新刊紹介:「歴史評論」4月号

特集『異文化接触としての日米交流史』
詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/
 
■「エリザベス・プールボー*1の日本経験」(小檜山ルイ*2
(内容要約)
 宮城女学校初代校長プールボーが日本に失望を感じ日本を去るまでを簡単に説明。彼女の教育方針を日本人側は「西洋偏重」と見なして批判的であり、相互理解は到底不可能との結論に達した彼女は宣教師、女学校の職を辞任し米国へと帰っていったのだった。


■「日本仏教のハワイ布教と文化変容:ハワイ本願寺派教団を中心に」(守屋友江*3
(内容要約)
 ハワイ最大の仏教教団であった本願寺派教団の布教活動について説明している。なお、本願寺派が最大教団になった理由の一つは「ハワイ移民の出身県・広島、山口、福岡、熊本」は真宗門徒が多いことがあるという。


■「アメリカ女性宣教師と大正期福岡」(千葉浩美*4
(内容要約)
 福岡女学院校長「エリザベス・M・リー」の運営方針の説明。当時の日本においてキリスト教系学校は差別的な取り扱い*5をされており、それに対し、リーがとった「宥和策」の説明(詳しい説明が面倒なのでそれは省略する)。
「差別的な取り扱い」
「それに対抗するための宥和策の実施」
 どこかで聞いたような話だ。はっきり言えばid:noharra先生が日本政府の差別行為「無償化除外」を容認してらっしゃる朝鮮学校の事だが。


■「津田梅子*6アメリカ:初の官費女子留学生の一人として」(高橋裕子*7
(内容要約)
・津田梅子の留学に至る要因としては父・仙の影響が大きい。仙は『慶応3年(1867年)、幕臣・小野友五郎が幕府発注の軍艦引取り交渉のためアメリカへ派遣されるのに通訳として随行』(ウィキペ「津田仙」参照)しており、彼はこのときに米国に好感情を持つようになった。
・うまくまとまらないので、以下はウィキペの記述を引用する。

津田梅子(ウィキペ参照)
 明治4年1871年)、父・仙は明治政府の事業である北海道開拓使の嘱託となる。開拓使次官の黒田清隆*8は女子教育に関心を持っていた人物で、仙は黒田が企画した女子留学生に梅子を応募させ、同年、岩倉使節団随行して渡米。5人のうち最年少の満6歳であった。
 森有礼*9の世話で、留学生はワシントン市内に住まわされるが後に2名は帰国した。残った3人が梅子、山川捨松(のちの大山捨松)、永井繁子(のちの瓜生繁子)である。この3人は生涯親しくしており、梅子がのちに「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立する際に二人は助力した。
 1878年明治11年)、私立の女学校であるアーチャー・インスティチュートへ進学。ラテン語、フランス語などの語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学ぶ。1881年明治14年)には開拓使から帰国命令が出るが、在学中であった山川捨松と梅子は延長を申請し、1882年(明治15年)7月に卒業。同年11月に日本へ帰国する。
 梅子らは帰国したものの、日本においては女子留学生の活躍できる職業分野にも乏しく、山川捨松と永井繁子はそれぞれ軍人の大山巌*10、瓜生外吉へ嫁した。また、梅子は幼少からの長い留学生活で日本語能力はむしろ通訳が必要なほどになってしまい、日本的風習にも不慣れであった。1883年(明治16年)には、外務卿・井上馨*11の邸で開かれた夜会に招待され、伊藤博文*12と再会し、華族子女を対象にした教育を行う私塾・桃夭女塾を開設していた下田歌子*13を紹介される。梅子は伊藤への英語指導や通訳のため雇われて伊藤家に滞在、歌子からは日本語を学び、「桃夭女塾」へ英語教師として通う。1885年(明治18年)には伊藤に推薦され、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師として教えることとなった。
 梅子は華族女学校で3年余り教えているが、上流階級的気風には馴染めなかったと言われ、この頃には何度か薦められていた縁談も断っている。やがて梅子は「二度と結婚の話はしないでください。話を聞くだけでもうんざりです」と手紙にしたためたほど、日本の結婚観に辟易して生涯未婚を誓う。1888年明治21年)には、留学時代の友人アリス・ベーコンが来日し、彼女に薦められて再度の留学を決意。校長の西村茂樹から2年間の留学を許可される。1889年(明治22年)7月に再び渡米。
 当時は進化論においてネオ・ラマルキズムが反響を呼んでおり、梅子はフィラデルフィア郊外のブリンマー・カレッジで生物学を専攻する。大学からはアメリカへ留まり学究を続けることを薦められるが、1892年(明治25年)8月に帰国。再び華族女学校に勤める。1894年(明治27年)には明治女学院でも講師を務める。1898年(明治31年)5月、女子高等師範学校教授を兼任する。成瀬仁蔵*14の女子大学創設運動や、1899年(明治32年)に高等女学校令、私立学校令がそれぞれ公布されて法整備が整い、女子教育への機運が高まると、1900年(明治33年)に官職を辞する。父の仙やアリス・ベーコン、大山捨松、瓜生繁子らの協力者の助けを得て、同年7月に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を開校し、塾長となる。
 1903年明治36年)には専門学校令が公布され、塾の基盤が整うと申請して塾を社団法人とする。
 梅子は塾の創業期に健康を損ない、塾経営の基礎が整うと1919年(大正8年)1月に塾長を辞任する。鎌倉の別荘で長期の闘病後、1929年(昭和4年)に64歳で死去する。生涯独身を貫いた。津田英学塾の校舎は後に戦災で失われ、津田塾大学として正式に落成・開校したのは没後19年目の1948年(昭和23年)のことである。
 日本の女子教育に対する貢献の功績により、1915年(大正4年)には勲六等宝冠章、1928年(昭和3年)には勲五等瑞宝章を受章している。
 墓所は、東京都小平市に在る津田塾大学の校内にある。


