新刊紹介:「歴史評論」11月号

★特集『戦争とメディア』
・詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。小生なりに紹介できる内容のみ紹介します。
義和団戦争*1と新聞報道(片山慶隆*2
(内容紹介)
・まあ「脚注」にも書きましたが「事変と呼ぶか戦争と呼ぶか」「乱と呼ぶか戦争と呼ぶか」は意外と厄介な問題です。似たような話では「暴動や騒乱(動乱)と呼ぶか、蜂起や革命と呼ぶか」とかいろいろありますけど。
 例えば日清戦争と関係している韓国の農民蜂起についても「東学党の乱」「甲午農民戦争」と二種類の呼び方があります(ウィキペディアは「甲午農民戦争」を採用)。
 あるいはダライラマがインド亡命に至った例の事件をI濱女史なんかは蜂起と呼びたがるわけです。絶対に暴動とか騒乱とか呼ばない。そういう意味では歴史学は「主観まみれ」です。
 「南京事件否定論」「ホロコースト否定論」のように、主観で事実をねじまげてはいけませんが、主観を完全に排除することは到底無理です。
・それはともかく「二六新報」の「義和団戦争」報道が取り上げられています。
 二六新報は当初
1)日清戦争日露戦争で多額の戦費を使っているため、更に戦争に費用を使うことは国家を疲弊させる
 日本は日露戦争の戦費を税金だけで賄うことができず、外債を発行しています。
2)清朝によって義和団を鎮圧することが十分可能
3)日本が出兵すると、欧米列強も出兵*3することになり、かえって日本の中国利権が害される
という評価から日本軍の出兵に反対していた(平和主義が反対理由でないことに注意)。
 しかし、現実に日本軍が出兵すると、「出兵反対」を撤回し、出兵容認論へ傾いていく。
 そこには「現実には清朝義和団を鎮圧できなかったこと」「義和団の鎮圧にあまり時間がかからないため戦費支出も少額ですむ」「欧米が出兵しても、日本が最大兵力を出兵*4すれば、欧米に対し日本が有利な立場を確保できる」という二六新報の判断の変更があった。


■新聞記者における国民革命認識と対満蒙強硬論の形成:東京朝日新聞・大西斎の満州事変に至る転回(島田大輔)
 ウィキペ「大西斎」や島田氏の記事などを紹介した上でコメントしてみます。

http://www.mhsj.org/frame/katudokansai.html
軍事史学会第96回関西支部定例研究会
1.日時:平成25年1月12日(土) 14:00〜17:00
2.場所:名城大学名駅サテライト(MSAT)
3.講師:島田大輔(早稲田大学大学院)
4.演題:(島田氏)「東京朝日新聞記者・大西斎の中国論 ―満州事変勃発に至るまでの変遷―」
 島田氏は、東京朝日新聞が、満州事変にさいし、それを容認する「社論の転換」をおこなったことについて、これを外的要因、すなわち軍部・右翼からの圧力・不買運動のせいにすることに疑義を提示した。そしてその基礎的研究として、東京朝日社論転換の張本人と言われている大西斎(1889*5−1947)の、1920年頃から31年頃までの中国認識が検討された。

 まあ、在郷軍人会の不買運動など外部の恫喝*6の影響がなかったとは言えないでしょう。ただし島田氏は「大西斎」ら当時の朝日側も「済南事件などによる日本社会の右傾反動化」の影響を受けていたのであり、「外部圧力にただ屈したわけではない」といいたいのでしょうね。歴史評論の島田論文では大西の「右傾化」をもたらした大きな要因として、「日本のセシル・ローズ」の異名を持ち「山東出兵」を推進した森恪*7田中義一内閣*8外務政務次官の「大西への影響」を上げています。島田論文を信じれば当初幣原外交的な立場だった大西は森の影響により、田中*9外交的な方向に傾斜していきます。
 とはいえ「大西と森の関係」は「新聞記者と政治家のある種の癒着関係」ではあっても「ナベツネと中曽根*10元首相の関係」「阿比留と安倍*11の関係」なんぞと比べたらもっとマシでしょうが。

■大西斎(1887年12月〜1947年12月20日:ウィキペ参照)
 1908年、福岡県立中学修猷館(福岡県立修猷館高校の前身)を卒業。1911年、東亜同文書院を卒業し、同年大阪朝日新聞に入社する。同期入社には、修猷館の2年先輩である緒方竹虎*12がいる。
 1917年、上海特派員、1919年、北京特派員となり、1924年に帰国後、東京朝日新聞に転じる。1925年、支那部長、1929年、ロンドン海軍軍縮会議の特派員となる。1930年に帰国後、東京朝日新聞論説委員となり、1931年、満州事変の10日前の9月8日に、社説において、「支那側の対日態度にかんがみ、外務といはず、軍部といはず、はたまた朝野といはず、国策発動の大同的協力に向つて、その機運の促進と到来とをこの際日本のため痛切に希望せざるを得ない。」と記し、軍事行動を容認する姿勢を見せた。これは、それまで「中国との協調路線」、「軍縮の断行」を積極的に提唱してきた朝日新聞の「右傾化」「変節」として、後に批判的に語られることとなる。
 1934年9月、東京朝日新聞主筆緒方竹虎は、満州問題を中心に中国、ソビエト、アジアを研究する「東亜問題調査会」を設立し、その常任幹事に朝日新聞きっての中国通として知られていた大西を抜擢する。1936年11月、近衛文麿首相のブレーントラストである政策研究団体「昭和研究会」に、笠信太郎*13や、同じ東亜問題調査会メンバーであった尾崎秀実*14、益田豊*15らと共に大西が参加している。1939年12月、副主筆に就任し、緒方主筆を支えた。戦後は、1945年11月、論説委員室主幹となり、1946年4月に退社。

 大西らによる社論の転換は割と有名な話であり、朝日新聞「新聞と戦争」取材班『新聞と戦争(上)(下)』(2011年、朝日文庫)でも朝日にとっての「痛恨の失策」として評価されていたかと思います。
 「朝日が全て悪いわけでは勿論ない」ですがやはり朝日の社論転換はその後の日本の軍国主義化に影響したと見ざるを得ないでしょう。
 なお、『新聞と戦争』が朝日の反省として必要充分かどうかはともかく、この種の反省を何一つしない産経よりはずっとマシでしょう。
 もちろん大西ら当時の朝日編集幹部に対する批判はそれはそれとして重要ですが、それは「あの戦争については朝日だって問題があるのだから俺達産経が居直って何が悪い」という話*16でないことは言うまでもありません。
 もちろん批判されるべき戦前の新聞人は、大西だけでも、朝日関係者だけでもない。読売、毎日、産経なども当然同罪です。つうか一番罪が重いのは未だにまともに反省したことがない産経でしょう。

