新刊紹介:「歴史評論」2023年9月号(副題:関東大震災研究の論点と課題)

特集『関東大震災研究の論点と課題2023』
 無能な小生にとって、可能な範囲で紹介します。
【前振り】
【1】
関東大震災 朝鮮人犠牲者追悼式典へ小池都知事 追悼文送らず | NHK | 地震2023.8.18
関東大震災 朝鮮人虐殺「記録ない」/官房長官 資料の存在を無視2023.8.31
 小池や岸田政権なら「予想の範囲内」ですが心底呆れます。
 なお、「反共分子」kojitakenが「俺に好意的」なら関東大震災から100年。震災直後に起きた朝鮮人虐殺に関する歴史修正主義とレイシズムについては松野博一もひどいが小池百合子も最悪 - kojitakenの日記でこの拙記事を紹介してくれるんでしょうねえ(苦笑)。まあ、拙記事を紹介しなくてもいいので、拙記事が紹介したマスコミ記事のいくつかぐらいは紹介して欲しいもんです。
【2】
 話がやや脱線しますが、「虐殺、関東大震災」でググって以下の本があることを知ります。
◆渡辺延志*1関東大震災「虐殺否定」の真相:ハーバード大学教授の論拠を検証する』(2021年、ちくま新書
 「ハーバード大教授」と言う辺りで「そんなバカは河野談話否定のラムザイヤーだろ?」と思った方、それで正解です(例えば「慰安婦=売春婦」主張のハーバード大教授、関東大震災歪曲論文も発表 : 日本•国際 : hankyoreh japan(2021.2.18)参照)。河野談話否定だけでも「呆れたクズ」ですがどこまで落ちぶれれば気が済むんでしょうか?(勿論渡辺本はラムザイヤーを批判)
【前振り終わり】
◆「関東大震災100年」と朝鮮人虐殺研究(田中正敬*2
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。
 なお、メインは朝鮮人虐殺ですが、「排外主義による外国人殺害」と言う共通点から

◆仁木ふみ子*3関東大震災・中国人大虐殺』(1991年、岩波ブックレット
◆仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺:中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか』(1993年、青木書店)
◆田原洋『関東大震災と中国人:王希天事件を追跡する』(2014年、岩波現代文庫
→田原『関東大震災と王希天事件:もうひとつの虐殺秘史』 (1982年、三一書房)の改題、文庫化
今井清一*4関東大震災と中国人虐殺事件』(2020年、朔北社)

といった中国人虐殺研究についても簡単に触れています。
 なお、手前味噌ですが中国人虐殺については以前拙記事リベラル21「関東大震災と中国人」をネタに「王希天」烈士について触れる - bogus-simotukareのブログ(2022.11.23)で取り上げ、その記事中でも今井著書などを紹介しています。
 残念ながら

【甘粕事件】
 無政府主義者大杉栄伊藤野枝を虐殺。
【亀戸事件】
 川合義虎・日本共産青年同盟(今の民主青年同盟の前身)委員長、労組活動家の平澤計七*5らを虐殺
 この事件については例えば、赤旗関東大震災直後の亀戸事件とは?(2007.9.1)、亀戸事件 忘れない/97周年追悼会 犠牲者の遺影に献花/東京(2020.9.7)、二村一夫「亀戸事件小論」『二村一夫著作集』第10巻参照。
 またググったところ、加藤文三*6『川合義虎:日本共産青年同盟初代委員長の生涯』(1988年、新日本新書)、『亀戸事件:隠された権力犯罪』(1991年、大月書店)の著書があります。
【福田村事件】
 今年の9月1日(9月1日は事件発生日)から、森達也*7監督により劇場映画として公開予定(映画『福田村事件』公式サイト参照)。この事件については例えば埋もれていた「福田村事件」 森達也監督の映画での新たな問いかけ:朝日新聞デジタル(2023.6.20)、関東大震災で行商ら9人殺害 福田村事件、語り継ぐ 柏で集い120人出席:東京新聞 TOKYO Web(2023.7.13)、なぜ“群集”は暴走するのか 関東大震災100年 ある事件の問い | NHK | WEB特集(2023.7.20)、関東大震災時の虐殺が映画になったのは喜ばしいが、なぜそこで取り上げるのが福田村事件なのか。 - 読む・考える・書く(2023.7.23)、森達也さんに聞いた:負の歴史に向き合わなければ、また同じ過ちを繰り返す――映画『福田村事件』 | マガジン9(2023.8.9)、善良な人たちが集団になるとなぜ暴走 映画「福田村事件」が問うもの | 毎日新聞(2023.8.12)、「朝鮮人が襲ってくる」「井戸に毒を入れた」…関東大震災から100年の今、映画『福田村事件』が問う“日本人の本性”(西岡 研介) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)(2023.8.14)参照。
 また、ググったところ、辻野弥生『福田村事件』(2013年、崙書房出版→増補改訂版、2023年、五月書房新社)の著書があります。
 なお、福田村事件については「朝鮮人と誤認されての虐殺」と見るか「被差別部落民の虐殺(例えば部落解放同盟など部落解放団体が主張)」と見るかについて見解の相違があります。
【検見川事件】
 福田村事件のような日本人虐殺事件。

といった「日本人に対する虐殺」への言及があまりないですが。
【参考:福田村事件】

福田村事件 - Wikipedia
 戦後ずっと事件は闇に葬られていたが、2000年3月には香川県で「千葉福田村事件真相調査会」が設立され、7月には千葉県で「福田村事件を心に刻む会」が設立された。2023年6月20日野田市の鈴木有*8市長は市議会一般質問の答弁で、事件が100周年となることについて触れ「被害に遭った人たちに謹んで哀悼の誠をささげたい」と弔意を示した(福田村事件で野田市長が悼む 「今後も人権教育を継続」:朝日新聞デジタル(2023.6.22)、100年前“福田村事件” 千葉 野田市が初めて公式に弔意を表明 | NHK | 千葉県(2023.6.24)参照)。野田市が公式の場で事件の被害者に対して哀悼の意を表したのはこれが初めてとされる。

24色のペン:9人虐殺の福田村事件 差別と群集心理=牧野宏美(デジタル編集本部) | 毎日新聞2023.7.25
 「どうしても撮りたいテーマがあるんですよ」。
 3年ほど前、映画監督の森達也さんにインタビューした後、雑談していた時のことだ。
 森さんが、そう言っておもむろに語り始めたのが100年前に起きた「福田村事件」だった。
 森さんは20年ほど前に事件を知り、ドキュメンタリーにしたいと複数のテレビ局の担当者に話を持ちかけたものの、色よい返事はもらえなかったという。
 「朝鮮人虐殺と被差別部落、二つの問題に関わる話ですからね」。
 そう語っていた森さんが、ついに劇映画として「福田村事件」を完成させた。関東大震災から100年となる9月1日、全国公開される。
 映画の企画協力者として名を連ねたのが、野田市に隣接する流山市に住む辻野弥生さん(82)。地元誌のライターだった辻野さんは、1999年ごろ、流山市であった別の朝鮮人虐殺について取材する過程で事件を知り衝撃を受け、資料や証言者を探し始めた。
 しかし、野田市の図書館で探しても、事件について言及した資料は見つけられなかった。証言してくれそうな人を探し出しても、事件について口にするだけで「何を言い出すんだ」と怒鳴られ、取材の約束を取り付けた後に音信不通になった人もいた。
 「あまりにむごい事件で、地元でも長い間タブーとされてきたのでしょう」と辻野さんは振り返る。
 その後、被害者の出身地である香川県に、行商の一行のうち生き残った人の証言記録があると分かった。さらに震災時の新聞記事から事件の報道を丹念に探していくうちに、詳細が見えてきたという。
 辻野さんは調べた内容を「福田村事件:関東大震災・知られざる悲劇」という本にまとめ、2013年に出版。ほとんど知られていなかった事件に光を当てた。

100年前の負の歴史「なかったことにできない」 関東大震災直後、行商9人惨殺 福田村事件の記録復刊:東京新聞 TOKYO Web2023.8.8
 「福田村事件」を記録したフリーライター辻野弥生さん(82)=千葉県流山市=の著書「福田村事件:関東大震災・知られざる悲劇」が、大震災から100年を前に復刊された。
 辻野さんは流山市で同人誌「ずいひつ流星」を主宰してきた。1999年、朝鮮人虐殺事件を調べていたころ、ある人から「福田村事件についても書いてほしい」と資料を持ち込まれた。「地元の人にはとても書けないから」との理由だった。
 辻野さんの調査活動に注目した地方出版社「崙書房出版」(流山市)は2013年に新書判を出した。
 辻野さんの本は3刷りを重ねたが、出版元が経営難で2019年に解散。絶版を惜しんだ「五月書房新社」(東京)が増補改訂版の発行を提案した。
 復刊に当たって内容を大幅に加筆し、巻末には香川県立文書館が保管する生存者の手記全文を写真付きで掲載した。関係資料や当時の新聞記事などのほか、事件を描いた9月公開の映画「福田村事件」の森達也監督の寄稿も収めた。

【参考:検見川事件】

関東大震災「検見川事件」 デマで県出身者犠牲 識者「今につながる差別」 - 琉球新報デジタル|沖縄のニュース速報・情報サイト2017.11.4
 伊江島出身の島袋和幸さん(69)=東京都=は30年ほど前から検見川事件を調べてきた。犠牲になった3人は沖縄、秋田、三重の出身だった。自警団に捕らえられた際、言葉のなまりから朝鮮人と決めつけられたと分析する。
 大震災から94年がたち、事件の存在そのものが忘れられていく中、島袋さんは「事件から学ぶことがあるのではないか」と学習会を企画した。
 3日、那覇市のなは市民活動支援センターで開かれた学習会では、ジャーナリストの安田浩一さん*9(53)=千葉県=が講演した。検見川事件について最近、雑誌に執筆した安田さんは「事件は『昔の話』では片付けられない」と指摘する。「デマを支えたのは差別だ。今も在日コリアンや沖縄に対する差別があり、つながっている。社会を壊さないために差別を否定し、声を上げる必要がある」と強調した。

「福田村事件」から99年 人権侵害・差別「問題は解決していない」:朝日新聞デジタル2022.9.7
 県内では、「福田村事件」以外にも、震災後の流言飛語が原因で命を奪われる人がいた。震災から4日後には、検見川町(現千葉市花見川区)で、秋田、三重、沖縄の各県民3人が自警団によって虐殺される事件が起きた。
 沖縄出身の島袋和幸さん(74)は、この事件の調査を長年続けてきた。20代で本土に渡った島袋さん。沖縄への差別は根強かった。震災後の朝鮮人虐殺について調べている中で、沖縄人も犠牲になっていたことを知り、大きなショックを受けた。

日本人が日本人を集団で殺害…関東大震災直後の忘れられた事件 現代に通ずる差別意識と偏見の暴走:東京新聞 TOKYO Web2023.8.7
 人々に忘れられた虐殺がある。関東大震災直後に千葉県検見川町(現・千葉市花見川区)で、暴徒化した自警団に「不逞鮮人」と決めつけられ、沖縄をはじめとする3人の地方出身者が殺害された「検見川事件」だ。
 「日本人が、集団で日本人を殺す。考えられないことさえ起きています」
 「検見川事件」を独自に調べてきた島袋和幸さん(75)=東京都葛飾区四つ木=は目を大きく見開き、声を張り上げた。傍らには、調査や自身の見解をまとめ、自費出版した「資料集」がある。

【参考:朝鮮人虐殺】

赤旗朝鮮人虐殺 二度と/関東大震災時の蛮行忘れず 式典開く/小池都知事の追悼文拒否批判2020.9.2
 「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」の田中正敬事務局長は小池*10知事が「歴史家がひも解くべきもの」としてかたくなに追悼文を送らないことに触れ、「歴史家がひもとくまでもなく虐殺は歴史的な事実。事実を語らない追悼とは何を意味するのでしょうか」と問いかけました。

朝鮮人虐殺「解明する責任ある」|埼玉新聞|埼玉の最新ニュース・スポーツ・地域の話題2023.6.10
 1923年9月に起きた関東大震災朝鮮人虐殺を巡り、学識者らが10日、東京都内で学習会を開いた。公文書に残る軍隊や警察による虐殺への加担について日本政府が関与を認めていない現状に、専修大田中正敬教授(朝鮮近現代史)は「具体的に解明する責任がある。被害者にどう向き合うか。人間の尊厳、人権に深く関わる現在的な課題だ」と批判した。

