新刊紹介:「歴史評論」9月号

・詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。まあ正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集『大学における歴史教育
■座談会「大学における歴史研究/教育の現在と未来」(津野田興一*1、川手圭一*2、高埜利彦*3、糟谷憲一*4
(内容紹介)
 議論は多岐にわたっていてまとめづらいですが、
・大学教員は単に専門研究を行うだけではなく、それを一般人にもアピールしていく必要がある。具体的には「新書などわかりやすい形での研究成果の出版」「ホームページでの情報発信」「高校教員など、大学以外の人間との交流」が考えられる
というのは「言うは易く行うは難し」ですが全く同感です。津野田氏(氏は高校教員ですが)も『世界史読書案内』(2010年、岩波ジュニア新書)、『やりなおし高校世界史』(2013年、ちくま新書)は「どれほどの反響があったかは自信がない」と断りつつも、そうした「一般人へのアピール」を目指した物だとしています。


■経済学部での歴史研究・教育の現状 (高柳友彦)
(内容紹介)
 大学学部レベルでの日本経済史教育について述べられていますが、正直理解が困難な内容です。「経済史で何を学生に教えるべきなのか」ということについて必ずしも共通合意がないようには感じました。
 なお、筆者は
1)「経済学者(経済学部)の経済史研究」と「歴史学者(文学部史学科など)の経済史研究」との間のずれをなくすため「同一大学限定でもいいので*5」経済学部と文学部史学科などの意見交換がされるべきではないか
2)座談会「大学における歴史研究/教育の現在と未来」でも指摘があったことですが「新書などわかりやすい形での研究成果の出版」「ホームページでの情報発信」「高校教員など、大学以外の人間との交流」といった外部との交流をすべき
と指摘しています。
 なお、近年の経済史テキストとして

【日本経済史:刊行順】
・三和良一*6『概説日本経済史・近現代(第3版)』(2012年、東京大学出版会
・沢井実*7、谷本雅之*8『日本経済史:近世から現代まで』(2016年、有斐閣
・石井里枝*9、橋口勝利*10 編『日本経済史』(2017年、ミネルヴァ書房
武田晴人*11『日本経済史』(2019年、有斐閣
【経済史:刊行順→著者名順】
小田中直樹*12『ライブ・経済史入門』(2017年、勁草書房) 
・中西聡*13編『経済社会の歴史』(2017年、名古屋大学出版会)
・小野塚知二*14『経済史』(2018年、有斐閣
・河崎信樹*15、奥和義*16編『一般経済史』(2018年、ミネルヴァ書房
・水島司*17、島田竜登『グローバル経済史(放送大学テキスト)』(2018年、放送大学教育振興会

が紹介されています。
 なお、小生が「経済史」でググったところ、他にも比較的、最近の著書(比較的入手しやすい新書、文庫限定)としては

【刊行順】
・中村隆英*18『昭和経済史』(2007年、岩波現代文庫)
猪木武徳*19『戦後世界経済史』(2009年、中公新書)
・杉山伸也*20『グローバル経済史入門』(2014年、岩波新書)

があります。


■人文社会科学系学部での歴史研究の現状:世界史教育 (森下嘉之*21
(内容紹介)
 茨城大学人文学部教員の筆者から「茨城大学人文学部における世界史教育の現状」が述べられています。
 人文学部学生の2/3が日本史を選択し、世界史選択者も「多くは西欧史(主に英仏独伊)、次いで中国史」というパターンが固定化しているとのこと。


■歴史の眼:シリーズ連載「明治150年の総括」2
「地域の/地域からの「明治150年」」(友田昌宏)
(内容紹介)
・『戊辰雪冤:米沢藩士・宮島誠一郎の「明治」』(2009年、講談社現代新書)、『未完の国家構想:宮島誠一郎と近代日本』(2011年、岩田書院)、『東北の近代と自由民権』(編著、2017年、日本経済評論社)、 『東北の幕末維新:米沢藩士の情報・交流・思想』(2018年、吉川弘文館)と言った著書を持ち、「東北地方と明治維新」を研究テーマとする筆者が自らの「研究テーマ」から、「明治150年」について論じている。
 それは「既に以前から様々な形で指摘されているところ」ではあるが、「勝者である薩長」と「敗者である東北(奥羽越列藩同盟に参加した諸藩)」では維新に対する見方や立場は当然ながら違うと言う話である。

参考

■宮島誠一郎(1838~1911年。ウィキペディア参照)
奥羽越列藩同盟で中心的な役割を果たしたほか、明治維新後は自由民権運動に先駆けていち早く憲法制定・議会開設の建白(1872年)を行い、また後にアジア主義団体「興亜会(後に東亜同文会に吸収合併)」設立に関わった。
■立国憲議の提出
 明治3年(1870年)、宮島は太政官待詔院下局に出仕。ついで翌年10月には、立法諮問機関である左院の議官となる。明治5年(1872年)4月3日、左院議長・後藤象二郎*22に対し「立国憲議」を提出した。この建議は、日本では人民が権利と義務について正しく知らないため、まず国憲(憲法)を制定した後、しばらくこの憲法の下で右院(各省の長官・次官)と府県官員からなる会議を議院として政治を行い、人民の「開化ノ進度」が深まったら「真ノ民選議院」を設けて君民共治を盛り込んだ「至当ノ国憲」を制定するのが好ましい順序であると主張するものであった。外国留学経験はなく欧米諸国の制度に精通していたわけではない宮島であったが、加藤弘之*23の『真政大意』、福沢諭吉の『西洋事情』、中村敬宇*24の『自由之理*25』などを参考として書き上げたものと見られる。この建議は、後に盛んとなった自由民権運動に先立つ議会開設運動として注目されるが、上記の経緯は明治13年1880年)の『国憲法編纂起原』で宮島自身によって回想されたものであり、その功績については粉飾が含まれている可能性もある。
米沢藩復権運動
 宮島は出身である米沢藩が賊軍として戊辰戦争で降伏した後も、その汚名を雪ぎ復権させることに精力を尽くした。旧米沢藩重臣であった千坂高雅(1841~1912年)の新政府出仕(のちに石川県令・岡山県令などを歴任)、および旧主・上杉斉憲(1820~1889年)の官位(従四位)復活に向けて、盛んに新政府に対して働きかけている。明治8年(1875年)4月13日には斉憲の参内と明治天皇への拝謁までこぎ着けたが、復位については却下された。宮島はその後も工作を続け、ついに明治13年1880年)5月18日、上杉斉憲従四位に復位し、幕末以来の米沢藩の雪辱が果たされた。その後も宮島は斉憲の昇叙運動を続け、明治22年(1889年)にはついに斉憲が従三位に昇進、宮島は上杉家から金35円を贈られた。
 宮島は藩閥政府の中にあって大久保利通*26吉井友実*27伊地知正治*28ら薩摩閥と長く親交を保ち、米沢出身の後輩の出世を促した。米沢藩藩閥政権時代にあっても中條政恒*29、平田東助*30、池田成章*31、山下源太郎*32らの人材を輩出している。
■宮島誠一郎関係文書
 宮島は幕末から明治維新期にかけて長く一線で活躍するとともに、自らの活動や著名人との交流に関して厖大な日記・記録を残しており、宮島自身のみならずこの時代の事件や著名人を研究する上で欠かせない史料となっている。これらの史料群は早稲田大学に2500点、国立国会図書館に2100点が収蔵されており、それぞれ『宮島誠一郎文書目録』(早稲田大学図書館編)、『宮島誠一郎関係文書目録』(国立国会図書館)が作成されている。

