小生が何とか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集『幕末史研究入門』
◆幕末政治史研究(中央政局分析)入門(白石烈*1)
(内容紹介)
【1】幕末政治史研究(中央政局分析)において、
家近良樹*2(現在、大阪経済大学名誉教授)
◆ 「一会桑権力の成立と崩壊」明治維新史学会編『幕藩権力と明治維新』(1992年、吉川弘文館)
◆『孝明天皇と「一会桑」』(2002年、文春新書)→『江戸幕府崩壊:孝明天皇と「一会桑」』と改題して2014年、講談社学術文庫
などで家近らによって
◆一会桑権力(一会桑政権 - Wikipedia参照)
徳川慶喜(禁裏御守衛総督、一橋徳川家当主→後に将軍)、松平容保(京都守護職、会津藩主)、松平定敬(京都所司代、桑名藩主、松平容保の弟)によって京都に構成された権力。
その性格上、当然、幕府寄りではあるが、「幕府の単なる家臣」として、将軍や老中の命令通りに動くだけの存在ではなく、独自の思惑で動いていた。
と言う「幕府、薩長、朝廷」とは異なる思惑で動いていた「一会桑権力」という概念が提唱されたことを重要な転機としている。
【2】また筆者に寄れば一会桑研究によって、幕末の「会津藩」「桑名藩」について本格的に研究が開始されたことは、会津、桑名にとどまらず、従来「薩長土肥」、特に「維新の三傑(薩摩の大久保利通*3、西郷隆盛*4、長州の木戸孝允*5)」や「元老の多く(長州の伊藤博文*6、井上馨*7、山県有朋*8、薩摩の黒田清隆*9、松方正義*10など)」が属した薩長に集中していた幕末の藩研究が「それ以外の藩」に広がるようになり
◆藤田英昭『文久二・三年の尾張藩と中央政局』
◆友田昌宏*11『文久三年京都政局と米沢藩の動向』
(いずれも家近良樹編『もうひとつの明治維新:幕末史の再検討』(2006年、有志舎)収録)
◆栗原伸一郎『戊辰戦争と「奥羽越」列藩同盟』(2017年、清文堂出版)
などの研究成果が出された。
なお、「藩研究」の詳細については宮下論文に譲るとして詳細には論じていない。
◆幕末政治史と藩研究(宮下和幸*12)
(内容紹介)
筆者が専門とする「幕末維新期の加賀藩」をテーマに藩研究を論じていますが小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
参考
◆宮下和幸『加賀藩の明治維新』(2019年、有志舎)
【アマゾンの内容紹介】
北陸の大藩である加賀藩は、幕末政局において目立った動きを見せずに明治維新を迎えたとみなされ、加賀藩=「日和見」とのラベリングがなされてきた。しかし、それは正当な評価なのだろうか。本書は、加賀藩における政治意思決定のあり方や京都の政局への対応、さらに藩組織の改編や軍制改革、「西洋流」の受容などを明らかにし、そこから明治維新という変革の意義を積極的に追究していく。数ある藩研究の一事例にとどまらない、新しい藩研究を切り開く挑戦である。
6月新刊は、宮下和幸さん著『加賀藩の明治維新』です。 - 有志舎の日々2019.5.17
有志舎の新刊は4月・5月とお休みですが、6月は『加賀藩の明治維新―新しい藩研究の視座 政治意思決定と「藩公議」―』(宮下和幸さん著、本体6,600円+税)です。
明治維新というものは、考えてみれば結局は藩が主体となって行われたものです。
通俗的には坂本龍馬や西郷隆盛・木戸孝允のような個人ばかりがクローズアップされますが、彼らとて藩の中の一員でしかなかったわけです(龍馬も最終段階では土佐藩に復帰していたし)。
だから、幕末政治史を見る場合には、藩の動向が何よりも大事なわけです。
しかし一方で、いまも幕末政治史では、積極的に維新変革に参画した「雄藩」と、それに敵対した「佐幕藩(朝敵藩)」、さらにそもそも変革に参加しなかった「日和見藩」などというラベリングが根強く生き続けています。