参考

山東出兵(ウィキペ参照)
 日本が1927年(昭和2年)から1928年(昭和3年)にかけて、3度にわたって行った中華民国山東省への派兵。
■第一次出兵
 1926年(大正15年)、中国の蒋介石は北伐を開始した。この時日本の政権は憲政会の第1次若槻*17内閣であり、幣原*18外相は不干渉主義を保持していた(幣原外交)。
 昭和金融恐慌によって経営危機となった台湾銀行を救済する緊急勅令案発布を枢密院に諮ったが、枢密院で19対11で否決され、4月17日、若槻内閣は総辞職した。なお、緊急勅令が後継の田中内閣では認められたため、「幣原外交に『軟弱外交』と不満を持った枢密院による、若槻内閣を打倒するための、為にする反対だったのではないか」という見方が有力である。第一次若槻内閣総辞職は枢密院によって内閣が倒れた唯一の例とされる。
 4月20日立憲政友会田中義一を首班とする田中義一内閣が誕生した(外相は田中が兼任)。蒋介石の北伐軍が山東省に接近すると、5月27日、政府は山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護及び治安維持を理由に軍を派遣することを決定。5月28日、陸軍は在満洲の歩兵第33旅団を青島に派遣待機させる旨の命令を下し、同旅団は5月30日に大連を出発し、翌日青島に入港、6月1日、上陸を完了した。
 北伐軍と、軍閥・張宗昌*19軍が武力衝突する恐れがでてきたとし、7月4日、藤田栄介*20済南*21総領事は外務省に旅団の西進を申請すると、7月5日の閣議でその必要が認められ、旅団は7月8日、済南に進出した。その後、蒋介石は張宗昌と決戦するが大敗した。蒋介石武漢政府(汪兆銘政権)との合流を優先させて8月13日に下野を宣言し、北伐は一時的に中断した。こうした状況から、日本政府は8月24日の閣議で撤兵を決定、9月8日までに撤兵を完了した。
■第二次・第三次出兵
 翌1928年(昭和3年)3月、形勢を立て直した蒋介石の北伐軍は広州*22を出発して北上し、山東省に接近、4月末に10万人の北伐軍が市内に突入した。このため支那駐屯軍*23の天津部隊3個中隊(臨時済南派遣隊)と内地から第6師団の一部が派遣され、4月20日、臨時済南派遣隊が済南到着、4月26日、第6師団の先行部隊の斎藤瀏少将指揮下の混成第11旅団が済南に到着し、6千人が山東省に展開した(第二次山東出兵)。省内で日本軍と北伐軍が対峙し、睨み合いながらも当初は両軍ともに規律が保たれていた。
 しかし、5月3日午前、日本人襲撃事件が発生すると、5月4日午前、田中内閣は緊急閣議を開いて、関東軍より歩兵1旅団、野砲兵1中隊、朝鮮より混成1旅団、飛行1中隊の増派を決定した。5月8日午後の閣議において、動員1師団の山東派遣および京津方面への兵力増派を承認し、5月9日、第3師団の山東派遣が命じられた(第三次山東出兵)。
 5月8日、日本軍は市内に2千人いる日本人保護のために済南城を攻撃、5月10日から11日にかけての夜、北伐軍は城外へ脱出した為、5月11日には日本軍は済南城ならびに済南全域を占領した。
 この事件により日本の世論は憤激、中国に対する感情が悪化した。6月4日奉天派の首領である張作霖が北京を撤退した後、6月8日に北伐軍が北京を占領し(その後、関東軍による張作霖爆殺事件が起こった)、6月15日に蒋介石政権が「国民政府による全国統一」の宣言を出した。そして、父のあとを継いだ張学良が12月29日に降伏したこと(易幟)をもって、北伐は完了し一応の国民党による全国統治が果たされることになった。その結果、1929年(昭和4年)には山東全域から日本軍が撤退した。
 しかしこの「北伐」完成は、地方の軍閥勢力を残存させたままでの極めて妥協的な「中国統一」であったため、1929年3〜6月には蒋桂戦争*24が、1930年5〜11月には中原大戦*25が勃発する等、軍閥蒋介石との戦乱が続いた。

■済南事件(ウィキペ参照)
1)1928年(昭和3年)5月3日午前9時半頃、中国山東省の済南において発生した日本人襲撃事件。
2)1)を理由に山東省に派遣された日本軍と、蒋介石率いる国民革命軍との間に起きた武力衝突事件。

http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/sainan.html
■済南事件(1928年)
 「済南事件」とは、1928年(昭和3年)、蒋介石率いる「国民党軍」が中国統一のための「北伐」を行った際、済南において日本軍と衝突した事件です。
 ネットの世界では、その際に生じた日本側の民間人十数名の虐殺事件が強調される傾向にありますが、まず、一般的な歴史概説書では「事件」をどのように取り上げているのか、私の手元にあるもので確認しておきましょう。

■中公文庫『日本の歴史』  第24巻「ファシズムへの道」より
■済南事件と第三次出兵
 済南にいた孫伝芳*26などの東北軍は、国民政府軍が近づくと一戦も交えず撤退してしまった。そして五月一日には国民政府軍が入城し、二日、蒋の司令部もここに移った。
 その後、蒋介石はただちに日本軍の撤退を要求したが、その交渉の進行中に、日本軍と国民政府軍の小ぜりあいがはじまった。 そして三、四両日には小戦闘がくりかえされたが、蒋介石は急ぎ大部分の部隊を済南から撤収し、みずかちも六日には済南から北伐に向かったので、騒動はいちおう終わりをつげた。
 日本軍の死者は十名、在留邦人の犠牲者は十二名というから、(ボーガス注:その後、日本軍が大規模軍事行動をおこすことが正当化出来るような話ではなく、そういう意味では)そう大した事件ではなかったといっていい。 むしろ、このとき日本軍が、国民政府の特派交渉員であった蔡公時をはじめ多くの公署職員を殺害して、中国側の憤激を招いた点のほうが重大であった。
 しかしこの済南事件にたいする田中内閣の措置はまったく血迷っていた。政府は五月八日には早くも第三次出兵をきめ、九日には第三師団に動員令をくだし、青島に出発させた。国内では中国兵の暴虐を誇大に宣伝し、国民の敵愾心を煽動した。
 そして現地では、中国側にたいし十二時間の期限つきの最後通牒をつきつけたうえ、九日・十日の両日、済南の総攻撃をおこなったのである。ここでは容赦のない砲撃が市民にくわえられたため、中国側は三六〇〇の死者と一四〇〇の負傷者をだし、済南はほとんど壊滅してしまった。
 このとき、国民政府軍はすでに済南からの撤退をきめていたのだから、それはまったく南軍*27膺懲と日本軍の威信発揚のためだけの、無意味な殺戮と破壊であった。
 この事件は四年三月になってようやく外交交渉がすみ、日本軍が撤退することによって解決するのだが、そののこした波紋は大きかった。日本軍の暴虐ぷりは世界に有名になったし、何よりも中国民の排日は、これによって拍車をかけられた。そして蒋介石の対日政策も俄然硬化し、外交部長も親日派の黄郛から親米派の王正廷にかえられた。
 このとき以後、中国はアメリカと結んで排日政策を強化しはじめるのであるが、これこそ無定見で、武力をもてあそぶ以外に能のなかった田中外交の唯一の成果だったのである。
(執筆者 大内力氏*28
(P153〜P154)

小学館ライブラリー『昭和の歴史』第2巻「昭和の恐慌」より
■第二次山東出兵と済南事件
(略)
 ところが、五月三日午前九時半、日中両軍の間で軍事衝突がおこった。
 その原因に関する主張は、日本側と中国側とでは完全にくいちがっている。日本側は、南軍兵士が『満州日報』取次販売店に乱入し、吉房長平を罵倒殴打し、家財道具を掠奪したことにはじまるというのにたいし、中国側は、日本軍守備区域で一人の中国人が射殺されたことが発端であるとしている。戦争の原因について両者の言い分が一致するなどということは史上例がない。済南事件はこうしてはじまった。
 済南市内での市街戦は五月三、四日の二日問で終わったが、参謀本部は、「このさい断乎たる処置をとる」こととし、「南軍膺懲(こらしめる)」の方針を固めた。 五月四日の臨時閣議は、関東軍朝鮮軍とから二個師団の増派を決定、五月九日には名古屋の第三師団にも出動命令をくだし、約一万五〇〇〇名の兵員を補充して、革命軍との徹底抗戦を辞さずとの態勢をととのえた。
 日本軍は、九日から総攻撃を開始、済南城内に集中砲火をあびせ、一一日に済南城を軍事占領した。 この戦闘で、南軍は一般市民をふくめ死者三六〇〇名、負傷者二四〇〇名を出したのにたいし、日本軍の死傷は死者二五名、負傷者一五七名であった。
(執筆者 中村政則*29
(P118〜P121)

 大内力氏は、「在留邦人の犠牲者」よりも、「日本軍が、国民政府の特派交渉員であった蔡公時をはじめ多くの公署職員を殺害」した事実を重視し、さらに「容赦のない砲撃が市民にくわえられたため、中国側は三六〇〇の死者と一四〇〇の負傷者をだし」たことに言及しています。 中村政則氏は、「日本人殺害」には一言も触れていません。
 もう一つ、日中戦争の研究家、臼井勝美氏の記述を見ます。

