三浦小太郎&守る会に突っ込む(2020年6月19日分)(追記あり)

NPO法人北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会「発足総会」と特別講演会のご案内

日時:2020年・令和2年6月13日(土)午後1時~4時半

 で6/13から約一週間経ちましたが集会の実施報告は何もなし。「運動が停滞してるんかいねえ?」ですね。


ラグタイムララバイ(三浦小太郎)のアマゾン書評

藤子不二雄(A)『劇画・毛沢東*1』(Kindle版)
 これは徹底的に毛沢東を「偉大で純粋な青年革命家」として描き切った作品で、あえて言えばある種の「聖人伝説」である、正直、ここでの毛沢東像は「事実」とは全くかけ離れていることは明らかだけれど、にとって、中国の文革時代の紅衛兵にとって、まさに毛沢東はこの漫画のような存在として信じ込まれていたのだろうと思う。そして藤子不二雄のタッチもまた、徹底的に「劇画」、いやむしろ「宣伝画」に近いもので、やはりある時代に、毛沢東が革命の英雄、アジアの英雄と思われていたのだなあと思う。
 しかし、私のように毛沢東の思想にも人間にも何の共感も覚えない人間が、この漫画だけは異様に感動してしまう。感動はしたけど、「やっぱ嘘だよなあ」と思ってしまったので(ボーガス注:★4つで)星一つ減らしました

 「アンチ中国」「反共右翼」の三浦なので藤子A(我孫子素雄)に「毛沢東を美化するとは何事か!」「しかも未だに電子書籍で販売するとは何事か!(紙では販売してないようです)」と悪口雑言するかと思いきや、この評価とは不思議です。
 藤子Aファン・三浦にとって

藤子不二雄A - Wikipedia
・怪物くん
・忍者ハットリくん
プロゴルファー猿
まんが道
笑ゥせぇるすまん

等の作者である藤子Aはどうしても否定できないのか。
 なお、別に藤子Aを「毛沢東批判の立場」から批判するとか、あるいは逆に「毛沢東評価の立場」から褒めるとかではなく
1)どういう経緯で連載になったのか(藤子Aからの申し出か、編集部からの申し出か)
2)当時、どんな思いで連載したのか
3)今この作品をどう思うのか
4)連載当時、どんな取材や資料収集などしたのか
5)連載後、今に至るまで毛沢東について何か本を読むなど、「知識の更新(?)」などしてるのか
などなどについて知りたい気はします。
 まあ少なくとも藤子Aが、連載当時も今も「三浦のような常軌を逸した反中国、反共右翼」でないことだけは確かでしょうが。
 なお、「毛沢東」でググる

【刊行年順、刊行年が同じ場合は出版社名のあいうえお順】
矢吹晋*2毛沢東周恩来』(1991年、講談社現代新書)
◆野村浩一*3蒋介石毛沢東』(1997年、岩波書店
◆金冲及*4編集『毛沢東伝(1893‐1949)』(1999年、みすず書房
◆中前吾郎『初期毛沢東の思想』(2000年、近代文芸社
◆朱建栄*5毛沢東ベトナム戦争』(2001年、東京大学出版会
◆ジョナサン・スペンス*6毛沢東』(邦訳は2002年、岩波書店
◆呉暁林『毛沢東時代の工業化戦略』(2002年、御茶の水書房
◆朱建栄『毛沢東朝鮮戦争』(2004年、岩波現代文庫)
◆金野純『中国社会と大衆動員:毛沢東時代の政治権力と民衆』(2008年、御茶の水書房
丸川哲史*7魯迅毛沢東:中国革命とモダニティ』(2010年、以文社
◆フィリップ・ショート*8毛沢東・ある人生』(邦訳は2010年、白水社
小林一美*9中共革命根拠地ドキュメント:1930年代、コミンテルン毛沢東、赤色テロリズム、党内大粛正』(2013年、御茶の水書房
◆大澤武司*10毛沢東の対日戦犯裁判』(2016年、中公新書)
◆石川禎浩*11『赤い星は如何にして昇ったか:知られざる毛沢東の初期イメージ』(2016年、臨川書店
◆沈志華 『最後の「天朝」:毛沢東金日成時代の中国と北朝鮮』(2016年、岩波書店

