私が今までに読んだ本の紹介(岩井忠熊編)

・岩井忠熊
 立命館大学名誉教授。専門は、日本近現代史
 私が持っている岩井忠熊氏の著書は以下の通りです。
 「天皇制と日本文化論」(文理閣*1、「近代天皇制のイデオロギー*2、「陸軍・秘密情報機関の男」(以上、新日本出版社)、「特攻:自殺兵器となった学徒兵兄弟の証言」(忠熊氏の兄・忠正氏との共著、新日本出版社)。
 「天皇制と日本文化論」(1987年刊行)は当時、マスコミを賑わせていた「新・京都学派」(上山春平、梅原猛桑原武夫梅棹忠夫ら)批判が中心の歴史論文集である。
 一応、収録論文のタイトルのみ、いくつか紹介しよう。
 「国際化と日本文化論」、「上山春平氏大嘗祭復活論批判」、「『京都学派』の系譜と『新国家主義』」、「梅原猛氏の日本文化論と中曽根『日本学』」*3
 「近代天皇制のイデオロギー」は「近代天皇制」について忠熊氏が執筆した論文をまとめたもの。個人的には小文「近代日本の後醍醐天皇像」が面白かった。
 その「近代日本の後醍醐天皇像」(「近代天皇制のイデオロギー」88頁)を一部引用(なお、中略は岩井氏ではなく私の略です。)。

 1936年(昭和11年)、(中略)元老西園寺公望の秘書原田熊夫の記録*4によれば、彼は時勢に流されて*5右傾化する近衛文麿*6を案じながら内大臣湯浅倉平と談話した。8月7日のことである。内大臣は語っている。
『実は自分も近衛公爵については一方ならぬ心配をしている。この前近衛公爵にお目にかかった時、自分に「平泉文学博士をもう少し宮中に近づけて、陛下あたりがいろいろとお話をおききになったらどうか」と言っておられた。実は平泉澄*7というのは自分も知っておるけれども、まあ非常に極端な右の方で、この前も陛下に建武の中興について御進講をしたが、後醍醐天皇を非常に礼賛して、いかにも現在の陛下に当てつけるような風な話し方であった。(中略)お茶の時に陛下から平泉博士に対して、「今の話はよく聞いた。後醍醐天皇の御英明なことも自分はよく知っておるけれども、当時後醍醐天皇のおとりになった処置について何か誤りはなかったか」という御下問があった。陛下も(中略)後醍醐天皇の聡明はよく判っておるが、やはりいろいろ事の手違いの出来たのは、恩賞に不公平があり、またおとりになった措置にも手落ちがあった。それをただ、建武の中興を絶対的に礼賛したということについて、陛下はあんまり面白く思っておいでにならなかったらしい。近衛公がその平泉を宮中に近づけたらどうかということは、そんなようなわけでおかしな話だと自分では思っておった。』*8


 「陸軍・秘密情報機関の男」は忠熊氏の義兄で軍の諜報部門に勤務した、香川義雄の日記を元にした著書である。*9個人的に「へえ」と思う興味深い記述*10はあった。ただし衝撃の新事実という物は特にない(香川はそこまで危ないことには従事しなかったのか、それとも本当に危ないことは日記に書き残せないと言うことなのか?)。
 「特攻」は、特攻兵器で危うく死ぬかもしれなかった岩井兄弟の回想記である。忠熊氏は震洋*11、忠正氏は人間魚雷『回天』*12→人間機雷『伏龍』*13*14に従事した。*15
 伏龍についてはマガジン9条『見た・聞いた・体験した「戦争の話し」』 (http://www.magazine9.jp/60th/seguchi/index.html)もお読みいただければ幸い。

 ベタな感想だが、特攻って本当にひどいなと改めて思った。*16また、兄弟が「海軍賛美論」(阿川弘之とか)に対して、「海軍でもヒドイ暴力はあった」等、かなり批判的なのが興味深かった(震洋、回天、伏龍はもちろん全て海軍の特攻兵器)。

