新刊紹介:「歴史評論」2022年3月号

 小生が何とか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
◆特集『変革期の社会と宗教:前近代の日本から』

日本宗教史懇話会: 2021年度(第5期第1回通期29回) 日本宗教史懇話会サマーセミナー(オンライン開催)のご案内
2021年8月21日(土)
午後の部(14:00~18:00)
14:05~14:35  岡野浩二(国学院大学)「奈良・平安・鎌倉時代定額寺」 
14:40~15:10  水口幹記(藤女子大学)「陰陽道宿曜道別立隆盛の淵源―〈術数文化〉の視点から―」                                   
15:20~15:50  近藤祐介鶴見大学) 「戦国時代の宗教を見る視点ー修験道から考えるー」                                  
15:55~16:25  伊藤聡 (茨城大学) 「中近世移行期における吉田神道の意義」

をもとにした記事です。


◆奈良・平安・鎌倉時代定額寺(岡野浩二*1
(内容紹介)
 奈良・平安・鎌倉時代定額寺 - Wikipediaについて論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。


陰陽道宿曜道別立隆盛の淵源:〈術数文化〉の視点から(水口幹記*2
(内容紹介)
 陰陽道宿曜道について術数文化(天文学、暦学)に影響を受けているという点では共通点があるとした上で、陰陽道宿曜道の違いを「陰陽道道教陰陽五行思想)に強い影響を受けている」のに対して、「宿曜道」が

空海・円仁・円珍らが伝えた仏教経典『宿曜経』に影響を受けている(宿曜道 - Wikipedia参照)

ということで「仏教に強い影響を受けている」と指摘。その結果、陰陽道宿曜道は別の思想として成立したと主張している。


修験道から見た戦国仏教(近藤祐介*3
(内容紹介)

◆湯浅治久*4『戦国仏教:中世社会と日蓮宗』(2009年、中公新書)

など、「法華宗真宗は誕生した鎌倉時代にはまだ普及しておらず、広く普及、庶民に定着したのは戦国時代であるため、鎌倉仏教と呼ぶよりは戦国仏教と呼ぶべき」とする主張がまず紹介される。
 その上で戦国仏教論がもっぱら「法華宗真宗」をテーマにしており、その他の仏教への言及が手薄なことを指摘。
 「天台宗・聖護院」や「真言宗醍醐寺」を本山とするため、仏教の一種と見なすことが出来る「修験道」を取り上げて、戦国時代での「修験道の普及」を「天台宗真言宗」の「戦国仏教化(大衆化)」と評価している。

参考

修験道 - Wikipedia
 江戸幕府は、慶長18年(1613年)に修験道法度を定め、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないこととした。本山派は天台宗寺門派園城寺末の聖護院を本山とし、当山派は真言宗総本山醍醐寺塔頭三宝院を本山とするように、いずれも仏教教団の傘下で活動した。
 明治元年(1868年)の神仏分離令に続き、明治5年、修験禁止令が出され、修験道は禁止された。里山伏は強制的に還俗させられた。また廃仏毀釈により、修験道の信仰に関するものも破壊された。修験系の講団体のなかには、明治以降、仏教色を薄めて教派神道となったものもある。御嶽教扶桑教、実行教、丸山教などで、教派神道にもかかわらず不動尊真言や般若心経の読誦など神仏習合時代の名残も見られる。


◆中近世移行期における吉田神道の意義(伊藤聡*5
(内容紹介)
 吉田神道の画期性がいくつか指摘されている。
1)それまでの神道が「仏が主、神が従」であったのに対し、吉田神道は「神が主、仏が従(仏の本質は神である)」とした
 ただし吉田神道は「神仏分離」までは主張しておらず、その結果、明治維新神仏分離によって攻撃対象の一つとなります。
2)それまでの神道においては「人が神となること」は「死後、長い年月を必要」とし、また多くの場合「怨霊の鎮魂(例:藤原氏との政治抗争に敗北して失意のうちに死去、怨霊となったとされる菅原道真)」が目的だった。しかし、吉田神道によって「豊国大明神」として「豊臣秀吉」は死後すぐに「神となること」ができた。こうした吉田神道による「豊海秀吉の死後すぐの神格化」は「徳川家康の神格化(東照大権現)」「靖国神社(一般兵の神格化)」と言う形で後世にも影響を与えた(ただし東照大権現自体は吉田神道ではない)
3)また、小川剛生*6兼好法師徒然草に記されなかった真実』(2017年、中公新書)など、近年の研究では吉田兼好徒然草の作者)について「吉田兼倶吉田神道創始者)の先祖」と長く理解されていたのは、「吉田神道を権威づけるための吉田兼倶が行った偽書作成」によるもので「事実ではない」と理解されている。吉田兼倶は「偽書作成の先駆者」であったと評価できる。
 なお、吉田兼倶(1435~1511年)以降の偽書制作者として、筆者は

