いつもどおりid:noharra氏に突っ込む(11/26分)(追記・訂正あり)

「少なくとも来年の3月までお前の相手などしない(相手をするのが不毛だから?)」とまで啖呵を切ったid:noharra先生ですが「チベットネタ」でid:Mukke氏が小生を非難、はてなブックマークでもid:Mukke氏を支持する意見が少なくないのを見て「俺もボーガス批判してid:Mukkeさんみたいに好意的ブクマが欲しい」と「小生への批判意欲」がうずうずしてきたようです。せこい「賞賛ブクマ乞食」というか何というか。


『「ダライ・ラマ焼身を扇動している」となにがなんでも誤解したい人たち』
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20131128#p1


 どうもこの「誤解したい人たち」には小生も入ってるようです(「たち」というからには小生以外もいるのでしょうが誰かは不明です)。
 がはっきりそういわず「某S氏」なんて書いてる当たりが大笑いです。小生をはっきり名指ししたくないんでしょうか?(そもそも小生と彼との因縁を知ってる人間以外には「某S氏」など意味不明でしょう)
 当然彼は小生に対して「IDコールを送る」などと言ったことは何もやっていません。
 こういう人間が以前「idコールせずにツイッターで彼を批判した相手」に対して「俺への陰口だ」と言ったのですから呆れます。自分のやってる行為が陰口だという自覚がないんでしょうか?

ダライ・ラマ*1がチベットの焼死者についてどう言ったか、についてのニュースだが、私はそれについてあまり興味はない。
(中略)
ダライ・ラマが何を言おうが別に興味はない。

変わった人ですねえ。何で興味がないんでしょうか。もちろん興味がなくていっこうに構わないのですが、この人は「ダライの言動」や「チベット焼身自殺」には興味があるらしく自ブログでネタにもしているのに、「ダライが焼身自殺についてどう評価してるか」についてだけは興味がないというのだから奇妙な話です。

チベットのショッキングな焼死者たちの多数の群れに対して、そのショックをむりやり薄めようとするために、チベット人の悪口を言う、某S氏のような人がいる。

 変わった理解ですね。小生はそんな事は1度も言った覚えがありませんが。
 小生は「自殺なんて馬鹿げてる、チベット問題解決に役立たない」「仮に役立ったとしても自殺戦術など容認しがたい」と思うから「ばかばかしい」と書いただけです。
 まあ、「ばかばかしい」と感じた背景には「こんな連鎖自殺は止めなくてはいけない」というショックというか責任感というか、憤激というかまあ、そういう感情があったことは否定しませんが(なお、別に「自殺を止めないと中国のイメージダウンになる、親中派としてそれは避けたい」とかそういう話ではありません。そういう話にid:noharraはして小生を「中国の犬」扱いしたいのでしょうが)
 まあ、自殺する人々には「同情の余地」があるでしょうが「事実上自殺を賛美してたツェリン・オーセル*1のような輩」には憎悪と軽蔑の思いしか感じません(オーセルへの考えについては拙エントリ『id:noharraの紹介するオーセル女史の文章が酷すぎる話について(その1)(追記・訂正あり)』(http://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20120307/5643098721)参照)。
 そしてダライやチベット亡命政府は「扇動してる」とまでは言えないかも知れませんが「曖昧な態度でごまかし続けること」は否定できないでしょう。
 それは「扇動ではない」かもしれませんが「真摯に自殺阻止しているわけでもなく」、小生は批判されて当然の態度だと思います。
 あえて言えば「消極的扇動」といえるかも知れません。

法王:「このように自らの命を犠牲にして何かに抗議するという行いは、今までも行われていたわけです。例えば中国の中におきましても、ある中国の仏教のお寺の僧侶の方が自らの命を投げうって、人びとのために抗議をしたことがありますし、ベトナムの中でもそういったことは起こっています。そして私たちの国チベットでも全く同じです。
このように自分にとってもっとも大切なものである命を投げ出して、他の人たちを救うために、世の中にそういったことの不条理を問いかけようと、こういう行いというものは本当に尊ぶべき、本当に美しい行いだと思います。そういった行いというのは、究極的には他の者たちに暴力を使わないで自らを痛めるということによって、世にその不合理性を問うという行為であるわけですから本当に素晴らしい行為ではないかと思います。」

以上の文章はid:noharraが「ダライは自殺を扇動していない」というために「少なくとも主観的には」ダライ擁護派で「例のダライ集会にも出席した」らしい『宗派を超えてチベットの平和を祈念し行動する僧侶・在家の会(以下、僧侶・在家の会)』なる団体の文章『ダライ・ラマ法王の焼身抗議に対するご発言について』(http://www.supersamgha.jp/2013/11/post-103.html)を一部引用したものです。
 そもそも「ダライが何を言おうと興味がない」とid:noharraが書いたのに「ダライが言ったことを説明する」こういう文章を引用することには首をかしげますがそれはさておき。
 しかし正直言ってid:noharraといい「僧侶・在家の会」といいこのダライ発言が本気で「自殺容認・賛美じゃない」と思ってるんでしょうか?。小生には「自殺容認、賛美」としか理解できませんが。
 「美しい行いとは言ったが、やれとは言ってない」なんてのは詭弁でしょう。
 小生もあまりにもびっくりしたので次のブクマを「僧侶・在家の会」のエントリにつけました。今回は勿論差別タグをつけるようなバカはしません。