<戊辰戦争150年>列藩同盟の背景考える 宮城・白石で研究者らシンポ | 河北新報オンラインニュース
 戊辰戦争の際の奥羽越列藩同盟を仙台、米沢、秋田各藩の視点から研究者が議論するシンポジウム「戊辰戦争 奥羽の選択 それぞれの列藩同盟」が11日、白石市ホワイトキューブ*33であった。
 同盟の盟主となった仙台藩について東北大大学院文学研究科の栗原伸一郎*34学術研究員は「奥羽の鎮守府将軍を自任する大藩として地域の問題を収束させる意識や、薩摩藩への対抗心もあった。他藩からの批判や度重なる敗戦で主導性は次第に抑制された」と話した。
 米沢藩は列藩同盟を仙台藩と主導しながら、いち早く降伏。東北大東北アジア研究センターの友田昌宏専門研究員は「全面戦争に踏み切ろうとする仙台藩の歯止めとなり、旧領の越後諸藩に同盟加盟を呼び掛けるなど役割を果たしたが、戦局の悪化とともに自藩第一主義に傾いた」と述べた。
 列藩同盟を離脱し、新政府軍に加わった秋田藩国立歴史民俗博物館の天野真志*35特任准教授は「藩主の佐竹家は天皇家に連なる名家で、藩内外から勤王を常に求められた。内乱を回避するために同盟にとどまるべきか、新政府に付くか模索を続けた」と説明した。
 列藩同盟結成につながった白石会議が開かれ、中心機関の奥羽越公議府が置かれた白石で歴史を振り返ろうと市教委が主催し、約390人が来場した。

<奥羽の義 戊辰150年>(39)開拓志願 北の大地へ移住 | 河北新報オンラインニュース
 1869年1月(旧暦明治元年12月)、戊辰戦争に敗れた仙台藩の領地は62万石から28万石へと大幅に削減された。現在の大崎市周辺に1万4600石を有した伊達家一門の岩出山領主、伊達邦直はわずか60石となった。
 これでは家臣を養えない。リストラすれば、家臣は帰農するか、岩出山を出て流浪するしかない。
 「支えてくれた家臣を見殺しにできない」。
 悩む邦直に一つの選択肢がもたらされた。北海道開拓移住である。
 新政府はロシア南下に対する警備と農地開拓のため、北海道への入植者を募っていた。
 政府に出した嘆願書には「自費をもって開拓に当たり、前罪の万分の一でも償いたい」とある。「前罪」とは戊辰戦争のこと。東北大東北アジア研究センターの友田昌宏専門研究員は「家臣の生活維持に加え、国家事業の北海道開拓を成功させ、仙台藩に着せられた朝敵の汚名を返上する思いがあった」と解説する。
岩出山伊達家
 1603年、仙台藩伊達政宗が居城を岩出山から仙台に移す際、四男宗泰に領地を譲ったのが始まり。藩内の家格は最上位の「一門」。現在の宮城県北に幅広い領地を有し、範囲は玉造、遠田、志田、栗原、黒川各郡に及んだ。
■伊達邦直
 岩出山伊達家10代当主。1835年9代当主義監(よしあき)の長男として誕生。1881年北海道開拓の功績により従6位に叙せられた。1891年北海道当別で死去。

■伊達邦直(1835~1891年、ウィキペディア参照)
 戦後、それまで14000石あった禄高を65石に減封された上、岩出山城を召し上げられ、家臣の士分を剥奪された。侍ではなくなった家臣たちは帰農を命ぜられたが、邦直は彼らが路頭に迷うことを憂い、私財を処分して得た資金で、新政府の推し進めていた北海道開拓を志願。現在の当別町の基礎を築いた。
 1892年8月、旧家臣らが内務省阿蘇神社(後の当別神社)創建を願い出て、邦直が祀られることとなる。同年10月には孫の正人が邦直の北海道開拓にかかわる功績により男爵を授けられ、華族に列せられた。1915年(大正4年)11月には邦直に正五位が追贈される。1940年(昭和15年)、皇紀2600年を記念し、北海道開拓神社に合祀される。

■伊達邦成(1841~1901年、ウィキペディア参照)
 伊達邦直の弟。仙台藩一門・亘理伊達家第14代当主。仙台藩降伏後、知行を23,853石から58石(従前の0.24%)へと減らされたため、数百名もの家臣団を養うことが不可能になり、明治3年(1870年)から数次にわたって家臣らを率い、家族と共に北海道に移住、胆振国有珠郡(現在の伊達市)を開拓した。明治25年(1892年)、開拓の功により、勲四等瑞宝章を受勲、男爵に叙せられた。昭和10年(1935年)、有珠郡開拓の先覚者であり偉勲者であるとして、伊達神社に祀られた。

