三浦小太郎に突っ込む、ほか(2020年2月28日分)(副題:つくる会歴史教科書の検定不合格、ほか) - bogus-simotukareのブログで取り上げた
毛利輝元は「西軍の大将格」です。「関ケ原前夜 西軍大名たちの戦い」(角川ソフィア文庫)お読みください | 三浦小太郎BLOG Blue Moonを読んでいて思いついたことがあったので「忘れないうちに」書いてみます。
三条実美という人は明治新政府の中心人物といった場合に「歴史学者はともかく」まず一般人は名前を挙げない人かと思います。
まず公家では岩倉具視の名前が挙がり、武士としては「大久保や西郷(薩摩)」「木戸孝允(長州)」などの名前があがる。
ところが伊藤博文が首相になるまでは、実は「ポスト的に一番偉い」のは「太政大臣だった三条」です。「岩倉(右大臣、ポスト的には政権ナンバー2)」「大久保(内務卿)」は地位的には三条より下です。征韓論論争があれほどもめたのは「岩倉、大久保、木戸」が洋行してる間に「建前では政権トップの三条」が西郷らに押し切られてしまったからです。
「(事情はともかく)政権トップが決めたことに何の不満があるのか」と西郷らに居直られると「留守政府は重要事項については洋行している岩倉、木戸、大久保の意思を無視して物事を決めない」という「例の誓約書」があるとはいえ、巻き返しもしづらい(とはいえ結局三条の急病*1を利用して、政権ナンバー2・岩倉が太政大臣代行になり、征韓論反対を明治天皇に奏上することで巻き返しますが)
その後も三条は「首相」「内大臣」を一時、務めています。
しかし、だからといって三条のことを明治新政府の「大将格(?)」とは普通言わないでしょうね(重要人物ではあるでしょうが)。
やたらつくる会が絡む「輝元は大将格」の件も話は同じでしょう。俺は文科省意見が間違ってるとは別に思いませんね。
【参考:三条実美】
◆三条実美(1837~1891年、ウィキペディア参照)
◆八月十八日の政変
久留米藩より尊攘派のイデオローグである真木保臣(和泉)が上洛して学習院御用掛となり、当時、朝廷を牛耳っていた攘夷倒幕派の三条実美に直接影響を与えるようになった。真木は「百敗一成」を唱え、攘夷のための準備が整わない状態であっても、天皇が先頭に立って攘夷親征を行うことによって、世の中の動きが変わると主張した。真木をブレーンとした三条は、長州藩とともに攘夷親征のための大和行幸計画をたて、朝廷の方針となった。
しかし孝明天皇は行幸を望んでおらず、青蓮院宮(後の久邇宮)と薩摩藩に対して救いを求めた。青蓮院宮ら公武合体派の皇族・公卿、薩摩藩、京都守護職である松平容保の会津藩らは連携し、長州藩と三条ら攘夷倒幕派公卿排除のためのクーデター計画を進めた。
8月13日、攘夷親征のための大和行幸を行う詔が出された。ところが8月18日朝、薩摩藩と会津藩などの兵が御所の九門を固め、攘夷急進派の公家を締め出した。この結果、三条ら7人の攘夷倒幕派公卿(いわゆる七卿)は長州藩に逃げざるをえなくなった(いわゆる七卿落ち)。8月24日、許可なく京都を離れたことによって三条ら七卿は官位を停止され、長州藩は京都での勢力を失った。
◆第一次長州征伐
第一次長州征伐が迫る中、さらに長州には下関戦争による四カ国(英米仏欄)連合の攻撃も加えられた。恭順派が台頭した藩内では三条らを幕府に引き渡すことも検討されていた。長州藩と征討総督府西郷隆盛*2の交渉の結果、いったん三条らを筑前藩(福岡藩)に移すことで合意が行われた。
