高世仁に突っ込む(2020年4/18日分)

『ロマノフの消えた金塊』を読む - 高世仁の「諸悪莫作」日記

 外出自粛要請で、本でも読もうかと思っている方も多いだろう。

 とはいえ、自粛要請のために、図書館や本屋が閉まっていることが多くて「今からじゃ本が入手できない!」つう面はあります。
 もちろん「アマゾンなどネット販売で本を購入」「ネット上で読める電子書籍を読む(コロナ対応と言うことで一部については無料提供もあるようです)」つう手はありますが。

 お勧めの一冊が、上杉一紀『ロマノフの消えた金塊*1』(東洋書店新社)だ。

 『経営不振で倒産した「東洋書店」が有志によって再建された=東洋書店新社』のようです。
 「河出書房倒産後の河出書房新社」「中央公論社倒産後の中央公論新社(読売グループ入り)」みたいなもんでしょう。

 「消えた金塊」とくれば、「徳川埋蔵金」やら「フィリピンの山下財宝」やらの怪しげな話を思い浮かべがち

 「フィリピンの山下」とは第14方面軍(フィリピン)司令官として終戦を迎え、フィリピンで戦犯として絞首刑となった山下奉文*2のことです。山下は一般には第14方面軍(フィリピン)司令官としてよりも「マレーの虎」の異名を獲得した第25軍(マレーシア)司令官としての方が有名でしょうが。
 なお、「徳川埋蔵金伝説」「山下財宝伝説」に共通するのは「財宝を隠したとされる人間(小栗上野介*3と山下)」が「処刑されていること(小栗は明治新政府、山下は米軍)」ですね。「隠した人間が死んだ→隠し場所が分からなくなった」という伝説が生まれるわけです。

【参考:徳川埋蔵金

今週の本棚・新刊:『明治維新の敗者たち 小栗上野介をめぐる記憶と歴史』=マイケル・ワート著、野口良平・訳 - 毎日新聞
 旗本の小栗上野介は、浦賀に来航したペリーと交渉し、アメリカにも派遣され見聞を広めた。幕府の陸海軍増強に努め、横須賀に造船所も築いた。薩長を主体とする西軍が迫ると抗戦を主張、職を解かれる。知行地の上州に移り、新政府側に捕らえられて、斬首された。群馬県内で鉱山開発に携わったことがあるので、徳川埋蔵金伝説が生まれた。

【参考:山下財宝】

【産経抄】6月4日 - 産経ニュース
 「山下財宝」をめぐる騒動は、いつまで続くのだろう。第二次世界大戦中に旧日本軍が戦線で奪取し、フィリピンに隠したとされる、膨大な金や通貨などを指す。名前はフィリピン戦線最後の司令官だった山下奉文(ともゆき)大将に由来する。「マレーの虎」と呼ばれた名将にとって、迷惑な話である。
ルソン島沖の南シナ海に浮かぶカポネス島で、違法な穴掘りをしていた日本人4人も、この財宝を狙っていたようだ。穴は約5メートル四方で、深さも約5メートルあった。発掘作業のためにフィリピン人を雇っていた4人は、2日までに警察に逮捕された。
▼マルコス元大統領が不正蓄財を疑われた際には、イメルダ夫人が「資金源は山下財宝」と言い訳に利用したものだ。政府高官が記者会見で、「財宝の一部のプラチナを発見」と発表して大騒ぎになったこともある。結局その後の調査で鉄くずと分かった。
▼ブルドーザーを使った発掘で古代の土器など貴重な遺跡を破壊して、地元でひんしゅくを買ったのは、日本人が指揮するグループだった。 「都市伝説にすぎない」との説が有力だが、今でも一獲千金を夢見る人が後を絶たない。
▼敗戦とともに投降した山下は、昭和21年2月に戦犯として絞首刑に処せられる。

【参考終わり】

 白軍のリーダー、コルチャーク、セミョーノフらは金塊を日本での資金調達にあて、また東への輸送を日本軍に依頼するなど、日本を頼みにしていた。

 小生の持ってる本、井竿富雄*4『初期シベリア出兵の研究』(2003年、九州大学出版会)は『日本の支援を受けたセミョーノフ』について「日本の支援で活動しようとしていた」と言う面では