等といった本がヒットします。

【追記:藤子A『劇画・毛沢東伝』】

劇画毛沢東伝を再読 - 藤子不二雄ファンはここにいる
・そもそも、藤子A先生が毛沢東をマンガで描いてみたいと思ったのは、(ボーガス注:『劇画・毛沢東伝』を週刊漫画サンデー実業之日本社)で連載した)昭和46年よりずっと前の20歳のとき(昭和29年ごろ)のことである
・そのあたりの事情が読みとれる藤子A先生の言葉を「文藝春秋」昭和46年10月号から引用しよう。

毛沢東をマンガの中に登場させたいと、僕がはじめて思ったのは、マンガ家のはしくれになりたての二十歳の時、エドガー・スノーの「中国の赤い星」(宇佐美誠次郎*12訳、筑摩書房)を読んだからだった。
・スノーの報告書は、現在では古典とされているが、僕にとっては未知の世界への血沸き肉踊る冒険談だった。
・敗北の後退を勝利の前進に転換させた二万五千里の長征。これこそは現代の神話であり、最高の人間ドラマだと僕は思った。

あひる道楽: 藤子不二雄A「劇画 毛沢東伝」とスタジオゼロ物語
 毛沢東は革命家としての前半生と、中国の指導者としての後半生の評価に非常にギャップがある人ですので(最初は開明的で英明な名君、晩年は暴君っていうパターンは中国の皇帝ではよくあるパターンですが)、毛沢東を、正義に燃える熱い青年として漫画的にわかりやすく描くために、人生の前半のピークである中華人民共和国成立で終えて、晩節を汚したその後を描かないというのは、漫画化する上で一つの正しいありかたかな、と思いました。
 そういう負の部分も含めてその人の人生を全て描ききってこその伝記ではないか、という意見ももちろんあるかとは思いますが、毛沢東の入門として、この漫画で彼の功罪の「功」の部分をまず知るのも悪くないのではないでしょうか。
 ちなみに漫画としての読みやすさ、おもしろさはまあまあといったところでしょうか。藤子不二雄A先生の他の作品と比べると、今ひとつでした。少しでも毛沢東に興味がある人向けですね。
 それはさておき、以前行ったロフトプラスワンでの「石ノ森スピリッツ」スタジオゼロ物語というイベントで、ちょうど藤子不二雄A先生がこの作品を話題にしていましたので、その部分を一部編集して文字おこししてみました(スタジオゼロについてはリンク先を参照)。
 当時の状況がいろいろわかっておもしろいです。以下、文字おこしです。

藤子不二雄A
「「毛沢東伝」ってのを描いていたことがあったんですよ。
 あのころはね、「怪物くん」描きながら「毛沢東」描いてたんですよ。まったくミスマッチなんですけどね。
 まだ日中国交回復の前ですけど、僕は毛沢東大好きで。思想的にじゃなくてね、毛沢東が中国の長征っていうのをやるドラマは、ロマンだと思ってずっと研究していたんですよ。
 そしたら、漫サン(週刊漫画サンデー)から描いてくれって。それで始めたんですよ。」

狼になりたい 『劇画 毛沢東伝』(藤子不二雄A)
 これを『オバケのQ太郎』や『忍者ハットリくん』の合間に描いていたあたり、この人も相当ぶっ飛んだ人なんだ(失礼)と感じずにはいられなかった。
 しかも当時は、文化大革命の真っ只中(連載は1971年)である。
 惜しむらくは、(ボーガス注:藤子A)本人が平成15年になってあとがきで記しているように、今作が毛沢東の一生の前期の描写で終わっているところだ。
 「志の高いロマンチスト、ヒューマニスト」であった毛沢東が「ロマンを捨てた国家内闘争への道へと進まなければならなかった」(本人談)ところを読みたかったというのが本音。

