新刊紹介:「歴史評論」2022年9月号

 小生が何とか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集『再考・アメリカ合衆国の人種関係』
◆メキシコの人種関係と米国の人種関係(北條ゆかり*1
(内容紹介)
 まず先住民族が差別的扱いを受けているメキシコの人種関係について述べられている。
 また先住民族側の批判運動としてサパティスタの反乱 - Wikipediaが紹介されている。
 次にメキシコから米国への移民について述べられている。
 メキシコからの移民について「メキシコの失業率の高さ」や「メキシコ経済が移民からの仕送りを前提として成り立っていること」「米国経済がメキシコ移民を前提として成り立っていること」が原因とされる。
 しかしそれでもメキシコからの移民は米国において「メキシコで失業し続けるよりはマシ」というレベルの貧困にあえいでおり、決して経済的に恵まれてはいないことが指摘される。
 裏返せば「メキシコから米国への移民」を成立させている条件(メキシコの失業率の高さなど)が崩れれば、移民は「その待遇の酷さ」からいつ消滅してもおかしくないとされる。


◆ブラジルにおける「人種デモクラシー」のいま:黒人運動とアファーマティブアクションを中心に(鈴木茂*2
(内容紹介)
 ブラジルでの「黒人対象のアファーマティブアクション」について論じられていますが小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
 しかし他の論文が特集『再考・アメリカ合衆国の人種関係』という特集タイトル内に一応収まってる(簡単ではあれ米国について論じてるので)のに対し、「ブラジルの話」しかしない鈴木論文は明らかに特集タイトルから外れてるところが「何だかなあ」ですね。


◆タスキーギ校のアフロキューバ人(山本航平)
(内容紹介)
 ブッカー・T・ワシントン - Wikipediaが創設した「黒人のための職業訓練校(タスキーギ校)」に留学したアフロキューバ人(アフリカ系キューバ人)について取り上げている。
【1】どのような思惑でワシントンはアフロキューバ人を受け入れどのような教育を行ったのか、【2】アフロキューバ人はどのような思惑で留学したのか、【3】タスキーギ校を卒業したアフロキューバ人はキューバ社会にどのような影響を与えたのかなどが論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
 

◆ヨーロッパ移民から見た米国のレイシズム(山本明代*3
(内容紹介)
 黒人やアジア人、ヒスパニックへの差別に比べ、研究が日本ではあまり進んでいない*4「ヨーロッパ(特に東欧)からの移民への差別」が取り上げられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
【参考:米国のヨーロッパ移民差別】

「我々の文化に同化する覚悟を」 新移民への不満と警戒:朝日新聞デジタル2020.10.15
 米国は「移民国家」を自認しながら、移民が差別を受ける歴史も繰り返されてきた。19世紀後半から20世紀初頭にかけては、アイルランドや東欧・南欧からの移民が激しく差別された。
 しかし、今ではこうした「かつての移民」は、1世が必死に働き、その子孫が次第に同化して「立派な米国人になった」と理解されている。

「移民の国」アメリカとエリス島国定史跡50周年:研究:Chuo Online : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
 19世紀末から20世紀初頭はヨーロッパから合衆国への移民の最盛期であり、1890年から1899年には358万人、1900年から1909年までに757万人、1910年から1919年までに500万人を数えた。その多数はオーストリアハンガリー、ロシア、イタリアといった東欧や南欧からの出身であったが、反移民感情の高まりとともに、20世紀初頭には東欧や南欧からの移民を「新移民」、19世紀半ば以前のイギリスやドイツからの移民を「旧移民」と区別する言葉がつくられ、前者を標的とした様々な移民制限案が議論されるようになった。
 そして第一次世界大戦後、合衆国議会は建国以来はじめてヨーロッパからの移民の数を制限することを決定し、大戦前には年間100万人であった移民を約15万人へ削減するための法律を可決した。これはアメリカ史上の大転換点であった。