この本はそういう枠組み自体を問い直していきます。
◆幕末期外交・貿易・海防史研究入門(吉岡誠也*13)
【1】従来は「対米外交」が専ら論じられる傾向があったが、最近はそれ以外の国(プロイセン、オランダ、フランス等)についても研究が進んでいるとして
【刊行年順】
◆福岡万里子*14『プロイセン東アジア遠征と幕末外交』(2013年、東京大学出版会)
◆小暮実徳*15『幕末期のオランダ対日外交政策』(2015年、彩流社)
◆中武香奈美編・中山裕史著『幕末維新期のフランス外交:レオン・ロッシュ再考*16』(2021年、日本経済評論社)
が紹介されている。
【2】従来は「通俗的明治維新イメージ」の影響で研究者においても「拙劣な幕府外交で不平等条約締結」という見方が強かったが、そうした見方は「政治的勝者となった薩長のバイアスが強い」として、かなり修正されている(むしろ幕府外交の評価が以前よりはかなり高い方向に修正されている)として
【刊行年順(刊行年が同じ場合は著者名順)】
◆後藤敦史*17『開国期徳川幕府の政治と外交』(2014年、有志舎)
◆麓慎一*18『開国と条約締結』(2014年、吉川弘文館)
◆佐野真由子*19『幕末外交儀礼の研究:欧米外交官たちの将軍拝謁』(2016年、思文閣出版)
◆吉岡誠也『幕末対外関係と長崎』(2018年、吉川弘文館)
等が紹介されている。
【3】幕末貿易に関する研究として
【刊行年順】
◆石田千尋*20『日蘭貿易の史的研究』(2004年、吉川弘文館)、『日蘭貿易の構造と展開』(2009年、吉川弘文館)
◆小山幸伸*21『幕末維新長崎の市場構造』(2006年、御茶の水書房)
◆櫻井良樹*22編『幕末・明治の茶業と日米交流』(2020年、日本経済評論社)
等が紹介されている。
【4】幕末海防に関する研究として
【刊行年順】
◆原剛*23『幕末海防史の研究』(1988年、名著出版)
◆浅川道夫*24『お台場:品川台場の設計・構造・機能』(2009年、錦正社)、『江戸湾海防史』(2010年、錦正社)
◆上白石実*25『幕末の海防戦略』(2011年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)
◆金澤裕之*26『幕府海軍の興亡:幕末期における日本の海軍建設』(2017年、慶應義塾大学出版会)
◆後藤敦史編『幕末の大阪湾と台場』(2018年、戎光祥出版)
等が紹介されている。
◆志士草莽研究入門(岩立将史*27)
(内容紹介)
「草莽」については以下を紹介しておきます。
草莽 - Wikipedia
黒船来航など西洋からの圧力が大きくなった1850年代に入ると、吉田松陰らによって「草莽崛起論」が唱えられた。吉田らは武士以外の人々、すなわち豪農・豪商・郷士などの階層、そして武士としての社会的身分を捨てた脱藩浪士を「草莽」と称し、彼らが身分を越えて、国家を論じて変革に寄与して行くべきであると主張した。これを受けて、1860年代にはこうした草莽が尊王攘夷運動や討幕運動に参加していくことになる。
【具体例】
◆高杉晋作の奇兵隊
◆天誅組の変 - Wikipediaの天誅組
◆生野の変 - Wikipediaの生野組
岩立論文では以下の研究が紹介されている。
◆志士草莽研究の草分けである高木俊輔(国文学研究資料館名誉教授)の著書『維新史の再発掘:相楽総三*28と埋もれた草莽たち』(1970年、NHKブックス)、『明治維新草莽運動史』(1974年、勁草書房)、『幕末の志士:草莽の明治維新』(1976年、中公新書)、『それからの志士:もう一つの明治維新』(1985年、有斐閣選書)、『『夜明け前』の世界:「大黒屋日記」を読む』(1998年、 平凡社)、『戊辰戦争と草莽の志士:切り捨てられた者たちの軌跡』(2022年、吉川弘文館)
