新刊紹介:「歴史評論」8月号

歴史評論」8月号(特集「現代日本国家・社会の特徴とその歴史」)の全体の内容については「歴史科学協議会」のサイトを参照ください。ここでは私にとって興味のある文章のみ紹介します。

http://wwwsoc.nii.ac.jp/rekihyo/

 ちなみに今月特集の目的は巻頭言によると次の通り。

 ヨーロッパ諸国では新自由主義改革は、福祉国家の解体を目的としていたとされています。日本では、福祉国家の未成熟、労働運動・社会民主主義勢力の脆弱性が指摘されてきましたが、日本でも社会保障制度の縮小、労働法制の規制緩和といった形で新自由主義改革が進められてきました。それでは、日本における新自由主義改革が攻撃・解体の対象としてきた現代的国家・社会とは、どのように形成され、いかなる特徴を持っていたのでしょうか。
 本特集は、こうした問題意識の上に時代を少し広く取り、国家政策の現代化の萌芽が見られた一九二〇年代以降を対象に、家族と社会政策との連関、中央政府と地方政府との関係、六〇年安保闘争後の市民運動における「市民の論理」の登場、佐藤栄作内閣での社会開発構想の未成熟さ、戦後労使関係の下での生産性基準原理をめぐる労使間の対抗、といったテーマを取り上げます。

■「現代国家への変容と近代家族の形成―田子一民の政策構構想を素材に―」(蓑輪明子)
(内容要約)
内務省社会局長として、1920年代の社会保障政策を担った官僚・田子一民の政策構想を論じた文章(後に田子は政界に転じ、第4次吉田茂内閣で農林大臣を務めている)。
・田子は1920年代、深刻化していた労働問題、貧困問題に対し国家として何らかの対応を行う必要を感じていた。
・と同時に、田子は日本における社会秩序安定装置としての家族制度を重要視していた。
・田子の政策構想は家族主義的、国家主義的な福祉国家構想と言えるだろう。
・本論文に問題があるとするとこうした田子の構想は結局どうなったのかが書いてないところだろう。


■「第一次世界大戦後の日本における現代的中央地方関係の模索」(山本公徳)
(内容要約)
第一次世界大戦後、原敬内閣が設置した審議会「臨時財政経済調査会」はいわゆる両税委譲論を提案した。
・両税委譲論とは国税の地租と営業税を地方税とする代わりに、国税として新たに一般財産税を創設するというものであった。
・で、筆者はこの両税委譲論が何をめざしていたか、結局、どのような結果となったかを論じているんだがよく分からないなあ。


■「高度成長期における「市民の論理」の歴史性」(赤堀正成)
(内容要約)
・「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)、「日本はこれでいいのか市民連合」(日市連)、「九条の会」等で活躍した市民運動家、作家小田実が主として取り上げられている。
・要約しづらいのだが、
「小田は既成左翼に飽きたらぬものを感じて市民運動を立ち上げた」が
「既成左翼を全否定していたわけではなく」
だからこそ、「晩年は上田耕一郎共産党副委員長)との対談にも応じた」(上田「対談集・人生の同行者」(新日本出版社))と言うところが本論文の内容だろうか。
(もちろん、上田との対談について言えば、既成左翼側のソフト化*1や、市民運動側の伸び悩み*2、小田が年を取って丸くなった等と言うこともあるかも知れないが)