〈関東大震災朝鮮人虐殺100年〉 虐殺事実を認めない、一貫した態度 | 朝鮮新報2023.7.6
 6月28日、都内で行われた関東大震災朝鮮人虐殺と関連する学習会(主催=「関東大震災朝鮮人虐殺100年―虐殺犠牲者の追悼と責任追及の行動」実行委員会)では、約160人が参加する中、専修大学田中正敬教授が講演した。
 登壇した田中教授は、講演に先立ち、昨今の国会で行われた2つの質疑について言及した。
 この質疑とは、関東大震災時の朝鮮人虐殺を巡って行われた5月23日の杉尾秀哉*11議員(参議院内閣委員会)によるもの、そして先月15日の福島みずほ*12議員(参議院法務委員会)によるものを示しており、田中教授は「(虐殺に対する)日本政府の認識と現状を確認するため」として、杉尾議員の質疑の様子を映像で流した。
 杉尾議員は、昨年12月6日に国会へ提出した質問主意書の中で、当時虐殺された朝鮮人の遺骨に関する政府の「処置」を記した公文書・朝鮮総督府警務局「関東地方震災の朝鮮に及ぼしたる状況」(斎藤実*13関係文書目録・書類の部一・144頁。国立国会図書館憲政資料室所蔵)をめぐって、文書が存在することへの認否と政府見解を問うた。
 前述の公文書では、「極秘 震災当時ニ於ケル不逞鮮人ノ行動及被殺鮮人ノ数之ニ対スル処置」として、▼遺骨が朝鮮人だと判明しないように処置すること、▼虐殺などの起訴事件については朝鮮人に被害がある場合、すぐにその遺骨を不明の程度に始末すること―といった記述がある。杉尾議員の質問主意書では、これらに言及しながら、「日本政府が『被殺者』である朝鮮人被害者の特定を困難にさせようとしていたのは明らか」であり、なぜそうした方針をとったのか、現政府の認識を追求していた。
 同月16日付で出された政府の答弁書には、杉尾議員が指摘した公文書は「政府として確認しておらず」、また、文書にある当時の「処置」についても、「調査した限り、政府内にそれらの事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」ため、見解を示すのは困難だとの政府回答が明記されている。
 田中教授は、同文書は誰でもアクセス可能だと指摘しながら、文書の一部を参加者らにみせた。そのうえで「いまみなさんがみている資料を政府は確認できないと言っている。これはもはや誠意のない答弁ではなく虚偽ではないのか」と強く非難した。さらに同氏は「こちらが求めているのは内容の評価よりも、虐殺が事実か否かを確認することだ。政府は評価できないという言い方で逃げている」と指摘。杉尾議員の質問に対する政府答弁として、谷公一国家公安委員長が、一般論だと前置きしながら「過去の大災害における流言飛語への対応については、歴史から謙虚に学ぶ」とした点について「虐殺の問題には触れない。ではどの歴史に謙虚に学ぶというのか」と、記録の存在、つまり虐殺を認めない政府の姿勢が改めてあらわになったと話した。


◆軍隊による朝鮮人虐殺(愼蒼宇*14
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

【イオ ニュース PICK UP】根深い蔑視・憎悪感情とジェノサイドの連なりをみる/関東大震災時朝鮮人虐殺に関する学習会 – イオWeb2020.9.23
 法政大学社会学部の愼蒼宇教授が「日本軍隊の朝鮮植民地支配経験と関東大震災朝鮮人虐殺の歴史的背景」というタイトルで講演。愼さんは冒頭で「関東大震災時の朝鮮人虐殺は『天災』ではなく『人災』」だとしながら、しかもそれは「単なる一過性の出来事ではない」と話した。
 愼さんは続けて、講演のテーマを伝えた。要点は、▼現在の官民一体のヘイトの源流となる関東大震災時の朝鮮人虐殺は、日本によるそれ以前の朝鮮侵略・植民地支配の延長線上に位置づけることができる(日本の軍隊、憲兵、警察が、多くの朝鮮民衆虐殺を経験し、それによって朝鮮に対する迫害の経験が蓄積されていった)ということ、▼日本の郷土新聞などがその時代ごとに朝鮮人への蔑視と偏見、恐怖や憎悪を広げていったことだ。
 愼さんは、関東大震災時に自警団によって殺されかけ、九死に一生を得た同胞・愼昌範さんの証言を紹介。自身の祖父の兄にあたる方だという。
「(1923年の)10月下旬頃、総督府の役人がやってきて、私たちに(中略)この度のことは天災と思って諦めるようにとくどくどと述べたてました」
 人災の被害者に対して、日本の警察は当時から「天災」として丸め込もうとしていたと話した愼蒼宇さんは、横網町公園での朝鮮人犠牲者追悼式典への「追悼の辞」送付を拒否し続けている小池百合子都知事の発言にもふれ、「今も『天災だった』という理論で人災を隠蔽しようとする姿勢は許しがたい」と批判した。
 愼さんは前提として、「朝鮮植民地戦争」について解説。
 具体的に、①「東学農民戦争」(1894.10~1895.1)/②日露戦争下の朝鮮民衆迫害(1904~1905)/③義兵戦争(1906~1915)/④三・一独立運動シベリア戦争*15間島大虐殺(1919~)の4段階を挙げ、「日本軍と憲兵、警察はこれらの戦争を通じて、朝鮮において人的・組織的な迫害経験を構築し、植民地期全般を通じてそれを継続、蓄積していった」と話した。
 愼さんは各時代の侵略・虐殺事件について触れたあと、自身が作成した表を参照しながら、これらの「朝鮮植民地戦争」と関東大震災時の朝鮮人虐殺の関わりについてさらに踏み込んだ。表はそれぞれ、1.関東戒厳司令部+地方師団長・歩兵連隊長の主な経歴/2.韓国(朝鮮)駐箚軍・朝鮮軍司令官、参謀長その他各司令官経歴一覧/3.日本陸軍師団と歩兵連隊(一部、騎兵連隊、野砲兵連隊も含む)の「暴徒討伐」経験―というものだ。
 愼さんは、表1から読み取れるものは、▼地方師団長の大半がシベリア戦争を経験し、さらに日本軍が敗北したため、交戦した社会主義者、民族運動への敗北感と憎悪を募らせる大きなきっかけとなった、▼間島大虐殺時に司令官や諜報活動をしていた人物が、関東大震災時の戒厳司令部の中でも役割を担った(連続性があった)、▼表に挙げられる人物たちの多くが「朝鮮植民地戦争」で虐殺の経験を積んでいる―と説明。
 表2でも、多くの人物が、複数の朝鮮植民地戦争、ジェノサイドの経験を積んでいることに気がつく*16。愼さんは「朝鮮植民地戦争」の特徴について「殲滅と連座性」を指摘。殲滅は、朝鮮人をことごとく殺害するよう命じる方針があったということ、連座性は、蜂起や運動の中心人物だけでなく、周囲の人や出身の地域まで徹底的に討伐するというものだ。
 そして特徴のもう一つは、これらの軍事行動をやむなし、あるいは正当防衛だったとし、正当化しようとする姿勢があることだと指摘。「これは関東大震災時の朝鮮人虐殺の事後処理のあり方にも深く影響を及ぼしている」と愼さんはのべた。
 「その結果、軍隊が行った迫害は隠され不処罰となり、報告書の中では事件の隠蔽、正当化がなされる。」(愼さん)
 この特徴がはっきりと表れたのは1919年の三・一独立運動の時だったという。当時の原敬*17総理大臣は、朝鮮に対する日本の軍事行動が批判されるのを恐れて、朝鮮総督に電報を送っている。「表面的には何事もないようにし、裏面においては厳重に措置せよ」という旨の内容だった。国際社会を意識する記述もあるそうだ。
 愼さんは、「そして関東大震災時にも、戒厳令下で虐殺があったあと、流言の事実が認められないことが分かってくると、日本は国家責任の回避と正当化、矮小化を図った」とつないだ。
 続いて表3についても解説。日本全国に置かれた18の陸軍師団の経験についてまとめたものである。愼さんはまず、すべての師団に朝鮮・台湾・シベリアへの派兵経験があったことをのべ、その中でも単純計算で派兵経験が一番多かったのが東京の第1師団だったとし、さらに大きなジェノサイドも経験している事実から、「このことと、関東大震災時の朝鮮人虐殺において第1師団が果たした役割のつながりを想像するのは決しておかしいことではない」と強調した。
 次に、日本の郷土新聞の記述に言及。愼さんはその理由を、「この時期の朝鮮に対する報道の仕方が、後の『不逞鮮人』像につながる暴徒討滅論を日本社会全体に広げたからだ」と話した。
 例えば義兵戦争が起こっていた1908年5月9日には、全国紙である読売新聞が社説を発表。内容は、朝鮮に日本軍をさらに派兵し、徹底的な討伐を行う方針を出した(ボーガス注:韓国統監)伊藤博文*18の命令を支持するものだった。
 文中には、「…韓国の暴徒はあたかも頭上のハエの如く払えば去ってまた来る。これまでの通りに温和なる懐柔策を繰り返すのみにおいては、かえってかれらの軽蔑を招き、…たちまち暴動を行う者あり」といった記述もある。
 愼さんは(中略)「この時から日本は朝鮮人を人として見ていなかったのだ」とのべた。
 さらに愼さんは、関東大震災時に流言が全国に及び、各地で朝鮮人への迫害が起こったこと、それを広めたのは日本各地の郷土新聞でもあったことを強調した。
 愼さんは結論に入る前に、関東大震災時の朝鮮人虐殺研究の第一人者である姜徳相さん*19の言葉を紹介した。
「軍隊、警察のみならず日本人庶民、諸侯もまた偏見、差別の持ち主だった。自警団の主体となった在郷軍人消防団員、青年団のメンバーをはじめ、町の八百屋や魚屋、豆腐屋のおじさんたちはみな甲午農民戦争、露日戦争、義兵戦争、シベリア戦争、三・一大虐殺、間島大虐殺に参加した日本軍兵士の軍歴を持ち、明治以降の日本のマスコミの朝鮮人蔑視観、敵視の風潮に染め上げられていた天皇教徒だったということです」
 愼さんは、(中略)「こういった歴史的背景を鑑みれば、関東大震災時の朝鮮人虐殺は単なる一過性の不幸でも、例外的な出来事でもなかったのだと分かる」と再度伝えた。

 慎氏は多くの人物が、複数の朝鮮植民地戦争、ジェノサイドの経験を積んでいるの例として、歴史評論論文では例えば以下の人物を上げています。

大庭二郎 - Wikipedia
 1864~1935年。1905年(明治38年)1月、後備第2師団参謀長(朝鮮駐剳軍)となり、朝鮮北部の作戦に従事。1915年(大正4年)2月、陸軍中将となり、第3師団長を拝命しシベリア出兵に従事(第3師団 (日本軍) - Wikipediaによれば第三師団はシベリア出兵ではザバイカル方面で革命軍と交戦)。さらに、軍事参議官、朝鮮軍司令官を歴任。関東大震災当時はいわゆる「陸軍三長官」の一つである陸軍教育総監(他の二長官は陸軍大臣参謀総長*20)。

【イオニュースPICK UP】朝鮮植民地戦争と関東大震災虐殺の関係性/慎蒼宇さんが講演会 – イオWeb2023.5.29
 講演で慎さんは、関東大震災時「警察や軍隊といった官と、自警団に代表される民の双方は『不逞鮮人論』の幻影を増幅させ、無実の朝鮮民衆への暴力に転化させた。現在もこの時期に形成された植民地主義歴史認識上も、人権上も、意識上も克服されていなければ、また同じことが起こりうる」という問題意識の下、虐殺が行われた背景を紐解いていった。
 まず、慎さんは、植民地での軍事的暴力と現地の人びとの抵抗を近年、「植民地戦争」と呼ぶようになったと説明。甲午農民戦争(1894-1895年)からはじまり、3・1独立運動(1919年)、間島虐殺1920年)などの朝鮮植民地戦争から関東大震災への展開についてのべた。
 関東大震災時における、官の側である軍隊を率いた陸軍上層部、民の側である自警団のなかでも大きな役割を果たす在郷軍人の植民地戦争経験について豊富な資料を基に説明した。
 慎さんは、植民地戦争で、抵抗する朝鮮民衆に対する日本軍の「暴徒討伐」では、徹底的な「殲滅」と一般住民も巻き込んで関係する人を虐殺する「連座」が繰り返されてきたと指摘。
 関東大震災時には、「『朝鮮人暴動』というデマによって、『殲滅』『連座』の虐殺が繰り広げられた」とし、虐殺は「決して震災下の混乱のなかで発生した偶発的な出来事とはいえない」と主張した。
 また、甲午農民戦争といった植民地戦争で日本軍隊が内外からの批判逃れの論法として、「やむなく発砲」や、「正当防衛」論を用いたように、関東大震災時にも「やむを得ない事情」という倫理が使われたとした。
 関東大震災朝鮮人は①虐殺され、②事後処理によって虐殺が隠ぺいされ、③今も政府による公式謝罪もなく、歴史修正主義が止まずに「三度殺された」と話した。

【参考:シベリア戦争
 シベリア戦争(シベリア出兵)での日本軍の虐殺については以下を紹介しておきます。
◆広岩近広*21『シベリア出兵:「住民虐殺戦争」の真相』(2019年、花伝社)

イワノフカ事件 - Wikipedia
 1919年3月22日、シベリア出兵中の日本軍が、ロシア白軍からの要請で、白軍と敵対する抗日パルチザン(革命派武装勢力)に対する掃討作戦を各地で展開する過程で、革命派武装勢力派のイワノフカ村を白軍と共に焼討ちし、数百名の村民を焼殺および銃殺した事件。

【参考:間島虐殺

間島事件(かんとうじけん)とは? 意味や使い方 - コトバンク
 1920年、間島地方(現在の中国吉林省延辺朝鮮族自治州にあたる)の抗日朝鮮民族独立運動に対し、日本軍が行った弾圧事件。

