■立憲民主・枝野*1代表「一日も早く政権を取る」 参院選は「野党共闘で勝機あり」
https://www.sankei.com/politics/news/181215/plt1812150021-n1.html
産経記事を信じれば、ですが今の立民の支持率で「政権とりたい」とは「身の程知らず」というかまあ、謙虚さがまるでないですね。
まずは「野党共闘のさらなる推進による安倍下野」ではないのか。大体、「細川連立政権からの社会党、さきがけ離脱」「鳩山*2連立政権からの社民党離脱」を考えれば、連立政権など安易に語るべき話ではない。正直、来年参院選での野党共闘もまだ十分に固まってるとはいえないでしょう。
大体、この演説は山形県連設立集会ですからねえ。最大野党とはいえ今年の12月になってやっと正式に山形県連の設立をするような無様な政党が何様のつもりなのか。
まあ、俺ははっきり言って「野党共闘で妥協する気があまりないらしい、最大野党であることに思い上がって、共産*3など他野党を見下してるらしい枝野が大嫌い(さすがに安倍*4よりは好きですが、自民党総裁が谷垣*5や岸田*6とかだと一寸悩むところです。俺ははっきりいって枝野をそれほど評価していません)」ですが、その「俺の枝野嫌い」を割り引いてもこの枝野発言は「身の程知らずで謙虚さが足りない」と思いますね。
■【昭和天皇の87年】渦巻く「宮中の陰謀」説 天皇はなぜ、一線を越えたのか
https://www.sankei.com/premium/news/181230/prm1812300010-n1.html
学良は、父を殺した日本を激しく憎んだ。やがて関東軍が求める満州分離ではなく、関東軍が恐れる中央帰属、すなわち蒋介石の国民党政府と合同する道を選ぶ。張作霖が存命なら、あり得ない選択肢だろう。
日本軍は張学良を「アホの二代目」であり「張作霖と違って簡単に操れる」となめていたわけでが、話は全く逆方向に向かいます。
関東軍を厳罰に処すことができず、昭和天皇の怒りを買って田中義一内閣が総辞職したことは、宮中にも暗い影を落とした。天皇が首相に辞表提出の意思を問うのは、立憲君主の枠から逸脱した非常手段といえる(※3)
天皇が象徴で政治権限を持たない日本国憲法ならともかく天皇が最高権力者の大日本帝国憲法では「昭和天皇のしたこと」は何ら「立憲君主の枠から逸脱した非常手段」ではありません。
問題があるとしたら「天皇自らここまで動くと、問題がごたついたときは天皇の権威に傷がつく」つう政治的問題でしかない。そしてその政治的問題は別に「立憲君主の枠から逸脱した非常手段」という話ではない。
昭和天皇は戦後、戦争責任追及を恐れて「自分にはたいした権限がなかった、だから戦争責任なんかない」と強弁します。
その際に問題となることの一つが「田中義一を叱責し退陣に追い込んだこと」のわけです。
「首相を退陣させた人間のどこが権力がないのか」という話です。
そこで天皇は戦後の昭和天皇独白録では「田中を辞任させる気はなかった(一線を越える気はなかった)」「単に叱責して態度を改めてほしかったに過ぎない」「今思えば言い方が良くなかった気がする」などといいますが、これは大嘘です。
産経記事も触れていますが、昭和天皇は田中に以前から「言い訳ばかりして、天皇である自分の思い通りに動かない」と不信感を抱いており、それが「張作霖暗殺事件処理での田中の食言」で爆発します。「田中は自分からは首相をやめる気がないようだが、最高権力者の自分に対して、食言するような無責任な男に首相なんか安心して任せられない(首相を辞めてほしい)」というわけです。そこで暗に「首相をやめてくれ」という趣旨のことを言った。田中としては「天皇にそこまで言われてはやめるほかない」とやめたにすぎません。昭和天皇(やめてくれ)と田中(やめます)の間に誤解など全くない(田中が「宮中の陰謀」と騒ぎ立てたと言うことからはそれが言い訳ではなく、田中の本心ならば「昭和天皇は西園寺元老や牧野内大臣の讒言によって自分に悪感情を持ってるのだ。西園寺たちが許せない。彼らの讒言がなければ自分は辞任しないですんだ」と誤解していた可能性はありますが)。