日中戦争での溥儀(満州国)や汪兆銘(南京国民政府)
・太平洋戦争のチャンドラ・ボース自由インド仮政府

など「いわゆる親日派政権指導者」と似ていると思うと書いています(小生が思うに日本軍の支援を受けていた「張作霖」の名を上げてもいいのではないか)。
 また

【1】シベリア出兵は当初「チェコ軍団の救出」を「建前上の目的」としており「きれいごとが掲げられた(もちろん真の目的はシベリア利権獲得やソビエトレーニン政権打倒だが)」と言う点では「東亜新秩序」「五族*5協和」「暴支膺懲(つまり正義の戦争という意味だが、もちろん真の目的は蒋介石政権打倒による中国全土植民地化)」が「建前上の目的」としてかかげられた日中戦争、「アジアの解放」「大東亜共栄圏(もちろん真の目的は、いわゆる蒋介石支援ルートの破壊と東南アジアの植民地化)」が「建前上の目的」として掲げられた太平洋戦争と似ていること
【2】「いわゆる尼港事件(ニコラエフスク事件)の顛末」は「いわゆる通州事件の顛末(いずれも、そもそも日本軍が出兵して現地民の反発を買わなければ良かったのに『現地暴徒に日本人が虐殺された!』といたずらに相手への敵意を募らせる)」に似ていること
【3】どちらも日本の負け戦であるが、情報統制で当初、国民がそれを知らなかったこと
【4】日本軍がゲリラ戦に悩まされてることや、その対抗措置として、ロシアにおいても「日中戦争での三光作戦」的な手段(後で紹介するイワノフカ村虐殺事件など)に出ていること

などの「日中戦争、太平洋戦争とシベリア出兵の共通点」を指摘しています。
 面白い見方かな、とは思います。
 ちなみに「シベリア出兵」でググると、井竿富雄『初期シベリア出兵の研究』(2003年、九州大学出版会)の他には

細谷千博*6『シベリア出兵の史的研究』(1955年、有斐閣→2005年、岩波現代文庫)
◆原暉之*7『シベリア出兵・革命と干渉 1917~1922』(1989年、筑摩書房
◆児島襄*8『平和の失速:大正時代とシベリア出兵』(1995年、文春文庫)
◆白鳥正明『シベリア出兵90年と金塊疑惑』(2009年、東洋書店ユーラシア・ブックレット)
◆麻田雅文*9『シベリア出兵:近代日本の忘れられた七年戦争』(2016年、中公新書)
◆広岩近広*10『シベリア出兵:「住民虐殺戦争」の真相』(2019年、花伝社)
◆土井全二郎『シベリア出兵』(2020年、光人社NF文庫)

がヒットします。
 なお、話が脱線しますが「シベリア出兵がらみ」では松本清張が「石田検事の怪死」(松本『昭和史発掘』(文春文庫)収録)と言う文章を書いています(後で紹介します)。

【参考:白軍幹部】

セミョーノフ(1890~1946年、ウィキペディア参照)
 十月革命の勃発を受けて反革命勢力として活動を開始。日本軍参謀本部から武器と資金提供を受け、日本のシベリア出兵を機にザバイカル州に反革命地方政権を樹立する。
 1918年9月、イギリスに擁立されたコルチャークにより、オムスクに臨時全ロシア政府が成立すると、セミョーノフはコルチャークからザバイカルの統治権限を受ける。しかし、日本軍の後ろ楯を失い失脚し、1921年ウラジオストクを脱出した後上海、アメリカ、日本を転々としながら反ソ活動を継続する。1945年8月、大連にいたセミョーノフは赤軍に捕縛され、1946年8月モスクワで国家財産略取の罪で絞首刑が執行された。

