テレ朝・おはよう時代劇『暴れん坊将軍9』第29話「消えた密書! くの一が愛した男」(1999年放送の再放送)(2023年11月23日記載)

◆第29話「消えた密書! くの一が愛した男」(2023年11月23日再放送)
 以下の通り、記事を紹介しておきます。

番組詳細|テレビ朝日
第29話「消えた密書! くの一が愛した男」
 長次郎は、数人の男に襲われている旅姿の侍を目撃し助けに入ったが、侍は元岩槻藩の役人・佐野伊兵衛(床尾賢一*1)だと名乗ると事切れてしまう。伊兵衛は二日前に脱藩し江戸に上ってきたところを襲われたらしい。岩槻藩は以前から藩士同士のもめ事が絶えず、吉宗も苦慮していた。そこで吉宗は(ボーガス注:御庭番の)隼人と皐月を岩槻藩に潜入させる(ボーガス注:とともに吉宗自らも岩槻藩に徳田新之介として赴く)。やがて、もめ事の原因は藩主・田原*2備中守(柳川昌和)と甥の田原嘉信(大橋吾郎*3)との確執にあると判明、さらに嘉信は酒に溺れる毎日だという。

暴れん坊将軍9
第29話「消えた密書! くの一*4が愛した男*5
 揺れる岩槻藩、藩主と甥が諍いとされるが、実のところは藩政を壟断し民の生き血を吸う悪家老(ボーガス注:飯尾頼母)の所業で、(ボーガス注:酒に溺れ)放埓と聞こえた甥(ボーガス注:田原嘉信)は殖産に明るい有能な青年。しかし彼は(ボーガス注:藩政改革のために献策した)政策を悉く家老に阻まれ、(ボーガス注:やる気を失い)世捨て人のように過ごしていた。タイトル通り、(ボーガス注:調査のため)甥の屋敷に女中として入り込んだお庭番・皐月(東風平千香*6)が(ボーガス注:嘉信に惚れ込み)立場を半ば逸脱し励ますお話がある。
※藩主の甥に大橋吾郎、ナイーブなインテリ青年がお似合い。悪家老(ボーガス注:飯尾頼母)は南原宏治、グルの(ボーガス注:幕府)大目付(ボーガス注:黒川伊賀守)は曽根晴美*7
※嘉信に思い切り肩入れの皐月、(ボーガス注:悪家老一味に襲撃された彼を)庇って矢を受けラス立ちは腕吊って戦う。

猛虎の伸助
 暴れん坊将軍9第29話「消えた密書!くの一が愛した男」
 城代家老・飯尾頼母役 #南原宏治 さんラスト出演
 顔芸といい開き直りといいまさに天下一品
 揺れる岩槻藩
 藩主・田原備中守(柳川昌和)と甥・田原嘉信(大橋吾郎)が諍いとされるが、藩政を壟断し民の生き血を吸う城代家老・飯尾頼母(南原宏治)と(ボーガス注:飯尾と共犯である幕府)大目付・黒川伊賀守(曽根晴美)の所業
 (ボーガス注:調査のため)嘉信の屋敷に女中として入り込んだ(ボーガス注:御庭番)皐月が(ボーガス注:嘉信に惚れ込み)立場を半ば逸脱し励ます場面も
 吉宗が胡乱の輩を怒りの成敗!