慶応元年(1865年)正月15日、三条らは福岡藩に上陸し、太宰府天満宮の別当延寿王院に幽閉された。慶応2年(1866年)には幕府から使者が訪れ、三条らを大坂に移すよう求めてきた。しかし三条らは死を賭してもでも動かないと決めており、薩摩藩も強硬に反対したため幕府は手が出せなかった。この頃になると幕府権威の失墜は明らかであり、延寿王院は多くの訪問者で賑わいを見せるようになった。慶応3年(1867年)、中岡慎太郎は京都の公家と三条を連携させる案を模索していたが、その候補となったのがかつての「三条の政敵」である岩倉具視であった(ただし、三条が岩倉を攻撃した当時は、岩倉は討幕派ではなく公武合体派で和宮降嫁の中心人物でもあった)。
三条は岩倉が「大姦物」であると難色を示したが、岩倉の縁戚で三条とともに長州に逃げのびた「七卿」の一人である東久世通禧*3の説得で提携を受け入れることとなった。
◆明治維新
・慶応3年10月27日、大政奉還が成立し、12月8日には三条らの赦免と復位が達成された。12月14日にこの知らせを受けた三条らは、12月27日に参内し、議定に任ぜられた。反幕派の大物である三条の復権は、朝廷内における薩摩・長州の力となった。
・慶応4年(1868年)には岩倉具視*4とともに新政府の事実上のトップである副総裁の一人となり、外国事務総督(外相)を兼ねた。
・明治4年(1871年)には制度改革により、太政大臣となった。
◆征韓論論争(明治6年の政変)
明治6年(1873年)6月、参議板垣退助*5が朝鮮への出兵を求め、西郷隆盛は自分を大使として派遣することを主張した。三条は西郷が渡韓すれば必ず殺されると反対した。しかし西郷は自ら三条を訪問するなど圧力をかけ、8月17日には閣議で西郷の派遣が決定された。しかしこれは三条が後に「初発僕等の軽率」と語るように、征韓反対の立場に立つ三条としては失策であった。三条は明治天皇の元を訪れ、「岩倉帰朝の後に熟議」して決定するという「聖断」を受けた。内藤一成(宮内庁書陵部編修課主任研究官、国際日本文化研究センター共同研究員)はこれは明治天皇の自発的言動と言うより、明治天皇を利用した三条の巻き返しではないかとみている。
岩倉の帰朝後には征韓反対派(大久保ら)と賛成派(西郷ら)の争いはますます激しくなり、政府分裂を恐れた三条は、10月15日の閣議で西郷の案を決定し、派遣時期については軍備が整うまで決定しないという形で引き伸ばしを図った。しかし征韓反対派の岩倉具視、木戸孝允*6、大久保利通*7が辞表を提出し、いずれにしても政府の分裂は避けられなくなった。心身共に疲弊した三条は10月18日朝に倒れた。三条は胸の痛みを訴えており、家近良樹*8(大阪経済大学教授)は狭心症か心筋梗塞、内藤一成は脚気からくる心臓病(脚気衝心)ではないかと見ている。
これをうけて大久保は、岩倉を太政大臣代理とするよう働きかけた。岩倉は征韓論争を解決する方法として、明治天皇の「聖断」を仰いだ。10月24日には宮中に影響力をもつ岩倉の意見が通り、西郷ら征韓論賛成派は政府を去った。三条も辞意を伝えたが許されず、12月23日に参内して辞表を提出した却下され、引き続き太政大臣をつとめることとなった。
◆島津久光との対立
明治7年(1874年)4月27日、西郷なき政府の安定を図るため、保守派の重鎮である島津久光が左大臣となるが、久光は政府の欧化政策を批判し、撤回させるべく動きを強めた。久光は幕末以来の親交を持つ華族を動員して政府に圧力をかけ、明治8年(1875年)には太政大臣・三条の権限を左右大臣に譲らせるよう働きかけた。この動きは失敗し、10月19日にはついに久光は三条を辞職させるよう上奏した。しかし三条の盟友・岩倉は三条更迭に反対し、久光の弾劾は失敗に終わった。久光は辞表を提出したが岩倉によって差し戻され、10月25日の閣議で正式に免官となった。
