新刊紹介:「歴史評論」12月号

・詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集『中世天皇制研究の成果と論点』
 11月号は特集『天皇代替わりの歴史学』ということで「10月に即位式があること」から前天皇(現上皇)や新天皇について論じられていましたが、今回も「時期が違う」とはいえ天皇制について論じています。
■戦後中世史研究と天皇制(近藤成一*1
(内容紹介)
 近藤氏の所論は多岐に亘っていてまとめにくいのですが、一つ、氏の主張を挙げておくと「戦後と戦前では中世天皇史研究は大きく変わった」と言う話です。
 戦前において「南北朝時代における足利氏は逆賊、南朝こそ正義」は「議論の余地なく正しかった」わけです。天皇制について学術的に論じることなど到底無理だったわけです。ましてや「天皇制廃止論を主張(日本共産党)」なんてもっと無理です。
 戦前ですら「完全な言いがかり」と良識派には眉をひそめられた事件ですが「中島久万吉商工大臣辞任事件」というのが起きていますし。

参考

■中島久万吉(ウィキペディア参照)
古河電気工業社長、斎藤内閣商工大臣、東京地下鉄道社長、国際電信電話会長、文化放送会長等を歴任した。
足利尊氏問題
1921年(大正10年)、中島は、清見寺(静岡県静岡市清水区)にある足利尊氏自作の尊氏木造を拝観し、その感想文を俳句同人雑誌『倦鳥』に投稿した。当時、皇国史観に基づき、後醍醐天皇に背いた足利尊氏は謀反人と断定されていたが、中島は尊氏と足利時代室町時代)を再評価すべき旨、その感想文に記していた。
 その記事が掲載されてから13年後の1934年(昭和9年)、中島の感想文が雑誌『現代』2月号に転載される。同年2月3日の衆議院予算総会において、栗原彦三郎議員(野党・国民同盟所属)が、この転載記事を利用して、逆賊・尊氏を評価するような者が商工大臣の職にあることは「日本の教育行政にとって望ましくない」と政府の教育行政を批判した。この場は、中島が(ボーガス注:秘書に転載論文の選択を任せていたので尊氏論文の)転載を知らなかった*2と釈明し、陳謝して収まった。
 しかし、軍部出身議員や右派議員を多く擁していた貴族院において、尊氏論は再燃する。これら、軍部出身議員や右派議員は、斎藤内閣の軍縮姿勢と中島が主導した政友会・民政党の連携による軍部抑制策に不満を持っており、政府攻撃の機会を窺っていたからである。尊氏論は、その格好の攻撃材料となった。
 中島攻撃を主導したのは、菊池武夫貴族院議員(予備役陸軍中将、男爵、南朝の功臣菊池氏の子孫)である。菊池は、逆賊尊氏を礼賛することは輔弼にあたる大臣の任に堪えないとして、斎藤*3首相に「しかるべき措置」を取るべきだと、中島の商工大臣罷免を迫った。斎藤首相は、すでに中島の陳謝により決着済みであり、議論は場違いであることを指摘した。この答弁に不満を述べた三室戸敬光・貴族院議員(子爵)は、さらに中島の爵位辞退をも要求し、斎藤の政治責任を追及した。
 議会の内外でも右翼の執拗な攻撃が続き、宮内省にも批判の投書が殺到したため、中島は商工大臣を辞任せざるを得なくなった(爵位は辞退せず)。この足利尊氏論に関わる一連の顛末は、政治に対する軍部の介入と右翼の台頭に勢いを与え、翌年の天皇機関説事件の要因ともなった。

 で、氏が戦後の変化の代表例としてあげているのが「黒田俊雄の権門体制論」「今谷明*4足利義満・王権簒奪論(今谷『室町の王権:足利義満の王権簒奪計画』(1990年、中公新書))」です。確かに黒田説、今谷説を支持するかどうか*5はともかく、彼らのような問題意識、研究成果は戦前では無理でしょう。

【参考:黒田の権門体制論】

■黒田俊雄(ウィキペディア参照)
■権門体制論
 権門体制論は、黒田が提唱した中世国家論であり、中世の社会史・政治史・制度史研究の上で最も重要な議論の一つである。権門体制論は、1963年発行の岩波講座『日本歴史 中世2』所収の論文「中世の国家と天皇」で黒田が初めて提唱した。古代から中世への日本社会の展開について、旧体制である天皇を代表とする公家権力と宗教権力、新興の武家権力が三つ巴の対立抗争を行っている社会であるとの従来の見解に対し、公家権門・宗教権門・武家権門の三者がそれぞれ相互補完的関係を持ち、一種の分業に近い形で権力を行使したのが日本の中世であると主張。学界に大きな影響を与えた。
天皇
・戦後の良心的歴史学者天皇制解明の重点は、天皇の神性の否定や、社会構成史の観点からの天皇権力の断絶(万世一系の虚構性)の説明であったとし、しかしそれだけでは彼等(天皇)の詐術を断ち切ることはできないと主張。そして『歴史上の天皇は、ときに生身の実権者であり、ときに権力編成の頂点であり、ときに精神的呪縛の装置であった。』とし、『この三つの諸側面を適宜入れ替え組み合わせてきたことが、天皇制を操作してきた権力の真実であり、現代でも詐術師たちは、自分ではこれを使い分けながら、あえて混同させて人々を欺いている』と主張した。
昭和天皇について、死去時に『戦争の責任者であるし、世界の諸国民を含めて人民を苦しめた張本人だということをハッキリさせることが大事なんです。』と昭和天皇の戦争責任論を主張した。また、『戦後の新しい憲法になってからは国王でも国家権力の当事者でもなくなったけれども、それまではずっと国王だったし、明治以降も絶対君主だったことを見ておかないと。一九四五年でずいぶん変わって、いまは憲法のおかげと民主勢力の力で一応押さえこんであるわけですが、力をゆるめると頭をもたげてくるわけですから、そういうことを注意しないといけないんです』『マスコミなんかも、言葉づかいからして「崩御」などと旧憲法時代と同じ言葉を使うわけで、こういうことを打ち破っていかないといけないんですね。』と天皇批判を唱えた。

