新刊紹介:「歴史評論」2022年4月号(追記あり)

 小生が何とか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集『近代社会の形成と旧領主』
◆旧藩主家と旧藩社会(内山一幸*1
(内容紹介)
 宮間論文、寺尾論文が「旧藩社会研究」の各論とすれば、総論に当たる内容。
 1)廃藩置県により旧藩士の「旧藩への帰属意識」や「旧藩主への忠誠心」は薄れたという見方が長く強かったこと
 2)

【薩摩:あいうえお順】
大久保利通
 大蔵卿、内務卿、参議など歴任。紀尾井坂の変で暗殺。
大山巌
 参議、第一次伊藤、黒田、第一次山県、第二次伊藤、第二次松方内閣陸軍大臣内大臣など歴任。元老の一人。
黒田清隆
 参議、北海道開拓長官、第一次伊藤内閣農商務相、第二次伊藤内閣逓信相、首相、枢密院議長など歴任。元老の一人。
西郷隆盛
 陸軍大将、近衛都督、参議を歴任。西南戦争で自決。 
西郷従道
 西郷隆盛の弟。参議、第一次伊藤、黒田、第一次山県、第二次伊藤、第二次松方、第三次伊藤、第一次大隈内閣海軍大臣など歴任。元老の一人。
松方正義
 参議、大蔵卿、第一次伊藤、黒田、第一次山県、第二次伊藤、第二次山県内閣蔵相、首相、内大臣など歴任。元老の一人。
【長州:あいうえお順】
伊藤博文
 参議、工部卿宮内卿、首相、枢密院議長、貴族院議長、韓国統監など歴任。元老の一人。安重根によって暗殺
井上馨
 参議、第一次伊藤内閣外相、黒田内閣農商務相、第二次伊藤内閣内務相、第三次伊藤内閣蔵相など歴任。元老の一人。
桂太郎
 台湾総督、第三次伊藤内閣、第一次大隈内閣、第二次山県内閣、第四次伊藤内閣陸軍大臣、首相、内大臣など歴任。元老の一人。
木戸孝允
 文部卿、内務卿、参議を歴任
山県有朋
 参議、陸軍卿、第一次伊藤、黒田内閣内務相、第二次伊藤内閣司法相、首相、枢密院議長など歴任。元老の一人。
山田顕義
 参議、工部卿、内務卿、第一次伊藤、黒田、第一次山県、第一次松方内閣司法相など歴任
【土佐:あいうえお順】
板垣退助
 参議、第二次伊藤、第二次松方、第一次大隈内閣内務相など歴任
後藤象二郎
 参議、黒田、第一次山県、第一次松方内閣逓信相、第二次伊藤内閣農商務相など歴任
◆福岡孝弟
 司法大輔、文部卿、参議、枢密顧問官、宮中顧問官など歴任
肥前:あいうえお順】
江藤新平
 参議、司法卿を歴任。佐賀の乱によって死刑
大木喬任
 司法卿、文部卿、第一次松方内閣文相、枢密院議長など歴任
大隈重信
 参議、大蔵卿、第一次伊藤、黒田、第二次松方内閣外相、首相など歴任
佐野常民
 大蔵卿、第一次松方内閣農商務相など歴任
副島種臣
 参議、外務卿、枢密院副議長、第一次松方内閣内務相など歴任

という「薩長土肥」の研究が「薩長土肥以外の藩では旧藩社会のつながりは弱い」というイメージを形成してしまったことなどから、

徳川家達
 徳川宗家当主。貴族院議長、ワシントン会議全権代表など歴任。
細川護貞
 元熊本藩主・細川家当主。第2次近衛内閣で首相秘書官
松平慶民
 福井松平家分家当主。宮内大臣

など政治的に活躍した個々の「旧藩主の華族」についての研究はされても「旧藩主と旧藩士の関係性」についての研究は手薄だった。
 しかし、実際には「華族となった旧藩主」と「旧藩士」の関係(筆者の言葉では旧藩社会)は廃藩置県後も継続したことや「薩長土肥以外の旧藩人脈のつながりも決して弱くないこと」を指摘。1980年代以降にそうした「旧藩社会」研究が本格的にされるようになったと主張している。
 まあ、そうしたわかりやすい「旧藩社会」の一例が「熊本藩主・細川氏の末裔である細川護熙氏(熊本県知事、首相を歴任)」でしょう。勿論、民主主義の観点から見ていいことだとは思いませんが。


◆旧藩社会と旧藩意識(宮間純一*2
(内容紹介)
 指摘が多岐にわたっていてまとめにくいのですがいくつかメモしておきます。
 「旧藩意識」研究については以下の課題が挙げられる。
・「旧藩意識」といった場合「旧藩主」と「旧藩士、領民との関係」にスポットが当たるのは当然だが、それだけでは「堀田正恒(千葉佐倉藩・堀田家の当主)」と「正恒が経営した佐倉農場(北海道士幌町)の小作人」のような関係が抜け落ちてしまう(士幌町佐倉藩の領地ではないため)。「旧藩意識」と呼ぶかどうかはともかく「堀田正恒と佐倉農場の小作人」のような関係についても研究を進める必要がある。
・研究の対象時期が主として明治時代が多い。大正、昭和を取り上げた研究を進める必要がある。
・旧藩意識は「廃藩置県後も継続したこと」に注目するあまり「旧藩意識の衰退や消滅」についての研究が乏しい。「熊本藩主・細川氏の末裔で、熊本県知事も務めた細川護熙氏」などを除けばもはや「旧藩意識」はそれほど強くないのではないか。いつ頃、どのように旧藩意識が衰退していったのか研究する必要がある。勿論「旧藩意識の衰退」においては「華族制度の廃止」の影響が大きいと思われる。
・旧藩意識についてはどうしても「大藩」に研究が集中し中小藩が手薄である。
・研究対象としては「旧藩士」、特に「上層の藩士」と旧藩主の関係を取り上げたものが多いが、「旧領民」と旧藩主の関係についての研究を進める必要がある。


◆大名華族資本の形成と家政(寺尾美保*3
(内容紹介)
 寺尾「大名華族資本の誕生:明治前・中期の島津家の株式投資を通じて」(史学雑誌124号(2015年)収録)、「大名華族としての島津家の誕生:明治前中期における華族の生成と展開」(2019年博士論文)の論文がある筆者が、過去の論文を発展させる形で議論を展開していますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。


◆近世城郭の保存と華族宮内省研究(篠崎佑太*4
(内容紹介)
 廃城令による破却を免れて保存された「近世城郭」と「華族彦根城主・井伊氏など城郭の元の持ち主)や宮内省」の関係(華族宮内省が城郭保存においてどう動いたのか)などが論じられていますが小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
 後で紹介する記事

城の終焉「廃城令」と名城のその後 「青天を衝け」の城 (11) | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]
(ボーガス注:彦根城は御料所(皇室財産)とされたものが)最後の彦根藩主・井伊直憲に下賜されて保存がかなった。