昭和天皇と田中の間に誤解があるとしたらそれ以前の話です。田中は田中なりに昭和天皇の意向をくんで動こうとし「一定の信頼関係がある」と思っていたが、昭和天皇は「全然自分の思いに答えてくれない」と不信感が高まっていくわけです。
田中を辞任に追いやった際、昭和天皇は「国家元首として当然のことをした。張作霖暗殺事件処理で食言する田中が悪い。食言する前も私の言うことを全然聞かなかった。そんな人間に首相なんか任せられない」としか思ってなかったでしょう。
田中のようなケースが他にないのは単に「田中ほど天皇の不信、不興を買った首相が他にいなかったから」にすぎません。「田中のような天皇の不信、不興を買う首相」がまた現れれば、天皇は同様に「やめてほしい」といったでしょう。
陸軍の重鎮(第二次山本*7、原内閣陸軍大臣)であり、決して無能ではなかった「はず」の田中です。
何せ「現役軍人は政治に関与できない」がために、わざわざ軍を退役し、政界入りしたほどの野心家で、かつ実際に政党幹部に成り上がってしまったやり手、実力者です。小生の知る限り「軍人出身の首相」はたくさんいますが「田中のように軍を退役して政界入りした人間」は他にいないと思います。
しかし、皮肉にも「昭和天皇の信頼を得るという面」では「彼は無能であり」、完全に失敗したわけです。
なお、戦後の沖縄メッセージなど考えれば、天皇は戦後も主権者気取りであり「象徴天皇制」の意味が全く分かっていなかった、あるいは分かった上で故意に逸脱しようとしたといえるでしょう。
■【昭和天皇の87年】覆された首相の決心 天皇は激怒し、辞表提出を求めた
https://www.sankei.com/premium/news/181229/prm1812290007-n1.html
1928(昭和3)年6月4日に満州の瀋陽(現遼寧省瀋陽市)で起きた張作霖爆殺事件。中国東北部に覇をとなえ、満州王とまで呼ばれた張が列車ごと吹き飛ばされた衝撃のテロルは、現在も謎の多い事件*8とされる。
平成17年に刊行され、世界的なベストセラーとなった毛沢東の伝記「マオ−誰も知らなかった毛沢東」(ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著)の中に、爆殺はソ連特務機関の陰謀であり、日本軍の仕業に見せかけたとするロシア人歴史家らの分析が紹介されたことで、近年も議論になったほどだ(※1)。
馬鹿馬鹿しい。こんなのは明らかなデマであり誰も相手にしていません。大体「ソ連の陰謀」なら「田中義一の食言(当初河本大作らを処罰すると天皇に言いながら、陸軍の反発で結局反故にした)に激怒した昭和天皇が暗に田中に辞任を求めたこと」との整合性がとれなくなります。
なお、矢吹晋・横浜市立大名誉教授の記事『『マオ―誰も知らなかった毛沢東』続報: 『マオ』中国語版を葬った台湾の見識に見習うべし 』http://www.21ccs.jp/china_watching/DirectorsWatching_YABUKI/Directors_watching_22.htmlやウィキペディア『胡宗南』によればこの『マオ』、他にも
国民党の胡宗南将軍が実は共産党のスパイであった
