三浦小太郎に突っ込む(2019年8月2日分)(追記あり)

平泉澄をいつかちゃんと読んでみよう | 三浦小太郎BLOG Blue Moon
 「つくる会理事(戦後版・皇国史観?)」という極右の三浦らしいですが今時、皇国史観の平泉*1を手放しで絶賛とは正気じゃないですね。
 大体三浦が得意げに紹介している

「日本国の国体*2は万国に冠絶*3せる国体であることは言うまでもない。」
「日本の国体を考える以上は、日本の歴史を考える以上は、真実にこの国体を守り奉らんが為に、この日本の歴史をして光あらしめんが為に吾々は何をすべきであるか、このことを深く考えるところなくしては、自分の責任においてこの国体を護り奉つるということを覚悟せずしては、真に日本の国体、日本の歴史を考えることはできないのであります」

という平泉の文章って小生的には噴飯物でしかないですが、笑い出したら三浦は「愛国心がない」「平泉先生に無礼だ」などといって激怒するんですかね(苦笑)。
 まあ小生も平泉には「三浦のようなウヨ」が絶賛するのとは別の意味で、つまり

「平泉以前にも歴史教育では『喜田貞吉*4が休職処分とされたいわゆる南北朝正閏問題』など、いろいろ右翼的な問題点があったが、平泉の登場によって何がどう変わったのか」
「平泉がどのように皇国史観を形成し、それが戦前の歴史教育や右翼運動(515事件、226事件のような右翼テロ、天皇機関説事件など)などにどのような影響を与えたか」
「戦後、平泉はどのような活動をし、それが戦後の右翼運動などにどのような影響を与えたか」
「平泉の弟子であり戦後、文部省教科書調査官を務めた村尾次郎*5や時野谷滋*6の与えた影響はどんなものか」

などについては興味がありますが。
 以前小生が読んだ本によれば、「村尾や時野谷が教科書調査官になったことが戦後も平泉の影響が教育界に及んだという意味では大きかった(村尾や時野谷の存在がなければ、戦後における平泉の影響はもっと小さかった)」「戦前よりむしろ戦後、平泉の教育界への影響が村尾や時野谷によって大きくなった(むしろ戦前、平泉の影響が強かったのは文部省よりも陸軍)」とのことですがどんなもんですかね。
 なんかいい本があれば読みたいとは思います。
 「平泉澄」「皇国史観」でググってヒットした

皇国史観
■昆野伸幸『近代日本の国体論:“皇国史観”再考』(2007年、ぺりかん社
■嵯峨敞全『皇国史観国定教科書』(1993年、かもがわ出版
■永原慶二*7皇国史観』(1983年、岩波ブックレット)
■長谷川亮一*8『「皇国史観」という問題:十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策』(2008年、白澤社)
平泉澄
■植村和秀*9丸山眞男平泉澄』(2004年、柏書房
■田々宮英太郎*10神の国と超歴史家・平泉澄:東条*11・近衛*12を手玉にとった男』(2000年、雄山閣
■若井敏明*13平泉澄』(2006年、ミネルヴァ日本評伝選)

の中に「三浦のようなウヨ的絶賛」とは違ういい本がないですかね。

【追記】
 ぐぐって見つけた平泉について触れてる文章をいくつか紹介しておきます。

平泉澄のこと : 風餐記
 丸山眞男*14は1938年に国史学担任であった平泉澄の授業を聴講し、後年その様子をこう述べている。
新田義貞後醍醐天皇への忠誠を話す時に澎湃(ほうはい)として涙をながすんですね(笑)、北畠親房と呼び捨てはダメ、必ず卿を付けねばいけない。皇室を中心にして忠臣と逆賊しかいない。「そういう『日本思想史』です」(笑)。』

「動物園の猿の子が、人になって生れてきた例がありますか」: 日夜困惑日記@望夢楼*15
 これ〔『古事記』及び『日本書紀』で、世界創造の時に最初に神が出現した、とされていること〕はすこぶる重要な点です。なぜかといえば、我々が動物から進化したとするか、または野蛮な人間から発達したとするか、いや発達ではなくて、堕落してきたものとするか、それとも神から出たものとするか、その出発点の相違は、その民族の宗教に、道徳に、政治に、重大な影響があるからです。簡単に進化論をうけとる人は、人は猿から発達したようにいいやすいのですが、猿はいつまで経っても猿です。動物園の猿の子が、人になって生れてきた例がありますか。猿は猿、人は人、別のものです。それを誤解して、猿こそ我々の先祖であるとすれば、祖先崇拝は出てきますまい。先祖の恩徳を感謝する厳粛な祭は行われますまい。我々日本民族は、その祖先は神であったと信じ、敬い、そして祭ってきたのです。すなわちその生活は、奉仕の態度であって、「つつしみ」「うやまい」を正しいとし、「おごり」「たかぶり」を善くないとしてきたのです。
平泉澄『物語日本史』(上)(講談社学術文庫、1978), p. 41. 強調は引用者による。〔……〕内は引用者註。
 そりゃあ、動物園の猿から人間の子が生まれるわきゃないわな。
 東大で彼に直接学んだ歴史家の中でも、彼の評価はそれこそ両極端で、くそみそにこき下ろす向き(中村吉治、北山茂夫*16色川大吉*17、永原慶二など)もあれば、非常に高く持ち上げる向き*18(平田俊春*19、村尾次郎、田中卓*20など)もある。
 それにしても、このくだりを見ると、どうやら平泉は進化論をろくに理解していなかったらしい。人間が直接猿から生まれた、なんてことは、そもそも進化論は主張していない(正しくは「人間と猿は共通の先祖を持つ」)。もっとも、よく読むと「簡単に進化論をうけとる人」とあるので、あるいは平泉としては間違った理解の例として出しているつもりなのかもしれないが。
 平泉の主張は、要するに、日本人は自らを神々の子孫だと考えてきたからこそ祖先崇拝をしてきたのであり、また謙譲の道徳精神も育ってきたのだ、ということであろう(ここから、道徳精神を植えつけるためには進化論よりも「神話」を優先して教えるべきだ、という主張が導き出される)。もっともらしいようにも聞こえるが、冷静に考えると穴だらけの議論である。自分が神々の子孫だと思っているからこそ傲慢になるのではないか、という意見だってあるだろう。始祖が猿だと考えられていれば祖先崇拝は行われないはず、というのもよく考えるとおかしな話である。たぶん彼の頭には、トーテミズムなどといったことは思い浮かばなかったのだろう。
 ついでにいうと、『古事記』でも『日本書紀』でも、人類の誕生についてはっきり述べている記述はどこにも見当たらない。確かに、天皇をはじめ神々の子孫であるとされている人間はいるが、だからといってすべての人間が神々の子孫だとされているわけではないのである。