■「日本における社会開発路線の挫折」(菊池信輝)
(内容要約)
・日本において新自由主義政策が初めて本格的に実施されたのは、アメリカのレーガン、イギリスのサッチャーと同時期の中曽根内閣であるとの認識を筆者は示している。
英米においては従来の福祉国家が攻撃対象になったが、日本では中曽根政権以前に福祉国家は成立していたのか。筆者は日本が一番、福祉国家に近づいた時を佐藤内閣(1964〜1972年)と理解し、佐藤の福祉国家構想を、主として佐藤日記をネタに検討している。その結論は佐藤には、福祉国家構想と呼べるものは取り立ててなく、日本での新自由主義の攻撃対象は、日本型企業社会と自民党流利益政治(開発主義)だったというのが著者の結論のようである(割と左派では多い見解でありとり立てて斬新な結論ではないと思う。)。
・ただし、この論文には次のような異論が出されるであろう。
1)例えば、id:kojitaken氏は、田中角栄内閣が「福祉元年」をスローガンとして打ち出したときが、日本が一番、福祉国家に近づいた時と認識しているようだ。この認識だと、佐藤内閣ではなく、むしろ田中内閣こそ詳しく分析すべきとなるだろう(筆者も田中内閣の検討が不要としているわけではなく、佐藤以降、中曽根以前の内閣の分析は他日を期したいとしているが)。
2)またタイトルも内容とずれているように思う。「社会開発路線の挫折」など書かれていないように思うのだが私の読み込みが甘いのだろうか?。そもそも「社会開発路線」とは何か(全国総合開発計画とかテクノポリス計画とか?)、挫折とは何か(大失敗に終わった苫小牧東部開発計画とか?)もよく分からなかった。


■「生産性基準原理をめぐる攻防戦」(岩佐卓也)
(内容要約)
・財界は労組の賃上げ要求を食い止めるため、個々の会社の支払い能力以上は賃上げすべきでないという「支払い能力論」を呈示したがこれは春闘における賃上げの抑止に効果を発揮しなかった。
・そこで財界側が編み出したのが賃上げ率は(個々の企業ではなく、)国民経済生産性の上昇率を超えるべきではない「生産性基準原理」である。この「生産性基準原理」が効果を発揮したのが1975年の春闘である(もちろん、高度経済成長が終了し、低成長の時代になったこと、労働運動においていわゆる労使協調型組合、右派組合(当時のIMF-JC、同盟)が主導権を握ったことが背景にはある)
・しかし、現在では「生産性基準原理」ですら、賃金抑制原理として使えない(生産性上昇率以上は上げられないが、裏返せば生産性上昇率程度は上げるべきと言うこと)として財界は「生産性基準原理」にかわる、さらなる賃金抑制策を実施している。
 これに対し、どう労働側が対応するかが注目される。


■文化の窓「鹿児島と西郷隆盛」(猪飼隆明)
(内容要約)
・筆者の著書「西郷隆盛」(岩波新書)の内容と一部かぶる。
 筆者は鹿児島県庁が支持する征韓論否定説(もともと、この説は現在、大阪市立大学名誉教授である歴史学者毛利敏彦の『明治六年政変の研究』(有斐閣)、『明治六年政変』(中公新書)等が唱えた説である)を「歴史修正主義」と厳しく批判している。

【参考】

田村貞雄氏(田村氏は静岡大学名誉教授。幕末・明治史がご専門。)のHPから
http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/frame.html


西郷隆盛征韓論は史実
 鹿児島県知事が、教科書会社に西郷隆盛征韓論を遣韓論にするよう要望し、一社*3がそれに従ったという報道に驚いている。
 鹿児島県刊行の『鹿児島県史西南戦争』第三巻(一九八〇年)のなかに、広瀬為興稿「明治十年西南ノ戦役土佐挙兵計画」という文書が載っている。これには参議の西郷隆盛副島種臣板垣退助に加えて、左院副議長伊地知正治による征韓計画が載っている。西郷は北部に上陸し、平壌から京城(ソウル)を攻撃することを主張した。副島は賛成したが、板垣と伊地知は、三分の一の兵を釜山に上陸させて朝鮮軍の迎撃を待ち、残り三分の二の兵力を西海岸に上陸させて、京城を占領することを主張した。西郷は進軍の戦略は板垣、伊地知に任せると述べた。
 当時司法省出仕だった有馬純雄の回想『維新史の片鱗』によると、有馬は西郷から朝鮮占領後の民政官任命を内示されたという。西郷が征韓論を唱えた史実は、まったく揺るがないのである。
南日本新聞・2007年3月14日*4