◆奇兵隊を取り上げた田中彰*29『高杉晋作と奇兵隊』(1985年、岩波新書)
◆尾張藩草莽隊を取り上げた秦達之『尾張藩草莽隊:戊辰戦争と尾張藩の明治維新』(2018年、風媒社)
◆新田官軍 - Wikipediaを取り上げた落合延孝*30『猫絵の殿様』(1996年、吉川弘文館)
◆草莽を描いた小説『夜明け前』について論じた宮地正人*31『歴史のなかの『夜明け前』:平田国学の幕末維新』(2015年、吉川弘文館)
◆幕府側の草莽として新選組を論じた宮地正人『歴史のなかの新選組』(2004年、岩波書店→2017年、岩波現代文庫)
◆「赤報隊」偽官軍事件(相楽総三らを偽官軍として処刑)よりも前に起こったが、知名度の低い偽官軍事件を論じた長野浩典『花山院隊「偽官軍」事件』(2021年、弦書房)
【参考:花山院隊「偽官軍」事件】
花山院隊 - Wikipedia
慶応4年/明治元年(1868年)1月、豊前宇佐の尊王派志士で、長府報国隊に所属していた佐田秀(さだ・ひずる)を中心として結成された。
慶応4年/明治元年1月14日(1868年2月7日)、花山院隊を称して挙兵。豊前四日市陣屋を襲撃し、宇佐神宮の奥の院である御許山に錦旗を掲げて立て篭もった(御許山騒動)。
長州藩では、長府報国隊に所属していた佐田らの勝手な行動に激怒し、鎮圧のため豊前に長府報国隊を派遣した。
長州藩側は、隊規に違反して脱走し、正式な勅許を得ずに挙兵し、勝手に長州藩の名を用いた等の罪状を挙げ詰問、報国隊から脱走した隊士の引き渡しを要求するが、佐田ら花山院隊幹部はこれを拒否して交渉は決裂、佐田はその場で斬殺された。その直後に攻撃が開始され、幹部を失った花山院隊は壊滅した。
「御許山騒動」隊士飯田義徳 明治初年 – 宇佐市民図書館
御許山騒動は、佐田秀を中心とする時期を逸した討幕運動であった。大政奉還(1867年)の翌年、明治元年となる1868年に脱藩長州兵らを率い、四日市陣屋、東本願寺別院等を襲い、御許山に立てこもったが、後ろ盾と見込んだ長州から騙し討ち同然に切り捨てられ、偽官軍、逆賊とされた。写真は生き残りの一人、飯田嘉惣治義徳。
佐田 秀 | 佐田の名所 | 佐田地区まちづくり協議会
宇佐地区と佐田地区で正反対の評価をされている、郷土の偉人です。
秀らは四日市陣屋(日田代官所)を襲い、大砲や弾薬などを奪い火を放ちました。続けて、陣屋の役人たちが逃げ込んだ東本願寺別院にも火を放ち、この火によって近隣の民家7軒も類焼しました。
奪った武器を手にした志士たちは、宇佐神宮の奥の院である御許山に錦の御旗を立て、立てこもります。このとき御許山に挙兵した浪士隊は、勤皇派の花山院家理を盟主としたため、花山院隊と呼ばれていました。
諸藩が手を出しかねていたこの事件を鎮圧したのは、秀と同じく討幕を掲げる長州の報国隊でした。秀らの挙兵が勅許を得てないこと、長州藩の名を用いたこと、脱隊違反の罪を犯したことをあげ、長州藩は、大義を説く秀を会議の席上で斬殺。
長州は、「口に正義を唱え盗賊の所業せし者」として、秀らの首を四日市に晒しました。
そのため、現在に至ってもなお、四日市を中心とする宇佐地区では「『御許山騒動』でお東さん(東別院の愛称)を燃やした、とんでもない火付け強盗」と言われ、佐田地区では「『御許山義挙』で勤皇の士ながら同志であったはずの長州に討たれた悲劇の志士」と言われています。
花山院隊「偽官軍」事件 長野浩典著: 日本経済新聞2022年4月28日付日本経済新聞朝刊九州文化面掲載
本書は幕末期、諸勢力の思惑に翻弄された草莽(そうもう)の人々に焦点を当てた。豊前・豊後地域で公家の花山院家理を推戴して錦の御旗を掲げて倒幕へ挙兵しながら、「偽官軍」とされて歴史の表舞台から葬り去られた「花山院隊」の悲劇をひもとく。