■臼井勝美氏*30『泥沼戦争への道標 済南事件』より
 が、午前一〇時、麟趾門街に日中両軍の小衝突が起り、たちまち全商埠地および隣接街区に戦闘が波及し、いわゆる五・三惨案*31(悲惨なる事件)の勃発をみたのである。
 商埠地の各所で小戦闘が展開されながら夜にはいったが、夜半両軍のあいだに商埠地内の中国軍隊の退去に関し協定が成立し、四日午前中には大部分の撤退をみた。福田師団長の表現によれば「張合いのない」南軍の態度であった。
 五月三〜四日の戦闘で注目すべき点二、三を挙げてみよう。
 戦闘に参加した日本軍は約三五〇〇の兵員で、死者一〇名、傷者四一名を出した。一方南軍の捕虜は将校以下一一七九名、戦利品は小銃二二九七その他である。激烈な市街戦としては日本軍の死傷者が意外に少ないことがわかる。 商埠地周辺の南軍約二万は全然戦闘に参加せず、商埠地内の軍隊もほとんど散発的な抵抗しかしなかったのではないかと推察される。
 商埠地外にいた日本居留民の惨殺された者一二である。中国側をもっとも憤激させたのは、三日夜、戦地政務委員兼外交処主任の蔡公時をはじめ済南交渉公署職員八名、勤務兵七名、まかない夫一名計一六名が殺害されたことであった。蔡主任の殺害は次のような状況のもとにおきた。
 蔡主任が北伐にともなう外国居留民との折衝の任にあたることは、国民政府から四月二三日、上海の矢田(七太郎)*32総領事に通告されていた。
 五月三日、蔡は済南商埠地の旧山東交渉公署で執務を開始したが、同日午前、公署建物前の道路でも戦闘があり、日本兵二名が射殺された。この日本兵士に対する狙撃が交渉公署の楼上からおこなわれたと認知した日本軍は、夜間にいたって公署の捜索を実施した。
 そのさい突然地下室から拳銃の発射を受けたので、ただちに応射するとともに、署内の一六名を射殺または刺殺した。 街路上の戦闘に対し交渉公署楼上から狙撃があったこと、室内捜索のとき拳銃が発射されたことは認めなかったが、昼間、公署前の戦闘を楼上から勤務兵が目撃していたのは中国側も認めるところであった。
 しかし、蔡主任以下の職員は原則的に無抵抗であったのであり、交渉公署の性格上からも全員をただちに刺殺したととは過当措置であったといえよう。
 国民政府は蔡特派交渉員殺害事件を、外交官に対する不法きわまりない日本軍の残虐行為としてセンセーショナルに報道し、各地で追悼会を開催したりした。
(『昭和史の瞬間』(上)P55)

 臼井氏も、大内氏と同じく、「中国側外交官殺害事件」に重きを置く記述を行っています。
 以上、スタンダードな歴史書では、「済南事件」中の「日本人殺害」のエピソードは、あまり重要性なものとは見られていないよう です。
 そんな中にあって、事件の一連の流れの中から、あえて「日本人居留民の虐殺」に詳しくスポットライトを当てたのが、次の中村粲氏の記述です。
(中略)
 「中国人の残虐さ」のみを取り出してこれを強調することは、事件の経緯や歴史的背景を無視した一面的な議論である、と私は考えます。 また、日本側の被害状況にのみ着目し、中国側の被害を無視するのも、公正を欠いている、と言わざるをえません。
 さて、この中村氏の文を見ると、氏は、「支那兵が我が居留民に加へた暴虐陵辱」の例示として「佐々木中佐手記」の記述を取り上げているように見えます。しかし実際の佐々木手記では、犯人は「支那兵」に特定されているわけではありません。 以下、佐々木手記の記述を見てみましょう。

■佐々木到一 『ある軍人の自伝(増補版)』より
 ところがこの日になって重大事件が惹起されていることが明かにされた。これより先、居留民は総領事館の命令を以て老若婦女は青島に、残留する者は限定せる警備線内引揚げを命じてあったが、それを聞かずして居残った邦人に対して残虐の手を加え、その老壮男女十六人が惨死体となってあらわれたのである。
 予は病院において偶然その死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の極だった。手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加え、あるいは滅多切りとなし、婦女はすべて陰部に棒が挿入されてある。 ある者は焼かれて半ば骸骨となっていた。焼残りの白足袋で日本婦人たることがわかったような始末である。
 わが軍の激昂はその極に達した。これではもはや容赦はならないのである。 もっとも、右の遭難者は、わが方から言えば引揚げの勧告を無視して現場に止まったものであって、その多くがモヒ・ヘロインの密売者であり、惨殺は土民の手で行われたものと思われる節が多かったのである。
 右の惨死体は直に写真に撮られ、予はこれを携えて東上することになったのである。 (P181〜P182)

 佐々木中佐は、「惨殺は土民の手で行われたものと思われる節が多かったのである」と記述しており、必ずしも「支那兵」の仕業とは断定していません。(ボーガス注:佐々木日記引用において中村氏が)この部分を省略したのは、犯人を「中国兵」と断定する自説にとって、都合が悪かったからなのでしょうか。
 この他、秦郁彦氏によれば、岡田芳政少尉も、「現地人に報復された」という見方をしていたようです。

秦郁彦*33中村粲氏への反論 謙虚な昭和史研究を』より
 このあとも、中村氏は前記の狙いに沿って中国人の蛮行を、「針小棒大」に列挙してゆく努力を惜しまない。ついでだから、二、三の事例を検討してみることにしよう。
 第一の例は、時期はぐっと下るが、昭和二年の南京日本領事館と居留民に対する北伐軍の暴行である。中村氏は中国兵が「蛮行の限りをつくした」(九月号)と記すが、『日本外交史辞典』によると、死者は一人も出ていない。 都合の悪いときは数を出さず、形容詞ですませておく手法であろうか。この程度の事件をコミンテルンの煽動と大げさに決めつけているが、中村氏の「煽動」でなければ幸い。
 つづいて登場する済南事件(昭和三年五月)についても、北伐軍により「各所で多数の男女日本人居留民が暴兵の手で惨殺されて行った。 『昭和三年支那事変出兵史』(参謀本部編)によれば、虐殺の状況は、猟奇的なまでに酸鼻を極めた」と書いているが、ここでも惨殺された居留民の数が出てこない。
 引用された参本の出兵史のミスではない。ニ七六ページには惨殺十二人(男十、女二)とあり、二千人の居留民は事前に避難したが、殺された連中は「特種営業者にして最初より避難を欲せず・・・計画的暴行にあらぎることは明らか」と注記してある。
 当時、在北京公使館の警備に当っていた岡田芳政少尉(のち大佐)の回想談によると、「殺された居留民は朝鮮人の麻薬密輸者で、日頃から悪行を重ねていたので、現地人に報復されたと聞いている」とのことである。
 そもそも、日中両軍の衝突自体が、済南駐在武官だった酒井隆*34少佐の陰謀説もあり、酒井は「惨殺」が起きると、中央へ誇大な数字を報告、陸軍省は邦人の惨殺三百と発表して出兵気運を煽った。 事件の処理交渉で日本側が損害賠償を要求しながら、最終的には断念したのも、阿片密売人という弱味を知られていたからだった。
 この時期以後の日中関係史を見るとき注意しなければならないのは、日本側が中国の挑発行為と発表したもので、実は日本の謀略だったという事件が少なくないことであろう。 張作霖の爆殺(真犯人は河本大作大佐)、柳条湖の爆破(石原莞爾*35中佐ら)、第一次上海事変(ボーガス注:のきっかけとなった日本人僧侶襲撃事件*36)(田中隆吉少佐)、山海関事件(落合甚九郎少佐)、福州事件(浅井敏夫大尉)などが代表的なものだが、不良中国人を買収してやらせた謀略のなかには、今も秘密がばれないでいるものがあるにちがいない。
(『諸君!』1989年11月号所収)

 中村氏は「南軍の手によって惨殺された」と断定していますが、以上の記述を見ると、現地の軍部は必ずしもそのような見方をしておらず、彼らに恨みを持つ者が衝突のどさくさに紛れて犯行に及んだ可能性もある、と考えていたようです。
(中略)
 最後に、「世界戦争犯罪辞典」*37の記述を紹介します。私の見る限り、この記述が、「事件」に関する最もスタンダードな見方の集約であると思われます。