基本の30冊、日本史、黒田俊雄『権門体制論』: 保立道久の研究雑記
 黒田は「権門」という言葉を、「中世」における貴族を指し示す概念として利用している。それは、普通、「公家・武家・寺社(寺家・社家)」などの史料用語で表現されるが、それらは貴族の門閥としては同じものであって、職能は違っても、同じように「権門」と表現することができるというのである。後に述べるように「権門」という言葉の理解には微妙な問題があるが、この貴族論的視角はきわめて重要なものである。
 これは普通の常識とは異なっている。つまり、日本では、貴族とは「お公家さん」のことで、武家のことを貴族とは言わない。新井白石の『読史余論』は、律令時代には天皇が国家を支配したが、柔弱な「公家」が都との実権を握るなかで、世の中が乱れ、それを立て直した質実剛健な「武家」が国家を握ったという。明治政権の自己意識も、この枠組を前提としたもので、果断な草莽の武士が英明な天皇を担いだというものである。そこでは徳川将軍家も本来の武士の質実剛健さを失った存在であるとされたが、公家を軽愚する感じ方もさらに強められたのである。この国は、尊貴な血統や生得の特権をもつ存在に対する、フランス革命のような徹底的な闘争を経験していないから、それを表現する「貴族」という用語の理解が鍛えられることがなかったともいえよう。これが現代の「一億総中流意識」といわれる風潮にも適合したのである。
 黒田の「権門体制論」は、このような歴史常識に対する挑戦であった。これが歴史学にとって決定的であったのは、白石のような見方が、「公家=古代的支配階級」、「武家=中世的(封建的)支配階級」などという図式の形で石母田正*6・松本新八郎などの「戦後派歴史学」の初期代表者に影響していたためである。こういう考え方は、安易な「武士発達中心史観」に帰結してしまう。こうして平安時代は「古代」であるといい、鎌倉幕府の創建から徳川幕府までの歴史は、そのまま歴史の進歩であるということになる。
 これが黒田の石母田・松本批判なのであるのであるが、「権門体制論」が本当に目指したのは、実は、国家論・王権論における戦後派歴史学批判であった。つまり、歴史学は戦後、まずは戦前の「皇国史観」に対する学術的批判を重視した。しかし、黒田は、現憲法において天皇儀礼的象徴に局限されたことに対応して歴史学の課題は異なってきたという。つまり、そのなかで象徴天皇制イメージが過去の天皇制のすべてに延長してしまう非歴史的な見方が、国民の歴史意識のなかにもちこまれた。そこでは天皇は(1)政治的責任から外れた地位にあり(不執政論)、(2)天皇は文化支配を行う存在であり(徳治主義論)、(3)万世一系の神秘存在である(神話的血統論)などの側面が超歴史的な特徴として強調されることになる。黒田は、こういうのっぺりとした理解ではなく、天皇制王権の歴史的な波動と変遷を具体的に明らかにし、王権として最小化した場合でも政治的な権威を失うことなく持続してきたことを正確に説明しなければならないとしたのである。
 私は、ここまでは黒田の意見に全面的に賛成である。ともかく権門体制論は、これを説明するための構想だったのである。その出発点は「権門」による国家職能の分掌という捉え方にあった。つまり公家は「公事」を司どる文官的な門閥武家は武士集団を組織する源平両氏の棟梁、寺家は「王法」に対置される「仏法」によって「鎮護国家」に勤める勢力(社家もこれに準ずる)であるという。これらの「家」は家産制権力として、どれも荘園の知行体系を有して国土を分割していた。こうして「権門体制においては、国家権力機構の主要な部分は諸々の権門に分掌されていた」のであるが、「しかしそのほかにどの権門にも従属しきらない国家独自の部面」があり、このいわば「超権門」的な虚空間というべき場に王権が巣くうというのが黒田の図式である。「権門体制論」は貴族論的な視角であるよりも、実は、国家を職能論的に分割して、王権の基礎としての超権門領域を析出することこそが最初からの目的であったのである。こうして、天皇制の「不執政」「徳治主義」「神話血統」などは、この虚空間から生み出される様々な意匠として説明されることになった。
 これは巧妙な説明であるが、黒田説の真価は、むしろこの先にあった。つまり、黒田は、これにもとづいて顕密体制論といわれる中世仏教論を体系化した。それは最澄の教学に由来する顕教比叡山)と空海の事行を中心とする密教高野山)を両翼にもつ「顕密」の体制という議論であるが、黒田はその職能的な役割が「鎮護国家」であることを確認しつつ、その中で神道が実際上は教義的にも経済社会的にも顕密の仏教によって支えられている様相を明らかにした。顕密の寺家の職掌は虚空間の神秘の周囲に存在する神道を荘厳することにあったというのである。
 そして、黒田は、さらに権門の諸職能はそれに照応する職業の人びとを民間世間に組織していったという身分論を展開した。主論文の「中世の身分制と卑賎観念」は著作集の第六巻におさめられているが、黒田が強調するのは、それらの身分制には深く世襲と浄穢の観念が浸透しているという事実である。ようするに、黒田は、ここにあるのはインドのカーストに似た関係であり、仏教用語でいえば「種姓」にあたるという。社会の職業身分全般を浄穢観念にそって組織することに成功した権門体制は、この「種姓身分」制によって、その中心に存在する超空間の清浄を確保したということになる。