[アホか][わけがわからない]*2[ダライラマ][チベット]
 どう見てもここで紹介されたダライの回答は(誤訳でなければ)自殺容認、賛美にしか見えないが、本気で「容認なんかしていない、そして誤訳ではない」と思ってるらしいブログ主がアホすぎる

 まあ、id:noharraと「僧侶・在家の会(小生のブクマでは「ブログ主」と表現しています)」は「誤訳とは思ってない」し、その上、「自殺賛美、容認とも思ってない」ようです。そんな馬鹿野郎が「僧侶であれ在家であれ」仏教者を名乗るとはおぞましい限りです。
 小生もこの「僧侶・在家の会」の文章が「ダライサイドが正当と認めてる訳」なのか知りませんのでこれだけでダライ批判はしません。
 ただし以下のように小生は考えます。
1)この訳が正しければダライの自殺容認発言は批判されて当然と小生は思います。
 この発言の後にダライが言い訳として

 これに関しましては、もちろん本当に非常に心が痛む悲しい出来事であるわけです。私はひとりの仏教の僧侶でありますので、そういう意味においても本当に焼身自殺者が出るということに関しては本当に心を痛めているわけなんです。これは政治的な状況によって、どうしようもなく起きてしまっている

などと言ってることはダライ発言の問題性を何ら免罪しないでしょう。免罪すると思ってるらしいid:noharraと「僧侶・在家の会」には呆れます。
2)
 第二に在家の会が翻訳しid:noharraが紹介してる翻訳が「実は間違ってる」としましょう。
 しかしここからは「皮肉にもチベット仏教支持者には自殺を賛美していい、それはダライ猊下のお考えでもある、と思ってる人が、多数いるかどうかはともかく、無視できない程度の数はいるらしいこと」がわかると思います。正直、「不快感、恐怖と悲しみと嘆きと怒り」を俺は覚えますが皆様はいかがでしょうか?
 もしかしたらマスコミの「訂正記事」は「もめ事をおそれてヘタレただけ」で最初の記事が「大正解だった」のかもしれません。本当のところはこれだけではわかりませんけどね。
 なお、興味深いのが「僧侶・在家の会」が

(注:たとえ一部誤訳があっても)前後の文脈を理解すれば(注:マスコミ記者などチベット仏教信者でない人にも)法王猊下の意図している内容は(注:自殺賛美、容認ではないと)十分に理解できるものでありました。

として何故か誤訳問題を重視してないらしいことです。むしろ「前後の文脈を理解しないマスコミが悪い」のだそうです。
誤訳だというのはダライサイドの主張だったと思うのですがね。そして文脈なんぞ理解したところで自殺容認でしょうよ。どれほどダライに甘いのか。本当にダライ支持者には呆れますね(一部ダライ支持者だけかも知れませんが、それにしたって「一部のバカとして」無視できない程度の数はこういう人々がいるのでしょう)


【追記】
1)

・この記事は、中国政府が後を絶たないチベットでの焼身抗議者に関連してダライ・ラマ法王を非難の対象とする口実として利用する可能性がある。
・この報道を真に受けた本土のチベット人たちが、更なる焼身抗議を実行に移す恐れもある。

 マスコミ報道を非難する「僧侶・在家の会」の言い分です。
 いや「僧侶・在家の会」が自信を持って引用する「ダライの言葉(あくまでも僧侶・在家の会の翻訳ですが)」だって充分「非難の対象」にあたるし「猊下が美しい行為と言ってる!」といって「自殺助長の恐れがある」と思いますけどね。
 ダライが批判されたくなかったら「美しい行為だと思うが心が痛む」なんてレベルじゃなくてはっきりと「気持ちはわかるがやめて欲しい」というべきでしょうよ。

2)id:Bill_McCreary氏にライプツィヒの夏『こんな発言を紹介しておいて、「誤解」も「意図しない」もないもんだ』
http://blog.goo.ne.jp/mccreary/e/b3ff3ce3bb4699dfcdaf84f27b67fbaa
でご紹介いただきました。ありがとうございます。個人的にはこの件での問題はダライの発言と言うよりも
1)ダライは誤訳だと言ってるのに自称支持者が誤訳でないと言い出しダライの面目を何故か潰す
2)その結果、例の問題発言を「たとえ翻訳に多少誤訳があっても問題ではない」「文脈を読めば問題ないとわかるはず」として正当化してしまうところだと思います。
 道徳的に不道徳だとも思いますがそれ以前に政治的にナンセンスでしょう。
猊下が誤訳だと言ってるのにあなた方は何を言ってるの?」と問いただされたら、どう答える気なのやら。

*1:著書『殺劫(シャーチェ):チベット文化大革命』(2009年、集広舍)、『チベットの秘密』(王力雄との共著、2012年、集広舍)

*2:冗談でも皮肉でも何でもなく、本当に「(在家の会が紹介する)ダライの発言(と称するもの)が自殺賛美ではない」と思う「僧侶・在家の会」の考えは俺にはわけがわかりませんし「アホか」と思います