などととんでもないこと(もちろんデマ)を書き、胡宗南の遺族や元部下などが激怒、「このまま出版したら、名誉毀損訴訟を起こすことを考える」と出版社に警告したが故に、台湾では出版できなかったという逸話があるトンデモ本です。
そもそも国共内戦で敗れた蒋介石と共に台湾に逃れ、台湾に逃れた後も総統府戦略顧問として蒋介石に重用された胡宗南がスパイなどと言うのは馬鹿馬鹿しくて話になりません。彼の遺族や元部下が激怒するのも当然の話です。
なお、胡宗南はスパイではありませんが、彼の部下だった「熊向暉、申健、陳忠経」がスパイだったことは事実だそうです(ウィキペディア『後三傑』参照)。
なお、矢吹氏は「張作霖暗殺コミンテルン陰謀説」「胡宗南スパイ説」というデマを書き、批判されても著者ユン・チアンが無視してる時点で、『マオには学問的価値は何一つない』『マオによって明らかになった事実も何もない』と批判しています。
だが、ソ連の陰謀が同時並行で進んでいたかどうかは別として、関東軍高級参謀の河本大作が爆殺計画を立案し、実行に移したことは間違いない。
もちろん「ソ連の陰謀」なんてもんはどこにもありません。
■【昭和天皇の87年】中国・済南で起きた日本人虐殺事件 天皇の危惧が現実化した
https://www.sankei.com/premium/news/181216/prm1812160013-n1.html
首相兼外相の田中義一は、山東省青島の邦人保護のため陸海軍の派兵を断行。7月には兵力を増派して山東省済南に進出した。山東出兵である(※1)。
大元帥となって初の本格的な海外派兵。平和を念願*9する青年君主は苦悩した。昭和天皇実録が書く。7月8日《参謀総長鈴木荘六*10参殿につき謁を賜い、第十師団主力等の青島派遣に関する上奏を受けられる。なお参謀総長拝謁後、(中略)天皇は暫時沈思された後、(侍従武官の蓮沼蕃*11に)撤兵についての考慮の有無、及び尼港(にこう)事件の如き事態は発生しないかとの懸念につき御下問になる》(14巻92頁)
尼港事件とは、大正7〜11年のシベリア出兵の際、ニコラエフスク港(尼港)に駐屯する日本軍部隊と在留邦人、一般住民ら数千人がソ連のパルチザン部隊に虐殺された事件だ。昭和天皇は、山東出兵で中国との軋轢(あつれき)が深まり、第二の惨事が起きることを危惧したのである。
その危惧は、1年足らずで現実化する。
翌3年5月1日、国民革命軍は済南に進出し、日本側に「治安維持は保障するので日本軍の防御設備を撤去してほしい」と要請した。これを受けて日本軍が2日夜に防御設備を撤去すると、3日朝から邦人居留地で略奪が始まったのだ。
邦人保護に動く日本軍は国民革命軍と各地で衝突、やがて済南を占領するが、その間に邦人社会が受けた被害は大きかった。
こうして昭和天皇が田中への不信を強めた結果が「張作霖暗殺事件を契機とする田中の首相辞任」のわけです。
なお、済南事件については
■済南事件(1928年)
http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/sainan.html
■「済南事件」 端緒から解決まで
http://yu77799.g1.xrea.com/nicchuusensou/santou.html
を紹介しておきます。
産経はこの事件を「中国国民党側に責任がより多くある」としていますが
http://yu77799.g1.xrea.com/nicchuusensou/santou.html
「済南事件」をめぐる各種学術論文でも、概ね上記の見解を併記して、 例えば「今のところ事実関係を特定するのは困難である」(服部龍二氏*12『済南事件の経緯と原因』=『軍事史学』通巻第136号)というように事実判定を避けるものが主流であるようです。