「間島大虐殺」の全容報告書が100年ぶりに韓国国内初公開 | 東亜日報2020.2.4
 1920年10月30日、中国吉林省龍井村から北東に10キロ離れた韓国人の村チャンアムドンに日本軍が押し寄せた。日本軍は、「不逞鮮人(日本帝国の命令に従わない韓国人)を焦土化する」として、良民の首を切って銃で撃ち、家や教会に火をつけて生きたまま燃やして殺した。間島慘變(庚申慘變 、間島大虐殺)だった。その翌日、カナダのキリスト教長老会のFoote宣教師は、マーティン龍井村チェチャン病院長と一緒にこの残酷な現場を調べて記録に残した。
 これまで、部分的に知られていた彼らの証言が含まれた報告書と手紙が、100年ぶりに韓国国内で初めて公開された。キム・ヨンオク陸軍士官学校教授が最近翻訳出版した「間島出兵史」を通じてだ。間島出兵史は、朝鮮軍司令部が1920年の「間島作戦」の全容を込めて、1926年に日本陸軍省に送った秘密文書だ。キム教授は、「間島出兵史には、庚申慘變の残酷な様子についての宣教師たちの生々しい証言はもとより、日本軍が密偵を通じて把握した間島一帯の独立軍の現状と武官学校の所在地などが含まれており、独立運動史の研究に貴重な資料になるだろう」と語った。


関東大震災の被災者(北原糸子*22
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。1939年生まれの北原氏(84歳)が今も活動とは全く頭が下がります。

「関東大震災100年」(3) 生存者と死亡者の調査について 北原糸子・立命館大学客員研究員 | 日本記者クラブ JapanNationalPressClub (JNPC)2023.6.7
 関東大震災で死亡した約10万5千人のうち、およそ半数は身元が分からず、調査して分かった約5万人についても名前を含む詳細なデータは、震災から100年たった今、非公開とされているという。
 北原糸子さんは、災害社会史の第一人者。今回の会見では、関東大震災の生存者と死亡者を調べた二人の人物に焦点をあてた。
 一人は「池田宏*23」。震災直後に旧内務省の社会局長となった人物で、日本各地に散らばった被災者について「震災調査票」の作成という国勢調査並みの全国調査を行い、325万人の「無事者」と10万5千人の「死亡者」の数を明らかにした。
 もう一人は、発災時と昭和初期に東京市長を2回務めた「永田秀次郎*24」。「震災死亡者調査票」を作り、10万を超える膨大な死者の半数を、いわば単なる数字からひとりひとりの人間にした。
 では、なぜここまで記録を残すことに拘ったのだろうか。
 「死亡者調査票」を作成した永田秀次郎には、こんな動機があったという。発災時に市長であった永田は、死者の腐敗が進み衛生状態が悪化することを懸念し、誰ともわからない遺体の焼却を命じたその人だった。そのことについて「非常に引っかかっていた」という。
 「震災死亡者調査票」は名前のほか、本籍地、年齢、男女別、生存していた時の住所、死亡場所、埋葬許可証などが記載された。調査票から5万4700人余りの身元が明らかになり、現在墨田区にある東京都慰霊堂に保管されている。将来の防災に生かす可能性を持つ貴重なデータだ。
 しかし、この調査票は現在公開されていない。北原さんは10年以上前にこの調査票の存在を知り、半年かけて交渉し一部を閲覧することができたという。その後、東京都の姿勢は硬化した。公開を求める北原さんに対し、都は「最近のヘイトの騒ぎというものがあるので、状況が変わった」と今は公開を認めないという。
 調査票が非公開とされていることについて、北原さんは100年前の大震災の教訓が生かされておらず、問題なのではないかと話した。

「死者調査票」5万枚公開へ 研究者対象、「検証進む」と歓迎―関東大震災100年:時事ドットコム2023.8.16
 関東大震災による死者の氏名や死亡場所を記した「震災死亡者調査票」と呼ばれる史料約5万枚が、東京都慰霊堂墨田区)に眠っている。一部を除いて非公開のままだったが、震災から100年を機に、管理する団体が今年度中にもすべてデータ化し、研究目的に限って閲覧を許可する方針を決めたことが16日、分かった。公開を求めてきた専門家は「被災者個々人の動向を検証でき、分析が進む」と歓迎する。
 3年間の調査を経て1930年に完成した名簿には、3万8826人の犠牲者の情報が記載されている。調査票を管理する横網町公園管理所によると、同一人物で複数枚作成されたものもあり、総数は5万枚ほどと推定される。
 この調査票の研究は長く手付かずだったが、災害史が専門の北原糸子立命館大客員研究員が2011年に許可を得て4300枚余りを初めて閲覧し、道府県別出身者数の分析などを調査報告としてまとめた。しかしその後、個人情報保護などを理由に閲覧が認められなくなった。
 同公園管理所は震災から100年を機に、氏名を伏せた上で研究者向けに公開することを決定。住所や死亡場所などのデータ化を進めており、「当時の実相を知るために役立ててほしい」と、希望する研究者に今年度中の公開を目指している。
 北原氏によると、震災発生時の避難経路など集団の動きはある程度判明しているものの、個々人の動向は未解明な点が多い。「調査票から個別具体的な動きの検証が可能で、防災上の観点からも重要だ。さまざまな立場からの分析が進められることは喜ばしい」と期待を寄せる。


関東大震災の政治と外交(土田宏成*25
(内容紹介)
 「政治」として主に論じられてるのは後藤新平内務相(第二次山本内閣)が総裁を兼務した帝都復興院(1923年9月~1924年2月)です。
 但し、筆者は

◆帝都復興院の中心人物は勿論、後藤総裁だが、彼一人で復興院の方針が全て決められたわけではないこと
→「後藤が第二次、第三次桂内閣逓信相、寺内内閣内務相、外相、第二次山本内閣内務相等を歴任した大物政治家であるため」、従来の帝都復興院研究は
越澤明*26後藤新平:大震災と帝都復興*27』(2011年、ちくま新書
など、後藤に焦点が当たる傾向があったが後藤以外の復興院幹部ももっと研究すべき
◆後藤の計画は挫折した上、帝都復興院は1924年2月に廃止され、「内務省復興局(1924年2月~1930年4月)→内務省復興事務局(1930年4月~1932年4月:事務局長は内務次官の兼務)」となり、実質的な復興作業は復興院廃止後(つまり後藤が復興に関わらなくなった後)に行われた。
→にもかかわらず、帝都復興院研究に比べ「内務省復興局、内務省復興事務局」について研究蓄積が薄い

として「帝都復興研究の脱後藤」を主張しています。
 この点は9月号(今月号)に掲載された論文関東大震災と「帝都復興」』(伊藤匠)も同様の指摘をしています。
 また、筆者、伊藤共に指摘していることですが、後藤(台湾総督府民政長官を務めた)が八田與一等と共に「台湾近代化の父の一人」として日本ウヨによって半ば「神格化されていること」が「帝都復興院研究」での「後藤美化」に影響している疑いがあるとのこと。
 従来の研究は「後藤の斬新な計画について無理解な政治家たちの妨害で、後藤の復興計画が挫折」と後藤をヒーロー的に描く傾向が強かったそうですが、現在では「一面的すぎる」と修正がされているとのこと。
 「外交」として論じられているのは「震災に対する外国の支援申し入れ」です。「米国の対日支援」「ソ連レーニン号事件」等が取り上げられています。
 「米国の対日支援」「レーニン号事件(後で関係記事を紹介します)」については俺的には以下の北朝鮮の行為(東日本大震災等での日本への義援金)を連想しますね。「日本が仮想敵国扱いする国(米国の場合は関東大震災(1923年)当時のいわゆる排日移民運動での関係悪化、ソ連の場合は勿論、日本の反共主義)」が「対日関係をよくするために打った行為」と言う意味で共通するからです。但し、「皮肉なこと」に関東大震災(1923年)での「米国の対日支援」の約18年後(1941年)に真珠湾攻撃を日本がしたこと(つまり18年しか支援の効き目がなかったこと)は勿論言うまでもありません。

asahi.com(朝日新聞社):金総書記が震災見舞金50万ドル 在日朝鮮人に - 東日本大震災2011.3.24
 東日本大震災を受け、北朝鮮金正日*28総書記が在日朝鮮人に見舞金50万ドル(約4千万円)を贈った。朝鮮中央通信が24日伝えた。北朝鮮の朝鮮赤十字会も日本赤十字社に10万ドルを寄付した。朝鮮赤十字会は14日に、日赤に宛てて見舞い電も送っている。北朝鮮が日本に災害見舞金を贈るのは、2004年の新潟中越地震以来。1995年の阪神大震災の際も、金総書記が100万ドル、朝鮮赤十字会が20万ドルの見舞金をそれぞれ贈った。
 韓国の専門家の間では、冷え込んだ日朝関係の打開のため、対話再開に向けた環境を整える狙いがあるとの指摘*29もある。

北朝鮮からの義援金、日本赤十字社へ 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News2011.3.29
 北朝鮮の国営朝鮮中央通信は29日、東北地方太平洋沖地震*30津波の被害者に対する北朝鮮からの義援金が、在日本朝鮮人総連合会朝鮮総連)を通じて日本赤十字社へ届けられたと報じた。

 話が脱線しますがこうした「北朝鮮の態度」を考えれば「外交交渉による拉致問題解決」は十分可能であると俺は認識しています。私見では「外交交渉による拉致問題解決」を妨害しているのが「巣くう会、家族会」の「即時一括全員帰国(しかも『全員』に特定失踪者を含む)」と言う無茶苦茶な方針でしょう。
 ちなみに、「関東大震災での対日支援」は金額的には「1位米国(約3093万円)」「2位英国(約579万円)」「3位中国(約260万円)」だそうで、「関東大震災での対日支援」は「米国の支援」についての研究が最も厚いそうですが「米国以外の研究も蓄積する必要がある」とされています。
 なお、筆者は「思いつき」で「明確な根拠があるわけではない」と断りながらも支援金額「1位米国」「2位英国」が一時的であれ、「日本人の対英米感情」を好転させ、「いわゆる幣原外交(幣原外相(1924~1927年の加藤高明、第1次若槻内閣、1929~1931年の濱口内閣、第2次若槻内閣)による英米協調外交、しかし、1931年の満州事変の処理に失敗し第2次若槻内閣が崩壊したことで幣原外交は終焉、詳しくは幣原外交 - Wikipedia参照)」を「後押しした可能性があるかもしれない」としています。

【参考:レーニン号事件ほか】

レーニン号事件/関東大震災(9) - ことばマガジン:朝日新聞デジタル
 関東大震災をふり返るシリーズ。9回目は「レーニン号事件」をとりあげます。
 「関東大震災と日米外交*31」(波多野勝*32、飯森明子*33著)などによると、当時のソ連は震災から約1週間後、「レーニン号」を出発させます。救援隊と医薬品などの支援物資をのせていました。
 問題は、ロシア革命によって、当時の日ソ間に国交がなかったこと。出発を知った日本は、物資は受けいれるが、「言語不通」を理由に、救援隊を「一切謝絶」する方針をきめます。「ソ連の過激思想」が、流れこむことを警戒したようです。
 日本外務省は、レーニン号が神戸に向かうと思って準備していました。しかし、船は津軽海峡を通って千葉県沖に。やむなく横浜へ入港させ、12日に日本の担当者らが船に乗り込みました。
 「救援品は労働者階級に提供する」「震災は日本における革命達成上の天の使命」
 船にいたロシア人記者がそう話したと、日本側の担当者が報告します。物資も受けとらず、すぐにレーニン号に国外退去を求めることが、閣議で決まりました。
 レーニン号は、はじめは難色を示しましたが、折衝のすえに折れ、14日に出港。翌日の大阪朝日新聞は「救援と称して宣伝に、レーニン号に退去命令」と伝えました。
 震災から約1年半後、日ソ基本条約を締結。二国間の国交が回復しました。
 最後に余談を一つ。関東大震災から72年後の話です。
 1995年5月、ロシアのサハリン州北部で地震が発生しました。約2千人が命を落とすなど大きな被害がでましたが、ここで再び「すったもんだ」があったのです。
 当時のエリツィン大統領が、外国からの人道支援に対して、「後になって援助したことを利用しようとする国が出てくる。日本人は(北方領土の)島を要求してくるかもしれない」と発言。
 村山富市首相は「あくまでも人道的見地からの支援で、北方領土問題との関連は全くない。誠に残念」と不快感を示します。
 ほどなく、ロシアの駐日大使から、エリツィン大統領のメッセージが伝えられました。村山首相あてで、「他国より先に来たことを高く評価する」と感謝する内容だったそうです。
 歴史は繰り返すといいます。領土や歴史認識など、問題を抱えた国同士の関係は難しいものですね。

知っていましたか? 近代日本のこんな歴史 | 帝都再建 ~関東大震災からの復興~
 都市機能が完全に停止した帝都東京で、懸命な救助・救援活動、そして復旧活動が始まります。また、海外からも救援の手が差し伸べられ、さまざまな国から救援物資や義捐金が送られてきましたが、中でもアメリカは、9月5日に海軍の艦船が物資を積んで横浜に入港し、その数日後にはアジア艦隊のアンダーソン司令長官ができる限りの救援を行うことを日本政府に対して申し出るなど、非常に積極的な姿勢でした。
(中略)
 帝都復興の成果は、その当初から大きくアピールされていました。震災発生の数か月後には、「這回の大震災に際し諸外国官民の倚せたる至大の同情援助に対する我国官民感謝の一端を表明し且つ震災及復興等に関する実況を海外に紹介する為」、つまり、諸外国から寄せられた多くの支援に対する感謝の気持ちを示すことや、被害の様子や復興の様子を海外に伝えることを目的として、外務省情報部が映画を製作し、在外公館を通じて各国に配布していました。文部省(現在の文部科学省)でも同時期に同様の映画が製作されているようです。こうした(ボーガス注:海外からの経済支援で復興は順調に進んでいるという)アピールは、外国からの援助や、特に国債の発行による海外からの資金調達に頼りながら復興を進めていた日本にとっては重要なものだったのでしょう。