 こうして権門体制と顕密体制は神道と清浄のシステムを作り出すことによって完成した。権門体制に結集した国家中枢と卑賎観念にまといつかれた民衆身分との間に対抗的な関係が成立し、中世における「日本国全体をまとめた一個の国家」「幕府をこえた(朝廷と公家をふくむー筆者注)大きな国家秩序」が組織され、その下に、カースト制的な特徴をもったきわめて公的階層的な特徴をもった社会が組織されているというのである。
 私は、以上のような黒田の課題意識と体系的な説明への意思の鋭さには感嘆するが、しかし、そこには大きな疑問が残る。その最大のものは、権力の地域的な基盤は国家に何の影響もあたえないのかということである。つまり鎌倉時代をとれば武家は鎌倉を根拠とし、公家の中枢が京都に位置する。そもそも鎌倉権力は1180年代内乱(源平合戦)から後鳥羽クーデターへの反撃(「承久の乱」)にかけて西国国家に侵入し、それを支配した。東国の御家人たちが大規模に西国に移住・侵入していったこをもよく知られている。鎌倉時代の東国には公権力が存在し、小国家・半国家としてむしろ西国国家を支配したのである。室町時代には、足利尊氏の子供、義詮と基氏が兄弟で京都と鎌倉をおさえ、基氏の系列は関東公方としてなかば独立な権力を維持した。細川氏が四国・中国東部、山名氏が山陰をおさえたなどの広域権力の例も多い。鎌倉室町時代に朝・幕の両方をふくむ「日本国」が存在したことは事実であろう。しかし、このような広域権力が複合する構造を無視しては事実にそくした議論にはならないだろう。
 これは、黒田の貴族範疇(=権門)が荘園を支配するというだけで、その居住と領主制のあり方が顧慮されないことに関わってくる。マルク・ブロック『封建社会』の言い方をかりれば、貴族とは血統・生活様式・法などによって柔軟に設定されるべき範疇である。黒田の貴族論は、複雑な階級的な結集や従属関係の中にいる貴族を、職能という側面からのみ裁断しすぎる。現実の国家権力と貴族階級を権門に職能論的に分解することを先行させるという出版点が間違いなのである。そもそも、黒田は、「権門勢家」という用語を「権勢ある貴族が政治的・社会的に特権を誇示している状態を指す語」とまとめて理解する。しかし「権門」と「勢家」には重要な区別がある。つまり、「権」には「斤」「ハカリゴト」という意味があり、権門は、本来、国家の枢密の計に参加する支配的な王族・貴族をいうのである。権門は、国家意思の具体的な形成プロセスに関わる用語なのであって、その意味では黒田のいう「国家独自の局面」に関わる用語であって、この局面を黒田のように「超権門」領域と理解することがボタンの懸け違いなのである。
 さて、黒田説には、細かく論じれば、さらに多くの論理的な問題があるが、しかし、歴史学は論理ではない。黒田の歴史史料、とくに宗教史料の解析能力と直覚力は第一級のもので、先述の顕密体制論、種姓身分論の達成が示すように、史料の重層を断ち割って深部の実態を明らかにする黒田の振る舞いには独壇場というべきものがある。とくに、この国の歴史にカーストの範疇を持ち込んだことは、石母田正網野善彦*7・大山喬平*8が挑み続けた問題であって、そこで黒田がもっとも深いところにまで立ち入ったことは歴史学者はみな認めるところである。
 なお、黒田説の歴史学にとっての重大性は、徳川時代の「朝幕関係」を論じた宮地正人*9の『天皇制の政治史的研究*10』にも明らかである。宮地は黒田とほとんど同じ現代天皇制についての課題意識から出発し、次のようにのべる。「徳川時代の公儀権力は、朝幕が一体となった構造をもつ。その一体性は、天皇による将軍職補任という形式をとるが、その前提には武士集団の中心となる棟梁的な門閥組織、黒田的にいえば「権門」が存在する。そして朝幕関係の周囲には国制的な儀礼と法意識が組織されるが、’日本というまとまりの意識が朝廷の存在を不可欠のものとして現れる’なかで、学芸や諸職の組織を公的に統属させるシステムが広がっていく」(趣意要約)。
 宮地のみでなく、徳川時代の論者で、「中世」を黒田説にそって理解する研究者は多いが、ともかく宮地説は黒田説に酷似しており、宮地説が徳川国家論において通説の位置をしめる以上、このことは、黒田説の道具立てが前近代国家史の全体の脈絡のなかで有効に働くことをよく示しているのである。
 これは奇妙なことのようにみえるのであるが、おそらくこれは黒田権門体制論の「中世国家論」としての無謬性を示すものではなく、ぎゃくに黒田の描き出した公的階層的で稠密な社会組織のあり方は、むしろ徳川幕藩体制にこそ適合するということを示しているように思う。幕藩体制においては兵農分離という条件の下で支配層は巨大都市(都城)に集住し、列島社会は職能を中心に階層的に組織されていくる。カーストというものをどう理解するかは別の重大な問題であるが、ここに列島社会の東アジア文明への一体化、いわばその中国化が考えられることは明らかなのである。