近代 | 名古屋城の歴史 | 知る | 名古屋城公式ウェブサイト
名古屋城陸軍省から宮内省への移管が1891年(明治24)に決まりました。

ということでこれが「近世城郭の保存」と「華族宮内省」の関係の一例ですね。
【参考:廃城令】

全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方 - Wikipedia
 いわゆる「廃城令」の正式名称。
 それまで全国の城郭の土地建物については、陸軍省所管財産であったが、今後陸軍が軍用財産として残す部分については存城処分、すなわち引き続き陸軍省所管の行政財産とするも、それ以外については廃城処分、すなわち大蔵省所管の普通財産に所管換えし、大蔵省において処分すべきものとした。
 この場合の「存城処分」とは旧城郭を「文化財」として保存しようとするものではない。その後、陸軍の兵営地とする目的で城郭建造物がすべて取り壊された若松城の例がある一方、一部の建造物が取り壊され、陸軍施設が設置されたが、天守等の主要な建造物やほとんどの遺構が現存し、国宝、特別史跡になっている姫路城の例がある。例外的に、存城処分として陸軍用地となった城郭であっても、彦根城のように、明治政府の特例政策として城郭の土地と建造物が保存され、国宝、特別史跡となっているものもある。
 また、廃城処分とは大蔵省の普通財産に所管換えし、学校敷地等として売却するための用地となったものである。全国のほとんどの城郭陣屋の建造物が取り壊され、土地は払下げられた。ただし、犬山城松本城のように、建造物が売却、取壊しの対象になったが、結果的に現存し、国宝、史跡になっているものもある。
 後に、1890年(明治23年)になって、陸軍省用地としたものの不用になった城郭が、元藩主や地方団体に限り、公売によらず相当対価をもって払い下げられることもあった。「旧城主は祖先以来数百年間伝来の縁故により、これを払い渡し旧形を保存し、後世に伝えるなら歴史上の沿革を示す一端となり好都合である」ことを理由とした。「史跡としての文化財保護」のさきがけといえるが、史跡の法的な保護制度は、1919年(大正8年)制定の史蹟名勝天然紀念物保存法を待たなければならない。

【超入門!お城セミナー】現存天守はなぜ12城しか残っていないの?
 明治時代まで残った城たちにとって運命の分かれ道となったのが、明治6年(1873)の「廃城令」です。廃藩置県を機に、一旦城はすべて陸軍省の財産となりましたが、すべてが軍用地として必要なわけでもなく、管理も大変で手に余ります。そこで、要塞として必要な城は「存城」、不要な城は「廃城」が通達され、廃城となった城は大蔵省の普通財産になりました。
 この時40城余りが存城となったとはいえ、文化財として保存されるわけではありません。軍用地確保のために建物を壊したり、逆に主要な建物は残して石垣や堀を壊したりといった扱いでした。一方、廃城処分となった約150城の中には、学校用地となったものも多かったようです。確かに、城跡に建っている学校をよく見かけますよね。また建造物のうち、小ぶりな門や櫓・玄関や式台などは、近くの寺や神社に移築・再利用された例もたくさんあります。
 では、天守はどうでしょう? 天守は、巨大なため取り壊し・移築・再利用のどの道を選んでも莫大な費用がかかります。そのため無用の長物と判断され、超低価格で払い下げられてしまいます。存城処置となっても、その後結局払い下げられた天守も多く、現在国宝の松江城島根県天守は180円、世界遺産でもある姫路城(兵庫県天守はなんと、23円50銭の値しかつかなかったといいます。当時は米1俵が3円弱。姫路城天守はたった米10俵の価値だったということになります。
 (ボーガス注:取り壊された城郭の材木によって)薪の値段が暴落するほど全国の城が一斉に取り壊される中、城を守ろう!と動いた人たちもいました。陸軍大佐の中村重遠は、日本の城が建築的・美術的に価値あるものだと考えた一人。陸軍トップの山県有朋に建白書を提出し、これが認められて永久保存決定・修理されたのが、姫路城と名古屋城(愛知県)です。彦根城滋賀県)も、立ち寄った明治天皇大隈重信が保存を奏上したことにより、勅命で保存が決定しました。また、松本城(長野県)は、『信飛新聞』発刊者の民権運動家・市川量造が、有志から資金を集めて落札主から天守を借り受け、さらに県の協力も取り付けて天守で博覧会を開催。その収益で天守を買い戻し、取り壊しを回避したのです。

超入門!お城セミナー 第114回【歴史】明治時代にお城がたくさん破壊されてしまったって本当?
 今回のテーマは廃城令。なぜ、無数に築かれた城は激減してしまったのか。その大きな原因となった「廃城令」について解説します。
 まだ廃城令が出される前、明治維新の時点で日本に存在していた城は193、城持ちではない大名の本拠地・陣屋は127、これ以外の重要拠点である要害が20で、合計340城あったといいます。しかし、幕末維新の動乱による財政悪化で、多くの城が荒廃し始めていました。版籍奉還によって大名所有の土地と人民、そして城も明治政府のものとなりましたが、管理を委託されたのは旧藩主の知藩事。城は巨大建築であるがゆえに老朽化が激しく、屋根は波打って瓦がずれ落ち、壁の漆喰は剥落、板戸や窓枠は外れ、草がぼうぼうに生い茂るといった有り様。また、新政府への反抗運動の拠り所となるのを防ぐために取り壊された城もありました。そして、明治4年(1871)の「廃藩置県」で知藩事という職がなくなり、彼らが東京移住を命じられると、主がいなくなった城はさらに荒廃していきました。
 そして明治6年(1873)、廃城令が発せられます。簡単にいうと、「城の土地建物は陸軍省の財産だったが、今後陸軍が軍事に使用するものは存城処分。それ以外は廃城処分として大蔵省に引き渡し、売却用の普通財産とする」ということでした。存城処分となったのは、東京城江戸城/東京都)、仙台城宮城県)、名古屋城(愛知県)、大阪城大阪府)、広島城広島県)、熊本城(熊本県)などをはじめとする43城1要害のみ(諸説あり)。残りはほとんどが廃城処分となりました。
◆存城=保存ではない! 城郭保存へいたる長い道のり
 存城・廃城と運命が分かれた城たちですが、ここで大切なのは、「存城=保存」ではないということです。あくまでも軍用地としての存続なので、存城となっても、広い場所を確保するために堀を埋めたり、石垣を破壊したり、建造物を取り壊したりという例が少なくありませんでした。逆に、本丸や二の丸など主要部以外の広い曲輪を軍用地としたため、天守などの建造物は残されたという例も。会津若松城福島県)は前者の例で、存城となったものの、すべての城郭建造物が取り壊されました。姫路城(兵庫県)は、典型的な後者の例です。現在三の丸を囲む堀の外側に建つ市立美術館は、元は明治時代に建てられた軍の倉庫でした。存城となっても、遺構の残り方は一様ではなかったということですね。
 さて、明治10年前後には、存城処分となり軍用地として存続していても、老朽化によって取り壊しの危機を迎える城が続出しました。この時、軍内部や庶民に、初めて城を文化財として残そうと考えた人たちが現れ、これによって姫路城、名古屋城彦根城滋賀県)、松本城(長野県)、松江城島根県)などが取り壊しを免れています。