 「戦後の著書で進化論否定」とはさすが平泉です(勿論褒めてない)。さすがに「天孫降臨が正しいんだ!」「天皇の先祖がサルのわけがない!」「進化論は天皇制否定だ!、共産主義だ!、反日だ!、非国民だ!」として進化論を否定する人は今や櫻井よしこのようなウヨですらほとんどいないでしょう。現天皇や現上皇*21(アマチュア生物学者)はもちろん昭和天皇(アマチュア生物学者)ですら進化論を否定しなかったんじゃないか(追記:『天皇陛下の私生活 1945年の昭和天皇』 | P+D MAGAZINEによれば昭和天皇の部屋には米国大統領リンカーン生物学者ダーウィンのブロンズ像があったそうです。「アマチュア生物学者の彼」がダーウィンを評価するのは分かりますが「リンカーン」てのは何なんですかね?。ちなみに山田朗*22昭和天皇の軍事思想と戦略』(2002年、校倉書房)によれば「ナポレオンのブロンズ像」もあったそうですがこれは「東南アジア、中国征服」を目指した彼が「ヨーロッパ征服を目指したナポレオン」を評価するのはよく分かります。皮肉にも「退位はしなかった」とはいえ、戦争に敗北し、政治権力を失い、彼もナポレオン同様、没落するわけですが。なお『天皇陛下の私生活 1945年の昭和天皇』 | P+D MAGAZINEによれば、「昭和17年4月29日、すなわち天皇誕生日の夜に天皇皇后と側近たちが「ミッキー*23捕鯨船」というアメリカ映画を鑑賞したことが記録されている」だそうです。太平洋戦争開戦後にディズニー映画を鑑賞というのも興味深い話です。こういうのをじゃあてめえら産経新聞社社員は、中国製品を使っていないのかという話になる - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)黒田勝弘は「昭和天皇は滑稽だ」というんでしょうか?(まあ言わないのでしょうが)。なおダーウィンについて言えば、結局「天孫降臨など嘘も方便」と昭和天皇も認識していたと言うことでしょうね。歴代ダライラマが「転生霊童などウソ」と認識していたのと話は同じでしょう)。
 「515事件の海軍青年将校226事件の陸軍青年将校」など戦前極右がどうなのかは知りませんが。
 平泉もかなりのキチガイです。さすがに平泉を美化する三浦のようなウヨもこういう話は「無視して存在しなかったことにする」んでしょう。
 ちなみに右田裕規天皇制と進化論』(2009年、青弓社)なんて本があるようですね。ググったところ戦前の「天皇制と進化論」の関係を書いた本のようです。進化論は平泉が言うようにどう見ても「天孫降臨」に矛盾する。とはいえ「進化論という科学思想を否定したらもちろん国がやってけない」。
 結果、戦前日本社会は「天孫降臨も正しいが進化論も正しい」と無茶苦茶な詭弁で国を運営していったわけです。
 「建国の父は否定できないが文革理論では国がやっていけない」ということで「毛沢東は建国の父で偉大です、しかしトウ小平が進めた改革開放も正しいのです(中国政府)」みたいな話ですね。
 あるいは「戦前日本を美化したいが、今、米国と敵対関係にはなれない」ということで「戦前日本の起こした太平洋戦争は何一つ間違っていません。アレは正義の戦争です。しかし日米同盟は永久に堅持します。日本と米国の価値観は共通します(産経など日本ウヨの多く)」みたいな話ですね。

ダーウィン生誕100周年の頃の日本――『天皇制と進化論』を書いて – web青い弓
 今年(ボーガス注:2009年)が(ボーガス注:ダーウィン)生誕200年ということは、1世紀前が生誕100周年である。和暦でいうと明治42年(1909年)になる。この1909年頃から、日本でのダーウィン人気は相当な高まりを見せた。マスコミがダーウィンの特集を組んだり、学界が記念行事を開いたり、ビーグル号と日本との関係にまつわる噂話で盛り上がったりと、やはりさまざまな企画で祝っている。昔も今も人間が考えることは変わらないと、そのようにもいえるだろうか。
  とはいえ、100年という時間は長い。1909年の日本人が、ダーウィンダーウィン進化論をどう受け止めたかは、当然ながら、2009年の日本人とは多少違っている。最大の違いは、進化論が「皇国史観」に反する「危険思想」として社会的に見なされていたという点である。天皇家や民族のルーツを神話の神々に求める「日本固有」の人類観を、真っ向から否定する科学理論。ダーウィン進化論は、そういう意味合いのもと、近代の日本社会に普及していった。
  とくに1900年代(明治40年代)は、皇国史観と進化論の対立にまつわる「事件」があれこれと起こり始めた時期である。皇国史観の信奉者が進化論批判をさかんに繰り出し、進化論の参考書が発禁処分をくらい、左翼運動家たちが(進化論から見た)天皇家の「真のルーツ」を暴露する内容のビラをばらまく、というようなことが、この頃から次々と起こり始めていた。そのなかでどうして1909年(明治42年)のマスコミや学界はダーウィンの生誕100周年を盛大に祝うことができたのか、不思議に思われるくらいである。
 『天皇制と進化論』では、それらの話も含めながら、皇国史観と進化論の対立の歴史を、当時の支配層の目線から追った。
 日本では、皇国史観ダーウィン進化論の対立をめぐって、実にさまざまな政治的ハプニングが生じていく。たとえば「現人神」がアマチュア生物学者としての道を進み、しかもそのことが社会的にも周知の事実になっているという、昭和初期に起こった不可解な事態もまた、その一つである。そういうハプニングの記録を集めた本として、ご一読いただければと思う。

 以上は、『天皇制と進化論』(2009年、青弓社)の著者・右田氏のブログ記事です。戦前日本が科学技術立国のため、進化論を否定できず、一方では進化論に矛盾する「天孫降臨伝説」を国家イデオロギーとしてきたことが分かります。

平泉澄と仁科芳雄と石井四郎: 日夜困惑日記@望夢楼*24
 平泉の専門は日本中世史で、軍事に関する専門的著作は特にないはずなのだが、平泉はこのインタビューの中で、陸軍士官学校での講義などを通じて軍人に自分の信奉者が多かったことを自慢げに述べ、「私は陸軍というものを鍛え直した」「陸軍が私を畏れ敬った」などと豪語する。

 実戦しておると、わしのところへくるよりほかはないわけです。米内[光政]*25さんなどは戦争に一ぺんも出たことがないし、岡田[啓介]*26さんも宇垣[一成]*27さんも実戦には出たことがない。実戦をやってみると彼らが地図で考えているようなものではない。下の人はみんな私によって動くというくらいの勢いなんです。それが海軍としては非常な不幸でしたね。陸軍は上層部もみな私を信頼してくださり、言っては悪いけれども東条[英機]さんでも小畑〔敏四郎〕さん*28でもそうですが、あとでいえば陸軍大臣阿南[惟幾]*29大将、これは入門願書を出されたんですよ、私に対して。それから下村大将が最後ですがね。手紙には最末の門人、下村定*30と書いてありますよ。全然態度が違うんです。[p. 76.]