■『世界戦争犯罪辞典』より
■済南事件
(略)
 西田畊一(こういち)在済南総領事代理が酒井少佐とともに蒋介石と会見していた五月三日の午前九時半頃、事件が発生した。
 日本側の説明だと発端は、国民革命軍の正規兵約三〇人が城外の商埠地内で満州日報の取次店を営む在留邦人の吉房長平宅を掠奪したことにはじまる。 そして、この知らせを受けた久米川好春中尉が率いる日本軍約三〇人と襲撃した中国兵約三〇人との間で銃撃戦が開始され、近辺でも複数の個所で射ちあいが発生したとしている。
 実態は、国民革命軍の反日宣伝をめぐる紛糾かと推定できるが、吉房宅は、日中両軍が激戦を交わした麟趾門街からは七〇〇メートルほど離れた場所であり、軍事衝突の直接的な誘因とは考えにくい。
 一方、中国側の見解だと、病気の第四〇軍兵士一人を病院につれていく途中で、日本兵に阻止されて言い争いとなり、発砲されたという(この時、中国兵一人と中国人人夫一人が死亡)。
 いずれの言い分が正しいか検証は困難であるが、第四〇軍第三師歩兵第七団の将兵約一二〇〇人のうち、一〇〇四人までが約二時間の間に捕虜となっており、日本側一〇人に対して一五〇余人もの死者を中国側が出していることから、 中国軍にとってこの銃撃戦は突発事であり、計画的だったとは考えにくい。
 問題の居留民虐殺は、この軍事衝突の合い問に生じたが、死者一六人とも一三人(うち九人が虐殺)ともいわれる被害者の多くは朝鮮人の麻薬販売人や売春業者で、一般居留民のように避退せず、残留していたものらしい。
 ところが、五月五日と六日の朝日新聞などは「邦人虐殺数二百八十」と実際の二〇倍以上にのぼる誇大な数字を報じた。大規模出兵を望んでいた強硬派の酒井隆少佐が打電したものを陸軍省が流したものといわれている。 こうした情勢を背景に、現地の第六師団長は責任者の処刑や関係部隊の武装解除など五ヵ条の期限付要求を中国側に交付した。
 予想しない事態に中国側は驚き、回答期限の延期を要求したが、日本軍側は、「軍の威信上已むなく断然たる処置に出て要求を貫徹」すると通告したのち、八日早朝から済南城に対する大規模な攻撃を開始し、済南周辺を占領した。
 この攻撃により、中国側には、一般市民をふくむ三六〇〇人の死者と一四〇〇人もの負傷者が出たとされる(日本軍の死者は二六人、負傷者一五七人であった)。
 このような日本側の強硬姿勢は、北伐軍の進攻を遅らせ、張作霖政権との間で懸案となっている中国東北地方における鉄道問題等の契約交渉の成立をも視野に入れたものといえよう。
 これに対し、日本軍との決戦を回避した蒋介石は、中国軍を撤退させ迂回して北京へ向かい北上したため、交戦は短期間で終わった。そして外交交渉に移り、二九年三月に合意が漸く成立し、日本軍は撤兵する。
(小池聖一*38
(同書 P62〜P63)

http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/santou.html
■「済南事件」 端緒から解決まで
 「済南事件」といえば、ネットの世界では、中村粲氏『大東亜戦争への道』*39の影響か、「日本人居留民十数名殺害事件」をイメージする方が多いようです。 しかし、中国側資料では、「済南事件」は「五三惨案」として知られ、逆に、「日本軍の攻撃により中国人数千人が犠牲となった事件」として認識されています。
 「済南事件」とは、果たしてどのような事件だったのか。
(中略)
 「事件の経緯」を包括的に説明していきたいと思います。
 事件は、北伐により中国統一を図る蒋介石軍が、居留民保護を理由に済南に進出した日本軍(第二次山東出兵)と出会ったところから始まります。
 一九二八年五月一日、蒋介石軍は、とりあえずは平和裡に済南に入城しました。日本側は防護施設(バリケード)をつくって待ち構えていましたが、入城当初は蒋介石軍が意外と秩序正しかったこともあり、蒋介石の要請を受けた形で、防護施設を撤去します。
 しかし五月三日、突発的に、双方の軍事衝突が始まりました。事件の発生の原因につき、日中双方の見解は、真っ向から衝突します。
(中略)
 南軍による掠奪事件が発生。日本軍が現場に赴くと掠奪兵はただちに自分の兵舎へ逃走。それを追った日本軍に対して歩哨が射撃してきたので日本軍は応戦し、歩哨を射殺。それをきっかけに戦闘となり、全商埠地内に波及した。 要約すれば、(ボーガス注:当時の日本政府の主張は)このようなことになると思います。
 中村粲氏など、この日本側見解を無批判に引用している論稿も散見されますが、中国側の見解はこれとは全く異なります。
(中略)

蒋介石秘録*408 日本帝国の陰謀」より*41
 事件の発端はこうである。
 この朝、国民革命軍第四十軍(軍長・賀耀組*42)の兵士の一人が病気になった。このため、中華民国外交部山東交渉署の向かいにあるキリスト教病院(城外商埠地)に治療に連れていったところ、日本兵に通行を阻止された。 ことばが通じないまま言い争いになった。
 挑発の機会を待ちうけていた日本軍にとっては、このような口ゲンカさえ、いい口実であった。日本兵は、問答無用とばかり、いきなり発砲、革命軍の兵士と人夫それぞれ一人をその場で射殺したのである。
 残りの何人かは辛うじて病院内に逃げ込んだが、日本兵は病院をとり囲み、機関銃で乱射を加えた。これをきっかけに、日本軍の銃撃は全市にひろがった。
(同書 P19)

 一体真の原因は何なのか。両者の間では、最初の死者が中国側に発生したことだけは一致していますが、どちら側に責任が大きいか、という肝心な点については、完全に見解が分かれます。
 以上、事件の原因については、日本側資料・中国側資料に諸説が入り乱れているのが現状であり、ストレートに原因を特定することはできそうにありません。「済南事件」をめぐる各種学術論文でも、概ね上記の見解を併記して、 例えば「今のところ事実関係を特定するのは困難である」(服部龍二*43『済南事件の経緯と原因』=『軍事史学』通巻第136号)というように事実判定を避けるものが主流であるようです。
 しかしこれが、双方とも望まない、偶発的な戦闘であったことは、間違いなく言えます。 日本側が戦闘を意図していなかったのはもちろん、蒋介石軍にとっても、「北伐」の妨げになるような余計な戦闘は極力避けたいところです。 このような事情を背景に、日中両軍の停戦努力により、三日深夜、南軍と日本軍との間で、停戦協定が成立します。
(中略)
 しかし、日本軍内部では、この事件を「膺懲」の口実としようとする動きが進行していました。
(中略)
 現地の西田駐在武官は国内のマスコミ向けに、「280名が虐殺された」という情報を流しました。
(中略)
 実際の虐殺数は十二名、しかも必ずしも南軍の仕業とは断定できない、ということは、既に済南事件コンテンツ(http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/sainan.html)で見たとおりですが、この時点では「十二名殺害」の事実すら判明していません。これは日本国内の「膺懲」世論を煽るための作為的な情報操作であった、と思われます。
(中略)
 当初の出兵目的は、「居留民保護」というあくまで防衛的な性格のものであったはずなのですが、いつのまにか、「膺懲」(こらしめ)という、強硬なものに変わってしまったわけです。
(中略)
 現地軍は、中国側に対して、厳しい要求を突きつけます。

参謀本部『昭和三年支那事変出兵史』より
一、騒擾及其暴虐行為に関係ある高級武官の峻厳なる処刑
二、日本軍の面前に於て我軍に抗争したる軍隊の武装解除
三、南軍治下に於て一切の排日的宣伝其他の厳禁
四、南軍は済南及膠済鉄道両側沿線二十支里以外の地に離隔
五、右実行の監視を容易ならしむる為十二時間以内に辛庄及張家庄の兵営を開放
 右十二時間以内に回答せられたし
 昭和三年五月七日午後四時
(同書 P295)

 しかしこの通告は、相手が条件を呑まないことを見越した、(ボーガス注:救う会の『特定失踪者を含む日本人拉致被害者金正恩政権が帰国させない限り北朝鮮政府と制裁解除も交渉もしない』という主張と同レベルの)いわば「攻撃開始へのアリバイ作り」に過ぎませんでした。中国側はこれに従わないであろうという「予想」は、「支那事変出兵史」にも明記されています。
(中略)
 回答期限は、わずか12時間です。中国側は一方的な「回答期限」の設定に苦慮しますが、その中でも、一応の回答を用意して、日本側に提出します。

■「蒋介石秘録8 日本帝国の陰謀」より
 それでも翌八日午前、熊式輝を代表として回答を持たせた。その内容は、日本軍の要求をいちおう承諾するが、日本側でも同じように暴虐行為の責任者を処分すること、 済南城内と膠済鉄路の要地には若干の部隊を駐屯させることなどを要求したものであった。
(同書 P41)