関東大震災と「帝都復興」(伊藤匠)
(内容紹介)
 帝都復興(東京の震災復興)について論じていますが小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
参考

知っていましたか? 近代日本のこんな歴史 | 帝都再建 ~関東大震災からの復興~
 震災発生の翌日に発足した山本権兵衛*34内閣では、この日のうちに、復興事業を担う特別な機関である「帝都復興院」の設立が提案されています。その後の議論を経て、帝都復興院は、内閣総理大臣直属の機関として9月27日に実際に設立されることとなり、各所から優れた技術者が集められ、その総裁には、数か月前まで東京市長であった内務大臣の後藤新平が就任しました。
 帝都復興のリーダーとなった後藤は、壮大な復興構想を打ち立てます。この構想は、国の主導による復興事業という方向性が強く、被災した土地をすべて国が買い上げて整備を行うという方針が掲げられていました。しかし、この手法は土地の持ち主の権利を侵害するものだとして批判を浴び、実現には至りませんでした。
 それでも、後藤の主導のもと帝都復興院が作り上げた復興計画は、大規模な道路整備や土地区画の整理などが盛り込まれた、まさに帝都をつくり変えるもので、その実現のために莫大な額の国家予算が必要とされていました。その額は、当時の日本が国債の発行によって借り入れることのできる限度額であった15億円の半額にあたる7億5,000万円にのぼっていましたが(後藤の最初の案では30億円だったとも40億円だったともいわれます)、12月に始まった第47回帝国議会では、首都の復興にばかり国家予算が注ぎ込まれると地方が不満を持つと批判され、さらに主要な道路の整備以外は地方自治体に任せることなども決定され、最終的な予算額は4億6,800万円にまで削減されました。なお、この直後に起きた(ボーガス注:難波大助による皇太子(後の昭和天皇)暗殺未遂事件である)虎ノ門事件の責任をとって山本内閣が総辞職した際に、後藤新平も帝都復興院総裁と内務大臣の職を辞しています(後任は水野錬太郎*35です)。
 そして、議会のもうひとつの結論として、帝都復興院が大正13年2月に廃止されることになりました。つまり、復興計画が定まった時点で、復興事業を内閣総理大臣が直接管理するという体制は停止されたのです。代わって、計画実行を担うため、内務省のひとつの部局として「復興局」が開設されました。
 後藤新平の構想や帝都復興院の最初の案からは、内容・予算ともに大幅に縮小されてしまった帝都復興計画でしたが、それでも、復興局のもと、東京と横浜では6年間の工程でさまざまな復興事業が進められていきました。
 東京では、国によって52本の幹線道路が整備されましたが、これらの道路は現在でもほぼそのまま都内の主要な通りとなっています。このほか、崩落してしまった隅田川の多くの木造の橋に代わって、「震災復興橋梁」と呼ばれる9つの鉄製の橋が造られています。このうち、両国橋、厩橋吾妻橋は国によって造られ、相生橋永代橋清洲橋、蔵前橋、駒形橋、言問橋東京市によって造られました。ほかにも、東京全体で103の橋が整備されています。東京の三大公園と呼ばれる、隅田公園、浜町公園、錦糸公園も、当時「震災復興公園」として造られたものです。
 このように、震災復興事業によって整備された数々の道路や施設が、並行して進められた大規模な土地区画整理とともに、今日の首都東京の基礎をかたちづくったのです。
 帝都復興の成果は、その当初から大きくアピールされていました。昭和4年(1929年)10月には、帝都復興の達成を記念する「帝都復興展覧会」が日比谷公園内で開催されました。また、翌年の昭和5年(1930年)8月には、「帝都復興記念章」がつくられ、授与の対象者は「帝都復興の事業に直接関与したる者」「帝都復興の事業に伴う要務に関与したる者」と定められました。つまり、この記念章は帝都復興の功労者を称えるためのものでした。帝都復興記念章創設の4ヶ月前、昭和5年(1930年)4月1日には復興局が廃止され、その業務は内務次官が局長を務める復興事務局に引き継がれました。この復興事務局も昭和7年(1932年)4月1日に廃止され、帝都復興事業は制度として完全に終わりを告げました。

関東大震災から100年、観光スポットになった帝都復興の遺産「不燃のまち」とは | 日経クロステック(xTECH)2023.3.3
 2023年は、1923年に発生した関東大震災から100年の節目にあたる。そこで今回の散歩は、東京・隅田川下流から上流へ向けて遡りながら、「帝都復興事業」の足跡をたどってみよう。
 旧東京市深川食堂は、旧東京市関東大震災後の復興事業の一環として設置した市設食堂の1つ。当時、このような公衆食堂は市内16カ所にあったという。低所得者に、安くて栄養のある食事を提供した。現在は、観光案内所「深川東京モダン館」となっていて、内部も見学できる。
 同建物は、構造にも注目したい。当時の最先端技術といわれていた、鉄筋コンクリート造(RC造)が採用されているのだ。震災直後に復興の中核を担ったのは、内務大臣であった後藤新平が率いる帝都復興院だ。その大方針は「首都・東京の不燃化」にあった。10万5000人を超える関東大震災の死者・行方不明者のうち、9割近くが火災の犠牲者だったからだ。
 1924年2月に帝都復興院が廃止されたのち、事業は内務省復興局に引き継がれ、木造の公共建物はRC造へと更新されていった。東京は関東大震災を境として、木造のまちから鉄とコンクリートのまちへと一変したのだ。
 永代通りを渡るとすぐに、「江東区立臨海小学校」がある。関東大震災後に、東京市が建設した117校の「震災復興小学校」の1つだ。校舎は深川東京モダン館と同様に、耐火性・耐震性にすぐれたRC造だった。震災復興小学校のうち52校には、災害時に地域の避難場所となる「震災復興小公園」が併設された。臨海小の隣にも、低いフェンスで校庭と区切られた「臨海公園」がある。
 次に向かったのは震災復興橋梁の一つ、「永代橋」だ。関東大震災では、隅田川に架かる橋のほとんどが大きな被害を受けた。
 木造の橋はもちろんのこと、いくつか架けられていた鋼鉄製の橋も、床は木製であったため火災で燃えてしまい、避難路としては機能しなかった。そこで復興局は、大地震や火災にも耐えられる恒久的な橋を計画した。
 前編で歩いたのは、1947年まで東京都深川区*36だったエリアだ。江戸時代から隅田川と接続する掘割が縦横に巡らされ、物流の拠点として栄えていた。震災後に数多くの震災復興橋梁が架けられたのはそれらの掘割であり、かいわいに倉庫が多いのも舟運が物流の中心であった頃のなごり。

怪獣がいる建築や美観にこだわる橋梁群、関東大震災後に生まれた個性的な建造物たち | 日経クロステック(xTECH)2023.3.10
 両国橋からいったん隅田川テラスを離れ、両国国技館旧安田庭園を越えて右に曲がると、都立横網町公園の前に出る。
 ここは関東大震災のとき、逃げ込んできた近隣の住民3万8000人もの命が失われた場所だ。
 まだ空き地状態だったところへ強風で火災の炎があおられ、避難者の持ち込んだ布団や家財道具に火が燃え移ったとされる。
 1930年には、納骨室がある三重塔を備えた東京都慰霊堂のほか、鐘楼、日本庭園などを含めて横網町公園として開園。1931年には被害状況や遺品などを展示する東京都復興記念館が完成した。復興記念館には、架け替えの際に取り外された両国橋の親柱の装飾や、被災した永代橋の写真、地下鉄や共同溝(ガス、水道、電気、電話などのライフラインをまとめて収める施設)まで作り込まれた復興計画の模型など、興味深い資料がたくさん展示されていた。横網町公園を訪れたら、ぜひ復興記念館も見学してほしい。

東武鉄道を間近で感じられる橋、100年前の街づくりが生きる隅田・浅草を歩く | 日経クロステック(xTECH)2023.3.17
 「隅田公園」は、中央区の浜町公園、墨田区錦糸公園とともに、帝都復興計画による「三大公園」の1つとして1928年に設置された。公園の設置が重視されたのは、防火帯や避難地としての公園の機能が評価されたからだ。これは、関東大震災の教訓の1つである。

復興小学校 - Wikipedia
 関東大震災で被災し、復興事業の一環として鉄筋コンクリート造(RC造)で再建された小学校のこと。当時の東京市では196あった市立小学校のうち、火災で焼失するなどした117校が復興小学校として建て替えられ、中央区立泰明小学校など4校が現存する。

 勿論鉄筋コンクリになったのは「耐震と防火」でしょう。

復興小学校は今どうなっている?関東大震災を教訓に生まれた“焼けない・壊れない・避難しやすい”学校とは - まっぷるトラベルガイド2021.12.22
 復興小学校は、単に耐震・耐火性が高い鉄筋コンクリート造というだけでなく、表現主義やインターナショナルスタイルと呼ばれた当時最先端のデザインを採用。水洗便所や蒸気暖房などの設備も導入し、鉄筋コンクリートの特性を生かした大窓などにより採光や風通し、衛生、教育環境に配慮した高い機能をもつ校舎になっています。
 また、地域の中心的施設とするべく、講堂兼屋内運動場も設置されました。
 さらに、小学校と隣接する52か所に小公園が造られたことも、町づくりの上で重要なポイントといえます。
既成市街地の復興は土地が非常に不足する状況にもかかわらず、小学校の延長として小公園を活用したり、小公園と校庭を囲む不燃校舎が一体化して防災面でより効果的な広い空地になったりするという相乗効果も発揮しました。
 また、焼失区域外にも同様の小学校が建てられており、それらは「改築小学校」と呼ばれます。
 復興小学校は、関東大震災から90年たった2013年時点で、15校が現存していました。そのなかで、千代田区立九段小学校中央区立常盤小学校、同阪本小学校、同泰明小学校、同城東小学校、台東区立黒門小学校、同東浅草小学校の7校は、2020年現在も現役の小学校として使われています。
 なかでも泰明小学校は、1999年に東京都選定歴史的建造物に選ばれ、2009年には経済産業省の近代化産業遺産にも認定されました。同校は震災前の大正3(1914)年に数寄屋橋公園が隣接して設置されていたため、小公園は造られていません。
 現役の小学校ではないものの、ほかの施設として活用されているものもあります。旧十思(じっし)尋常小学校が十思スクエア、旧箱崎尋常小学校が水天宮ピット、旧京華尋常小学校が京華スクエア、旧小島尋常小学校台東デザイナーズビレッジに、それぞれ転用されています。
 一方、旧愛宕(あたご)高等小学校(旧都立港工業高校)や旧元町尋常小学校(旧文京区立元町小学校)、旧下谷尋常小学校(旧台東区下谷小学校)、旧柳北(りゅうほく)尋常小学校(リセ・フランコ・ジャポネ・ド・東京柳北校)の4校は、廃校や転用の期間が切れたあとに、どうするか決まっていません。

現存する大正昭和遺産「復興小学校」坂本小学校が100年の歴史に幕、解体前に2/26.27 棟下式 誰でも無料参加OK | 鉄道ニュース | 鉄道チャンネル2022.2.22
 東京都台東区下谷にある、旧坂本小学校。
 この旧坂本小学校 は、関東大震災で被災した小学校を、復興事業の一環として鉄筋コンクリート造(RC造)で再建した「復興小学校」として現存する、貴重な建築遺産のひとつ。
 1926(大正15)年、入谷尋常小学校を改築し、現在に至るこの坂本小学校は、復興小学校のなかでも、講堂も含めすべて現存している最古の校舎であり、当時のようすを伝える貴重な財産といえる。
 エントランスや講堂、階段室などの意匠に価値があり、講堂とトイレのあり方にも、同時期の復興小学校に見られる空間的特徴をよく備えている。
 そんな坂本小学校も、ことし3月に解体が決まり、100年の歴史に幕を閉じようとしている。
 この貴重な大正・昭和建築遺産を、最後に体感できる“儀式”が、2月26・27日に行われる。
 1926(大正15)年に誕生した「復興小学校」、大正・昭和の建築遺産ともいえる旧坂本小学校が、3月に解体・撤去・更地化されるのを前に、誰でも無料で参加できるお別れ式「棟下式」を2月26・27日に開催する。
「リノベーションでリユースできる建物は良いが、耐震や老朽化で取り壊さざる得ない建物に、ちゃんとお別れする式典があってもいいのではないか」
 そんな発想から生まれたのが、棟下式。長年お世話になった建物を労い、最後に感謝を伝える式典で、埼玉の住宅メーカー・ポラスグループの中央グリーン開発が2017年に初開催し、現在、合同会社パッチワークスと式典のセルフキット化をはじめ、文化として全国に根付かせていくべく取り組んでいる。
 ポラスとパッチワークスは、「お別れを言うことで気持ちの整理がつき、次に進む。空き家問題の解決や地域コミュニティの醸成につながる」という考えから、今後も各地で棟下式を展開していくという。