【参考:今谷説】

足利義満ウィキペディア参照)
 今谷明は義満が皇位簒奪する意図を持っていたのではないかとする説を唱えている。
 義満は妻である康子を後小松天皇の准母とし、女院号の宣下を受けさせたほか、祭祀権・叙任権(人事権)などの諸権力を天皇家から接収し、義満の参内や寺社への参詣にあたっては、上皇と同様の礼遇が取られた。1408年(応永15年)3月に北山第へ後小松天皇行幸したが、義満の座る畳には天皇や院の座る畳にしか用いられない繧繝縁が用いられた。4月には宮中において次男・義嗣の元服親王に准じた形式で行った。これらは義満が皇位の簒奪を企てていたためであり、明による日本国王冊封も当時の明の外圧を利用しての簒奪計画の一環であると今谷は推測している。
 なお、今谷の言う皇位簒奪とは義満みずからが天皇に即位するわけではなく治天の君(実権を持つ天皇家の家長。上皇のこと)となって王権(天皇の権力)を簒奪することを意味している。寵愛していた次男、義嗣を天皇にして自らは天皇の父親として天皇家を吸収するというものである。
■今谷説への批判
 しかし、当時の公家の日記などには義満の行為が皇位簒奪計画の一環であるとした記録はなく、直接の証拠はない。また、皇位簒奪計画の最大の障害になる筈である躬仁親王(のちの称光天皇)が何らかの圧迫を受けていたとする記録も無い。田中建夫*11『前近代の国際交流と外交文書』(1996年、吉川弘文館)、村井章介*12『中世の国家と在地社会』(2005年、校倉書房)は義満以降の日本国王号が日本国内向けに使用された形跡がないことから、国王号が朝廷に代わる権威としてではなく朝貢貿易上の肩書きに過ぎなかったと評価している。
 石原比位呂「足利義満の対朝廷政策」(石原『室町時代の将軍家と天皇家』(勉誠出版、2015年)所収) は、義満は将軍の任命権者である(北朝天皇の権威の回復のために朝儀の復興を原理原則に忠実かつ威儀厳重に催行されるべきという考えであったと指摘した上で、義満によって処罰された公家の多くはこの方針に反した者たちであったが義満の方針にもっとも反発したのは治天の君である後円融天皇(後に上皇)であったとする。このため、義満は自らの朝廷政策の実現のために後円融天皇を退位させてその権限を剥奪して新帝・後小松天皇の父代わりを演じる必要があったと推測し、今谷説は足利義満後円融天皇の個人的対立を公武関係全体にまで広げた過大な解釈であると批判し、義満の「上皇化」も自己の朝廷政策を実現させるために対立した後円融天皇を排除して義満自身が後小松天皇の後見を行う必要性があったからだとしている。
 義満のとった措置は子の義持によって改められた。義満への太上天皇贈位は辞退され、義持に対し、公家達が義満と同様の礼を取ろうとした際も、義持は辞退している。ただし、その義持も義満の朝廷政策の全てを否定していた訳ではなく、義持の花押は公家様の花押しか伝えられておらず、公家の家門安堵に関与して後継者に偏諱を授与したり、称光天皇(躬仁親王)の御名を改めさせる(天皇の御名変更は義満ですらなし得なかった)など朝廷への影響力行使を続けており、天皇との直接的な距離は置きつつも朝廷に対する関与路線は継続されている。
 仮に簒奪計画があったとしても、それは義満一人の計画であり、義持や管領斯波義将を始めとする守護大名達は参画していなかった。早島大祐*13室町幕府論』(2010年、講談社選書メチエ)は、王権簒奪説に対する批判が相次ぎ、もはやそのままでは成立しない学説となっていると評価している。

「日本国王」足利義満の危険思想はこのとき生まれた
 天皇にならんとした人物に、奈良時代称徳朝に弓削道鏡がいる。これに対し、義満は厳密には自ら天皇たらんとしたのではなく、次男義嗣を天皇に、自らは太上天皇として朝廷に臨もうとしたわけである。
 このような義満の意図は、当時天皇家において「院政」というスタイルが常態であって、直接天皇の地位を目指すよりも、上皇に収まる方が、ある意味自然な手法であるという事情があった。以下、義満の狙いと意図、その背景について概観する。
(以下略)