◆コルチャーク(1873~1920年ウィキペディア参照)
・1916年8月に中将に昇進し、黒海隊司令長官に任命された。
・1917年、二月革命が勃発すると、コルチャークはロシア臨時政府に恭順するが、6月7日にボリシェヴィキ派水兵の反乱により司令官を解任される。臨時政府の閣僚や新聞は「将来の独裁者」としてコルチャークを危険視したが、陸海軍大臣アレクサンドル・ケレンスキー*11は、戦時体制の強化のためにアメリカ合衆国に向かうように命令した。アメリカ視察後、日本経由でロシアへの帰国を目指した。
・コルチャークは、横浜港に着いた時に十月革命の勃発を知り、2か月半日本に滞在した。その後、イギリスの後援で、オムスクに樹立された反ボリシェヴィキ政権の臨時全ロシア政府に陸海軍大臣として迎え入れられた。
 しかし、11月18日にイギリスの支援を受けクーデターを起こし、閣僚や社会革命党の幹部を逮捕した。コルチャークは元首就任と非常時大権付与を承認させ、反対する閣僚は国外に追放した。反対者を一掃したコルチャークは最高執政官に就任し、ウラル以東のほぼ全域に軍事独裁体制を敷いた。
・社会革命党はコルチャークを非難し、12月18日に500人の党員が武装蜂起するが、コサック軍とチェコ軍団に鎮圧された。その後、社会革命党は1919年1月にボリシェヴィキ政権と交渉を開始し、赤軍に加わった。一方、コルチャーク政権樹立は、反共主義の人々から歓迎された。イヴァン・アレクセーエヴィチ・ブーニン*12(1933年ノーベル文学賞受賞者)は1919年6月の日記に「イズベスチヤはコルチャークを"悪魔"と呼び下品な言葉で罵った。だが、私は喜びの涙で溢れていた」とコルチャークへの期待を記している。
 しかし、コルチャーク軍は補給線が追い付かなくなり進軍が止まり、反対に赤軍は各地から増援された。また、連合国からの支援も得られなくなっていった。チェコ軍団を指揮するフランス軍事顧問のモーリス・ジャナンは、コルチャークをイギリスの傀儡と見なしており、日本もコルチャークからの派兵要請を拒否した。アメリカもコルチャークの独裁に反対していたため一切の協力を拒んだ。コルチャークは少数民族の独立に反対していたため、彼らからの支援も得られず、また列強の支援に依存していたため劣勢に立たされた。さらに農民からの支持も得られず、アルタイ地方やエニセイスクでは赤軍に協力する勢力が伸長し、1919年夏までに2万5,000人が赤軍に協力しコルチャーク軍に抵抗した。
 1919年11月13日にコルチャークはオムスクを放棄し、シベリア鉄道を使いイルクーツクに撤退し、赤軍は抵抗を受けることなくオムスクを占領した。1920年1月4日、コルチャークは部隊を解散し、最高執政官の権限をアントーン・デニーキン*13に、軍権をグリゴリー・セミョーノフにそれぞれ移譲した。1月14日、フランス軍事顧問ジャナンはチェコ軍団にコルチャークを逮捕するように命令し、コルチャークは赤軍ボリシェビキ)に引き渡された。1月21日から軍事革命委員会により裁判が開かれ、行動を共にしていた首相のヴィクトル・ペペリャーエフと共に2月6日死刑判決を受け、2月7日にペペリャーエフとともに銃殺された。

【参考:広岩近広『シベリア出兵:「住民虐殺戦争」の真相』(2019年、花伝社)】

平和をたずねて:軍国写影 反復された戦争/63 日本軍の「焼き殺し」追体験=広岩近広 - 毎日新聞
 岐阜県西部の山間地に、真宗大谷派の勝善寺(揖斐川町東横山)を訪ねた。住職の横山周導さん(93)は、僧侶であり、シベリア抑留の体験者だが、1918(大正7)年8月にシベリア出兵が宣言されたときには、生まれていなかった。
 だが横山さんは、シベリアに派兵された日本軍による「イワノフカ村焼き打ち事件」を、村民の立場から追体験した。19年3月22日に起きた事件について、横山さんはこう語る。
 「アムール州のイワノフカ村は、州内屈指の豊かな農村でした。シベリア出兵時の日本軍が、この村を襲撃し、1歳半の女の子を含めて293人の村民を殺したというのです。このうち36人は小屋に押し込められて、生きたまま焼き殺されました。大勢の無辜(むこ)の民が虐殺されていたのですから衝撃でした。私は中学の社会科教師をしていましたが、日本側の歴史から消されていたのでしょうか……。何も知らなくて、恥ずかしい」

平和をたずねて:軍国写影 反復された戦争/64 日本兵、住民300人虐殺の衝撃=広岩近広 - 毎日新聞
 シベリア出兵中の日本軍による「イワノフカ村焼き打ち事件」(1919年3月)は、住民虐殺だった。村には四角すい体の追悼碑が、2基建っている。金色の星のレリーフがついた碑には<257人のイワノフカ住民が射殺された>とある。赤色の炎を造形した碑は<この地において日本人たちは36人のイワノフカ住民たちを、生きながら焼殺した>と刻まれている。
 日本軍はイワノフカ村を抗日パルチザンの拠点とみて襲撃するが、すでに逃走した後だった。しかし村の焼き打ちに及んだ。岐阜県・勝善寺の住職、横山周導さん(93)はイワノフカ村の歴史資料館でも、この事実を確認する。