早稲田大学人物研究会『藤子不二雄A』から「劇画・毛沢東伝」関係記述のみ紹介
2004.11.15 新宿 藤子スタジオにて
◆藤子Ⓐ 
『長い間漫画描いてるとタッチから何からまったく違う方向へ行きたくなることがあってね、ギャグからブラックユーモアへ行って、ある程度行くとブラックユーモアも飽きて、「毛沢東伝」っていうのを描いてね。まだ日中国交の前の時代に毛沢東の伝記ですからね。僕は毛沢東の長征に非常に興味を持ってね、いつかこれを描こうと思っていたら漫画サンデーからいきなり「毛沢東の伝記を描いてくれ」って言われてびっくりしちゃってね、当時のあの雑誌に劇画なんてひとつも無かったのよ。「なんで?」って聞いたら編集長が「これからは劇画も取り入れたい」って言って。僕にとってもいい機会だったからひとつ実験的に描いてみようと思ってね、わざとベタを多くしてドキュメンタリーのタッチで描いたんですよ。で僕の前が谷岡ヤスジさん*13の作品なんですよ。その後に「毛沢東伝」が入って(笑)、本ができたときは「えーっ!?」って驚いたんだけど、やってみたらいろんな反響があってね。漫画サンデーなんて読んだことのない70歳のおじいさんとかいろんなところから反響が来てね、自分としてはひとつの転機になったね。自分を新しくクリエイトするっていうのも大事なことなんですよね。得意なことばっかりやってるといつか詰まっちゃうんで、それを捨ててまったく新しいジャンルに挑戦するとかね。そうするとまた新鮮な気持ちで取り組めて。同じことばっかりだとマンネリになっちゃうんでね。僕はマンネリがいちばん嫌いなんでどんどん脱皮していくっていうのかな。』