アイルランド系アメリカ人 - Wikipedia
 当初アイルランド人は歴史的経緯からアメリカ人の圧倒的多数を占めるプロテスタントではなく、カトリックであることから不当な差別を受け、アイルランド人の利用を公然と拒んだ店も存在した。初期のアイルランド移民の職業は警察官、消防士、軍人が多い。これは移民として比較的後発だったため、命がけの危険な仕事にしかありつけなかった歴史的事情も挙げられる。
【著名なアイルランド系米国人】
ジョン・F・ケネディ
 第35代アメリカ大統領(アメリカ初のカトリック大統領、アイルランド系大統領でもある)
ロナルド・レーガン
 第40代アメリカ大統領
ビル・クリントン
 第42代アメリカ大統領
ジョー・バイデン
 第46代アメリカ大統領

イタリア系アメリカ人 - Wikipedia
 他の白人(特にドイツ系・イギリス系・フランス系など初期の移民者)に比べ仕事・収入が限られていたことなどもあり、当初、イタリア系の居住地は大抵は貧民窟と化していた。こうした点からイタリア系アメリカ人たちは「貧しく無学な移民集団」「マフィアの集団」という固定観念で見られるようになった。
 1891年3月14日にはイタリア系アメリカ人がニューオーリンズの警察署長であるデヴィッド・ヘネシー殺害に関与したマフィアという嫌疑をかけられ、11人がリンチを受けて殺害された(いわゆる「1891年3月14日のリンチ事件」)。
 1941年の真珠湾攻撃を契機にアメリカも参戦した第二次世界大戦では、イタリアとアメリカが敵同士となったが、イタリア系の多くはイタリアと同じ枢軸国となった日本にルーツを持つ日系アメリカ人の強制収容のような悲劇には見舞われなかった。しかし、危険分子と見なされた3200人のイタリア系が逮捕され、そのうち320人は強制収容されるという事件が起こった。また、それ以外にも市民権を取得していないイタリア移民は“敵性外国人”と見られ、様々な規制が加えられた(2000年に、上院から第二次世界大戦中の敵性外国人指定に関するイタリア系アメリカ人社会への謝罪と補償の決定がなされている)。一方で少なくないイタリア系は日系人がそうしたように、合衆国への忠誠を選び、前線で従軍した。イタリア系の軍人からは13名の名誉勲章受勲者が記録されており、太平洋戦争で3000名の日本軍を一個分隊で足止めしたジョン・バジロン*5海兵軍曹が特に有名である。これらの行動は戦後にイタリア系への偏見を拭うのに大きく貢献したとされる。

 そういえば、サッコ・ヴァンゼッティ事件(米国の有名な死刑冤罪事件、1971年に『死刑台のメロディ』として映画化)のサッコとバンゼッティもイタリア系でしたね(彼らの場合アナキストという経歴も差別理由ではありますが)。


◆明治大正期対米移民の人種関係観(廣部泉*6
(内容紹介)
 明治大正期の日本からの米国移民は「アジアで、唯一、富国強兵、近代化を果たした日本は中国など他のアジア人とは違う」という論理で「米国のアジア人差別」から抜け出そうとしていた。しかし、そうした主張は米国側の受け入れる物ではなく、結局、日系移民は「アジア移民のワンオブゼム」という差別的扱いしかされなかった。


◆コリア系の沈黙に見る米国の人種民族関係(李里花*7
(内容紹介)
 戦前米国での朝鮮・韓国移民について「日系米国移民」との「微妙な関係(勿論、朝鮮植民地支配の問題があるからですが)」を中心に論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。


◆歴史の眼・リレー連載:21世紀の災害と歴史資料・文化遺産⑪「宮崎歴史資料ネットワークの資料保全運動」(籾木郁郎)
(内容紹介)
 宮崎歴史資料ネットワークの資料保全運動について論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。


◆科学運動通信『倒壊の危機にある襟江亭の歴史的意義と保存への展望』(飯沼賢司*8
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。『倒壊の危機』とは何かと言えば、よくあるパターンですが「予算がない」として町が保存に積極的でないようです。