多田義俊(1698~1750年)
 多田満仲*7の末裔を自称した国学者
 多田義俊は『古事記序文』『先代旧事本紀』について偽書説を主張したことで知られる。これについては
多田義俊 - Wikipedia古事記 - Wikipedia先代旧事本紀 - Wikipedia参照
◆藤貞幹(1732~1797年)
 偽書南朝公卿補任』の作者とされる人物
◆椿井政隆(1770~1837年)
 馬部隆弘*8『椿井文書:日本最大級の偽文書』(2020年、中公新書)で知られるようになった偽書『椿井文書』の作者
 これについては『椿井文書―日本最大級の偽文書』/馬部隆弘インタビュー|web中公新書「日本最大級の偽文書」か 郷土史の定説ひっくり返るかも…京都・山城の古文書|文化・ライフ|地域のニュース|京都新聞参照

をあげています。

【参考:藤貞幹】

藤貞幹 - Wikipedia
 水戸藩彰考館に招かれて『大日本史』編纂にも関与している。発掘された出土品などを吟味して厳密な考証の必要を唱えて記紀の記述と言えども無条件でこれを支持すべきではないと主張し、神武天皇の在位を600年繰り下げて神代文字の存在を否定した『衝口発』を著すが、これが国学者達の反感を買い、特に神武天皇(泰伯(中国・春秋時代の国家である呉の建国者)の子孫であるとした)や素戔嗚尊(その正体を新羅の国王であるとした)の問題については本居宣長が『鉗狂人』を著して貞幹の考証が杜撰であると主張し、逆に上田秋成が貞幹を擁護して宣長の姿勢を非難するなど激しい「日の神論争」等の論争を招いた。

日の神論争 - Wikipedia
 1786年(天明6年)から1787年天明7年)にかけて本居宣長(1730~1801年)と上田秋成*9のあいだで書簡を通して交わされた国学上の論争である。具体的には日の神、すなわち天照大御神をめぐる論争を指す。
◆発端
 1781年(天明元年)、京都の国学者・藤貞幹は『衝口発』において神武天皇は泰伯の子孫である、また神代紀の年数は荒唐無稽であるなどと書いた。宣長は貞幹を狂人と決めつけ鎖につなぐという意味の『鉗狂人』(1785年)を著して批判をした。秋成は『鉗狂人』を読むと宣長に書簡を送った。ここから論争が始まった。

本居宣長記念館藤貞幹
 この人には暗い影がつきまとう。
 貞幹が天明元年(1781)に出した『衝口発』は、真摯に研究する人たちの反感を買った。なかでも宣長の『鉗狂人』は徹底した論駁であった。
 この中で宣長が批判するのは、証拠として採用した『或る記』や『日本決釈』が偽書であることだ。実は貞幹は「偽書」「偽証」と言う、禁断の実を食べ、その味を知ってしまったのだ。貞幹は外にも古瓦を偽造している。ある人は生活のためだろうと推測する。だが、自説を補強するためとか、生活の糧とか言うのではなく、むしろ偽証が目的化している。
 「古書画に淫し、古器物に淫し、古代一切に淫した貞幹の偽証には、思うままに支配し得る世界を、いよいよ放恣に、いよいよ執拗に構築する喜びが画されているように思われてならないのである」(日野龍夫「偽証と仮託:古代学者の遊び」(日野『江戸人とユートピア』朝日選書)収録)
 貞幹は一度覚えたこの禁断の実の甘さを楽しんだ。『衝口発』こそ宣長に見破られたが、だが、ちゃんと敵は討っている。
「彼の偽作した『南朝公卿補任』は、後に塙保己一が『南朝公卿補任考』を著わして、その偽書であることを考証した。しかし『衝口発』の偽証を看破した宣長もこれにはだまされたらしく、『玉勝間』巻七「吉野朝の公卿補任」の項で、「いとめづらしきふみなり」と賛えている。『玉勝間』巻七の刊行された寛政十一年(1799)は貞幹歿してから二年目、泉下の貞幹はさぞ快哉を叫んだことであろう」 (日野・前掲論文)