【維新再考・明日への伝言】現代編4-友田昌宏さん 東北集い大きな力に:連載:福島民友新聞社 みんゆうNet
 戊辰150年の節目を機に始まった大型連載「維新再考」は、今回で最終回を迎えた。これまで連載でたどってきた、本県*36からの視点で見た歴史は、現代の私たちに何を呼び掛けるのか。会津ゆかりの早稲田大総長の田中愛治さん(67)、中央大文学部准教授の宮間純一さん*37(36)、東京大史料編纂所准教授の箱石大さん(53)、東北大専門研究員の友田昌宏さん(41)ら有識者に、戊辰戦争への新しい視点や、現代にまで続くその影響などについて聞いた。
◆東北大専門研究員・友田昌宏さん
 戊辰戦争で敗れた「東北」は「白河以北一山百文」(白河から北は一山が百文で買える)と後進性を揶揄(やゆ)され蔑視された。だが同時に、東北人の中では、「反骨」「反権力」*38といったニュアンスを含む「東北地方」という精神的な概念が、この敗戦によって確立され、今も受け継がれているのではないか。
 東北大専門研究員の友田昌宏さんの研究は、そう示唆する。
 「東北の幕末維新*39」「戊辰雪冤(せつえん)*40」などの著書がある友田さんによると、明治時代の東北は「奥羽越列藩同盟」に尽くした藩、同盟を見限った藩の区別なく「白河以北」と見なされた。そして、このような状況で「東北地方にとって極めて重要な歴史である『自由民権運動』が始まる」と話す。
 自由民権運動は、国会開設や憲法制定を政府に求めた全国運動。背景には薩長出身者による藩閥政治への批判があり、士族だけでなく庶民も巻き込み、各地に政治団体が生まれた。本県は、西の高知県と並んで東の一角とされた。本県を代表する人物は三春藩出身の河野広中*41で、優れた指導者として重要な地位を占めた。
 「民権運動の勃興は東北にとって好機。『第二の維新』として運動の先駆けとなり『白河以北』を乗り越えようとした」と友田さん。民権運動が盛り上がると、東北各地の政治団体が連携し「東北七州*42自由党」などの広域組織が結成された。薩長への対抗意識などを原動力に「東北意識」を強めて結集する動きを友田さんは「奥羽越列藩同盟の再演」と例える。
 ただ、各地で事情が違うため政治団体の対立は絶えなかった。1871(明治4)年の廃藩置県で藩は消滅したが、士族階級には藩意識が根強かった。
 賊軍とされた藩が多い東北地方は、民権運動とは別に、旧藩の雪冤(名誉回復)運動が士族の間で高まっていた*43。それに伴って、戊辰の対立も残存していった。
 友田さんは「白河以北」について「東北の人々は(この差別的なスローガンを)逆手にとって民権運動で団結した」と語る。さらに東日本大震災の際のスローガン「がんばろう!東北」を例に挙げ「(ボーガス注:日本海側の秋田(負傷者11名)、山形(死者2名)はあまり被害はなく、一方、小規模とはいえ東北でない、関東の茨城(死者24名)、千葉(死者21名)でも被害があったのに、主な)被災3県の福島、宮城、岩手*44でなく、東北としたところに注目した。幕末や近代に形成された『東北意識』が顔をのぞかせたのではないか」と語った。

 河北新報の記事<戊辰戦争150年>列藩同盟の背景考える 宮城・白石で研究者らシンポ | 河北新報オンラインニュース<奥羽の義 戊辰150年>(39)開拓志願 北の大地へ移住 | 河北新報オンラインニュース福島民友新聞の記事【維新再考・明日への伝言】現代編4-友田昌宏さん 東北集い大きな力に:連載:福島民友新聞社 みんゆうNetで、歴史評論論文の筆者・友田氏のコメントが紹介されていますので、上で紹介しました。「戊辰戦争で幕府側についたため、維新後、冷遇された。食えないので伊達邦直、邦成が家臣と共に政府の呼びかけに応じて北海道移住する」というのも明治維新の一面ではあったわけです。
 なお、北海道に伊達市という市がありますが、これは「伊達邦成が旧家臣を連れて、今の伊達市に移住し、開墾をはじめたこと」が市名の由来です(ウィキペディア伊達市」参照)。

【維新再考・明日への伝言】現代編4-田中愛治さん 「戦争は無益」教えに:連載:福島民友新聞社 みんゆうNet
 戊辰150年の節目を機に始まった大型連載「維新再考」は、今回で最終回を迎えた。これまで連載でたどってきた、本県からの視点で見た歴史は、現代の私たちに何を呼び掛けるのか。会津ゆかりの早稲田大総長の田中愛治さん(67)、中央大文学部准教授の宮間純一さん(36)、東京大史料編纂(へんさん)所准教授の箱石大さん(53)、東北大専門研究員の友田昌宏さん(41)ら有識者に、戊辰戦争への新しい視点や、現代にまで続くその影響などについて聞いた。
◆早稲田大総長・田中愛治さん
 (ボーガス注:2018年)11月に早稲田大総長に就いた田中愛治さんは、会津藩で代々家老を務めた田中家の子孫に当たる。教育者として田中さんは「会津藩はいつも学問を重んじた。多くの藩士が苦しんだ斗南(となみ)藩時代も教育を徹底した」と、苦難を乗り越えた会津人の教育力を評価する。
 田中家は会津藩の中興に尽力した家老田中玄宰*45や、幕末の京都で活躍し戊辰戦争の際に自刃した田中土佐を輩出した。
 田中さんの父は日本共産党幹部を務め、後に反共に転じた政治活動家で実業家の田中清玄氏(1906~93年)。田中さんは、父から会津や田中家の歴史を聞かされ「会津藩士の末裔(まつえい)なのだから『ならぬことはならぬ』の会津の精神や教えを守らなくてはだめと刷り込まれた」と振り返る。
 そして自身も「(大政奉還などで)薩長を中心とする新政府への政権移譲が平和裏になされた。しかし新政府軍の振り上げた拳は徳川家ではなく、会津藩に振り下ろされた」と会津の無念を語る。
 ただ、会津藩や先祖について深く考えるようになったのは、約10年の米国留学を終えて帰国した30代からだった。たまたま自宅で父と一緒に視聴したテレビドラマ「白虎隊」(1986年)*46がきっかけだった。「父は泣きながらドラマを見ていた。気にくわない長州藩士などが登場すると父は『おまえが悪い』と指を差して怒鳴った。それを見て『会津人は歴史をこう見ているんだ』と実感した」と振り返る。