大分合同新聞「襟江亭」全国的にも希少な建築遺構 日出町教委が調査報告書刊行2022.4.22
 日出町(ひじまち)教委は、旧日出藩(ひじはん)の藩主らが参勤交代の際に待機所として使った御茶屋「襟江亭(きんこうてい)」(大神(おおが))の歴史的価値を裏付ける調査を終え、結果をまとめた報告書を刊行した。複数の専門家が調べた結果、江戸時代前期に建てられたものに間違いなく、その機能や歴史的背景から全国的にも希少な価値を持つ建築遺構であると結論付けた。
 熊本藩、森藩など他藩の大名や、幕府要人の応接にも使われ、迎賓館としての機能もあった。
 老朽化が激しく、20年ほど前から空き家となっている。所有者が取り壊しを検討したが、研究家らの要望もあって見合わせた経緯がある。修繕には多額の費用がかかる見通しで、町教委は文化財としての価値を検証するため、2017年から調査を進めていた。
◆県地方史研究会と県建築士会、保存と修復を申し入れ
 郷土史家や学者らでつくる県地方史研究会と県建築士会が18日、県教委に襟江亭(きんこうてい)の保存と修復を求める申し入れをした。
 研究会の飯沼賢司委員長(別府大特任教授)と、建築士会の浅野健治別府支部長が県庁を訪れ、「類例のない貴重な建築物。保存のため、官民を挙げた取り組みが急がれる」と訴えた。

襟江亭 | 日本一の「おんせん県」大分県の観光情報公式サイト
 風待ちや潮待ちのための御茶屋は全国各地にあったが、現存するのはここだけといわれています。
※建物内に入るには事前の申込みが必要になります。
お問合せ先
日出町観光協会
TEL:0977-72-4255

【参考:日出町】

日出町 - Wikipedia
【産業】
 日出城そばの別府湾沿岸で捕獲されるマコガレイは、城下かれいと呼ばれ、全国的に有名である。「大分むぎ焼酎二階堂」「吉四六(きっちょむ)」で知られる二階堂酒造の本社がある。
【名所・旧跡・観光スポット】
ハーモニーランド
 サンリオの屋外型テーマパーク。東京都多摩市にある屋内型テーマパーク「サンリオピューロランド」の姉妹施設
◆大神基地(おおがきち)
 太平洋戦争末期に大分県速見郡大神村(現在の日出町東部)に存在した人間魚雷・回天の訓練基地
◆早水台遺跡(そうずだいいせき)
 大分県速見郡日出町川崎にある旧石器時代から縄文時代早期にかけての遺跡
◆的山荘
 実業家・成清博愛(なりきよ・ひろえ)が建てた別邸。
 1991年(平成3年)に「的山荘(附日本庭園)」として日出町の有形文化財に、2014年(平成26年)には建造物5棟および土地が「旧成清家日出別邸」として国の重要文化財に指定され、2015年(平成27年)には庭園が「旧成清博愛別邸庭園(的山荘庭園)」として国の登録記念物に登録されている。
 1964年(昭和39年)に、博愛の孫の成清信輔がこの別邸を料亭として開業。城下かれいの名店として全国に知られた。しかし、老朽化等によって個人での維持管理が困難となったことから、2010年(平成22年)3月に日出町が施設を購入。成清家による料亭としての営業は2011年(平成23年)3月に終了し、同年5月11日に日出町の指定管理施設として日本料理専門店に改装してオープンした。
◆魚見桜
 大分県速見郡日出町豊岡にあるヤマザクラの一本桜。日出町の天然記念物に指定されており、おおいた遺産にも選定されている。


◆書評『国際連盟と日本外交』(樋口真魚*9、2021年、東京大学出版会)(評者:帯谷俊輔*10
(内容紹介)
 1933年の国際連盟脱退後、日本は一路「英米との対立を強め1941年の太平洋戦争開戦に至った」と思われがちだが話はそれほど単純ではなく日本外務省においては

