなど、対米交渉を進めており、その結果、名実ともに朝鮮半島に平和が実現する可能性が生まれています。
金正恩委員長は明快におっしゃっています。『米国との第3回首脳会談が取り沙汰されているが、我々の自主権を実現できないような会談には興味はない』と」
──では、仮に米国との交渉が決裂すれば、朝鮮人民軍は米軍と戦うのですか?
 この質問に対する中佐の次の答えに、私は驚いてしばし考え込んでしまった。
「もちろん、我々はいつでも(戦う)準備をしています。ただし今、我々は新しい平和な歴史のために努力しています。もし我々が米軍と戦うという決断をしていれば、すでに戦争になっているはずです」
 おや?。これは「我々は米軍と戦争をしない」という意味なのか?
 首をひねっている私を、中佐は「さあ、次は展望台に行きましょう」と促すと、マイクロバスに向かった。
 私はKさんと目を見合わせた。彼も驚きの表情を浮かべていた。
「今の話は、つまり『米国と戦争をしない』という意味だよね?」と私が確認すると、Kさんは言葉少なに「いやぁ、驚きました」とだけ答え、やれやれという表情で首を小さく振ってこう漏らした。
 「まったく、立岩さんの通訳は命がいくつあっても足りませんよ」
 Kさんがしきりとスマホをいじっているので、雑談交じりに聞いてみた。
──Kさん、スマホはいつもメールのやり取りに使っているんですか?
「ええ、メールにも使いますよ」
──他には何に使う?
「もちろん電話に使いますし、写真を撮ったり、辞書機能を使ったり……。あと、ゲームもできます。私はやりませんけど」
──いろいろなことをスマホで検索して調べたりもしますか?
「はぁ? 検索って何ですか?」
 Kさんはきょとんとして首を傾げている。なるほど、そうか……と私は思った。要するに、この国では一般にインターネットへの接続はできないのだ。メールの送受信には対文協のイントラネットを使っているらしい。
 それ以外はあまり日本と変わらないのだろうか。カメラ機能もよく使われているようだ。少なくとも平壌市内では、スマホで写真を撮る人々の姿は珍しくない。
 Kさんにゲームアプリも起動してもらった。ざっくりした印象は、「スーパーマリオ」の朝鮮版という感じだった。
 実は、今回の訪朝で最も驚いたのは、ホテルでWi-Fiサービスが始まっていたことだった。私が宿泊したのは「ポトンガン(普通江)ホテル」という外国人用の高級ホテルだ。
 だからWi-Fiは外国人向けサービスと言ってよい。ただし、1年前は存在していなかったものだ。
 ホテルのWi-Fi経由で、いったい何につながるだろうか。さっそく試してみたが、まず、グーグルはつながらない。これは中国も同じだが、使用が規制されているからだ。
 すぐに読めたのはヤフーニュースだった。記事が次々と入ってくる。
 LINEはどうだろうか? 毎週、コラムを書かせてもらっている日刊ゲンダイの米田龍也文化部長にメッセージを送ってみた。
 すぐに米田氏から「おー、平壌で繋がるとは!」とメッセージが届き、その直後、10分の接続時間が終わった。
 限定的にではあるにせよWi-Fiが使えるようになったことも、この国の確かな変化の1つだと思う。しかし、その見方には次のような批判もあるだろう。
 「Wi-Fiが使えるようになったといっても、外国人が一部のホテルで使えるようになっただけではないか。そんな些細なことの何が変化なのか?」
 日本のように、常に膨大な情報が飛び交っている社会と違い、この国では、ごく小さな事象の背後に巨大な潮流が隠れていることが少なくない。上記のような批判に対しては、「些細な変化に注意を払わぬ者は、重要な変革のサインに目を閉ざしており、いつまでもこの国をきちんと見ることはできないだろう」と応じるしかない。
 当然ながら、Wi-Fiのたった一事をもって、国が改革と開放へ向かって全面的に舵を切ったとまで断言するつもりはない。ただ、科学技術や情報技術の導入・教育にかなり力を入れ始めていることは、他でも実感した。
 私は今回、保育士と小学校教諭を養成する平壌教員大学も視察したが、そこでは学生たちが、CGを駆使した授業の進め方を学んでいた。
 このように、国の方針として科学技術に力を入れているとは言っても、実際には単なるポーズではないかと疑問視する人がいるかもしれない。海外からの来訪者にアピールして、科学技術推進のイメージを刷り込もうとしているだけではないのか、と。
 それに対しては、「まだ一部ではあっても、変化が起きていること自体には注目する方がよいのではありませんか」と答えたい。
 この国が科学技術や情報技術の推進に力を入れようとしているという事実を、見過ごしてはならないと私は思う。さらに、そういった実態のみならず、科学・情報技術の推進という方向性を外にアピールしたがっていることも注意しておくべきだ。
 もちろん、短期間のうちに全面的にその路線に進めるほど、国力に余裕があるわけではないだろう。特に地方の貧困状況は、本稿の前編で述べたように、幹線道路を行くバスの窓外を見てすぐに感じ取れるほど厳しい。
 国の人口約2400万人のうち、平壌市のそれは約260万人、ほぼ1割だ。ざっくり考えて、仮に平壌の市民が比較的良い暮らしができているとしても、それ以外の人口の約9割は苦しい生活を強いられていることになる。
 ただ、開発独裁とは、そういう一極集中の状態から始まるのが常だ。この先の国全体の行方を考える上で、部分的にでも始まった変化を無視してはならない。
■日本語を学ぶ人がいなくなった
 結局、いつまでも旧態依然たる視線でこの国を見ていると、日本の国益が損なわれるという結果を招く。
 訪朝した外国人は、原則として必ず、建国の指導者である金日成(初代国家主席)の生家に行くことになっている。私も今回訪ねたが、そのとき、日本語で説明してくれる女性ガイドのリ・チャンヨンさんがこんなことを言っていた。
 「今、日本人はほとんどここに来ませんから、私の日本語は錆びつきそうです」
 中国語も話すリさんは毎日、中国からやってくる多くの訪問者の対応に忙しい。逆に、日本語を話す機会はほぼなくなっているということだった。
 訪朝してくる日本人が少ないだけではない。この国の人々が日本に行く機会も当然ながら皆無だ。たとえば、流暢な日本語で通訳を務めてくれた対文協日本局のKさんも、日本に来ることはできない。
 Kさんは学生時代に日本を訪ねた経験があるという。しかし、1991年に対文協に入った後は一度も訪日していない。したくでもできないのだ。
 なぜか。それは日本政府が制裁措置として、この国の国籍を持つ者の日本入国を禁じているからだ。
 そういう事態が続けば続くほど、両国が対話できる可能性はどんどん先細りしていく。同時に、この国における日本の存在感も失われていく。
 この国の政府内で日朝関係を前進させようとしているのは、まぎれもなく、対日政策を遂行する担当者たちだ。しかし、誰もどうやっても日本に行けず、日本からの訪問者もいないとなっては、彼らの政治的発言力は確実に弱まる。日本について学んだり、日本に関する仕事をしたりする意味も薄くなって、日朝関係の改善など望むべくもなくなる。
 そういう現状を象徴するエピソードがある。政府の対日政策担当者たちの大半は平壌外国語大学を卒業しているが、実はしばらく前、同大学の日本語学部が廃止されてしまったのだ。定員を満たせなくなったからだという。
 当然だろう。日本語を学んでも、日本との関係が断たれている上、訪日もできず、対日問題の専門家としてキャリアを築く望みも持てない。学ぼうという若者がいなくなるのも無理はない。
 ちなみに、今回私の面倒を見てくれたKさんら対文協の2人の職員は、共に子供が平壌外国語大学に進学している。ただし、いずれも中国語を学んでいるという。
 私が訪朝から帰国してまもなく、東京新聞が「北朝鮮、入国禁止解除を要求 日朝会談へ条件」と題した北京発の記事を報じた。
 安倍晋三首相が言及した日朝首脳会談へ両国の交渉を進めるには、対日政策担当者などの日本への入国禁止を解除するのが条件だと「北朝鮮関係筋」が語った──という趣旨の記事だが、私はこれを読んで違和感を禁じ得なかった。。
 というのも、この記事で入国禁止を解除せよと話している「北朝鮮関係筋」とは、金正恩政権の重要な意向を伝えるキーパーソンなのか、それとも対日政策担当者の誰かなのかが明確でないからだ。後者であれば、発言内容は今までも対日政策担当者がよく語ってきたもので、それをもって金正恩政権が日本に新たな要求を突きつけてきたかのように報じるのは、ミスリーディングである。
 残念ながら、東京新聞の記者に話した「北朝鮮関係筋」は後者である可能性が高い。なぜなら、対日政策担当者の政府内での発言力は低下し始めているからだ。今の状況で、金正恩政権が全体として日本に熱い視線を向けている気配はまったくなく、したがって、政権の意向を受けた高位のキーパーソンが入国禁止の解除を訴えるとは考えられない。
 安倍晋三首相は、「日本人拉致問題の解決につながらない限り、北朝鮮と対話すべきではない」としてきた以前の主張を変えて、最近、「無条件での日朝首脳会談」を実現しようという意欲を示している。遅すぎたとは思うが、適切な判断だろう。
 まだ間に合う。金正恩政権には、対日政策を担うことのできる人材が(これまでの主流的な地位から滑り落ちつつあるが)まだ存在する。彼らを通じて日朝対話を始めるべきだ。
そのためにはまず、互いをよく知ることが第一歩になる。