【維新再考・明日への伝言】現代編4 連載を終えて:連載:福島民友新聞社 みんゆうNet
 戊辰戦争勃発から150年に合わせ、昨年(ボーガス注:2017年)5月に始まった連載「維新再考」の旅も、1年7カ月を経て終着を迎えた。
 戦争の勝者の視点、いわゆる「薩長史観」に基づき語られてきた近代日本の出発点「明治維新」。この連載は、「敗者」の側にあった私たちの視点から疑問や異議を投げ掛け、改めて考えた。いわば「地方紙の使命感」だった。
 取材の大きな対象となったのは、会津藩など東北・北越諸藩側の歴史だった。資料は膨大で研究者も多い。取材を通じて、明治政府が絶対とした歴史観「維新=正義」が次第に相対化され、「勝てば官軍」の言葉の意味を考える筋道も明確になった。

書籍版「維新再考」9月22日発売 官軍の『虚』と賊軍の『義』:福島民友ニュース:福島民友新聞社 みんゆうNet
 戊辰戦争の勃発から150年の節目の年に当たり、福島民友新聞社は好評の長期連載企画「維新再考」を一冊にまとめました。22日に発売します。
 日本は、明治維新戊辰戦争によって、近代国家へと大きく踏み出しました。ただ、それにより「官軍と賊軍」「勝者と敗者」がつくり出され、近代史では勝者の視点から「正義」が語られてきました。しかし、敗者の「正義」はなかったのでしょうか。
 福島民友新聞は、新政府と対峙(たいじ)し奥羽越列藩同盟をつくった東北、福島の視点から明治維新薩長史観を問い直す企画「維新再考」を昨年5月から長期連載し、今夏掲載分までを中心に書籍化しました。識者のインタビューをはじめ、京都や二本松、白河など県内外のゆかりの地を記者が巡り歴史をひもとくルポを掲載しました。

維新再考 / ザ・戊辰研マガジン
 この「維新再考」で、歴史小説家の半藤一利*47が、「明治維新」について興味深い内容を執筆されておりますので紹介します。
 半藤氏の父方の祖母が長岡藩の生まれで、半藤氏が子供の頃、明治維新とか幕末の志士とか薩長を褒めるようなことを言うと、祖母は「うそなんだぞ」と言っていた。つまり、薩長は勝手に明治政府を作ったのだが、自分たちが権力を奪ったことが悪いことじゃないんだと言うため、自分たちを褒めるために「維新」という言葉を使ったのであって「あんなのはうそだ」と祖母は言った。「長岡藩七万四千石にけんかを仕掛けて約五万石を盗った。泥棒と同じなんだ」ということをさかんに言っていた。

<奥羽の義 戊辰150年>(41)苦難超え実った「緋の衣」 | 河北新報オンラインニュース
 北海道余市町は、日本で初めてリンゴの民間栽培に成功した地とされる。入植した旧会津藩士が「緋の衣」という品種を実らせたことに始まる。元藩主松平容保(かたもり)が幕末に京都守護職に就任した際、孝明天皇から信頼の証しとして贈られた御衣の赤色が品種名の由来だ。
 戊辰戦争で敗れた会津藩は現在の青森県下北地域に移封され斗南(となみ)藩となった。旧藩士は「会津降伏人」と呼ばれ、移住した1万7000人が不毛の地で窮乏生活を強いられた。
 一方、新政府が推し進める北海道開拓に応募した者もおり、1871(明治4)年に600人が余市へ入植した。

<奥羽の義 戊辰150年>(44完)足元の史実を学び、未来へ | 河北新報オンラインニュース
 戊辰戦争会津、庄内両藩は新政府から「朝敵」とされた。降伏することさえ許されなかった。連載の取材で古文書や市史、町史などの文献に当たり、郷土史家らの話を聞くうちに、そうした扱いが一方的で理不尽なものであるという思いを強くした。
 戊辰戦争は一般に「新政府対旧幕府」の図式で捉えられる。だが東北での一連の戦いは、旧幕府体制に時計の針を戻すのが目的ではない。
 会津、庄内両藩を追討させようと強引に出兵を迫る新政府に対し、奥羽諸藩は決然と「ノー」を表明した。横車を押す者への異議申し立てである。奥羽越列藩同盟は盟約書に「集議」を掲げ、武力を前面に出す新政府に対し、広く公論で決するよう世に問うた。
 一方で戊辰戦争は、高い理念を掲げても、力が伴わなければ敗れ去るという厳しい現実を突き付けた。兵器、戦術に優れた新政府軍に対し、旧式銃が主体の列藩同盟軍は実戦で常に劣勢に立たされた。
 当初は平和同盟だった列藩同盟が、仙台藩による長州藩世良修蔵の暗殺を境に軍事同盟へと変質して戦争へ突き進むなど、奥羽諸藩が最後の最後で平和解決を自ら放棄してしまった側面もあった。
 冷淡な見方をすれば、同盟を主導した仙台藩米沢藩などは時流を読めないまま他人のけんかに加わり、争いを拡大させた上、敗れたと言えるかもしれない。
 だが(ボーガス注:仙台藩米沢藩などが)新政府と一緒に会津藩庄内藩をたたけば正解だったかといえば違うだろう。曲がりなりにも列藩同盟として奥羽諸藩が史上初めて一つにまとまった経験があるからこそ、東北が現代まで一体感を保つ素地が生まれたように思える。
 150年後の今、歴史の再評価が進む。雑誌「歴史街道」(PHP研究所)の今年1月号の読者アンケートでは、応援したい幕末の藩は会津藩が1位。仙台、庄内藩ともに8位で上位だった。薩長土肥ばかりが注目される時代ではもはやない。奥羽諸藩が掲げた大義は長い時を経て共感を広げている。敗れても残るものはある。