 しかし、「通告」を「膺懲」の口実程度にしか考えていない日本軍が、この回答を認めるはずもありませんでした。
(中略)
 かくして、日本軍による、済南城への総攻撃が開始されることになりました。中国側の記録によれば、この際に数千名の被害者が出たことは、既に見たとおりです。
(中略)
 最後に、「事件」の評価・その影響について、二名の研究者の見解を紹介し、コンテンツのしめくくりとしましょう。

■臼井勝美『泥沼戦争への道標 済南事件』より
 一九二八年の四月から六月にかけて、北伐軍の華北進出をめぐって惹起された山東出兵、済南事件、張作霖爆殺という一連の事件は、日本陸軍の中国に対する感覚ないし思想を遺憾なく表現している。
 条約上の根拠をもたない、他国領土への派兵駐屯という重大事が、簡単に計画実施されるばかりでなく、「軍の威信保持」という名目のもとに、居留民保護の限界をはるかに逸脱した大規模な軍事行動の展開をみる。
 五月九、一〇日の済南城への攻撃、砲火の集中などは、まったく無用の軍事干渉であり、中国世論の一致した憤激の的となり、排日感を激発させ、以後の対日不信感の根源となったのである。
(『昭和史の瞬間』(上) P60)

■服部龍二『済南事件の経緯と原因』より
 済南事件は、三つの意味で外交史上の転機となるものであった。
 第一に、従来イギリスを主敵としてきた中国の排外運動は、済南事件以降には日本を標的とするようになった。山東出兵や済南事件の影響で、 南京や上海、漢口、広州などの主要都市では反日運動が激化し、岡本一策南京領事は城外への避難を余儀なくされた。
 第二に、蒋介石をはじめとする国民政府要人の対日観を悪化させ、知日派の黄郛外交部長は立場を弱めた末に親米英派の王正廷がその後任に就任する結果を招いた。
 済南事件の第三の意義は、第一次山東出兵には同情的にみえた米英両国が国民党に接近する立場から日本に批判的になったことにある。 とりわけ、日本との共同出兵を繰り返し要請してきたイギリスは、この時期から国民党との接近を開始する。イギリスは対日協調に見切りをつけていたのである。
 また、当時駐華大使であったマクマリー*44が一九三五年に記した長文メモランダムによれば、アメリカの政策決定者にとって済南事件は、「あたかも我々の理想の体言者(「ゆう」注:原文通り)であるかのように米国世論が好意を寄せていた国民党に対する敵意の証拠」となったという。 済南事件は日中関係を悪化させただけでなく、ワシントン体制*45下での協調外交にも悪影響を与えたといわねばならない。
(『軍事史学』 通巻136号 第34巻第号 P25)

 済南事件がストレートにその後の「張作霖爆殺」「満州事変、満州国建国」「柳条湖事件」「真珠湾攻撃」などに繋がってるわけではありません。済南事件当時においてはいくらでも「平和外交的な方向に戻ること」はできたでしょう。しかし、済南事件において既に日本は「日中泥沼戦争」や「英米との対決」の方向に足を踏み入れていたわけです。
 そして「張作霖爆殺」「満州事変」以前の、済南事件当時において既に「時にデマ迄流して中国への敵意を煽る」「そうすることによって国民相手に日本軍の軍事行動を正当化する」という手法が活用されてるわけです。


■歴史の眼『オバマの時代:ポスト人種の功罪とトランプ政権の誕生』(藤永康政)
(内容紹介)
 藤永氏はトランプ政権誕生による白人至上主義の蔓延には「オバマの責任も大きい」としている。
 氏は、オバマは「自らが黒人大統領であること」から「黒人寄りであると見なされ白人右派から攻撃を受けること」を過剰なまでに恐れ「白人至上主義批判」に及び腰だったため、白人至上主義の蔓延を助長してしまった、「オバマが在任中、もっときちんと白人右派を批判していればよかった」と評価している。
 まあ、藤永主張は「菅首相が在任中、安倍のデマ中傷を名誉毀損で訴えていれば」とかそんな感じでしょう。
 藤永論文を信じればオバマは一部の黒人には「あの男は政界主流派である白人に媚びへつらって黒人のために何もしてくれなかった」「あの男は黒人の面汚しで裏切り者だ、オレオクッキー*46だ」「オバマがふぬけだからトランプやオルトライトみたいなんが今、頭に乗ってるんだ」という反発も強いようです。

参考

■トランプの黒人問題での言動(ウィキペ『ドナルド・トランプ』参照)
・2014年にニューヨークの路上で、違法タバコを所持していた黒人男性が、彼を販売容疑で逮捕しようとした警官たちにねじ伏せられて窒息死する事件が起きた(エリック・ガーナー窒息死事件)。
 この事件に関して「警官によって28時間ごとに1人の黒人が殺されている」と抗議運動をしていた市民団体「黒人の命も大切だ」に対し、トランプは批判を展開し「面倒を起こそうとしてるんだと思う」と述べた。
 また白人や警官によって殺される黒人よりも黒人によって殺される市民の方がはるかに多いとして画像をツイートしたが、この画像には信頼性がなく、非難を浴びた。
 トランプが引用した画像は、出典を「サンフランシスコ 犯罪統計局 2015年度データ」としているが、サンフランシスコ市は年次報告書の発行を2014年で終了しており、2015年の統計は公表されていなかった。また2014年以前も、加害者・被害者の人種ごとの内訳は掲載していなかった。
 また各数字も、実在するFBIの2014年度の全米統計データと見比べてあまりに差が大きく、信頼できないものと考えられた。実際のFBIの2014年度の全米統計では、①「黒人が加害者になって、白人を殺害した数」は全殺人の15%である一方、②「白人が加害者になって、黒人を殺害した件数」は7%である。
 ところがトランプが引用した画像は、2015年のサンフランシスコについて①を81%、②を2%としていた。 サンフランシスコ市警察の広報は新聞の取材に対して「(トランプがツイートした画像は)我々が公表したデータではない。どこから来た情報か分からない。」と答えた。
・非合法の白人至上主義団体KKKの元幹部デービッド・デュークが、トランプ支持を表明した。この件について、CNNのインタビュー番組で司会者が「デューク氏に支持されることを拒否するか」と尋ねると、トランプは「私はデュークという男を知らない。一度も会ったことがないし、何も知らない」「あなたは私の知りもしない人間について私に糾弾させようと思うべきではない」「白人至上主義者のことは何も知らない」、「どの団体のことを言っているのか分からない」と言うだけではっきりと拒絶しなかった。