・平然と西郷は征韓論じゃないかもしれない、少なくとも両論併記すべきだ、という内容を今も県庁HPにのせる鹿児島県庁。素人の癖に学界の通説を公然と否定するなんて、県知事はアホかと。
・いや百歩譲って、知事の個人的見解としてなら良いけど、県庁HPに県の公式見解として載せたり、県の公文書として教科書修正の要請文を教科書会社宛に出したりするなよ。教科書会社も内心は呆れてると思うよ。
・阿久根と同じでお役人は知事に何も言えないんでしょうね、同情しますよ。民度低いな、鹿児島。まさか、県民の多数意見が「征韓論否定」じゃないよね。怖いよ、もしそうだったら、鹿児島で「西郷は征韓論に敗れて下野した」とうかつなこと(通説だが)を言ったら、「嘘をつくな」と怒った県民が何するか分からないじゃん(苦笑)
・大体、征韓論を否定したら大久保が盟友の西郷を下野させ、郷里の人間に「西郷さんを見捨てた」と恨まれてまで、何故反対したか説明が付かなくなると思うが。毛利氏みたいに大久保一派が西郷を謀略で追い出したとでも?。それは大久保たちに対して失礼すぎだろ。

【例1:平成19年2月8日「知事と語ろう会」(龍郷町)】
龍郷町民の意見の概要)
 この前,歴史関係の冊子を見ましたら,そこに伊藤知事が,教科書会社に西郷隆盛征韓論と遣韓論を併記をするべきではないかという提案をされていました。
 私もその提案には大賛成です。龍郷町も西郷さん*5のゆかりの地*6ですから,誤った西郷観があってはいけないので,知事が教科書会社に西郷さんの認識が間違っていると言われたのかまではわかりませんが,そのいきさつについて,説明してもらえればありがたいと思います。


(知事)
 今回の展開の始まりの一つは,小泉首相と韓国のノ・ムヒョン大統領との指宿市での会談でした。会談は大変成功したのでありますが,その際に韓国の新聞に,西郷さんは征韓論の親玉である,征韓論の親玉の地、鹿児島で日韓首脳会談をやるのはけしからんという記事が出ました。これが今回の教科書会社への要請の始まりであります。*7
 私も,明治維新のころを専門的に勉強しているわけではありませんが,明治6年の政変ということで,西郷さんは鹿児島に帰ってきました。*8明治6年政変のもともとは,韓国にどういう形で交渉の糸口を探るかというときの遣韓論,征韓論の争いであったように思います。歴史的にいろいろな説がありますが,今の日本の教科書の半分以上は,西郷さんは征韓論者として位置づけられております。
 西郷さんは,明治維新まではすぐれた政治家であったけれども,近代国家としての日本のビジョンを持ってなかったので,潔く死ぬ新しい死に場所を求めていたと司馬遼太郎など*9も言うわけです。韓国に行ったら殺されるのは当然わかっていながら,それを承知の上で,自らが使節団の団長として行くことにより,死に場所を求めたのだという説も十分あるわけです。
 ただ,そこのところはいろいろな学説があっていいかと思います。私は,彼の書いたものを南洲録等々いろいろな本も含めて読んでいますが,あれだけの人物にして,あれだけの遺訓を残し,いろいろな行動をやった人がそれほど単純な国家観の持ち主だったとは当然思えません。日本の新しい近代国家としての道を,西郷さんは西郷さんなりに考えていたのではないかと思います。
 そうだとすると,私の与するところは礼節遣韓論です。西郷さんとしては,礼節を尽くして韓国に行き,あちらの人々と話をするということを最大のテーマ,自分の志としていたのではないかと思います。そうすると,日本の高校の教科書で一律征韓論という,いかにも悪玉みたいにとらえられることは,正しい指摘ではないということであります。
 学説的にはいろいろ調べましたが,遣韓論と征韓論はほぼ拮抗しています。*10教科書の中にもどちらともいえないという立場で書いてある教科書もあります。西郷さんのいろいろな軌跡を勉強した人たちの中で拮抗しているにもかかわらず,まだ大多数の教科書が征韓論の親玉みたいに書くので,少なくとも学説として両方の説がある以上,両方の説を公平に取り扱ってほしいということを幾つかの教科書会社に申し入れました。
 県会議員にもそういうことを指摘する人がおられまして,一生懸命そういう主張をしておられます。最終段階で県会議員の方が質問する前に,実はもう出そうと文面もつくっていたのであります。
 私は,客観的に学問の世界で両説がある以上は,教科書も両説を書いてほしいとお願いしました。そうすると,教科書会社の方も,次の改訂のときに考えます,ないしは,こういう趣旨でこういう文言になっています,ここを十分踏まえてそう書いていますということで,私の申し入れに対して一律否定ということではありませんでした。教科書会社は,日本の今の歴史をどう評価するかということを真剣に考えているかと思いますが,そういう意味で徐々に雰囲気が変わっていくのかなと思います。
 そして,私自身は,西郷さんという人は,明治6年の政変以降は確かに常人ではなかなか理解しがたいところがあるのではないかと思います。あれほど大きな情の人というのはいないのではないかと思いますが,おそらく改めて西郷さんがよみがえりつつあるのだろうと思います。あれだけ無私の精神をもって人生を生き抜いた,いわば明治を建てた巨魁としての評価というのはこれからますます高まろうかと思います。そういう意味で,私も見ましたが,龍郷町の寓居とでもいうのでしょうか,さらに多くの方々が訪ねて,西郷さんと静かに対話をする,そういう青年や人々もおそらく増えてくるのかなという期待があります。
 龍郷町というのはまさにそういう意味で西郷さんと御縁があるところでもあります。そういう皆様方ももう少し私以上に勉強されて,いやいや西郷さんはこういう人だったよ,ということをいろいろな観光客に言えるようになっていただければ大変ありがたいと思います。完全なお答えになりませんが,経緯は大体そういうことでありました。

