今日のMSN産経ニュース(5/15分)

産経抄】5月15日
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130515/plc13051503280002-n1.htm

佐藤は47年5月15日に行われた沖縄復帰記念式典で、首相として万感の涙を流す。だが復帰が実現した陰には、民間人も含めた「縁の下」の働きもあったことを忘れてはならない。そしてその一人に当時、産経新聞の政治部記者だった千田恒氏もいた。

こういう文章を平然と書ける産経は「そういう行為がジャーナリズム精神に反しないか」とは少しも思ってないんでしょう。
なお、佐藤と関係の深かった産経関係者は千田氏の他には「楠田実」と言う人もいるようです。本当に産経って自民党(特に考えが近い清和会)とずぶずぶなんだなと思います。こういう社風では阿比留のような「安倍とずぶずぶ」が生まれても何ら不思議ではない。阿比留も「俺は先輩・楠田さんや千田さんのようになりたいんだ」位思ってるかもしれない。
違いがあるとしたら「佐藤と楠田、千田はそれなりに有能」だが「安倍と阿比留は無能」ってことでしょう。

楠田實(1924年〜2003年:ウィキペ参照)
 1952年、産経新聞社に入社。
 政治部配属後は、大蔵大臣(第2次岸内閣)を務める佐藤栄作番記者となり、マスコミを滅多に寄せ付けないと言われていた佐藤との間に信頼関係を構築する。その後も総理官邸キャップ、政治部デスクなどを務める傍らで佐藤の寵愛を受けた。
 楠田は1964年1月から、ケネディが組織したブレーントラスト・グループに範をとった「佐藤オペレーション(Sオペ)」を組織し、1964年7月に行なわれる自由民主党総裁選に佐藤が出馬する際の公約作りを行なった。このグループでの政策検討をもとにした政策提言が「明日へのたたかい」と題して1964年6月に発表された。この総裁選で佐藤が池田に敗れた後も佐藤からの希望でSオペは存続し、池田の病気辞任により、1964年11月に佐藤が総理大臣に就任した後も、私的ブレーンとして政策提言や原稿作成を行なうこととなる。
 楠田はこの間に政治部次長に昇進していたが、佐藤から秘書官就任の依頼を受け産経新聞を退社、1967年3月1日より内閣総理大臣秘書官に転じ、1972年の佐藤退陣までその職を務めた。
 1977年から、総理大臣に就任した福田赳夫(政治部記者時代から知遇が有った)の下で、新設の内閣調査員(無給)に就任し、スピーチライターなどを務めた。福田退陣後も福田個人やその派閥である清和会とは近く、後継の派閥会長となった安倍晋太郎*1のスピーチライターなども務めた。

*1:福田内閣官房長官、鈴木内閣通産相、中曽根内閣外相などを歴任