とのことです。
また数で言えば、中国側死者の方が日本側死者より多いですし、計画的事件ではなく「偶発的な事件」である事にも注意が必要でしょう。
まあ、張作霖暗殺、南京事件のような「日本軍の犯行であることが間違いない代物」ですらコミンテルン陰謀論などのデマを流して日本を免罪しようとするのが産経ですからね。張作霖暗殺、南京事件などに比べれば不明な点が多い済南事件では当然のように「日本は悪くない」と言い出すわけです。
■【昭和天皇の87年】治安維持法の厳罰化を強行する内閣 天皇は慎重審議を求めた
https://www.sankei.com/premium/news/181215/prm1812150010-n1.html
タイトルがすごく興味深いですね。産経も「治安維持法の制定それ自体」はともかく、「治安維持法の最高刑が死刑になったこと」、しかも国会の議決ではなく「緊急勅令で死刑になったこと」についてはさすがに「ちょっと法治主義的に(あるいは「法の支配的に」、「立憲主義的に」等と言い換えてもいいですが)まずかったんじゃないか」と思い、『天皇は慎重審議を求めた』として昭和天皇を免罪し、当時の田中義一*13内閣のせいにしたいようです。
天皇を補弼する首相は、天皇の赤子である全国民に等しく利益を与える政治を行わなければならない。ところが時の首相、田中義一は、その意識が低かった。
中でも懸念されたのが党利・私欲の情実人事だ。田中は政権につくや、各省次官や府県知事を次々と更迭した(※1)。こうした人事は天皇の名で行われる。昭和天皇は、相次ぐ人事案を黙々と裁可しながら、署名の筆を重く感じていたのではないか。
昭和2年6月15日、内大臣の牧野伸顕*14を呼んで言った。
「最近、官吏の更迭が頻繁で、節度を失していると思う。各省の事務次官を党人本位で更迭するのは、政務次官を別に設けた趣旨に反する。牧野から田中総理に、人事に考慮するよう注意してほしい」
牧野は、昭和天皇の懸念をもっともなことだと思いつつ、天皇の意思として注意すれば内閣不信任と誤解されかねないので、元老の西園寺公望*15を通じ、それとなく指摘することにした。
これを聞いた田中は8月18日、昭和天皇に拝謁し、(ボーガス注:若槻禮次郎*16)前内閣と比べて官吏の更迭件数はそれほど多くないと弁明した。昭和天皇は黙って耳を傾けていたが、4日後に牧野を呼んで言った。
「田中は勘違いをしているのでないか」
牧野は驚き、誤解が生じたことを陳謝した上で、田中に会って数の問題ではないことを改めて伝えた。
しかし、田中はよく理解していなかったようだ。翌3年5月、政商として悪評のあった衆院議員当選1回の久原房之助*17を逓信相に抜擢(ばってき)。さすがに他の閣僚からも批判が噴出し、文相が辞表を提出する騒ぎとなった(※2)。
すると、田中は意外な行動に出る。昭和天皇に自らの進退伺を出したのだ。
天皇が慰留すると見越して、政権批判が渦巻く世論を納得させようとしたのだろう。だが、これは天皇に政治責任を負わすことにほかならない。
昭和天皇は牧野と相談の上、進退伺を却下したものの、それを責任回避の弁明にしないよう田中に伝えた。
(※1) 田中は内閣発足後2カ月足らずで、各省次官や局長、知事、警視庁部長ら56人を異動した。
(※2) 田中は文相を慰留し辞表を撤回させたが、その際、昭和天皇に対し、文相に言葉をかけてもらうよう求め、その言葉を文相が公言したことから、天皇を政治利用したとして激しい批判を浴びた。なお、田中の情実人事はその後も続き、3年9月には勅任官の特別任用範囲を拡大する法案を上奏。昭和天皇は「現内閣の人事行政を見るに党利・私利を基とし、その弊害は大なるものがある」として留め起き、田中が法案を撤回したこともある。