城の終焉「廃城令」と名城のその後 「青天を衝け」の城 (11) | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]
 1871(明治4)年の廃藩置県で、藩庁である城も役目を終えた。そして、1873(明治6)年1月14日に廃城令が公布されると、全国の城の多くが姿を消すこととなった。
 (ボーガス注:廃城令とは)明治維新により陸軍省所管財産となっていた城の土地や建物を、「存城処分」として陸軍省所管の行政財産とするか、「廃城処分」として大蔵省所管の普通財産にして売却処分するかに分けるもので、これにより43城(諸説あり)が存城処分、そのほかの城のほとんどは廃城とされた。
 存城処分といっても城を後世に残すことが目的ではなく、あくまで陸軍用地としての利用が目的だ。そのため、軍の施設建設のために広大な敷地を確保すべく、城内の石垣は壊され、堀は埋め立てられ、建物も次々に破却された。
 たとえば姫路城(兵庫県姫路市)には8棟の国宝天守群と74棟の国指定重要文化財という計82棟の現存建造物があるが、御殿はひとつも残っていない。
 廃城令から数年経ち、城への文化的な価値に目が向けられはじめたことで、城の建物は貴重な文化財として後世に残ることになる。破却が進んでいた姫路城では、中村重遠陸軍大佐が陸軍卿の山縣有朋に姫路城の価値を述べた建白書を提出。天守群ほか多くの櫓や土塀などが取り壊しを免れた。
 彦根城天守も、運よく破却を免れた国宝天守だ。陸軍省が管轄していたものの、老朽化のため売却、破却されることになったが、1878(明治11)年、明治天皇行幸した折に随行していた大隈重信の働きかけで天守や櫓が保存されることが決定。皇室付属地彦根御料所となった後、最後の彦根藩主・井伊直憲に下賜されて保存がかなった。
 藩の象徴であっただけに、旧藩士などの奔走によって守られた城も多い。たとえば1875(明治8)年に売却された松江城松江市)の天守は、旧藩の銅山経営にあたった豪農の勝部本右衛門と元藩士の高城権八らが資金を調達して落札額と同額で買い戻されている。落札額は180円(約360万円)で、天守以外の建物は4〜5円だった。丸亀城天守と大手門も、旧藩士の懇願で破却を免れたとされる。
 松本城の国宝天守も、民間人の奔走により奇跡的に残った。廃城令により競売にかけられ取り壊しが決まると、下横田町の副戸長・市川量造が私財を投げ打ち買い戻しに奔走。資金が足りなかったため、博覧会ブームを受けて天守内での博覧会開催を提案し、1873(明治6)年から1876(明治9)年まで5回の博覧会を催して、その利益で補充したという。
 老朽化が進んだ天守はその後、松本中学校長の小林有也(うなり)が資金調達に奔走。1903〜1913(明治36〜大正2)年に大修理されている。

近代 | 名古屋城の歴史 | 知る | 名古屋城公式ウェブサイト
 明治に入ると名古屋城は陸軍の所管となり、取り壊しの危機を迎えます。
 しかし、全国屈指の名城として永久保存されることが決まると、宮内省所管の名古屋離宮となり、天皇や皇后、皇族の宿泊などに利用されました。
 名古屋城は、1872年(明治5)に本丸に陸軍東京鎮台第三分営が置かれ、同年に二之丸、三之丸も陸軍省の所管になります。翌年、東京鎮台第三分営から名古屋鎮台に改称され、天守を仮兵舎、本丸御殿が名古屋鎮台本部に。その後、二之丸、三之丸に兵舎などが整えられていきます。この頃、場内に新たに陸軍の施設が建てられると同時に、二之丸御殿をはじめ多くの建物が撤去されました。
 こうした動向に対し、名古屋城を保存すべきとの声が挙がりました。1879年(明治12)に、陸軍省内務省、大蔵省は、名古屋城を姫路城とともに「全国中屈指の城」として、永久保存する方針を決定。この決定によって、保存修理の費用や人員の負担が重くなったことをひとつの要因に、名古屋城陸軍省から宮内省への移管が1891年(明治24)に決まりました。
 名古屋城宮内省に移管され、1893年(明治26)に本丸・西之丸東部は名古屋離宮*5となりました。この後、1930年(昭和5)までこの名で呼ばれ、天皇や皇后を度々迎えます。本丸御殿は、皇族の宿泊所として利用されました。
 1930年(昭和5)、名古屋離宮名古屋市へと下賜されて、再び名古屋城と呼ばれるようになりました。翌年には一般公開が始まり、多くの市民が足を運びました。

中村大佐顕彰碑 | 姫路城完全観光案内所
 姫路城を訪れて、この碑に注目される方はなかなか少ないんですよ、こんなにいい場所に建てられているのに。
 ここに名前が刻まれている中村大佐とは、明治初期に陸軍歩兵大佐であった中村重遠大佐のことです。姫路城が今日までその美しい姿を伝えている裏側には、実に多くの人たちの努力と苦労があったのですが、この中村大佐はその中でも第一級の働きをされた方として、ここにその業績を顕彰し、「姫路城の恩人」として称えられています。
 明治維新によって廃藩置県がなされ、全国にあった封建制度の象徴と言うべきお城は存続か廃城かの見直しがなされ、陸軍が兵営地や訓練場所としての価値を認めた全国43城以外は、明治6年の「廃城令」によりすべて廃却されました。
 姫路城は幸いにもその43城の中に入り、お城は残ることになりましたが、それは姫路城の敷地は陸軍の師団が駐屯するのに好都合だからそのまま残された、というだけのことであり、今日のようにお城の歴史的・文化的価値を認める、などという発想はまだ誰にもありませんでした。そのため建築物などは荒れるに任され、明治11年ごろまでには姫路城も取り壊しや売却の危機に瀕しました。このとき、陸軍の建築、修繕を担当する部局第四局で局長代理の任にあったのが中村重遠大佐でした。中村大佐は全国の城を視察する中で、とくに姫路城と名古屋城の文化的価値を認め、ときの陸軍卿山縣有朋に、この天下の二名城を後世に残すよう太政官に上申してもらいたい、という意見書を提出し、その結果陸軍参謀本部がこの上申を認め、とにもかくにも応急の保存工事が国の予算の中からできることとなり、のちの大規模な修理工事へとつながるのです。
 ほんとうに、この中村大佐がいなければ今ごろは姫路城もほかの多くのお城と同じように、石垣だけが残る「城跡」になっていたことでしょう。ありがたいことです。


◆19世紀フランスにおける貴族と地方社会(上垣豊*6
(内容紹介)
 上垣「19世紀フランスの貴族と近代国家:7月革命の前と後」(史林78巻4号(1995年)収録)の論文がある筆者が、過去の論文を発展させる形で議論を展開していますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。平たく言うと「制度としての貴族」は消滅したものの、未だに「フランスにおいて貴族の末裔が(昔ほどではないとはいえ)それなりの政治力、経済力を持ち、(勿論、保守派限定でしょうが)それなりの尊崇を得ている」という話です。

参考

自宅はシェアハウス!?現代フランス貴族の「人生&恋愛観」
 現在フランスに、3,000家族(約15万人)存在するという“貴族”。現代社会で、彼らはどのような生活を送っているのでしょう。
 そんな疑問をもとに、11世紀まで遡るフランスの貴族の家系シャボ・トラムクール家に生まれ、現在ロレアルで国際リテール&Eコマース・プロジェクト・マネジャーとして働く、ディアンヌ・デ・シャボ・トラムクールさんを直撃。
はじめに、ディアンヌさんの家系について教えてください。
 フランス中西部のシャボ家出身の貴族と、北仏パ=ド=カレー県にルーツを持つトラムクール家の出身者が婚姻を結び、現在の私の苗字シャボ・トラムクールとなりました。現在、祖父母は北フランスのパ=デ=カレー地方の小さなお城に住んでいます。また、同じ地域に、叔父が規模の大きなお城を所有しています。
 一族で集まるのは、年に一度。フランスや世界各地に住む、同じ家系の人々が100人ほど集まるんです! 
現代社会において、貴族出身であることは、ディアンヌさんにとって、どのようなことを意味しますか。
 「貴族」という概念は、現在社会で生活するうえでは、ほとんど存在しません。今日では、多くの貴族の家系出身者が社会で仕事を持っています。私も、自分が受け取るお給料の範囲で節約し、できる限り毎日を満喫できるよう心がけています。
 たとえば旅行に行くときはお得な飛行機のチケットを探して、民泊を楽しみます。それにパリは家賃が高いので、現在はシェアハウスに住んでいるんですよ。
 昔の社会は貴族同士の繋がりを重んじていましたが、実際私には貴族家系の出身でない友人のほうが多いです。