■「日米人形交流から満州国少女使節へ:国際交流における子供の活用」(是澤博昭*15
(内容要約)
 タイトルの「日米人形交流」についてはウィキペ「青い目の人形」を参照。

青い目の人形(ウィキペ参照)
 1927年(昭和2年)に、アメリカから日本に贈られた人形のこと。日露戦争後に日本が満州権益をにぎると、アメリカとのあいだで政治的緊張が高まっていた。また、1924年に成立したいわゆる「排日移民法」も、両国民の対立を高めつつあった。そんななか、1927年3月、日米の対立を懸念し、その緊張を文化的にやわらげようと、アメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック博士が提唱して親善活動がおこなわれた。その一環として、米国から日本の子供に12,739体の「青い目の人形」が贈られた。仲介者は渋沢栄一であった。「青い目の人形」は全国各地の幼稚園・小学校に配られて歓迎された。
 返礼として、渋沢を中心に「答礼人形」と呼ばれる市松人形58体が同年11月に日本からアメリカに贈られた。
 日本に贈られた「青い目の人形」だが、太平洋戦争(第二次世界大戦)中は敵性人形としてその多くが焼却処分された。しかし、処分を忍びなく思った人々が人形を隠した。現存する人形は2010年現在、323体にすぎないが、日米親善と平和を語る資料として大切に保存されている。

 次にタイトルの「満州国少女使節」だがググってもいいネタが見つからん。ま、勘の鋭い方はタイトルだけでわかるだろうが超アバウトに言えば
1)大ニッポソ帝国が、傀儡国家「満州国」に日本代表の少女団体を送り込み
2)満州の少女と日本の少女に「私たちはアジアの友達」というパフォーマンスをさせたという「気持ち悪い話」である。どうも是澤氏は「日米人形交流にも満州国少女使節並みのキモさがあった、戦前大ニッポソ帝国とは何というブラック国家か」と言いたいようだが、小生、「日米人形交流」をそこまで否定的に見ていいのかは知らん。満州国少女使節は文句なしに頭がいかれてると思うが。
 「純真無垢(?)な子ども」を政治利用するというのは何も「ヒトラーユーゲント」「ソ連のピオニール」など外国に限った話ではなく「我が大ニッポソ帝国」もそうした「輝かしい黒歴史」を持っているのだ!。我々はニッポソの下劣で外道な歴史を語り継いでいこうではないか!
冗談はともかくこの論文、「日米交流史」というテーマから少しずれてると思うが。前半「人形交流」は日米交流だが、後半「少女使節」は米国は関係ないから。満州国など米国は認めてないから、少女使節にはもちろん米国はコミットしない。
 うーむ、テーマに合致してるのか?