佐藤尚武 - Wikipedia
 1882~1971年。
 1937年(昭和12年)、林*11内閣で外務大臣に就任。佐藤は入閣の条件として、平和協調外交、平等の立場を前提とした話し合いによる中国との紛争解決、対ソ平和の維持、対英米関係の改善の4つを林首相らに提示し、これを確認した上で就任を受諾した。
 だが、就任直後の帝国議会で、持論の中国との話し合いを説いた内容が、軍部や右翼から「軟弱外交」と非難を浴びた。そうした状況でも関東軍が推し進めた華北分離工作に反対し、中国との対立を避けるためにその具体策として日華貿易協会会長・児玉謙次*12を団長とする経済使節団を中国に派遣した。使節団の一行は、3月12日に神戸港を出帆して中国に渡り、蔣介石と会見し、中国政府要人及び経済人と26日まで幾度か会合し、協議した。しかし林内閣の総辞職とともに佐藤は外相を退任。その直後に盧溝橋事件が起きた(NHK取材班『太平洋戦争・日本の敗因6:外交なき戦争の週末』(1995年、角川文庫)参照)

という「佐藤尚*13のいわゆる佐藤外交」など、「連盟脱退後も対英米協調外交、対国際連盟協調外交の継続を目指す動きがあった(勿論1941年の太平洋戦争開戦で完全に挫折しますが)」という指摘がされ「どのような経緯で対英米協調外交路線、対国際連盟協調外交が挫折したか」論じているとのこと
 なお、一方で「予想の範囲内」ですが、岡田内閣外相時代の広田三原則(中国に満州国の承認を求めた)、近衛内閣外相時代の第一次近衛声明「蒋介石を相手にせず」で、戦後、戦犯として死刑となった広田弘毅*14は「対英米協調路線に否定的な人間」として評価されてるようです。
 連盟を脱退したのに、「対連盟協調外交」とは変な話ですが「ウクライナ侵攻」という国際法違反行為をやりながら国際連合安保理常任理事国であるロシアや、NPTを脱退し、核開発を理由に国連の安保理制裁を受けながら、国連加盟国である北朝鮮を想定すればわかりやすいのかもしれない。
 つまり「脱退したから無視します」で済まない「国際社会での政治的存在感」を国際連盟が持っていたと言うことでしょう。
 いずれにせよ「佐藤外交」のような「英米協調、日中戦争早期終戦」の動きを結果として全否定したことで「1941年の太平洋戦争開戦」になったのであり、日本は「1931年の満州事変」から「一枚岩」で一路、中国や英米との戦争に突き進んだわけではありません。「戦争回避」は困難であったとしても十分可能だった。


◆書評『満洲国軍朝鮮人の植民地解放前後史:日本植民地下の軍事経験と韓国軍への連続性』(飯倉江里衣*15、2021年、有志舎)(評者:笠原十九司*16
(内容紹介)
 評者が「朝鮮史家ではない」笠原氏でいいのだろうかという疑問を感じますがそれはさておき。

満洲国軍朝鮮人の植民地解放前後史 / 飯倉 江里衣【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア
【内容紹介】
 日本がつくった満洲国軍に入り、日本の侵略戦争、植民地支配に積極的に協力したのは朴正煕・韓国大統領だけではない。朝鮮戦争の「英雄」と讃えられ、度々論争の的となってきた白善燁*17、朴正煕軍事独裁政権下で国務総理まで務めた丁一権*18、そして本書が注目する金白一*19。彼らはいずれも植民地解放=日本敗戦後には韓国軍で将校となり、(ボーガス注:済州島4・3事件、麗水・順天事件(いずれも1948年)、保導連盟事件(1950年)、居昌事件(1951年)など)民間人を弾圧する側にまわった。本書は、満洲国軍での朝鮮人の軍事経験が韓国軍にどのように引き継がれたのかを問い、韓国における「親日派」問題とは何なのか、その歴史の深刻さを浮き彫りにする。

ということから著者の問題意識は分かるかと思います。
 なお、「満州国軍」でググったら他にも

◆及川琢英『帝国日本の大陸政策と満洲国軍』(2019年、吉川弘文館

がヒットしました。「満州国研究」において、従来手薄な分野であった「満州国軍研究」が近年ようやく進展しだしたと言うことのようです。
 ちなみに後で紹介しますが「満洲国軍出身」朴正熙とは「満州国つながり(岸は元・満州国総務庁次長)」「統一教会つながり(反共の思惑から岸や朴が文鮮明を支援。岸と統一教会の関係は安倍晋太郎を経て、孫の晋三に引き継がれた)」があったのが岸信介です。
 今回安倍暗殺で「岸と朴と統一教会」のつながりが浮上したわけです。