南朝公卿補任 - Wikipedia
 南北朝時代における南朝方・公卿の官位を記した職員録とされる書物。『公卿補任』の南朝版としての体裁を採っているものの、偽書の可能性が早くから指摘されており、今日史料として使用されることはない。吉野朝公卿補任ともいう。
【概要】
 全4冊より成り、第一冊は延元2年(1337年)から正平7年(1352年)まで、第二冊は正平8年(1353年)から同23年(1368年)まで、第三冊は正平24年(1369年)から天授6年(1380年)まで、第四冊は弘和元年(1381年)から元中9年(1392年)までを収録する。書式は『公卿補任』と同様、南朝における関白以下参議以上及び非参議・従三位以上の公卿の姓名を序列順に列挙し、彼らの叙任や兼官に関して注記する体裁を採る。所載の公卿は計106名に上るが、その中には正平一統の際に南朝に帰順した足利尊氏や義詮の名も現れる。なお、本書の重要な特徴の一つに、史実と反して長慶天皇の在位を認めない立場(非在位説)を採用していることが挙げられる。
【作者・来歴】
 藤貞幹の偽作とするのが通説。貞幹偽作説の出現は早く、天保年間には流布していたと見られる。
【評価】
◆寛政6年(1794年)
 塙保己一*10が彰考館総裁・立原翠軒ら水戸学者からの依頼を受けて『南朝公卿補任考』を著し、その中で偽書説を主張する。
◆寛政11年(1799年)
 本居宣長が『玉勝間』巻7「吉野朝の公卿補任」の中で、「いとめづらしきふみなり」と賞賛。真書と信じて疑わなかった。
◆文政4年(1821年)
 足代弘訓が『寛居雑纂』の中で、改めて偽書説を主張。これより前、足代は塙と偽書説について対談したこともあった。
明治28年(1895年)
 井上頼圀*11が「典籍雑攷」の中で、塙・足代の主張を紹介しながら偽書説を発表。史学界に偽書説を広めるきっかけとなる。
◆昭和52年(1977年)
 日野龍夫*12が『江戸人とユートピア』(朝日選書、後に2004年、岩波現代文庫)の中で貞幹偽作説を断定的に紹介し、以降これが半ば通説と化す。
 近年では、単なる偽書として一蹴するのではなく、何らかの具体的史料に依拠して偽作されたものと一定の歴史的評価を与える向きがある。森茂暁*13も著書『南朝全史:大覚寺統から後南朝まで』(2005年、講談社選書メチエ→2020年、講談社学術文庫)において、「すべてが事実に反する記事内容だというわけでもないので、使用法を考慮すれば有効に使えそうな史料ではある」と、史料価値を限定的に認める見解を示している。

京の一刻~京印章ノオト~ 京印章・2つの源流~古体派の展開ー高芙蓉と藤貞幹ー(3)~
 藤貞幹の「考証」活動は現代の考古学にも通じるものという評価もうなづけるが、藤貞幹のこのような活動は単に「尚古」志向に基づく「考証」活動と、いうよりむしろ、自ら古物の造物主にならんとする、ひいては「歴史」の「創造」をひとり独占せんとする強烈なカルト的熱情に支えられていた、と見るべきかもしれない。というのも藤貞幹はいくつかの「偽造・偽刻」事件を起こしているからである。なかでも貞幹が天明元年(1781)に出した『衝口発』は、本居宣長から手厳しい告発批判をうける事により其の名を今に伝えることになった。宣長は藤貞幹が証拠として採用している『或る記』や『日本決釈』が偽書であることを暴き徹底的に藤貞幹に論駁したという。この他、古瓦の偽造や志賀島出土とされる「金印」も藤貞幹とその周辺の人々による贋作であるという説*14(『金印偽造事件:「漢委奴國王」のまぼろし』三浦佑之*15著、2006年、幻冬社新書)まである。
 徳川期文芸の研究者、日野龍夫先生は藤貞幹を評して次のような一文を残されている。
「古書画に淫し、古器物に淫し、古代一切に淫した貞幹の偽証には、思うままに支配し得る世界を、いよいよ放恣に、いよいよ執拗に構築する喜びが画されているように思われてならないのである」(「偽証と仮託-古代学者の遊び-」『江戸人とユートピア』朝日選書)。
 これらの藤貞幹の『実績』は現代人のわれわれには数年前発覚した「ゴッドハンド」と称された考古学者の「偽造」事件を想起させるが、人並みはずれた鑑識眼と表現力が一種の病理に支えられていたということは技術職たる我々の心に教訓としてとどめ置かねばならないだろう。我々の技術は社会を「支えて」はいるが「司って」はいないということを肝に銘じるべきである。知識や技能そして才能が他者に比べ飛び抜けて抜きん出おり、他を圧倒凌駕する修行が其の能力を齎したからといって、歴史の偽造と簒奪が彼の権利として天から与えられる事は決してないし、彼をして全知全能の神に昇階せしめることは決して無い筈である。