久光が去った後の政府は大久保の独壇場となり、三条はその方針をほとんど支持している。明治11年(1878年)に大久保が暗殺されると、伊藤博文と大隈重信*9が実力者となったが、明治十四年の政変(伊藤による大隈追放劇)で大隈が下野すると、伊藤の独壇場となった。
◆内大臣に転じる
明治18年(1885年)には太政官制が廃止されて、内閣制度が発足。伊藤が初代内閣総理大臣(首相)に就任したため、内大臣に転じた。
◆内閣総理大臣(首相)を兼任
明治22年(1889年)、条約改正交渉が暗礁に乗り上げ、黒田内閣外相の大隈重信が右翼団体・玄洋社の団員に爆裂弾を投げつけられて右脚切断の重傷を負うという事件が発生した。進退窮まった黒田内閣は、10月25日、全閣僚の辞表を提出した。ところが、明治天皇は、黒田清隆*10首相の辞表のみを受理して、他の閣僚には引き続きその任に当たることを命じるとともに、内大臣の三条に首相を兼任させて、内閣を存続させた。12月24日、山縣有朋内務相が首相に任命され、第1次山縣内閣が成立した。三条は辞表を提出し、兼任していた首相を免ぜられ、内大臣専任となった。
この期間、ひとつの内閣、首相が存在したものとして、これを「三条暫定内閣」「三条暫定首相」と呼ぶことがある。しかしその後、◆原敬*11首相暗殺時の内田康哉*12首相代理(原内閣外相)
◆加藤友三郎*13首相病死時の内田康哉首相代理(加藤友三郎 内閣外相)
◆加藤高明*14首相病死時の若槻礼次郎*15首相代理(加藤高明内閣内務相)
◆浜口雄幸*16首相が狙撃され療養のため執務不能となった時の幣原喜重郎*17首相代理(浜口内閣外相)
◆犬養毅*18首相暗殺時の高橋是清*19首相代理(犬養内閣蔵相)
◆226事件当時(襲撃を受けた岡田啓介*20首相が難を逃れるため一時、行方不明となった)の後藤文夫*21首相代理(岡田内閣内務相)
◆石橋湛山*22首相が病気で倒れた事による岸信介*23首相代理(石橋内閣外相)
◆大平正芳*24首相病死時の伊東正義*25首相代理(大平内閣外相)
◆小渕恵三*26首相病死時の青木幹雄*27首相代理(小渕内閣官房長官)など、首相の「臨時代理」が制度として定着すると、この三条による首相兼任は、次第に過去の特別な例外として扱われるようになった。今日では「黒田の首相辞任から山県の首相就任」までの2ヵ月間に「内大臣の三条が首相を兼任していた」とはしながらも、それは「黒田内閣首相代理」「黒田内閣の延長」であって「三条は歴代の首相には含めない」とすることが学界通説や政府見解となっている。首相官邸サイト等で歴代内閣を表す際、山縣は伊藤、黒田に次ぐ第三代首相とされることが多く、「三条に次ぐ第四代首相」とはされていない。
◆死去
明治22年(1889年)2月11日の大日本帝国憲法公布式典では明治天皇の脇に控え、憲法文を天皇に奉呈する役割を負っている。以降も臣下では最高の席次を持ち、最高位の功臣として遇された。
明治24年(1891年)2月18日、インフルエンザにより53歳で死去。死の直前である2月17日には天皇が自ら見舞いに訪れ、正一位に叙せられた。なお「生前の正一位叙位」は史上6人目で、「源方子*28以来745年ぶり」で、「男性としては藤原永手*29以来1121年」ぶりで、現時点で生前に正一位を叙位された最後の例である。
2月25日に国葬が行われた。
◆参考文献(著者名のあいうえお順)
・刑部芳則*30『三条実美:孤独の宰相とその一族』(2016年、吉川弘文館)
・内藤一成*31『三条実美:維新政権の「有徳の為政者」』(2019年、中央公論新社)