 勿論「惚れた」とは言え、御庭番「皐月」が嘉信と結ばれることがないのは当然です。最後のナレーションでは嘉信が岩槻藩重職として登用され「岩槻木綿」を藩特産物に育てる功績を挙げたとしてエンド。
 なお、確かに「岩槻木綿」は岩槻藩の特産物ですが

大岡忠光 - Wikipedia
 1709~1760年。300石の旗本・大岡忠利の長男。同時代に江戸南町奉行寺社奉行等として活躍した大岡忠相(1677~1752年、後に三河西大平藩主)とは、ともに大岡忠吉(1587~1656年)の子孫(忠吉は忠相の曽祖父(祖父の父)で、忠光の高祖父(祖父の祖父))に当たる関係であり、個人的にも親交があった。享保7年(1722年)に第8代将軍徳川吉宗御目見する。享保9年(1724年)8月に将軍世子(後の第9代将軍)家重の小姓となり、以後家重に側近として仕える。延享2年(1745年)の家重の将軍就任以後、家重の幼い頃から近侍していた忠光は、不明瞭な家重の言葉*8を唯一理解できたため信頼があつく、その側近として異例の出世を遂げた。宝暦元年(1751年)に上総勝浦藩1万石の大名に取り立てられ、宝暦4年(1754年)に若年寄に昇進し、5000石を加増された。宝暦6年(1756年)には側用人に昇進して、さらに5000石を加増され、合計2万石を得て武蔵岩槻藩主に封じられた。宝暦6年(1756年)に岩槻藩主となった忠光は、その4年後に死去した。しかしその4年間にオランダから伝わった木綿種を領内で試植したり、砂糖種の蒔付けや栗や梅の植樹を奨励し、産業発展に尽くした。
【逸話】
◆将軍・家重の側近でありながら決して奢ることはなかったという。当時の忠光を知る逸話として、当時のオランダ商館長イサーク・ティチングが、忠光のことを著書『将軍列伝』の中で次のように書いている。
「その死後、大岡について次のような歌ができた。
『大方は出雲のほかにかみはなし*9』」
 この句から忠光が民衆に好意を持たれていたことが窺える。
◆家重が春日園へ遊びに行った際、忠光は所用で側にいなかった。このため家臣は家重が何を言っているのか理解できず、急使を出して忠光に伝えた。人を介してのことにもかかわらず、忠光は家重の言葉を解し、「御上(家重)は寒いから上着が欲しいのだ」と答えた。それを聞いた家臣が忠光の言う通り上着を家重に差し出すと、家重は喜んだという(『続三王外記』)。

ということであり、8代将軍吉宗時代ではなく「9代将軍」時代の「岩槻藩主・大岡忠光」の頃のことです。

*1:配役は全て 暴れん坊将軍のエピソード一覧 - Wikipediaを参照

*2:なお、吉宗将軍当時(1716~1745年)の岩槻藩主は実際は永井伊賀守直陳(後に美濃加納藩に転封)であって田原氏ではない(永井直陳 - Wikipedia参照)

*3:1956年生まれ。仲代達矢が主催する無名塾の4期生。1982年にNHK銀河テレビ小説『聖者が街にやって来た』で主演(大橋吾郎 - Wikipedia参照)

*4:御庭番・皐月のこと

*5:田原嘉信のこと

*6:1973年生まれ。テレビ東京超光戦士シャンゼリオン』(1996年)の南エリ役で知られる(東風平千香 - Wikipedia参照)

*7:1937~2016年。学生時代は野球に打ち込み、プロ野球球団・東映フライヤーズ(現・日本ハムファイターズ)の支配下に入るが、ケガのため正式契約前にプロ野球選手を断念。進路に迷っていると「東映ニューフェイスを募集してるよ」と勧められ、1957年(昭和32年)に第4期東映ニューフェイス(同期に佐久間良子(1939年生まれ)、水木襄(1938~1991年)、室田日出男(1937~2002年)、花園ひろみ(1940年生まれ)、山口洋子(1937~2014年、女優としては活躍できず作詞家に転身、1985年(昭和60年)に『演歌の虫』、『老梅』で直木三十五賞を受賞)、山城新伍(1938~2009年)ら)に選ばれ芸能界入り。1958年(昭和33年)、『裸の太陽』でデビュー(曽根晴美 - Wikipedia参照)

*8:恐らくは何らかの障害があったのでしょう

*9:出雲大社と大岡出雲守忠光をかけた上で忠光をほめている。