 まさに「イワノフカ村焼き打ち事件=ロシア版三光作戦」といっていいでしょう。日本では「南京事件」「慰安婦」「731部隊」「三光作戦」に比べて無名のこの虐殺事件ですが、今後、世間に知られるようになればおそらく産経などウヨが「ロシアの捏造」「日本軍はそんな野蛮なことはしない」と強弁し、この毎日記事の筆者・広岩近広記者についても「慰安婦問題で植村隆元朝日新聞記者を誹謗している」ように「毎日の広岩がロシアの捏造に加担した」と誹謗するのでしょう。
 しかし「日本においてシベリア抑留(ロシアからの被害)は知られていてもイワノフカ村事件(ロシアへの加害)は知られていない」と言う辺り「加害者は忘れたがるが、被害者は忘れない」ということをこれほど示している話もないでしょう。

平和をたずねて:軍国写影 反復された戦争/65 日露の誓い「懺悔の碑」に=広岩近広 - 毎日新聞
 ロシア極東アムール州のイワノフカ村に、日露共同追悼碑「懺悔(ざんげ)の碑」が建立されたのは1995年7月のことだった。全国抑留者補償協議会(全抑協)の斎藤六郎会長とイワノフカ村のウス村長が、4年間にわたって話し合った末に、平和を祈念する追悼碑の建立に結びついた。広い公園の中央にシンボル的な存在として建つ「懺悔の碑」は、高さ8メートルの白いタイルの塔柱である。
 追悼碑の除幕式は、約1500人のイワノフカ村民をはじめ、近隣の村からも大勢が参加して盛大に行われた。日本からは斎藤会長ら約40人が参列した。

平和をたずねて:軍国写影 反復された戦争/74 尼港事件、抗日虐殺735人=広岩近広 - 毎日新聞
 シベリアに派兵された日本陸軍による「イワノフカ村焼き打ち事件」(1919年3月)と対極になったのが、20年3月から5月にかけて起きた「尼港(にこう)事件」である。居留民や陸海軍の兵士ら735人が抗日パルチザンに虐殺された。

 「イワノフカ村事件(1919年)」を考えれば、一方的に尼港事件(1920年)で被害者面など出来る話ではないですが、日本人は情報統制でイワノフカ村事件など知らず、いたずらに「ロシアへの敵意」を募らせます。
 その点は「通州事件でいたずらに中国への敵意を募らせた話」ににています。


【参考:石田検事怪死事件】

◆陸軍機密費横領問題(ウィキペディア参照)
 田中義一*14立憲政友会総裁(元陸軍大臣)が立憲政友会入りする際の「持参金」300万円の出所に関わる疑惑である。
 陸軍大将であった田中が1925年に軍人を退役し、政界に転身し、立憲政友会入りをした際に、300万円の持参金を用意していた。出所について尋ねられた田中は、神戸の実業家・乾新兵衛から借りたと言っていたが、シベリア出兵の際の陸軍機密費の一部を陸軍幹部の田中が横領して乾に渡し、それを乾が公債に替えて田中に渡したものではないか、という疑惑が持上った。
 1926年(大正15年)3月4日に衆議院で憲政会の中野正剛代議士がこの問題を取り上げ、帝国議会でも審議されたが、10月30日、この問題を追及していた石田基次席検事が大森・蒲田間の鉄橋下で変死体となって発見され、疑惑はうやむやのうちに終わった。
 石田検事の変死は、松本清張の『昭和史発掘』(文春文庫)にも取り上げられている。