【例2:平成19年3月1日「県議会質問」(征韓論関係部分のみ)】
■鶴田孝雄議員(自民)
 さて、遣韓論であります。
 できるだけ早い遣韓論者としての西郷さんを表に出してほしい、そういう願いで知事に訴え続けてまいりました。そして、知事が九月の議会*11でそれを表明をされ、行動に移していただきました。その教科書出版会社への行動を移された知事に対して、さすがに出版社はナシのつぶてでは置いておりません。回答がある程度あったようであります。そのことは、「敬天愛人」、これは西郷南洲顕彰会が出します機関誌であります。年に一回発刊をいたしておりますが、この九月二十四日号、今年度号で、知事が巻頭言を書いていらっしゃるんであります。その巻頭言の中に、しっかり題も「遣韓論のこと」というタイトルでうたっておいでで、感触があったことをわずか一行半でありますけれども、おっしゃっております。このことをぜひどのような形で、今知事の方へ対応はなされているのかお聞きいたしたいのであります。
 次に、教育行政に対してお聞きをいたすものであります。
 昨年の九月に知事が、「(注:征韓論という教科書の記述を)変えなきゃいかん」ということで発言をされました。鹿児島県の教科書、高校が使っているものも全部征韓論であります、もちろん。私は書店でセンター試験日本史B、この参考書を買ってまいりました。これが一番分厚くて、一番内容が詳しいです。圧倒的に厚いです。ほとんどは、日本史Bについては、この半分で終わっています。十冊くらいは出ておりますが、最も克明に書いてあります。丁寧です、そして。
 「岩倉遣外使節団の留守中、西郷隆盛らは日本の国交樹立要請を拒否した朝鮮への侵攻を唱え始めた」
 当然、征韓論と書かなきゃバツであります。いまだにこういうことが、センター試験という大学生の入学を扱う試験で行われているのであって、これは当然と言えば当然のことです。これらを一日も早く変えて、子供たちに安心した西郷観を与えなきゃいけないわけでありますけれども、知事がこれは変えなきゃいかんとおっしゃったことに対して、その教育を現場でなさっている高校をお持ちの県教委として、その後の対応、どのようなものにされているのか、このことをお伺いをいたします。