【参考:韓国での白善燁評価】

“抗日武装軍”を討伐したその手で大韓民国の要職を接収 : 文化 : hankyoreh japan2014.3.10
 日帝朝鮮半島強制併合100年であり、朝鮮戦争勃発60年になる2010年頃、「大韓民国軍現代化と建軍の父」である“戦争英雄”白善燁(ペク・ソンヨプ)氏を元帥に推戴しようとする動きが一部でかまびすしかった。まだその気勢が完全に折れたとは見えないが、白善燁元帥推戴の動きの足を引っ張った決定的な要因の一つは、彼が間島特設隊将校出身であるという点だった。 間島特設隊とはいったい何なのだ? そのようにして、おそらく大韓民国建国以来初めて間島特設隊が大衆的な関心事として浮上した。ところでその結果、私たちは間島特設隊についてよく分かったのだろうか?
 結局、間島特設隊が討伐した対象は抗日抵抗勢力だったのであり、その多くは朝鮮独立運動家だったのである。
 『間島特設隊』は、満州傀儡国の奉天軍官学校9期生で間島特設隊将校であり満州軍延吉憲兵分団中尉でもあった白善燁氏の創氏名が白川義則であったことも、当時の延吉憲兵分団長・曽根原みのるの回顧録を引用して明らかにしている。 白川義則という日本名の通常の読み方は「しらかわよしのり」だ。「しらかわよしのり」といえば、1932年4月上海の虹口公園(現・魯迅公園)で尹奉吉(ユン・ボンギル)義士の投げた爆弾に当たって死んだ、関東軍司令官と陸軍大臣を歴任して当時上海派遣軍司令官だった、まさにその日本陸軍大将の名前ではないか。漢字も全く同じだ。偶然の一致かもしれないが、1920年生まれで平壌師範学校を出た“明敏な”日本軍(満州軍)将校だった白氏が、よりによって1931年の満州侵略の余勢を駆って“上海事変”まで起こして影響力を拡大しようとしていた有名な日本軍司令官の名前を自分の創氏名とした理由が知りたい。

 ということで左派のハンギョレは白に批判的です。間島といえば槇村浩の『間島パルチザンの歌』というのがありますね。槇村については以下を紹介しておきます。

槇村浩 - Wikipedia
 1912~1938年。本名:吉田 豊道(よしだ・ほうどう)
【没後】
 2004年8月15日、韓国京仁放送が制作した槇村浩と『間島パルチザンの歌』を紹介するドキュメント「平和主義者の肖像」が放映されるなど、槇村は韓国で戦時中に植民地解放を訴えた日本人として評価されている。

【コラム】大韓民国は戦争英雄をどう送るのか(2) | Joongang Ilbo | 中央日報2020.6.19
 白善ヨプ氏の日帝への協力は認められるが、乙巳五賊*20売国行為と共に扱われることはできない。白善ヨプ氏に過ちがあったからといって韓国戦争で大韓民国が迎えた危機状況で発揮された白善ヨプ氏の大きな貢献を伏せることはできない。

 ということで右派の中央日報は白に好意的です。

「朝鮮戦争の英雄」まで“墓暴き”? 韓国で止まらぬ親日狩り|FNNプライムオンライン2020.7.15
 1950年に勃発した朝鮮戦争では若くして激戦地の戦闘を指揮。北朝鮮軍の南侵を防ぎ、アメリカを中心とする連合軍とともに北朝鮮軍を北側に押し戻した。ここで負けたら「米韓連合軍は総崩れ」という場面で、師団長として自ら突撃したという逸話も残るほどだ。
 数々の功績を残した白氏が「冷遇されている」とはどういうことか。それは彼の経歴に起因する。白氏は朝鮮戦争前の日本統治時代、満州国の間島特設隊に服務したことがある。間島特設隊は日本からの独立を目指す朝鮮の武装勢力を弾圧する任務があったとされ与党など左派勢力は、この経歴を理由に白氏に「親日派」の烙印を押しているのだ。
 白氏の埋葬地を巡っても論争が過熱している。ソウルには顕忠院という国立墓地があり、国家の功労者や朝鮮戦争の戦死者など17万人が眠っている。野党などを中心に白氏をソウル顕忠院に埋葬するよう求める声もあったが、韓国政府は「場所がない」という理由でこれを拒否し、別の国立墓地に埋葬されることが決まった。左派系の市民団体からは「白氏は靖国神社に埋葬すべきだ」という声まで出ていた。

