リベラル21「関東大震災と中国人」をネタに「王希天」烈士について触れる

リベラル21 関東大震災と中国人
 本文を読めば内容が分かりますが、関東大震災では在日朝鮮人だけでなく在日中国人も虐殺されました。
 朝鮮人虐殺や亀戸事件*1、甘粕事件(左翼活動家の大杉栄伊藤野枝を虐殺)に比べればあまり知られてない気がしますが。
 この点は

◆仁木ふみ子 *2関東大震災・中国人大虐殺』(1991年、岩波ブックレット
◆仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺:中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか』(1993年、青木書店)
◆田原洋『関東大震災と中国人:王希天事件を追跡する』(2014年、岩波現代文庫
→田原『関東大震災王希天事件:もうひとつの虐殺秘史』 (1982年、三一書房)の改題、文庫化
今井清一*3関東大震災と中国人虐殺事件』(2020年、朔北社)

と言った著書もあります。
 その犠牲者の中で特に著名なのが上で紹介した著書の副題にもなっている王希天です。
 著名な理由として第一に彼は当時「在日中国人労働者のリーダーの一人」でした。
 亀戸事件で虐殺された労働活動家たちのような地位に彼はあったわけです。
 第二に彼は

王希天 - Wikipedia
 1974年1月、中華人民共和国政府から、「革命烈士」の称号を追贈

されています。この辺り、後で触れますが「周恩来首相」が彼の知人だったという事情があるようです。

参考

王希天と中国人虐殺-関東大震災時の虐殺事件② - 尾形修一の紫陽花(あじさい)通信2017.8.31
 王は中国で周恩来の同窓だったことがあり、日本に留学する周に影響を与えた。東京で一緒に撮った写真もあるのである。パリに留学した周とも文通が続いていたらしい。

『関東大震災と中国人 王希天事件を追跡する』その1 | 荒野に向かって、吼えない…2017.9.24
 王については資料の不足から不詳な点も多いが、1915年頃に日本に留学生としてやって来たとみられる。日本滞在中だった周恩来とも交遊が生まれたようだ。周は74年に王を「革命烈士」にしている。
「革命烈士の遺族には、国家的な優遇措置があり、事実、王振折*4一家の暮らしは、各段レベルアップした模様だ。
 したがって、(ボーガス注:労働運動のリーダーであるが故に日本軍に敵視され虐殺という非業の最期を遂げたとは言え、中国共産党員ではなく)革命運動のなかで斃れたのではない王希天に革命烈士の称号が与えられたのは、周総理との在日時代の濃密な親友関係なしには考えられないような気がする」。