 日露戦争(1904~05)中、岡田啓介装甲巡洋艦「春日」副長として日本海海戦などに参加しているし、米内光政も海軍中尉として駆逐艦「電」(いなづま)に乗り込んでいる。また宇垣一成も陸軍第八師団参謀として出征している。岡田は日露戦争のみならず日清戦争にも第一次世界大戦にも従軍した歴戦の将である。その三人を「実戦には出たことがない」と勝手に決めつけ、自分のほうが戦争のやり方をよく知っている、などと言い出すのだからまことに恐れ入る。むしろ、東條英機(1884~1948)以下陸軍上層部が、こんな程度の軍事知識の持ち主を「信頼」していたとすれば、そっちの方がはるかに問題だろう。
 いや、もちろん、平泉の回想が正確なら、という話だが。

 「米内、岡田といった海軍大臣よりも俺の方が軍事を分かってる」「俺を評価した陸軍は立派だが評価しなかった海軍はダメだ*31」「東条、阿南、下村と言った歴代陸軍大臣は俺に一目置いていたんだ!」と公言する平泉は完全に気が違ってますね。さすがに平泉を美化する三浦のようなウヨもこういう話は「無視して存在しなかったことにする」んでしょう。

「皇国史観」平泉澄 晩年のインタビューのエピソード オーラルヒストリーは大変という話 : 筆不精者の雑彙
平泉澄
「私はプロレスが好きでね。猪木*32がさんざん負けて、これはあかんかと思うと、彼は逆転する。それは何とも言えぬ楽しみですわ。それはどんなに負けても最後の一戦で勝てば、終わりよければ万事よしなんです。それで(ボーガス注:人間魚雷)回天*33でも何でも一生懸命やった。」
 平泉先生に誰も、プロレスは演出だということを突っ込まなかったのでしょうか。平泉はインタビューの続きを読むと、「ワシの言うことを聞かなかったから日本は負けた」くらいの勢いですが、プロレスをガチと思い込むような精神で国を指導されては、敗戦はまぬかれないでしょう。
 十年ぐらい前に聞いた小生もいまだに忘れられない話なので、ここに記しておきます。これは、当時九州大学教授だった有馬学*34先生が、東大の集中講義の際にされた話で、聞いたものはみな講義の内容は忘れてもこの話は忘れられなかったというものです。
 それは、伊藤隆*35先生が大学院生を何人か手伝いに連れて、はるばる石川県*36平泉澄をインタビューに訪れたときのことでした。伊藤先生一行に会った平泉は開口一番、こういったそうです。
「わたくしが日本を指導しておりましたときの話をいたしましょう」
 ちょっと待て。お前が指導しとったんかい!と伊藤先生は平泉の吹きぶりに内心呆れたそうですが、そこは抑えてインタビューを始めました。とにかく録音を続けていました。そして話が佳境に入ったとき、平泉が突然「録音を止めてください」と言い出しました。
 平泉は突然日本刀を抜き放ち、こうのたもうたそうです。
大和魂とは、これです!!」
 少なくとも晩年の平泉は、どこか精神の平衡に問題を抱えていたのではないかと思わざるを得ない話ではあります。
 で、すっかり呆れ返った伊藤先生に対し、お供の院生はあまりの展開におかしくてたまらなかったのか、日本刀を抜いた平泉を記念撮影しようとしたそうです。
 院生「先生、もうちょっとこっち向きに」
 平泉「おお、こうか」
 平泉は結構満更でもない様子だったそうで、やはり教育者として若い者には優しかったのか。いや、単に受けて嬉しかっただけなのかもしれませんが、その辺はもはや分かりません。

平泉澄「この刀によって私は陸軍というものを鍛え直した」: 日夜困惑日記@望夢楼*37
 先日、国立国会図書館に行ったついでに伊藤隆氏の回想録『日本近代史:研究と教育』(私家版*38、1993年1月序)を確認してみたところ、平泉澄インタビューについての記述が出てきたので、その箇所を紹介しておく(伊藤氏は当時、東京大学文学部助教授。[…]内は引用者註。強調は引用者による。以下同じ)。

 [昭和]五三年度[1978]は、斯波義慧氏や茅誠司*39・元(ボーガス注:東大)総長などの聞き取りを行い、また福井県まで出張して、平泉澄氏の聞き取りを行った。平泉氏はとにかく権威主義で、満洲事変以後について話されたときに、「これから私が日本を指導した時代についてお話します」と始まったのにはやりきれなかった。また陸大での講義の時に「これが大和魂である」と言って日本刀をすらりと抜いてという話の際に、予め奥さんに用意させていたらしい日本刀を実際に我々の目の前で抜いて見せたのには私は鼻白む思いであった。しかし酒井氏[酒井豊=当時、東京大学百年史編集室員]を初め若い諸君は面白がって、酒井氏などは「先生ちょっとそのまま」とか言って、平泉氏もポーズをとり、写真撮影をしたが、これも私には予想外の出来事であった。二日間正座で聞かねばならぬ「お話」が終わってお茶になった時に、奥さんが「主人は血圧が高いのに、テレビのプロレスが好きで困ります」という話をされ、私が平泉氏に「どうしてプロレスがお好きですか」と開いたら、「隠忍に隠忍を重ねて、最後にパッと相手を倒すという所が日本精神に通じる」と答えたので、私はその稚気に溜飲が下がったような気がした。とにかくこれまでにない奇妙な聞き取りであった。[伊藤隆『日本近代史:研究と教育』私家版、1993年序, pp. 293-294.]

 この場面、当のインタビューでは次のようになっている。なお、平泉が陸軍士官学校での初講義を行ったのは、1934年(昭和9)4月16日である(若井敏明『平泉澄ミネルヴァ書房、2006年, pp. 209-210)。