1088夜『室町の王権』今谷明|松岡正剛の千夜千冊
・読み進んでいたときの緊張と興奮をいまでも思い出す。足利義満が王権を簒奪する直前までの経緯と推理を展開したものだ。著者は、この問題を考えることが「天皇家はなぜ続いてきたか」という難問に応えるためのひとつの有効なアプローチだと思って、長きにわたった執筆に向かっていたのだという。
・足利幕府の政治システムは、黒田俊雄が名付けた「権門体制」による。公家と寺社と武家が協調しあって全国支配を完遂するというシステムだ。そのトップに治天の君*14をおき、そこから「院宣」を出す。それ以外の権力は治天にはわたさない。幕府が握る。
 では、改元皇位継承と祭祀はどうするか。これこそは今日なお天皇制度として残っている天皇家固有の"権限"である。あとでものべるが、ここがはっきりしないと天皇制度はないも同然になる。しかし、これが意外にもジグザグなものだった。
 南北朝の二皇統迭立(てつりつ)の南北朝期を除いた時代はどうだったかというと、改元の権限は形式的には天皇家の権限となっていたものの、実質上は武家が仕切っていた。たとえば1308年の延慶の改元は「関東申し行うに就て、その沙汰あり」と言われたように鎌倉幕府の要請によっていたのだし、1368年の応安の改元は名目上(改元申詞)は天変地妖ということになっているが、実際には将軍義詮の死による“武家代始”だった。
 皇位継承承久の乱後の三上皇配流が象徴しているように、皇位の決定権はすでに武家に移っていた。1242年に四条天皇の急死で治天の高倉院の系統が途切れたときも、摂政近衛兼経以下の廷臣は関東にお伺いをたてて、数十日の空位を呑んだものだ。このとき廷臣たちは佐渡院宮を推したのだが、泰時は断固として阿波院宮を立てて、それが後嵯峨天皇になった。
・さて、以上のような天皇と治天と幕府の事情が進行するなか、足利義満が登場してくるのである。
・ここから皇統を必死に守ろうとする後円融と、王権を武家の手に奪取しようとする義満のあいだに、きわめて激しい権力闘争が約10年間にわたってくりひろげられる。
・義満の王権簒奪計画はかなり手順を尽くしている。たとえば三位以上の公卿が発給できる御教書(みきょうじょ)を巧みに変更して、のちに「義満の院宣」ともいうべきものに仕立てた。院宣を治天以外の者が出せるわけはないのだが、義満はそれを企んだ。
 著者はこれをあえて「国王御教書」とよぶしかないものだと言う。このばあいの「国王」とは「天皇の上にくる令外の官」という意味になる。
 こうした手を国内で次々に打っておいて、義満は明に入貢して国際的に国王と認知される手続きを獲得しようと考えた。
・応永8年、義満は表文に「日本准三后道義、書を大明皇帝陛下に上(たてまつ)る」と認め、日本の国内が統一したので通交や通商を求めたいと書いた文書を使者に持たせて、中国に渡らせた。翌年、明から返詔が来た。その文中に「茲に爾(なんじ)日本国王源道義、心を王室に存し愛君の誠を懐(いだ)き、波濤を踰越して遣使来朝す」とあって、義満を狂喜させた。
 義満が明の皇帝から「日本国王」と名指されたのである。義満は大満足だが、その写しを見た大納言二条満基は「書き様、以ての外なり。これ天下の重事なり」と日記に書いた。
・(ボーガス注:今谷説に寄れば義満は単に中国と貿易がしたかったわけではなく)義満は中国の冊封体制のなかに入ることによって、日本国内で天皇の上に出ることを成就したかったのだ。計画は着々と進んだ。応永11年には朝鮮も義満を「日本国王」と認め、回礼使・通信使による日朝外交ルートが成立した。義満はこれらすべてを国内宣伝に利用したかった。
・義満は自身で将軍職を降り、みずら太政大臣になると、官位の叙任権に手をつける。官位の授与は祭祀権と並んで朝廷最大の権威の行使であり、天皇や治天の権威が社会に流れ出る最大の効果を発揮するときである。しかし義満はこの権威を剥奪して掌中に入れようとした。
 こうして義満はだいたいの構想を描きおえた。将軍職を譲った足利義持はそのまま幕府の機構の総括を担当させる。弟の義嗣のほうを天皇に据えたい。義嗣は後小松天皇に強く迫って禅譲させればいいだろう。
 なぜそこまで義満が構想してしまったかということは、いろいろ議論が分かれる。著者は義満が後円融亡きあとの後小松を与しやすい相手と見て一挙に事をはこんだこと、叙任権と祭祀権がすでにガタガタになっていたのでそこから手をつけたことの有効性、室町幕府と明の確立の時期がほぼ同じであったこと、後円融の気概が空転していたこと、そのほかいくつかの有利をあげる。
 しかし、本当の理由は義満自身の権力欲が狂い咲きしていたと言う以外には説明は埋まらない。もし義満がもう少し長生きしていたら、日本の天皇制度がなくなっていたかどうかも、むろん議論のしようはない。ともかくも未曾有の天皇乗っ取り事件は、義満の急死によって未遂に了ったのである。
・そこで問題になるのは、これによって日本の天皇家の存続がかえって強化されることになったということのほうである。
・やがて将軍が義持から義教に代わると、日本社会はしだいに下克上の機運が高まっていく。応永23年には義持の弟の義嗣が上杉禅秀の乱連座して殺害され、応永35年には正長の土一揆が勃発した。
 義教の幕府はこれらを抑えるに奸賊征伐の「綸旨」をほしがった。日本社会はここに弱点があったのである。
 強大な政権があるときはいい。道長も頼朝も義満も信長も、こういうときは天皇家をものともしないですむ。しかし、政権が弱体になったとき、その凹凸を整え、社会を沈静できるのはやはり天皇制度なのである。義満の皇位乗っ取りの失敗のあと、足利幕府が下克上の前でほしがったのは、結局は「綸旨」という名に征伐される天皇制度の力だったのだ。これをふつうは「錦の御旗」とよんでいる。
 かつて日本史のすべての場面において、綸旨によっておこされた戦闘はすべて綸旨によって終息してきた。軍事面ばかりではなかった。官位の変更とその定着も、綸旨で始まり綸旨で終わる。
 このような天皇制度の威光は、義満後の日本社会が総じて強化していったものといっていい。
・いったい天皇制度とは何なのか。日本の祭祀を続けるためのものなのか、官僚制を支えておくためのものなのか。義満の野望の失敗から学ぶものは少なくない。
■附記
 今谷明の著者はおもしろい。つねに刺激がある。堅いものでは『室町幕府解体過程の研究』(岩波書店)、『守護領国支配機構の研究』(法政大学出版局)が、柔らかいものでは『京都・1547年-描かれた中世都市』(平凡社)、『信長と天皇』(講談社現代新書)、『武家天皇』(岩波新書)がある。とくに『武家天皇』は本書が提起した視点をさらに大きく視座ともいうべきものに定着させた著作として、一読を薦めたい。


■東アジアの王権と年号(水上雅春*15
(内容紹介)
 年号(元号)が中国ルーツ(スタートは前漢武帝)であること、また、「中国の年号思想」は後に日本、朝鮮、ベトナムなどで取り入れられており*16日本以外の「中国文化圏の国」も年号を使用していたことが改めて指摘されている。
 なお、中世になって武家の力が強まって行くと「元号の決定」について武士が政治介入することとなり、朝廷も武士の意向を無視することは出来なかった。

参考

■年号(ウィキペディア参照)
・年号制度が始まるのは前漢武帝の時代のことである。武帝以前は王や皇帝の即位の年数による即位紀元の方式が用いられていた。
・年号は、明の洪武帝朱元璋)により一世一元の制がとられるまでしばしば改元された。
・1911年に辛亥革命によって清が倒れると中国での年号は廃止された。年号は共和制になじまないという理由で、中華民国建国に際し、1912年を中華民国元年(略して民国元年)とする「民国紀元」が定められた。


■女性から見た中世天皇制(栗山圭子*17
(内容紹介)
 いわゆる准母立后を取り上げ、中世において皇后とは必ずしも「実質的な天皇の妻」とは限らず、「皇后のような高い地位の人間として扱うべき人間」と言う意味に過ぎないこともあったと指摘される。