幕府領の豊前国宇佐郡(現大分県宇佐市)で挙兵した「御許(おもと)山騒動」を筆頭に、同隊が関わる事件は九州・山口で複数おきた。小規模ながら、政治的影響は無視できなかった。
歴史著述家である著者は挙兵までの過程を丹念に追い、一連の事件が政治的な色彩を帯びる様を丁寧に読み解く。諸藩の領土的野心や新政府の都合に左右された人々の姿からは、勝者が語らぬ「明治維新」の本質も垣間見える。
「花山院隊「偽官軍」事件」 長野浩典著 弦書房 - 史跡訪問の日々
幕末の偽官軍事件としては、赤報隊、高松隊が知られるが、花山院隊による御許山挙兵は、知名度はずっと劣る。個人的にもこれだけまとまった分量で花山院隊のことを読んだのは、高木俊輔の「明治維新草莽運動史」(勁草書房)以来である。
(中略)
慶應四年(1868)一月十三日、花山院隊の総裁格と目された藤林六郎と小川潜蔵が捕縛される。この前後、ほかの花山院隊の面々は一斉に報国隊を脱隊し、船で豊前に向かった。彼らは躊躇なく(花山院家理を迎えることなく)そのまま四日市の陣屋を襲撃し義挙を敢行した。
長州藩が鎮撫に動き出したのは、一月二十日前後である。まず下関において、先に捕縛した藤林と小川を斬首。報国隊の福原和勝、野村右仲(のちの素介)率いる奇兵隊が豊前に向かう。花山院家理やその取り巻きが拘束されたのも一月二十日のことである。御許山の花山院隊は、一月二十四日までに完全に鎮圧された。長州藩の動きは迅速であり、迷いがなかった。
佐々木克*32は、「新政府の草莽に対する態度が大きく転換するのは、一四日から一六日あたりではないか」と推測している。鳥羽伏見の戦いの勝利後、一月十日、新政府は徳川慶喜以下を朝敵として追討する旨の布告を出した。西日本の諸藩が新政府になびきだし、続々と勤王の誓詞を提出した。この動きに伴って急速に草莽隊の利用価値が低下した。相楽総三の赤報隊に対して帰洛命令が下されたのは一月二十五日のことである。
筆者は、藤林や小川が捕縛された一月十三日から、彼らが処刑されるまでの一週間で流れが変わったと推定している。一月十三日の時点では、長州藩内に花山院本人が滞在しており、簡単に手を出せなかった。新政府の草莽弾圧の方針が明確になると、それと連動して花山院党の制圧に動いたという推論は説得力がある。
本書は、筆者の表現を借りれば「戊辰戦争の裏庭」で起きた花山院事件を多面的に解析した価値ある一冊である。ほとんど忘れ去られた一連の事件に光をあてた功績は大きい。残念ながら遠崎の勤王僧・月性を「西郷隆盛と入水し死亡した」月照と混同している(P.189)のは明らかな誤り。版を重ねるのであれば、訂正していただきたい。
◆幕末期の政治変動と思想(天野真志*33)
以下の研究が紹介されている。
◆平田国学について論じた宮地正人『歴史のなかの『夜明け前』:平田国学の幕末維新』(2015年、吉川弘文館)
◆吉田松陰を取り上げた桐原健真*34『吉田松陰の思想と行動』(2009年、東京大学出版会)、『吉田松陰』(2015年、ちくま新書)
◆読書ネットワーク(読書会)について取り上げた前田勉*35『江戸後期の思想空間』(2009年、ぺりかん社)、『江戸の読書会』(2018年、平凡社ライブラリー)、桐原健真『松陰の本棚:幕末志士たちの読書ネットワーク』(2016年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)
◆幕末の朝廷・公家社会研究の現状と課題(佐竹朋子)
近年の研究として
【刊行年順(刊行年が同じ場合は著者名順)】
◆李元雨『幕末の公家社会』(2005年、吉川弘文館)
◆家近良樹『幕末の朝廷:若き孝明帝と鷹司関白』(2007年、中公叢書)
◆高橋秀直*36『幕末維新の政治と天皇』(2007年、吉川弘文館)
◆刑部芳則*37『公家たちの幕末維新』(2018年、中公新書)