◆伊藤博文*32(1841~1909年、ウィキペディア参照)
明治18年(1885年)12月の内閣制度移行に際し、誰が初代内閣総理大臣(首相)になるかが注目された。衆目の一致する所は、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三条実美と、大久保内務卿の死後、工部卿、宮内卿などの要職を歴任し、事実上の宰相として明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤だった。しかし三条は、藤原北家閑院流の嫡流で清華家の一つ三条家の生まれという高貴な身分、公爵である。一方伊藤といえば、貧農の出で武士になったのも維新の直前という低い身分の出身、お手盛りで伯爵になってはいるものの、その差は歴然としていた。
太政大臣に代わる初代首相を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいるなか、伊藤の盟友であった井上馨*33は「総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋*34が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。以後、伊藤は4度にわたって首相を務めることになる。
「三条実美 維新政権の『有徳の為政者』」内藤一成著|日刊ゲンダイDIGITAL
幕末・明治に活躍した貴族「三条実美」の伝記である。
その名はもちろん知ってはいるが、彼の生涯をまとめて振り返った書物を読むのは初めてだった。家格の高い貴族の出身であり、倒幕勢力によって「担ぎ上げられた貴族」というイメージが強かった。明治新政府では太政大臣を務めていたが、司馬遼太郎の小説などによりたぶんにお飾り的存在だと思っていた。
しかし、そんなヤワな貴族ではなかった、ということが本書では語られる。穏やかな性格ながらも芯を通す強い人間であった。
幕末に革命派の貴族として京都を追放され、長州から太宰府へ流されたことがある。そこでも革命家と接触を続け、幕府からの移転命令に際しては、ついにその場での死も覚悟していた背景が描かれている。
専門家による研究書でもあるので、調査は実に緻密である。当たり前だが。
京都の天皇から江戸城の将軍への使いが送られる折、かつては将軍が上段に座り、使いの者は下段に伏してから上段に上って勅命を述べていたが、文久3年11月に三条実美が使いになった時、三条は最初から上段に座ったという。
これが朝廷優位へとなっていく出来事のひとつなのだが、その細かい描写にはただただ驚く。
明治政府になっても、元貴族でありながら三条実美は大久保利通、伊藤博文らの開明派の後ろ盾となり、「太陽暦を元の暦に戻せ、洋服を廃止しろ」と主張する旧勢力(トップは左大臣の島津久光ら)からの主張を阻止する先頭に立っていた。この人は貴族なのに開明派だったのだ。
三条が危篤となった時、明治帝は驚き、ごくわずかの近習だけを伴ってその屋敷に赴き生前に正一位を授けたという。
*1:あまりにも岩倉に都合が良すぎるので勿論仮病説もあります。ただしウィキペディア「三条実美」によれば「狭心症か心筋梗塞」(家近良樹・大阪経済大学教授)、「脚気からくる心臓病(脚気衝心)」(内藤一成・宮内庁書陵部編修課主任研究官、国際日本文化研究センター共同研究員)として仮病ではないとする説もあります。
*3:明治新政府で外国事務総督(外相)、神奈川府知事、開拓使長官、侍従長、貴族院副議長、枢密院副議長を歴任
*5:第2次伊藤、第2次松方、第1次大隈内閣で内務相
