黒坂真に突っ込む(2020年1月22日分)

◆黒坂ツイートにコメント

黒坂真リツイート
 中野顕さん。日本共産党フランス革命が女性の人権を守る思想の源と見なすのですか。マリー・アントワネット公開処刑されていますよ。
◆中野顕
【女性にも人権がある】この思想の源流はフランス革命。人権宣言が採択された時、女優オランプ・ド・グージェが、「この人間の中には女性が含まれていない」と批判し、17ヶ条の「女性の人権宣言」を発表しました。「女性は生まれながらにして自由であり、権利において男性と平等である」と。(続く)

 頭痛がしてきますね。中野氏がツイートで紹介したオランプ・ド・グージェの事を知ってる人間*1にとっては黒坂ツイートは噴飯物でしょう。
 あるいはウィキペディア「オランプ・ド・グージェ」を読むだけでも「グージェはルイ16世夫妻の死刑に反対したためロベスピエールら死刑賛成派に敵視され反革命罪の言いがかりで処刑された(いわゆるロベスピエール粛清の犠牲者の一例が彼女)」という記述があるため、黒坂ツイートの馬鹿馬鹿しさは分かります。
 ただし、中野ツイートだけでも、つまり「オランプ・ド・グージェについてよく知らなくても」、まともな読解力があれば黒坂のような非難が成り立たないことは分かります。
 中野ツイートだけでも「ロベスピエールらがつくった人権宣言」を「男女平等の観点がない」といって批判した人間がグージェだということはわかります。
 そうした指摘をする中野氏が「フランス革命は何一つ問題点がなかった」などとは思ってないことは明白です。したがってまともな人間なら黒坂のような非難はしない。改めて「黒坂がまともな人間ではないこと」がよくわかります。
 なお、中野氏は

◆中野顕
【女性に参政権を】この思想の源流は、フランス革命直後、イギリスの作家、メアリ・ウルストンクラフト*2。「ルソー*3でさえ男目線で『理想の女性像』を語る」と啓蒙思想の弱点を批判し、「女性に参政権を。経済的精神的自立を。教育を受ける権利を」と訴えました。フェニミズムの祖と呼ばれます。(続く)
◆中野顕
‏【平等の州】女性参政権の始まりは1869年、アメリカのワイオミング州議会。鉱山で働く労働者が増える中で、奴隷制反対の活動家のエスター・モリス(裁縫屋、後に判事)が議会に提案し、可決されました。女性陪審員、女性判事*4、女性知事*5もワイオミングが最初。「平等の州」と呼ばれています。(続く)
◆中野顕
【国として女性参政権が実現したのは、ニュージーランドが最初】普通選挙権獲得で労働者を守る法律が実現するもと、キリスト教の活動家キャサリン・シェパードが「男が酒を飲むと女性にハラスメントをする。女性を守る法律を」と女性の3分の1から署名を集め、1893年女性参政権が実現しました。(続く)
◆中野顕
‏【ヨーロッパで最初に女性参政権を実現したのはロシア支配下フィンランド】1905年、日露戦争でロシアが負けた時、独立を求め労働者が立ち上がりました。53万筆の署名とゼネストで、自治権普通選挙権と一緒に女性参政権が実現。35歳の女性首相が誕生した背景にはたたかいの歴史があります。(続く)
◆中野顕
‏【日本の女性運動の草分け】岡山の福田英子さんが自由民権運動で「男女同権」を主張し、キリスト教矯風会の矢島楫子さん*6が「一夫一婦制」「売春禁止」を訴えました。1911年には、平塚らいてうさん*7が「原始、女性は太陽だった」と「青踏」をつくり、女性参政権公民権、結社権を主張しました。(続く)
◆中野顕
【世界人権宣言】1948年、国連で採択。「すべての人は法の下に平等」「男女同権」「性による差別を受けない」がうたわれました。起草委員会委員長はエレノア・ルーズベルト*8。女性です。宣言の承認が国連加盟の条件となり、1940年に52ヵ国(36%)だった女性参政権は、2010年には189ヵ国(99%)に。(続く)

というツイートも別途していることを指摘しておきます。彼はそもそも「欧米民主主義運動に女性人権思想の起源がある」としておりフランス革命だけを高く評価しているわけではありません。黒坂が「メアリ・ウルストンクラフト」、「エスター・モリス」、「キャサリン・シェパード」、「福田英子、キリスト教矯風会の矢島楫子、平塚らいてう」「エレノア・ルーズベルト」などに触れた中野ツイートに気づかなかったと見るのは不自然ですので、黒坂の行為は明らかにためにする言いがかりですね。