等が紹介されている。
参考
『公家たちの幕末維新』/刑部芳則インタビュー|web中公新書
インタビュアー
まず本書ご執筆の経緯を教えてください。
刑部
前編集長と企画について打ち合わせしたとき、実は、私が提案したのは明治時代の公家華族に関するものでした。ところが、私の話を聞いた前編集長からは、明治よりも幕末をテーマにしてはどうですかと口説かれました。
(中略)
(ボーガス注:明治新政府で外務卿や右大臣などの要職を務めた)岩倉具視や(ボーガス注:明治新政府で太政大臣や内大臣などの要職を務めた)三条実美のような有名人だけでなく、できる限り多くの公家たちを取り上げたいと思いました。
最初に悩んだのは、誰を「隠れ主人公」にするかです。主人公を立てた場合、(ボーガス注:1853年の)ペリー来航から(ボーガス注:1868年の)王政復古までの約15年間を通史として描くにあたり、(ボーガス注:評伝を書きたいわけではないのに)下手をするとその人物の評伝になってしまいます。しかし、誰か中心になる人物がいないと、話をまとめるのが難しいと感じました。
「隠れ主人公」にしたのが正親町三条(嵯峨)実愛*38です。正親町三条については約20年研究を続けてきました。朝廷内で薩摩藩や長州藩を相手に上手く立ち回った人物として注目できます。
全体の流れでは関白、議奏、武家伝奏を重要な脇役として置き、正親町三条の盟友中山忠能*39、宗家の三条実美*40、政治的な相手である岩倉具視*41、大原重徳なども脇役とし、それ以外の公家たちは特徴のある事件や出来事で登場させました。
インタビュアー
刊行後にはどのような反響がありましたでしょうか?
刑部
幕末の公家について知ることのできる書籍がまったくない*42状況でした。それだけに関心を持っている人たちにとっては待望の刊行だったようです。
インタビュアー
本書を読むと、幕末期の公家たちのイメージが一変しますが、今後どういう描かれ方がされることを期待していますか?
刑部
従来の公家イメージは、「無責任」「優柔不断」「無能力」といった悪い評価がほとんどです。時代劇ドラマでも人気がなく、無名の俳優が演じる端役の扱いでした。その原因は江戸時代以降の公家に関する研究が遅れており、公家たちの本当の姿が見えなかったからです。
明治政府で右大臣となる岩倉具視だけが「策士」のように取り上げられますが、太政大臣三条実美も決して気弱ではありません。大原重徳は頑固で強直な性格ですし、正親町三条実愛は政治的なバランス感覚に長けています。
今後は、それぞれの個性を理解した上で、公家たちの言動を描いてもらいたいです。
インタビュアー
刑部さんの今後のご研究について教えてください。
刑部
大学生の頃から抱えている研究課題は沢山ありますが、とりわけ「制服」と「華族」は研究の二大看板として掲げてきました。
制服については、近現代の学校制服について調べています。太平洋戦争よりも前の高等女学校ではセーラー服、中学校では詰襟の学ランが主流でした。戦後に新制の高等学校になると、ブレザーが多くなります。学校制服の変化や生徒たちの意識について研究していきます*43。
華族については、明治から昭和まで公家出身者たちがどのような生き方をしたのかを描きたいです。貴族院議員に限らず、外交官、陸海軍の軍人、宮内省の官員、文化人*44など、それぞれの分野で活躍した公家華族たちの足跡をたどってみたいと思います。
『公家たちの幕末維新-ペリー来航から華族誕生へ』(中央公論新社) - 著者:刑部 芳則 - 磯田 道史による書評 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS
時代劇でも、公家の描かれ方は「公家は添え物」「優柔不断で頼りなく弱々しい印象」のステレオタイプの演技がなされていると著者はいう。