「石田検事を殺したのは『政治』」松本清張が断言した“石田検事怪死事件”とは | 文春オンライン
 文藝春秋を中心舞台にした松本清張氏の活躍は、古代史から現代史に至るまでその量は膨大で、いくつもの山脈が連なっているようだ。その1つが、二・二六事件をハイライトとする「昭和史発掘」だろう。その中の「石田検事の怪死」も、いくつかの真犯人説を提示しており、読み物として興味深い。そもそも、これが「事件」とされるのは、変死した石田基・東京地方裁判所検事局次席検事が、大正時代最後の年となったこの1926年、3つの重大事件のうちの2つを担当していたからだった。ほかの1つは、この「35大事件」で既に取り上げた「朴烈・文子大逆事件と怪写真事件」。石田検事が担当していた2つは、「35大事件」の「田中義一大将の切腹」本編で詳しく取り上げた陸軍機密費事件と大阪・松島遊郭疑獄だ。
 陸軍機密費事件は、若槻礼次郎・憲政会内閣の下、政権奪取を狙う田中義一政友会総裁(男爵、元陸軍大将、のち首相)の死命を制するような事件だった。年が明けて間もない1926年1月14日、東京の金融ブローカーが2年前、300万円の調達を仲介したのに、報酬をもらっていないとして田中総裁を提訴。東京朝日が翌15日付朝刊で「疑問の三百萬円 見苦しい政界の裏面」と大々的に報道してスタートした。記事の中で田中総裁は「根も葉もない馬鹿げた話」としたが、国会で与党憲政会の中野正剛衆院議員が、告発者の元陸軍大臣官房二等主計・三瓶俊治の「摘発書」を公表。「突如衆議院で発(あば)かれた 長州軍閥の醜状」(3月5日付朝日夕刊見出し)に、激しく追及する憲政会と、中野議員の処分を求める政友会の間で国会は連日大混乱。新聞の見出しを見ても、「政友報復の意気物すごく 雨か風かけふの衆議院」「深更四たび開会 たちまち乱闘」「重要議事をよそに 酒宴に耽るとは何事」「議場連日の醜態に 粕谷議長嫌気がさす」など、政界ニュースとは思えないすさまじさだった。
 松島遊郭疑獄は逆に当時の若槻*15憲政会内閣を揺るがす事件だった。1月に政治浪人が「松島遊郭移転に関する政府の盲動と憲・本、研三角関係」という怪文書を配布。それを3月1日付東京朝日が「松島遊郭にからむ奇怪文書の内容」「政界の大うず巻」「各政党員は全部関係」などと大きく報道。以後続くスキャンダルとなった。憲政会の重鎮議員らが収監、起訴され、11月7日には、上京した大阪地方裁判所検事局検事が首相官邸で、移転運動が最も盛んだった時に内務大臣だった若槻首相を証人尋問*16。憲政史上初めてで、前代未聞の事態となった。しかし結局、土地取り引き業者が有罪となったものの、若槻首相は不問とされ、議員も無罪となった*17
 石田検事が変死した後の1926年12月27日、東京地裁検事局は陸軍機密費事件で田中総裁らの不起訴処分を決定。閣議でも報告された。結局、2つの事件とも、真相が明らかにならないまま幕を閉じた。28日付朝日朝刊は「石田検事の死亡もあって(結論が)延び延びになっていたが」「結局、証拠不十分の理由にて不起訴となすに意見が一致した」と報じた。
 「田中義一大将の切腹」本編によると、「当局は極力過失死を強調したに拘らず」、一部の新聞は他殺らしいと報道。「吉益(俊次)検事正は記者会見の際、他殺説を持出す者があると恐ろしい形相で『当局が百方手をつくして過失だと結論しているものを君たちはどんな根拠があってそんなことを言うか』と噛みつくような見幕で叱りつけた。こうして新聞記者達も耳を塞いで了った。かくて他殺説は全く表面から消え去ってしまった」と筆者は書く。
 さらに「石田検事怪死事件」本編には「下山総裁の怪死に対しても、これと同様の推測が行われた」と約4半世紀後の戦後の事件との類似点を挙げている。
 松本清張氏の「昭和史発掘」はさらに強く、「石田検事を殺したのは徹頭徹尾『政治』であった。この点、個人的にはなんの遺恨も受けていなかった下山国鉄総裁の場合とまったく同じである。私は、下山事件は、石田基検事の殺害方法が一つの教科書(テキスト)になっているのではないかとさえ思いたくなる」とまで断言。検事の捜査に影の手が伸びたように書いている。しかし、石田検事と下山総裁では事件における立場は全く違う。さらに、陸軍機密費と松島遊郭が政界に与える効果は逆の方向を示しているうえ、石田検事が、当時の政治や社会状況と合わせて2つの事件をどのようにみていたのかは分からない。それで殺害と断定するのはいささか飛躍ではないだろうか。繰り返すが、読み物としては興味深いが。約30年たっていた時点で今回の本編の筆者は「他殺の線を打出すことは木によって魚を求めるようなものではあるまいか」と書いた。さらにそれから60年余り。謎は歴史の闇に隠れてしまったといえそうだ。