国宝の金印が偽物、ではないことがわかった | Meiji.net(メイジネット)明治大学 | 国際 - Meiji.net(メイジネット)明治大学
 「漢委奴國王」金印は、日本史の教科書に必ず登場するので、多くの人によく知られた歴史資料だと思います。
 そもそも、AD1世紀から3世紀にかけて中国を治めた後漢の時代の出来事を記した「後漢書」の中に、建武中元二年(西暦57年)に、日本(倭)の奴という国から貢ぎ物を持った使いが来た、という内容の記載があります。
 それに対して、ときの光武帝印綬を授けたとあります。印とは、はんこのことで、綬とははんこに通す紐のことです。
 つまり、弥生時代の日本人が中国まで行き、皇帝と交渉したということで、これは、日本最初の外交記録になるわけです。
 しかし、「後漢書」は後世(3世紀もしくは5世紀)に書かれたもので、その内容は確かではない、という説もあります。
 ところが、江戸時代の1784年に、福岡藩志賀島で「漢委奴國王」と刻まれた金印が見つかりました。これを、福岡藩の藩校の学者であった亀井南冥が「後漢書」の記載に見合うと考証したのです。
 つまり、弥生時代の日本が中国と外交していたことが事実であると、証明されたわけです。
 しかし、この金印は偽物ではないかという議論が起こります。背景には、この金印の発見が不自然なことがあります。周囲に弥生時代の遺跡などはまったくない田んぼから、農作業中の農夫がこの金印だけを見つけたというのです。
 また、江戸時代の藩校は各藩に一つでしたが、福岡藩は二つありました。金印の発見は、二つの藩校の設立の年であり、一方の亀井南冥が早々に結論を出しています。
 そこで、博識を誇示して優位に立とうとした亀井南冥が、金印を作らせて仕組んだのではないかというのです。
 しかし、1966年にこの金印の精密測定がなされ、印面一辺が平均2.347cmであることが確認されます。これは、後漢時代の墓で見つかった物差しの一寸と同じサイズであり、当時の印は一寸四方で作られることから、この金印は後漢時代のものであると、認められるようになったのです。
 ところが、江戸時代の学者は中国の文献などに精通しており、後漢時代の寸法も、印が一寸四方であることも知っていたことを挙げ、やはり、この金印は江戸時代に作られた偽物であるという説が10数年前に出されました。
 調べてみると、確かに、江戸時代の学者の学術研究は驚くほどのレベルです。中国の、しかも古来の様々な知識体系を持っていて、当時の知識人であれば、後漢時代の一寸のサイズも、印が一寸四方であることも常識だったのです。
 では、この金印の発見の経緯の怪しさや、亀井南冥の置かれた状況を考えれば、この金印は江戸時代に作られたものと断じることができるのか、と言えば、決してそうではありません。
(中略)
 江戸時代の学者である藤貞幹が「漢委奴國王」金印の偽造に関わっていたという指摘があります。確かに、藤貞幹は漢籍に造詣が深い当時トップクラスの学者で、彼なら贋作製作の指示ができそうです。
 例えば、「魏志倭人伝」に、魏の皇帝が倭国の女王である卑弥呼に「親魏倭王」金印を授けたという記載があります。藤貞幹はその金印が中国で発見されたという情報を得て、その印面を自分の本で紹介しました。
 ところが、この印は偽物です。それは、最近数十年の研究で、印に刻まれた文字にある「王」の字形が、魏の時代ではなく、それより300年も前の前漢時代の特徴を持つことが明白だからです。
 つまり、中国の明清時代の贋作者もそのことを知らなかったほど、文字の変遷の研究は近年のものであり、日本の江戸時代のトップクラスの学者でも、そのことを認識できたわけがないのです。
 それを知りえない江戸時代に、後漢初期の特徴をすべて備えた文字で「漢委奴國王」を刻むのは奇跡と言ってよいでしょう。
 実は、他にも指摘できる点はあるのですが、この鈕と文字の2点だけでも、後漢時代に作られた金印を江戸時代に再現することは、まず、不可能であると断言できます。

