今日の中国ニュース(2022年1月27日分)(副題:リベラル21と田畑光永に悪口する)

リベラル21 「歴史周期率」から抜け出すために「自我革命」を、と来た???

 習近平は昨年11月の6中全会ではこう言っていた。
 「わが党の歴史はこれほど長く、規模もこれほど大きい。政権を取ってこれほど長期になった。とすれば、いかにして治乱輿衰の歴史周期率から抜け出すか?」
 なんのことはない。「歴史周期率」とは党内の「治乱興衰」、つまり政党にはつきものの内部闘争、権力闘争などの騒ぎの連鎖を指しているのだ。確かに中国共産党にも昔から「治乱興衰」の歴史がある。
 しかし、それなら「権力争い」とか「内部闘争」とか言えばすむ話だ。なぜわかりやすくそう言わずに「歴史周期率」などという妙なことばを持ちだしてきたのか。そこからすでになにか意味があるはずだ。
 私がとりあえず思い当たったのはつぎのようなことだ。「歴史周期率」といえば、誰かが悪い、あるいは誰かが仕掛けた、というより、歴史にはつきもののように一定の期間が経過すると矛盾、対立が生まれ、肥大して激しい争いが起こる、というふうに聞こえる。自然現象といえば言い過ぎかもしれないが、なにか避けがたい、どうしても起こりがちな現象というふうに。
 習近平が内規とされてきた「2期10年」という党総書記、国家主席の在任期間を越えて、トップの椅子に座り続けようとすれば、党内から反発が起こるのは自然だろう。彼はそれを予期して、反発は習近平のルール破りが原因だと言われる前に、これから起こる対立は誰が悪いではなくて、歴史周期率によって必然的におこるものだという予防線を張り、対立はやめるべきだという党内世論を起こして、「居座り問題」をすり抜けようとしているのではないか。
 習近平の発言をもう少し聞いてみよう。先ほどの6中全会の発言はこう続く。
 「毛沢東同志はこの問いに延安の洞窟で最初の答えを出した。それは『人民に政府を監督させよう。そうすれば、そうすることでこそ政府はだらけていられなくなる』というものだ。しかし、奮闘の百年、とくに18回党大会(習近平時代の始まりー筆者注)以降の新たな実践を経て、わが党は2番目の答えを出した。それが『自我革命』である」
 毛沢東の「最初の答え」というのは、香港の報道の受け売りをすれば、1945年7月、毛沢東が延安で当時の教育者、黄炎培と対談した際に、黄炎培が「執政党においては治乱興衰の歴史周期率がある。総じてそれから逃れられない」と述べたのに対して、毛沢東が次のように答えたのを言う。
 「われわれはすでに新しい道を探し当てた。その周期率から抜け出す新しい道はすなわち民主である。人民に政府を監督させることによってのみ、政府はだらけていられなくなる。人民が立ち上がって責任をとることで、『人なく政(まつりごと)止む』は存在しなくなる」

 ここまで、支離滅裂で無茶苦茶な文章は書こうと思っても、なかなか書ける物ではないでしょう。

 なぜわかりやすくそう言わずに「歴史周期率」などという妙なことばを持ちだしてきたのか。そこからすでになにか意味があるはずだ。これから起こる対立は誰が悪いではなくて、歴史周期率によって必然的におこるものだという予防線を張り、対立はやめるべきだという党内世論を起こして、「居座り問題」をすり抜けようとしているのではないか。

という文章と

黄炎培が「執政党においては治乱興衰の歴史周期率がある。総じてそれから逃れられない」と述べた

という文章は明らかに「矛盾してる」でしょう。
 何故ならここでの黄炎培の発言は「中国共産党が政権を取ったら、過去の中国国民党蒋介石政権などのように『治乱興衰の歴史周期率』から逃れられないのではないか」という「ある種の中国共産党批判発言だから」です。
 『治乱興衰の歴史周期率』と言う言葉はどう見ても、

 なぜわかりやすくそう言わずに「歴史周期率」などという妙なことばを持ちだしてきたのか。そこからすでになにか意味があるはずだ。これから起こる対立は誰が悪いではなくて、歴史周期率によって必然的におこるものだという予防線を張り、対立はやめるべきだという党内世論を起こして、「居座り問題」をすり抜けようとしているのではないか。