*1:赤旗」、「立命館学園広報」等、一般的な出版物に公表された物が多いので割とすらすら読める。

*2:歴史読本」、「週刊金曜日」等、一般的な出版物に公表された物が多いので割とすらすら読める。

*3:「新・京都学派」のうち、当時、左派から特に厳しく批判されたのは、中曽根康弘首相(当時)の肝いりで作られた国際日本文化研究センターの初代所長をつとめ、中曽根の有力ブレーンと見なされた梅原だろう。その梅原が、「九条の会」呼びかけ人の一人をつとめ、憲法九条問題では中曽根と意見を違えていることは、複雑な思いがする。

*4:岩波書店から刊行された「西園寺公と政局」(通称、原田日記)のこと。

*5:1936年には「二・二六事件」、広田弘毅内閣による軍部大臣現役武官制の復活などがある。

*6:戦前の政治家。

*7:戦前の歴史学者。湯浅が言うように「非常に極端な右の方」。戦後、平泉の弟子筋に当たる村尾次郎、時野谷滋が「非常に極端な右」の教科書調査官として「活躍した」ため、戦前の平泉を知らない者にまで大いに悪名が高くなった。それにしても主観的には尊皇家の平泉を宮中が極右として嫌ってるらしいのが興味深い。今上天皇明仁氏と街宣極右の関係みたい。

*8:民間右翼には平泉のように、後醍醐天皇万歳の人間が大かったが、宮中はそうでもなかったと言うこと。「天皇家北朝の出であること」「後醍醐に好意的と言われる『太平記』『増鏡』『神皇正統記』も手放しで後醍醐をたたえているわけではないこと」を考えれば当たり前のことだろうが。

*9:この本によれば香川が何らかの形で関わった諜報部門の仕事は以下の通り。
・陸軍秘密情報機関「山」の創設
陸軍中野学校の創設
・高宗武(中国の要人)来日工作
・光機関の対チャンドラ・ボース(インドの要人)工作
 なお、忠熊氏によれば、香川は1957年、何故か第一物産(後の三井物産)社員の名義でラオス出張しており、戦後のある時期までは香川は諜報活動に何らかの形で従事していたのではないかと忠熊氏は考えている。

*10:中野学校に入学したばかりの学生が教官の『天皇』と言う言葉に姿勢を正したところ、そんなことでは諜報活動は出来ないと注意されたというエピソードなど。

*11:モーターボートに爆弾を積んで突っ込むという特攻兵器。

*12:魚雷に人間が乗り込んで、米軍の艦艇にぶち当てるという特攻兵器。映画「出口のない海」(原作は横山秀夫の小説)などの影響で多分日本では神風特攻隊(日本軍の飛行機を米軍の飛行機や艦艇にぶち当てる)の次に、有名な特攻兵器でないだろうか?

*13:潜水具を着た兵士が棒付き機雷で海底から米軍艦艇を攻撃する特攻兵器。
 忠正氏はそもそも、そんなことが技術的に可能とは思えないと酷評している(日本版ウィキペディアでも同様の指摘がある)。
 なお、実戦配備はされなかったが、当時の潜水具は欠陥品が多かったため、訓練中に酸欠で窒息死する者が少なくなかったという(忠正氏も危うく死にかけている)。
 ちなみに、日本版ウィキペディアによれば、経済小説(今、TBSでドラマやってる「官僚たちの夏」とか)で知られる作家の城山三郎(故人)は伏龍部隊の生き残りの一人らしい(それにしては伏龍は回天や震洋に比べあまり有名でない気がする。私は回天や震洋は知っていたが、この本を読むまで伏龍は知らなかった)。

*14:ちなみに、忠正氏が「回天」から「伏龍」に変更されたのは自分の意志ではなく、上の命令によるという。どちらも海軍の特攻兵器なんだから別に当人の意志聞かないで変更してもいいだろう、という話らしいがそれでいいのか、海軍?

*15:特攻兵器の問題点はもちろん、「生きて帰ることが想定されていないこと」(作戦の成功イコール死)である。

*16:特攻がなくても、日本軍の体質(岩井兄弟が著書で指摘しているヒドイいじめとか)はヒドイと思うが。