本書を読めばわかるが、公家の世界で政治にかかわれるのは一握りであった。摂政関白になれる摂家*45(5家)、それに次ぐ清華家*46(9家)、大臣家*47(3家)までの計17家が、特権的な公家で、あとの120家は「平公家」といわれ御所に上がると、摂家の給仕までさせられていた。朝廷の意思決定は「朝議」であり、関白が決めて、天皇に上奏し、裁可される。平公家が政治に関与する、つまり幹部会議である「朝議」に参加するには「両役」とよばれる議奏(5人)か武家伝奏(2人)にならねば、ならない。120人中、7人という狭き門である。私に言わせれば、ここに公家たちの不満があった。異国を追い払いたい「攘夷(じょうい)」を主張しようにも、政治に関与できない。
そこで、岩倉具視などが旗を振って、公家たちが行ったのが「列参」という政治行動である。関白や天皇に、公家たちが集団で参上して意見を言上(ごんじょう)する。私が目にした史料では、鎖帷子(くさりかたびら)を下に着込んで脅した公家もいる。多数の力で政治意見を通すものであり、公家がこの列参をくりかえし、孝明天皇さえも、つるし上げをうけた。公家は日常、天皇に接している。将軍や大名ほど畏(おそ)れない。一次史料で見る公家は、弱々しいものとはほど遠い。院生時代の私は、その誤解を解くような専門書を書く必要を感じていたが、高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』という好著が出て、安心して、忍者研究をはじめた。しかし、一般書で、こうした幕末公家政治の実態が紹介されることは少なく、本書の出版は、よろこばしい。
この本には書かれていないが、そもそも公家はなぜ弱々しくないのか。本書に掲げられた公家の肖像写真をみてもらいたい。岩倉具視を山賊のような豪傑顔とみる方は多い。一度、幕末の大名の顔写真と、公家の顔写真を何枚も並べて比較していただきたい。明らかに、大名のほうが面長で貴族的である。公家はむしろ庶民的。禄高(ろくだか)一万石以上の貴族である大名に対し、公家の多くは禄高が百石前後。一般の藩士と変わらない。そのうえ、公家の母親は、かなりの確率で、庶民とのつながりがあった。公家の母親が正室である場合は、公家の娘であるが、公家の系図をみると、しばしば側室が母親となっている。公家の側室は、京都近郊の社家や上層農民の女子が多い。しかも幼時は農村で養育される。
公家は、我々が想像する以上に、母系から庶民の血が流れ込んでいた人々である。大河ドラマ「西郷どん」では、岩倉具視に、笑福亭鶴瓶を配役している。意外という方もいたが、時代考証を担当する私からすれば、当然である。岩倉は、失脚隠棲(いんせい)中、毒殺を避けるため自身で調理もした。七輪で喰い物を焼くあの鶴瓶の生活感こそ現実に近い公家の顔である。
*2:著書『幕末政治と倒幕運動』(1995年、吉川弘文館)、『浦上キリシタン流配事件:キリスト教解禁への道』(1998年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『幕末の朝廷:若き孝明帝と鷹司関白』(2007年、中公叢書)、『西郷隆盛と幕末維新の政局』(2011年、ミネルヴァ書房)、『徳川慶喜』(2014年、吉川弘文館人物叢書)、『西郷隆盛』(2017年、NHK出版新書)、『西郷隆盛』(2017年、ミネルヴァ書房日本評伝選)、『酔鯨・山内容堂の軌跡:土佐から見た幕末史』(2021年、講談社現代新書)など
*3:参議、大蔵卿、内務卿など歴任。紀尾井坂の変で暗殺
*5:参議、内務卿、文部卿など歴任
*6:工部卿、宮内卿、宮内大臣、首相、枢密院議長、貴族院議長、韓国統監など歴任。安重根によって暗殺
*7:工部卿、外務卿、第一次伊藤内閣外相、黒田内閣農商務相、第二次伊藤内閣内務相、第三次伊藤内閣蔵相など歴任