<奥羽の義 戊辰150年>連載終了に寄せて 郷土に自信と誇り持って 木村紀夫(郷土史家) | 河北新報オンラインニュース
・「奥羽の義」は各地への丹念な取材と写真によって戊辰戦争の実態を鋭くえぐり出している。
・なぜこのような戦争が起きたのか、奥羽の史実から見たい。
 幕府から政権の返上を受けた天皇は、「新体制」を諸侯会議の合議によって定めるとした。だが武力討幕を目指す薩摩、長州両藩は軍事クーデターで「王政復古」の維新政権を作った。
 薩長政権は会津、庄内両藩を朝敵として征討戦を強行した。過去の遺恨による私怨(しえん)としか思えない。奥羽諸藩は両藩の救済に努めるが許されず、次には自藩が襲われるとの危惧を深め、31藩で防衛のため列藩同盟を結んだ。
 奥羽諸藩の結束は会津救済に加え、薩長両藩を「天皇を操る君側の奸(かん)」として政権から除く狙いもあった。天皇による真の朝廷政権の実現と、「五箇条の御誓文」の公論衆議の実行という2点を大義に掲げた。
 では、征討戦を強行した維新政府の真意は何か。私は、実は政府が窮迫する財政事情から金、銀、銅、鉄、鉛など豊富に産出する奥羽の地下資源と、交易で外貨を稼いでいる上質な奥州生糸を強奪する狙いがあった*48とみている。つまりは経済戦争であり、奥羽諸藩がいかに救済を嘆願しても一顧だにされなかったのはそのためである。
 維新から1945(昭和20)年までの77年間は相次ぐ戦争に明け暮れ、日本は焦土と化した。維新後の薩長閥を中心とした政治が帝国主義軍国主義への道を開く。戊辰戦争の勝敗は、わが国の方向を決定したといえる。
 奥羽越列藩同盟は戦いの目的を明確にして大義のために戦った。敗れたからといって何ら恥じることはない。「仙台藩は賊軍にあらず」なのである。
 「奥羽の義」が新たな視点から、戊辰戦争を問い直した意義は大きい。
 今を生きる若者たちには、150年前に仙台藩の果たした歴史を知って「郷土への自信と誇り」を持ってほしい。そのような社会づくりを市民と行政が真剣に取り組む時にきている。仙台はこれからだと思う。
◆連載「奥羽の義」は今回で終わります。生活文化部・酒井原雄平、写真部・岩野一英、鹿野智裕が担当しました。

会津、明治維新より「戊辰150年」 長州になお遺恨?|出世ナビ|NIKKEI STYLE
 今年は「明治維新150年」を記念する行事が各地で開かれますが、この響きに違和感を持つ人もいます。東北地方など、1868年に起きた戊辰戦争で新政府軍と戦って敗れた藩があった地域に住む人たちです。特に戊辰戦争の激戦地だった旧会津藩では今も遺恨が残っているといわれています。
 旧会津藩の城下町、福島県会津若松市。市内には「維新」ではなく「戊辰150周年」ののぼりが立っています。
 「維新より戊辰のウエートが大きい」。
 6代にわたり市内に住む小林輝雄さん(68)は街の雰囲気を語ります。
 会津では少年兵「白虎隊」などを含め2500人以上の兵員が戦死したと伝えられています。会津若松市の教育長を務めた宗像精さん(84)は「戦いに負けただけでなく、『賊軍』の汚名を長く着せられたのが問題だ」と今も憤慨しています。
 賊軍とは政府軍の「官軍」に対する呼び方です。日本思想史を研究する京都造形芸術大学野口良平さん*49(50)は「新政府軍が内戦に勝つため用いた『官軍と賊軍』という区分けが、戊辰戦争後も教育などの場に用いられたのが遺恨の要因になった」と分析しています。

全国で盛り上がる「明治150年」…戊辰戦争で“負けた側”の人々にとっては150回忌のようなもの | 日刊SPA!
 越後(新潟県)や東北諸藩の地域の人々にとっては、この150年というのはまた違った意味を持つようだ。現在「戊辰戦争150年」展を開催中(10月14日まで。その後、10月26~12月9日に仙台市博物館でも開催予定)の、福島県立歴史博物館(福島県会津若松市学芸員・栗原祐斗氏はこう語る。
「こちらの地域の人たちにとっては、明治維新150年を祝うというよりは、新しい時代がつくられる過程の戊辰戦争で、たくさんの方々が犠牲になった。その人たちを追悼する150回忌、という感じが強いですね」
 福島県の地元紙『福島民友新聞』では、昨年(ボーガス注:2017年)5月から週1回、戊辰戦争150年企画として「維新再考」という連載を掲載中だ。会津藩福島県)が降伏した9月22日には『維新再考:「官軍」の虚と「賊軍」の義』というタイトルで単行本を刊行する。
「一般に伝えられている歴史は、どうしても明治維新を成し遂げた薩長の側からになってしまう。しかし負けた側には、違う歴史の見方・受け止め方があります。それを戊辰150年というかたちで伝えることにしたのです」(『福島民友新聞』編集局文化部担当記者)
 歴史作家の星亮一氏*50は「会津藩は一貫して幕府や朝廷に忠節を尽くしてきました」と語る。
「ところが突然、薩長天皇を奪われて“朝敵”(朝廷の敵)とされ、さらには主君である徳川家も戦わずに政権を放棄してしまいました。いつの間にか最大の“守旧派勢力”とされてしまったのです」
 会津藩が“朝敵”とされることに対しては、当時の諸藩も疑問を持っていたようだ。
「東北諸藩は、東北地方が戦場になることを避けたかったということもあるでしょうが、何とか会津藩が攻撃されないようにと必死に動き回っていたことが古文書からもわかっています。特に仙台藩宮城県)などは、各方面に嘆願書を書いて会津藩を救おうとしていたようです」(栗原氏)
 会津藩も、鳥羽・伏見の戦いで敗れた後、新政府軍に謝罪を申し入れていた。しかし新政府軍は会津藩の謝罪や他藩からのとりなしを一切受け入れず、徹底的に責め潰す方針を貫いた。
 このことについて、星氏は「明治維新薩長による“革命”。それを完成するには、会津の“血”が必要だった」と語る。