「東京の廃虚」の復興小、閉校33年目に解体 「ついに…」惜しむ声:朝日新聞デジタル2023.7.26
 関東大震災後に、堅固なつくりの「復興小学校」として再建された旧下谷小学校(東京都台東区東上野4丁目)が、老朽化や跡地の活用などを理由に来月解体されるのを前に、21~23日に見学会が行われた。大勢の卒業生らが訪れ、思い出の詰まった教室や校庭などを見て回った。現存する復興小学校の校舎は貴重で、解体を惜しむ声もあった。
 同小は1875年創立。1923年の関東大震災後の28年、耐震性や耐火性が高い鉄筋コンクリート造りの復興小として3階建ての校舎が完成した。最盛期の1955年前後には1300人以上が学んでいたが、徐々に児童数が減少。1990年4月に近くの小学校と統合した。
 校舎が使われなくなった後、活用の方向性が定まらない状態が長く続いた。ツタがからみ、老朽化した校舎はネット上で「東京の廃虚」と話題になった。区は昨年、跡地に上野警察署が移転してくることなどを含む再利用計画を正式決定。解体工事は8月に始まる。

関東大震災100年 東京・上野「復興小学校」が地域に残したもの | NHK2023.8.17
 100年前の関東大震災では、激しい地震と火災で多くの小学校が倒壊・焼失しました。
 その教訓を元に建てられたのが、当時の先端技術であった鉄筋コンクリートで再建した「復興小学校」と呼ばれる校舎です。
 かつては都内に100校以上ありましたが、老朽化などで次々と姿を消し、現在も小学校として残っているのは4校だけです。
 ことし、「復興小学校」のひとつとして長年地域で親しまれてきた、台東区の旧下谷小学校の解体が決定し、卒業生らによる「お別れ会」が開催されました。
 復興小学校とは地域にとってどのような存在だったのか、取材しました。
 復興小学校の一つ、台東区にある旧下谷小学校。生徒数の減少から33年前に閉校し、区による管理が続けられてきましたが、ことし取り壊しが決定しました。
 7月23日に開かれた「お別れ会」には、校舎に最後の別れを告げようと、卒業生や地域の人200人ほどが集まりました。
 下谷小学校は明治8年に創立。当時は木造2階建ての校舎でした。
 しかし、創立50年の節目を前に大地震が東京を襲います。関東大震災です。
 下町一帯は焼け野原になり、下谷小の校舎も全焼しました。
 震災から5年後、地域住民の念願かなってようやく完成したのが今の校舎です。
 どんな地震や火災にも耐えられるようにと、当時としては珍しい鉄筋コンクリートで作られました。
 教育の歴史に詳しい共立女子大学の小林正泰(こばやし・まさひろ)准教授です。
 当時、「帝都として恥ずかしからぬ都市」への復興を掲げていた国や東京市にとって、「復興小学校」の建設は、威信をかけて優先的に行われたプロジェクトだったといいます。
共立女子大学・小林正泰*37准教授
「当時の記録を見ますと、復興小学校ができたということが、子どもたちや地域の人たちにとってすごい喜びなんですね。というのもやはり、震災で学校が完全に燃えたあと、まずは露天授業という何もないところで授業をして、そのあとにテント教室を作ってテントの中で授業をする。そのあとに仮校舎を建てる、というようなプロセスを経るんですけど、つまり子どもたちはすごくみじめな気持ちで授業をしばらく受け続けることになるんですね。
 その中で新しい新品な校舎、しかも鉄筋コンクリートの立派な校舎ができた、そのことの喜びというのがすごく書かれている。地域の人たちにとって復興小学校があるということはある意味で、わが町の誇りみたいな側面があったのかなと思います」
 校舎には、頑丈さだけでなく、デザインにもこだわりが見られます。
 全体的に直線的なつくりの中に、ところどころアーチなどの曲線的なデザインが取り入れられています。
 「耐火・耐震は大前提としつつも、帝都としての品格と美観を持った街にすべき」という当時の関係者たちの強い思いの表れです。
 そして、復興小学校について語るうえで、小林准教授が重要と考えているのが、学校建築自体が児童たちの教育に役立つ「子供の王国」となるよう設計された点です。
 復興小学校の建設時、重視されていたのが「新教育」という考え方でした。それまでの教師中心の教育から、児童の主体的な学びへと変革させようというものです。
 その変化は教室のつくりにもよく表れています。
 教室の奥まで光が届くように、窓は高くとられ、教師と児童をはっきりと分けていた教壇は取り払われました。教室の黒板は児童が自由に使えるよう、位置が下げられ、教室の後ろにも設置されました。
 また、復興小学校は、「社会教育の場」としても活用されてきました。

 地域の人たちとのつながりを大切にするため、昇降口のつくりなどが工夫されているといいます。
共立女子大学 小林正泰 准教授
「これは当時の文部省の方針でもありますが、社会教育の場として復興小学校をどういう風に使うのかという趣旨のもとに設計されています。
 まず、復興小学校全体の特徴として昇降口が2つほぼ必ずついています。第1昇降口は児童や先生方が入っていくんですけど、第2昇降口は地域の人が入ってくるものとして想定されています。
 いわゆる動線計画という言い方をしますが、地域の人が入ってくる第2昇降口の近くに講堂を作ることで、講堂を社会教育的な場、公会堂的な用途として使うというような、コミュニティーの中心として機能するように設計されています」
 校舎には、災害時の避難を想定して設計された部分が数多く残っています。
 廊下や階段は子どもたちが一斉に移動できるよう、幅を広めにとっています。
 校庭へ出るための扉は10か所以上もあり、子どもたちがすぐに外へ出られるよう工夫されています。
 校舎とセットで整備されたのが「復興小公園」と呼ばれるスペースです。
 児童が使わないときは地域の人が自由に出入りでき、災害時は避難所として利用することが想定されていました。
 下谷小学校には、学校が避難所になることを前提にした災害時の細かい役割分担やルール作りをした記録が残っていて、学校だけでなく地域の防災拠点として活用されてきたことがうかがえます。
 今回のお別れ会を企画した卒業生のひとり、石井弘芳さんです。
 石井さんは江戸時代から続く表具店の店主で、親子2代で下谷小に通いました。現在は地元の町会長も務めています。
 戦時中、下谷小は空襲で焼け出された人の避難先にもなりました。
 このプールは、空襲での火災に備え、貯水池として作られたものです。戦後も毎年、プールを使って、放水などの訓練が続けられていたといいます。
 校庭に地域の子どもたちとその親が集まり、災害時を想定したキャンプを行ったことも。
 食料など、備蓄品をたっぷり用意して臨んだ石井さん。思わぬ出来事があった当時のことが今も忘れられないそうです。
石井弘芳さん
地震が来た日の夜を想定して避難訓練をしました。夜9時くらいに集まって、校庭にテントを張って、翌日は乾パンとかアルファ米を炊いて食べる予定でしたね。
 そしたら、12時前ごろになると雨が降ってきちゃった。いざ避難しなきゃならないってことで、みんなで大慌てで講堂とか教室に入ったりして、ほんとの避難訓練になっちゃった」
 学校としての役目を終えた後も、避難所として地域を支えてきた下谷小学校。
 解体に伴い、避難場所も別の場所に移ることになりました。
 地域住民の移り変わりも進む中、これまで築き上げてきた地域のつながりや防災意識をどう継承していくのかが、新たな課題です。
共立女子大学 小林正泰 准教授
「復興小学校があることによって、ある意味での関東大震災のモニュメントとして機能するという部分もあると思うんですよね。
 その地域にそういう学校があるということによって、震災の記憶が呼び起こされて、それが間接的に防災意識にもつながる。ただ建物がなくなってしまうと、震災そのものの記憶が薄れていく。そういう可能性はあるのかなと思います」
 旧下谷小学校の跡地の一部には、上野警察署が移転してくる予定で、残りの敷地の用途については検討中だということです。 石井さんたちは、今後防災に役立つ活用法ができないか、区などと相談していきたいと話していました。

 小林准教授ら(赤字部分)だけでなく、伊藤論文も指摘していますが帝都復興とは「震災前に戻すこと、元通りにすること」ではなく「ある種の新思想、新施策の発表の場」であったことが窺えます。

震災復興再開発事業 - Wikipedia
 後藤新平の強い影響下に設立された復興院は廃止され、翌1924年2月25日、内務省の外局として復興局が設置されて、復興院技監だった後藤系の直木倫太郎*38が復興局長官となった。しかし復興局は、「伏魔殿」と言われ、疑獄事件が相次いだ。特に1925年12月からは、前復興局整地部長稲葉健之助、鉄道省経理局長十河信二*39(前復興局経理部長)ら多数が逮捕・起訴される復興局疑獄事件が摘発され、復興局土木部長太田圓三*40が自殺した。検事局による捜査の手は、直木前長官(1925年9月16日に憲政会系内務官僚の清野長太郎*41と交代)や政友本党幹事長小橋一太*42(清浦内閣内閣書記官長)にまで及んだが、復興局側の担当者だった太田が自殺したために捜査が進まず、また政治決着が図られた形跡もあり、捜査は1926年4月で立ち消えとなった。1930年3月からは、昭和天皇東京市内視察を皮切りとした帝都復興祭が迫っており、復興の問題に対しては「臭いものに蓋」のムードが立ち込め、復興に関するできごとが天皇の名で「偉業」と化していった中、復興院、復興局の不祥事は語りにくい事件となって行き、戦後刊行された東京百年史編集委員会編『東京百年史・第四巻』(東京都、1972年)でもまともに扱われなかった。さらにマスコミも事件の隠蔽工作に手を貸していたとされる(稲葉は復興局機密費を使って新聞記者に金銭を送っていたとされる)。

 戦前から「人の不幸で私腹を肥やすクズがいたのか」「マスコミも戦前から腐敗していたのか(今は官房機密費で買収?)」と思うとげんなりします(予想の範囲内ですが)。こうした「腐敗、汚職の記憶(黒歴史)」も「今ではあまり語られない関東大震災の記憶」ではあります。
 太田が自殺したために捜査が進まずですが、「疑惑のキーマンの自殺で捜査が頓挫する」というのは松本清張ある小官僚の抹殺』、『点と線』等で良くあるパターンです(清張の場合「自殺に見せかけた口封じの殺人」が多いですが)。
 『ある小官僚の抹殺』については以下を紹介しておきます。

[大弦小弦]松本清張の初期の短編「ある小官僚の抹殺」は… | 大弦小弦 | 沖縄タイムス+プラス2018.4.12
 松本清張の初期の短編「ある小官僚の抹殺」は、汚職事件に関与したノンキャリア官僚の死の真相をめぐる推理小説。社会派と呼ばれた作家らしい筆致で、権力と職務のはざまで苦悩する役人の末路を描く。
▼巻き込まれた下級官僚は死に追いやられ、政治家や高級官僚は巧みに追及を逃れる。半世紀以上前の作品の描写は「昭和」そのものだが、主題は古びていない。どこかで聞いた現在進行形の話のようで読後の味は苦い
加計学園問題で「首相案件」と書かれた文書が焦点となった11日の衆院予算委の集中審議。相手の自治体が面会記録を残しているのに官僚の答弁は「記憶にない」「すでに破棄」の連発だった
▼一流大学を出て各省庁で競争を勝ち抜き、国会答弁に立つまでに出世したキャリア官僚の仕事ぶりがそれほどいいかげんだと本気で信じる人がいるだろうか

ある小官僚の抹殺
 警視庁捜査2課に、砂糖をめぐる政界がらみの汚職があるとの電話密告がありました。ある省の唐津課長は、岡山へ出張した帰りに大阪に寄り、熱海で自殺します。
 汚職疑獄事件で課長補佐クラスが自殺することに、清張はこの頃から興味を持ったようです。警察と上役との板挟みの中で自殺する小役人について、清張は「精神的な他殺」だと言います。


◆震災記憶とメディアの展開(水出幸輝*43
(内容紹介)
 以前、拙記事新刊紹介:「歴史評論」2021年4月号 - bogus-simotukareのブログで紹介した以下の内容が改めて主張されます。

「〈災後〉の記憶史」書評 なぜ台風は忘れ去られたのか|好書好日2019.11.2
 15号、19号と東日本一帯に未曽有の被害をもたらした今秋の台風。地震対策に比べ、台風に対する備えは十分だったのだろうか。期せずして、本当に期せずしてそんな疑問にヒントを与えてくれたのが『〈災後〉の記憶史*44』である。
 新聞などの災害報道や記念日報道を丹念にたどりながら、著者は被災や防災に対する人々の意識を変えた二つの大災害に着目する。ひとつは10万5千人余の犠牲者を出した関東大震災(1923年)である。今日でこそ歴史に残る大災害として知られる大震災はしかし、「帝都復興」を期した発生後の10年弱を除くと、戦中、戦後を通じて急速に忘れ去られていく。
 戦後、かわってメディアが注目したのが台風、とりわけ5千人余の犠牲者を出した伊勢湾台風(1959年)だった。翌60年に「防災の日」が制定されたのも、防災対策が不十分だった伊勢湾台風への反省がキッカケという。ところが防災の日はなぜか、伊勢湾台風の日(9月26日)ではなく関東大震災の日(9月1日)に設定された。何があったのだろうか。
 一度は風化した関東大震災が「ナショナルな記憶」として1960年代以降に再浮上し、伊勢湾台風が東海エリアの「ローカルな記憶」として忘却されたのは偶然ではないと著者はいう。ほぼ毎年列島を襲い、規模やコースが予想できる台風に対し、地震は科学的予知の可能性が絶えず語られ、将来必ず来ると予告されることで「特別な災害」に位置づけられた。犠牲者の数があまり変わらない阪神・淡路大震災伊勢湾台風*45の扱いの差を見れば一目瞭然。
〈台風ではなく、地震であるということが重要なのだ〉。〈日本社会は台風を忘れることで地震の記憶を再構築し、起こり得る地震への想像力を育んできた〉のだと。
 今年は伊勢湾台風からちょうど60年。豪雨被害を伝えるニュースの中で本書を読み、深く納得した。台風も忘れまいと思った。