産経の田中義一に対する「天皇陛下の意向を無視したり曲解したりする困った男」「党利党略で政治を行う困った男」という「明らかに低い評価(張作霖暗殺問題での昭和天皇による田中叱責の正当化?)」はひとまずおきます。
それにしても「天皇陛下(昭和天皇)の意向に従わないこと」「党利党略で政治を行うこと」でこんなに田中を低評価するなら「天皇陛下(現天皇)の意向(生前退位したい)を無視しようとした安倍」「モリカケという明らかな政治私物化を実行した安倍」をもっと批判したらどうなんでしょうか?。
それはともかく、この産経記事からはいわゆる「張作霖暗殺事件」を契機とする田中首相辞任劇において、
張作霖暗殺事件について田中が『河本大作・関東軍参謀(当時)ら陸軍関係者の処罰』を天皇に約束しながらも、陸軍の反発を抑えきれず結局反故にしたことで、『いったんした約束を反故にするとはどういうことなのか、そんなことで首相が務まるのか』と天皇から暗に辞任を要求され、首相辞任に至ったこと
はあくまでも「首相辞任のきっかけにすぎなかった」ことがうかがえます。
昭和天皇はそれ以前から田中について「俺がトップなのに田中は独断専行で俺を無視、軽視してる。俺がまだ20代*18で若いからか?。田中が『俺が即位する前』から活動しているベテラン政治家だからか?(金正恩君が『金正日政権時からのベテラン政治家』張成沢に感じたのと同じ不満?)」「田中はバカなのか、故意に詭弁を吐いてるのか知らないが、俺が注意しても『陛下が誤解してるようなのでご説明して誤解を解きたい』などと言い訳して素直に従わない(時代が違うので単純比較は出来ませんが要するに安倍が現天皇の退位表明問題でやったこと(当初、安倍は完全に無視した)と似たような話です)」つう不満があったわけです。
その昭和天皇の不満がついに大爆発したのが、「張作霖暗殺問題での処理の不手際」にすぎません。
まあ、そういう意味では「青年政治家・金正恩*19による張成沢*20(1946〜2013年、享年67歳)粛清」と「青年君主・昭和天皇による田中義一失脚(1864〜1929年、享年65歳、失脚が1929年なので失脚後しばらくして病死)」は似ている気がしないでもありません(もちろん死刑になった張と、単に首相を辞任した田中では大分違いますが)。
もちろん昭和天皇を意図的に侮辱してる気は毛頭ありません(しかしウヨは『金正恩なんかと一緒にするな!』と怒るんだろうな)
その意味では「張作霖暗殺事件の処理の不手際(あるいは張作霖暗殺事件そのもの)」がなくても天皇は田中への怒りをいずれ爆発させ、田中は首相辞任に追い込まれていたかもしれません。
かつ、東野真『昭和天皇二つの「独白録」』(1998年、NHK出版)など「多くの歴史学者やジャーナリストがすでに指摘してること」ですが、いわゆる「昭和天皇独白録」での「私(昭和天皇)は張作霖暗殺問題で田中に怒りを爆発させたが首相をやめてほしいとは思ってなかった。今思えば言いすぎたかもしれない」つう趣旨の発言が「田中辞任をネタに天皇に絶大な権力があったように思われるのは心外だ*21」「天皇にはたいした権力はない(だから戦犯訴追しないでくれ)」つう「保身のための言い訳」に過ぎないこと、「事実に反する嘘であること」が「皮肉にも*22」この産経記事からも明らかです(もちろん米国はそれが嘘であることを認識しながら『戦後統治に天皇が役立つ』という認識からその嘘を容認し天皇を不起訴にし、退位すらさせませんでした)。
明らかに張作霖暗殺事件での天皇の田中叱責は「田中の首相辞任」を目的としていました。そしてその天皇の強い意向に逆らうことが無理だからこそ、田中は首相を辞任しました。