 そのときに私は刀を持って行った。大刀をひっさげて行って、東条さん[東條英機=当時、陸軍士官学校幹事]にちょっと会釈をして壇にのぼり、演壇上に刀を置いて話を始めた。
 この刀は終戦後、人に預けてこちらへ帰ったものだから、預かってくれた人が進駐軍を怖がって、これを土中へ隠した。それで刀が少し崩れましたわい。文久二年十二月[1863年1~2月]、二尺五寸[約 75.8cm]、大刀ですわ。これをひっさげて行ったんです。そして壇上でこれを抜いた。陸軍よ、この刀のごとくにあれ。第一に強くあれ、戦争に負ける陸軍を見たくはない。戦えば必ず勝てり。いかなるものでも手向うものをたたき斬るその力を持て、弱き陸軍をわれわれは見る気がしない。この刀は何ものをもたたき斬るんだ。その武力を持て。第二に陸軍よ、その武力をなんじの私の意思によって発動するものではないぞ。陛下の勅命によって動け。私の意思を遮断するこの刀を見よ、ここに「山はさけ海はあせなん世なりとも君にふたごころわがあらめやも。」これは将軍[源]実朝の歌ですが、すべては陛下によって決する、それ以外私の意思によって動かしてはならん。それはみんなが何とも言えぬ驚きだったんです。
 当時はみんな陸軍を恐れておった。五・一五や満州事変からあとはそうでしたが、その陸軍に対して大喝一声これをやった。この刀によって私は陸軍というものを鍛え直した。世間の知らんものは、私が陸軍と結託し、また阿諛して威張っているようなことをいう。そんなものではない。陸軍が私を畏れ敬った。
 これは土中に置いたために刃が崩れたんですが、明治維新直前の日本精神の生粋ですわ。文久二年というちょうどそのときが。この刀自体はたとえ刃が少し欠けても、歴史的な意味では昭和の日本史の中で重要な働きをしたんですよ。[「平泉澄氏インタビュー(5)」『東京大学史紀要』第18号、2000年3月, p. 65.]

 「83歳の老人が、遠くからわざわざ昔話を聞きに来てくれた、自分の孫ぐらいの年配の後輩たちに向かって、思い出の日本刀を抜き出して見せて自慢した」というのは、なんとか笑い話で済ませてもよさそうだが、「39歳で博士号を持つ東京帝国大学助教授が、陸軍士官候補生たちの前で、抜き身の日本刀を構えて『陸軍よ、この刀のごとくにあれ』と大見栄を切ってのけた」というのは、さすがに笑えない。
 また「日本を指導した」云々であるが、それに近い発言もインタビュー中に登場する。
 平泉澄は1932年(昭和7)12月5日、昭和天皇に「楠木正成の功績」という題目で進講を行った。この内容について、原田熊雄『西園寺公と政局』(1936年8月7日)には、湯浅倉平*40内大臣(1874-1940, 在任1936-40)が「後醍醐天皇を非常に礼讃して、いかにも現実の陛下に当てつけるやうな話し方」で「陛下はあんまりおもしろく思つておいでにならなかつたらしい」と語っていた、とある。もっとも、湯浅は「木戸[幸一]も「実につまらないことを申上げたものだ」と言つてをつた」と語っていたというが、当の『木戸幸一*41日記』(1932年12月5日)には、木戸自身は「感銘深く陪聴した」とある(以上、若井『平泉澄』, pp. 198-201 参照)。少なくとも、原田熊雄や湯浅倉平あたりからは煙たがられていたが、湯浅(ボーガス注:内大臣)の後任者である木戸幸一(ボーガス注:内大臣)からは好意的に見られていたようだ。それはともかく、その後の状況について、平泉は以下のように語っている。

 ところが、これが世の中に与えたのは、とにかく平泉というものが非常に重いものになってしまった。陛下の御前に呼び出されたことによって非常に重くなった。大ぜいの陪聴者がそれぞれの感銘を持って帰って、何かの機会にむしろ喜んで話をしたでしょうね。宮中のことは外へもれないはずなんだけれども大体のことがもれてしまった。
 そこで今度はみんな私の話を聞きたいという。宮中のことは別にして、どういうふうに考えるか、日本はどうなるんだ、どうすべきかということを、みんな尋ねてくるようになった。そこで初めて私は本格的に働けるようになったんです。実質上、日本の指導的な地位に立ち得たんです。[…]日本中そのときはどうしていいかわからなかったわけです。政治、軍事、教育、学問、どういう方向にいったい日本は向かうべきであるのか、だれも見当がつかない。それをこうだということを、私が確信を持って断定し得る力は、ドイツ、フランスで養われたし、そしてそれを言い得る地位は実は陛下によって与えられた。陛下が与えてくださったご意思ではないにせよ、実質上はそこにおいて私がそういう立場を確保した。[「平泉澄氏インタビュー(5)」『東京大学史紀要』第17号、1999年3月, p. 122.]

 よく考えると、要は「御進講がきっかけで名が知られ、話を聞きに来る人が増えた」という話である。が、これが平泉の解釈では「日本の指導的地位に立った」ということになるらしい。
 こういうと誇大妄想めいて聞こえるのだが、ただ、平泉が政界や軍の上層部と親しかったのは事実で、特に近衛文麿からはブレーンの一人として扱われていた節がある(この辺りの事情についても、若井『平泉澄』を参照)。『西園寺公と政局』では、「平泉といふ人はもう学者仲間からはまるで相手にされないで、今は或る程度まで実際の政治活動に携はつてゐるといふことである」などと言われているが、具体的に何をやっていたのかは、いまひとつよくわかっていない。もっとも、海軍条約派*42岡田啓介・米内光政・井上成美*43といった面々からは嫌われていたらしく、また内務省・文部省方面とも疎遠*44で、そのため教育への影響力も限定的であったのであるが。

 回天を美化するわ、「俺が日本を指導してた」と言い出すわ、いきなり、日本刀を抜き「これが大和魂だ!」と言い出すわ、「プロレスは日本精神に通じる」と言い出すわ、ここまで酷いと「年老いて認知症でも患っていたのか」と疑いたくなります。
 伊藤隆って後につくる会理事やるような輩なんで明らかにウヨなんですけどね。その伊藤ですら平泉のトンデモ右翼にはついていけなかったわけです。
 つうか俺がその場にいたら「呆れたり怒ったりする前に」あまりの馬鹿馬鹿しさに我慢できずに吹き出してますね。まさに「笑ってはいけない平泉澄インタビュー24時(ダウンタウンの大晦日番組風に)」です。
 あるいは小生の年代(1970年代生まれ)ですと「ドリフのコントかよ!」ですね。さすがに平泉を美化する三浦のようなウヨもこういう話は「無視して存在しなかったことにする」んでしょう。

「皇国史観」平泉澄 晩年のインタビューのエピソード オーラルヒストリーは大変という話 : 筆不精者の雑彙
 平泉についてのエピソードは以前から様々に語り伝えられてきておりますが、おそらくもっとも有名なのは、門下の学生だった中村吉治*45が平泉に「百姓の歴史をやりたい」と言ったら、「百姓に歴史がありますか。豚に歴史がありますか」と言われた、というものでしょう。

読書ノート・・・阿部 猛 『太平洋戦争と歴史学』
 卒論で「戦国時代*46のことをやるつもり」で相談にきた学生に、「百姓に歴史はありますか」と平泉は聞き、不意をつかれた学生が黙していると、平泉氏はさらに「豚に歴史がありますか」と聞いたという(中村吉治『老閑堂追憶記』刀水書房)。