【明治150年】長州の安倍晋三首相、会津に配慮 「賊軍」避け「東軍が悪いわけではない」 - 産経ニュース
 旧長州藩の山口4区選出の安倍晋三首相と、旧会津藩が地盤の「希望の党」の小熊慎司*51(比例東北)が、5日の衆院予算委員会で明治150年をめぐり論戦を交わした。首相が「官軍」「賊軍」の言葉を避けて「西軍」「東軍」と言い換え、戊辰戦争で新政府軍と戦って敗れた会津に配慮した。
 首相は1月22日の施政方針演説の冒頭、会津の白虎隊出身で戊辰戦争後、東京帝国大学総長を務めた山川健次郎*52(1854~1931年)を引き合いに「あらゆる日本人にチャンスをつくることで、少子高齢化も克服できる」と1億総活躍社会の実現に意欲を表明。
 同月29日の衆院予算委員会では、立憲民主党逢坂誠二*53の質問に対し「官軍というと何なんですが、東軍と西軍ですね。西軍が正しくて東軍が悪いということではない」などと答弁していた。
 小熊氏はこれらを評価した上で「明治150年、戊辰150年を機に、一般の方々が国のため公のため、どう頑張ってきたかしっかり紹介すべきだ」などとただした。
 首相は「先般も申し上げた通り、西軍が正しくて東軍が悪いということではない。山口の人間が西軍、東軍という言葉を使うことはあまりないが、相手が受ける印象を考えるべきだと思うのでこの使い方をしている」と説明した。

 戊辰戦争は東北にとっては「奥羽の義(河北新報連載のタイトル)」だったわけです。
 政治的に敗北したが故に建前として「朝敵」「賊軍」という明治新政府の立場を受け入れざるを得なかったとは言え。
 そしてその熱い(?)思いは「長期連載・奥羽の義」(河北新報)、「長期連載・維新再考」(福島民友新聞)が連載されるほどのものでした。
 当然ながら明治150年イベントにおいても東北においてはこうした「奥羽の義」と言う認識が影響せざるをえません。

【朝日新聞研究】明治150年「戊辰戦争敗者」を熱心に報じる魂胆 (1/2ページ) - zakzak酒井信彦
 維新150年をめぐる朝日新聞の記事の特徴は、維新そのものより、戊辰戦争に注目していることであり、特に、戦争で負けた側に立って報道していることである。従って「開戦150年」であり、「敗者をたどって」というわけである。
 では、なぜ朝日新聞は、このような報道を行ったのか。
 それは、連載「戊辰の敗者をたどって」の第3回「長州と仲直り『まだ早い』」(10月25日夕刊)を読んで、納得がいった。
 刀祢館記者は、日本記者クラブが9月、戊辰戦争150年にちなむプレスツアーに参加し、福島県会津若松市を訪ねた。会津藩藩校を復元した「日新館」を訪れ、宗像精(ただし)館長の話を聞いたという。
 この際、「長州といまだに『和解』していないと言われるが」という問いに対し、宗像館長は「そろそろどうかというが、その手には乗らない。黙って、静かに、仲良くしていく。でも仲直りはできない。歴史は消すべきではない」と答えているのだ。
 また、会津藩斗南藩に関する著作のある作家の星亮一さんは昨年、「一方的に会津に賊軍のイメージを植え付けた明治政府は間違っていたと、今の政府が認めたらいい。それも長州(=山口県)の(安倍)首相がいる間に」と、刀祢館記者に提案したという。
 これで得心したのは、朝日新聞による戊辰戦の敗者に対する熱心な報道は、会津への同情というより、長州への批判なのだろうということだ。要するに「安倍政治を許さない」という、安倍バッシングの方針*54に立脚するのではないかと。
 なお、戊辰戦争に対する、「勝てば官軍」史観の訂正を主張するのであれば、朝日新聞は「アジア太平洋戦争」に対する東京裁判史観にも、同じ見方を適用しても良い*55のではないのか。

 「産経や酒井ら」ウヨの「常軌を逸した」朝日嫌いと「明治維新万歳」「戦前万歳(アジア太平洋戦争正当化)」がよく分かる記事です。朝日よりもむしろ河北新報連載「奥羽の義」や福島民友新聞連載「維新再考」の方がそうした「明治維新に対する東北からの批判意識」は強いでしょうにね。そして【明治150年】長州の安倍晋三首相、会津に配慮 「賊軍」避け「東軍が悪いわけではない」 - 産経ニュースによれば安倍ですら、明治150年についての質問に対し「薩長が正しくて会津が間違ってるとは思ってない」と釈明しているのに。

<奥羽の義 戊辰150年>(42)寛大な処分に庄内藩感服 | 河北新報オンラインニュース
 戊辰戦争後、庄内藩に下された処分は17万石から12万石への減封だった。62万石から28万石になった仙台藩や、23万石から実質7000石の斗南藩に移封された会津藩との違いが際立った。
 厳しい処分を覚悟していた庄内藩首脳は、後に薩摩藩西郷隆盛の指示だと知る。温情に感服した藩主酒井忠篤(ただずみ)は1870(明治3)年、藩士と共に鹿児島を訪れ、それを機に西郷に教えを請うようになった。
 中でも重臣菅実秀(すげ・さねひで)は西郷と兄弟のように親しみ、国の行く末を論じ合った。西郷の助言に従い、菅らは山居倉庫や第六十七銀行(現在の荘内銀行)を設立。松ケ岡(鶴岡市)を開墾して養蚕事業も始めるなど、産業振興に邁進した。
 89年、西南戦争で負った西郷の賊名が明治憲法発布に伴う恩赦で解かれると、菅らは「今こそ西郷の『敬天愛人』の精神を後世に示す時」と遺訓編集を指示。翌年「南洲翁(なんしゅうおう)遺訓」を刊行した。南洲は西郷の雅号。旧庄内藩士は本を風呂敷に包んで背負い、全国を行脚して広めた。
 酒田市には西郷と菅をまつる南洲神社があり、公益財団法人「荘内南洲会」(会員約450人)が遺訓を学ぶ講座を毎月開いている。同会は遺訓の冊子を無料配付しており、累計は10万冊に及ぶという。先日はクラウドファンディングを活用して増刷資金を募った。
 水野貞吉理事長(85)は「全国の大勢の方が今も遺訓に関心を持ち、協力してくれてうれしい」と話す。
 西郷が庄内藩に対して寛大だった理由はよく分かっていない。負け知らずと言われた手ごわい相手を再び敵に回したくなかった、(ボーガス注:庄内藩による)薩摩藩邸焼き打ちを口実に同藩が朝敵とされたのを気にした、など諸説ある。

