新刊紹介:「歴史評論」1月号

歴史評論」1月号(特集/藩政改革の思想)の全体の内容については「歴史科学協議会」のサイトを参照ください。

http://wwwsoc.nii.ac.jp/rekihyo/

 以下は私が読んで面白いと思った部分のみ紹介します。(詳しくは1月号を読んでください)

■「藩政改革像の再構築―熊本藩宝暦改革を中心に―」(吉村豊雄)
(内容要約)
熊本藩の藩政改革(宝暦改革)の説明(藩主・細川重賢、側近・堀平太左衛門)。
・内容がうまくまとまらなかったので主要な改革内容を本誌8ページから列挙。
 宝暦二年(1752年):堀の大奉行就任。大坂蔵屋敷仕法締結。
 宝暦四年(1754年):藩校時習館開設
 宝暦五年(1755年):衣服制度の布達。奉行分職制の開始。
 宝暦六年(1756年):医学校再春館開設。寄せ村(村合併)、地引合い(全ての年貢対象土地に番号を付与)、新知世減制の実施。
 良く意味が分からないのだが、「衣服制度」=「身分制の強化」、「寄せ村」=「行政の簡素化」、「地引合い」=「年貢徴収漏れの防止」という事だろうか?
・なお、筆者によれば、熊本藩財政再建の基本は支出カットであり、専売制は行われたものの、いわゆる幕末雄藩(長州藩佐賀藩など)に比べ、その比重は小さく、主たる収入源は、大坂での年貢米の売却だったという(幕末雄藩は大坂以外でも販売ルートを開拓していた)。


■「改革主体の学問受容と君主像―米沢藩家老竹俣当綱の読書と政治・思想実践―」(小関悠一郎)
(内容要約)
・内容は巧く要約できなかったので要約しません。以下、この論文と関係ないことを書きます(すいません)。
・本論文を読んだり、ウィキペディアを見る限りでは、当時の米沢藩は物騒だなと思わざるを得ない。やたら人が死んだり、処罰されるんだもの。
 宝暦十三年(1763年):藩主・上杉重定の側近として藩の実権を握っていた森平右衛門を竹俣当綱一派が暗殺し、森派を粛正、実権を奪う。
 安永二年(1773年):藩主・上杉治憲(鷹山)に、反竹俣派が、竹俣の解任を求める七家騒動が発生。騒動の首謀者である江戸家老・須田満主、侍頭・芋川延親が切腹の処分を受ける等、反竹俣派に厳罰が下される。
 天明2年(1782年):竹俣の失脚。
 天明3年(1783年):莅戸善政の失脚。
 寛政3年(1791年):竹俣、莅戸の復権(莅戸は中老に就任)


■「近代化、近代性と名君像の再検討」(マーク・ラヴィナ)
(内容要約)
・内容は巧く要約できなかったので要約しません(いつものパターン)。
・ただ、藩政改革を進めるため、上杉治憲(鷹山)の質素倹約イメージの普及(藩主も質素な生活なのだからお前ら家臣も見習え?)に竹俣、莅戸が苦心していたという筆者の指摘につい、「土光敏夫のメザシ」を連想してしまった(資本家の土光がいつもメザシを食ってるわけもなくどうやらインチキらしいが)。


■「越後長岡藩儒・秋山景山の天保改革構想」(小川和也)
(内容要約)
・秋山景山が長岡藩に提出した藩政改革の上書を分析。
・景山は財政再建のため、領民から御用金を求めるべきだとした(もちろん裕福な領民から)。その場合、権力的に徴収するのも、御用金の見返りに特権(名字帯刀など)を与えるのも適切でないとした。藩と領民は運命共同体であり、藩は財政の情報公開を進んで行い、それに領民は御用金で応えるべき、というのが景山の考えであった(こういう運命共同体的な考え(企業主義、国家主義)は現代でもそう珍しいことではないだろう)。こうした景山の考えが実行に移されたことから、景山は上書を提出する前に藩や領民の動向を把握し御用金成功の見通しを持っていたと考えられる。
・疑問に思ったのは、領民が何故御用金に応じたのかというところ。景山的な考えを持っていたのか、それともやはり何らかの見返りがあった(あるいは見返りを期待していた)のか?


■「雄藩の藩政改革と専売制」(山形万里子)
(内容要約)
・雄藩の藩政改革はそれはそれとして評価すべきだが、薩摩、長州、佐賀どこも借金踏み倒しに等しいことをやってるという指摘は割と重要かなと思った。250年で全額返済(薩摩藩)とか、1000年で全額返済(佐賀藩)とか貸し手をなめすぎだろ。そんな無茶が許されるのなら今の日本政府だって(以下略)。
・専売制については以下の通り。
薩摩藩奄美諸島の砂糖の専売。
佐賀藩:陶磁器(有田焼など)と蝋の専売。
長州藩:木綿、紙、蝋、塩の専売。


■投稿論文「長沢別天の人種競争論―1891年〜92年の在米経験をてがかりに―」(水野守)
(内容要約)
・本論文が取り上げる長沢が政教社を舞台に活動した右翼活動家であること、白色人種に日本人(黄色人種の代表、リーダー?)は、競争して勝たねばならないと言ってるらしいことは分かったが、それ以上は良く分からなかった。


■編集後記
(内容要約)
今上天皇の「過去の歴史的事実を充分に知って未来に備えることが大切と思います」発言に複雑な思いを感じた(過去の歴史的事実には当然、日本の戦争での残虐行為なども含まれるだろう。明仁氏の立場や性格のせいか、そこまで明言はしていないが)。
・言っていることは正当なことで喜ばしいが、明仁氏は戦前世代で、選挙で選ばれた人間でもない。
 選挙で選ばれた戦後世代の政治家に歴史修正主義者がいるとはどういう事なのか。国民の歴史認識がお粗末と言うことなのだろうが(絶句)。