日本では今も「北朝鮮は貧しい国だ」「北朝鮮はひどい国だ」「北朝鮮は恐ろしい国だ」といった情報ばかりが流されている。いずれも事実かもしれない。しかし、それだけが事実のすべてではない。
 その後、「北朝鮮の対米交渉担当者が処刑された」「強制労役をさせられている」といった情報が流れた。本稿執筆時点でその真偽はわかっていない*9が、こうした情報が確認されることのないまま、「恐ろしい国」、「貧しい国」のイメージと重なって日本人の意識に定着する。その前に、まずは事実関係を押さえた上で状況を冷静に見るべきだ。
 今回、平壌滞在中に会った政府機関高官がこう言っていた。
「『科学技術を高めつつ、金日成主席、金正恩総書記の教えを徹底する』というのが金正恩委員長の指示です」
 要するに、「改革やイノベーションを進めながら、国民に対する思想統制を強める」という意味だろう。一見、前半と後半が矛盾しているようだが、この国の論理ではそうではない*10
 民主主義ではない政治体制で、アクセル(開放路線や科学推進路線)とブレーキ(思想統制)のバランスを取りながら進んでいく──というのが、良いか悪いかは別として、実際のこの国のやり方なのだ。それを是非論で判断するだけでは、実情をきちんと理解するのは難しい。
 厳しい貧困や民主的体制の欠如など、深刻な問題は根強く存在している。しかしその一方で、開発独裁の方針のもと、開放路線の進展や科学・情報技術の導入の動きも確かに萌芽を見せ始めている。
 さまざまな最新状況をよく見て、かの国がどこへ向かおうとしているのか、何を欲しているのか、我々とどこで妥協し合えるのかを考え、対話を試みる。そういった着実な作業を続けていく先に、日朝首脳会談の実現や拉致問題の解決についても、光明が少しずつ見えてくるはずだ。
(了)