昔理科少年迷走記
 社会史家、中村吉治(1905-86)の学生時代の思い出に次のような一節があるという。
 「卒業論文に農民史をやりたいと決めて、指導教授のところへ行き、腹案を述べたところ、先生はまことに冷然として、しばらく沈黙ののち、『百姓に歴史がありますか』と一言。これにはとまどって何もいえない。すると冷笑の見本のように唇を動かして、『豚に歴史がありますか』ときた。わたしは黙っていた」
 これは昭和三年、東京帝国大学でのことで、先生というのは、その後「皇国史観」で有名になった平泉澄である。中村氏は、そういうことを言われて、かえってやる気になったという。

 「百姓(農民)を豚扱いするのか!」ということで「平泉逸話」として非常に悪名高い話ですね。

なぜ、平泉澄は室町時代を「つまらぬ時代」と見なしたのか | 玲瓏透徹
皇国史観の代表的な歴史学者とされる平泉澄は、室町時代を「つまらぬ時代」と評価した。
 石原比伊呂氏は著書『足利将軍と室町幕府』(戎光祥出版、2018年)で、平泉の室町時代否定の言葉をいくつか引用したうえで、「平泉氏の立場からすれば、足利将軍家とは在位している天皇後醍醐天皇)に楯突いた逆臣であり、室町時代とは、そのような逆臣が幅を利かせた時代、あってはならない時代だったのである」(7~8頁)と述べている。
・平泉の室町時代批判は、足利氏批判と重なっている部分が多いため、まずそこから説明する必要がある。平泉の足利氏批判の理由については、以前の記事「平泉澄はなぜ足利尊氏・直義を全否定したのか」で詳述したので再びは繰り返さず、要所だけ見てゆこう。

 彼らには道徳がなく、信義がなく、義烈がなく、情愛がないのです。あるものは、ただ私利私欲だけです。すでに無道であり、不信であり、不義であり、非情であれば、それは歴史においてただ破壊的作用をするだけであって、継承及び発展には、微塵も貢献することはできないのです。(248~249頁)

・平泉の室町時代への低評価は、「吉野時代」(南北朝時代)への高評価とコインの裏表をなしている。その比較によって、平泉は室町時代の無価値さを浮き彫りにしたのである。それを次に引用しよう。
「吉野時代は、苦しい時であり、悲しい時でありました。しかしその苦しみ、その悲しみの中に、精神の美しい輝きがありました。日本国の道義は、その苦難のうちに発揮せられ、やがて後代の感激を呼び起こすのでありました。これに反して室町の百八十二年は、紛乱の連続であり、その紛乱は私利私欲より発したものであって、理想もなければ、道義も忘れ去られていたのでした」(245頁)
・吉野時代は(ボーガス注:楠木正成名和長年新田義貞など?)忠臣が「日本国の道義」を発揮して「後代の感激」を呼び起こした、日本史上、極めて価値のある時代である一方、室町時代は「私利私欲」から発した「紛乱」の連続であり、「道義」と「理想」が忘れ去られた時代であるとする。
 特に注目すべきは、「足利の一色に塗られた室町時代」という評価である。ここでいう「足利の一色」とは、足利尊氏の行動様式に代表される、「理想」や「道義」を持たず、「私利私欲」のために生きるという生き方を指しているといってよいだろう。いうなれば室町時代とは、武士が皆、「足利氏化」した時代であり、それゆえに価値がないと見なしたと結論づけてよい。
 このように、平泉は室町時代を、「足利氏化」した武士たちが、「理想」「道義」を持たず、「私利私欲」のためだけに紛争を繰り返しただけの時代であるからという理由で否定したのである。

 この記事が事実なら、平泉が歴史学に思い切り「道徳的価値判断」を持ち込んでることが分かります。
 しかもその判断は「北朝(足利氏)は私利私欲まみれだが、南朝は清く正しく美しい」「しかしそんな南朝が苦しみ、北朝が繁栄した室町時代はくだらない時代だ」という「南朝は清く正しく美しいて、それ明らかに事実じゃねえだろ?」つう代物です。
 まあ、南朝びいきの平泉らしいですが。

読書ノート・・・阿部 猛 『太平洋戦争と歴史学』
 彼が右翼ファシストへと転落するきっかけは海外数カ国への訪問だった。平泉は洋行からの帰朝歓迎会の席上、「日本人は外国で非常に馬鹿にされている。それに対抗する道は一つしかない。”大和魂をみがけ”この一語に尽きる」と宣言する(石井孝*47歴史学研究 戦前期復刻版』第3号月報)。

読書「物語日本史」平泉澄 ( 人類学と考古学 ) - ネットから世界を考える - Yahoo!ブログ
・平泉さんは、若い頃はアジールの研究などやったりして、当時としては最先端の学者でした。ということを網野善彦*48先生なんかは褒めているわけです(ということを網野先生の甥の中沢新一さんの本*49で読んだ)。ところが、どうもヨーロッパに留学した時におかしなことをいいだしたらしい。石井孝という方の回想によると、「(前略)平泉澄氏が洋行を中途で切りあげて帰ってきたことだった。本郷三丁目の交叉点の東大寄りにあった明治製果で帰朝歓迎会がもたれた。席上、彼はこう宣言した。 「日本人は外国で非常に馬鹿にされている。それに対抗する道は一つしかない。“大和魂を磨け”この一語につきる」と。これは平泉氏が皇国史観へ転換する明確な宣言であったといえよう。」と歓迎会の席上でいって、これからガチな右翼になっていきます。
・「物語日本史」を見ると、意外とまともなんですよ。
 意外とまともだなと思ったのが以下の二点。
1、
 建国を紀元前660年にしたのは中国の讖緯説という迷信によって当時の人がとってつけたような年を考えたのだろう、古事記日本書紀をそのまま信じるには無理がある。中国の正史「宋書」には西暦421年に十六代仁徳天皇が使いを送ったことが出ているから、一世代三〇年として四五〇年前の紀元前二九年あたりが神武天皇日本建国の時ではないだろうか?
 これは驚いたのですが、古事記日本書紀でも信用出来ないところは信用していないんですね。
(以下略)

・「海外の差別体験」で平泉が極右になった*50のだとしたら「なんだかなあ」ですね。まあ、松岡洋右*51が右寄りになったのも「洋行が影響してる」なんて説もありますしこういうことは珍しくないのでしょうが。
皇国史観の平泉というと「神武即位は紀元前660年!」というかと思いきや違うそうです。