*1:國學院大学兼任講師。著書『平安時代の国家と寺院』(2009年、塙書房)、『中世地方寺院の交流と表象』(2019年、塙書房

*2:藤女子大学准教授。著書『日本古代漢籍受容の史的研究』(2005年、汲古書院)、『渡航僧成尋、雨を祈る:『僧伝』が語る異文化の交錯』(2013年、勉誠出版)、『古代日本と中国文化』(2014年、塙書房

*3:鶴見大学准教授。著書『修験道本山派成立史の研究』(2017年、校倉書房

*4:専修大学教授。著書『中世後期の地域と在地領主』 (2002年、吉川弘文館)、『中世東国の地域社会史』 (2005年、岩田書院)、『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』(2012年、吉川弘文館)、『中世の富と権力:寄進する人々』(2020年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)など

*5:茨城大学教授。著書『中世天照大神信仰の研究』(2011年、法藏館)、『神道とは何か』(2012年、中公新書)、『神道の形成と中世神話』(2016年、吉川弘文館)、『神道の中世』(2020年、中公選書)、『日本像の起源:つくられる〈日本的なるもの〉』(2021年、角川選書

*6:慶應義塾大学教授。著書『二条良基研究』(2005年、笠間叢書)、『中世の書物と学問』(2009年、山川出版社日本史リブレット)、『足利義満』(2012年、中公新書)、『武士はなぜ歌を詠むか:鎌倉将軍から戦国大名まで』(2016年、角川選書)、『中世和歌史の研究』(2017年、塙書房)、『徒然草をよみなおす』(2020年、ちくまプリマー新書)、『二条良基』(2020年、吉川弘文館人物叢書)など

*7:多田源氏の祖。多田神社兵庫県川西市)の祭神

*8:大阪大谷大学准教授。著書『戦国期細川権力の研究』(2018年、吉川弘文館)、『由緒・偽文書と地域社会:北河内を中心に』(2019年、勉誠出版

*9:1734~1809年。怪異小説『雨月物語』の作者として一般に知られる。

*10:1746~1821年。『群書類従』『続群書類従』の編纂者(塙保己一 - Wikipedia参照)

*11:1839~1914年。國學院教授、女子学習院教授を歴任

*12:1940~2003年。京都大学名誉教授。著書『徂徠学派』(1975年、筑摩書房)、『宣長と秋成』(1984年、筑摩書房)、『服部南郭伝攷』(1999年、ぺりかん社)、『江戸の儒学(著作集第1巻)』、『宣長・秋成・蕪村(著作集第2巻)』、『近世文学史(著作集第3巻)』(以上、2005年、ぺりかん社)(日野龍夫 - Wikipedia参照)

*13:福岡大学名誉教授。著書『建武政権』(1980年、教育社歴史新書→改訂版、2012年、講談社学術文庫)、『皇子たちの南北朝』(1988年、中公新書→2007年、中公文庫)、『太平記の群像』(1991年、角川選書→2013年、角川ソフィア文庫)、『佐々木導誉』(1994年、吉川弘文館人物叢書)、『闇の歴史・後南朝』(1997年、角川選書→2013年、角川ソフィア文庫)、『後醍醐天皇』(2000年、中公新書)、『満済』(2004年、ミネルヴァ書房日本評伝選)、『室町幕府崩壊:将軍義教の野望と挫折』(2011年、角川選書→2017年、角川ソフィア文庫)、『足利直義』(2015年、角川選書)、『足利尊氏』(2017年、角川選書)、『懐良親王』(2019年、ミネルヴァ書房日本評伝選)など

*14:ただし通説は今も「本物」の立場。例えば国宝の金印が偽物、ではないことがわかった | Meiji.net(メイジネット)明治大学 | 国際 - Meiji.net(メイジネット)明治大学参照

*15:千葉大学名誉教授。著書『古事記講義』(2007年、文春文庫)、『古事記のひみつ』(2007年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『日本霊異記の世界』(2010年、角川選書)、『平城京の家族たち』(2010年、角川ソフィア文庫)、『古事記を読みなおす』(2010年、ちくま新書)、『古事記を旅する』(2011年、文春文庫)、『風土記の世界』(2016年、岩波新書)、『古事記神話入門』(2019年、文春文庫)、『古事記の神々』(2020年、角川ソフィア文庫)、『日本古代文学入門(増補版)』(2021年、角川ソフィア文庫)、『「海の民」の日本神話』(2021年、新潮選書)など。直木賞小説家・三浦しをんの父(三浦佑之 - Wikipedia参照)