救国の英雄・白善燁氏さえ「親日派」として死後に冷遇する文在寅政権の異常な歴史観 反対派にレッテルを貼るために、文政権は歴史を歪曲・捏造しようとしているのか|FNNプライムオンライン2020.7.24
◆洪熒(ホン・ヒョン) 統一日報論説主幹:
 師団長として先頭に立ち、釜山という戦略要衝を守った。もし師団長の突撃がなければ、済州島などがかろうじて残ったかどうか。奮戦し、残りの兵力を集め仁川の上陸成功に成功した。これはアメリカの士官学校の教科書にも載っているほど。
◆李泳采(イ・ヨンチェ) 恵泉女学園大学大学院 教授:
 白氏自身が朴正煕大統領時代以降に戦争史をつくる責任者となっており、英雄化されすぎているという指摘がある。韓国の憲法は、北朝鮮に対し反共産主義国家として立てられたが、同時に1919年の朝鮮独立運動の精神も含んでいる。そして、当時白氏は「間島特設隊」にいた。
◆反町理キャスター:
 日本からの独立を目指す朝鮮人武装勢力を弾圧する朝鮮人部隊だったとされている。
◆李泳采(イ・ヨンチェ) 恵泉女学園大学大学院 教授:
 独立を目指す朝鮮人指導者の首を切ったり、弾圧する部隊。(ボーガス注:「間島特設隊」時代の)白将軍によって殺された人の遺族にとっては英雄として持ち上げるべきなのか、という議論がある。
武藤正敏 元駐韓大使:
 韓国にいた他の立派な将軍も(ボーガス注:朝鮮戦争で)連戦連敗の中、白将軍ひとりで勝ち続けた。そのように国を救った人をソウル(ボーガス注:の国立墓地)に埋葬しないなんて、どういう感覚なのか。
竹内友佳キャスター:
 韓国は、文在寅大統領名義の弔花のほかにキムユグン国家安保室第一次長のみが告別式に参列、政府の追悼メッセージなし、といった冷遇ぶりだった。 

 ということで、韓国において左派と右派では評価はかなり異なるわけです。そして救国の英雄・白善燁氏さえ「親日派」として死後に冷遇する文在寅政権の異常な歴史観 反対派にレッテルを貼るために、文政権は歴史を歪曲・捏造しようとしているのか|FNNプライムオンラインは「戦前日本万歳&反共、反北朝鮮&アンチ文在寅政権」フジテレビなので露骨に白万歳です。
 白に批判的な人間が◆李泳采(イ・ヨンチェ) 恵泉女学園大学大学院 教授:しかいないのは明らかに異常な人選でしょう。

韓国戦争の英雄、故白善燁将軍の2周忌に尹大統領が献花贈る : 東亜日報2022.6.27
 韓国戦争の英雄、故白善燁(ペク・ソンヨプ)将軍(1920~2020)を称える追悼式が、25日、慶尚北道漆谷郡多富洞(キョンサンブクド・チルゴクグン・タブドン)の戦跡記念館で行われた。漆谷多富洞は、1950年8月、白将軍が戦闘で勝利し、洛東江(ナクドンガン)防御戦線を守った主要激戦地の一つだ。
 陸軍は、行事に軍楽隊と儀仗隊の将兵を支援し、陸軍参謀総長名義のお花を贈った。記念事業会側は、「300席の座席を用意したが、昨年の行事より参加者が大きく増えた」とし、「大統領室からも尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領が弔花を送るなど、格別な関心を示した」と話した。
 行事には、李喆雨(イ・チョルウ)慶尚北道知事はじめ、与党「国民の力」の李俊錫(イ・ジュンソク)代表と安哲秀(アン・チョルス)議員などが出席した。国家元老会常任議長である李相薰(イ・サンフン)元国防部長官は追悼の辞で、「多富洞の戦いは、仁川(インチョン)上陸作戦を成功させ、国を立て直す反撃の始発点になった」とし、「過去の政府は、このようなアイデンティティを冷遇したが、今後、白将軍の業績を通じてより良い大韓民国を作る足場にならなければならない」と述べた。李知事も、「民間社会団体と協議し、来年は多富洞戦跡記念館に白将軍など戦争英雄の銅像を建て、多富洞戦跡地を聖域化する」と述べた。