ヨーロッパ写真日和VOL.160『フランスはロワール地方の古城に、現代の貴族を訪ねて』
 ル・ルード城の城主となり260年続いているニコライ家、現当主ジャン・ルイ。現代フランスにおいては「貴族制度」というものはなくなりましたが、肩書きは今でも残っていて、「公爵、子爵」と苗字に書くことができます。ただ昔と違い、今は特別な身分待遇はありませんから、一般人(?)と同様に働かなくてはいけません。この城の維持費だけでも年間数億円かかるということで、大変ですね。

フランス人は王政復古に賛成?貴族制度が廃止された今も残る、フランス貴族の末裔とその生活 - MULTILINGIRL♫
 2016年にBBCの記事で「なぜフランスの貴族はいなくならないか」という特集があった。この記事の内容をざっくり分かりやすくまとめると、フランスの貴族は21世紀になる今も耐え続け、繁栄しているという。
 今日、自分自身を貴族と名乗ることのできる貴族は、4000(一族)もいると考えられ、フランス革命以前の12000(一族)よりは少なくなったものの、その一族というのも非常に広いので、推定で1780年代と同じくらいの10万人ほどの貴族はいるのではないか。と言われている。
 例えば、2016年までアクサ(フランスの保険・金融グループ)のCEOだったアンリ・ド・カストリーズや、ミシュラン(タイヤメーカー)でCEOだった後に、ルノーのCEOになったジャン・ドミニク・セナールという人たちが典型的な例だ。
 このように、表舞台に立つ貴族はそれほど多くないとされるが、目立たないだけでかなり多いのかもしれない。とはいっても、多くの貴族はパリ中心部から遠く離れた場所で、質素な生活を送っている。多くの場合、古い邸宅や、維持費が負担となるシャトー(城)でひっそり暮らしている。


◆歴史の眼『文化財と戦争:史蹟「和歌浦街道ノ松並木」伐採』(藤本清二郎*7
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

紀州百景97〜和歌街道の松並木(昭和) | ニュース和歌山2021年11月27日
 和歌街道の松並木の巨木がなぎ倒されて電車線路と道路をふさいでいます。昭和九(一九三四)年九月二十一日の室戸台風によるものです。
 和歌街道松並木は、大正十五(一九二六)年七月に史蹟名勝天然記念物保存法により、史跡として指定を受けていました。松並木はこのような被害を受けてなお、江戸期以来の街道のシンボルであり続けましたが、(ボーガス注:太平洋戦争中の)昭和十八(一九四三)年二月、史蹟指定を解除され(ボーガス注:軍事用の)船舶用材とするために二百十四本が伐採され、おもかげを失いました。

 『文化財と戦争:史蹟「和歌浦街道ノ松並木」伐採』という藤本論文タイトルの意味は上記の文章でわかると思います。しかし藤本氏も歴史評論論文で「貴重な史跡が失われた」「材木など他にいくらでもあるのではないか?」「そもそも木造船なんか戦争に動員できるのか?」「軍事的合理性ではなくただの戦意高揚ではなかったか?」と嘆いていますが、史跡指定を解除して伐採する必要が果たしてあったのかどうか。

和歌道松並木 面影つなぐ | ニュース和歌山2021年11月13日
 江戸時代に紀州東照宮へ続いた和歌道松並木の痕跡が和歌山市秋葉町の国道42号から確認されている。和歌山大学名誉教授の藤本清二郎さんが10月、掘削工事中の地中に切株の根を目にしたのがきっかけ。国土交通省近畿地方整備局和歌山河川国道事務所の調べによると、木の根は19ヵ所で見つかった。藤本さんは「歴史的な風景の記憶を後世につなぐことができれば」と望んでいる。
 (ボーガス注:和歌道松並木は)1925(大正14)年には史跡に指定された。しかし、1943(昭和18)年に軍事利用のために伐採され、現在の国道42号にその面影はない。
 現在、和歌浦地区を中心に国が電柱地中化の計画を推進しており、昨年末からは国道42号の水軒口交差点から秋葉山交番までの間で工事を実施している。10月3日に青木松風庵南を通りかかった藤本さんが掘削工事の掘穴中に約1・3㍍の木の根を偶然発見した。事業主の近畿地方整備局和歌山河川国道事務所へ松並木の痕跡である可能性を伝えた。10月26日と11月8日には県立自然博物館の高須英樹館長を交え、根を検分した。
 課題は見つかった根の扱いだ。一部は高須館長が講師を務める和大の生物学教室で預かるが、他については藤本さんが文化財としての保管を博物館や行政へ働きかけ、現在、県などで検討が進められている。藤本さんは「文化財ではなくとも、松並木の痕跡は歴史資料です。地域の個性的な景観の記憶を留めるため、なんとか博物館資料やモニュメントとして活用できないか。まずは地元の人に松並木を知ってもらいたい」と訴えている


◆書評:高嶋航*8・金誠*9編著『帝国日本と越境するアスリート』(2020年、塙書房)(評者:坂上康博*10
(内容紹介)
 アマゾンレビュー紹介で代替。
 なお、帝国日本と越境するアスリート NOA-webSHOP | 塙書房で紹介されてる人物がわかりますが「中村是公(なかむら・よしこと)*11」「河本大作*12」「星野直樹*13」といった「スポーツ選手ではない人間(満鉄、関東軍満州国の幹部)」も一部います。多分「満州倶楽部(浜崎真二が在籍した満鉄の野球部)を支援した」という話なのでしょうが。

◆アマゾンレビュー『日本帝国の外地とゆかりのあるスポーツ関係者35人の概要』
 編者は京都大教授と札幌大学教授で、戦前日本の帝国における外地(満州、朝鮮、台湾)と満州に多少縁のある内地で活躍したスポーツ関係者の紹介である。
 実際に外地で選手として活躍した人、外地出身でオリンピックや内地のスポーツ界で活躍した人、内地で活躍したが外地と縁がある人など様々である。
 名前を知っていた人だと浜崎真二*14孫基禎*15金容植*16大山倍達*17呉昌征*18人見絹枝*19スタルヒン*20当たりだけだったが、他にも劉長春南洞邦夫*21など興味深い人が多かった。
 一人当たりのページ数は数ページから長くても10ページと短いが、一冊でこれだけ多くの人について知識を得られるのは便利である。この本を導入に、興味のある人がいたら更に別の本で知識を深めるのがよいだろう。

 小生はこの本に出てくる人物はほとんど知らない名前ですね。

【追記】
帝国日本と越境するアスリート NOA-webSHOP | 塙書房で紹介されてる人物のうち、ウィキペディアで紹介されてる人間だけ触れて、適当なコメントもしておきます。
満州関係】