http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3938/1.html?utm_int=detail_contents_news-link_003
NHKクローズアップ現代(2017年2月21日(火)放送)
■特集『トランプのアメリカ、勢いづく白人至上主義 オルトライトの実像』
オルト・ライト団体 代表 リチャード・スペンサー氏
アメリカは白人だけのものだ。」
 白人こそがアメリカを支配すべきだとする過激な主張が、大きな議論を巻き起こしています。
 ウイスキーを片手にNHKの取材に答える、リチャード・スペンサー氏、38歳です。
 オルト・ライト運動を提唱した渦中の人物です。
「あなたは人種差別主義者なのですか?」
オルト・ライト団体 代表 リチャード・スペンサー氏
「そう呼んでもらってかまいません。
私はただ、白人としての誇りを持ってほしいと主張しているのです。」
(中略)
 トランプ陣営には、オルト・ライトとのつながりが指摘されている人物がいました。
 選挙対策本部長のスティーブン・バノン*47です。
 対立候補クリントン*48は、そのことを論戦で厳しく指摘しました。
ヒラリー・クリントン
「トランプ氏が掲げる反イスラム、反移民などは差別的思想だ。
 これは、オルト・ライトと呼ばれる、いま拡散している差別主義者の主張だ。」
 皮肉にも、この発言がオルト・ライトという言葉を広めるきっかけになったのです。
 一躍注目が集まったスペンサー氏と、オルト・ライト
 ある過激な言動が、世界中に衝撃を与えました。
オルト・ライト団体 代表 リチャード・スペンサー氏
「ハイル・トランプ、ハイル・ビクトリー。」
 ヒトラーになぞらえる礼賛の言葉に、支持者たちもアメリカではタブーとされる、ナチス式の敬礼で応じました。
 主要メディアは、社会的影響が大きいと判断し、こぞって批判しました。
「人種差別を肯定するのか?」
オルト・ライト団体 代表 リチャード・スペンサー氏
「そうです。
“人種差別”を肯定します。」
 トランプ氏が勝利した大統領選挙は、オルト・ライトという過激な思想を表舞台に押し上げることになったのです。
 今、スペンサー氏の主張に最も敏感に反応しているのが、若い白人男性です。
 大学生や会社員など、これまで白人至上主義とは無縁だった人たち。
 進学や就職でマイノリティーが優遇され、白人はないがしろにされてきたと感じています。
(中略)
 若者たちは、白人の方が権利を奪われ、抑圧されていると訴えかける、オルト・ライトに共鳴しています。
 オルト・ライトに早くから注目し、研究を重ねてきた専門家は、過激な思想が国を分断し、暴力につながるのではないかと警鐘を鳴らしています。
アラバマ大学 ジョージ・ハウリー助教
「白人が大きな不満を抱えているのは明らかです。
 いまのところ、オルト・ライトは思想的なものですが、いつ暴力に訴えてもおかしくありません。
 アメリカ社会の危機的な状況が、今後も続くことは間違いありません。」
 世界中のメディアが、その動向に注目し始めた、オルト・ライト運動。
 脚光を浴びれば浴びるほど、社会の亀裂が深まる事態となっています。
 事件は、インタビュー中に起きました。
 オルト・ライトを嫌悪する人も急増しているのです。
「大きな声ではっきり言おう。
 スペンサーは帰れ。」
 オルト・ライトの支持者と、それに反対する人たちとの衝突が各地で続いています。
 先月(1月)、スペンサー氏は活動の拠点を、首都・ワシントンの郊外に移しました。
 政治の中心地で足場を作り、トランプ政権に直接働きかけていきたいと考えています。
(中略)
 トランプ大統領の就任式に合わせ全米300以上の都市で行われたデモ。
 数百万を超す参加者の中で目立ったのは、マイノリティーたちの姿です。
「なんて恐ろしいことでしょう。
トランプの周りが、オルト・ライトだらけだなんて。」
「国外追放されそうで恐ろしい。」
 白人至上主義者に恐怖を感じるという、セドリック・オバノンさんです。
(中略)
 南部ミシシッピ州出身のオバノンさん。
 幼いころにも、白人による差別や暴力はあったといいます。
 両親からも、自由や平等は簡単には手に入らないと教えられて育ちました。
 そんなアメリカが変わるのではないかと、大きな期待をかけたのが、黒人初となるオバマ大統領の誕生でした。
セドリック・オバノンさん
「悪夢のようだった人種差別が、ついに消え去る時が来たと思いました。
まるで革命のように社会が変わることを、みんな期待しました。」
 しかし、事態はオバノンさんの思いとはかけ離れていきます。
 黒人の大統領を認めたくない白人たちの間で、不満が募っていったのです。
(中略)
ゲスト パトリック・ハーランさん(タレント/東京工業大学非常勤講師)
ゲスト 渡辺靖さん*49慶應義塾大学教授)
司会
「VTRの状況は、あくまで限定的だとは思います。
 しかし、アメリカの中の分断は、実はトランプ大統領登場以前から進んでいたと。
 差別主義団体の数は、実はオバマ政権下が過去最多になっているわけです。
 それを経て、トランプ大統領が誕生してきているこの流れについて、また、今後をどう見る?」
渡辺さん
「これは、社会の格差の拡大と結び付いていると思うんですね。
 社会の中で、ミドルクラスが縮小して余裕がなくなる、他者に対する寛容が失われてくる。
 そういう中で、反イスラムとか、反黒人、反白人というような、そういう対立や憎悪の思想、考え方というのは広まりやすい風潮があるので、これは、そう簡単に消えるものではないと思います。」
司会
「パトリックさんは、どう思う?」
パトリックさん
「僕は、揺り戻しを待つしかないんじゃないかと思います。
 何度も、こういう過激的なアクションを起こした後は、穏やかなアメリカに戻っているから、一進一退ではなく、3歩進んで2歩戻る、そういう少しずつ進歩していると信じたいです。
 今回は波が来ているから、揺り戻しは必ず来ると信じています。
(必ずや、またリベラリズムが戻ってくるんじゃないかと。)
 変なことが起きる前に、揺り戻しが来るといいなと思っています。」

 何かオルトライトの物言い「白人の方が差別されてる」が何かに似てるな、と思ったんですが完全に在特会ですね。
 在日特権なんてモンがないのと同様、黒人が白人より恵まれてるなんて話はないわけです。

http://miyearnzzlabo.com/archives/44675
町山智浩*50 バージニア州白人至上主義者集会の衝突事件を語る
(前略)
町山智浩
(ボーガス注:白人至上主義者が)もう完全に、いわゆるAR15という強力な軍用の銃(アサルトライフル)を持ってきて。もう、(ボーガス注:やろうとすれば有色人種を)大量虐殺できる状態で来たんですよ。
海保知里
 恐ろしい……。
町山智浩
 だから市と州は非常事態宣言を出したんですね。これはもう地元警察だけでは対応しきれないと。だから、非常事態宣言っていうのは「援軍を呼ぶ」っていうことなんですよ。
(中略)
 で、トランプ大統領が非常に問題視されているのは、この事件があったにもかかわらず、「今回の事件はどっちも悪い」というようなことを言ったんですね。
(中略)
 それで非常に問題になったのはどうしてか? というと、その集会に集まっていた右翼の人たちが「ハイル・トランプ! ハイル・トランプ!」とかやっていましたからね。
(中略)
 すごく面白いのはKKKの元リーダーで非常に有名なデビッド・デュークという男がいて。トランプの支持をずっと表明していたKKKのリーダーなんですけども。いまも主導的にね。その彼がその右翼集会の現場に来ていて。で、マスコミに対して、「この集会はトランプの約束を実現するための集会だ」って答えているんですよ。
海保知里
 「トランプの約束」?
町山智浩
 「この集会は我々がトランプに投票した意味なんだ」っていう風に説明しているんですよ。
山里亮太
 ええっ?
町山智浩
 だから「トランプは我々白人の地位を取り戻してくれるんだ。だから我々はこうやってやっているんだ」という、トランプのためにやっているんだということをそのKKKのリーダーが言っちゃったんですよ。だからトランプは絶対にこれを否定しなきゃならなかったのに、否定しなかったからみんなに「どういうことなんだ!?」と。で、「いままでさんざん、あらゆる人を攻撃して叩いていたのに。CNNとかヒラリーとか、片っ端から叩いているのに、なぜその右翼団体だけは叩かないんだ?」っていう話になっていったんです。
(中略)
 「話がおかしいじゃないか。なんでそっちだけバランスを取るんだよ?」ということになっていったんですよね。ただ、彼としては非常に立場が難しいのは、このデューク自身がこう言っていて。
「トランプは誰のおかげで大統領になったと思っているんだ?」と。要するに、「我々右翼や白人至上主義が投票したから、勝てたんじゃないか!」っていう風に言っていて。だから、トランプは否定できなかったんですね。

http://www.sankei.com/world/news/171013/wor1710130028-n1.html
■産経『米大統領選へのロシア介入疑惑、「ポケモンGO」を悪用 人種差別問題あおる目的か』
 【ワシントン=塩原永久】ロシアによる昨年の米大統領選介入疑惑で、米CNNテレビは12日、露当局と関係がある企業が、米国内で人種差別問題をあおるため、スマートフォン向け人気ゲーム「ポケモンGO(ゴー)」を悪用した可能性があると報じた。
 この企業は昨年7月、SNS(交流サイト)を通じてポケモンGOを使ったコンテストを開催。2014年にニューヨークで黒人男性が、白人警察官に首を絞められる格好で押さえつけられ死亡した現場周辺で、キャラクターを見つければギフトカードがもらえると呼びかけていた。
 キャラクターには、米国内で続発していた、警官に暴行、射殺されるなどした黒人被害者の名前をつけるよう促されていた。実際にコンテストに参加した人がいたかどうかは不明。
 大統領選介入疑惑をめぐっては、これまでにツイッターフェイスブックなどに米国内の対立をあおる広告などが掲載されていたことが判明し、米議会が調査に乗り出している。
 「ポケモンGO」を開発した米ナイアンティックはCNNに対し、「ゲームが許可なく悪用された」とコメントした。