 と同時に「関東大震災の記憶(9/1のマスコミ報道など)」が「ほぼ防災限定」であることも指摘されます。
 田中正敬、愼蒼宇論文が問題にする「朝鮮人虐殺」や、土田宏成論文が問題にする「外国による日本支援」といった「記憶」は影が薄いわけです。


◆書評:大豆生田稔*46『戦前日本の小麦輸入』(2023年、吉川弘文館)(評者:谷ヶ城秀吉*47
(内容紹介)
 大豆生田氏の過去論文

大豆生田 稔 (Minoru Omameuda) - マイポータル - researchmap
三菱商事*48シアトル支店の小麦仕入れ:一九二〇年代末の産地買付計画』・白山史学48号(2012年5月)
→著書第5章

等を

序章 課題と方法
第1章 拡大する北米小麦の対日輸出:1920年代
第2章 東アジア市場をめぐる北米・豪州小麦:1930年代
第3章 日本の小麦需要:1910~30年代
第4章 三菱商事シアトル支店の北米小麦・小麦粉取引:1920年代における東アジア向け輸出の拡大
第5章 三菱商事シアトル支店の小麦仕入:1920年代末の産地買付計画
第6章 三菱商事シアトル支店と日清製粉出張員
第7章 北米小麦の対欧輸出:三菱商事の「国際小麦取引」
第8章 戦時の豪州小麦輸入と三井物産
終章 総括と展望

としてまとめたもの。
 食事が欧米化するに伴い、パンやパスタの原料として、戦前日本での小麦の需要が増えたものの、国内産では賄えず、海外から輸入していた。
 このうち、「豪州小麦輸入」は三井物産が、「米国小麦輸入」は三菱商事が最大のシェアであり、三井、三菱の小麦輸入について分析されてるそうですが小生の無能のため詳細な紹介は省略します。


◆書評:権学俊*49朝鮮人特攻隊員の表象』(2022年、法政大学出版会)
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

書評「朝鮮人特攻隊員の表象」 (権学俊、クオン・ハクジュン著) 逃げ場なく はかない希望求め|信濃毎日新聞デジタル 信州・長野県のニュースサイト
 金沢の石川護国神社内に「大東亜聖戦大碑」なる碑がある。建立計画に物議を醸したことでも知られる。一番の問題は「ひめゆり学徒隊」など一部の個人や団体名が遺族の許可なく*50無断刻銘された点であり、そこに朝鮮人特攻兵たちの名前もあるという。
 朝鮮人遺族の一人は、遺族まで「親日派」に見られる、と削除を求めた。韓国では「親日派」は長らく「民族の裏切り者」であり、名誉回復がなされてきたのは2000年代に入ってからだ。遺族の多くは財産の没収や投獄を経験してきた。大碑を建てた人々の「敬仰顕彰したい」という無断刻印について、著者は「天皇イデオロギーと戦前日本帝国主義の徹底した自己中心主義」と表現する。弔いとは、本来遺族によるプライベートなものであるべきだが、殉国という概念が絡んでの一方的な慰霊や合祀は暴力になり得るのだ。
 日本では、朝鮮人でありながら日本のために志願した尊い犠牲として、映画*51などで描かれてきた朝鮮人特攻兵。韓国でもその「志願」ゆえに否定的に捉えられてきたが、実態は半強制*52だったとされる。長男であると断れば「家族の面倒は見る」と上官が説得し、各種学校には「適格者全員を志願せしめるよう」と朝鮮総督府から通告があった。未志願者の元には警察がやってきた。逃げ場のない彼らが求めた論理は、朝鮮人も立派に役目を果たせることを証明する、という差別の解消や、朝鮮人の武勲が独立への道*53、と信じるはかない希望だった。
 日韓双方が、朝鮮人特攻隊をおおざっぱな表象としてではなく、細部をよく見つめなければならないのは言うまでもないが、日本人に必要なのは「慰霊碑問題、俺たちの好意が分かんないの?」と逆ギレすることでも、「みんな同じ犠牲者で、平和のために死んだんだよね」と安易にまとめることでもなく、まず植民地支配を受けた人々との間にある「緊張関係を自覚する」ことなのだという指摘は的確だ。
 沖縄特攻は昭和20年3月末から始まった。誠第32飛行隊に所属し、松本飛行場から飛び立った金尚弼(結城尚弼)の沖縄特攻死は4月3日である。

【参考:朝鮮人特攻隊員】

「戦犯」として処刑された朝鮮人の日本陸軍中将がいた 歴史に翻弄された人生 | TBS NEWS DIG (1ページ)
 朝鮮人なのに、なぜ特攻隊で死ぬのか。
 書き残された記録を見てみると、兄から「特攻に行くな」と説得された弟は、「自分は、朝鮮を代表している。逃げたりしたら、祖国が嘲われる。多くの同胞が、一層、屈辱に耐えねばならなくなる」(金尚弼、日本名「結城尚弼(しょうひつ)」中尉)。
 またある人は「朝鮮人の、肝っ玉をみせてやる」と言って特攻隊に行って突っ込んでいったという記録が残っています(朴東薫、日本名「大河正明」)。

【海外の見方】韓国、痛恨の記憶 特攻隊員には朝鮮半島出身者も|【西日本新聞me】2014.7.29
 特攻隊員には日本統治下の朝鮮半島出身者もいた。その足跡を追った韓国紙記者の著書「私は朝鮮人カミカゼだ」によると、朝鮮人隊員の戦死者は17人。韓国にとっては、加害者側になって若い命を散らせた痛恨の記憶だと言える。
 17人は「日本の植民地支配の犠牲者」だが、それにとどまらない。家族を養うためとはいえ、多くが志願入隊だったため、「日本の侵略戦争に加担した親日売国奴」と批判される。
 それを象徴する「事件」が2008年に起きた。韓国通で知られる女優の黒田福美さんが、ある朝鮮人特攻隊員*54の慰霊碑建立を計画*55。遺族の理解や地元自治体の協力を得て完成させたが、除幕式直前に抗議運動が起き、撤去した。
 もっとも、生き残った元隊員は、戦闘機の操縦技術を持つ人材として国の発展に寄与。韓国空軍に転じ「朝鮮戦争の英雄」「韓国航空産業の父」になった。
 隊員の遺書などを世界記憶遺産にする構想に、韓国政府は特にコメントしていないが、「国家のために個人の死を当然視する作戦を美化する」(ハンギョレ新聞)などの批判がある。
 一方、中国政府は、「日本軍国主義による侵略の歴史を美化し、世界反ファシズム戦争の成果と国際秩序に挑戦しようとしている」(華春瑩外務省副報道局長*56)と警戒。歴史資料や公文書などを保管する中央トウ案館などは、旧日本軍による南京大虐殺従軍慰安婦をめぐる資料などを記憶遺産に登録するよう申請する動きもみせている。

 黒田福美については

道産子ナオ
 黒田福美も大概だよな。「日本のために特攻で死んでくれてありがとう」という発想が根底にある「弔い」なんて、植民地支配による抑圧をしていた側が起こした侵略戦争の先兵にされて命を奪われた兵士の遺族が喜ぶとでも思っているのだろうかね?
女優の黒田福美さん、宇都宮で講演 朝鮮人特攻隊員思い語る 民団県本部式典で|県内主要,社会,地域の話題|下野新聞「SOON」ニュース|下野新聞 SOON(スーン)

という批判ツイートを紹介しておきます。おそらく歴史評論も黒田に対する評価はそうした厳しい物でしょう。

【目を覚ませ韓国】戦後に親日派として迫害された父「日本は決して悪い国ではない」(1/3ページ) - 産経ニュース松木國俊*57(2017.12.25)
 卓庚鉉(タク・キョンヒョン)は、京都薬学専門学校(現京都薬科大学)を卒業し、鹿児島県知覧にあった大刀洗陸軍飛行学校知覧分校に入校した。知覧基地近くで食堂を経営し、「特攻の母」とも呼ばれた鳥濱トメと親しく付きあった。出撃前夜はともにアリランをうたい、トメ一家の写真を抱いて敵艦に突入した。享年24。
 崔貞根(チェ・ジョングン)は、陸士56期を卒業後、陸軍航空隊に入隊した。梅澤ひでという日本人女性の婚約者を残し、45年2月2日、沖縄洋上で特攻戦死した。享年24。ひでさんは2005年に天寿を全うするまで、生涯、崔中尉を慕い続けたという。

 「鳥浜トメと卓庚鉉」「梅澤ひで(婚約者)と崔貞根」の人間関係を元に「日本人による朝鮮人差別などなかった」と強弁したいようです。どこまで下劣で恥知らずなのか。

 金尚弼(キム・サンピル)は、大学卒業後、陸軍航空隊に志願入隊し、1945年2月、特攻隊に志願した。彼は「僕は日本人になりきって日本のために死のうとしているのではありません」「日本を勝利に導いてその暁にわれわれの武勲を認めさせて、独立にもっていくことです*58」と家族に別れを告げ、4月3日沖縄西方洋上に散った。享年25。
 朴東薫(パク・ドンフン)は43年、福岡の大刀洗陸軍飛行学校本校に入校した。45年1月に特攻に志願し、同年3月29日に沖縄西方洋上の敵艦に突入した。享年18は特攻隊員の中でも最も若い戦死であった。朴の父親は戦後、「親日派」として迫害を受けながらも、死ぬまで「日本という国は決して悪い国ではない。特攻で死んだ(ボーガス注:人間の)家族に対して、必ず責任を持つ国だ*59」と子供たちに語っていたという。
 彼らはみな、日本の勝利を信じ「この聖戦で日本人に負けない朝鮮人の魂を見せてやる」という気概を胸に特攻で散っていったに違いない。その戦いがあったからこそ、戦後白人の植民地は一掃され、人種平等世界が実現した。彼らの死は決して無駄ではなく、歴史を変えるための崇高な犠牲だった。
 しかし、今や韓国では、特攻隊で散った朝鮮の若者は「自ら進んで敵に命まで売り渡した最大の売国奴」とされ、遺族からも疎まれている。彼らの魂はどうなるのだろう。
 「日本という国は決して悪い国ではない」
 この朴東薫の父親の言葉が悲しすぎる。ならば心ある日本人はこぞって靖国神社に詣で、彼らに深い感謝をささげるべきではないだろうか。

 産経なら「予想の範囲内」ですが「気が狂ってる(絶句)」としか言いようがない。


【参考:大東亜聖戦大碑

大東亜聖戦大碑 - Wikipedia
 「日本をまもる会」によって2000年(平成12年)8月4日、石川護国神社の参道に建てられた石碑である。
【建立委員会】
◆委員長:草地貞吾*60
◆副委員長:米沢外秋*61、名越二荒之助、中村粲*62
◆顧問・委員:板垣正*63奥野誠亮*64小堀桂一郎*65清瀬信次郎、冨士信夫*66小田村四郎*67小室直樹ほか
◆実行委員長:中田清康(日本をまもる会会長)

聖戦大碑を何故建てるか(平成12年)
日本をまもる会会長、大東亜青年塾塾長 中田清康
 間違った東京裁判によって大東亜戦争を悪とされたことが、祖国の精神を破滅に陥れた現状悪の根源であり、ここに大東亜聖戦大碑を建てる意義がある。ありもせぬ南京大虐殺従軍慰安婦三光作戦など教科書にまで載せ、純粋に祖国と東洋平和のためを信じ戦った戦友を足蹴にし日本を悪にするため枝葉末節の諸悪を白髪三千丈に誇張してあげつらい、真実に対して尤もらしい戦争美化の幕をはって、大局から目をそらさせんとする愚劣な動きに多数国民が盲にさせられ瞞されてしまって居る。戦後謀略にやられ祖国誹謗を延々と続けるNHK、朝日、毎日はじめその他大小マスコミや戦争を知りもせぬ世代の時流迎合のマインドコントロールされた口舌の徒によって、日本には真の意味で軍国主義などなかったにも拘らず如何にも戦前派軍部横暴の暗黒時代で、善良な国民は無謀な戦争に駆り出されたなどとされその様に思はされている。
 柳条湖事件*68をもって相当良識の方まで満洲侵略の動かし難い証拠とする人が多いが、当時の満洲コミンテルン赤色革命輸出のターゲットにされた状態と、強欲アメリカの支那大陸野望の交錯した謀略の渦巻く中で、在満日本人の生命財産が脅かされ、日露戦争以来の権益を甚だしく蹂躙させた事変前史を知るならその様なことを言へるはずがないのである。
 祖国は軍国主義では絶対になかった。自存自衛と眠れる有色人種のため戦ったのである。
 我国は自存自衛と東洋平和のため白人侵略を追い出し有色人種を救った救世主であり、又満洲を含め台湾も朝鮮もその民生・民度を向上させた大恩人である。大東亜聖戦大碑はこの功績の顕彰も合せ日本の正義、人道精神の真実を世界に宣言し民族の誇りと誉れを万世に伝へ世界恒久平和のため存在する八紘為宇の使命を高揚し、以て英霊・祖先に報ゆる真の鎮魂こそ建立の目的である。