田中以外に「天皇叱責による辞任劇」がないのは単に「田中以外はとにもかくにも昭和天皇の信頼を勝ち得ていた」つう事に過ぎません。
さすがに他の閣僚からも批判が噴出し、文相が辞表を提出する騒ぎとなった
についてはウィキペディアの記述を紹介しておきます。
■水野錬太郎(1868〜1949年:ウィキペディア参照)
・明治27年、内務省入省。社寺局長、地方局長などを歴任。
・1913年(大正2年)に内務次官に就任。
・1918年(大正7年)、寺内正毅*23内閣の内務大臣に就任。
・1919年(大正8年)、原敬*24内閣のとき朝鮮総督府政務総監になり、文治政治を行う。
・1922年(大正11年)に成立した加藤友三郎*25内閣、1924年(大正13年)に成立した清浦奎吾*26内閣でも内務大臣を務めた。
・1927年(昭和2年)、田中義一内閣で、高橋是清*27蔵相が辞任した後、三土忠造*28文相が蔵相に転任、そのあと水野が文部大臣についた。1928年(昭和3年)、田中首相は親しい関係にある同郷(山口県)の財界人・久原房之助(当選1回の衆院議員)を逓信相として入閣させようとした。これに対し、水野は「久原の当選回数が少ないこと」「久原が政商として評判が必ずしも良くないこと」等を理由に反対し自分は辞任するとした。このことが世間に知られた。
田中は水野に対し辞表の撤回をせまり、「天皇へは、水野を留任させた、と伝えた」と言ったため、水野は了承、辞表を撤回した。水野は昭和天皇に拝謁し、「総理に対し辞表をお下げ渡しに相成りたること誠に恐懼に堪えざる」旨を申し上げた。天皇は、国務のために尽瘁せよとの言葉を贈った。しかし、田中に批判的だった当時の貴族院や野党・立憲民政党などは、田中が「天皇を政治利用した」と非難した。これにより結局、水野は事態収拾のために文相を辞任した(後任文相は勝田主計*29)。これを水野文部大臣優諚事件という。
田中内閣の総辞職後、水野は大臣になることはなかったが、大日本音楽著作権協会会長、大日本興亜同盟副総裁、大日本産業報国会顧問など多くの役職についた。
敗戦後、水野は大日本興亜同盟副総裁になっていたことなどを理由に1945年(昭和20年)12月、A級戦犯の容疑者とされたが起訴されず、1947年(昭和22年)9月1日、監視が解かれた。水野は病気だったため収監されなかった。公職追放となり、1949年(昭和24年)11月25日死去した。享年81歳。
■【月刊正論1月号】植村隆、敗れたり 櫻井よしこを訴えた慰安婦訴訟 産経新聞論説委員兼編集委員 阿比留瑠比
https://www.sankei.com/premium/news/181210/prm1812100009-n1.html
もちろん敗訴判決自体が「河野談話否定派で、よしこらと親しい極右首相・安倍に忖度したとしか思えない」不当なものであり、植村氏も高裁に控訴していますがそれはさておき。
「裁判結果で決着がついた、敗訴した方が間違ってる」というなら阿比留など「辻元清美氏*30や小西洋之氏に敗訴し決着がついた(阿比留ではなく辻元氏や小西氏が正しい。阿比留はデマ記者)」のであり、「2度も名誉毀損訴訟で敗訴するようでは」それなりの責任をとってしかるべきでしょう。しかし産経は阿比留を懲戒処分するどころか、編集委員兼論説委員に出世させています。
阿比留は
敗訴したから植村が間違ってるとあんたはいう*31がまだ一審判決で確定していない。植村氏は高裁に控訴しており逆転勝訴する可能性がある。一方、阿比留さん、あなたは辻元氏や小西氏と争って二度も負けてる*32じゃないか。あんたの植村批判の理屈なら、あんたは『二度もデマ記事を書いた極悪人』ということになるがそういう理解でいいのか。そしてそんな極悪人のあんたは、裁判判決に従う以外に一体どんな責任をとったのか。恥知らずにも出世してるのがあんたじゃないか。そんなあんたがなんで植村氏を批判できるのか