 まあ、その企業がロシアと関係があるかないかとか、どういう思惑かとか、こういうコンテストをどう評価するかはともかく、「そういうコンテストが成立しうる」米国って国は「黒人差別的な意味」でおかしいと思いますよ。
 ある意味大事なことは『ロシアの干渉疑惑』なんかより『未だに深刻な米国の黒人差別』でしょう。
 「ロシアの干渉ガー」でその辺りが曖昧になることを危惧しますね。

https://jp.sputniknews.com/world/201710134182421/
スプートニク日本『「ポケモンGOを悪用し米に干渉」報道に露外務省コメント』
 スマートフォン向けゲーム「ポケモンGO」を悪用して米国の国内情勢にロシアが干渉しようとしていたとの米メディア報道について、ロシア外務省のザハロワ報道官がコメントした。
 ザハロワ氏はフェイスブックで、「CNNの論理によれば、ポケモンのゲームをプレーするなかで黒人は、自分はどういう市民的立場を占めているかを定義していることになる。このような稚拙な論法でCNNは現代米国社会での人種問題の発生を説明しようとしているのだ。またしても悪いのはロシア人、そしてロシア人に操られたポケモンというわけだ」と述べた。
 先に米CNNは、ロシアがいわゆる「米国の国内情勢に影響を与える」目的で、SNSだけでなく動画投稿サイト「ユーチューブ」や人気ゲーム「ポケモンGO」も利用していたと報じた。
 それによると、問題となったのは、白人警官による黒人の射殺・暴行事件に抗議する運動のキャンペーン「Don't Shoot Us(私たちを撃たないで)」。このキャンペーン名義のアカウントはSNSフェイスブック、インスタグラム、ツイッターウェブログサービス「タンブラー」、動画投稿サイト「ユーチューブ」で登録されていた。キャンペーン主催者は、これらのプラットフォームを利用して黒人に対する白人警官の数多くの暴行事件を思い出させようとしていたと伝えられている。
 またCNNは、ユーチューブに投稿されたキャンペーン動画には全て、ウェブサイト「donotshoot.us」(米イリノイ州登録)へのリンクが貼られ、このサイトからはウェブログサービス「タンブラー」のアカウントへ誘導されており、ここで「ポケモンGO」を使ったコンテストの開催案内が2016年7月に行われたとしている。
 コンテスト参加者は警官による暴行事件のあった場所に集合する旨を案内され、見つけたポケモンには事件で犠牲となった黒人の名前を付けるよう促されたという。


歴史科学協議会第51回大会準備号「歴史における危機と復興の諸相Ⅱ」
(内容紹介)
 第51回大会(11/25(土)、26(日)、早稲田大)の演題について簡単な紹介がされています。
 とりあえず演題のみ紹介しておきます。
【第1日目】「共謀罪」・治安体制強化の今日的意味
現代日本における「治安」の構造(大日向純夫*51
共謀罪と差別扇動規制:社会統制をめぐる国家の変容(木下ちがや*52

【第2日目】災害・復興と社会の変容
■連鎖する開発と災害(榎原雅治*53
■1666年ロンドン大火の要因の再検討:「大火」化の社会的背景と復興過程における変容(菅原未宇)
第二次世界大戦後日本の闇市に見る危機と復興(初田香成*54

*1:昔は「義和団事変」「義和団事件」「義和団の乱」と呼ぶことが多かったと思います(ちなみにウィキペディアでは「義和団の乱」)。しかし片山論文では「義和団戦争」と呼んでいます(義和団戦争という言葉を使っている著書としては例えば小林一美義和団戦争と明治国家(増補版)』(2008年、汲古書院))。またこの事件については「北清事変」「北清事件」と呼ぶ人もいます(例えば斎藤聖二『北清事変と日本軍』(2006年、芙蓉書房出版))。もちろん「事変」と「戦争」の違いは、満州事変、シナ事変(現在は一般に日中戦争と呼ばれる)などもそうですが「宣戦布告が正式にはされなかったから」です。もちろん、片山氏は「宣戦布告したかどうか」ではなく「軍事行動が長期間に亘り、多額の戦費を支出し、多数の死者が出た」という点を重視し「戦争」と呼ぶわけです。また片山氏が「乱」と呼ばないのは価値中立的なイメージがある「戦争」と違い、「乱」には「ネガティブなイメージがある」からでしょう。

*2:著書『日露戦争と新聞:「世界の中の日本」をどう論じたか』(2009年、講談社選書メチエ)、『小村寿太郎:近代日本外交の体現者』(2011年、中公新書

*3:実際には日本の他にオーストリア、フランス、ドイツ、イタリア、ロシア、イギリス、アメリカが出兵した。

*4:日本は出兵国中、2万人という最大の兵力を送りました。

*5:原文のまま。ただしウィキペディアコトバンクは「1887年」としていますので恐らく誤記でしょう。

*6:この種の話で有名なのが在郷軍人会の不買運動などで信濃毎日新聞主筆桐生悠々が退社に追い込まれた「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」事件です。

*7:田中義一内閣外務政務次官立憲政友会幹事長、犬養内閣書記官長など歴任。

*8:張作霖暗殺事件での対応で昭和天皇の不信を買って崩壊する。

*9:第二次山本、原内閣陸軍大臣立憲政友会総裁を経て首相

*10:岸内閣科学技術庁長官、佐藤内閣運輸相、防衛庁長官、田中内閣通産相自民党幹事長(三木総裁時代)、総務会長(福田総裁時代)、鈴木内閣行政管理庁長官などを経て首相

*11:自民党幹事長(小泉総裁時代)、小泉内閣官房長官などを経て首相

*12:1888〜1956年。大西と同じ福岡県立中学修猷館卒。朝日新聞政治部長、編集局長、常務、専務、副社長(主筆兼務)など歴任。しかし創業者一族である村山長挙社長と対立し、退社。小磯内閣情報局総裁として政界入り。戦後も東久邇宮内閣書記官長、吉田内閣官房長官、副総理など歴任

*13:1900〜1967年。大西と同じ福岡県立中学修猷館卒。戦後、朝日新聞論説主幹(常務兼務)

*14:1901〜1944年。大阪朝日新聞上海支局、大阪朝日新聞外報部で勤務。後に朝日を退社し評論家に転じる。ゾルゲ事件で死刑判決。

*15:1900〜1974年。大西と同じ福岡県立中学修猷館卒。戦前、朝日新聞大阪本社経済部長、東京本社東亜部長を歴任。戦後、朝日新聞東京本社論説委員室副主幹、西部本社編集局長、大阪本社編集局長、中部支社長、大阪本社代表取締役、東京本社代表取締役を歴任。ゾルゲ事件リヒャルト・ゾルゲが、「リヒャルト・ゾンテル」というペンネームで著した『新ドイツ帝国主義』 (1928年) を、ソ連共産党の理論家ブハーリンコミンテルン議長など歴任、スターリン粛清により銃殺)の名をもじった「不破倫三」というペンネームを使用して翻訳(邦題は『新帝国主義論』)している。なお、益田の「不破倫三」というペンネームについて、元日本共産党議長の不破哲三(本名は上田建二郎)の名前の由来であるとする説もあるが不破本人はそれを否定している。

*16:島田大輔氏はともかく、産経のようなウヨ連中はそういう居直り正当化話にしたがりますが。

*17:桂、大隈内閣蔵相、加藤高明内閣内務相を経て首相

*18:戦前、加藤高明、濱口内閣外相。戦後、首相

*19:後に第二次北伐において蒋介石に敗北し、日本に亡命。1932年に再起を期して中国に戻るが、以前張に処刑された国民党軍軍長・鄭金声の甥である鄭継成によって済南駅で刺殺された。

*20:済南総領事、青島総領事、ルーマニア公使(ユーゴスラビア公使兼務)など歴任

*21:山東省の省都

*22:広東省省都

*23:義和団戦争での北京議定書に基づき天津に駐屯した日本軍部隊。

*24:軍閥・李宗仁と蒋介石が対決。蒋が勝利し李は降伏する。李は蒋介石政権幹部(安徽省政府主席、国民党副総統など歴任)となるが、蒋との対立は解消されず、国共内戦で蒋が台湾に亡命(?)した際に、李は蒋には従わず米国に亡命している。