岡部平太 - Wikipedia
 1891~1966年。福岡県糸島市出身。1921年(大正10年)10月、南満州鉄道に体育主任として入社。1922年(大正11年満州体育協会を創設、理事長に就任。以後11年間在職する。1948年(昭和23年)第3回国民体育大会(福岡国体)事務局長、福岡県体育協会理事長に就任。1948年の福岡国体会場として建設されたのが平和台陸上競技場であり、1992年(平成4年)3月、競技場内に岡部の胸像が建立された。1963年(昭和38年)、多年スポーツ界に尽くした功労で昭和37年度『朝日賞』を受賞。
【参考書籍】
◆田中舘哲彦『日本スポーツを救え:野人・岡部平太のたたかい』(1988年、平凡社
◆橘京平『Peace Hill:天狗と呼ばれた男・岡部平太物語』(2019年、幻冬舎
◆高嶋航『国家とスポーツ:岡部平太と満洲の夢』(2020年、角川学芸出版
◆橘京平『直向(ひたむ)きに勝つ:近代コーチの祖・岡部平太』(2021年、忘羊社)

中澤不二雄 - Wikipedia
 1892~1965年。1923年に南満州鉄道(満鉄)に就職し、社会人野球チーム「大連満州クラブ」(満鉄の社員を中心に編成)でプレイングマネジャー(選手兼任監督)。戦後は日本テレビの野球解説者として活躍。1959年に太平洋野球連盟パシフィック・リーグ)の会長に就任。

齋藤兼吉 - Wikipedia
 1895~1960年。1920年アントワープ五輪に、陸上競技(五種競技*22にエントリーしたが疲労のため、結局棄権)及び競泳競技(100m自由形、400m自由形)の日本代表として出場。その後、満州へ渡り、満州医科大学満州教育高等専門学校などで体育教師として教鞭を執った。また南満州鉄道社員で結成していた実業団野球チーム・大連満州倶楽部のメンバーとしてプレーし、都市対抗野球大会にも出場したことがあったという。
 戦後は金沢大学教授、中京大学教授を歴任。

富木謙治 - Wikipedia
 1900~1979年。合気道創始者植芝盛平の高弟。1936年(昭和11年)、満州国に赴き、関東軍等で合気武道(当時の合気道の名称)を指導。1938年(昭和13年)、建国大学助教授に就任。1941年(昭和16年)、建国大学教授に就任。戦後は早稲田大学教授、日本合気道協会会長を歴任。

谷口五郎 - Wikipedia
 1901~1980年。韓国・釜山商業から1920年早稲田大学へ入学。早稲田大学野球部で投手として活躍。1923年からは社会人野球の大連実業団でプレー。1951年は常磐炭鉱野球部監督、1953年から1957年まで巨人のコーチ、1959年から1963年まで大洋ホエールズのコーチを務めた。1979年に野球殿堂入り。

宮畑虎彦 - Wikipedia
 1903~1988年。1924年パリ五輪に男子競泳4×200m自由形リレーで出場。1928年アムステルダム*23五輪には役員として選手団に同行。1934年、大連市立大連中学校に奉職。1940年、関東州学務課(関東局教育主事)として勤務。戦後は金沢大学教授、東京学芸大学教授、日本女子体育大学教授を歴任。

小谷澄之 - Wikipedia
 1903~1991年。1929年に満州に渡って南満州鉄道(満鉄)に入社し、南満州工業専門学校にて柔道師範として指導も行った。1932年、満鉄から米国出張を命じられる。ロサンゼルスに滞在中の5月、柔道場に通うレスリング選手とレスリングルールで試合をしないかとの打診があり、レスリングの経験があった小谷はこれを快諾。小谷はこの試合を僅か5分足らずでフォール勝ちに収めて周囲を驚かせた。ロサンゼルスで同年8月に開催が予定されていた五輪大会のレスリング競技に日本代表として出場させよという機運が一気に高まり、ミドル級に出場。小谷は3回戦まで勝ち上がり、金メダリストとなるスウェーデンのイバール・ヨハンソンにフォール負けを喫したものの5位入賞を果たす。
 1984年4月27日の講道館百周年記念式において柔道最高段位である10段位を允許。10段位が允許されるのは、栗原民雄(1896~1979年)が1979年10月に死後追贈されて以来約4年半振り、存命者での10段位は三船久蔵(1883~1965年、1945年に10段)が1965年1月に没して以来約20年振りの事であった。

星名秦 - Wikipedia
 1904~1984年。京都帝国大学工学部出身で、ラグビー部に所属。1928年に京都帝国大学ラグビー部が東西学生ラグビーフットボール対抗王座決定戦で早稲田大学を破って、全国制覇したときのキャプテン。1928年大学卒業後は南満州鉄道に技術者として勤務していたが、終戦によって職を失い、1947年に満州から帰国。その後は同志社大学工学部教授となり、同志社大学ラグビー部を指導。1960年に京都大学ラグビー部の監督に就任。

田部武雄 - Wikipedia
 1906~1945年。満州奉天に渡り、1924年、大連実業団(以下、大連実業)に参加。1927年、大連実業の中島謙監督(明治大学OB)から明治大学への進学を勧められ帰国。1932年明治大学を卒業後、藤倉電線(現・フジクラ)に入社。東京倶楽部の一員として全日本都市対抗野球大会に出場。
 1934年、大日本東京野球倶楽部(後の東京巨人軍)の結成に参加し入団。1936年、主将としての立場上、選手の不満を代弁して球団上層部と衝突、これが原因で巨人軍を退団。こうして田部は1936年(1937年説もある)日本を去り、再び満州大連に渡る。田部はトラック運送業を始め成功した。大連実業に復帰し「もうややこしいことを考えて野球をするのがイヤになった」「実業野球を楽しみたい」と話していたといわれる。1940年の都市対抗野球大会には、大連実業のエースとして出場(準優勝投手)。1942年、戦前最後の大会となった第16回都市対抗野球大会にも出場。1944年、大連で現地召集され、戦況悪化の激戦地、沖縄に向かう。1945年、地上戦最中の6月、沖縄摩文仁海岸で機関銃の乱射を受け死亡したとされるが、詳細は不明。享年39歳。東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている。1969年、野球殿堂入り。
【参考書籍】
◆菊池清麿*24『天才野球人 田部武雄』(2013年、彩流社

 こうした「戦死した野球選手」については、鎮魂の碑 (日本プロ野球) - Wikipedia赤旗戦争で多くのスポーツマンが戦死した?を紹介しておきます。

劉長春 - Wikipedia
 1909~1983年。遼寧省の大連出身。1932年のロサンゼルス五輪について、当初、中華民国国民政府は参加しない方針であった。日本の傀儡国家で建国間もなかった満州国の体育協会は五輪組織委員会に対し、劉を参加させたいという電報を送った。この参加構想が満州国政府系の新聞を通じて報じられると、劉は「中国人として、決して傀儡国家である満州国の代表として五輪に出場することはしない」と表明。その上で中国を代表して五輪に参加する意欲を示した。
 その結果、1932年のロサンゼルス五輪に、中国初の五輪代表選手(陸上100m走、200m走)として出場。1936年のベルリン*25五輪にも100m走、200m走、4x100mリレーの中国代表として出場。戦後は中国五輪委員会副主席などスポーツ界の要職を歴任。
◆エピソード
 劉の子息によると、劉は生前「中国で五輪が開催されること」を願っていた。劉の死去(1983年)から25年後の2008年、中国は北京夏季五輪の開催を実現した。北京五輪聖火リレーに際しては子息の劉鴻亮がギリシアで、劉鴻図が瀋陽*26でそれぞれ聖火ランナーとして走っている。
 また、2008年5月、北京五輪記念映画として劉の伝記映画『たった一人のオリンピック』が中国で公開された(日本未公開)。