*8:陸軍卿、内務卿、第一次伊藤内閣内務相、首相、第二次伊藤内閣司法相、枢密院議長など歴任
*9:第一次伊藤内閣農商務相、首相、第二次伊藤内閣逓信相、枢密院議長など歴任
*10:大蔵卿、第一次伊藤、黒田、第一次山県、第二次伊藤内閣蔵相、首相を歴任
*11:著書『戊辰雪冤:米沢藩士・宮島誠一郎の「明治」』(2009年、講談社現代新書)、『東北の幕末維新:米沢藩士の情報・交流・思想』(2018年、吉川弘文館)
*12:金沢大学非常勤講師。著書『加賀藩の明治維新』(2019年、有志舎)
*13:文化庁文化財第一課文化財調査官。著書『幕末対外関係と長崎』(2018年、吉川弘文館)
*16:中武香奈美『幕末維新期のフランス外交:レオン・ロッシュ再考』の刊行に寄せて』(PR誌『評論』223号収録)によれば、中山氏の死後、未刊行の遺稿を元に、中武氏が編集し刊行したとのこと
*17:京都橘大学准教授。著書『忘れられた黒船:アメリカ北太平洋戦略と日本開国』(2017年、講談社選書メチエ)、『阿部正弘』(2022年、戎光祥選書ソレイユ)など
*18:仏教大学教授。著書『近代日本とアイヌ社会』(2002年、山川出版社日本史リブレット)
*19:京都大学教授。著書『オールコックの江戸:初代英国公使が見た幕末日本』(2003年、中公新書)など
*22:麗澤大学教授。著書『大正政治史の出発:立憲同志会の成立とその周辺』(1997年、山川出版社)、『帝都東京の近代政治史』(2003年、日本経済評論社)、『辛亥革命と日本政治の変動』(2009年、岩波書店)、『加藤高明』(2013年、ミネルヴァ書房・日本評伝選)、『華北駐屯日本軍:義和団から盧溝橋への道』(2015年、岩波現代全書)など
*23:防衛庁防衛研究所所員(最終階級は一等陸佐)。原剛 (軍事史家) - Wikipediaによれば原「いわゆる「南京大虐殺事件」の埋葬記録の再検討」東中野修道編『南京「虐殺」研究の最前線:平成14年版日本「南京」学会年報』(2002年、展転社)で『国家基本問題研究所で客員研究員』というデマ右翼なので手放しで評価できる人間ではないですが。
*24:日本大学教授。著書『明治維新と陸軍創設』(2013年、錦正社)
*25:盛岡大学教授。著書『幕末期対外関係の研究』(2011年、吉川弘文館)
*29:1928~2011年。北海道大学名誉教授。著書『明治維新』(2000年、岩波ジュニア新書)、『吉田松陰』(2001年、中公新書)、『岩倉使節団「米欧回覧実記」』(2002年、岩波現代文庫)、『明治維新と西洋文明:岩倉使節団は何を見たか』(2003年、岩波新書)、『明治維新』(2003年、講談社学術文庫)など
*30:群馬大学名誉教授。著書『幕末民衆の情報世界:風説留が語るもの』(2007年、有志舎)
*31:東京大学名誉教授。著書『幕末維新期の文化と情報』(1994年、名著刊行会)、『幕末維新期の社会的政治史研究』(1999年、岩波書店)、『幕末維新変革史』(2018年、岩波現代文庫)、『幕末維新像の新展開:明治維新とは何であったか』(2018年、花伝社)、『土方歳三と榎本武揚:幕臣たちの戊辰・箱館戦争』(2018年、山川出版社日本史リブレット人)など
*32:1940~2016年。京都大学名誉教授。著書『戊辰戦争』(1979年、中公新書)、『大久保利通と明治維新』(1998年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『江戸が東京になった日:明治二年の東京遷都』(2001年、講談社選書メチエ)、『幕末政治と薩摩藩』(2004年、吉川弘文館)、『幕末の天皇・明治の天皇』(2005年、講談社学術文庫)、『岩倉具視』(2006年、吉川弘文館)、『大久保利通』(2009年、山川出版社日本史リブレット)、『幕末史』(2014年、ちくま新書)など