若井敏明『平泉澄』 - martingale & Brownian motion
 平泉は、日本の歴史を概観して「わが国は天皇の親政をもって正しいとしたことは明瞭であります」と断言し、さらに「わが国は民主の国ではございませんでして、あくまで君主の国であって、ただその君主の目的がその君主の目標が民本の政治をおとりになった」ことに重大な点を認め、それを法文に明記したのが明治憲法であるという。いっぽう「マッカーサー憲法」は「外国の暴力による強制」であって、「このまま行はれてゆくといふことでありますならば、国体は勢い変らざるを得ない」。したがって、「マッカーサー憲法」を破棄し、明治憲法を復活してこそ、日本の国体は明確になると論じた。
 講演のなかで平泉は、「マッカーサー憲法」下で国体が変動していく実例として、歴史教科書をあげ、「それらは根本において共産主義の歴史理論を採用し、日本人でありながら祖国の歴史を侮辱し、嫌悪し、罵詈雑言してをるのであります」と非難して、歴史教育についての危機意識を明言している。この発言との因果関係は明らかでないにせよ、このころから教育、とくに歴史教育でのいわゆる「逆コース」が顕著になるのは注目すべきことである。具体的には、1955年に民主党が『憂うべき教科書問題』というパンフレットを発行したあと、文部省は1956年から視学官制度、教科書調査官制度を設定した。そしてこの時期、文部省には平泉門下の人々がはいって活動するようになった。教科書調査官には、平泉のもとで国史学研究室の助手をつとめていた村尾次郎、視学官には鳥巣通明*52が着任した。それに山口康助*53教科書調査官をあわせて、彼らは文部省の(ボーガス注:平泉一派)三羽烏と呼ばれた。同じ1956年、教育委員会は(ボーガス注:公選制から)任命制にかわり、そのもとでこの年、教員の勤務評定が実施されることとなった。これが日教組の反発を招き、いわゆる勤評闘争が戦われることおとなった。そのようななか、各地の教育委員には平泉門下が任命され、日教組と対立する場面もみられるようになったのである。

 改憲どころか「明治憲法の復活」を唱える平泉が極右であることは言うまでもないでしょう。しかし「明治憲法の復活」は自民党ですらさすがに採用することはありませんでした。
 なお、「文部省教科書調査官・村尾次郎、山口康助、視学官・鳥巣通明」と平泉の息のかかった右翼が三人も文部省に送り込まれたことを考えれば、むしろ戦前よりも戦後において平泉一派は文部行政に対して、強い力を保有したのかもしれません。
 むしろ平泉は戦前においては「陸軍に主たる政治力を保有していた」ように思います。

平泉澄と沖縄・北海道 | 玲瓏透徹
■はじめに
 皇国史観の大家として知られる歴史学者平泉澄は、戦後に『物語日本史』という日本通史を著した。この書物では、沖縄・北海道に関しての言及が少ない。この記事では、その少ない記述を拾い、平泉澄の沖縄観・北海道観を確認し、なぜ特に沖縄の記述が少ないのかを検討する。なお、引用については、断りがない限り『物語日本史』である。
■1、北海道への言及
 平泉が北海道に関して初めて言及するのは、古代の阿倍比羅夫による遠征である。
『我が海軍は、阿倍比羅夫にひきいられて、日本海を北上し、秋田・能城・津軽を平定して渡島(北海道)に進み、その地の人々を苦しめる粛慎(沿海州)の異民族を征伐したので、北地の人々は喜んで朝廷にお仕えしました。』(上巻111頁)
『東北地方は、前々から熱心に開拓が続けられてきましたが、天智天皇の御代に阿倍比羅夫の勇敢なる征伐が、北海道まで進み、沿海州まで討つという勢いでしたから、日本海の沿岸は、かなり奥まで平定されましたが、太平洋岸の方はなかなか困難が多く(後略)。』(上巻176頁)
(中略)
 この次に北海道への言及が現れるのは、西暦1800年前後のロシアと日本の接触に関する叙述においてである。1800年近藤重蔵最上徳内択捉島に「大日本恵土呂府」の標柱を立てたことを述べた後に、「そのころまで、蝦夷一帯、すなわち北海道、千島、樺太は、松前藩の所管でありました」(下巻107頁。以下、断りがない限り下巻)という記述がある。
(中略)
 北海道に関する言及は以上である(戊辰戦争での函館の戦いへの言及が153頁にあるが、そこでの記述に地名以上の意味はない)。アイヌの存在、コシャマインシャクシャインの蜂起には一切言及されず、かつ近代における開拓についても述べられていない。古代に日本に帰属した以上、アイヌといえども「日本」の民であり、それである以上、アイヌの指導者の蜂起は言うに足らない数々の地方騒擾の一つ程度にしか認識されていなかったとしても不思議ではない。
■2.沖縄への言及
 平泉の沖縄への言及は北海道以上に少ない。琉球王国の存在や島津家久琉球侵攻には一切触れられず、明治の「琉球処分」への言及もない。沖縄に関する唯一の記述は、次の通りである。
『日清・日露の両戦役に大勝利を得て、国威は隆隆とあがり、北は千島・樺太、南は台湾・沖縄、そして西は朝鮮・満州に至るまで、日本の権益は延びたのでした。さきには世界に知られない小国でした。後には世界最強の国の一つとなりました。かようなめざましい発展向上は、国民すべての一致協力、粉骨砕身の努力によること、いうまでもありませんが、しかもその根本は実に明治天皇に対する国民の感激にありました。』(188頁)
 ここで平泉は、沖縄を「台湾」「朝鮮」といった植民地と並べて述べ、「国威」を盛んにした日本の勢力圏の一部として言及している。そしてこの叙述は、国民の明治天皇への「感激」に収斂されている(この引用の続きには明治天皇の「御心」や崩御への国民の悲しみが述べられる)。いうなれば、明治天皇の徳とそれへの国民の敬服を証明するものとして日本の国権伸長が述べられ、沖縄はその勢力範囲として言及されるのみなのである。唯一の言及以降、沖縄戦や米軍による沖縄占領への言及もないまま、『物語日本史』は擱筆される。
■3、なぜ沖縄への言及が限りなく少ないのか
 以上、平泉澄の北海道・沖縄への記述を確認した。北海道は東北と同じように日本の領土であるという認識である一方、沖縄は台湾や朝鮮と並んで新規獲得した勢力圏のように描かれている。前者には「日本」に獲得される経緯への言及はあるが、後者についてはその言及がないまま突然日本の勢力圏として登場する。
 沖縄は独自の政治史や伝説を持ち、14世紀には琉球王国という統一国家を形成して琉球処分に至るのは周知の通りである。また、北海道のように、朝廷に帰順することで「日本」の一部としての「歴史」を持つことは近代に至るまでなかった。以上を一言でいえば、(ボーガス注:平泉によって)実質的に沖縄は「外国」と認識されていたといっても大きく外れてはいないだろう。
 そのためには、まず平泉の「国史」観を避けて通るわけにはいかない。
『かくて歴史は、自国の歴史に於いて、我れ自らその歴史の中より生まれたる祖国の歴史に於いて、真の歴史となり得るものである事は、今や明らかであらう。我が意志によりて組織し、我が全人格に於いて之を認識し、我が行を通して把握するが如きは、祖国の歴史にあらずんば、即ち不可能である。祖国の歴史にして始めて古人と今人の連鎖、統一は完全である。古人はここに完全に復活し来る。
(中略)
 革命や滅亡によって、国家の歴史は消滅する。中興により維新により、国家の歴史は絶えず生き生きと復活する。』
 (平泉澄国史学の骨髄』12頁~14頁)
 以上の記述を、沖縄について教条的に当てはめれば、次の通りになろう。”まず、琉球王国やさらにその前史は平泉にとって外国の歴史であり、真に体得することもできない。そして、琉球王国は滅亡しているので、そもそも「国家の歴史」が消滅している。つまり、以上の二重の意味で平泉には沖縄の「歴史」を語り得ず、沈黙するしかない”と。
■おわりに
 『物語日本史』において、平泉は北海道を古代に天皇に帰順して「日本」になったと見なしており、あくまでも日本の一地方として扱った。彼にとって北海道は日本の一地方として、東北と同じように、古代から日本と「歴史」を同じくする土地だったのである。日本の民衆について特に語らなかったのと同じように、あくまで「日本」の地方民であるアイヌについても言及することはなかった。一方、沖縄については、日本に編入された経緯への言及もないまま、明治末期の日本の版図の一部として、植民地と同列に近い言及に留まった。北海道とは異なり、「真の歴史」を持つ日本と歴史を同道したものとしては沖縄を見ていない。
 また、『物語日本史』の最初の形である『少年日本史』が出版されたのは1970年であり、(ボーガス注:1972年の)沖縄の日本返還前であることにも注意を要するであろう。まだ沖縄がどうなるか確定していない以上、沖縄の人々を「日本国民」として包摂した形の「真の国史」を構想する喫緊の必要性はなかったといえる。

