「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」を笑おう(2019年6/21日分:黒坂真の巻)

吉良よし子
‏ 調べ学習で「ブラック企業」について調べている、という中学生が、調べているうちに私のポスターや政策をみつけ「どうすればブラック企業はなくせるか知りたい」と話を聞きにきてくれました。
 企業名公表制度を実現した話、これからやりたい政策などを紹介したら「希望の光が見えた」と!。光栄です!

 まあ吉良氏だけではなく他の政党(自民、公明、立民、国民民主、社民、維新など)の議員についても質問に行ったろうとは思いますが、それはさておき。
 で、これについて普通の人間なら「ブラック企業をどうやってなくすべきか」というリツイートをするでしょうね。
 黒坂ツイートの紹介は省略しますが黒坂の場合「日本共産党が1998年に中国共産党と関係を正常化したり、その後、日中友好議連に参加するなどして、人権面で問題のあるブラック国家・中国と一定の友好関係(というか、おつきあい)があるのはなぜなのか。ブラック企業は批判するがブラック国家は容認するのか」だの、いつもの「中越戦争赤旗の高野記者が中国軍に射殺された。正式に中国は日本共産党に謝罪したのか*1」云々ですから「はあ?」ですね。いつもながら櫻井よしこ島田洋一すら黒坂と比べればまともに見えます。

【参考:日中共産党の関係正常化】

■日中共産党の関係(ウィキペディア参照)
 文革当時、中国共産党は、「日本共産党指導部を打倒する」という方針を出し、自らの影響下にある日本共産党員に対して「日本共産党を打倒して自分たちが新しい党をつくれ」という指令を出した。
■1966年9月
 日本共産党山口県委員会の一部が脱党し以降「毛沢東思想を指導原理とする」と奉じた「日本共産党山口県委員会(左派)」を名乗る。以降、一部の党組織で脱党が繰り返され、「日本労働者党」、「日本共産党マルクス・レーニン主義)」(後の労働者共産党)が結成された。中国政府や中国共産党は、これらの団体と友好関係を結んだ。
■1967年8月3日、8月4日
 いわゆる北京空港事件の発生。紅衛兵が、中国より帰国しようとした紺野純一(当時、『赤旗』北京特派員。)、砂間一良(当時、日本共産党中央委員、元衆議院議員中国共産党の招待で訪中)の両名を監禁し、集団で暴行を加えた事件である。
■1985年の両党関係修復のための交渉とその挫折
 中国共産党文革時の世界各国の共産党への内政干渉を1970年代末から順次曖昧な「どっちもどっち論」や「未来志向論」などで修復していった。その流れとして1985年にも一度は関係修復のための会談を日本共産党に申し入れていた。しかし日本共産党側が「中国からの内部問題干渉」があった旨を合意文書に明記し、その行動が明白な両党関係の悪化の原因であった事を明らかにしなければ不十分と難色を示した。中国共産党にはこの時上記「どっちもどっち論」「過去は忘れて未来志向」以上の譲歩と反省の用意はなく交渉は流れた。
■1998年
 日中両共産党の党間関係は、1997年朝日新聞に掲載された中国共産党側からの内部問題不干渉原則違反を反省する旨の関係修復への非公式なサインを日本共産党側が見逃さず1998年に修復した。このときの合意文書では、中国共産党文化大革命時の日本共産党への干渉について非を認めた。

日中友好議連、日本共産党が加入、副会長に志位委員長
 日中友好議員連盟林義郎*2会長)は二十三日、国会内で役員会を開き、日本共産党志位和夫委員長を同議連副会長とすることを全会一致で承認しました。二十五日の総会で正式に決まります。
 日本共産党の同議連加入は、前回の役員会で承認されました。不破哲三議長、市田忠義書記局長らも名を連ね、現時点の日本共産党の加入議員は衆参十六人になることも報告されました。
 日本共産党を代表して役員会に出席した穀田恵二国対委員長は、日中友好三十周年の記念すべき年に入会できたことに謝意を述べました。
 日中友好議連は、日本共産党の加入で、衆参国会議員四百二十三人(二十三日現在)になりました。

日中両党の新しい関係強化を確認/志位委員長が胡錦濤主席と会談
 日本共産党志位和夫委員長は七日、都内で中国の胡錦濤*3国家主席と会談し、双方は日本共産党中国共産党の新しい関係の強化について確認しました。
 志位委員長は冒頭、胡主席の日本訪問を歓迎し、「十年ぶりの再会を喜んでいます」とのべるとともに、北京オリンピックの成功への期待を表明しました。さらに、「チベット問題について心配していましたが、対話が再開され、継続で一致したことを歓迎し、積極的な成果をおさめることを願っています」とのべました。胡主席は、十年前に二人が会った北京での両党関係正常化後の会談が成功したことにふれ、志位氏との再会を「たいへんうれしく思っています」と応じました。


【参考:高野記者の殉職】

赤旗記者射殺40年で追悼行事 ベトナム北部、取材仲間ら参加|静岡新聞アットエス
 1979年の中越戦争を取材中、中国との国境に近いベトナム北部ランソンで中国軍に撃たれて亡くなった日本共産党機関紙「赤旗」(現・しんぶん赤旗)の高野功記者=当時(35)=の死去40年に合わせた追悼行事が7日、ランソンで開かれた。日本の記者仲間ら約20人が参加し、高野さんを悼んだ。
 当時、高野さんが撃たれた場所の近くにいた報道写真家、中村梧郎さん*4(78)=さいたま市=らが、射殺現場とされる場所や、高野さんの名前が刻まれた記念碑を回った。

高野記者殉職40年/ベトナム・ランソンで追悼式
 1979年、中越戦争を取材中にランソンで中国軍の銃撃を受けて死亡した故高野功・赤旗ハノイ特派員の殉職から40年にあたる7日、日本共産党の井上歩国際局員・「しんぶん赤旗ハノイ特派員がランソンに建てられている高野記者の記念碑を訪れ、献花しました。
 献花に際し、ベトナム共産党ランソン省委員会のノン・バン・タム常務委員・教宣委員長、ランソン省人民委員会の代表らが出席した追悼式が開かれました。
 井上局員は6日、同省のホアン・バン・ギエム常任副党書記と懇談。ランソン省党委員会と人民委員会が40年にわたり、高野記者の犠牲を記念し、日本などから追悼に訪れる人々に便宜を確保してくれた長年の厚情と友情に対し、深い感謝の意を伝えました。7日には記念碑を管理する烈士墓地管理委員会の代表に謝意を表明しました。
 井上局員は同日、高野記者の活動について記録を残してきたランソン新聞の編集部を訪れ、チャン・チン・ジエウ・ハン副編集長と懇談、交流しました。
 記念碑には同日、日本からも高野記者をしのぶ人々が訪れ、追悼しました。

*1:文革について謝罪があったので「まあ、それでよしとするか」という話でしょう。確かに「高野記者・射殺」についての個別具体的な謝罪はないのかもしれませんが、それにこだわってもあまり意味があるとも思いません。

*2:中曽根内閣厚生相、宮沢内閣蔵相など歴任。福田内閣防衛相、第二次、第三次安倍内閣農水相、第四次安倍内閣文科相などを歴任した林芳正代議士の父親。

*3:共青団中央書記処第一書記、貴州省党委員会書記、チベット自治区党委員会書記などを経て党総書記、国家主席党中央軍事委員会主席、国家中央軍事委員会主席

*4:著書『母は枯葉剤を浴びた:ダイオキシンの傷あと』(2005年、岩波現代文庫)など