【追記】
是澤氏が紹介する当時の文部省パンフに大爆笑。当時の人間はこれを「信用する振りをしないと行けなかったのか」*16と思うと心底同情する。

支那が自分の悪いことは棚に上げ、嘘八百日本の悪口*17を並べ立てた」
「日本は戦争なんか決してしたくはない*18が、あまり支那が日本をバカにして乱暴したからこんなこと*19になったのに他の国まで無茶な支那の味方をする*20とは残念なことだ。どこまでも日本のやったこと*21は正しい」
支那人がこれまで満蒙*22を開いてくれた日本人をどうして排斥するのだろう。日本人が満蒙で利益を得ているよりも支那人が日本のお陰を被っていることがどんなに大きいかしれない」
「満蒙発展というのは決して支那の領土を横取りすることではない。忘れてはならないのは支那人の幸福も考えて東洋の平和を乱さないようにすることだ」


■歴史のひろば「失敗から何を学ぶか:日米安保原子力・領土・改憲」(岡本厚)
(内容要約)
・岡本(元「岩波・世界」編集長)の言う失敗とは「民主党政権の挫折」である。内容要約ではなく岡本の文章に批判的コメントする。共感する部分が全くないわけではないが、問題が多すぎる駄文だと思う。正直、こんな駄文を歴史評論は載せるなと思う。
1)民主党政権の挫折の一要因は「綱領がなかったこと」である、そのため首相(代表)個人の意思によって党が右往左往する羽目となった
 冗談も大概にして欲しい。綱領はそれはあった方がいいだろう。しかし民主党に綱領がないなど、政権交代時からわかっていたではないか。
 ならば綱領のある自民党共産党などをそれだけで岡本は絶賛するのか?
 綱領がないから消費税増税八ッ場ダム容認という公約違反をするのか?。綱領がないと「秘密保全法」「武器三原則見直し」(いずれも野田内閣)などの右翼的政策に走るのか?。そういう話ではないだろう。 
2)しばらく日本政治の右傾化は続くだろう
 俺もその危険性は否定できないと考えてるが、他人事みたいに言うなと思う。俺もそうだが、あんたも日本国民という当事者だろうが。外国の評論家かよ、手前。
3)復権した自民党を評価しないが他党についても不満がある
 不満があるのは結構だが仮にも自称左派が「自民党以外もろくでもない」の一言で終わらせるな。お前は「維新、みんなのような右派」も「社民、共産のような左派」も「十把一絡げ」にする気か?。この発言からは岡本の「民主党への期待が異常に大きかったこと(社民、共産、在野の市民運動など、民主党以外の左派についておそらく何とも思っていないこと)」と「岡本が失敗から何も学んでいないこと」を示していると思う。俺も「社民、共産が大躍進する」とまでは思ってないが仮にも自称左派が、社民、共産を無視して一体、どこに基盤を置く気なのか?
4)日本の安保政策において日本は常に客体であり、主体はアメリカであった
 これまた冗談も大概にして欲しい。日米安保がある以上「日本の安保政策」において米国の意思を無視することはできないがそれを「常に日本は客体」と表現する事はあまりにも問題だろう。日本政府側に「自己の意思」がないわけがないのだから。かつこれではid:kojitaken氏が批判する孫崎享のように「対米自立しさえすればいい」ということになりかねない。
5)米国の戦争において米中戦争は想定されておらず集団的自衛権要求も米中戦争を前提にしていない。アメリカが想定しているのは主として中東への軍事介入だろう
 米中戦争などという事態がアメリカにとってのメインでないことはその通りだろうが、「(全面戦争などあり得ないことは当然として、局地戦まで含めても)想定していない」とまで言い切っていいかは疑問だと思う。
6)日本の領土問題はアメリカが意図的に作り出した面があるのではないか
 ま、北方領土にせよ、竹島にせよ、尖閣にせよ「アメリカが曖昧な立場を取ったこと」が問題を複雑化させた面はあるだろうと思う。そしておかしな事にそうしたアメリカの態度を自称愛国者が批判しないのも「対米追従」にも程がある話だ。
 ただそれを意図的なものと見なしていいのだろうか?


