新刊紹介:「歴史評論」6月号

特集『第四七回大会報告特集/歴史における社会的結合と地域』
 詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。興味のある論文やうまく要約できた論文のみ紹介する。

■「日本国憲法平和主義原理の二つの側面」(和田進*1
(内容要約)
・「二つの側面」とは1)「日本の再侵略を予防するための拘束」と言う側面と、2)憲法九条を単なる「再侵略阻止」と見なすのではなく、平和主義的運動の根拠として発展させようという側面のことを意味している。
・1)、2)の側面から日本の政治潮流を区分けすると
ア)
1)、2)ともに評価する立場
 単に「過去の侵略戦争を再び行わない」だけでなく、より積極的に平和を求めていく立場。
イ)
1)といった面は評価する立場
 いわゆる保守本流がこの立場と思われる
ウ)
1)も評価しない立場
 この立場はそもそも過去の戦争を反省しているかどうか自体が疑わしい。「集団的自衛権容認」で「米国の戦争に参戦」しようとしている安倍がこの立場と言える。
 現状においてはウ)の立場を阻止していくことが急務であると言える。


■「沖縄から『平和憲法』を問い直す:構造的差別と抵抗の現場から」(新崎盛暉*2
(内容要約)
・米国が沖縄を統治下に置いたことにより、沖縄は「憲法九条」の枠外に置かれた。
 こうした沖縄への米軍統治への不満から『日本復帰論』が生まれ、1972年に沖縄は日本に復帰する。しかし沖縄に集中していた基地は減ることはなかった。この結果が今も続く沖縄基地問題である。


■「ペルー共和国憲法史と日本国憲法:『非西欧地域』との比較から」(川畑博昭*3
(内容要約)
 ペルー憲法史から日本国憲法を考えると言う事だが今ひとつ内容が良く理解できなかった。 


■「『聖なる飛礫』からモンテ・ディ・ピエタへ:中世ウンブリアにおける異宗教共存」(大黒俊二*4
(内容要約)
・中世西洋社会においては「キリスト教徒がマジョリティ(多数派)」で「ユダヤ教徒がマイノリティ(少数派)」であった。
・中世ウンブリア(イタリア中部)における、「ユダヤ教徒キリスト教徒の共存状態」とそれが崩壊する過程を本論文は述べている。
・中世のキリスト教においては「利子を取ること」が禁じられていた。しかしそれでは金融業が成り立たず、都市の発展に支障を来す。そのため本来対立する立場のユダヤ*5に「金融業をゆだね」、「利子禁止規定」を免れることとした。
 これについては厳格なキリスト教徒(フランチェスコ会厳修派)からは批判がされたが、当初はそうした批判は社会的影響力を持たなかった。
ユダヤ人に対するキリスト教徒側の複雑なスタンスを示す物として「ユダヤ人マーク着用」「聖なる飛礫」があげられる。
 「ユダヤ人は独自のマークを着用してキリスト教徒との違いがわかるようにすべし」という法令が、中世ウンブリアには存在した。
 しかし「金融業者としてユダヤ人を必要としたため」
1)「罰金を前払いすれば着用しなくてもいい」2)「体に着用さえすればその上に上着を着て隠してもいい」とする形で有名無実化していた。
 「聖なる飛礫」とは「聖週間*6の木金土曜日(聖三日)」には「キリスト教徒はユダヤ教徒の家に向かって石飛礫を投げてもいい」とする中世ウンブリアの法令のことである。
 ただし
1)石飛礫を投げることが許されるのは聖三日のみ
2)放火や暴行など石飛礫以外の行為は不可
3)こうしたルールを守らない物には厳罰、となっていた。
 ここからは「ユダヤ差別意識」が存在した物の、「現実的にユダヤ人金融を必要としたため」差別意識を一定程度の枠にとどめようとするキリスト教徒側の「配慮」があったと見ることが出来る。
・こうした「ある種の共存関係」が崩壊に至るきっかけとなったのが「モンテ・ディ・ピエタキリスト教徒による公益質屋)」の登場であった。


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・富永望*7昭和天皇退位論のゆくえ』(2014年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)
 終戦末期や戦後に存在した昭和天皇退位論(注:天皇制廃止論ではない)について
1)何故そうした論が主張されたのか
2)何故そうした主張を天皇本人、米国や支配層は採用しなかったのか、といったことを考えてみると言う事らしい。

亀田俊和*8南朝の真実:忠臣という幻想』(2014年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)
 副題「忠臣という幻想」からまあある程度内容の予想はつく。
 いわゆる水戸史学、皇国史観だと南朝の武将(楠木正成新田義貞名和長年など)はもうすさまじいまでに忠臣として美化されるわけだが、それに対する歴史学的突っ込みだろう。後で読みたい。
 読んだら感想でも書きたい。

