「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2019年6/10分:高世仁の巻)

「男らしさ」と犯罪 - 高世仁の「諸悪莫作」日記

 作家の森田ゆり*1が、精神障害者の犯罪率は低く、犯罪率が高い属性は「男性」だと論じている。
池田小事件・宅間守の女性蔑視と大量殺人を生んだ「男らしさ」の呪縛(森田 ゆり) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
(中略)
 問われるべきは、今の社会のジェンダー規範だという主張には虚を突かれた。

 高世は「作家」と書いていますがウィキペディアに寄れば「エンパワメント・センター主宰者。セラピスト。1981年より米国で、子ども・女性への暴力防止専門職の養成に携わる。日本にCAP(子どもへの暴力防止)プログラムを紹介。1997年にエンパワメント・センターを設立し日本全国で子ども・女性への暴力防止のための研修・講演活動をしている。』とのことなので一般的な作家とは違うわけです。
 もちろん森田氏は「外国人や精神障害者を差別する人間」への皮肉で言ってるわけですが、「ではなぜ男性の犯罪が多いか」。
 いわゆる権力犯罪(談合、収賄、業務上横領、背任など)は「ある程度の社会的地位にいないと困難」です。で、日本では女性はそんなに社会進出してない。
 では粗暴犯罪(殺人や強盗)はどうかというと、たいていの女性には腕力がないわけです。まあ、「毒物使用」とかも殺害方法には考えられますが、男性に比べると粗暴犯罪のハードルも高いわけです。以前「女性の犯罪で一番多いのは自動車事故(業務上過失致死傷)だ」なんて記事を読んだ覚えがあります。うろ覚えなので間違ってるかもしれませんが。
 最後に森田氏の文章を見てみます。特にコメントはしません。