大東亜聖戦大碑の歴史的意義(板垣正)
 完成式典当日、草地委員長は、九十六歳の御高齢にもかかわらず、まさに音吐朗朗、式辞を述べられ「大東亜戦争は昿古の世界史的大偉業」と断じ、戦後の誤った歴史観の蒙を覚醒し、日本の正気の復活をと、力強く訴えられました。聖戦大碑の歴史的意義は、まさにここに明示された通りであります。

弔辞「草地貞吾先生を偲んで」(平成14年)(板垣正)
 草地先生が最も力を注がれたのは、自らも一軍人としてそのすべてをかけられた大東亜戦争の世界的意義について明らかにし、日本の名誉回復をはかることでありました。戦後占領軍の徹底した日本弱体化政策と、極東国際軍事裁判により我が国の歴史は否定され、侵略国家として一方的に断罪されました。
 悲しむべき事は日本人自身がいわゆる東京裁判史観によって洗脳され、自国の歴史に対する誇りを喪失し、あえて罪悪視して憚らない反日的勢力がなお横行している現状であります。
 先生はこの混迷を座視するに忍びず、著作や講演活動を通じ、日本の歴史の真実を訴え輿論喚起のため積極的に取り組まれ、常に歴史は大局的に見よと主張されました。
 そして
大東亜戦争は世界史空前の大偉業であった。それは五百年にわたる世界の旧植民地時代をこの戦争によって終焉せしめたのである*69。現在世界には約200ヶ国が存在しているが、戦前には50ヶ国に過ぎなかった。150という新しい国々は大東亜戦争を契機として生まれ、苦難の中で独立自尊の道を歩んでいる。」
と深い学殖に裏付けられた信念を吐露され、日本人の自覚と誇りを訴えられたのであります。
 従来の慰霊碑や記念碑とは全く異なる空前の「大東亜聖戦大碑」建立の大事業が発起されたのであります。
 (ボーガス注:式典)当日は約2000名の参列者を前に草地貞吾式典委員長は大東亜戦争は「昿古の世界史的大偉業」とその意義を強調し、「聖戦大碑は戦後の誤った歴史観の蒙を覚醒し、日本の正気を復活するとともに、今次大戦に散華した我が国はもとより世界万邦の英霊に感謝追悼顕彰の誠を捧げる為に建立したものであります」と結ばれました。大東亜戦争は世界維新戦争と位置付け、まさに恩讐を超え人類の維新完成へと遠大な理想の呼びかけは草地精神の真髄とも言うべきものと信じます。聖戦大碑の建立に対して戦争を美化するもの等の批判はいかに見当外れの浅見に過ぎないか明瞭であります。

 これまた「気が狂ってる(絶句)」としか言いようがない。

*1:著書『虚妄の三国同盟:発掘・日米開戦前夜外交秘史』(2013年、岩波書店)、『GHQ特命捜査ファイル:軍事機密費』(2018年、岩波書店)、『歴史認識・日韓の溝』(2021年、ちくま新書)、『日清・日露戦史の真実:「坂の上の雲」と日本人の歴史観』(2022年、筑摩選書)等

*2:専修大学教授。著書『地域に学ぶ関東大震災』(編著、2012年、日本経済評論社

*3:1926~2012年。日本教職員組合婦人部長、「全国高校女子教育問題研究会」会長、「中国山地教育を支援する会」世話人宋慶齢日本基金会副理事長、NPO中帰連平和記念館館長など歴任。著書『無人区長城のホロコースト:興隆の悲劇』(1995年、青木書店)、『ある戦後:中国と日本のはざまを生きる』(2010年、ドメス出版)等(仁木ふみ子 - Wikipedia参照)

*4:1924~2020年。横浜市立大学名誉教授。著書『大空襲5月29日:第二次大戦と横浜(新版)』(1995年、有隣堂)、『大正デモクラシー』(2006年、中公文庫)、『横浜の関東大震災』(2007年、有隣堂)、『濱口雄幸伝(上・下)』(2013年、朔北社)等

*5:1889~1923年。著書『平沢計七作品集』(大和田茂・藤田富士男編、2003年、論創社)、『一人と千三百人/二人の中尉(平沢計七先駆作品集)』(大和田茂編、2020年、講談社文芸文庫)。評伝として大和田茂・藤田富士男『評伝・平沢計七:亀戸事件で犠牲となった労働演劇・生協・労金の先駆者』(1996年、恒文社)

*6:著書『渡辺崋山』(1996年、大月書店)、『渡辺政之輔とその時代』(2010年、学習の友社)

*7:著書『「A」:マスコミが報道しなかったオウムの素顔』、『職業欄はエスパー』(以上、2002年、角川文庫)、『悪役レスラーは笑う:「卑劣なジャップ」グレート東郷』(2005年、岩波新書)、『世界が完全に思考停止する前に』(2005年、角川文庫)、『下山事件(シモヤマ・ケース)』(2006年、新潮文庫)、『クォン・デ:もう一人のラストエンペラー』(2007年、角川文庫)、『王様は裸だと言った子供はその後どうなったか』(2007年、集英社新書)、『視点をずらす思考術』(2008年、講談社現代新書)、『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』(2008年、ちくま文庫)、『ぼくの歌、みんなの歌』(2012年、講談社文庫)、『死刑』、『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』(以上、2013年、角川文庫)、『いのちの食べかた』(2014年、角川文庫)、『たったひとつの「真実」なんてない:メディアは何を伝えているのか?』(2014年、ちくまプリマー新書)、『「テロに屈するな!」に屈するな』(2015年、岩波ブックレット)、『オカルト』(2016年、角川文庫)、『ニュースの深き欲望』(2018年、朝日新書)、『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』(2018年、講談社文庫)、『すべての戦争は自衛から始まる』(2019年、講談社文庫)、『FAKEな日本』(2020年、角川文庫)、『U:相模原に現れた世界の憂鬱な断面』(2020年、講談社現代新書)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか:生粋の文系が模索するサイエンスの最先端』(2020年、ちくま文庫)、『桃太郎は鬼ヶ島をもう一度襲撃することにした』(2021年、ワニブックスPLUS新書) 、『集団に流されず個人として生きるには』(2023年、ちくまプリマー新書)、『虐殺のスイッチ』(2023年、ちくま文庫)等

*8:野田市議を経て野田市長(鈴木有 - Wikipedia参照)

*9:著書『ルポ差別と貧困の外国人労働者』(2010年、光文社新書)、『ネットと愛国』(2015年、講談社+α文庫)、『ネット私刑(リンチ)』(2015年、扶桑社新書)、『ヘイトスピーチ:「愛国者」たちの憎悪と暴力』(2015年、文春新書)、『「右翼」の戦後史』(2018年、講談社現代新書)、『愛国という名の亡国』(2019年、河出新書)、『沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか』(2021年、朝日文庫)、『団地と移民』(2022年、角川新書)等

*10:小泉内閣環境相、第一次安倍内閣防衛相、自民党総務会長(谷垣総裁時代)等を経て都知事

*11:1981年、TBSに入社。1993年4月『JNNニュースの森』メインキャスターに就任。1998年から2001年までJNNワシントン支局長。帰国後の2001年1月より『JNNニュースの森』編集長に就任。9カ月間による編集長を経て2001年10月から松原耕二キャスターの後任で『JNNニュースの森』メインキャスターを再び担当。TBSが誇る看板キャスターとなった。2004年9月、『JNNニュースの森』キャスターを降板し、TBSテレビ社会部長、TBS解説委員、TBSテレビ報道局編集センター担当局次長など歴任。2015年12月TBSを退社。2016年7月の参院選で初当選(2022年7月に再選)(杉尾秀哉 - Wikipedia参照)。なお2022年7月の選挙での杉尾の対立候補自民党松山三四六(ものまねタレント、2023年から松山三四朗(読みは同じ)に改名)。当初は杉尾と松山が激しく競り合っていたが、2022年7月6日、週刊文春参院選 自民党・松山三四六候補が不倫の末、中絶同意書に偽名で署名していた | 文春オンラインが松山の女性醜聞を、週刊新潮自民ものまねタレントに「900万円踏み倒し」の過去 法廷で偽証を求められた知人が告発 | デイリー新潮が松山の金銭醜聞を報道し、一気に杉尾優位に流れが変わった。7月8日にはてこ入れとして安倍晋三元首相の応援演説が予定されていたが、自民党は7日、もはや松山の当選はあり得ないとみて、安倍の遊説先を奈良県に急遽変更。その結果、奈良で安倍が山上徹也被告に暗殺されることになる(例えば安倍元首相が松山氏の応援取りやめ 参院選長野県区 女性問題など週刊誌報道受け |信濃毎日新聞デジタル 信州・長野県のニュースサイト安倍元首相死去で松山三四六氏に心ない声「おまえの文春砲なければ…」【参院選】 | 東スポWEB参照)。まさに「一寸先は闇」「人間万事塞翁が馬」ですね。安倍が当初予定通り長野で演説してたら死ななかったかもしれない。

*12:鳩山内閣少子化等担当相、社民党幹事長、副党首などを経て党首。著書『結婚と家族』(1992年、岩波新書)、『裁判の女性学』(1997年、有斐閣選書)、『福島瑞穂的弁護士生活ノート』(1998年、自由国民社)、『福島みずほの刑務所の話』(2003年、現代人文社)、『迷走政権との闘い』(2011年、アスキー新書)等

*13:1858~1936年。第一次西園寺、第二次桂、第二次西園寺、第三次桂、第一次山本内閣海軍大臣朝鮮総督、首相、内大臣を歴任。内大臣在任中に226事件で暗殺

*14:法政大学教授。著書『植民地朝鮮の警察と民衆世界 1894-1919』(2008年、有志舎)

*15:シベリア出兵のことだが近年では「戦争と呼ぶべき」と言う主張が強くなっている。

*16:軍人以外では「水野錬太郎(関東大震災当時、加藤友三郎内閣内務相:朝鮮総督府で政務総監)」「赤池濃(関東大震災当時、警視総監:朝鮮総督府で内務局長、警務局長)」等が「朝鮮植民地戦争、ジェノサイドの経験を積んでいる」といえるでしょう。

*17:立憲政友会幹事長、第四次伊藤内閣逓信相、第一次西園寺、第二次西園寺、第一次山本内閣内務相等を経て首相

*18:工部卿、内務卿、宮内卿、首相、貴族院議長、枢密院議長、韓国統監など要職を歴任。元老の一人

*19:1932~2021年。滋賀県立大学名誉教授。著書『関東大震災』(1975年、中公新書)、『朝鮮独立運動の群像』(1984年、青木書店)、『朝鮮人学徒動員』(1997年、岩波書店)、『呂運亨評伝1:朝鮮三・一独立運動』(2002年、新幹社)、『関東大震災・虐殺の記憶』(2003年、青丘文化社)、『呂運亨評伝2:上海臨時政府』(2005年、新幹社)、『呂運亨評伝3:中国国民革命の友として』(2018年、新幹社)、『呂運亨評伝4:日帝末期暗黒時代の灯として』(2019年、新幹社)、『時務の研究者・姜徳相:在日として日本の植民地史を考える』(2021年、三一書房)等(姜徳相 - Wikipedia参照)

*20:ちなみに関東大震災当時、陸軍大臣は山梨半造(加藤友三郎内閣、後に甘粕事件を理由に更迭された福田雅太郎の後任として関東戒厳司令官)→田中義一(第二次山本内閣)、参謀総長は河井操

*21:著書『被爆アオギリと生きる:語り部沼田鈴子の伝言』(2013年、岩波ジュニア新書)等

*22:1939年生まれ。神奈川大学特任教授、立命館大学歴史都市防災研究センター教授、国立歴史民俗博物館客員教授を歴任。著書『都市と貧困の社会史』(1995年、吉川弘文館)、『磐梯山噴火』(1998年、吉川弘文館)、『江戸城外堀物語』(1999年、ちくま新書→『江戸の城づくり』と改題して、2012年、ちくま学芸文庫)、『地震の社会史:安政地震と民衆』(2000年、講談社学術文庫)、『近世災害情報論』(2003年、塙書房)、『関東大震災の社会史』(2011年、朝日選書)、『津波災害と近代日本』(2014年、吉川弘文館)、『日本震災史』(2016年、ちくま新書)、『震災と死者:東日本大震災関東大震災・濃尾地震』(2021年、筑摩選書)、『震災復興はどう引き継がれたか:関東大震災昭和三陸津波東日本大震災』(2023年、藤原書店)等

*23:1881~1939年。内務省土木局道路課長、大臣官房都市計画課長、社会局長(当時、内務相は後藤新平)、東京市助役(当時、東京市長後藤新平)、帝都復興院理事兼計画局長(当時、帝都復興院長は後藤新平)、京都府知事、神奈川県知事等を歴任

*24:1876~1943年。京都府警察部長、三重県知事、内務省警保局長、東京市助役、東京市長、広田内閣拓務相、阿部内閣鉄道相等を歴任

*25:聖心女子大学教授。著書『近代日本の「国民防空」体制』(2010年、神田外語大学出版局)、『帝都防衛:戦争・災害・テロ』(2017年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『災害の日本近代史:大凶作、風水害、噴火、関東大震災と国際関係』(2023年、中公新書)等

*26:北海道大学名誉教授。著書『満州国の首都計画』(1988年、日本経済評論社→2002年、ちくま学芸文庫)、『東京の都市計画』(1991年、岩波新書)、『東京都市計画物語』(1991年、日本経済評論社→2001年、ちくま学芸文庫)、『復興計画:幕末・明治の大火から阪神・淡路大震災まで』(2005年、中公新書)、『東京都市計画の遺産:防災・復興・オリンピック』(2014年、ちくま新書