【参考終わり】

 「日本からロシアへの視座は、北方領土やシベリア抑留など、第二次大戦の『被害者』としてのそれにほぼ固定化され、一向に代り映えしない。
 ロシア内戦に列強とともに介入したシベリア出兵もまた、日本では忘却の彼方だ。最大動員時には7万2400名という膨大な兵力をシベリアに展開させた結果、当時の国家予算のほぼ一年分に匹敵する戦費を費やし、しかも、血を流して得るものがなかったという意味で、近代日本初の負け戦であったにもかかわらず、である。」
 ロシア革命以前、日本がロシアに多額の戦費を貸し付けており、金塊について(ボーガス注:シベリア出兵当時の)原*18内閣の蔵相、高橋是清*19が「その運命について本邦は深甚の利害を有する」と重視していたこと、干渉戦争において日本が突出した役割を果たし全派遣軍中、最も遅くまでシベリアに残っていた事実などは意外に知られていないだろう。

 「負け戦であり、かつ日本が加害者であるから」こそシベリア出兵は忘れ去られました。
 「近代日本での戦争」といえば、日本ではもっぱら「日清戦争」「日露戦争」「日中戦争」「太平洋戦争」が連想されると思います。
 シベリア出兵以外では「義和団事変鎮圧」「第一次大戦での対ドイツ戦争(この勝利で日本はパラオなどドイツの植民地を委任統治領という形で戦後、植民地化)」なども「理由はともかく」あまり語られない日本の戦争ではないかと思います。
 そもそも「最近、天皇夫婦(当時、現上皇夫婦)がパラオ訪問したから」その後は知ってる人も増えたでしょうが日本の植民地と言った場合「台湾」「朝鮮」「南樺太(南サハリン)」が思い浮かぶ人は居ても「第一次世界大戦後にパラオが植民地になりました」とすぐに思い浮かぶ人は少ないでしょう。

 革命後、日本に「白系ロシア人」が多く滞在し、また日本から第三国に移住していったが、それは日露の独特な関係を示している。
 ちょっと古い話になるが、名横綱大鵬の父親はウクライナ人のコサック騎兵隊将校(白軍)だったし、プロ野球スタルヒン投手の父親はロマノフ王朝の将校で、革命政権からの迫害を逃れ、シベリアを横断して日本に亡命している。

 「白系」とは「(赤軍に対する)白軍」「白色テロ(川合義虎、平沢計七らが虐殺された亀戸事件(騎兵連隊の犯行)や、大杉栄伊藤野枝虐殺(憲兵隊の犯行)、山本宣治暗殺(黒幕説もあるが民間右翼の個人的犯行)、小林多喜二虐殺(特高の犯行)、浅沼稲次郎社会党委員長暗殺(黒幕説もあるが民間右翼の個人的犯行)のような反共右翼テロのこと)」などと同じ意味での「白(反共右派)」であり「朝鮮系ロシア人」「日系ブラジル人」などのような民族を示すものでもなければ「白人、黒人、黄色人種」のような肌の色をさすものでもないことを指摘しておきます。
 なお、高世があげてる例以外では「洋菓子メーカー・モロゾフの創業者の一人フョードル・ドミトリエヴィチ・モロゾフ」が日本において有名な「白系ロシア人」でしょう(ウィキペディア白系ロシア人」参照)。

【参考:白色テロ

関東大震災直後の亀戸事件とは?
 日本共産党にたいして、警察は、震災3カ月前の6月5日、いっせい弾圧を加え、30余人を検挙しました。しかし、南葛(現在の江東、墨田)を中心に労働運動はなお活発でした。このため、軍と警察は一体になって、震災の混乱に乗じて、社会主義者を一挙に根絶やしにしようとします。
 9月3日、被災者救援のため活動中の南葛労働会の本部から、川合義虎(21)=民青同盟の前身である日本共産青年同盟初代委員長=と、居合わせた労働者、山岸実司(20)、鈴木直一(23)、近藤広造(19)、加藤高寿(26)、北島吉蔵(19)、さらに同会の吉村光治(23)、佐藤欣治(21)、純労働組合の平沢計七(34)、中筋宇八(24)らが相次ぎ亀戸署に留置されました。
 川合ら10人は軍に引き渡され、5日未明、近衛師団の騎兵第13連隊の兵士によって刺殺されました。これがいわゆる「亀戸事件」です。
 「社会主義者狩り」は、亀戸ばかりではありませんでした。
 16日には、アナーキスト大杉栄夫妻と6歳になる甥(おい)が甘粕*20憲兵大尉によって絞殺される甘粕事件が起きます。このように大震災時に、驚くべき野蛮なテロリズムに支配勢力が走ったことは、国民にはけっして忘れることのできない教訓です。