池田小事件・宅間守の女性蔑視と大量殺人を生んだ「男らしさ」の呪縛(森田 ゆり) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
 最新刊『体罰と戦争:人類のふたつの不名誉な伝統』(かもがわ出版)は、暴力とは何かを問い続けてきた森田さんの人間といのちの尊厳を守る渾身の書だ。
 痛ましい事件から18年が経った。森田さんが、2001年6月8日に起きた池田小学校事件の公判を丁寧に傍聴記録し、ジェンダーと暴力の視点から「宅間守の大量殺人」を論じた章を『体罰と戦争』より部分抜粋して掲載する。
■当初報じられた「精神障害者」という誤解
 自分が犯した強姦事件の慰謝料取り立てから逃れようと宅間が精神病院に偽装入院していたために、当初、マスメディアはこの事件を「精神障害者と犯罪」という枠組みでしきりに取り上げました。これらの報道は、精神障害者は罪を犯しやすいとの偏見を確実に広げました。事件の報道の仕方故に、いったいどれだけの精神障害者とその家族が苦しんだことでしょう。精神病院入院が必要もないのに延長された人もいました。
 精神障害者が犯罪を起こす率は低いのです。検挙された一般刑法犯に占める精神障害者の比率は1・5%です。収入や学歴が低いと犯罪を起こしやすいかと言えば、そんなことはありません。外国人の犯罪率が高いというのも誤解です。犯罪者プロファイルを特定することは統計的にも困難なのです。
■唯一の特徴は「男性」
 犯罪者のプロファイルの唯一の特徴的なことは、それが男性だということです。新聞やテレビで報道される殺人、強盗、詐欺、窃盗の多くの容疑者は男性です。統計を見ると、その事実はいっそう明らかになります。刑法犯検挙人員の女性の割合は、1975(昭和50)年以降は、ずっと全体の2割前後となっています。
 宅間に関して「精神障害者」と「犯罪」を結びつけて報道することは、精神障害者にとっては迷惑きわまりないことでした。「触法精神障害者」という言葉まで登場しました。では、この「精神障害者」の言葉を「男性」と置き換えたらどうでしょう。
 「男性は犯罪に手を染めやすい*2」「触法男性」「男性と犯罪」
 男性読者はあまりいい気分ではないはずです。憤慨する人もいるでしょう。自分と宅間を一緒にされてはたまらん、女性だって罪を犯すじゃないか、男性への侮辱だと。
 精神障害者たちも同じように感じたにちがいありません。それも男性と犯罪の関連は統計上も明らかなことなのに、精神障害者と犯罪の関連は、統計上も言えないことなのです。
■「むしゃくしゃする」の裏の感情
 宅間守についての最初の新聞報道を読んだとき、まず「ジェンダーと犯罪」という言葉が私の意識に浮かびました。刺し殺した子ども8人のうち7人までが少女だったこと、さらに彼が妻たちに暴力を振るったドメスティック・バイオレンス(DV)の加害者であること、池田小学校事件の動機として、暴力を振るいストーカー行為をし続けた相手である元妻を殺す代わりにやったと証言していたことも、いっそうこの事件の本質は「精神障害者と犯罪」ではなく、「ジェンダーと犯罪」なのだと思わせる要因でした。公判の被告人質問への返答で、宅間被告は、聞いている者が戦慄するほどに根深い女性蔑視を何度も口にしました。
■男らしさが否認する怖さや悲しみの感情
 「男だったら泣き言を言うな」「女々しい奴」といった慣用句に表される男らしさを美化する社会の通念を、武士の血筋であることを誇りに思い、木刀で息子に懲罰を加えていた父親が体現していたことは想像に難くありません。
 強いことが期待され、苦しさ、悲しさ、寂しさ、自信のなさ、などの本音を口にすれば殴られるかもしれない環境に育った宅間は、怒りの背後にある「やわな感情」とでも呼ぶべき気持ちを表現することを許されなかったでしょう。
 しかし、「男は強く、女は優しく」を信奉する社会が男性、男子に表現を許している感情がひとつだけあります。怒りです。悲しさ、寂しさ、怖さを口にすることは女々しいが、怒りを表現することは雄々しいのです。 
 自分の自信のなさ、寂しさ、不安、怖さ、見捨てられ不安などを彼らはすべて怒りとして感じます。本当は自分がもたらした自分自身への怒りなのですが、自分の錯綜する感情を認めることも、見つめることもしてこなかった彼は、身近にいる者が自分の怒りを誘発したとしか思えないわけです。
■遺族に謝罪できない理由
 人の優位に立つこと、とりわけ女の優位に立つことが男の証であると信じている宅間は、結婚相手、婚約相手を暴力で支配することに多大なエネルギーを注ぎました。最も執着した3番目の妻との離婚をくつがえすことが不可能だとわかったとき、彼女を殺すことを考え始めます。殺人は、もはや自分の下につなぎとめることができない妻を支配し、所有する残された唯一の方法です。興信所を使って妻の職場を探すが見つからず、殺すことが難しいとわかると、ひどい抑うつ状態に陥りました。
 ここまではドメスティック・バイオレンスの加害者によく見られる心理と行動です。しかし、宅間はアクセスできない妻を殺す代わりに、大量殺人の方法を夢想することで抑うつから抜け出します。
 性暴力とは、加害者の抑えきれない生理的性衝動が引き起こす行動ではなく、他者を支配することへの心理的欲求行動*3です。誰かを貶めて自分の有力感を得たい、相手に強いという印象を与え、抑うつ気分を払拭したい、自分自身への怒りを発散させたい、そのために彼らは性器を武器として相手を力でコントロールするのです。
 2003年8月28日に、宅間守(当時39歳)は一審・大阪地方裁判所で死刑判決を受けました。池田小学校での殺傷事件から2年と3ヵ月で、死刑判決が確定しました。
 それまでの宅間の弁護団の公判における方針は、宅間が死刑判決を望んでいたこともあって、減刑を求めることよりも、動機の真実を明らかにすることと、宅間に謝罪表明させることでした。そのため、宅間の証言では、減刑を得るためのおざなりの反省の言葉などはなく、彼の本音が語られていました。
 それなのに、宅間は公判でも手記でも、(中略)快、不快の感覚はくり返し表現するが、関係性における悲しみや、寂しさや、喜びなどの感情については、弁護人からの質問があっても、答えることができなかったのです。
 「むしゃくしゃする」気持ちとは何だったのか、その感情に向き合うことなくして、宅間が被害者や遺族の苦しみに共感することも、したがって謝罪することもありえません。
■謝罪とはまず自分の傷の痛みに向き合うこと
 被告人最終証言の第22回公判において、検事も弁護士も裁判官も、反省の気持ちはないのかと宅間にくり返し謝罪を求めました。しかし、検察官が「判決が出る前に、遺族に謝罪する気はないのか?」と問うと、しばらく沈黙した後、おもむろに語気を強めて「それを聞いてワシが心臓バクバクしてるとでも思っとるのか!」と怒鳴り敵意をむき出しにして声を荒げました。強さを誇示する男らしさの虚像が唯一の寄りすがる自我であるかのようでした。
 本当の謝罪は、自らの怒りの仮面の下に隠れている悲しみと喪失を感じることからしか始まりません。
 しかし、私たちの社会は、男性のそのような努力を勇気ある行動とは見なしません。身体の痛みならともかく、心の痛みを訴えるなぞ、「女々しい」行為で、「強い男」のすることではないのです。むしろ心の痛みなど無視して、感じないことが勇気だと信じられています。
 宅間は子ども時代から父親からの折檻の痛みや恐怖に対処するために、自分の感情を鈍磨させて生きました。「むしゃくしゃ」という表現以外に自分の感情に名前をつける言葉を持たないのはそのためです。
 男たちが悲しみを、寂しさを、恐れを感じる心を否定しなければならない社会は、危険です。

*1:著書『聖なる魂:現代アメリカ・インディアン指導者の半生』(共著、1993年、朝日文庫)、『しつけと体罰』(2003年、童話館出版)、『新・子どもの虐待』(2004年、岩波ブックレット)、『子どもが出会う犯罪と暴力』(2006年、NHK生活人新書)、『ドメスティック・バイオレンス』(2007年、小学館文庫)、『子どもへの性的虐待』(2008年、岩波新書)、『子どもと暴力』(2011年、岩波現代文庫)、『体罰と戦争:人類のふたつの不名誉な伝統』(2019年、かもがわ出版

*2:これは森田氏が指摘するように「女性と比較すれば」明らかに事実です。

*3:まあ性暴力が「単純な性欲ではなく相手を支配したいという支配感情がある」つうのは素人ではありますが「そうかもなあ」とは思います。