 ただし東北諸藩においてこうした寛大な処分はむしろレアケースでしょう。
 この結果、庄内においては
『薩摩と庄内を結ぶ西郷の教え』|2018年9月19日(水)放送|MBC南日本放送・TUYテレビユー山形制作・
明治維新150年 西郷隆盛と庄内 | 致道博物館 Official siteのように明治150年記念イベントにおいては特に西郷に光が当たるという「他の東北地域とは違う特徴」が生まれるわけです。

*1:都立日比谷高校教員。著書『世界史読書案内』(2010年、岩波ジュニア新書)、『やりなおし高校世界史』(2013年、ちくま新書

*2:東京学芸大学教授

*3:学習院大学名誉教授。著書『近世日本の国家権力と宗教』(1989年、東京大学出版会)、『江戸幕府と朝廷』(2001年、山川出版社日本史リブレット)、『近世の朝廷と宗教』(2014年、吉川弘文館)、『天下泰平の時代』(2015年、岩波新書)、『日本近世史研究と歴史教育』(編著、2018年、山川出版社)、『江戸時代の神社』(2019年、山川出版社日本史リブレット)など

*4:一橋大学名誉教授。著書『朝鮮の近代』(1996年、山川出版社世界史リブレット)

*5:もちろん同一大学だけではなく他大学とも交流が出来ればなお良いわけですが

*6:青山学院大学名誉教授。著書『占領期の日本海運』(1992年、日本経済評論社)、『日本近代の経済政策史的研究』、『日本占領の経済政策史的研究』(以上、2002年、日本経済評論社)、『戦間期日本の経済政策史的研究』(2003年、東京大学出版会)、『近現代日本経済史要覧(補訂版)』(編著、2010年、東京大学出版会)、『経済政策史の方法:緊縮財政の系譜』(2012年、東京大学出版会)など

*7:大阪大学名誉教授。南山大学教授。著書『日本鉄道車輌工業史』(1998年、日本経済評論社)、『近代大阪の工業教育』(2012年、大阪大学出版会)、『近代日本の研究開発体制』(2012年、名古屋大学出版会)、『近代大阪の産業発展』(2013年、有斐閣)、『マザーマシンの夢:日本工作機械工業史』(2013年、名古屋大学出版会)、『八木秀次』(2013年、吉川弘文館人物叢書)、『帝国日本の技術者たち』(2015年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『日本の技能形成』(2016年、名古屋大学出版会)、『見えない産業:酸素が支えた日本の工業化』(2017年、名古屋大学出版会)、『海軍技術者の戦後史』(2019年、名古屋大学出版会)、『現代大阪経済史』(2019年9月刊行予定、有斐閣)など。

*8:東京大学教授。著書『日本における在来的経済発展と織物業』(1998年、名古屋大学出版会)

*9:著書『戦前期日本の地方企業』(2013年、日本経済評論社

*10:著書『近代日本の地域工業化と下請制』(2017年、京都大学学術出版会)

*11:東京大学名誉教授。著書『談合の経済学』(1999年、集英社文庫)、『高度成長』(2008年、岩波新書)、『仕事と日本人』(2008年、ちくま新書)、『岩崎弥太郎』(2011年、ミネルヴァ日本評伝選)など

*12:東北大学教授。個人サイト小田中直樹・仙台ドタバタ記。著書『ライブ・経済学の歴史』(2003年、勁草書房)、『歴史学ってなんだ?』(2004年、PHP新書)、『フランス7つの謎』(2005年、文春新書)、『19世紀フランス社会政治史』(2013年、山川出版社)、『フランス現代史』(2018年、岩波新書)など。東北大学名誉教授(法律学)の小田中聰樹の息子。

*13:慶應義塾大学教授。著書『近世・近代日本の市場構造:「松前鯡」肥料取引の研究』(1998年、東京大学出版会)、『海の富豪の資本主義:北前船と日本の産業化』(2009年、名古屋大学出版会)、『世界経済の歴史:グローバル経済史入門』(編著、2010年、名古屋大学出版会)、『日本経済の歴史:列島経済史入門』(編著、2013年、名古屋大学出版会)、『旅文化と物流:近代日本の輸送体系と空間認識』(2016年、日本経済評論社)など

*14:東京大学教授。個人サイト小野塚知二のページ/Tomoji Onozuka's Home Page。著書『クラフト的規制の起源:19世紀イギリス機械産業』(2001年、有斐閣)など

*15:関西大学教授。著書『アメリカのドイツ政策の史的展開:モーゲンソープランからマーシャルプランへ』(2012年、関西大学出版部)、『アメリカの国際援助』(2012年、日本経済評論社

*16:関西大学教授。著書『日本貿易の発展と構造』(2012年、関西大学出版部)、『両大戦間期の日英経済関係の諸側面』(2016年、関西大学出版部)

*17:東京大学名誉教授。著書『グローバル・ヒストリーの挑戦』(編著、2008年、山川出版社)、『グローバル・ヒストリー入門』(2010年、山川出版社世界史リブレット)など

*18:1925~2013年。東京大学名誉教授。著書『昭和恐慌と経済政策』(1994年、講談社学術文庫)など

*19:大阪大学名誉教授。著書『経済学に何ができるか』(2012年、中公新書)、『自由の思想史』(2016年、新潮選書)など

*20:慶應義塾大学名誉教授。著書『明治維新とイギリス商人:トマス・グラバーの生涯』(1993年、岩波新書)、『日英経済関係史研究 1860~1940』(2017年、慶應義塾大学出版会)など