*1:盧武鉉政権大統領秘書室長、「共に民主党」代表を経て大統領

*2:1898~1958年。義烈団・朝鮮義勇隊で活動し、大韓民国臨時政府の光復軍副司令官となる。日本の敗戦後、1948年に民主主義民族戦線などで活動しながら、金奎植(大韓民国臨時政府で外相、文相を歴任。朝鮮戦争時に北朝鮮に渡り(ただし韓国は拉致と主張)1950年に病死)・金九(大韓民国臨時政府で内務相、大統領を歴任。1949年に李承晩派によって暗殺された)などと共に南北連席会議に出席した後、韓国に戻らず、北朝鮮に残留。北朝鮮社会主義政権が樹立された後は、国家検閲相、労働相、朝鮮労働党中央委員、最高人民会議常任委員会副委員長などを歴任した(ウィキペディア「金元鳳」参照)。

*3:1858~1932年。満洲に亡命し、軍事拠点である軍政府を設立し活動。1962年、建国勲章独立章が追叙され、大邱の達城(タルソン)公園に記念碑が建てられている(ウィキペディア「李相龍」参照)。

*4:1867~1932年。黑色恐怖団、南華韓人青年聯盟の指導者(ウィキペディア「李会栄」参照)。

*5:1926~2013年。朴正煕による軍事クーデターで樹立された軍事政権で幹部として抜擢され、ベトナム戦争ではベトナム派遣軍最高司令官を務めた。一方でテコンドーの普及に広く貢献し、大韓テコンドー協会の初代会長に就任した。また駐ブラジル大使、スウェーデン大使、ギリシャ大使を歴任した(ウィキペディア「チェ・ミョンシン」参照)。

*6:NHKテヘラン特派員、社会部記者、国際放送局デスクとして主に調査報道に従事。「パナマ文書」の取材を中心的に関わった後にNHKを退職。現在は認定NPO「ニュースのタネ」編集長、公益財団法人「政治資金センター」事務局長(アマゾンの著者紹介による)。著書『NPOメディアが切り開くジャーナリズム:「パナマ文書」報道の真相』(2018年、新聞通信調査会)、『トランプ王国の素顔』(2018年、あけび書房)、『ファクトチェックとは何か』(共著、2018年、岩波ブックレット)、『トランプ報道のフェイクとファクト』(2019年、かもがわ出版)、『ファクトチェック最前線:フェイクニュースに翻弄されない社会を目指して』(2019年、あけび書房)

*7:まあ現実的には国境でもあるわけですが。

*8:やや揚げ足とり的ですが「北朝鮮の最高権力者」は皇帝ではない(党委員長や国務委員長)し、「独裁的国家なら中国やベトナムのような共産党独裁も、サウジやカタールのような王制も、エジプトのような軍事政権も帝国と呼ぶのか?」つう問題があるので「帝国」呼ばわりは不適切でしょう。

*9:その後、『処刑されたはずの担当者が表舞台に姿を現した』ため、デマだと判明しました。

*10:議会があるとは言え天皇主権で「100パーの民主主義ではない政治体制」戦前日本も『科学技術を高めつつ、教育勅語軍人勅諭など天皇崇拝の教えを徹底する』なので俺的に特に違和感はないですね(勿論「賛同する」という意味ではなく「理解できる」という意味です)。