【参考:大澤武司『毛沢東の対日戦犯裁判』(2016年、中公新書)】

『毛沢東の対日戦犯裁判』/大澤武司インタビュー|web中公新書
◆インタビュアー
 ご執筆の理由を教えてください。
◆大澤:
 対日戦犯裁判といえば、終戦直後、連合国がA級戦犯を裁いた東京裁判やBC級戦犯を裁いたアジア・太平洋各地で開かれたものがよく知られていますが、第二次大戦後に誕生した中華人民共和国が1950年代半ばに日本人戦犯を軍事法廷で裁いたことはほとんど知られていません。
 そもそもなぜ中国に日本人戦犯がいたのか。彼らはどこから来たのか。「戦犯」管理所ではどのような待遇を受けたのか。裁判の準備はどのように進められたのか。誰が起訴されたのか。どのような罪で起訴されたのか。その後はどうなったのか。まずはその全体像を多くの日本人に知ってもらいたいという強い想いがありました。
 「あとがき」にも書きましたが、実は起訴されずに釈放された戦犯たちを引揚船「興安丸」で迎えに行ったのが私の親戚でした。彼らは3回に分けて送還されたのですが、その第一陣、つまり中国帰還者連絡会を結成する国友俊太郎さん*14たちを迎えにいったのが、そのとき日中友好協会の役員だったその親戚でした。当時、日本と中国との間には国交がなかったので、さまざまな問題が民間団体経由の交渉で解決されていました。
 その親戚の遺品のなかに「天津会議」というタイトルが書かれた大学ノートがありました。そこには戦犯送還を話し合った交渉の記録が克明につづられていました。このノートを読み込むうちに、「毛沢東の対日戦犯裁判」の存在を知り、研究にのめり込んでいきました。本当に運命的であったと思います。
◆インタビュアー
 本書のポイントは何でしょうか。
◆大澤:
 ふたつあります。まずは中国の外交部、つまり外務省の檔案(公文書)を数多く利用していることです。「毛沢東の対日戦犯裁判」はひとりも死刑や無期懲役刑を科さなかったので、934名の処刑者を出した連合国の裁判と比べて「寛大」であったといわれてきました。
 ただ、当時、日中間には国交がなく、当然のことながら、中国の対日外交や日本の対中外交には東西冷戦という国際情勢が大きく反映されていました。戦後処理の重要問題である日本人戦犯の処理についても同じような問題が含まれていました。つまり、日本人戦犯の政治利用という問題です。
 これまで「中国が日本人戦犯を対日外交上、政治利用した」と発言すると、「反中」的と言われることも多かったのですが、中国自身が公開した外交文書に基づいて、「どの程度まで政治利用する意図があったのか」という点を明らかにしたことは、「毛沢東の対日戦犯裁判」を歴史的に評価するためにも、極めて大きな貢献になるのではないかと思います。
 もうひとつは、帰国後の戦犯たちの後半生をできるだけ丁寧に跡づけたことです。いわゆる「認罪」と呼ばれる思想「改造」の過程や裁判そのものについてはこれまでも研究されてきていますが、帰国後に彼らが結成した「反戦平和・日中友好」を掲げた「中国帰還者連絡会」の通史をわかりやすく、読みやすくまとめたものはこれまでありませんでした。
 特にこの「中帰連」は文化大革命のときに「分裂」し、1980年代半ばに「統一」されるのですが、その「分裂」と「統一」の根底にあった「論理」をある程度まで明らかにすることができたのではないかと考えています。この問題に詳しい研究者や市民運動家のみなさんの多くが「第5章が良かった」と言ってくれています。
◆インタビュアー
 中国への関心はいつ頃から、どういったきっかけからですか。
◆大澤:
 私は台湾育ちです。父の仕事の関係で、1980年代半ば、82年から88年まで台湾中部の台中(たいちゅう)という街に住んでいました。当時はまだ蔣介石の息子の蔣経国が総統でした。8歳で台湾に渡ったのですが、まだ戒厳令や党禁が敷かれていて、完全に「国民党独裁」の雰囲気が残っていました。
 その後、晩年の蔣経国は、のちの「台湾民主化」に向けた大きな政治的決断をつぎつぎと行っていくのですが、子ども心に「国際政治」や「中国近現代史」の複雑さや緊張感をヒシヒシと感じて育ちました。中学2年の終わりまで住んでいましたので「多感な時期」を台湾で過ごしたといえます。この体験が根っこにあると思います。
◆インタビュアー
 なぜ中国研究者の道に進んだのですか。
◆大澤:
 高校時代の恩師の影響が大きかったと思います。私の母校は旧制の府立弐中、いまの都立立川高校なのですが、たいへんバンカラな校風でした。制服もありませんでした。よく「自主休講」なんて言って授業をさぼっていました。いまはどうかわかりませんが。先生がたも独特の教育方針を持っているかたが多かった。
 中国研究の道に進んだのは、高校の時に受けた「現代史」の授業の影響です。女性の先生だったのですが、朝日新聞の記者だった本多勝一さんのルポルタージュを教材にして、戦争責任や侵略責任を考えさせる授業を行っていました。南京事件とかソンミ事件とか。
 ただ、ルポの内容がかなり「直接的」でしたので、当時、高校生だった私は「このルポはあまりにも偏った視点から書かれている」と強い反発を覚えました。でも、日本と中国との間にどのような歴史があったのか、興味を持つきっかけになったことは確かです。もともと台湾育ちということもありましたので。自然と中国や台湾を研究してみたいという想いを持つようになりました。
◆インタビュアー
 今後のお仕事についても教えてください。
◆大澤:
 ふたつのテーマで研究を進めていきたいと考えています。まずは、戦後日中関係史に関する実証研究です。胡錦濤*15時代の2004年、中国は外交部の公文書の公開を始めたのですが、1965年分までを公開したところで習近平*16政権になってしまい、結局、外交部の檔案館自体が事実上の閉館状態になってしまいました。
 ありがたいことに、院生だったこともあり、私はちょうど「檔案公開の黄金期」に徹底的な史料調査を行うことができました。いまでは誰も入手できない史料を大量に手に入れることができました。これをベースにして、少なくとも文化大革命が始まる前の1965年までは、「実証的」というレベルで戦後日中関係、特に中国外交の視点での研究を形にしていきたいと考えています。
 もうひとつは、この「毛沢東の対日戦犯裁判」研究の発展形ともいえるものですが、中国国民党関係の戦犯や傀儡政権関係の戦犯、つまり(ボーガス注:満州国皇帝だった)愛新覚羅溥儀をはじめとする「満洲国」関連戦犯や蒙疆連合自治政府など、日本人戦犯以外の戦犯に対する中国の処理政策を研究したいと考えています。
 中国国民党関係戦犯については中国の台湾統一工作と強い関連があります。満州や蒙疆関係の戦犯については中国の少数民族政策と強いつながりがあります。建国初期の中国が台湾統一問題や少数民族問題をどのように考えていたのか、戦犯処理の視角から考えてみたいと考えています。
◆インタビュアー
 最後に読者へのメッセージをいただけますか。
◆大澤:
 私は法学部法律学科出身です。学部時代には司法試験を目指して勉強をしていました。卒業後、再び大学で歴史学を専攻するのですが、この本を書くなかで法学部時代に学んだことが本当に役に立ちました。先日、東京裁判研究の大御所*17とお話する機会があったのですが、戦犯裁判研究には法律を学んだ人間だからこそ腑分けできる問題が数多く含まれているというお話をうかがいました。
 43歳という年齢がどのような意味を持つのかはわかりませんが、あらためてこれまでの人生をふりかえると、台湾で育ち、高校で「独特」な教育を受け、大学で法律学歴史学を学び、親戚の遺品から史料を発見し、さらに中国の「檔案公開の黄金期」に遭遇した。こうした私の人生の積み重ねがこの本に結実しているといっても過言ではないと思います。もちろん、これからも研究活動は続きますが、まずは現段階の到達点であるこの本を手に取ってお読みいただければと思います。