■准母(ウィキペディア参照)
天皇の生母ではない女性が母に擬されること。また、母に擬された女性の称号。
■概要
 堀河天皇践祚に際して、生母である中宮・藤原賢子がすでに死去していたため、寛治元年 (1087年) に、白河天皇堀河天皇の父)は堀河天皇の姉・媞子内親王を母に擬した。これが初例となり、以後、幼年で即位した天皇の生母が死去している場合や、生母が存命だが身分が低すぎる場合、あるいはすでに女院となっている場合などに、准母を定めるようになった。准母は、父帝ではない先代の天皇の后(皇后または中宮)、あるいは天皇の姉または叔母にあたる未婚の内親王の中から選ばれた。天皇とは配偶関係にない内親王が准母を宣下され、さらに皇后として冊立される場合を准母立后(じゅんぼ・りつごう)と言う。
 その背景として天皇即位式当日に天皇が輿に乗って大炊殿から大極殿に移動し、その後高御座に登る必要があったが、幼少の天皇ではそれを単独で行うことは困難で母后の同伴を必要としたことにある。ところが、母后が亡くなった場合や生母が存在しても身分が低すぎる場合には、同伴すべき母后は存在しないことになる。そのため、然るべき身分(中宮・皇后・内親王)から准母を選んで后妃の資格を与える措置を必要としたと考えられている。
 本来准母は、宮中儀礼の必要性から設けられた制度であったが、後代になると内親王の優遇策のためという側面や「子」となった天皇の権威づけのために行われるようになった。例えば、後白河天皇がわずか1歳年上に過ぎない姉・統子内親王を強引に准母とした背景として、実姉に対する厚遇とともに、即位当初から「中継ぎ」の地位とされた後白河天皇の権威強化策とみられている。また、後堀河天皇四条天皇皇位を譲った後に新帝の生母の九条竴子(藻璧門院)が崩御すると、別の后である近衛長子(鷹司院)と実姉の利子内親王(式乾門院)を新帝の准母にして後見を強化した。
 天皇の母に准ずる准母は、天皇の后あるいは内親王などの皇親から選ばれるべきものだが、例外的にそれ以外の女性が准母の宣下を受けている例が2例ある。平安時代末期に平清盛の四女で摂政関白藤原基実の北政所正室)だった平盛子が甥にあたる高倉天皇の准母に、室町時代に第3代将軍・足利義満の御台所(正室)だった日野康子(のちの北山院)が後小松天皇の准母に、それぞれ宣下されているのがそれである。


■中世天皇制と仏事・祭祀(久水俊和*18
(内容紹介)
 明治維新以降の皇室行事の「神道化」によって「皇室行事=神道のイメージ」があるが実は、中世においては「いわゆる神仏習合」の影響で皇室行事に仏教に影響が強かったことが指摘されている。


■中世天皇制と学芸(石原比伊呂*19
(内容紹介)
 「学芸(和歌、雅楽など)の天皇」として後世評価されたが、特に政治的実績のない室町時代光明天皇北朝第二代天皇)を取り上げた上で、

明仁大日本帝国憲法下の天皇の在り方と日本国憲法下の天皇の在り方を比べれば、日本国憲法下の天皇の在り方の方が天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います」(2009年(平成21年)4月8日、結婚満50年に際する記者会見)
ウィキペディア明仁」参照)

と言う天皇観(政治には関わらず学芸に携わることによって、政治的中立イメージと「文化的に高級なイメージ」を構築)のスタートは光明天皇の時期ではないかと主張しています。
 なお、こうした光明天皇の「政治への無関心」状況には、彼に譲位した兄・光厳天皇北朝初代天皇)が彼を「ワンポイントリリーフ扱い」し北朝三代天皇、四代天皇には「自らの子(北朝三代天皇崇光天皇、及び後に廃位されたが当初、崇光天皇の皇太子とされた直仁親王)を就任させようとした上、譲位後も光厳上皇として実権を握り続けた」ため、光明天皇に政治権限を振るう裁量が少なかったことが大きいと石原氏は見ています。

直仁親王ウィキペディア参照)
・本来、父の花園天皇(後に法皇)は持明院統においては傍流であり、その皇位嫡流である後伏見天皇光厳天皇崇光天皇の系統に引き継がれるものと考えられていたために直仁親王皇位継承に与れる立場にはなかった。
 ところが、正平3年(1348年)に元服すると光厳天皇の猶子(義理の子ども)として皇位継承権が与えられ、その年の10月27日に義兄にあたる崇光天皇の皇太子に立てられた。その理由の一つは、興国4年4月13日(1343年5月7日)付で崇光天皇に向けて書かれた「光厳上皇宸翰置文」(鳩居堂蔵)でわかる。そこには、光厳上皇崇光天皇に「自分が直仁親王の実の父親である」と告白し、崇光天皇の即位は一代限りで、以後は直仁親王の系列に皇位を譲るよう記されている。この置文は「天皇の不倫告白」というその内容上、長らくその存在が秘され、研究者の間でも「直仁親王の皇太子就任を正当化するための作り話ではないか(つまりそんな嘘をついてまで隠したい別の理由(足利氏の政治的圧力など)がある)」としてそのまま事実として受け入れられていなかった。しかし、多くの神仏の名にかけて誓約する真剣さや、信頼性の高い系図である「田中本帝系図」に直仁親王光厳院第二皇子とされていることから、現在ではこの内容は真実だと考えられている。
 光厳院は大恩ある花園法皇に報いようとこうした行動に出たと推測されてきたが、近年になって宣光門院の兄である正親町公蔭の正室足利尊氏正室・赤橋登子が姉妹である事実が指摘され、光厳院は直仁の義理の伯父である尊氏に直仁を後見させて北朝持明院統)を維持しようとしたとする見方も出てきている。
・正平7年(1352年)2月、南朝は京都から足利義詮室町幕府初代将軍・足利尊氏の長男。室町幕府二代将軍)の軍勢を排除して占領下においた。このとき、光厳・光明・崇光の3上皇及び皇太子・直仁ら北朝の主だった皇族は南朝の本拠である賀名生へ拉致された。そして南朝によって崇光天皇天皇廃位、直仁親王の皇太子廃位が宣言された。この結果、南朝による拉致をまぬがれた光厳上皇の第3皇子弥仁親王後光厳天皇北朝第4代天皇)として即位した。弥仁親王妙法院への入室が予定されていたが、足利義詮は関白・二条良基と相談の上、北朝再建のために、「弥彦親王の祖母」にあたる広義門院西園寺寧子)に治天の君上皇のこと)の代理として、弥彦親王天皇即位に協力するよう要請した。広義門院は義詮が南朝にみすみす上皇天皇、皇太子を拉致されたことで彼を恨みに思い当初は要請を蹴ったが、佐々木道誉の意を受けた内大臣勧修寺経顕の説得で渋々引き受ける。天皇がなければそもそも皇室と貴族の存在意義がなくなるからである。
・正平12年(1357年)2月になると、光厳上皇、崇光上皇直仁親王は京都に帰還するが、京都では既に後光厳天皇が即位した後であり、崇光天皇と皇太子直仁親王の復位要求は足利氏に拒絶された。直仁親王は失意のうちに出家して父の御所であった萩原殿に隠退した。