といわれたらどう反論するつもりなんですかねえ。
「俺に対する敗訴判決が間違ってるのだ。だから俺が出世しても問題ない」と阿比留がいうなら植村氏が「俺に対する敗訴判決が間違ってる。だから俺は櫻井よしこ氏らに謝罪などしない」といっても何の問題もありません。何せ最高裁で敗訴が確定した阿比留と違い、植村氏はまだ一審に過ぎません。
それとも「確かに俺はデマ記事を書いたが、敗訴で、原告(辻元氏、小西氏)に賠償金を払うことで責任をとった。だから出世していい」と阿比留がいうなら植村氏とて「裁判判決を受け入れるだけ」でOKでしょう。それ以上、植村氏がやるべき事は何一つない。
まあ阿比留が「辻元氏、小西氏に敗訴してなくても」、阿比留の植村氏への悪口は全くの言いがかりです(率直にいって植村敗訴判決は間違っています)。しかし「二度も最高裁まで争って敗訴判決が確定した男」が「まだ一審敗訴に過ぎない植村氏」に悪口雑言とは恥知らずとでたらめにもほどがありますね。かつこんなあほ記事を阿比留がブログ記事で書くならともかく産経新聞に掲載とは産経も本当に異常な企業です。
■またか…大嘗祭めぐり違憲訴訟
https://special.sankei.com/f/naniwa/article/20181215/0001.html
自分の気にくわない訴訟だと「またか」と言い出すあたり産経らしい非常識です。問題は政教分離であって、誰も「天皇即位儀式を否定してない(少なくとも即位儀式それ自体について違憲主張してない)」のだから、宗教色(国家神道色)を排除して実施すればいいだけの話です。まあ、「国家神道万歳」の産経にはそれは出来ない話なのでしょうが。
■4人の写真「毎日話しかける」 世田谷一家殺害18年 遺族ら集会
https://www.sankei.com/affairs/news/181215/afr1812150004-n1.html
■世田谷一家殺害で情報呼び掛け 発生18年を前に、警視庁
https://www.sankei.com/affairs/news/181216/afr1812160009-n1.html
気持ちは分からないでもないですがもはやこの事件は迷宮入りでしょうね。
*1:鳩山内閣行政刷新担当相、菅内閣官房長官、野田内閣経産相、民主党幹事長(海江田、岡田代表時代)、民進党代表代行(前原代表時代)を経て立憲民主党代表
*2:細川内閣官房副長官、新党さきがけ代表幹事、民主党幹事長(小沢代表時代)などを経て首相
*3:もちろん(?)俺の支持政党です。
*4:自民党幹事長(小泉総裁時代)、小泉内閣官房長官を経て首相
*5:小泉内閣国家公安委員長、財務相、自民党政調会長(福田総裁時代)、福田内閣国交相、第二次安倍内閣法相、自民党幹事長(第二次安倍総裁時代)等歴任
*6:第一次安倍、福田内閣沖縄・北方等担当相、第二次、第三次安倍内閣外相を経て自民党政調会長
*7:第二次山県、第四次伊藤、第一次桂内閣海軍大臣などを経て首相
*8:「犯人が誰か、本当にオズワルドなのか」「犯人がオズワルドだとしても背後関係はないのか」などの謎があるケネディ暗殺などと比較すれば、全然謎は多くないですね。
*9:在外邦人に犠牲が出ることを危惧するのは「平和の念願」とは違います。
*11:駐蒙軍司令官、侍従武官長など歴任