【参考:フョードル・ドミトリエヴィチ・モロゾフ

◆フョードル・ドミトリエヴィチ・モロゾフ(1880~1971年、ウィキペディア参照)
 1917年、ロシア革命が勃発すると、家族を連れてハルビンへ逃れた。1923年、家族とともにハルビンを離れアメリカ合衆国のシアトルへ移住したが生活が成り立たず、1924年にシアトルを離れ日本の神戸へ移住した。
 1926年3月、フョードルは白系ロシア人の菓子職人を雇い、菓子店を開店した。この時、子のヴァレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフ(1911~1999年)も通っていた学校をやめ、菓子職人として店を手伝うことになった。
 1931年6月、事業拡大を目指し出資者を探していたフョードルは、材木会社専務の葛野友槌の協力を得ることになった。葛野はフョードル親子が持っていた設備を買い取り、神戸モロゾフ製菓株式会社(後のモロゾフ株式会社)を設立。代表取締役は葛野が務め、フョードルは取締役に就任。子のヴァレンティンも菓子職人として同社に勤務することになった。会社の経営は順調で、設立2年目には3500円あまりの黒字を出した。
 1933年頃から葛野友槌との関係が悪化。会社の経営方針を巡って対立するようになり、遂には法的紛争に発展した。1936年6月に調停が成立。調停の条件の中には1941年6月10日までの間、フョードル親子が「モロゾフ」という商号を使用することや神戸モロゾフ製菓と同様の事業をすることができないというものが含まれていた。
 紛争後、フョードルには洋菓子製造業を続ける意思はなく、紅茶の輸入販売業を手掛けるようになった。洋菓子製造業は子のヴァレンティンが引き継ぎ、太平洋戦争終戦後にコスモポリタン製菓(ただし2006年に廃業)を設立した。

 シベリアへの邦人進出の実態も興味深い。
 ロシア革命当時、極東ロシアの中心地、ウラジオストクに「第十八銀行」という地方銀行が営業網を伸ばしていた。本店は長崎。

 ぐぐれば分かりますが今も長崎には十八銀行と言う銀行があります。十八銀行の元々の名前は「第十八国立銀行」。
 こうした「国立銀行ナンバー」がその後も社名に残った銀行としては「第十八銀行」以外では

第一国立銀行
・第一銀行→第一勧業銀行(1971年に第一銀行と日本勧業銀行が合併)→みずほ銀行(2002年に第一勧銀、富士銀行、日本興業銀行が合併)
第四国立銀行
第四銀行新潟県地方銀行
◆第十九国立銀行と第六十三国立銀行
・第十九銀行と六十三銀行が合併して八十二銀行(長野県の地方銀行
第七十七国立銀行
七十七銀行宮城県地方銀行
第百五国立銀行
百五銀行三重県地方銀行
第百十四国立銀行
百十四銀行香川県地方銀行

があります。なお三重銀行第三銀行合併後(2021年予定)の三十三銀行は「三重」「第三」の3を二つくっつけた事によるもので国立銀行ナンバーと関係なく、また「第三銀行三重県第二地方銀行*21)」の銀行名も国立銀行ナンバーとは関係ないそうです(ウィキペディア国立銀行(明治)」参照)。

 はるばる極東ロシアまで出稼ぎにきた「からゆきさん」の中からは、シベリア出征の日本軍が情報提供を頼った「シベリアお菊」なる豪傑まで輩出したのである。

 「からゆきさん」については以前新刊紹介:「歴史評論」3月号(その1) - bogus-simotukareのブログで触れたことがありますのでお読み頂けると幸いです。
 「から(唐)」とはもともと「中国」の意味ですが「唐人お吉(唐人ハリス(駐日米国公使)の女中)」でわかるように幕末、明治においては「外国一般」を意味しました。したがって「シベリア」や「アフリカ・ザンジバル」に行く「からゆきさん」もいました。

*1:2019年刊行

*2:226事件当時、陸軍省軍事調査部長。青年将校と同じ皇道派だったため、東条英機武藤章ら統制派が陸軍の実権を握った事件後は、歩兵第40旅団長に左遷される。その後、支那駐屯混成旅団長、北支那方面軍参謀長、第4師団長(満州)、陸軍航空総監(陸軍航空本部長兼務)、第25軍司令官(マレーシア)、第1方面軍司令官(満州)、第14方面軍司令官(フィリピン)など歴任。戦後、死刑判決