などという代物ではない。

黄炎培 - Wikipedia
 1945年(民国34年)1月、共産党が連合政府論(連立政府論)を主張すると、黄はこれを支持した。
 日中戦争終結後の1945年9月、黄は、中国民主建国会(民建)を結成し、常務理事となった。その後、黄は国共内戦に反対するための活動を開始する。しかし、同志である李公樸、聞一多を特務機関に暗殺されるなど、国民党の弾圧を受けてしまう。そのため、黄は国民党への反発を強めた。1946年12月、民建主席に選出されている。1947年10月、黄が役員を務める中国民主政団同盟(民盟:後の中国民主同盟)は国民政府から非合法団体と指定され、翌月には活動停止に追い込まれた。中華人民共和国成立後は、中央人民政府委員、政務院副総理兼軽工業部部長、中国人民政治協商会議副主席、全国人民代表大会常務委員会副委員長、民建主任委員、職教社社長などの要職を歴任している。だが共産党とは政治上の意見を異にしており、特に農民に対する「食糧の購入と販売を統制する」政策には反対だった。そのため毛沢東から「資本家の代弁者」呼ばわりされ、その後、すべての政府機関から排除され、人民代表大会と政治協商会議での肩書を残すのみとなった。

という記載からは黄が「国民党への反発から共産党と共闘したもの」の「毛沢東べったりではないこと」がわかります。
 「毛沢東にある程度批判的だった黄」の言葉「歴史周期律」を使った習主席について

 これから起こる対立は誰が悪いではなくて、歴史周期率によって必然的におこるものだという予防線を張り、対立はやめるべきだという党内世論を起こして、「居座り問題」をすり抜けようとしているのではないか。

というのはおかしいでしょう。
 これは「俺の思いつきで具体的根拠はありません(とはいえ田畑だってどう見ても具体的根拠は何もない、ただの思いつきによる習主席批判ですが)」が
1)「毛沢東にある程度批判的だった黄」の言葉「歴史周期律」を持ち出すことで「毛沢東を手放しで万歳ではないこと」を改めてアピール
2)1945年時点から今に至るまで解決できない「歴史周期律」問題について自分が一定の解決を果たすという意気込みのアピール
という理解で何が悪いのか。「習主席をけなしたい」という結論が最初からあるからこうなるのではないか。いつもながらリベラル21と田畑には呆れます。

 習近平の発言をもう少し聞いてみよう。先ほどの6中全会の発言はこう続く。
 「毛沢東同志はこの問いに延安の洞窟で最初の答えを出した。それは『人民に政府を監督させよう。そうすれば、そうすることでこそ政府はだらけていられなくなる』というものだ。しかし、奮闘の百年、とくに18回党大会(習近平時代の始まりー筆者注)以降の新たな実践を経て、わが党は2番目の答えを出した。それが『自我革命』である」
 毛沢東の「最初の答え」というのは、香港の報道の受け売りをすれば、1945年7月、毛沢東が延安で当時の教育者、黄炎培と対談した際に、黄炎培が「執政党においては治乱興衰の歴史周期率がある。総じてそれから逃れられない」と述べたのに対して、毛沢東が次のように答えたのを言う。
 「われわれはすでに新しい道を探し当てた。その周期率から抜け出す新しい道はすなわち民主である。人民に政府を監督させることによってのみ、政府はだらけていられなくなる。人民が立ち上がって責任をとることで、『人なく政(まつりごと)止む』は存在しなくなる」

 俺の考えを書けば「自我革命」と「民主主義」は「矛盾する物」ではない。また「自我革命すれば民主主義でなくていい」「民主主義なら自我革命しなくていい」というものでもありません。
 「自我革命(自己反省)のない民主主義」は「トランプ支持者」「大阪維新支持者」のような衆愚政治にしかならないでしょう。
 そして「民主主義」なら当然に「自我革命」できるわけではない。
 一方で「自我革命できれば民主主義でなくていい」と言う話でもない。というか「民主主義なら当然に自我革命出来るわけではない」とはいえ、「独裁」よりは「民主主義」の方が「自我革命」には向いているでしょう。