 以上の指摘が事実ならば、明らかに平泉の沖縄への態度は極めて差別的な物と言っていいでしょうが、この点、三浦らウヨはどう評価するのか。

*1:1895~1984年。戦後、右翼結社「日本を守る国民会議」の結成に際して、発起人として参加している。著書『物語日本史(上)(中)(下)』(講談社学術文庫)など(ウィキペディア平泉澄」参照)

*2:国民体育大会」の略ではなく「国家体制」の略。この場合、天皇制という意味。

*3:群を抜いてすぐれていること

*4:1871~1939年。著書『被差別部落とは何か』(河出文庫)、『賤民とは何か』(ちくま学芸文庫)など

*5:1914~2006年。「日本の建国を祝う会」会長、日本会議代表委員も務めた。著書『律令財政史の研究(改訂版)』(1961年、吉川弘文館)、『桓武天皇』(1963年、吉川弘文館)、『教科書調査官の発言』(1969年、原書房)など(ウィキペディア「村尾次郎」参照)

*6:1924~2006年。著書『大化改新』(1966年、日本教文社)、『律令封禄制度史の研究』(1977年、吉川弘文館)、『家永教科書裁判と南京事件』(1989年、日本教文社)、『飛鳥奈良時代の基礎的研究』(1990年、国書刊行会)など(ウィキペディア「時野谷滋」参照)

*7:1922~2004年。一橋大学名誉教授。著書『源頼朝』(1958年、岩波新書)、『日本封建制成立過程の研究』(1961年、岩波書店)、『新・木綿以前のこと』(1990年、中公新書)、『日本中世の社会と国家(増補改訂版)』(1991年、青木書店)、『室町戦国の社会:商業・貨幣・交通』(1992年、吉川弘文館)、『中世動乱期に生きる:一揆・商人・侍・大名』(1996年、新日本出版社)、『荘園』(1998年、吉川弘文館)、『「自由主義史観」批判』(2000年、岩波ブックレット)、『歴史教科書をどうつくるか』(2001年、岩波書店)、『20世紀日本の歴史学』(2003年、吉川弘文館)、『苧麻・絹・木綿の社会史』(2004年、吉川弘文館)、『戦国時代』(2019年、講談社学術文庫)など

*8:著書『地図から消えた島々:幻の日本領と南洋探検家たち』(2011年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『教育勅語の戦後』(2018年、白澤社)

*9:著書『「日本」への問いをめぐる闘争:京都学派と原理日本社』(2007年、柏書房)、『昭和の思想』(2010年、講談社選書メチエ)、『ナショナリズム入門』(2014年、講談社現代新書)、『折口信夫』(2017年、中公新書) など

*10:1909~2004年。著書『権謀に憑かれた参謀辻政信:太平洋戦争の舞台裏』(1999年、芙蓉書房出版)

*11:1884~1948年。関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣、首相を歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀。

*12:1891~1945年。貴族院議長、首相を歴任。戦後、GHQに戦犯指定されたことを苦にして自決。

*13:著書『邪馬台国の滅亡:大和王権の征服戦争』(2010年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『仁徳天皇』(2015年、ミネルヴァ日本評伝選)、『「神話」から読み直す古代天皇史』 (2017年、洋泉社歴史新書y)

*14:著書『日本の思想』、『「文明論之概略」を読む(上)(中)(下)』(岩波新書)、『忠誠と反逆』(ちくま学芸文庫)など

*15:『「皇国史観」という問題:十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策』(2008年、白澤社)の著者・長谷川亮一氏のブログ記事です。

*16:1909~1984年。元立命館大学教授。著書『柿本人麻呂論』、『女帝と詩人』、『日本古代内乱史論』(以上、岩波現代文庫)、『女帝と道鏡天平末葉の政治と文化』、『平将門』(以上、講談社学術文庫)、『天武朝』、『平安京』(以上、中公文庫)、『大伴家持』(平凡社ライブラリー)など(ウィキペディア北山茂夫」参照)

*17:1925年生まれ。東京経済大学名誉教授。著書『明治精神史(上)(下)』(岩波現代文庫)、『近代日本の戦争』(岩波ジュニア新書)、『昭和史と天皇』(岩波セミナーブックス)、『自由民権の地下水』、『明治の文化』(以上、岩波同時代ライブラリー) 、『自分史:その理念と試み』、『民衆史:その100年』(以上、講談社学術文庫) 、『定本 歴史の方法』(洋泉社MC新書)など(ウィキペディア色川大吉」参照)

*18:まあ平田など平泉支持者は全て極右ですから。まともな歴史家扱いできる連中ではありません。

*19:1911~1994年。防衛大学校名誉教授。著書『日本書紀建国記念日』(1967年、アルプス社)、『日本の建国と2月11日』(1967年、甲陽書房)、『明治軍隊の建設と軍人勅諭』(1970年、アルプス社)、『南朝史論考』(1994年、錦正社)など(ウィキペディア「平田俊春」参照)

*20:1923~2018年。皇學館大学名誉教授。著書『皇国史観の対決』(1984年、皇學館大學出版部)、『伊勢神宮式年遷宮』(1987年、皇學館大學出版部)、『愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか』(2013年、幻冬舎新書)など(ウィキペディア田中卓」参照)