*27:副題からわかるように、「後藤の人生全体」ではなく「帝都復興院総裁としての後藤」が論じられている。

*28:1941~2011年。北朝鮮国防委員長(朝鮮労働党総書記兼務)。金日成国家主席朝鮮労働党総書記兼務)の息子。金正恩北朝鮮国務委員長(朝鮮労働党総書記兼務)の父(金正日 - Wikipedia参照)

*29:俺的には「そら、そうよ(阪神の岡田監督風に)」ですね。他に何の目的があるのか。しかし、日本はそうした北朝鮮のアプローチを「北朝鮮に騙されるな(巣くう会、家族会)」と無視した結果が今の拉致敗戦です。俺は有本明弘、横田早紀江ら「拉致被害者家族会」には何一つ同情しません。要するにけっきょく巣食う会と言っていることが変わらない(代弁しているだけじゃん) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)(2019.6.25)、なんとも無様で無残な話だと思う(拉致被害者家族の有本明弘氏) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)(2019.7.16)、 金丸信吾氏のこの発言に、拉致被害者家族らはどのように反応するのか(無視だろうが、それではどうしようもないというものだ) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)(2020.1.20)、けっきょく反北朝鮮の道具として使い倒されただけじゃないか(横田滋氏の死) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)(2020.6.6)、いいかげん家族会も、島田洋一に対して苦言くらいは呈したらどうか - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)(2020.11.13)、けっきょくのところ「巣食う会」にものを言えない人だった(拉致被害者家族会前代表飯塚繁雄氏の死によせて) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)(2021.12.19)と言う話です。

*30:東日本大震災のこと

*31:1999年、草思社

*32:元常盤大学国際学部長。大学構内でのわいせつ画像撮影で大学の名誉を傷つけたとして、2006年8月2日に常磐大学国際学部長を解任され、9月30日、大学を依願退職(性犯罪で大学を事実上免職とは、まさに性犯罪とかに関する人間の闇の部分にいまさらながら絶句する(追記有。地裁で懲役10年の判決) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)ですね)。著書『浜口雄幸』(1993年、中公新書)、『近代東アジアの政治変動と日本の外交』(1995年、慶應通信)、『裕仁皇太子ヨーロッパ外遊記』(1998年、草思社→2012年、草思社文庫)、『満蒙独立運動』、『日米野球史』(以上、2001年、PHP新書)、『東京オリンピックへの遥かな道:招致活動の軌跡1930-1964』(2004年、草思社→2014年、草思社文庫)、『日米文化交流史』(2005年、学陽書房)、『昭和天皇ラストエンペラー:溥儀と満州国の真実』(2007年、草思社)、『明仁皇太子・エリザベス女王戴冠式列席記』(2012年、草思社)、『日米野球の架け橋:鈴木惣太郎の人生と正力松太郎』(2013年、芙蓉書房出版)、『奈良武次とその時代:陸軍中枢・宮中を歩んだエリート軍人』(2015年、芙蓉書房出版)、『昭和天皇欧米外遊の実像:象徴天皇の外交を再検証する』(2023年、芙蓉書房出版)等(波多野勝 - Wikipedia参照)

*33:著書『戦争を乗り越えた日米交流:日米協会の役割と日米関係 1917‐1960』(2017年、彩流社)、『国際交流に託した渋沢栄一の望み:「民」による平和と共存の模索』(編著、2019年、ミネルヴァ書房

*34:第2次山縣、第4次伊藤、第1次桂内閣海軍大臣、首相を歴任

*35:内務次官、寺内、加藤友三郎、第二次山本、清浦内閣内務相、田中内閣文相等を歴任

*36:現在の江東区の一部(深川区 - Wikipedia参照)

*37:著書『関東大震災と「復興小学校」:学校建築にみる新教育思想』(2012年、勁草書房)、『日本の美しい小学校』(共著、2016年、エクスナレッジ)。『日本の美しい小学校』には名建築として、旧上岡小学校、旧水海道小学校(茨城)、旧学習院初等科正堂、法典東小学校、おおたかの森小学校(千葉)、旧川場尋常高等小学校(群馬)、泰明小学校(東京)、笠原小学校(埼玉)、豊郷小学校旧校舎群、白雲館(旧八幡東学校)(滋賀)、高野口小学校(和歌山)、西脇小学校、旧氷上高等小学校校舎(兵庫)、旧清水小学校(京都)、朝日小学校(三重)、御杖小学校(奈良)、旧岩科学校(静岡)、旧睦沢学校(山梨)、追手町小学校、湊小学校(長野)、旧頼城小学校(北海道)、旧登米高等尋常小学校(宮城)、山形市立第一小学校旧校舎、大山小学校旧校舎(新民館)(山形)、旧開明学校、日土小学校(愛媛)、旧遷喬尋常小学校(岡山)、直島小学校(香川)、網津小学校(熊本)を紹介(旧というのは下谷小学校のように廃校になったのでしょう)

*38:1876~1943年。東京市土木課長、大阪市港湾部長、帝都復興院技監、内務省復興局長官等を歴任(直木倫太郎 - Wikipedia参照)

*39:1884~1981年。復興局疑獄事件で逮捕起訴。一審では有罪の判決が下ったが、十河は冤罪を訴えて控訴し、控訴審で無罪を勝ち取った。しかし、逮捕起訴によって退官を余儀なくされた。その後、南満洲鉄道(満鉄)総裁の仙石貢の誘いにより、1930年(昭和5年)7月に満鉄理事に就任(1934年7月まで在任)。戦後は国鉄総裁(1955~1963年)に就任。総裁在任中に東海道新幹線開通に尽力したため「新幹線の父」の異名がある。(十河信二 - Wikipedia参照)

*40:1881~1926年。詩人木下杢太郎(1885~1945年、本名:太田正雄)の実兄(太田圓三 - Wikipedia参照)

*41:1869~1926年。秋田県知事、南満州鉄道理事、兵庫県知事、神奈川県知事、復興局長官を歴任(清野長太郎 - Wikipedia参照)

*42:1870~1939年。清浦内閣書記官長、政友本党政調会長、幹事長、濱口内閣文相、東京市長等を歴任(小橋一太 - Wikipedia参照)

*43:同志社大学助教

*44:水出幸輝、2019年、人文書院

*45:ウィキペディアに寄れば阪神・淡路大震災が「死者・行方不明者6437名」、伊勢湾台風「死者・行方不明者5098名」

*46:東洋大学教授。著書『近代日本の食糧政策』(1993年、ミネルヴァ書房)、『お米と食の近代史』(2007年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『防長米改良と米穀検査』(2016年、日本経済評論社

*47:専修大学教授。著書『帝国日本の流通ネットワーク』(2012年、日本経済評論社

*48:5大商社(三井物産三菱商事住友商事伊藤忠商事、丸紅)、7大商社(5大商社の他、豊田通商双日)、10大商社(5大商社の他、安宅産業(1975年に倒産、1977年に伊藤忠商事救済合併)、兼松、トーメン(2006年に豊田通商が吸収合併)、日商岩井ニチメン(2004年に日商岩井ニチメンが合併し現在は双日)の10社)の一つ

*49:立命館大学教授。著書『国民体育大会の研究:ナショナリズムとスポーツ・イベント』(2006年、青木書店)、 『スポーツとナショナリズムの歴史社会学:戦前=戦後日本における天皇制・身体・国民統合』(2021年、ナカニシヤ出版)

*50:遺族の許可なく勝手にやってるという点では「靖国護国神社への合祀」も同じで、その結果、自衛官護国神社合祀事件 - Wikipedia赤旗父の靖国合祀取り消しを/東京高裁 在韓軍人軍属裁判で原告(2007.12.19)、靖国合祀大阪訴訟、遺族側の敗訴確定 最高裁が上告棄却 - 日本経済新聞(2011.12.3)、沖縄戦遺族の敗訴確定 靖国合祀訴訟で最高裁決定 - 日本経済新聞(2012.6.16)、韓国人徴用被害者遺族「父の名誉に関わる『靖国合祀取り消し』、絶対にあきらめない」 : 日本•国際 : hankyoreh japan(2023.5.24)等の訴訟が遺族によって過去に起こっています。

*51:例えば石原慎太郎脚本の右翼映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』(2007年)のことか?

*52:これは日本人特攻兵でも指摘される点です。

*53:【目を覚ませ韓国】戦後に親日派として迫害された父「日本は決して悪い国ではない」(1/3ページ) - 産経ニュースが紹介する「金尚弼(結城尚弼)」の言葉「僕は日本人になりきって日本のために死のうとしているのではありません」「日本を勝利に導いてその暁にわれわれの武勲を認めさせて、独立にもっていくことです」がこれです。

*54:黒田福美 - Wikipediaによれば卓庚鉉(日本名:光山文博、映画『ホタル』(2001年、東映)の朝鮮人特攻隊員『金山文隆』、映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』(2007年、東映)の朝鮮人特攻隊員『金山』のモデルとされる(卓庚鉉 - Wikipedia参照))

*55:これについては例えば韓国通の女優「黒田福美」さんが語る、“慰霊碑建設”を妨害した反日団体の正体 | デイリー新潮(2018.8.28)、【話の肖像画】俳優・黒田福美(62)(1)朝鮮半島出身の日本の特攻兵 - 産経ニュース(2018.12.17)、【話の肖像画】俳優・黒田福美(62)(2)慰霊碑建立で問題が - 産経ニュース(2018.12.18)、 黒田福美、反日に踏みつぶされても諦めない!「朝鮮人特攻隊員の無念」を弔う理由 | 週刊女性PRIME週刊女性2019年8月20・27日号)、女優の黒田福美さん、宇都宮で講演 朝鮮人特攻隊員思い語る 民団県本部式典で|県内主要,社会,地域の話題|下野新聞「SOON」ニュース|下野新聞 SOON(スーン)(2023.8.12)(全て黒田の言い分ですが)参照

*56:役職は当時。現在は外務次官補(報道担当)

*57:新しい歴史教科書をつくる会』副会長。著書『「従軍慰安婦」強制連行はなかった:政府調査資料が明かす河野談話のウソ・この一冊でいわゆる「従軍慰安婦」問題の全てがわかるQ&A』(2011年、明成社)、『新版・ほんとうは、日韓併合が韓国を救った! 』(2013年、ワック文庫)、『軍艦島・韓国に傷つけられた世界遺産:「慰安婦」に続く「徴用工」という新たな「捏造の歴史」』(2018年、ハート出版)、『恩を仇で返す国・韓国:韓国を救った「日韓併合」』(2019年、ワック)等

*58:『独立のための特攻』とは『何だかなあ?』『自己欺瞞じゃね?』感がありますがそうとでも思い込まなければあんな自殺攻撃は納得できなかったのでしょう。それにしても「仮に日本が米国に勝利しても(現実的にあり得ませんが)」絶対に日本を勝利に導いてその暁にわれわれの武勲を認めさせて、独立にもっていくなんてことはあり得なかった(むしろ日本敗戦で独立を達成)し、産経も「戦後も朝鮮独立を認めないこと」を当然視したでしょうに、良くも躊躇なくこんな言葉が引用できたもんです(呆)。何処まで下劣で恥知らずなのか。

*59:戦後日本の「どの辺り」が「特攻で死んだ人間の家族(朴東薫のような朝鮮人特攻隊員に限らず日本人特攻隊員も含めて)に対して、必ず責任を持つ国」なのか「全く分からない」ので産経に教えて欲しいもんです。マジレスすればこの父親も「本気でそう思っていた」というよりは、そう思わなければ「息子の死を自分の心の中で正当化することができなかった」だけの話でしょう。あえて言えば「未だに安倍美化を続ける有本明弘」みたいなもんでしかないでしょう(なんとも無様で無残な話だと思う(拉致被害者家族の有本明弘氏) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)参照)。有本も本気と言うより「自分たちの誤りを認めたくないが故の自己欺瞞」(id:Bill_McCrearyさんの言葉)でしかないでしょう。

*60:1904~2001年。戦前、関東軍作戦主任参謀。戦後、 日本郷友連盟副会長、全日本銃剣道連盟会長等を歴任

*61:1924~2001年。石川県議(自民)

*62:1934~2010年。著書『大東亜戦争への道』(1990年、展転社)等

*63:1924~2018年。参院議員(自民)。日本遺族会顧問。著書『靖国公式参拝の総括』(2000年、展転社

*64:1913~2016年。田中内閣文相、鈴木内閣法相、竹下内閣国土庁長官等を歴任

*65:東大名誉教授。明星大名誉教授。著書『靖国神社と日本人』(1998年、PHP新書)、『さらば東京裁判史観:何が日本人の歴史観を歪めたのか』(2001年、PHP文庫)、『東京裁判・幻の弁護側資料:却下された日本の弁明』(編著、2011年、ちくま学芸文庫) 等

*66:1917~2005年。著書『私の見た東京裁判』(1988年、講談社学術文庫)、『南京大虐殺はこうしてつくられた』(1995年、展転社)、『こうして日本は侵略国にされた』(1997年、展転社)等

*67:1923~2017年。日本李登輝友の会会長、日本会議副会長等を歴任。

*68:満州事変のこと

*69:戦後の独立闘争(例:ベトナムインドシナ戦争)によって独立したのであって日本のおかげでは全くない(特に日本が軍事侵攻などしなかったアフリカの独立は)のに良くも言ったもんです(呆)。