河村建一の扱いが随分酷いと思う(2023年6月22日記載)

そこまでして、国会議員なんぞになろうとするかと思う - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
 父親は「麻生内閣官房長官自民党選対委員長(第二次安倍総裁時代)」という大物議員、おじは現職の萩市長なのに随分と扱いが酷いとは思います。いや世襲議員を俺は支持はしませんが、

【大臣(岸田首相以外は名前順)】
岸田文雄*1首相(岸田文武衆院議員の息子)
加藤勝信*2厚労相加藤六月*3・元農水相の女婿)
河野太郎*4デジタル相(河野一郎*5元建設相の孫、河野*6自民党総裁の息子)
鈴木俊一*7財務相鈴木善幸*8元首相の息子)
永岡桂子文科相永岡洋治*9衆院議員の妻)
浜田靖一*10防衛相(浜田幸一衆議院議員の息子)
浜田幸一といえば以下のようなとんでもない人物です。

浜田幸一 - Wikipedia
 熱海の暴力団、稲川会初代会長の稲川聖城を「尊敬する人物」と公言してはばからなかった。懲役1年の実刑判決を受け、刑務所へ服役、出所してみると所属していたヤクザ組織は稲川組に吸収されていた。1950年代半ば、所属する組の親分が死んだため稲川に相談したところ、別の道を考えたほうがよいと言われ、政治に関心があると答えると、児玉誉士夫に紹介してくれたという。政治学者の高畠通敏*11は、1980年代半ばのフィールドワークにおいて、当初はヤクザ上がりの政治家だと思っていたところ、「地元では、浜田を『現役ヤクザの一員』として誰も怪しまないこと」に驚いたという。

松本剛明*12総務相松本十郎・海部内閣防衛庁長官の息子)

など「石を投げれば世襲議員にあたる」と言いたくなるほど、世襲議員がいる自民において「?」感がある(経歴等はウィキペディアを参照)。「選挙に弱い」らしいですが「何故そんなに選挙に弱いのか」感もある。

 国会議員なんかにこだわる必要ないと思うんだけどねえ。

 政治家の息子でも政界に行かなかった人間は「俺が知ってるだけ」でも、以下のとおり、いろいろいますからね。

【名前順(経歴等はウィキペディアを参照)】
石原良純
 俳優。石原慎太郎*13元運輸相の息子。俳優・石原裕次郎(慎太郎の弟)の甥。石原伸晃*14自民党幹事長の弟
小泉孝太郎
 俳優。小泉純也防衛庁長官の孫、小泉純一郎*15元首相の息子。小泉進次郎環境相の兄
太宰治(本名:津島修治)
 作家。津島源右衛門・元衆院議員の息子。青森県知事、衆院議員、参院議員を歴任した津島文治*16の弟。

*1:第一次安倍、福田内閣沖縄・北方等担当相、第二次、第三次安倍内閣外相、自民党政調会長(第二次安倍総裁時代)等を経て首相

*2:第二次、第三次安倍内閣官房副長官自民党総務会長(第二次安倍総裁時代)、第四次安倍内閣厚労相菅内閣官房長官等を歴任

*3:中曽根内閣農水相自民党政調会長(海部総裁時代)等を歴任

*4:第三次安倍内閣国家公安委員長、第四次安倍内閣外相、防衛相、菅内閣行革相など歴任

*5:岸内閣経済企画庁長官、自民党総務会長(岸総裁時代)、池田内閣農林相、建設相、副総理、佐藤内閣副総理等を歴任

*6:宮沢内閣官房長官自民党総裁、村山、小渕、森内閣外相等を歴任

*7:小泉内閣環境相、第四次安倍内閣五輪担当相、自民党総務会長(第二次安倍総裁時代)等を歴任

*8:池田内閣郵政相、官房長官、佐藤内閣厚生相、福田内閣農林相、自民党総務会長(佐藤、田中、大平総裁時代)等を経て首相

*9:郵政解散選挙の際に「対立候補が当時、選挙で無類の強さを誇った世襲議員中村喜四郎であること」で将来を悲観して自殺した御仁

*10:麻生内閣防衛相、自民党国対委員長(第二次安倍総裁時代)等を歴任

*11:1933~2004年。立教大学名誉教授。著書『政治の発見』(1997年、岩波同時代ライブラリー)、『市民政治再考』(2004年、岩波ブックレット)、『政治学への道案内』(2012年、講談社学術文庫)、『地方の王国』(2013年、講談社学術文庫)等

*12:民主党政調会長(前原、小沢代表時代)、菅直人内閣外相等を歴任

*13:福田内閣環境庁長官、竹下内閣運輸相、都知事等を歴任

*14:小泉内閣国交相自民党政調会長(第一次安倍総裁時代)、幹事長(谷垣総裁時代)、第二次安倍内閣環境相、第三次安倍内閣経済財政担当相等を歴任

*15:宇野内閣厚生相、宮沢内閣郵政相、橋本内閣厚生相等を経て首相

*16:1930年、弟修治(太宰)がカフェの女給と心中未遂事件を起こし、修治だけが生き残ったことで自殺幇助容疑で鎌倉警察署に逮捕された時には、担当刑事が金木出身で大地主である津島家の小作の息子だったことや、管轄の横浜地裁所長が黒石市出身で父源右衛門の姻戚だったことを利用し、自らの政治的影響力(当時、青森県議)を行使して、修治を起訴猶予処分に持ち込んだとされる。生前の修治とは衝突をしばしば繰り返した。そのため、弟の自殺後にその名声が高まって文豪扱いされる世間の状況には困惑していたという(津島文治 - Wikipedia参照)。