■編集後記
筆者上杉和彦氏の紹介する外国人ゼミ生の言動が面白い。

1)ロシアからの留学生
 上杉氏の研究室は土足で可なのだが、「日本ではどこでも靴を脱ぐ」と勘違いしてたらしく、いきなり靴を脱ごうとしたらしい。
2)韓国、台湾(中華民国)の留学生
 彼らの徴兵制体験を聞いたそうだが、実に重苦しい気持ちだったそうだ。いや、徴兵制のない国でおいら幸せだな。
 しかし嫌韓国でありながら徴兵制絶賛するウヨって頭に大便でも詰まってるのかね?。それとも「韓国の徴兵制は汚い徴兵制、日本のはきれい」とでも思ってるんだろうか?
3)フランスからの留学生
 ゼミ合宿の飲み会で「雪印の6ピースチーズ」を出したら、さすがチーズ大国フランス、「こんな酷いものを日本ではチーズというのか」と絶句されたらしい。
 もちろん上杉氏が「あと1週間待って下さい。あなたが満足する本物のチーズを食べさせてあげますよ」と言ったことは言うまでもない(嘘)

*1:宮城女学校(宮城学院女子大学の前身)初代校長

*2:著書『アメリカ婦人宣教師:来日の背景とその影響』(1992年、東京大学出版会

*3:著書『アメリカ仏教の誕生:二〇世紀初頭における日系宗教の文化変容』(2001年、現代史料出版)

*4:著書『ミス・ダイヤモンドとセーラー服:エリザベス・リー、その人と時代』(共著、2010年、中央公論新社)。「ミス・ダイヤモンド」とは福岡女学院校長「エリザベス・M・リー」のニックネームである。「ハッチポッチステーション」のあの人ではない。

*5:1899年の文部省訓令12号は「宗教教育を行う学校は高等女学校と認めない」としており、福岡女学院キリスト教教育を実施するためあえて「各種学校」の道を選んだという。「あえて各種学校の道」なんてまるで朝鮮学校みたいですね、在日差別者のid:noharraさん。

*6:津田塾大学創立者

*7:著書『津田梅子の社会史』(2002年、玉川大学出版部)

*8:後に首相、枢密院議長など歴任

*9:当時駐米大使館員。後に文部大臣。

*10:陸軍大臣参謀総長内大臣を歴任。元老の一人

*11:外務大臣、農商務大臣、内務大臣、大蔵大臣など歴任。元老の一人

*12:首相、枢密院議長、貴族院議長、韓国統監など歴任。元老の一人

*13:順心女学校初代校長、実践女学校初代校長を務めた

*14:日本女子大学創設者

*15:著書『青い目の人形と近代日本:渋沢栄一とL.ギューリックの夢の行方』(2010年、世織書房

*16:ガチで信用してる人もいたのだろうが

*17:当時の日本的には「満州事変は日本の謀略」は勿論「中国の嘘」です

*18:自分で戦争しかけといてよく言う

*19:満州事変のこと

*20:満州事変で日本が作った満州国の建国が国際連盟で否定され、日本が聯盟を脱退したこと。ただし聯盟の出した結論は満州国を否定したとは言え中国の言い分を全面肯定してるわけではなく日本にかなり甘いのだが

*21:満州事変のこと

*22:満州と蒙古(モンゴル)のこと