 五輪出場が政治問題になるといえば最近では「ロシア選手のパラ出場拒否(ひとまず是非は論じません、俺個人は『選手に罪はない』と思い賛同できませんが)」がある。
 また満州国のような「傀儡国家」の疑い濃厚なのが「ドンバス共和国」「ルガンスク共和国」(いずれもウクライナ国内の親ロシア勢力)であり、劉長春のような話は残念ながら「過去の話ではない」わけです。

牛島辰熊 - Wikipedia
 1904~1985年。講道館柔道九段。大日本武徳会道教士。明治神宮大会3連覇、昭和天覧試合準優勝。その圧倒的な強さと気の荒さから「鬼の牛島」と称された。柔道史上最強を謳われる木村政彦(1917~1993年)の師匠として有名。
 思想的には右であり、「満州人脈」である石原莞爾*27、加藤完治*28との交友があり、石原が設立した東亜連盟役員も務めた。そのため、戦後、公職追放処分を受けている。


【朝鮮関係】

李相佰 - Wikipedia
 1904~1966年。早稲田大学に留学し、早稲田大学バスケットボール部で活躍。1930年、大日本バスケットボール協会設立に際しては発起人の一人となる。1931年に大日本体育協会常務理事に、1935年には、大日本体育協会専務理事に就任。1936年にはベルリン五輪の日本代表選手団総務としてベルリンに赴いた。1944年10月、呂運亨*29が結成した地下独立運動団体である建国同盟に参加。戦後は呂運亨の建国準備委員会に加わって活動。1945年9月に、朝鮮体育同志会を結成して会長に就任。1945年12月に朝鮮体育会常務理事に、1946年には朝鮮体育会理事長に就任。1948年ロンドン*30五輪では、五輪に初めて出場した韓国選手団の団長を務めた。朝鮮戦争下の1951年には大韓体育会副会長に就任、1952年ヘルシンキ*31五輪では総監督として韓国代表選手団を率いた。以後も、1956年メルボルン*32五輪、1960年ローマ*33五輪、1964年東京五輪では代表選手団団長などとして、選手団を率いて海外に遠征した。1964年、大韓体育会長、大韓五輪委員会委員長に就任(ともに1966年まで)。また、1964年、国際五輪委員会(IOC)委員に選出(韓国出身のIOC委員は李起鵬*34に次ぎ2人目)。死後の1966年、日本政府は勲三等旭日中綬章を追贈。1970年12月、韓国政府は国民勲章無窮花章を追贈。1976年、李の10回忌を記念して、早稲田大学のバスケットボールチームを韓国に招待し大会が開かれた。これを継承する形で、日韓の学生バスケットボール対抗戦である李相佰杯争奪日韓学生バスケットボール競技大会が設けられ、1978年以来開催されている。2019年に日本バスケットボール殿堂入り。

1931年に大日本体育協会常務理事に、1935年には、大日本体育協会専務理事に就任でありながら、戦後「親日派として排除されなかった」のは1)1944年10月、呂運亨が結成した地下独立運動団体である建国同盟に参加、2)親日派として排除するには惜しい才能ということでしょう。


【台湾関係】

張星賢 - Wikipedia
 1910~1989年。1931年に早稲田大学に留学し、早稲田大学競走部に所属。日本代表として1932年のロサンゼルス五輪(400m走、400mハードル)、1936年のベルリン五輪(4x400mリレー)に参加。その後、満鉄、華北交通(満鉄の関連会社)に勤務。戦後の1946年5月に台湾に戻り、台中師範学校(現・国立台中教育大学)の教員となる。張はすでに36歳であったがなお現役を続行し、1946年10月の第1回台湾省運動大会では三段跳び、十種*35競技、4x100mリレーに出場し優勝。1948年8月、台湾省合作金庫に就職し、同社の野球チームの結成にかかわっている。また、同年、台湾省陸上競技協会会長にも就任した。

柯子彰 - Wikipedia
 1910~2001年。早稲田大学に留学し、早稲田大学ラグビー部に入部。1930年(昭和5年)にはラグビー全日本のカナダ遠征選手に選抜される。1934年(昭和9年)の豪州学生選抜戦では23歳3ヶ月20日の若さで日本代表のキャプテンを務め、これは現在に到るまで歴代日本代表の最年少キャプテンとして記録されている。昭和初期の早稲田ラグビー黄金期を飾る名プレーヤーとして「柯子彰の前に柯子彰なく、柯子彰の後に柯子彰なし」と言われた。大学卒業後は南満州鉄道に勤務。そこでもラグビーの普及に尽力。戦後は台湾に戻り、1946年には台湾ラグビー協会を設立。森喜朗元首相(早稲田大学ラグビー部OB、元日本ラグビー協会名誉会長)は2003年12月の台湾訪問*36の目的のひとつとして、父のラグビー仲間であった柯の墓参りを挙げている。

【参考:劉長春

中国のオリンピック先駆者・張伯苓氏(4)--人民網日文版--2008.02.152008.2.15
 1932年7月、第10回オリンピックが米ロサンジェルスで開催された。当時の南京政府は経費難を理由に、中国選手団の出場見送りを何度も明言した。日本はこの機に乗じ、劉長春と于希渭を代表選手とする「満州国」選手団をロサンジェルスに送り込もうと急遽画策した。これは中国の愛国者たちの強烈な反感を呼び、張伯苓*37をリーダーとする中華全国体育協進会は、「満州国」のオリンピック参加に対し断固反対・阻止する姿勢を鮮明に示した。劉長春も、「私は誇り高い中華民族・中国人であり、満州国代表として第10回オリンピックに出場することを絶対に拒絶する」との声明を発表した。
 張学良*38は7月1日、「8千元(旧時の銀貨)を投入し、卒業生の劉長春と于希渭を代表選手とし、宋君復・教授を監督とする中国代表団を第10回ロサンジェルスオリンピックに出場させる」と厳かに宣言した。しかし、この時点で出場申請はすでに締め切られていた。張伯苓はこれを聞くとすぐに国際オリンピック委員会IOC)に電話をかけた。さまざまな努力が実を結び、ついにIOCから出場承認を得た。于希渭は諸事情から、出場を果たすことができなかった。
 7月8日午前10時、劉長春と宋君復は上海から郵便配達船「ウィルソン」号に乗り込み、米国に向け旅立った。中国人がオリンピックという殿堂へ最初の一歩を踏み出した貴重な瞬間だった。