*12:著書『広田弘毅』(2008年、中公新書)、『日中国交正常化』(2011年、中公新書)、『大平正芳』(2014年、岩波現代全書)、『中曽根康弘』(2015年、中公新書)、『田中角栄』(2016年、講談社現代新書)、『佐藤栄作』(2017年、朝日選書)、『高坂正堯』(2018年、中公新書)など
*14:明治新政府で参議、内務卿を務めた大久保利通の次男。吉田茂元首相の義父。外務官僚出身。後に政界入りし、第一次西園寺内閣文相、第二次西園寺内閣農商務相、第一次山本内閣外相や宮内相、内大臣など歴任。
*15:第二次伊藤、第二次松方内閣文相(外相兼務)、第三次伊藤内閣文相、首相などを経て元老
*16:第三次桂、第二次大隈内閣蔵相、加藤高明内閣内務相などを経て首相
*17:日立製作所、日産自動車、日立造船、日本鉱業などの基盤となった久原鉱業所(日立銅山)や久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取った。田中義一内閣逓信相、立憲政友会幹事長(犬養毅総裁時代)、立憲政友会(久原派)総裁、平沼内閣内閣参議、大政翼賛会総務など歴任。権謀術数に長け、政界の黒幕と呼ばれた。戦後、戦犯容疑を受けるが不起訴。公職追放を受けるが後に解除。解除後の1952年の総選挙では、山口2区から衆議院議員に当選し1期つとめ、ソ連や中国との国交正常化を訴える日中・日ソ国交回復国民会議の会長として毛沢東との会見などを行った。また、母校・慶應義塾の評議員会最高顧問を務めた。(ウィキペディア「久原房之助」参照)。
*18:ちなみに、田中義一政権当時(1929年)の昭和天皇(1901年生まれ)は28歳で金正恩君(1984年生まれと推定)の政権トップ就任時(2011年)の年齢(27歳)に近い年齢です。
*21:まあ田中の辞任ほど『天皇に絶大な権力があったことを示すわかりやすいエピソード』も少ないですからね。昭和天皇も必死に「あれは例外だ」と言い訳するわけです。『天皇に絶大な権力があったことを示すわかりやすいエピソード』としては、後は「226事件鎮圧(青年将校が要求した真崎甚三郎・元陸軍教育総監の首相任命要求を無視)」でしょうか?。これについても天皇は独白録で「例外だ」と言い訳しますが。まあ、確かに天皇が動かなくても周囲が忖度して動いてくれるがこの2件だけは「その例外だったので天皇が動かざるを得なかった」という意味では「例外」ですが、昭和天皇の言うような「天皇には政治的権限はない」という話では全くありません。
*22:もちろん産経はそうした「昭和天皇の嘘を暴く」という意味合いでこの記事を書いたわけではないでしょう。
*23:第一次桂、第二次西園寺、第二次桂内閣陸軍大臣、朝鮮総督、首相など歴任。広田内閣陸軍大臣を務めた寺内寿一の父。
*24:第四次伊藤内閣逓信相(内務相兼務)、第一次西園寺、第二次西園寺、第一次山本内閣内務相を経て首相
*25:第二次大隈、寺内、原、高橋内閣海軍大臣などを経て首相
*26:第二次松方、第二次山県内閣司法相、第一次桂内閣司法相、農商務相、内務相、枢密院議長などを経て首相
*27:日銀総裁、第一次山本、原、田中義一、犬養、斎藤、岡田内閣蔵相、首相など歴任。岡田内閣蔵相在任中に226事件で暗殺される。
*28:田中義一内閣文相、蔵相、犬養内閣逓信相、斎藤内閣鉄道相など歴任
*29:大蔵次官、朝鮮銀行総裁、寺内、清浦内閣蔵相、田中義一内閣文相など歴任。
*30:社民党政策審議会長、国対委員長、鳩山内閣国交副大臣、民主党政調副会長、民進党幹事長代行、立憲民主党政調会長などを経て立憲民主党国対委員長
*31:つうか阿比留がこういうことを言い出したのは植村氏の敗訴判決後ですからねえ。阿比留にとっても内心では植村敗訴は意外であり、実際にはよしこらの敗訴を覚悟していたのでしょう。