参考
【明治以降の南朝の「忠臣」賛美について】

楠木正成(ウィキペ参照)
 江戸時代には水戸学によって、正成は忠臣として見直された。水戸藩の会沢正志斎*9久留米藩真木和泉*10は正成を神として祭祀することを主張し、慶応3年(1867年)には尾張藩徳川慶勝が「楠公社」 の創建を朝廷に建言した。その動きはやがて後の湊川神社の創建に結実し、他方で靖国神社などの招魂社成立に大きな影響を与えた。
 明治になり南北朝正閏論を経て南朝が正統であるとされると「大楠公」と呼ばれるようになった。
 明治13年1880年)には正一位を追贈された。また、戦死を覚悟で大義の為に逍遥と戦場に赴く姿が「忠臣の鑑」、「日本人の鑑」として讃えられ、修身教育でも祀られた。
 佩刀であったと伝承される小竜景光東京国立博物館蔵)は、明治天皇の佩刀となった。明治天皇日清戦争大本営が広島に移った時にも携えていたとされる。
 明治政府は、南朝の功臣の子孫に爵位を授けるため、正成の子孫を探した。正成の末裔を自称する氏族は全国各地に数多く存在したが、直系の子孫であるという確かな根拠は確認することができなかった。このため、新田氏、菊池氏、名和氏の子孫は男爵に叙せられたが、楠木氏には爵位が与えられなかった。その後、大楠公600年祭(昭和10年)を前後して楠木氏の子孫が確認され、湊川神社内に楠木同族会が組織されて現在に至っている。

楠木正行(ウィキペ参照)
 楠木正成の嫡男。「大楠公」と尊称された正成に対して「小楠公」と呼ばれる。
 明治維新尊王思想の模範とされ、その誠忠・純孝・正義に対し明治9年(1876年)に従三位を追贈された。明治22年(1889年)には殉節地の地元有志等による正行を初め楠木一族を祀る神社創祀の願いが容れられ別格官幣社として社号を与えられ、翌明治23年(1890年)に社殿が竣功し正行を主祭神とする四條畷神社が創建された。さらに明治30年(1897年)には従二位が追贈された。

名和長年(ウィキペ参照)
 明治19年1886年)には正三位昭和10年(1935年)には従一位を追贈されている。明治17年1884年)、長年の功をもって、末裔の福岡県名和神社宮司・名和長恭が男爵を授けられた。

南北朝正閏論(ウィキペ参照)
 戦前の皇国史観のもとでは、足利尊氏天皇に叛いた逆賊・大悪人、南朝の武将・楠木正成新田義貞を忠臣とするイデオロギー的な解釈が主流になる。1934年(昭和9年)には斎藤實*11内閣の中島久万吉商工相(政友会)が尊氏を再評価した雑誌論説「足利尊氏論」(13年前に同人誌に発表したものが本人に無断で転載された)について大臣の言説としてふさわしくないとの非難が起こり、衆議院の答弁で中島本人が陳謝していったん収束した。しかし貴族院菊池武夫議員(予備役陸軍中将、男爵、南朝の功臣菊池氏の子孫)が再びこの問題を蒸し返し、齋藤首相に中島罷免を迫った。これと連動して右翼による中島攻撃が激化し、批判の投書が宮内省に殺到したため、中島は大臣を辞任した。この事件の背景にはのちの天皇機関説事件につながる軍部・右翼の政党勢力圧迫があったとされる。

*1:著書「国民代表原理と選挙制度」(1995年、法律文化社)、「戦後日本の平和意識:暮らしの中の憲法」(1997年、青木書店)

*2:著書「現代日本と沖縄」(2001年、山川出版社日本史リブレット)、「沖縄現代史(新版)」(2005年、岩波新書)

*3:著書「共和制憲法原理のなかの大統領中心主義:ペルーにおけるその限界と可能性」(2013年、日本評論社

*4:著書「嘘と貪欲:西欧中世の商業・商人観」(2006年、名古屋大学出版会)

*5:教義で利子が禁じられていない

*6:キリスト復活祭に先立つ1週間のこと

*7:著書『象徴天皇制の形成と定着』(2010年、思文閣出版

*8:著書『室町幕府管領施行システムの研究』(2013年、思文閣出版

*9:彰考館総裁、藩校弘道館教授を歴任

*10:禁門の変蛤御門の変)に破れ自害

*11:西園寺、桂、山本内閣海軍相、朝鮮総督などを経て首相。内大臣在職中に、226事件で暗殺される。