*21:確か秋篠宮も「アマチュア生物学者」だったかと思います。

*22:著書『昭和天皇の戦争指導』(1990年、昭和出版)、『大元帥昭和天皇』(1994年、新日本出版社)、『軍備拡張の近代史:日本軍の膨張と崩壊』(1997年、吉川弘文館)、『歴史修正主義の克服』(2001年、高文研)、『護憲派のための軍事入門』(2005年、花伝社)、『世界史の中の日露戦争』(2009年、吉川弘文館)、『これだけは知っておきたい日露戦争の真実:日本陸海軍の〈成功〉と〈失敗〉』(2010年、高文研)、『日本は過去とどう向き合ってきたか』(2013年、高文研)、『近代日本軍事力の研究』(2015年、校倉書房)、『兵士たちの戦場』(2015年、岩波書店)、『昭和天皇の戦争:「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』(2017年、岩波書店)、『日本の戦争:歴史認識と戦争責任』(2017年、新日本出版社)、『日本の戦争Ⅱ:暴走の本質』(2018年、新日本出版社)、『日本の戦争III:天皇と戦争責任』(2019年、新日本出版社)など

*23:もちろんミッキーマウスのこと

*24:『「皇国史観」という問題:十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策』(2008年、白澤社)の著者・長谷川亮一氏のブログ記事です。

*25:1880~1948年。林、第一次近衛、平沼、小磯、鈴木、東久邇宮、幣原内閣海軍大臣、首相など歴任。

*26:1868~1952年。田中、斎藤内閣海軍大臣、首相など歴任

*27:1868~1956年。清浦、加藤高明、第一次若槻、浜口内閣陸軍大臣朝鮮総督、第一次近衛内閣外相など歴任

*28:1885~1947年。参謀本部第3部長、陸軍大学校長など歴任。皇道派だったため226事件後予備役に編入

*29:1887~1945年。陸軍省兵務局長、人事局長、陸軍次官、鈴木内閣陸軍大臣など歴任。終戦時に自決。

*30:1887~1968年。戦前、陸軍大学校長、北支那方面軍司令官などを歴任。戦後、東久邇宮、幣原内閣陸軍大臣を歴任(最後の陸軍大臣)。

*31:ただし陸軍幹部でも宇垣だけは平泉には冷たかったようで、彼については平泉は悪口していますね。まあ平泉が評価する東条、阿南なども本心、平泉に信奉していたというより社交辞令にすぎないでしょうが。宇垣だけは「社交辞令すらすることを嫌がった」「それほど平泉を嫌っていた」ということでしょう。

*32:もちろんアントニオ猪木のこと。

*33:まるで回天の考案者が平泉のような物言いですが、もちろん平泉は回天とは直接の関係はありません。回天の考案者とされる黒木博司・海軍大尉は平泉の弟子だったようですが、それだけで「回天は自分の手柄」として語れる平泉も気が狂っています。

*34:1945年生まれ。九州大学名誉教授。著書『日中戦争期における社会運動の転換:農民運動家・田辺納の談話と史料』(2009年、海鳥社)、『帝国の昭和』(2010年、講談社学術文庫)、『「国際化」の中の帝国日本:1905~1924』(2013年、中公文庫)など

*35:1932年生まれ。東大名誉教授。著書『大政翼賛会への道:近衛新体制』(2015年、講談社学術文庫)、『歴史と私』(2015年、中公新書)など

*36:原文のまま。本当は「福井県」が正しい。

*37:『「皇国史観」という問題:十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策』(2008年、白澤社)の著者・長谷川亮一氏のブログ記事です。

*38:販売を目的とせず、自費出版する場合のことをこういう。

*39:1898~1988年。日本学術会議会長、世界平和アピール七人委員会委員、小さな親切運動本部代表など歴任。

*40:1874~1940年。警視総監、内務次官、会計検査院長宮内大臣内大臣など歴任

*41:1889~1977年。第一次近衛内閣文相、厚生相、平沼内閣内務相、内大臣など歴任。戦後終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*42:この「条約」とはロンドン海軍軍縮条約のこと。条約賛成派を条約派(条約締結当時の財部彪海軍大臣(浜口内閣)、山梨勝之進海軍次官、堀悌吉海軍軍務局長、谷口尚真海軍軍令部長など)、反対派を艦隊派(条約締結当時の東郷平八郎・元海軍軍令部長加藤寛治・元海軍軍令部長、末次信正・元海軍軍令部次長、山本英輔連合艦隊司令長官など)と呼んだ。

*43:1889~1975年。海軍省軍務局長、海軍航空本部長、海軍次官など歴任

*44:平泉は戦前ではなくむしろ戦後、村尾や時野谷を通して文部省に影響力が強まったと言う説もあるようですね。

*45:1905~1986年。東北大学名誉教授

*46:原文のまま。正しくは「農民のこと」でしょう。「戦国時代の武将のこと」ならこんなことを平泉は言わないでしょう。

*47:著書『明治維新の舞台裏』(岩波新書)、『幕末開港期経済史研究』、『明治維新と自由民権』(以上、有隣堂)、『勝海舟』、『日本開国史』、『戊辰戦争論』、『明治維新と外圧』、『明治維新の国際的環境』、『明治初期の国際関係』(以上、吉川弘文館)など

*48:著書『中世的世界とは何だろうか』(朝日文庫)、『日本社会の歴史(上)(中)(下)』、『日本中世の民衆像』(岩波新書)、『宮本常一「忘れられた日本人」を読む』(岩波現代文庫)、『日本社会と天皇制』(岩波ブックレット)、『日本中世に何が起きたか』、『歴史としての戦後史学』(以上、角川ソフィア文庫)、『中世再考』、『中世の非人と遊女』、『日本中世都市の世界』、『「日本」とは何か』(以上、講談社学術文庫)、『蒙古襲来』(小学館文庫)、『歴史を考えるヒント』(新潮文庫)、『日本社会再考』、『日本の歴史をよみなおす』(以上、ちくま学芸文庫)、『古文書返却の旅』(中公新書)、『異形の王権』、『海の国の中世』、『里の国の中世』、『職人歌合』、『日本中世の百姓と職能民』、『無縁・公界・楽(増補)』(以上、平凡社ライブラリー)など

*49:中沢『僕の叔父さん・網野善彦』(2004年、集英社新書)のことか?

*50:「海外での差別体験」以前からそういう「素質はあった」のでしょうが。

*51:戦前、満鉄総裁、第二次近衛内閣外相を歴任。戦後、戦犯として裁判中に病死。後に靖国に合祀。

*52:1911~1991年。著書『明治維新』(1965年、日本教文社)(ウィキペディア「鳥巣通明」参照)

*53:1921~2005年。著書『歴史教育の構造』(1966年、東洋館出版社)、『社会科能力研究入門』(1972年、明治図書出版)など(ウィキペディア「山口康助」参照)