第19章 中国 ︱「東亜病夫」からスポーツ大国へ | 一色出版
 中国が初めてオリンピックに参加したのは1932年のことである。コーチの宋君復(東北大学教授)と選手の劉長春東北大学学生)のふたりから成る小さな選手団だった。劉は大連の出身で、(中略)瀋陽東北大学に入り、一躍中国陸上競技界のスターとなる。スポーツを熱心に提唱していた東北大学校長の張学良にとって、劉は自慢の学生だった。
 1931年に満洲事変が勃発し満洲国が建国されると、満洲国はさっそく1932年に開催が予定されていたロサンゼルス五輪への参加を申請した。短距離の劉長春と中距離の于希渭である。しかし、劉は中国代表として参加することを宣言する。中国側では急いで資金集めが進められるとともに、張学良による多額の援助によって、劉を中国代表としてオリンピックに送り出した。満洲国が国際競技会への参加を企図したのは、それによって満洲国の存在を国際社会に承認させるためであった。しかし、大連出身の劉長春が中国代表として参加したことは、満洲国の参加が認められなかったというだけでなく、大連を含む満洲国が中国であることが承認されたに等しく、満洲国としては大きな誤算だった。一方、于希渭はその後、満洲国の官吏となり、中距離のエースとして東亜競技大会などの国際大会に何度も満洲国の代表として参加した。

一人だけのオリンピック。。。ジャッキー・チェン : 北京で太極拳
「解放以前、オリンピックに参加した中国人はたったの一人だけ。劉長春は短距離選手。不慣れな船で長時間を費やしてアメリカに渡ったものの、疲労しきった身体のために良い成績を残すことは出来ませんでした。けれど、この『たった一人の選手だけで中国がオリンピックに参加した』という出来事が中国国民に大きな影響を与えました。」
 以上は温家宝首相がハーバード大学での講演“中国に目を向けよう”の中で語った言葉です。
 1932年。満州国代表としてのロスアンゼルス大会への参加要請を拒み、「私は中国人です。私は炎帝黄帝の血を受け継いだ中華民族の子孫。私は満州国代表としての第10回オリンピック参加は拒絶します。」と、中国の代表選手として、初めて、たった一人でオリンピックに参加したという実話が元になっている物語。

【参考:孫基禎

「孫基禎選手」がなぜそこに? …日本オリンピックミュージアムの荒唐な展示 | Joongang Ilbo | 中央日報2021.6.17
 日本オリンピックミュージアムが1936年ベルリン五輪のマラソン金メダリスト、孫基禎(ソン・ギジョン、1912~2002年)選手を自国の選手のように紹介している事実が明らかになった。
 誠信(ソンシン)女子大学の徐ギョン徳(ソ・ギョンドク)教授は17日、東京オリンピック組織委員会日本オリンピック委員会に孫選手を日本人に誤解するように展示したことに対して抗議のメールを送ったと明らかにした。
 日本は東京オリンピック(五輪)スタジアム付近に「日本オリンピックミュージアム」を開館した。ミュージアムには「歴代日本人金メダリスト」を展示するコーナーがあり、孫選手が最上端に配置されている。彼が月桂冠をかぶって授賞台に立っている写真を展示し、日本語で「孫基禎、1936年ベルリン大会陸上競技男子マラソン」という説明しかない。誰から見ても日本人に誤解するしかない状況だ。
 徐教授は「孫基禎選手が日章旗を付けて日本選手団として出場したのは歴史的事実だが、孫基禎は『韓国人』という事実を世界にきちんと発信すべきだ」として日本側にIOCとともに孫選手に対する正確な説明を記して観覧客が誤解しないように措置を取るべきだと促した。

【ソウルからヨボセヨ】金メダルの歪曲 マラソン孫基禎をめぐるイチャモン - 産経ニュース2021.6.19(黒田勝弘
 日本オリンピックミュージアム(東京都新宿区)の「歴代日本人金メダリスト」の展示に、1936年のベルリン五輪でマラソン金メダリストになった孫基禎(ソン・ギジョン)が入っているのはおかしいと韓国がイチャモンをつけている。

 産経らしい嫌韓国ぶりです。


【参考:張星賢】

東アジアを駆け抜けた身体(からだ )―スポーツの近代|プレスリリース|歴博とは|国立歴史民俗博物館
第3章 世界を駆け抜けた台湾人アスリート:張星賢
 1930年代、2度のオリンピックで日本代表として活躍した台湾人アスリート・張星賢を中心に展示を構成します。1910年10月、台湾中部の中心都市・台中に生まれた張(〜1989)は、公学校(台湾人が通う小学校)卒業後、台中商業学校に進学し陸上競技の素質を開花させました。そして早稲田大学専門部に進学し、学生陸上の名門であった早稲田大学競走部に入部。そして1931年の入学早々に実力を認められ、翌年のロサンゼルスオリンピックに日本選手として出場する切符を手にしたのです。卒業後、南満洲鉄道株式会社に就職した張は、1936年のベルリンオリンピックの日本代表にもなりました。

忘れ去られた「日本代表」 統治下、差別への反発と誇り 台湾出身の五輪陸上選手・張星賢 | 毎日新聞2021.3.1
 日本統治下だった台湾から1930年代に「日本代表」として2度のオリンピックに出場した台湾出身の陸上選手、張星賢(ちょう・せいけん)(10~89年)。戦後の日本では忘れ去られた張の競技人生を通して、激動の日本と東アジアの近代史をひもとく特集展示「東アジアを駆け抜けた身体(からだ):スポーツの近代」が千葉県佐倉市国立歴史民俗博物館歴博)で開かれている。

虎ノ門で張星賢展 台湾初、五輪選手の軌跡 戦前「日本代表」で2度出場 /東京 | 毎日新聞2021.5.11
 日本統治下だった台湾から1930年代に「日本代表」として2度のオリンピックに出場した陸上選手、張星賢(ちょう・せいけん)(1910~1989年)の軌跡を紹介する「世界を駆け抜けた台湾人アスリート:張星賢」展が港区虎ノ門の台湾文化センターで開かれている。
 国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)で3月まで開かれた特集展示「東アジアを駆け抜けた身体(からだ):スポーツの近代」のうち、張に関する内容の一部を同センターで改めて展示した。

*1:大阪経済大学准教授。著書『明治期の旧藩主家と社会:華士族と地方の近代化』(2015年、吉川弘文館

*2:中央大学准教授。著書『国葬の成立:明治国家と「功臣」の死』(2015年、勉誠出版)、『戊辰内乱期の社会』(2016年、思文閣出版)、『天皇陵と近代:地域の中の大友皇子伝説』(2018年、平凡社)、『歴史資源としての城・城下町』(編著、2021年、岩田書院ブックレット)

*3:東京大学史料編纂所研究員。著書『天璋院篤姫』(2007年、高城書房)、『みんなの篤姫』(2008年、南方新社

*4:宮内庁宮内公文書館研究員

*5:日本では皇族が利用する建物のうち、一定規模以上の建造物と敷地を有するものを離宮とし、小規模のものを御用邸と称している。名古屋離宮名古屋城)のように近世城郭が一時的に離宮となったケースとしては他に「二条離宮(二条城)」がある。なお、離宮としては現在、桂離宮修学院離宮が存在する。御用邸としては、現在、那須御用邸葉山御用邸須崎御用邸が存在する(離宮 - Wikipedia御用邸 - Wikipedia参照)

*6:龍谷大学教授。著書『ナポレオン』(2013年、山川出版社世界史リブレット人)、『規律と教養のフランス近代』(2016年、MINERVA西洋史ライブラリー)

*7:和歌山大学名誉教授。著書『近世賤民制と地域社会:和泉国の歴史像』(1997年、清文堂出版)、『近世身分社会の仲間構造』(2011年、部落問題研究所)、『城下町世界の生活史』(2014年、清文堂出版)、『紀州藩徳川吉宗:明君伝説・宝永地震・隠密御用』(2016年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『和歌の浦・玉津島の歴史:その景観・文化と政治』(2019年、和泉書院

