テレ朝・おはよう時代劇『暴れん坊将軍9』第28話「江戸城大揺れ!!吉宗ついに結婚か」(1999年放送の再放送)(2023年11月22日記載)

◆第28話「江戸城大揺れ!!吉宗ついに結婚か」(2023年11月22日再放送)

暴れん坊将軍9
第28話「江戸城大揺れ!!吉宗ついに結婚か」
 初期シリーズでもやった「竹姫」ばなし、あの頃は女ごころをイマイチ解さぬ朴念仁だった上様も、今回は熱く燃え上がる。珍しく天英院なんかも出てきて、相も変わらず不行跡の元幕閣が悪さを仕掛けてくる。

https://www.tv-asahi.co.jp/pr/sphone/20231121_13833.html
第28話「江戸城大揺れ!!吉宗ついに結婚か」
 浅草に出かけた吉宗は、易者から女難の相が出ているといわれる。易者によれば、ごく身近に吉宗を慕う女性がいて、その女性と一緒になれば女難をまぬがれ一生幸せに暮らせるというのだ。そんな中、吉宗のもとに先の筆頭老中・井上大和守正峯*1(青木義朗)が目通りを願い出てきた。そろそろ隠居して家督を息子の正秀*2(鷲生功)に譲りたいという。さらに大和守は、正秀を老中にしてほしいと懇願。しかし吉宗は、あること*3から正秀にはいい印象を持っていなかった…

 「吉宗を慕う女性」とは暴れん坊将軍9も書くように竹姫久我陽子*4)のこと。
 ちなみにテレ朝・おはよう時代劇『暴れん坊将軍9』第13話「襲われた寝室!吉宗を狙うお姫様」(1999年放送の再放送)(2023年11月1日記載) - bogus-simotukareのブログでも紹介しましたが、竹姫とは以下のような実在の人物です。
 なお、吉宗(1684年生まれ)、竹姫(1705年生まれ、吉宗と年の差が21歳)、「吉宗役の松平健(1953年生まれ)」「竹姫役の久我陽子(1974年生まれ、松平と年の差が21歳)」ということで「ただの偶然」でしょうが「吉宗と竹姫」「松平と久我」の年の差はほぼ同じです。

島津継豊 - Wikipedia
 元禄14年(1701年)、第4代藩主・島津吉貴の長男として生まれた。正徳5年(1715年)、第7代将軍・徳川家継より、偏諱(「継」の一字)を与えられ、初名の忠休(ただやす)から継豊に改名。享保6年(1721年)、父・吉貴の隠居に伴って家督を継ぐ。
 当初、継豊は長州藩主・毛利吉元の娘を正室としていたが、正室が早世した後に8代将軍・徳川吉宗の斡旋もあって、5代将軍・徳川綱吉の養女・竹姫*5と再婚した。竹姫は吉宗と恋愛関係があるのではないかという臆測があり、継豊の父・吉貴はじめ薩摩藩では好意的にはとっていなかったという。しかし、吉貴の友人である老中・松平乗邑*6の斡旋もあって、継豊には既に側室のお嘉久(渋谷氏)との間に嫡男(後に第6代藩主となる島津宗信)が生まれていることから、竹姫との間に子が生まれても嫡子としないなど様々な条件をつけた上で受け入れたという。
 継豊は病気がちであり、享保21年(1736年)に江戸に参勤した後帰国できず、翌元文2年(1737年)に在府の願いを幕府に出して許可され、以後12年にわたって江戸に滞在することとなった。

 8代将軍吉宗の代になると、既に正室を亡くしていた吉宗に継室に望まれたというが、実際の血縁は一切ないとはいえ、5代綱吉の養女という立場の竹姫は吉宗にとって義理の大叔母ということになるため、第6代将軍・家宣の正室(御台所)であった天英院から「人倫にもとる」と反対され、改めて8代将軍吉宗の養女という身分となった。と言う史実を知っていれば「吉宗と竹姫」の関係が「今回の話」において「お互いに好意を抱いてる」と肯定的に描かれていても史実同様に「結婚はないのだろう」ということは予想がつきます。
 実際「結婚はない」のですが。
 過去の「暴れん坊将軍」結婚ネタ話では、お互い好意を抱きながら「関係性が曖昧なまま終わる」のですが、今回は吉宗自ら「竹姫」を妻に迎えようと積極的に動くところ「天英院(三浦布美子)ら反対派」の抵抗を抑え込めず、彼女との結婚を諦めます。
 そして「彼女が吉宗の養女」になるとともに、「薩摩藩主・島津継豊の妻」となるところまでが描かれます(「吉宗の養女」「薩摩藩主・島津継豊の妻」は史実通りです)。
 さて、井上大和守正峯と息子・正秀がこの話にどう絡んでくるのか。
 正秀の「竹姫への求婚」を吉宗に拒絶され「薩摩藩主・島津継豊」との結婚決定で、正峯、正秀親子は「吉宗と竹姫を逆恨み」。彼女を拉致して殺害しようとする*7ところを吉宗に成敗されます。

*1:吉宗時代の「老中」、「井上大和守正峯」にあたる人物は「井上大和守正岑(正峯と『漢字は違う』が読みは同じ「まさみね」)常陸笠間藩主:奏者番寺社奉行若年寄、老中を歴任)」ですが勿論、実在の彼は暴れん坊で吉宗に「成敗」されたような「悪人」ではない。