*8:著書『孝明天皇と「一会桑」:幕末・維新の新視点』(2002年、文春新書、後に『江戸幕府崩壊:孝明天皇と「一会桑」』と改題して2014年、講談社学術文庫)、『その後の慶喜:大正まで生きた将軍』(2005年、講談社選書メチエ→2017年、ちくま文庫)、『幕末の朝廷:若き孝明帝と鷹司関白』(2007年、中公叢書)、『徳川慶喜』 (2014年、吉川弘文館人物叢書)、『西郷隆盛』(2017年、NHK出版新書)、『西郷隆盛』(2017年、ミネルヴァ日本評伝選)など
*9:参議、大蔵卿、第1次伊藤、黒田、第2次松方内閣外相、首相など歴任
*10:第1次伊藤内閣農商務相、首相、第2次伊藤内閣逓信相、枢密院議長など歴任。元老の一人。
*11:立憲政友会幹事長、第4次伊藤内閣逓信相、第1次、第2次西園寺、第1次山本内閣内務相などを経て首相
*12:駐米大使、駐露大使、外務次官、第2次西園寺、原、高橋、加藤友三郎、斎藤内閣外相など歴任
*14:第4次伊藤、第1次西園寺、第3次桂、第2次大隈内閣外相などを経て首相
*15:大蔵次官、第3次桂、第2次大隈内閣蔵相、加藤高明内閣内務相を経て首相
*16:逓信次官、大蔵次官、加藤高明内閣蔵相、第1次若槻内閣内務相を経て首相
*17:戦前、駐米大使、加藤高明、第1次若槻、浜口、第2次若槻内閣外相など歴任。戦後、首相、吉田内閣副総理、衆院議長を歴任
*18:第1次大隈内閣文相、第2次山本内閣逓信相(文相兼務)などを経て首相
*19:日銀総裁、第1次山本、原、田中、犬養、斎藤、岡田内閣蔵相、首相など歴任
*21:斎藤内閣農林相、岡田内閣内務相など歴任
*22:戦前、東洋経済新報主筆。戦後、政界入りし、吉田内閣蔵相、鳩山内閣通産相などを経て首相
*23:戦前、満州国総務庁次長、商工次官、東条内閣商工相を歴任。戦後、日本民主党幹事長、自民党幹事長(鳩山総裁時代)、石橋内閣外相を経て首相
*24:池田内閣官房長官、外相、佐藤内閣通産相、田中内閣外相、三木内閣蔵相、自民党幹事長(福田総裁時代)などを経て首相
*25:大平内閣官房長官、鈴木内閣外相、自民党政調会長(中曽根総裁時代)、総務会長(竹下総裁時代)など歴任
*26:竹下内閣官房長官、自民党副総裁(河野総裁時代)、橋本内閣外相を経て首相
*27:自民党参院幹事長、参院会長、小渕、森内閣官房長官を歴任
*28:中納言藤原長実の妻。娘の藤原得子が鳥羽法皇の寵愛を受けていたこと、孫の体仁親王が近衛天皇として即位したことなどが正一位就任の理由であった(ウィキペディア「源方子」参照)。
*29:中納言、大納言、左大臣を歴任(死後、太政大臣を贈位)。光仁天皇擁立の功績により正一位に叙せられた(ウィキペディア「藤原永手」参照)
*30:日本大学准教授。著書『洋服・散髪・脱刀:服制の明治維新』(2010年、講談社選書メチエ)、『京都に残った公家たち:華族の近代』(2014年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『公家たちの幕末維新:ペリー来航から華族誕生へ』(2018年、中公新書)、『古関裕而:流行作曲家と激動の昭和』(2019年、中公新書)など
*31:宮内庁書陵部編修課主任研究官、国際日本文化研究センター共同研究員。著書『貴族院と立憲政治』(2005年、思文閣出版)、『貴族院』(2008年、同成社)など
*32:工部卿、宮内卿、首相、枢密院議長、貴族院議長、韓国統監を歴任。元老の一人。
*33:外務卿、第1次伊藤内閣外相、黒田内閣農商務相、第2次伊藤内閣内務相、第3次伊藤内閣蔵相など歴任。元老の一人。