*8:京都大学教授。著書『帝国日本とスポーツ』(2012年、塙書房)、『軍隊とスポーツの近代』(2015年、青弓社)、『国家とスポーツ:岡部平太と満洲の夢』(2020年、角川学芸出版)、『スポーツからみる東アジア史:分断と連帯の二〇世紀』(2021年、岩波新書

*9:札幌大学教授。著書『近代日本・朝鮮とスポーツ:支配と抵抗、そして協力へ』(2017年、塙選書)、『孫基禎:帝国日本の朝鮮人メダリスト』(2020年、中公新書

*10:一橋大学教授。著書『権力装置としてのスポーツ:帝国日本の国家戦略』(1998年、講談社選書メチエ)、『にっぽん野球の系譜学』(2001年、青弓社ライブラリー)、『スポーツと政治』(2001年、山川出版社日本史リブレット)、『昭和天皇とスポーツ』(2016年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)

*11:1867~1927年。台湾総督府総務局長兼財務局長、南満州鉄道(満鉄)総裁、鉄道院総裁、東京市長などを歴任(中村是公 - Wikipedia参照))

*12:1883~1955年。1928年に関東軍高級参謀として張作霖暗殺を実行。1929年に予備役に編入された。その後、南満州鉄道理事、満州炭坑理事長など歴任。1955年8月25日、中華人民共和国の収容所にて病死。享年72歳(河本大作 - Wikipedia参照)

*13:1892~1978年。いわゆる「弐キ参スケ」の一人。満州国国務院総務長官、第二次近衛内閣企画院総裁、東条内閣書記官長など歴任。戦後、戦犯として終身刑となるが、1958年に仮釈放。後に東京ヒルトンホテル副社長、東京急行電鉄取締役、旭海運社長、ダイヤモンド社会長などを歴任(星野直樹 - Wikipedia参照)

*14:1901~1981年。1929年、慶應義塾大学卒業後、南満州鉄道に入社。満州倶楽部で都市対抗野球に出場し、活躍。1931年、1934年と二度来日した大リーグ選抜チームと対戦する全日本軍にいずれも選ばれ好投。1934年は沢村栄治を抑えて両チーム最多の7試合に登板した。戦後、慶應の後輩で当時阪急の代表をしていた村上実に誘われ、45歳で選手兼総監督として阪急ブレーブスに入団。これは今でも日本プロ野球史上、最年長入団記録である。また、1948年8月10日に記録した先発勝利(46歳8か月)は後に「中日の山本昌(2012年4月15日、46歳8か月4日)」に記録を破られるが、日本プロ野球史上最年長の先発勝利記録であった。1950年5月7日に登板し、48歳4か月で勝利投手となり、当時の日本プロ野球史上最年長勝利記録となる。この記録は、2014年9月5日に49歳0か月の山本昌(中日)が勝利をあげるまで、64年間にわたり破られることがなく、現在はパ・リーグ最年長勝利記録になっている。長年の功績により1978年、野球殿堂入り(浜崎真二 - Wikipedia参照)

*15:1912~2002年。1936年ベルリン五輪の男子マラソン金メダル。戦後は韓国陸連会長を務めた(孫基禎 - Wikipedia参照)。

*16:1910~1985年。1936年にベルリン五輪サッカー日本代表に選出。後に「ベルリンの奇跡」と呼ばれるスウェーデン戦勝利の立役者の一人。戦後は1948年のロンドン五輪で韓国代表選手兼コーチとして出場。2005年に韓国サッカー殿堂入り。「韓国サッカーの父」とも呼ばれる(金容植 - Wikipedia参照)

*17:1923~1994年。極真空手創設者。漫画『空手バカ一代』の主人公のモデル(大山倍達 - Wikipedia参照)

*18:1916~1987年。台湾出身のプロ野球選手。戦前、巨人で、戦後、大阪タイガース(現在の阪神タイガース)、毎日オリオンズで活躍。1995年に野球殿堂入り(呉昌征 - Wikipedia参照)。

*19:1907~1931年。1928年、アムステルダム五輪に日本女子選手として初出場(100m走、800m走、円盤投走高跳)。800m走では日本人女性初のメダリスト(銀メダル)となった。これ以降、日本の女子選手による五輪陸上競技のメダリストはバルセロナ五輪(1992年)の女子マラソン有森裕子が銀メダルを獲得するまで64年間出現しなかった(人見絹枝 - Wikipedia参照)

*20:1916~1957年。1917年のロシア革命によって、両親と共に日本に亡命。戦前、巨人で、戦後、太陽ロビンス金星スターズ大映スターズ高橋ユニオンズトンボユニオンズで活躍。1955年に史上初の通算300勝を達成。1960年、野球殿堂入り。1984年に改修された旭川市営球場には愛称「スタルヒン球場」が命名され、球場正面にはスタルヒン銅像が建立されている。(ヴィクトル・スタルヒン - Wikipedia参照)

*21:1916~2011年。中国奉天市生まれ。1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘン五輪でスピードスケート500m、5000mに出場。1956年コルチナ・ダンペッツオ五輪および1960年スコーバレー五輪のスケートチーム監督、1994年リレハンメル五輪日本選手団団長、日本スケート連盟理事長、日本カーリング協会会長などを歴任(南洞邦夫 - Wikipedia参照)

*22:五種とは幅跳、円盤投、200m走、1500m走、やり投のこと

*23:オランダの首都

*24:著書『日本プロ野球歌謡史』(2021年、彩流社)など

*25:ドイツの首都

*26:遼寧省省都

*27:1889~1949年。関東軍作戦主任参謀として板垣征四郎(当時、高級参謀)らとともに満州事変を起こした。関東軍作戦課長、参謀本部作戦課長、参謀本部第一部長、関東軍参謀副長、舞鶴要塞司令官、第16師団長(京都)などを歴任(石原莞爾 - Wikipedia参照)

*28:1884~1967年。関東軍将校、満州国軍政部顧問の東宮鉄男(1892~1937年)とともに満蒙開拓移民を推進。戦後、公職追放加藤完治 - Wikipedia参照)

*29:1886~1947年。1945年8月、朝鮮建国準備委員会を立ち上げ、9月には朝鮮人民共和国副主席に就任(主席は李承晩)。1947年、暗殺(李承晩派によるとされる)。死後の2008年に韓国政府は建国勲章大韓民国章を追叙した(呂運亨 - Wikipedia参照)

*30:英国の首都

*31:フィンランドの首都

*32:ビクトリア州(オーストラリア)の州都

*33:イタリアの首都

*34:1896~1960年。1945年に李承晩の秘書として政界入りし、1948年に大統領秘書室長、1949年にソウル特別市長、1951年に国防相に就任。1960年に、副大統領に当選したが、四月革命で失脚。将来を悲観した長男の李康石の手によって、朴瑪利亜夫人や次男(李康旭)とともに射殺された(長男も自決した)(李起鵬 - Wikipedia参照)

*35:十種とは100m走、走幅跳砲丸投走高跳、400m走、110mハードル、円盤投棒高跳やり投、1500m走のこと

*36:勿論、森氏が会長を務めた清和会は「創設者・岸信介」の時代から親台湾、反中国の色合いが強い。

*37:1876~1951年。中国国民党中央監察委員、中華民国考試院院長など歴任(張伯苓 - Wikipedia参照)

*38:1901~2001年。西安事件(1936年)の実行者の一人(張学良 - Wikipedia参照)