参考

◆オランプ・ド・グージュ(1748~1793年、ウィキペディア参照)
フランス革命においてはすべての女権拡大論者は過激論者と見なされたが、彼女は女権拡大以外の主張では政治思想的には穏健主義者であったと見なされている。
 政治的立場を後世から推察するのは困難であるが、マリー・アントワネットに女権宣言のパンフレットを手渡したり、ヴァレンヌ事件(国王一家逃亡未遂事件)以後も国王一家を弁護し死刑に反対したり、政権獲得前のジロンド派を支持したり、ダントンを称賛したりした彼女の言動から考えれば、イギリス型の議会政治に近い、立憲君主制を支持していたと考えられている。何れにしても、反女権論的姿勢の強いロベスピエールジャコバン派指導者)とは敵対し、上流階級への憧れも強かったので、ジャコバン派には同調しなかった。
◆生涯
 肉屋の父ピエール・グーズと、安物の装身具の行商人の母アンヌ・オランフ・ムイセとの間に生まれる。彼女は自分をある貴族の落とし子であると信じていたが、本当のところは分かっていない。彼女は自身が平民であることに不満を覚えており、上流階級へ強い憧れを抱いていた。パリへ行くと彼女は上流社会へ入り込もうと画策し、その手段として金持ちの商人の妾となることを選んだ。その美貌から、何人もの男たちと交際し、資金的援助を得ていた。彼女は1788年には8万リーブルの財を成したが、年齢的な限界を感じると、文筆活動へと転向した。彼女は十分な教育を受けてないため、自身の署名すらおぼつかなかったので、執筆は全て口述筆記によるものであったが、分野は戯曲、小説、政治的パンフレットと多岐に渡り、非常に多産であった。
◆女権運動家としての活動
 フランス革命勃発後は、女権運動を開始して、女性新聞を創刊し、 女性のための第二国営劇場の建設などを計画した。そしてフランス語では「人間」を意味する言葉は同時に男性を意味するため、『人間と市民の権利の宣言(人権宣言)』の中の「人間」には女性が含まれていないと考えて抗議運動を始める。
 1791年憲法では実際に女性の権利は無視されていたことから、自ら17条から成る『女性および女性市民の権利宣言(女権宣言)』を作成し発表した。彼女は公然とジャコバン派ロベスピエール*9やマラー*10を批判し、ジロンド派を支持した。またジャコバン派でもロベスピエールやマラーに比べ、穏健派のダントン*11は評価した。
 1792年12月15日、彼女はルイ16世の裁判に先立ち、彼の弁護をしたいと国民公会に申し出たが却下された。これが原因で彼女は王党派と疑われ、家には国王の死刑に賛成する人間が押し掛けて脅迫を受けた。また女権伸張論を快く思わないジャコバン派は彼女の行動を非難したが、彼女は問題にしなかった。
 1793年7月20日、彼女はロベスピエールジャコバン派を批判するポスターを貼る準備の最中に、反革命罪容疑で逮捕された。共和制、立憲君主制のどちらの政権を選ぶか国民投票にすべきと呼び掛ける本を著したことによって反革命的と見なされた。11月3日に裁判が行われたが弁護士が出席せず、代わりの弁護士を付けることを願い出たが却下され、彼女が自身の弁護を行った。彼女は無罪を確信していたが、王政復古を企てたとして有罪判決が下り、同日午後4時に処刑された。
◆死後
 2003年、オランプを記念して、パリ3区に「オランプ広場」が設置された。
◆参考文献
・アラン・ドゥコー*12『フランス女性の歴史3:革命下の女たち』(1980年、大修館書店)
・オリヴィエ・ブラン*13『女の人権宣言:フランス革命とオランプ・ドゥ・グージュの生涯』(1995年、岩波書店
・オリヴィエ・ブラン『オランプ・ドゥ・グージュ:フランス革命と女性の権利宣言』(2010年、信山社

*1:そう言う人間は日本では少ないでしょうが。小生も彼女のことを知りませんし(今回初めて知りました)。

*2:1759~1797年。著書『ウルストンクラフトの北欧からの手紙』(法政大学出版局)、『女性の権利の擁護』(未来社)。小説『フランケンシュタイン』の著者メアリー・シェリー(1797~1851年)の母としても知られる(ウィキペディア「メアリ・ウルストンクラフト」参照)。

*3:著書『学問芸術論』(岩波文庫)、『言語起源論』(岩波文庫)、『孤独な散歩者の夢想』(岩波文庫光文社古典新訳文庫新潮文庫)、『社会契約論』(岩波文庫光文社古典新訳文庫白水Uブックス)、『政治経済論』(岩波文庫)、『人間不平等起源論』(岩波文庫光文社古典新訳文庫講談社学術文庫、中公文庫)など

*4:エスター・モリスのこと(ウィキペディアエスター・モリス」参照)

*5:ネリー・ロスのこと(ウィキペディア「ネリー・ロス」参照)

*6:女子学院初代院長、日本キリスト教婦人矯風会初代会頭(ウィキペディア「矢島楫子」参照)

*7:日本婦人団体連合会初代会長、国際民主婦人連盟副会長、世界平和アピール七人委員会委員など歴任(ウィキペディア平塚らいてう」参照)

*8:フランクリン・ルーズベルト大統領夫人

*9:テルミドールのクーデターにより失脚し処刑された。

*10:ジロンド派支持者のシャルロット・コルデーによって暗殺された(コルデーには死刑判決)

*11:後にロベスピエールと対立し、収賄容疑で処刑された。

*12:著書『フランス女性の歴史1:ルイ14世治下の女たち』、『フランス女性の歴史2:君臨する女たち』、『フランス女性の歴史3:革命下の女たち』(以上、1980年、大修館書店)、『フランス女性の歴史4:目覚める女たち』(1981年、大修館書店)、『ナポレオンの母:レティツィアの生涯』(1999年、潮出版社

*13:著書『150通の最後の手紙:フランス革命の断頭台から』(1989年、朝日選書)