 ということで「是非はともかく」文在寅政権に比べ白顕彰の方向に傾いている尹錫悦です。
【参考:岸信介朴正熙のつながり】

岸信介 - Wikipedia
統一教会との関係】
 1974年(昭和49年)5月7日、東京の帝国ホテルで開催された文鮮明の講演会「希望の日晩餐会」では、岸が名誉実行委員長となっている。1984年(昭和59年)には、米国で脱税被疑により投獄されていた教祖文鮮明の釈放を求める意見書をレーガン大統領(当時)に送った。
朴正熙との関係】
 岸*21は首相退陣後も「実弟佐藤栄作*22」「子分・福田赳夫*23」「女婿・安倍晋太郎*24」らを通じ政界に強い影響力を保持し、1965年の日韓国交回復にも強く関与した。当時の韓国大統領朴正煕は満州国軍将校として満州国と関わりを持ったことがあり、岸(元・満州国総務庁次長)は椎名悦三郎*25(元・満洲国産業部鉱工司長)、瀬島龍三(元・第5軍参謀、戦後、伊藤忠商事社長)、児玉誉士夫(海軍の支援で満州で特務機関・児玉機関を組織)ら満州人脈を形成し、日韓国交回復後には日韓協力委員会を組織した。

世界平和統一家庭連合 - Wikipedia
◆1978年のアメリカ下院のフレイザー委員会報告書では、統一教会は1961年に韓国中央情報部(KCIA)部長の金鍾泌(後に首相)が政治的意図をもって支援し、アメリカや日本で政治工作を行っていたとされる。
◆教祖・文鮮明岸信介元首相と盟友であり、岸の自宅付近には統一教会の施設が存在し、そこで岸は交流会や講演会などを行っていた。

フレイザー委員会 - Wikipedia
 1976年から1977年に開かれたアメリカ下院の委員会であり、いわゆる「コリアゲート」疑惑の調査を行った。
 公聴会の中で、KCIA元部長である金炯旭は、公聴会の1ヶ月前に、韓国の朴正煕大統領が彼の証言の阻止を目論み、証言を続ければ誘拐・暗殺するように命じたと証言している。金炯旭は1979年10月に失踪。当時のKCIA長官・金載圭(1979年に朴正熙を暗殺、翌1980年に絞首刑)の命令で暗殺されたとみられる。

*1:摂南大学教授

*2:東京外国語大学名誉教授。名古屋外国語大学教授。

*3:名古屋市立大学教授。著書『大西洋を越えるハンガリー王国の移民:アメリカにおけるネットワークと共同体の形成』(2013年、彩流社

*4:もちろんそれについては【1】当初から黒人などに比べれば差別は相対的に「まだマシだった」【2】その後「黒人などに比べれば大幅に事態が改善された」という面がありますが。

*5:1916~1945年。ガダルカナル島の戦い硫黄島の戦いに従軍し、硫黄島で戦死

*6:明治大学教授。著書『グルー』(2011年、ミネルヴァ書房・日本評伝選)、『人種戦争という寓話:黄禍論とアジア主義』(2017年、名古屋大学出版会)、『黄禍論』(2020年、講談社選書メチエ

*7:中央大学教授。著書『「国がない」ディアスポラの歴史:戦前のハワイにおけるコリア系移民のナショナリズムアイデンティティ』(2015年、かんよう出版)、『朝鮮籍とは何か』(編著、2021年、明石書店