*33:国立歴史民俗博物館准教授。著書『幕末の学問・思想と政治運動:気吹舎の学事と周旋』(2021年、吉川弘文館)
*35:愛知教育大学教授。著書『近世日本の儒学と兵学』(1996年、ぺりかん社)、『近世神道と国学』(2002年、ぺりかん社)、『兵学と朱子学・蘭学・国学』(2006年、平凡社選書)、『江戸教育思想史研究』(2016年、思文閣出版)
*36:1954~2006年。京都大学助教授。著書『日清戦争への道』(1995年、東京創元社)
*37:日本大学教授。著書『洋服・散髪・脱刀:服制の明治維新』(2010年、講談社選書メチエ)、『明治国家の服制と華族』(2012年、吉川弘文館)、『京都に残った公家たち:華族の近代』(2014年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『帝国日本の大礼服』(2016年、法政大学出版局)、『三条実美』(2016年、吉川弘文館)など
*38:安政5年(1858年)、江戸幕府が朝廷に対して通商条約締結の勅許を求めた際、廷臣八十八卿の一人として反対論を展開。これによって井伊直弼による安政の大獄に連座する。安政6年(1859年)、権大納言、万延元年(1860年)に議奏、文久2年(1862年)に国事御用掛に就任。しかし、薩摩藩の主導する公武合体運動を支持して「航海遠略策」に賛同したため、尊皇攘夷派の志士から敵視された結果、翌文久3年(1863年)に失脚する。長州藩や尊攘派公家(三条実美など)が、「八月十八日の政変」で京都から追放されたことを契機に朝廷に復帰した後は、薩摩藩に接触して討幕派公卿の一人として朝廷を主動した。明治元年(1868年)に新政府の議定、同2年(1869年)には刑部卿に就任。その後も内国事務総督、教部卿などを歴任(正親町三条実愛 - Wikipedia参照)
*39:安政5年(1858年)、江戸幕府老中の堀田正睦が上洛して条約の勅許による許可を求めた際には、廷臣八十八卿の一人として反対した。その後、公武合体派の公家として万延元年(1860年)、孝明天皇から和宮(孝明天皇の異母妹)と14代将軍・徳川家茂の縁組の御用掛に任じられた。その経緯から翌文久元年(1861年)、和宮の江戸下向に随行するが、これが尊皇攘夷派からの憤激を生み、文久3年(1863年)に議奏を辞職して失脚。元治元年(1864年)、長州藩が京都奪還のため挙兵した禁門の変(蛤御門の変)では長州藩の動きを支持した。忠能は長州藩を支持して変事を成功させることで、復帰を考えていたらしいが、禁門の変は結果的に失敗し、忠能は孝明天皇の怒りを買って処罰された。慶応2年(1866年)、孝明天皇が崩御すると復帰を許される。慶応3年(1867年)、中御門経之、正親町三条実愛らと組み、将軍・徳川慶喜追討の勅書である討幕の密勅を明治天皇から出させることに尽力。その後も岩倉具視らと協力して王政復古の大号令を実現させ、小御所会議では司会を務めた(中山忠能 - Wikipedia参照)。
*41:明治新政府で会計事務総督兼陸海軍事務総督、大納言、外務卿、右大臣など歴任
*42:勿論、刑部『公家たちの幕末維新』(2018年、中公新書)のような入手容易で一般向けに平易に書かれたもの(新書など)がほとんどないという話でしょう。さすがに「幕末公家研究がない」と言う話ではない。
*43:この分野での業績として刑部『セーラー服の誕生:女子校制服の近代史』(2021年、法政大学出版局)
*45:近衛、一条、九条、鷹司、二条家のこと(摂家 - Wikipedia参照)
*46:三条、西園寺、徳大寺、久我、花山院、大炊御門、菊亭、広幡、醍醐家のこと(清華家 - Wikipedia参照)
*47:正親町三条家、三条西家、中院家のこと(大臣家 - Wikipedia参照)