*25:軍閥・閻錫山と蒋介石が対決。蒋が勝利し閻は降伏。閻はその後、山西省政府主席、行政院長(首相)兼国防部長など歴任。

*26:蒋介石の北伐に敗北し失脚。非常に残虐な性格であり、いわゆる浙魯戦争の際に敵側・魯軍の司令官である施従濱を捕らえたが、即座に銃殺したばかりか遺体の首を市街に三日三晩晒して辱めるという時代錯誤的な報復をした。これに恨みを抱いた施の娘が、後に孫を射殺することになった。

*27:北伐を実施していた蒋介石軍のこと

*28:東京大学名誉教授・信州大学名誉教授(マルクス経済学)。法政大学総長を務めたマルクス経済学者・大内兵衛の次男。著書『国家独占資本主義』(2007年、こぶし文庫)など

*29:一橋大学名誉教授(日本近現代史)。著書『象徴天皇制への道:米国大使グルーとその周辺』(1989年、岩波新書)、『昭和の恐慌』(1994年、小学館ライブラリー)、『近現代史をどう見るか:司馬史観を問う』(1997年、岩波ブックレット)、『労働者と農民』(1998年、小学館ライブラリー)、『戦後史』(2005年、岩波新書)、『「坂の上の雲」と司馬史観』(2009年、岩波書店)など

*30:筑波大学名誉教授(日本近現代史)。著書『満洲国と国際連盟』(1995年、吉川弘文館)、『新版・日中戦争:和平か戦線拡大か』(2000年、中公新書)など

*31:済南事件の中国での呼び方。

*32:ロンドン総領事、サンフランシスコ総領事、上海総領事、スイス公使を歴任

*33:2014年に第30回正論大賞西岡力と共に受賞した「河野談話否定論者」。著書『慰安婦と戦場の性』(1999年、新潮選書)、『南京事件(増補版):「虐殺」の構造』(2007年、中公新書)など

*34:参謀本部作戦部中国課課長、支那駐屯軍参謀長、香港軍政庁長官、北京特務機関長などを歴任し、陸軍きっての中国通として知られた。1945年12月、中国国民党政府に戦犯容疑で逮捕された。 1946年8月27日、南京軍事法廷で死刑判決が下され、同年9月30日、銃殺刑に処された。

*35:関東軍作戦参謀として、板垣征四郎(戦後、A級戦犯として死刑判決)とともに柳条湖事件を起した首謀者であるが、後に東條英機との対立から予備役に追いやられ失脚したため、近衛、平沼内閣陸軍大臣朝鮮軍司令官、第7方面軍(シンガポール)司令官を歴任した板垣と違い、戦犯指定を免れたといわれる。

*36:1932年1月18日午後4時ころ、団扇太鼓をならし南無妙法蓮華経を唱えながら勤行していた日蓮宗日本山妙法寺の僧侶2名と信徒3名が中国人と見られる数十人の集団に襲撃された。その結果、僧侶の水上秀雄が死亡し、天崎天山ら2名が重傷を負った。この事件について、当時、上海公使館附陸軍武官補だった田中隆吉 (当時は少佐、最終階級は少将)は、1931年10月初頭、柳条湖事件の首謀者であった関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐、花谷正少佐から列国の注意を逸らすため上海で事件を起こすよう依頼され、その計画に従って自分が中国人を買収し僧侶を襲わせたと1956年になって証言した。

*37:2002年、文藝春秋

*38:著書『満州事変と対中国政策』(2003年、吉川弘文館

*39:1990年、展転社

*40:台湾を支配していた台湾(中華民国)総統の蒋介石の米寿を記念して産経新聞が1974年8月15日から1976年12月25日まで紙面で連載した企画記事及びそれをまとめて出版した書籍。時期から見て「日中共同声明(1972年)で台湾と断交しても日本の台湾ロビーは、台湾とはずっと友達だから」アピールでしょう。

*41:産経が台湾の中国国民党と仲が良かった時代の書物とは言え、産経が「済南事件」で日本の非を認めている点が興味深い。なお、現在は南京事件全否定の産経も蒋介石秘録では事件の存在を認めています。これについては例えば■模型とかキャラ弁とか歴史とか『南京事件犠牲者数40万人説は蒋介石秘録(産経新聞社)にも載っている昔からある話』(http://d.hatena.ne.jp/D_Amon/20120223/p1)、■誰かの妄想・はてなブログ版『「蒋介石秘録」に見る南京大虐殺』(http://scopedog.hatenablog.com/entry/20120226/1330258512)、■日の本の下で『産経新聞は歴史戦をするなら『蒋介石秘録』の南京事件の記述に対する総括をするべき!』(http://blog.goo.ne.jp/nippondaisuki/e/5d7ffa2be7ae3ff5354a782153dc4706)、■togetter『南京大虐殺の犠牲者は30〜40万人 産経新聞』(https://togetter.com/li/757408)を参照。

*42:蒋介石政権において甘粛省政府主席、重慶市長など歴任。新中国建国後は、中南軍政委員会委員兼交通部長、民革(中国国民党革命委員会)中央常務委員、全国人民代表大会代表、中国人民政治協商会議全国委員会委員を歴任

*43:著書『広田弘毅:「悲劇の宰相」の実像』(2008年、中公新書)、『日中国交正常化田中角栄大平正芳、官僚たちの挑戦』(2011年、中公新書)、『大平正芳:理念と外交』(2014年、岩波現代全書)、『中曽根康弘:「大統領的首相」の軌跡』(2015年、中公新書)、『外交ドキュメント 歴史認識』(2015年、岩波新書)、『田中角栄:昭和の光と闇』(2016年、講談社現代新書)など

*44:中国公使、エストニア公使(ラトビア公使およびリトアニア公使兼務)、トルコ公使など歴任

*45:第一次世界大戦後、ワシントン会議(1921〜22)で成立した九カ国条約、四カ国条約、ワシントン海軍軍縮条約によってつくりだされた、戦後の東アジア、太平洋における国際秩序体制。日本が「九ヵ国条約で定められた『中国の現状維持』を無視し1932年に満州国を建国したこと」「1934年に軍縮条約を破棄したこと」で体制は崩壊した。

*46:ホワイトクリームをチョコクッキーで挟んだお菓子。「外見は黒人でも精神は白人だ(つまり白人に媚びてる黒人という意味)」という皮肉。似たような言葉で「バナナ(白人に媚びてる黄色人種)」つうのもあります。

*47:トランプ陣営選挙対策本部長を経て首席戦略官・大統領上級顧問。しかし、クシュナー大統領上級顧問(トランプの娘イバンカの夫)、マクマスター大統領補佐官(国家安全保障担当)、ティラーソン国務長官など政権内部の反オルトライトと対立し更迭される。

*48:オバマ政権で国務長官

*49:著書『アメリカン・デモクラシーの逆説』(2010年、岩波新書)、『アメリカン・コミュニティ:国家と個人が交差する場所』(2013年、新潮選書)、『アメリカのジレンマ:実験国家はどこへゆくのか』(2015年、NHK出版新書)など

*50:著書『キャプテン・アメリカはなぜ死んだか』(2011年、文春文庫)、『底抜け合衆国:アメリカが最もバカだった4年間』(2012年、ちくま文庫)、『アメリカは今日もステロイドを打つ:USAスポーツ狂騒曲』(2012年、集英社文庫)、『99%対1%:アメリカ格差ウォーズ』(2014年、講談社文庫)、『アメリカ人もキラキラ★ネームがお好き:USA語録2』(2016年、文春文庫)、『マリファナも銃もバカもOKの国:USA語録3』(2017年、文春文庫)など

*51:著書『警察の社会史』(1993年、岩波新書)、『近代日本の警察と地域社会』(2000年、筑摩書房)、『自由民権期の社会』(2012年、敬文舎)、『維新政府の密偵たち:御庭番と警察のあいだ』(2013年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)など

*52:著書『国家と治安:アメリカ治安法制と自由の歴史』(2015年、青土社)、『ポピュリズムと「民意」の政治学:3・11以後の民主主義』(2017年、大月書店)

*53:著書『中世の東海道をゆく:京から鎌倉へ、旅路の風景』(2008年、中公新書)、『室町幕府と地方の社会』(2016年、岩波新書)など

*54:著書『都市の戦後:雑踏のなかの都市計画と建築』(2011年、東京大学出版会)、『盛り場はヤミ市から生まれた・増補版』(共著、2016年、青弓社)など