伊藤祐一郎知事
 西郷遣韓論についてのお尋ねがありました。
 西郷隆盛をめぐる遣韓論、あるいは征韓論に関しましては、鶴田議員の本会議における発言も踏まえ、昨年六月、高校の日本史教科書を出版している七社に対しまして、西郷隆盛に係る教科書記載に当たっては、征韓、遣韓の公平な併記等を検討していただきたい。少なくとも学説上遣韓論に立つ見方も有力であることを注釈していただきたい旨を文書で要請したところであります。
 その後、これに対しまして出版社の一つから、本年四月から使用される教科書につきまして、これまで「西郷隆盛らは武力を用いてでも開国させようとする征韓論を唱えた」と記述されておりましたものを、「西郷隆盛らは、西郷を使節として朝鮮に派遣することを決定した」と変更した旨の連絡をいただいたところであります。
 また、そのほかの出版社からは、著者と協議中である*12、あるいは次回の改訂に向けて検討したい*13などの連絡をいただいているところであります。また、両論併記の必要がないこと*14を明言する出版社もあります。
 私としては、これまで西郷南洲顕彰会が発行している機関誌「敬天愛人」や月刊誌「歴史街道」などに寄稿し、西郷は日本人としての誇りを涵養する格好の教材であることや遣韓論の立場であったことなどを述べてきたところであり、今後とも郷土の偉人西郷隆盛が正しく理解されるよう、粘り強く努めてまいりたいと考えております。

【例3:平成20年11月の県民からの県庁への意見】
(意見の概要)
 今,NHK大河ドラマ篤姫で,こちらも湧いております。
 ところが,先日放送された西郷隆盛に関するテレビ番組を視聴しびっくりしました。西郷さんを「武力による征韓論者」として,全国放送したからです。視聴後,すぐそのテレビ局には抗議しましたが全く驚きです。
 以前から興味を持ってきた西郷さんについて,篤姫のドラマを機に勉強をし直してきましたが,西郷さんを一方的に武力による征韓論者とする説が現在も歴史学者の通説でしょうか。
 私の読んだものでは,そのような説は間違いであると説く説が有力です。*15
 鹿児島県として,もし私と同じお考えならば,是非このテレビ局に対し,なんらかの意思表示を県として出して頂きたいと,切にお願い申しあげます。


(県の取り組み状況)
 西郷隆盛をめぐる「遣韓論」あるいは「征韓論」につきましては,少なくとも明治6年の政変当時,西郷が即時出兵や兵力随行等の意見を抑え,自らが務める使節のみの遣韓を要請したという点については,異論のないところであると考えています。
 しかしながら,高校の歴史教科書では西郷を征韓論者として学び,専門的参考文献を目にする関係者だけが,「遣韓論・征韓論」の両説があることを知るというのが現状で,また専門家の間においても学説競合の状態にあると聞いています。
 本県としましては,西郷の本当の姿が次世代を担う子ども達に必ずしも伝えられていない状況に鑑み,これまでも教科書出版社に対して教科書記載に当たり,征韓・遣韓の併記をするなど両論が公平に取り扱われるよう要請を行ってきたところです。
 今後さらに史実の解明がなされ,西郷の遣韓論に対する理解が進むことを切に願っています。

*1:もちろんそこには既成左翼の伸び悩みと言う理由もあるだろう。

*2:いわゆる上層市民には「大国主義」「新自由主義」的な価値観の者もいるという問題がある。

*3:第一学習社と言うところらしい

*4:南日本新聞は鹿児島の地方紙。

*5:歴史上の人物なのだから、呼び捨てで良いのに、みんなして「さん」付けするのが興味深い。さすが鹿児島を代表する英雄。

*6:龍郷町奄美大島にある。島津久光の怒りを買った西郷が一時ここに流されていた。

*7:いや、それは韓国の新聞社に「それは違うと思います」という文書を送ってよ。教科書会社に「征韓論と遣韓論を併記してくれ」と要請するって絶対、方向が間違ってるよ

*8:「帰ってきた」って言うか、中央の官職を辞めて下野ね。

*9:翔ぶが如く」ですか?

*10:いや、まともな学者の世界では拮抗してないから。征韓論が通説だから。

*11:過去にも鶴田議員はこの問題で何度か質問しているが面倒なので省略。

*12:まともな著者なら両論併記なんて認めないだろう。

*13:たぶん、良く皮肉られるお役所の「検討します」「善処します」と同義語。

*14:たぶん「遣韓論なんて書きません」の婉曲表現。

*15:あんたの読んでる本って、絶対まともな歴史学者の書いた本じゃないだろ?。