*1:1971年に週刊漫画サンデー実業之日本社)で連載。1949年の国共内戦勝利、新中国建国までが描かれてるらしい。

*2:横浜市立大学名誉教授。著書『文化大革命』(1989年、講談社現代新書) 、『鄧小平』(1993年、講談社現代新書→2003年、講談社学術文庫) 、『中国人民解放軍』(1996年、講談社選書メチエ)、『中国の権力システム:ポスト江沢民のパワーゲーム』(2000年、平凡社新書)、『習近平の夢:台頭する中国と米中露三角関係』(2017年、花伝社)など

*3:1930~2020年。立教大学名誉教授。著書『近代中国の思想世界:『新青年』の群像』(1990年、岩波書店)、『近代中国の政治文化:民権・立憲・皇権』(2007年、岩波書店)など

*4:著書『周恩来伝 1898‐1949』(編著、1993年、阿吽社)

*5:東洋学園大学教授。著書『江沢民の中国』(1994年、中公新書) 、『朱鎔基の中国改革』(1998年、PHP新書)、『中国 第三の革命:ポスト江沢民時代の読み方』(2002年、中公新書) など

*6:イェール大学名誉教授。著書『マッテオ・リッチ記憶の宮殿』(邦訳は1995年、平凡社)、『神の子・洪秀全:その太平天国の建設と滅亡』(邦訳は2011年、慶應義塾大学出版会)

*7:明治大学教授。著書『日中一〇〇年史』(2006年、光文社新書)、『竹内好』(2010年、河出ブックス)、『台湾ナショナリズム』(2010年、講談社選書メチエ)、『ポスト〈改革開放〉の中国』(2010年、作品社)、『思想課題としての現代中国:革命・帝国・党』(2013年、平凡社)、『中国ナショナリズム』(2015年、法律文化社

*8:著書『ポル・ポト』(邦訳は2008年、白水社

*9:神奈川大学名誉教授。著書『義和団戦争と明治国家』(1986年、汲古書院)、『清朝末期の戦乱』(1992年、新人物往来社)、『中華世界の国家と民衆』(2008年、汲古書院)、『M・ヴェーバーの中国社会論の射程』(2012年、 研文出版)、『日中両国の学徒と兵士』(2018年、集広舎)など

*10:福岡大学教授

*11:京都大学教授。著書『中国共産党成立史』(2001年、岩波書店)、『革命とナショナリズム:1925-1945〈シリーズ 中国近現代史 3〉』(2010年、岩波新書)など

*12:1915~1997年。法政大学教授、法政大学大原社会問題研究所長。(宇佐美誠次郎 - Wikipedia参照)

*13:1942~1999年。1970年、講談社の『週刊少年マガジン』に連載した『ヤスジのメッタメタガキ道講座』で大ブレイク。作品の中の「アサー!」「鼻血ブー」は流行語となった。(谷岡ヤスジ - Wikipedia参照)

*14:著書『洗脳の人生:三つの国家と私の昭和史』(2000年、風濤社

*15:共青団中央書記処第一書記、貴州省党委員会書記、チベット自治区党委員会書記などを経て党総書記、国家主席党中央軍事委員会主席、国家中央軍事委員会主席

*16:福州市党委員会書記、福建省長、浙江省党委員会書記、上海市党委員会書記、国家副主席、党中央軍事委員会副主席、国家中央軍事委員会副主席などを経て党総書記、国家主席党中央軍事委員会主席、国家中央軍事委員会主席

*17:て、具体的に誰でしょうか?。俺が思いつくのは『東京裁判への道』(2013年、講談社学術文庫)の粟屋憲太郎氏(1944~2019年、立教大学名誉教授)ですが。