*2:「暴れん坊」の「井上大和守」が「井上大和守正岑」がモデルと仮定しての話ですが正岑の息子(養子)は「井上正秀」ではなく、井上河内上正之で「奏者番寺社奉行兼務)」在任中に病死(井上正之 - Wikipedia参照)

*3:正秀が竹姫を妻に望んだこと。「吉宗が竹姫に好意を抱いていたから」というよりは「正秀は人間性に問題がある」との噂を聞いていた上、竹姫への求婚が「愛情によるもの」というより「露骨に出世狙いの政略結婚であること」を吉宗が嫌ったと描かれている。

*4:1974年生まれ。本名「古賀陽子」。父はオスカープロモーション創業者の古賀誠一。1988年(昭和63年)にフジテレビドラマ『熱っぽいの!』で女優デビュー。1990年(平成2年)に「好きだから」で歌手としてもデビュー。2005年(平成17年)に結婚後は主婦業に専念していたが、2008年(平成20年)に芸能活動を再開(久我陽子 - Wikipedia参照)

*5:宝永2年(1705年)、清閑寺熈定の娘として京都で生まれる。宝永5年(1708年)に、会津藩主松平正容の嫡子の久千代(正邦)と縁組するが、同年12月、久千代は早世した。宝永7年(1710年)、有栖川宮正仁親王と婚約するが、享保元年(1716年)親王は死去した。8代将軍吉宗の代になると、既に正室を亡くしていた吉宗に継室に望まれたというが、実際の血縁は一切ないとはいえ、5代綱吉の養女という立場の竹姫は吉宗にとって義理の大叔母ということになるため、第6代将軍・家宣の正室(御台所)であった天英院から「人倫にもとる」と反対され、改めて8代将軍吉宗の養女という身分となった。吉宗は新たな嫁ぎ先を探すものの、過去に2度も婚約者が没しているということで不吉な噂も立ったらしく、さらに竹姫と吉宗は男女関係にあったという噂もあり、どの大名家・公家も敬遠したため、婚家探しは難航した(要出典)。享保14年(1729年)、島津継豊と縁組が成立した。継豊の父・島津吉貴の友人である老中の松平乗邑の斡旋もあり、さらに天英院が実家の近衛家を通して縁談を持ちかけてきたため、近衛家と婚姻関係が深い島津家は断り切れなかったといわれている。将軍家息女の婚家先には多くの経済的負担がかかるため、財政難であった薩摩藩にとってこの縁組みは災難以外の何物でもなかった。加えて継豊は側室腹とはいえ長男の益之助(後の藩主・宗信)が誕生したばかりであったため、島津家は、もし竹姫に男子が誕生しても、継嗣にはしないなどの条件をいくつも要求した。吉宗はこれを受け入れ、結婚当時は夫となる島津継豊が未だ四位以上に任官していなかったにもかかわらず、「夫が四位以上の将軍家出身の姫」に与えられる「御守殿」の敬称の名乗りを竹姫に許すなど、異例の厚遇を与えた。また、竹姫の住まい用として芝屋敷の北側に6千890坪の屋敷地を無償で下賜された。さらに婚姻後、継豊は従四位上左近衛中将に昇進し、玉川上水を芝の薩摩藩邸に分水することが許されるなど、特別な利権を多く獲得した。後に隠居した継豊は鹿児島に帰国したが、竹姫は江戸に留まり、10年後に継豊が鹿児島で没するまで再会することなく別居生活を送った。竹姫は将軍家の養女という立場を大いに利用し、薩摩藩第9代藩主・島津重豪正室一橋徳川家の当主・徳川宗尹の娘・保姫を迎えさせた。また竹姫の死後、その遺言として、重豪の娘茂姫(広大院)と第11代将軍徳川家斉との縁組が行われた。この縁組はのちに、天璋院篤姫が島津分家の出身でありながら、島津本家(藩主・斉彬)養女、近衛家養女という格式を踏みながら、徳川将軍家(第14代将軍家定)の正室になる前例を作った。これらの婚姻の結果、外様であった薩摩藩の幕府に対する発言力が大いに増すこととなり、幕末に薩摩藩が台頭する大きな要因の一つになった(浄岸院 - Wikipedia参照)

*6:貞享3年(1686年)、唐津藩2代藩主・松平乗春の長男として誕生。元禄3年(1690年)、父・乗春の死により家督を相続(その後、志摩国鳥羽藩、伊勢国亀山藩山城国淀藩に転封)。享保8年(1723年)老中となり、淀藩から下総佐倉藩に転封。享保15年(1730年)に水野忠之岡崎藩主)が老中を辞任したあとは老中首座に、元文2年(1737年)には勝手掛老中となる。将軍後継問題に関して、吉宗の次男の田安宗武御三卿・田安家初代当主)を将軍に擁立しようとしていたが、長男の家重が後継と決定されたため、家重から疎んじられるようになった。延享2年(1745年)、酒井忠恭(前橋藩主)が老中に就くと、忠恭が老中首座とされ、次席に外れた。同年11月、家重が9代将軍に就任すると直後に老中を解任され、隠居を命じられる。次男・乗祐に家督相続は許されたが、間もなく出羽山形に転封を命じられた。延享3年(1746年)に死去、享年61歳(松平乗邑 - Wikipedia参照)

*7:単に「憎悪の念」から殺害するのではなく「吉宗と男女関係があったところ、吉宗と結婚できず薩摩への結婚を押しつけられたこと」を竹姫が屈辱と感じ「吉宗や薩摩への抗議自殺」として自害したと偽装し、1)吉宗の評判を落とすと共に、2)幕府と薩摩藩の関係悪化を画策