*3:江戸幕府外国奉行勘定奉行、陸軍奉行、軍艦奉行など歴任

*4:山口県立大学教授

*5:日本民族朝鮮民族漢民族満州民族、モンゴル民族のこと

*6:1920~2011年。一橋大学名誉教授。著書『ロシア革命と日本』(1973年、原書房)、『日本外交の座標』(1979年、中央公論社)、『サンフランシスコ講和への道』(1984年、中央公論社)、『両大戦間の日本外交:1914-1945』(1988年、岩波書店)、『日本外交の軌跡』(1993年、NHKブックス)など

*7:1942年生まれ。北海道大学名誉教授。著書『インディギルカ号の悲劇:1930年代のロシア極東』(1993年、筑摩書房)、『ウラジオストク物語』(1998年、三省堂

*8:1927~2001年。著書『太平洋戦争 (上)(下)』(1965年、中公新書)、『東京裁判 (上)(下)』 (1971年、中公新書)、『史説山下奉文』(1979年、文春文庫)、『史録日本国憲法』(1986年、文春文庫)、『天皇と戦争責任』(1991年、文春文庫)など

*9:岩手大学准教授。著書『中東鉄道経営史:ロシアと「満洲」 1896-1935』(2012年、名古屋大学出版会)、『満蒙:日露中の「最前線」』(2014年、講談社選書メチエ)、『日露近代史:戦争と平和の百年』(2018年、講談社現代新書)など

*10:毎日新聞客員編集委員。著書『被爆アオギリと生きる:語り部沼田鈴子の伝言』(2013年、岩波ジュニア新書)、『戦争を背負わされて:10代だった9人の証言』(2015年、岩波書店)、『核を葬れ!:森瀧市郎・春子父娘の非核活動記録』(2017年、藤原書店)、『医師が診た核の傷:現場から告発する原爆と原発』(2018年、藤原書店

*11:1881~1970年。二月革命後、陸海軍大臣、首相を歴任。十月革命後は国外に亡命(ウィキペディア『アレクサンドル・ケレンスキー』参照)

*12:1870~1953年。ロシア革命後フランスへ亡命。ロシア人初のノーベル文学賞受賞者。トルストイを尊敬し、ドストエフスキーを評価しなかった。仏教を研究し、最古の仏典スッタニパータとドイツ人仏教学者・オルデンベルクの『ブッダ』を座右の書とした。著書『たゆたう春、夜』、『呪われた日々、チェーホフのこと』(以上、2003年、群像社)、『アントーノフカ』(2007年、未知谷)、『村/スホドール』(2014年、群像社)、『アルセーニエフの人生』(2019年、群像社)(ウィキペディア『イヴァン・ブーニン』参照)

*13:1872~1947年。米国に亡命し1947年に米国で死去。

*14:参謀次長、原、第二次山本内閣陸軍大臣立憲政友会総裁を経て首相

*15:第三次桂、第二次大隈内閣蔵相、加藤高明内閣内務相などを経て首相

*16:現職総理大臣が収賄容疑で予審尋問を受けるという、前代未聞の事態は第一次若槻禮次郎内閣総辞職の遠因にもなったとされる(ウィキペディア『松島遊廓疑獄』参照)。

*17:若槻首相や床次竹二郎政友本党総裁(原、高橋内閣で内務相)が疑惑の政治家として取り沙汰されたが不起訴に終わった。与党「憲政会」総務・箕浦勝人(第二次大隈内閣逓信相)、野党「政友本党」党務委員長・高見之通が起訴されたが無罪判決に終わった(ウィキペディア『松島遊廓疑獄』参照)

*18:立憲政友会幹事長、第4次伊藤内閣逓信相、第1次、第2次西園寺、第1次山本内閣内務相などを経て首相。大正10年(1921年)11月4日、東京駅で右翼青年・中岡艮一により刺殺された(ウィキペディア原敬』参照)。

*19:日銀総裁、第一次山本、原内閣蔵相、首相、田中、犬養、齋藤、岡田内閣蔵相など歴任。226事件で暗殺される。

*20:1891~1945年。陸軍憲兵大尉時代に甘粕事件で大杉栄らを虐殺したことで有名。1923年、禁固10年の判決を受けるが1926年に仮出所。甘粕は上司の命令などはない「単独犯行」を主張したが「短期の服役にとどまったこと」「出所後、満洲映画協会理事長を務めたこと」などから「黒幕をかばっている」という疑いが否定できない。出所後、日本を離れて満州に渡り、関東軍の特務工作を行い、満州国建設に一役買う。満洲映画協会理事長を務め、終戦直後、服毒自殺した(ウィキペディア甘粕正彦』参照)。

*21:相互銀行地方銀行になったものを第二地方銀行という。