日本最長の日記 | 取材ノート | 日本記者クラブ JapanNationalPressClub (JNPC)宮武剛*5
 社会部のサブデスク時代、当番日の夕刊で一人の元軍人の訃報に接した。遠藤三郎*6・元陸軍中将である。関東軍参謀副長や航空兵器総局長を歴任し、戦後は開拓農民へ転じ、そのかたわら日中国交回復に尽力した異色の人物であった。
 当日の加藤順一デスクが「あの人の日記はすごい内容らしいよ」とつぶやいた。すぐ動くのが社会部育ちの性なのだろう。二人で埼玉県・狭山市のご自宅を弔問した。ご家族に日記を拝読させてもらえないか、と頼んだところ、「生前から外への持ち出しは厳禁でしたが、書庫で読まれるなら」と許しを得た。
 日記には、一箇所だけ墨で塗りつぶした記述があった。30歳の陸軍砲兵大尉だった大正12(1923)年、関東大震災の灰燼が漂う9月11日のこと。
『午後、寸暇を得て警備区域を巡視す。●●●●●て問題惹起す ●●●● 夕陽西方(にしかた)に春(うすず)く頃、第三中隊を訪問す』
 最初の抹消部分には「王奇天に就」と、添え書きされ(奇は遠藤の誤記)、やはり後年に書いた雑用紙のメモも挟んであった。
 王希天は、中国・吉林省生まれ、一高予科から名古屋の第八高等学校*7に学び、当時は大島町(東京江東区)で中国人労働者の生活支援に取り組んでいた。その活動を陸軍と警察は「反日活動」とみなし、大震災の混乱に乗じ殺害を図ったのだ。
 実行犯は遠藤とも親しい中尉で、軍刀を持って切り殺し、死体は逆井橋から中川(江東区・旧中川)に投げ捨てた。旅団長や中隊長と共謀のうえで、山下奉文*8(ともゆき)少佐(後の大将)や阿部信行*9少将(後の首相)らも隠蔽工作へ走った。
 すでに幾つかの史料や証言で概要は明らかになっていたが、遠藤日記の詳細な記述は決定打と言ってよかった。
 戦後のひもじい時代を知る程度の私にとって、この日記はまるでタイムマシーンであった。関連証言を集め、傍証を固め、夕刊に110回連載し、その後「将軍の遺言*10」と名づけて単行本にまとめた。
 それで仕事を終えたつもりだったのだが、ある日、二木ふみ子さん(元日教組婦人部長)からの連絡で、27歳で非業の死に倒れた王希天には妻子がいたこと、周恩来と親友であったことを知った。二木さんは、王希天の足跡を丹念にたどり、奇しき因縁を独力で発掘された。
 敗戦後、遠藤は埼玉県狭山市で開拓農民となり、軍人と軍隊が国家を滅亡に陥れた前半生を悔い、「軍備亡国」を唱えた。晩年は中国侵略の最前線に立った体験を振り返りながら「日中友好元軍人の会」を結成し、国交回復へ井戸掘り役の一人となる。訪中は5回に及び、毛沢東周恩来、廖承志*11らと親交を深めた。
 周恩来首相と遠藤との会談は時に3時間余にも及んだが、現代史を代表する政治家が、若き日、あの王希天の友であったことを、遠藤は終生知らない。周恩来もまた、遠藤と王との関わりを知る由もなかった。

*1:この事件については例えば赤旗関東大震災直後の亀戸事件とは?(2007.9.11)参照

*2:1926~2012年。日本教職員組合婦人部長、「全国高校女子教育問題研究会」会長、「中国山地教育を支援する会」世話人宋慶齢日本基金会副理事長、NPO中帰連平和記念館館長など歴任。著書『無人区長城のホロコースト:興隆の悲劇』(1995年、青木書店)、『ある戦後:中国と日本のはざまを生きる』(2010年、ドメス出版)など(仁木ふみ子 - Wikipedia参照)

*3:1924~2020年。横浜市立大学名誉教授。著書『大空襲5月29日:第二次大戦と横浜(新版)』(1995年、有隣堂)、『大正デモクラシー』(2006年、中公文庫)、『横浜の関東大震災』(2007年、有隣堂)、『濱口雄幸伝(上・下)』(2013年、朔北社)など

*4:王希天の息子

*5:毎日新聞東京本社社会部副部長、科学部長、論説委員、論説副委員長など歴任。著書『介護保険とは何か』(1995年、保健同人社)、『年金のすべて』(2000年、毎日新聞社)、『介護保険のすべて』(1997年、保健同人社)、『介護保険の再出発』(2006年、保健同人社)など(宮武剛 - Wikipedia参照)

*6:1893~1964年。関東軍作戦主任参謀、関東軍参謀副長、陸軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局長官など歴任(遠藤三郎 (陸軍軍人) - Wikipedia参照)

*7:名古屋大学教養部の前身

*8:1885~1946年。1935年に陸軍省軍事調査部長に就任するが、皇道派だったため1936年の226事件で失脚、歩兵第40旅団長として朝鮮龍山へ左遷される。その後は支那駐屯混成旅団長、北支那方面軍参謀長、第4師団長、陸軍航空総監兼航空本部長、第25軍司令官(マレーシア)、第1方面軍司令官(満州)、第14方面軍司令官(フィリピン)など歴任。戦後、マニラ虐殺事件の責任を問われて死刑判決

*9:1875~1953年。陸軍省軍務局長、陸軍次官、第4師団長、台湾軍司令官、首相、翼賛政治会会長、朝鮮総督など歴任。戦後、戦犯容疑で逮捕されるが、裁判開始直前になって突如起訴予定者のリストから外されたといわれており、裁判を巡る謎の一つとされている。

*10:1986年、毎日新聞社

*11:1908~1983年。中日友好協会会長を務めた