 まあ小生にはこうした説の真偽は分かりませんが「花園法王の子である直仁親王は実は光厳天皇の子どもであった」なんて事実は戦後でないと表に出てこない話ではあるでしょう。「天皇が不倫していた」なんてあまり公言できる話ではないですからね。
 それはともかく、光明天皇がそのように政治的中立イメージや「文化的に高級なイメージ」を構築することによって、むしろ幕府(建前では天皇から政治権限を委任されている)に権威を与え、天皇制度の長期化に貢献したのではないかと論じている。
 またそう言う意味で、中世天皇における学芸とは単なる趣味ではなく「政治的中立イメージ」や「文化的に高級なイメージ」を構築するために必要な一種の「公務だった」と主張されている。
 まあ今だって歌会始とかは明らかに「和歌が好きだからやってる」なんて個人的趣味じゃないですけどね。天皇家の権威付けのためにやっている(それがいいとか悪いとかではなくただの事実の指摘です)。
 皇族とは「俺、和歌なんか好きじゃないから歌会始なんかやらない」とかそういうことが言える立場ではないでしょう。
 あるいは「自分の意思が全く反映されてない」とはいいませんが、「昭和天皇の粘菌などの研究」「明仁天皇のハゼ研究」「徳仁天皇の水運史研究(徳仁著『水運史から世界の水へ』(2019年、NHK出版))」「三笠宮崇仁親王三笠宮著『古代オリエントの生活』(河出文庫)など)のオリエント研究」「秋篠宮のニワトリやナマズの研究(秋篠宮著『鶏と人』(編著、2000年、小学館))」にしたってそれは主観が何であれ*20、客観的には「文化的に高級なイメージ」ということで天皇制支持の一理由にはなっているでしょう。
 まあ、三笠宮レベルになるとそれなりに「本格的」ですが。

【参考:最近の天皇・皇族の学芸】

昭和天皇ウィキペディア参照)
 1925年(大正14年)6月に赤坂離宮内に生物学御研究室が創設され、変形菌類(粘菌)とヒドロ虫類(ヒドロゾア)の分類学的研究を始めた。1928年(昭和3年)9月には皇居内に生物学御研究所が建設された。1929年(昭和4年)には自ら在野の粘菌研究第一人者・南方熊楠のもとを訪れて進講を受けた。

明仁ウィキペディア参照)
 ハゼの分類学的研究者である。日本魚類学会に属して自ら研究して書いた論文28編(2018年時点)を同学会誌に発表。1992年(平成4年)には『Science』誌に「"Early cultivators of science in Japan"(日本における科学の早期開拓者たち)」という題で寄稿した。

天皇陛下 研究者としての姿|けさのクローズアップ|NHKニュース おはよう日本
高瀬
「今月(4月)30日に退位される天皇陛下。公務で忙しい日々を過ごしながら、先週、魚のハゼに関する新しい論文を発表されました。研究者としての姿からは、公務に臨まれる顔とは異なる一面が見えてきます。」
 天皇陛下が研究を始められたのは、皇太子時代のおよそ60年前。
 公務で北海道を訪れた時には、研究のために湖を探索するなど、フィールドワークも積極的に行われてきました。
 ハゼ類は2,000種を超え、魚類の中でも特に種類が多い仲間です。
 天皇陛下は、その「分類」を専門にされてきました。
 これまでに発表された論文は33編。
 新種も発見されています。ミツボシゴマハゼ、クロオビハゼなど、その数は8種に上ります。

秋篠宮文仁親王ウィキペディア参照)
 学習院大学在学中から東京農業大学関連施設の財団法人進化生物学研究所で家禽類(ニワトリ)研究に従事。一般にはナマズの研究者として知られ、ナマズの殿下とも通称される。

三笠宮崇仁親王ウィキペディア参照)
古代オリエント史、特にアナトリア考古学を専門とする歴史学者として知られ、長らく東京女子大学拓殖大学などで古代オリエント史の講義を担当。1968年にはジャック・フィネガンの『聖書年代学』(岩波書店)の翻訳で第4回日本翻訳文化賞を受賞している。社団法人日本オリエント学会設立にかかわり、同学会会長を務めた。同学会では三笠宮オリエント学術賞が創設された。ほかに岡山市立オリエント美術館名誉顧問なども務めた。
 財団法人中近東文化センター(東京都三鷹市)の設立にも尽力。また同センター総裁として、トルコでのカマン・カレホユック遺跡の発掘調査を進めた。


■中国人強制連行の「戦後」における厚生省の「責任」:「中国人死没者名簿」作成過程の検討を中心に(山本潤子
(内容紹介)
 「卒業写真」「翼をください」などで知られる「某シンガーソングライター」と同姓同名ですがもちろん別人です。
 厚生省の「中国人死没者名簿」作成が「やりたくないが、仕方がないので渋々」ということがうかがえることが批判的に指摘されている(詳細は細かくて「うまくまとまらない」ので紹介は省略します)。