*21:著書『近代チェコ住宅社会史』(2013年、北海道大学出版会)

*22:左院議長、参議、工部大輔、黒田、第1次山県、第1次松方内閣逓信相、第2次伊藤内閣農商務相など歴任

*23:獨逸学協会学校(獨協大学の前身)校長、帝国大学(現・東京大学)総長、帝国学士院院長、枢密顧問官など歴任

*24:東京大学文学部教授、女子高等師範学校お茶の水女子大学の前身)校長を歴任

*25:ジョン・スチュアート・ミル『On Liberty』の訳書

*26:大蔵卿、内務卿、参議を歴任

*27:工部大輔、宮内次官、枢密顧問官など歴任

*28:参議、宮中顧問官などを歴任。

*29:1841~1900年。福島県典事として福島県安積郡桑野村(現・郡山市)の原野の開墾に尽力し「安積開拓の父」と呼ばれた。その後も島根県権令、太政官小書記官を歴任。建築家の中條精一郎の父。作家・宮本(旧姓:中條)百合子の祖父(ウィキペディア「中條政恒」参照)。

*30:1849~1925年。第1次桂内閣農商務大臣、第2次桂内閣内務大臣、内大臣を歴任(ウィキペディア「平田東助」参照)。

*31:1840~1912年。大蔵省御用掛、両羽銀行(現在の山形銀行)初代頭取を歴任。三井合名会社常務理事、日銀総裁、第一次近衛内閣蔵相(商工相兼務)などを歴任した池田成彬の父(ウィキペディア「池田成章」参照)。)

*32:1863~1931年。連合艦隊司令長官、海軍軍令部長など歴任(ウィキペディア「山下源太郎」参照)

*33:白石市文化体育活動センターの愛称

*34:著書『戊辰戦争と「奥羽越」列藩同盟』(2017年、清文堂出版

*35:著書『記憶が歴史資料になるとき:遠藤家文書と歴史資料保全』(2016年、蕃山房)

*36:福島県のこと

*37:著書『国葬の成立:明治国家と「功臣」の死』(2015年、勉誠出版 )、『戊辰内乱期の社会』(2016年、思文閣出版

*38:東北には「差別されてる」つうイメージはあっても「反骨」てイメージないですけどねえ。むしろ「自民党王国イメージ」がある。一方「差別されてる→反骨」つうイメージならこれはもう言うまでもなく「沖縄」でしょう。

*39:2018年、吉川弘文館

*40:2009年、講談社現代新書

*41:1849~1923年。衆院議長、第2次大隈内閣農商務大臣など歴任(ウィキペディア河野広中」参照)

*42:磐城(現在の福島県宮城県の一部)、岩代(現在の福島県の一部)、陸前(現在の岩手県宮城県の一部)、陸中(現在の秋田県岩手県の一部)、陸奥(現在の青森県岩手県の一部)、羽前(現在の山形県の一部)、羽後(現在の秋田県山形県の一部)の7州のこと

*43:友田氏も指摘していますが、当然ながら「雪冤(名誉回復)運動」に関わる人間の多くは「雪冤の邪魔になる」として民権運動を敵視しました。明治新政府を「外部から批判するか、内部から働きかけて変えようとするか」について東北には「植民地時代朝鮮の独立運動家といわゆる親日派」「チベット解放後のダライ・ラマ(1959年の暴動を引き起こしインドに亡命)とプンツォク・ワンギャル(死ぬまで中国共産党員として活動)」のような意見の違い、対立があったわけです。

*44:死者は福島1614名、宮城9540名、岩手4674名

*45:藩校日新館の創設や紅花、藍の栽培、漆器、絵ろうそくの製造など殖産興業で知られる。

*46:1986年12月30日、31日に日本テレビ系で放映された「日本テレビ年末時代劇スペシャル」。 風間杜夫松平容保会津藩主)を、 里見浩太朗西郷頼母会津藩国家老)を演じた。

*47:幕末維新関係の著書として『幕末辰五郎伝』(2001年、ちくま文庫)、『それからの海舟』(2008年、ちくま文庫)、『山縣有朋』(2009年、ちくま文庫)、『幕末史』(2012年、新潮文庫

*48:こうした見方の是非はひとまず起きます。問題は東北側にとって明治新政府薩長)の東北に対する「朝敵」「賊軍」という定義づけは到底受け入れがたい物だという話です。

*49:著書『「大菩薩峠」の世界像』(2009年、平凡社)、『幕末的思考』(2017年、みすず書房

*50:著書『会津戦争全史』(講談社選書メチエ)、『よみなおし戊辰戦争』(ちくま新書)、『明治を生きた会津山川健次郎の生涯:白虎隊士から帝大総長へ』(ちくま文庫)、『会津落城:戊辰戦争最大の悲劇』、『奥羽越列藩同盟』、『斗南藩:「朝敵」会津藩士たちの苦難と再起』、『敗者の維新史:会津藩士荒川勝茂の日記』、『幕末の会津藩』(以上、中公新書)、『女たちの会津戦争』、『新選組会津藩』、『白虎隊と会津武士道』(以上、平凡社新書)など

*51:「改革結集の会」幹事長、民進党副幹事長、国民民主党役員室長など歴任

*52:物理学者。東京帝国大学総長、九州帝国大学総長、京都帝国大学総長を歴任

*53:北海道ニセコ町長、菅内閣総務大臣政務官などを経て2019年1月から立憲民主党政調会長

*54:こうした「東北からの視点」は「安倍の明治150年万歳」に対する批判ではありえても、それ以外の「安倍批判(アベノミクス、「韓国への無法な経済報復」、特定秘密保護法入管法改定、働き方改革法、モリカケ疑惑など)」とはまた別問題です。またこうした「明治維新万歳」は「昭和維新226事件青年将校のスローガン)」「明治100年(佐藤栄作首相のイベント)」でわかるように何も安倍だけがやってるわけでもありません。

*55:「内戦(戊辰戦争)と海外侵略(アジア太平洋戦争)と全然違うだろ?」て話です。