*8:別府大学長。著書『環境歴史学とはなにか』(2004年、山川出版社日本史リブレット)、『八幡神とはなにか』(2014年、角川ソフィア文庫

*9:成城大学専任講師

*10:成蹊大学准教授。著書『国際連盟』(2019年、東京大学出版会

*11:1876~1943年。朝鮮軍司令官、斎藤、岡田内閣陸軍大臣、首相など歴任

*12:1871~1954年。横浜正金銀行(のちの東京銀行)頭取、中支那振興株式会社総裁(以上、戦前)、終戦連絡事務局総裁など歴任

*13:ベルギー大使、フランス大使、林内閣外相、イタリア大使、ソ連大使など歴任

*14:斎藤、岡田、第一次近衛内閣外相、首相を歴任

*15:神戸女子大学助教

*16:都留文科大学名誉教授。著書『アジアの中の日本軍』(1994年、大月書店)、『日中全面戦争と海軍:パナイ号事件の真相』(1997年、青木書店)、『南京事件』(1997年、岩波新書)、『南京事件三光作戦』(1999年、大月書店)、『南京事件と日本人』(2002年、柏書房)、『南京難民区の百日:虐殺を見た外国人』(2005年、岩波現代文庫)、『南京事件論争史』(2007年、平凡社新書→増補版、2018年、平凡社ライブラリー)、『「百人斬り競争」と南京事件』(2008年、大月書店)、『日本軍の治安戦』(2010年、岩波書店)、『第一次世界大戦期の中国民族運動』(2014年、汲古書院)、『海軍の日中戦争』(2015年、平凡社)、『日中戦争全史(上)(下)』(2017年、高文研)、『憲法九条と幣原喜重郎日本国憲法の原点の解明』(2020年、大月書店)など

*17:1920~2020年。第5師団長、第1師団長、第1軍団長、第2軍団長、参謀総長、合同参謀会議議長、駐台湾大使、駐フランス大使、駐カナダ大使、交通相など歴任(白善燁 - Wikipedia参照)

*18:1917~1994年。戦後、陸軍参謀総長、合同参謀会議議長、駐トルコ大使、駐フランス大使、駐米大使、外相、首相、国会議長など歴任(丁一権 - Wikipedia参照)

*19:1917~1951年。第6旅団長、第3師団長、陸軍本部行政参謀副長、第一軍団長など歴任。朝鮮戦争時に飛行機の墜落事故で死去(金白一 - Wikipedia参照)

*20:日本による韓国保護国化を定めた第二次日韓協約(1905年、干支で乙巳)に賛同した韓国(大韓帝国)の五名の閣僚(李完用(学部大臣:文相)、李根沢(軍部大臣)、権重顕(農商工部大臣)、李址鎔 (内部大臣:内務相)、李夏栄(法部大臣)または朴斉純(外部大臣))を、批判して言った言葉

*21:戦後、自民党幹事長(鳩山総裁時代)、石橋内閣外相などを経て首相

*22:吉田内閣郵政相、建設相、岸内閣蔵相、自民党総務会長(岸総裁時代)、池田内閣通産相などを経て首相

*23:岸内閣農林相、自民党政調会長(池田総裁時代)、幹事長(佐藤総裁時代)、佐藤内閣蔵相、外相、田中内閣行政管理庁長官、蔵相、三木内閣副総理・経済企画庁長官などを経て首相

*24:三木内閣農林相、福田内閣官房長官自民党政調会長(大平総裁時代)、鈴木内閣通産相、中曽根内閣外相、自民党幹事長(竹下総裁時代)など歴任

*25:戦前、岸商工相の下で商工次官。戦後、岸の誘いで政界入り(岸派→福田派所属)。岸内閣官房長官、池田内閣通産相、外相、佐藤内閣外相、通産相自民党総務会長(佐藤総裁時代)、副総裁(田中、三木総裁時代)など歴任(池田、佐藤内閣外相として1965年の日韓国交樹立を実現)。椎名は岸の側近だったため、椎名裁定の本当の仕掛け人は岸で「目的」は三木をワンポイントリリーフにすることでの「大平総裁の実現阻止、福田総裁の実現」だったと言われる。