■歴史の眼「築地の『亡所』化に抗う」(北條勝貴)
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

豊洲市場に問題山積/移転1年シンポ “心配事が現実に”
 東京都が市場関係者や消費者の批判を押し切って築地市場中央区)を豊洲市場江東区)に移転してから10月で1年になるのを前に、市場移転や卸売市場法改悪を検証するシンポジウムが16日、千代田区で開かれました。主催は同実行委員会。
 実行委員会を代表して宇都宮健児*21・元日弁連会長があいさつ。
 全労連・東京中央市労働組合の中沢誠委員長が、土壌汚染に加え、不便な交通アクセスや駐車場不足、施設床の耐荷重が不足し2・5トンフォークリフトでも800キロしか荷物を積めないことなど、豊洲市場の問題点を詳しく告発。仲卸業者でつくる「築地女将(おかみ)さん会」の山口タイ会長は「豊洲市場で心配していたことが如実に現れている。豊洲に来るお客は減っているし、以前は自転車で市場に行けたのに、今は自動車でなければ行けない上、駐車場が遠くて時間がかかる」と語りました。
 北條勝貴・上智大学教授は、国内外の卸売市場で大手流通資本の進出や規制緩和が進む事例を紹介し、「本来中心を占めるべき食の安全や取引の公共性が軽視されている」と指摘。三国英実・広島大学名誉教授は、卸売市場法改悪で国・自治体の管理責任が縮小されると「大資本優先の市場運営で中小市場業者や買い出し人が締め出されることにつながる」と述べ、法改定を受けた都条例の規制緩和に懸念を示しました。
 報告者各氏が討論。宇都宮氏は「食の安全や医療・教育は民営化にふさわしくなく、公が責任を持つべきだ」と語りました。

映画『ほたるの川のまもりびと』 ぼくらのうちにある〈亡所〉を問う/北條勝貴 | 連載 ドキュメンタリー解体新書 | WEB世界

*1:著書『鎌倉時代政治構造の研究』(2016年、校倉書房)、『鎌倉幕府と朝廷』(2016年、岩波新書)など

*2:リクルート事件での「秘書が勝手に受け取った」の中島版ですね。常識で考えてそんなことはありえないわけですが。

*3:第一次西園寺、第二次桂、第二次西園寺、第三次桂、第一次山本内閣海軍大臣朝鮮総督、首相、内大臣を歴任。226事件で暗殺される。

*4:中世天皇制に関する著書として『戦国大名天皇室町幕府の解体と王権の逆襲』(1992年、福武書店→2001年、講談社学術文庫)、『信長と天皇』(1992年、講談社現代新書→2002年、講談社学術文庫)、『武家天皇』(1993年、岩波新書)、『天皇と天下人』(1993年、新人物往来社

*5:今谷説については「義満は皇位簒奪など考えてない」とする批判があるのは有名な話です。なお、一部ウヨが今谷説を根拠に義満を逆賊呼ばわりしていることも有名な話です。

*6:著書『神話と文学』(岩波現代文庫)、『中世的世界の形成』、『日本の古代国家』(岩波文庫)、『歴史と民族の発見:歴史学の課題と方法』(平凡社ライブラリー)など

*7:著書『中世的世界とは何だろうか』(朝日文庫)、『宮本常一「忘れられた日本人」を読む』(岩波現代文庫)、『日本社会と天皇制』(岩波ブックレット)、『歴史としての戦後史学』(角川ソフィア文庫)、『海と列島の中世』、『中世再考』、『中世の非人と遊女』、『日本中世都市の世界』、『「日本」とは何か』(講談社学術文庫)、『蒙古襲来』(小学館文庫)、『日本社会再考:海からみた列島文化』、『日本の歴史をよみなおす』(ちくま学芸文庫)、『古文書返却の旅』(中公新書)、『異形の王権』、『海の国の中世』、『里の国の中世』、『職人歌合』、『日本中世の百姓と職能民』、『(増補)無縁・公界・楽』(平凡社ライブラリー)など

*8:著書『ゆるやかなカースト社会・中世日本』(2003年、校倉書房)、『日本中世のムラと神々』(2012年、岩波書店)など

*9:著書『幕末維新期の文化と情報』(1994年、名著刊行会)、『歴史のなかの『夜明け前』平田国学の幕末維新』(2015年、吉川弘文館)、『歴史のなかの新選組』(2017年、岩波現代文庫)、『幕末維新変革史(上)(下)』(2018年、岩波現代文庫)、『幕末維新像の新展開』(2018年、花伝社)、『土方歳三榎本武揚幕臣たちの戊辰・箱館戦争』(2018年、山川出版社日本史リブレット人)、『天皇制と歴史学』(2019年、本の泉社)など

*10:1981年、岩波書店

*11:著書『倭寇』(講談社学術文庫)、『増補・倭寇勘合貿易』(ちくま学芸文庫)など

*12:著書『中世倭人伝』(1993年、岩波新書)、『海から見た戦国日本』(1997年、ちくま新書)、 『境界をまたぐ人びと』(2006年、山川出版社日本史リブレット)、『世界史のなかの戦国日本』(2012年、ちくま学芸文庫)、『増補・中世日本の内と外』(2013年、ちくま学芸文庫) 、『古琉球:海洋アジアの輝ける王国』(2016年、角川選書)など

*13:著書『足軽の誕生:室町時代の光と影』(2012年、朝日選書)、『徳政令』(2018年、講談社現代新書)、『明智光秀』(2019年、NHK出版新書)など

*14:上皇のこと

*15:著書『年号と東アジア:改元の思想と文化』(編著、2019年、八木書店

*16:なお、中国の年号がそのまま使われたのではなく、日本、朝鮮、ベトナムがそれぞれ独自の年号を定めたことが重要な点です。

*17:著書『中世王家の成立と院政』(2012年、吉川弘文館

*18:著書『室町期の朝廷公事と公武関係』(2011年、岩田書院

*19:著書『室町時代の将軍家と天皇家』(2015年、勉誠出版)、『足利将軍と室町幕府』(2017年、戎光祥出版

*20:正直「主観的にも」ただの趣味と言うことはないと思いますが。

*21:著書『わるいやつら』(2013年、集英社新書)、『「悪」と闘う』(2014年、朝日新書)、『自己責任論の嘘』(2014年、ベスト新書)など